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恥ずかしい記憶とともに生きる

夜、なかなか寝つけないようなとき、つい余計な考えごとを始めてしまい、そのうち何の脈絡もなく、昔の失敗や恥ずかしい出来事が、記憶の奥底から浮かび上がってくることがあります。

そんなときは、ただ黙ってそれをやり過ごせればいいのでしょうが、なかなかそうはいかず、記憶の細部にどんどん巻き込まれて、あのとき何であんなことをしたんだろうとか、どうしてあんなことを言ったんだろうと、頭のなかのモヤモヤをひたすら巨大化させて、思わず叫び出したくなることも少なくありません。
 
ただ、私の場合は、そうして夜中によみがえる恥ずかしい記憶の多くは、人生の重大事件というほどでもない、ささいな出来事がほとんどです。例えば、はずみで言ってしまった余計な一言とか、後で考えたら相手に失礼だった行為とか、あるいは逆に、タイミングを逸して何もしないまま、結果的に非礼になってしまったこととか……。

まあ、当時はささいな出来事だと思ったからこそ、たいして後悔もせず、スルーしてそのまま忘れていたわけですが、それから何年、何十年と経ち、その間、いろいろな経験をしてきた後で、そうしたエピソードをふと思い出したとき、あのときはどうして平気でいられたのだろうかと、昔の自分の鈍感さが信じられず、かといって今となっては取り返しもつかず、ただただ恥ずかしさを噛みしめることになるのです。

旅の失敗にしても同じで、当時は何も感じなかった旅先での何気ない行動が、のちに、その国の文化や慣習をいろいろ知ってから改めて思い出すと、けっこう冷や汗ものだったりします。

最近、そういう体験が増えたのは、つまりは、歳をとったということなのでしょう。昔読んだ本を、何年もしてから再読すると、若いときには分からなかった微妙な意味が分かったり、深い感動を覚えたりするものだとよく言われますが、それと同じ仕組みなのだと思います。

でも、そうやって過去の自分に恥ずかしさを覚えるのは、別の見方をすれば、今の自分が、若い頃とは違う視点や価値観で物事を見られるようになった、さらに手前勝手なことを言えば、自分が過去を反省できる程度には成長した、ということなのかもしれません。

まあ、今さらいくら悩んだりジタバタしてみても過去は変えられないので、自分はあのときよりはマシになったとでも考えて、強引に納得するしかないわけですが……。

それにしても、私たちの世代や、もっと年長の人たちが、かなり恵まれていたと思うのは、そうした恥ずかしい思い出が、たいていの場合、自分や関係者の記憶の中だけにとどまっているということです。

同窓会などで、そういう「黒歴史」が蒸し返されるのはよくある話ですが、しょせんはその場に集まった内輪での笑い話にすぎません。それにほとんどの記憶は、あえて口に出される機会もないまま、年を経るごとに薄れていき、やがては忘却の彼方へと消えていってくれます。

しかし、ネットの普及によって、過去の発言や行動が、細かなことまですべて記録として残るようになると、話は全然違ってきます。

今、ネット上で自分の醜態をさらされたり、炎上している人たちは、かなり恥ずかしい思いをしているはずですが、より重大な問題は、歳をとると、当人がそれをもっと恥ずかしく感じるようになるということなのです。そして、たとえそうなっても、ネット上に刻まれた記憶は、いつまでも消えてくれないのです。

誰もが、人間的に成長すればするほど、若い頃の失態をより恥ずかしく思い返すだろうし、世間的に偉くなったり有名になれば、ネットに残る過去の言動を、面白半分にほじくり返される機会が増えるでしょう。そして一般人も、程度の差こそあれ、その被害を免れることはできません。

今後しばらくのあいだ、ネット上ではそうやって、痛々しい暴露合戦が繰り返されることになるのだろうと思います。そして、みんながボロボロに傷つき、自分の過去のことで心をすり減らすのにうんざりしたところで、お互いに過去をつつき合うのはやめようという、一種の紳士協定が生まれてくるかもしれません。

他人に一方的に石を投げられるほど立派な人間など、どこにもいないのだし、延々と石をぶつけ合うよりも、何とかして、それをやめる方がずっといいわけですから……。

あるいは、紳士協定など成立せず、みんなでひたすら石を投げ合い、そのうち、心のサバイバルのために、みんなが「鈍感力」を身につけて、どんなに恥ずかしい過去を突きつけられても平気、ということになるかもしれません。もっとも、そんな世界では、繊細な感受性は失われ、みんなが人間的に退化することになりそうですが……。

それとも、過去の自分への攻撃に耐えられなくなったら、そのつど初めからやり直せるように、改名などの手続きが認められやすくなったり、あらかじめ攻撃を想定して、半分匿名の、使い捨て可能な「人格」が、ウェブ上で多用されるようになるかもしれません。

ほかにも、ネット利用者の自主性には任せておけないということで、当局による規制が行われたり、ネット上でサービスを提供する企業が、「安心・安全」なネットをめざして、サービスの自由度を制限していく可能性もあるでしょう。

たぶん、実際には、そうしたいろいろな可能性を足して割ったようなところで、事態は落ち着くことになるのでしょうが、個人的には、たとえば5年とか10年とか、ある程度以上昔のできごとは、もう「時効」ということで、みんなの心の平安のためにも、あえて互いに蒸し返さないことが、近い将来のマナーになってほしいと思います。

もっとも、そうしたマナーや紳士協定がいくら徹底され、他人がそっとしておいてくれたとしても、歳をとった自分が、過去の恥ずかしい記憶に悶絶するのは止められませんが……。


JUGEMテーマ:日記・一般

at 19:09, 浪人, つれづれの記

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東南アジアの国境をめぐる旅

旅行作家の下川裕治氏とカメラマンの阿部稔哉氏がウェブ上で連載していた、東南アジアの国境をめぐる旅の記事が、先日完結しました。

『裏国境を越えて東南アジア大周遊』(全20回)

2人は、バンコクを起点に、ここ数年で外国人旅行者にも開かれ始めた、主に地元民向けのマイナーな国境を越えながら、タイ、カンボジア、ベトナム、ラオス、ミャンマーを旅しています。

途中、有名な観光地や大都市も通過するものの、メインテーマはあくまで国境越えなので、かなり地味でマニアックな旅が続くのですが、簡潔な文章や写真・動画を通じて現地の雰囲気が伝わってくるので、旅の好きな人なら、けっこう楽しめるのではないかと思います。

また、旅の詳細については、下川氏のブログでも読むことができます。

【裏国境の旅がはじまった】 たそがれ色のオデッセイ BY 下川裕治

私も十年以上前に、全くの別ルートですが、そのころ開かれていた数少ない国境を抜けながら東南アジア各国を周遊したことがあるので、読んでいたら、当時の体験がいろいろとよみがえってきたし、2人の旅の詳細についても、とても興味をひかれるものがありました。

例えば、カンボジアのプノンペンからベトナム南部のチャドックまで、メコン川をスピードボートで下るルートとか、ベトナム北部のディエンビエンフーからラオス北部に入り、ルアンパバーンへ抜ける山岳ルートなどはけっこう面白そうだし、特に、ミャンマー南部のメルギー諸島については、昔からの憧れでもあり、いつか旅してみたいと改めて思いました。

新しい国境がいくつもオープンしたおかげで、個人旅行者がより自由にルートを描けるようになったのは素晴らしいことだと思います。2人のように東南アジアを大周遊するような時間と気力のある人は少ないでしょうが、彼らのたどったルートの一部を取り入れるだけでも、旅がかなり変化に富んだものになるのではないでしょうか。

ただ、少し残念なのは、最近タイの当局が、ノービザ・陸路での国境の出入りを制限する動きに出ていることで、今後の成り行き次第では、バンコクを起点にした、こうした周遊旅行がやりにくくなる可能性があるということです。
記事 「ビザ・ラン」

それにしても、2人の旅は、(仕事のスケジュールの関係なのか)途中何度か中断をはさんでいるとはいえ、現地ではひたすら先を急いでいて、ほとんど休む間もなくバスや船を乗り継いでいくのは、相当ハードだったのではないかと思います。特に下川氏は、けっこうお年も召しているし、途中、ミャンマーでは予想外のアクシデントにも巻き込まれ、ボロボロになりながらも旅をまっとうする姿には、読んでいて頭が下がります。

それと、こういうタイプの旅というのは、もしかすると、今の若い人たちには、あまりピンとこないのかもしれないな、とも思いました。

私も、最近の旅のトレンドを把握しているわけではないのですが、ふつうに考えるなら、個人旅行者の大多数は、たぶん、ネット上の豊富な情報をうまく取り入れつつ、安く快適で、しかも中身の濃い旅を楽しみたいという思いが強いだろうという気がするし、さらに、今の旅行者は、旅の目的や意義のようなものを、とても重視するのではないかと思うからです。

東南アジアでは、いま、都市部が急速に発展しつつあり、交通機関や宿やレストランなど、旅のインフラも年々便利で快適になっているし、物価も日本と比べればまだまだ安いので、あまり苦労せずに効率よく旅を楽しみたいなら、そうした大都市や人気のあるツーリスト・スポットをまわるのがベストでしょう。

実際、そういう場所では業者同士の競争もあるので、ネット上の評判などをきちんと調べれば、かなり安くて質の高いサービスを得られる可能性が高いし、観光や娯楽などの機会には事欠かないし、旅人とも多く出会えるので、淋しい思いをする必要もありません。

また、最近では、旅先でボランティア活動に参加したり、語学学校に通うなど、明確な目的意識をもって旅に出る人も多いのではないかと思います。

逆に、陸路でマイナーな国境を越えていくような旅では、個人旅行者向けの安い交通手段がなくて、かなりの出費を強いられたり、不便な思いをすることも多いだろうし、バックパッカー向けの宿や食堂は少なく、ネット上の情報も限られています。また、何もない田舎なので、静かに過ごせるのはいいのですが、人によっては退屈を持て余すだろうし、他の旅人ともなかなか出会えないかもしれません。それに、東南アジアの僻地を旅しても、残念ながら、その思い出話に興味をもって耳を傾けてくれるような人はなかなか見つからないでしょう。

しかも、そうまでして辺境を旅する目的というか、張り合いのようなものも、最近では失われつつあるのではないかという気がするのです。

ネットが普及する前は、信頼できる現地情報といえばガイドブックと旅行者のクチコミくらいだったので、ガイドブックに載っていないような場所を旅すれば、ちょっとした冒険気分に浸れたし、自分の体験したことが、他の旅人の役に立つかもしれないという実感をもつこともできました。

しかし、今や、ネット上には、誰も情報をアップしていないような空白の場所などほとんどないし、秘境といわれる場所でも、その映像を見るだけなら簡単です。そのために、誰も行ったことのない場所へ行きたいとか、誰もしたことのないような旅がしてみたいという思いは、ほとんどかなえられなくなってしまいました。他の人とは違う、自分だけのオリジナルな旅を求めてみたところで、どうしても誰かの旅の二番煎じみたいになってしまいます。

そうなると、変にオリジナリティに走ろうとして苦労するよりも、他の人と同じような旅で満足できるなら、その方がコストパフォーマンスはずっと高いということになるし、逆に、それでもあえて人と違う旅を追求するのなら、その苦労や高いコストに見合うだけの個人的な意味や必然性があるのか、自分がその旅に心から満足できるのかという点が、常に問われることになるのです。

もちろんそれは、昔の旅人の方が、今よりもずっとオリジナリティがあった、という意味ではありません。昔は情報がなさすぎたおかげで、他の人と同じような旅をしていても、それに気づかなかっただろうし、そのおかげで、多くの人が、旅の開拓者のような気分を味わえたのだろうと思います。そして今は、他の旅人たちの行為がネット上で可視化されたために、どこに行っても、どんな旅をしていても、何だか、他の誰かのマネをしているような気分になってしまうということなのだと思います。

それはともかく、旅に快適さとか、娯楽とか、日頃のストレスの解消みたいなものを求めているかぎりは、旅の動機や目的を真剣に考える必要性はないのでしょうが、辺境にあえて足を伸ばすような旅だと、その苦労に見合うだけの強烈な個人的動機がないと、とても旅を続けられないような気がします。

私も、上の旅行記を読んでいて、とても面白いとは思ったのですが、では実際に、今、自分に同じ旅ができるのかと自問してみると、ちょっと無理だろうなと思います。

ずっと以前には、陸路で国境を越えるという行為自体にワクワクしたものだし、バックパッカーとはそういう旅をするものだという思い込みみたいなものもあったのですが、そうした旅を続けているうちに、いつしか感動は薄れてしまったし、今の自分には、もう、そういう旅をせずにはいられないような、情熱のようなものが湧いてきません。

少なくとも、今の私には、陸路での国境越えとか、「裏」ルートを攻略するような旅というのは、心に響くテーマではないのでしょう。もし長い旅に出るのだとしたら、たぶん、自分にとって、もっと切実なテーマが必要なのだと思います。

まあ、これについては、自分が歳をとって、気力・体力ともに衰えたというのも大きいのでしょう。それに加えて、還暦に近い下川氏が、今回の旅でさんざん痛めつけられている描写を読んで、すっかり怖気づいてしまったせいもあるのかもしれません……。


JUGEMテーマ:旅行

at 18:40, 浪人, 地上の旅〜東南アジア

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「何もしない」という非日常

先日、ネットで面白い記事を読みました。

【貧乏人ですら、なにもしないことは贅沢になってしまった】 貧BPの人生オワタ\(^o^)/旅

貧BPさんは、物価の安い国に長期滞在する、いわゆる「外こもり」と呼ばれるタイプの旅を実践し、旅に関する情報や、自らの人生観などについて、ブログで発信されています。

上の記事では、コラムニストの小田嶋隆氏が、ネットの普及によって、日本人は「なにもしない」時間や、純粋な「退屈」を失ってしまったという内容をツイートしたのを受け、最近は、海外でも簡単かつ安価にネットに接続できるようになったため、バックパッカーもつねに情報チェックに追われるようになり、旅先であえて「何もしない」でいることに、大変な決断力と勇気が必要になったと書いています。

私も、記事を読みながら、ネットが普及する以前の、いろいろと不便で、退屈さにあふれていたころの旅のことを、懐かしく思い出しました。
旅の名言 「ヒマでヒマでしょうがなくて……」

また、貧BPさんが書いているように、長距離バスで移動する時間などは、今でも、「何もしない時間」を存分に味わえる、得がたい機会だと思います。
旅の名言 「ひとりバスに乗り……」
旅の名言 「窓の外の風景を……」

それはともかく、新鮮で刺激的な体験を求め、わざわざ異国の地まで足を運んだはずなのに、旅先でもスマホなどの情報端末を手放せないという旅人は、けっこう多いのではないかと思います。

それを、現地での情報収集とか、現地からの情報発信に役立てるならともかく、中には、いつもの仲間とメッセージをやりとりしたり、ゲームをしたり、ふだん見ているサイトをチェックするのにほとんどの時間を費やしているという人もいるかもしれません。

つねにネットに接続できる素晴らしいツールを手に入れたことで、旅人は便利で快適な旅を楽しめるようになったし、昔のように退屈を持て余すこともなくなりましたが、その反面、せっかく旅に出ていても、いつもの自分の思考と行動のパターンから逃れることが難しくなりました。

情報端末は、使用目的や利用者の生活スタイル、興味関心などに合わせて細かくカスタマイズすることができます。つまり、そこには、その人のふだんの思考・行動の特性が色濃く反映されています。

端末を使い込み、カスタマイズを重ねれば重ねるほど、利用者はますます快適にそれを使えるようになっていくわけですが、快適であればあるほど、それを手放すことが難しくなるだろうし、いつしか、端末を手にすること自体が、いつもの自分らしさを感じられる大切な行為として、日常生活に深く根づいていくのではないでしょうか。

そして、旅先でそれを使えば、いつでもどこでも、旅人はふだん通りの日常の感覚を、強く呼び覚まされることになるでしょう。

しかし一方で、異国の街にいるのに、日常の感覚から抜け出せず、いつもの自分の関心事ばかりに心が向けられたままでは、旅をしていても、新鮮な驚きや楽しさを感じることができなくなってしまうかもしれません。

それは、非日常を体験するはずの旅が、どんどん日常に近づいていくことを意味します。というより、旅が日常性に侵食されてしまっている、というべきなのかもしれません。

もちろん、だからといって、昔のような、不便さや退屈さやトラブルに満ちた旅の方が素晴らしいというわけではないし、そういう時代に戻るべきでもないでしょう。

不便で退屈な旅を続けたからといって、どこかで新鮮な驚きに満ちた体験が必ず得られるという保証などないし、トラブルに遭うことは、たしかに非日常的な体験には違いないでしょうが、そのほとんどは、旅人が望んでいるタイプの非日常ではありません。

ただ、ネットが普及する以前は、多くの場所で、旅行者のためのインフラは貧弱で、情報も不足しており、旅人がふだんの生活のような安心感や快適さを求めても得られませんでした。彼らは、「何もしない」ことや「退屈」をあえて意図し、それを楽しんでいたわけではなく、単に「何もできなかった」だけなのですが、旅人が周囲の状況をコントロールできなかったからこそ、結果的に、彼らにとって意外で、自分を大きく変えてしまうような、新鮮で面白い物事が起こり得る余地というか、隙間のようなものがあったのではないかと思います。

しかし、整備されたインフラやあふれる情報を駆使し、生活環境をコントロールできるのが当たり前になり、つねにほどほどに欲求が満たされた日常という、生暖かい心地よさに慣れすぎた人間にとっては、逆にそうした、コントロールされていない隙間や空白が、ただ不安を呼び覚ますだけの、恐ろしいものに見えてしまったりします。

そういう状況で、いつもの快適さをあえて打ち破り、自分にとって未知の世界に直面しようとするには、貧BPさんが書いているように、「大変な決断力と勇気」が必要なのでしょう。

別の言い方をすれば、自分の意思でほどほどの快適さを維持できるような環境がいったん出来てしまうと、そこから抜け出すのはとても難しくなる、ということなのだと思います。

「何もしない」、あるいは、「何もできない」という状況は、今やほとんどの人にとって非日常的なことなのですが、それは、みんなが手に入れたいと望みながら、なかなか手に入らない贅沢品というより、むしろ、多くの人は、それをわざわざ手に入れたいとは思わないのではないでしょうか。その意味では、そうした非日常は、安楽な日常という繭の外にあえて出ようとする決断力と勇気をもったごくわずかな人間だけが求める、マニア向けの品になりつつあるのでしょう。

だとすると、今の私たちにとっては、実際に異国へ旅をすることよりも、快適な日常を維持するために続けているさまざまな行為をいったん止めて、何もしない、からっぽの時間に直面することの方が、ずっと非日常的で、インパクトのある体験をもたらしてくれるのではないでしょうか。

自分を大きく揺さぶるような体験を求めているなら、今や、ただ旅に出るだけでは不十分で、あえて情報端末などを(一時的にでも)手放して、目の前のナマの現実と、ナマの自分自身に向き合う機会を、勇気をもって作り出す必要があるのかもしれません。むしろ、旅に出ることよりも、その方が重要なのではないかという気がします。

そして、それなら、あえて遠くまで旅に出なくても、ネットとの接続を一時的に断ってみたり、日常の行動パターンから意識的に外れてみるだけでも、そこには新鮮な驚きが待っているかもしれないし、旅に出ること以上の大きな意味があるのかもしれません。

まあ、自由な時間の大半をネットに費やしている私がこういうことを書いても、全く説得力がありませんが……。

 
JUGEMテーマ:旅行

at 18:40, 浪人, 地上の旅〜旅全般

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