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マツタケ食べ放題の時代がやってくる!?

先日、ネット上で、とても興味深い記事を読みました。

 

多木化学という肥料メーカーが、マツタケに味や香りでひけをとらない「バカマツタケ」の完全人工栽培に成功した、というニュースについての、非常に分かりやすい解説です。

 

株価を急騰させたバカマツタケ栽培成功は、常識破りの大発明だ Yahoo!ニュース

 

いま、スーパーで簡単に手に入るブナシメジやエノキタケなどは、朽ちた木に生えるタイプのキノコで、もともと人工栽培がしやすかったのに対して、マツタケ類は生きた植物と共生するタイプで、人工的な栽培は難しいとされていたし、実際、これまでそれに成功した者はいませんでした。

 

ところが、そのメーカーは、不可能に見えたことを可能にしてしまい、それはつまり、バカマツタケだけでなく、マツタケやトリュフなど、生きた植物と共生するタイプの高級キノコの大量生産への道が開けたことを意味するのではないかと、関係者を大いに興奮させているというわけです。

 

おいしいキノコに目がないのは日本人に限った話ではないので、これはたしかに、世界中の人にとって朗報であるのかもしれません。

 

このままうまく開発が進めば、今後何年かのうちに、バカマツタケが安く手に入るようになりそうですが、仮にそうなっても、今度は、バカマツタケという種名がネックになるような気がします。
ウィキペディア 「バカマツタケ」

 

これは別にバカマツタケのせいではなく、ずっと昔にその名前をつけた人間が悪いのですが、この名前だと、食べているうちに頭が悪くなりそうな感じがします。まあ、このあたりはメーカーの人たちも考えているはずで、たぶん、人工栽培されたバカマツタケには、マツタケの高級感はそのままに、「バカ」感を薄めた、もっとチャーミングな新しい商品名が与えられるのではないでしょうか。

 

それにしても、この地球上でなかなか手に入らない貴重なものを、知恵と工夫によって、多くの人の元に届けようとする人間の努力には、いつも感動させられます。もちろん、貴重なものを大量に生み出し、人々の切実な欲求に応えることができれば、それを実現した個人や企業に莫大な富が転がり込んでくるのもまた事実ですが……。

 

一方で、マツタケのような高級キノコに関しては、おいしいから、というだけでなく、現時点で貴重で高価だからこそ、みんな喜んで食べたがるという側面もあるのではないかと思います。近い将来、高級キノコの人工栽培が実現して、マツタケがスーパーで山積みにされ、一袋100円で売られるようになったら、それなりにうれしいとは思いますが、かといって、それを毎日のように食べたいかといえば、けっこう微妙かもしれません。
記事 古酒促成
記事 美しいから欲しいのか、高価だから欲しいのか

 

マツタケは、中国や北欧など、世界のあちこちでも自生していて、日本人が大量に輸入しているのですが、それは裏を返せば、現地の人はそれほど珍重しておらず、自分たちで食べるよりも、誰かに売ってしまう方がずっといい商売になると考えている、ということでもあります。マツタケがおいしいと私たちが思うのは、世界中の誰もが魅了されるような味や香りがあるからというより、日本でずっと受け継がれてきた食文化によるところが大きいのではないでしょうか。
ウィキペディア 「マツタケ」

 

面白いことに、西洋の珍味トリュフも日本に自生していて、実際にネット上には、それを採って食べてみたというレポートもあるのですが、もともと日本には、トリュフをおいしいキノコとしてありがたがる食習慣はなかったようです。近い将来、仮にトリュフの人工栽培が可能になり、食材としてありふれた存在になるとしたら、日本人はそれを喜んで食べるようになるのでしょうか。
国産トリュフを採ってきた デイリーポータルZ
記事 日本列島に眠る「珍味」

 

もしかすると、マツタケにしても、トリュフにしても、大量生産で誰でもいくらでも食べられる状況になり、みんながひととおり手を出してみたところで、実はそれらが万人受けするものではない、少々マニア向けの味であることがはっきりして、結局は、一部の人々だけが熱愛する、ローカルな食材として落ち着くことになるのかもしれません……。

 

 

JUGEMテーマ:ニュース

at 19:28, 浪人, ニュースの旅

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探求と選択と自覚のプロセス

◆ ネット上の情報選択

 

以前にもこのブログで何回か書きましたが、私はネット上での情報収集のために、今でもRSSリーダーを愛用しています。
記事 カレイドスコープ・メディアの時代?
記事 RSSリーダーの「断捨離」
記事 最強のエンターテインメント?

 

ずっと昔、RSSリーダーを使い始めたころは、登録したサイトの数もそれほどではなかったので、ちょっとした散歩でもするような気持ちで、見出しをざっと眺めてみたり、気になった記事を読んでみたりという作業を、行き当たりばったりに繰り返していました。

 

しかし、チェックしたいサイトの数がどんどん増えて、フィードの数も膨大になると、気分にまかせてあちこち寄り道するようなやり方を楽しむ余裕がなくなりました。それではとにかく疲れるし、時間がかかりすぎます。いったん始めたチェック作業がいつ終わるのか目処が立たず、好きなことをしているはずなのに、だんだんイライラしてくるのです。

 

それでも、毎日膨大なフィードを処理しているうちに、おのずと、作業の流れのようなものが確立されていきました。今は、RSSリーダーを立ち上げるのは一日2〜3回ほどに制限し、そのさいにはできるだけ時間をかけず、自分の興味関心にうまく当てはまるものとか、特に理由はないが何となく気になるものを、流れ作業で瞬時に選別する感じで、読む記事と読まない記事とをどんどん振り分けていきます。

 

この時点で、一度読まないと判断された記事を、あとで読むような機会は二度とありません。明日になれば、いや、数時間後には、RSSリーダーに次の新しいフィードが大量に溜まっているので、もはや、過去にさかのぼって記事の再チェックをしているような時間はないのです。だから、一瞬の判断で読まないと決めた記事については、初めから縁がなかったということで、すっぱりと忘れ去るしかありません。そして、読むと決めた記事だけを、後で時間をみつくろって、少しずつ読んでいきます。

 

とはいえ、こういうフィードのチェック作業には、かなりの集中力が必要だし、目も頭もけっこう疲れます。それに、こうした作業に毎日かなりの時間もかかっているので、それらが自動化できたら、かなり楽だろうな、とは思います。実際、ネット上のさまざまなサービスも、そういう方向に向かって開発と進化が進んでいるように見えます。

 

 

 

◆ 探求と選択と自覚のプロセス

 

そして、日常生活において、こうしたチェックや選別のプロセスというのは、至るところに存在します。

 

例えば、テレビのザッピング。私たちは、ひとりでボーっとテレビを見ているときなど、チャンネルを目まぐるしく変えながら、見たい番組を決め、それと同時に、いくつもの裏番組という別の選択肢を捨てていきます。

 

あるいは、私たちは、巨大なショッピングモールやネット通販のサイト上を、特にあてもなくぶらついたりします。そして、ゆっくりと時間をかけ、膨大な商品の山に目を泳がせながら、その中のごくごくわずかな、自分が本当に欲しいと思うものだけを選び出していくわけですが、それは同時に、他の無数の商品を購入する可能性を、バッサリと切り捨てていくことでもあるのです。

 

私たちは日夜、ムダとしか思えないような多大な時間と手間暇をかけて、目の前に広がる数え切れない選択肢に目をやり、それを自分の興味関心や必要性とつき合わせ、その中から、選ぶべきわずかなものだけをすくい上げています。そのプロセスはふつう、ほとんど無意識のうちに行なわれているので、自分の心の中で何が起きているか、きちんと自覚されることはめったにありません。しかし、実際には、そうやって無意識の選別が行われるたびに、自分はどういう人間で、何を欲しているのか、つねに自分自身への問いかけがなされているはずです。

 

そしてそれは、自分の興味や関心という、そのままでは漠然としてとりとめのないものを、見たいテレビ番組とか、欲しい商品を選ぶという行動を通じて、具体的なイメージやモノという、目に見える形に変換していくことでもあります。

 

私たちは、そういう活動を毎日のように繰り返すことで、自分がどんな人間であり、何を求め、どこに向かって進もうとしているのかを確認し、それを分かりやすいイメージとして自覚していくのだと思います。実際、私たちが、自分はどういう人間かと考えるとき、頭の中には、これまで自分が選び、好きになった商品やコンテンツ(の集合体)が浮かんでくることも多いのではないでしょうか。

 

もちろん、この世界全体が常に変化しつつあるように、私たちの興味や関心も、自分自身のイメージも、時間とともに少しずつ変化していくわけですが、日々休むことなく繰り返される、そうした探求と選択のプロセスを通じて、これまでの自己イメージにはなかった、新しい自分の姿がおぼろげに見えてきたりすることもあるでしょう。

 

そうやって、時間とともに移り変わっていく私たちの自己イメージの分かりやすい輪郭を形作り、また、新たな自分の可能性につながっていく、という意味では、一見ムダに費やされているようにしか見えない、そうした探索と選択の時間は、私たちが思っている以上に大事な時間だったりするのかもしれません。

 

 

 

◆ プロセスを効率化したいという欲求

 

ただ、そうした作業は、いつもほとんど無意識のうちになされているし、はっきりとした方向性の見えない、行き当たりばったりのものであることも多いので、本人としては、それを単純にムダなことだと思い、そういう時間を何とかして減らせないかと考えてしまいがちだと思います。膨大なTV番組の中からどれを見るかという選択にしても、ショッピングにしても、自分でじっくりと迷いながら決めていくよりも、何を選んだらいいか、失敗しない最良の選択肢を誰かに示してほしいと思う人は多いのではないでしょうか。

 

また、ネット上の情報収集にしても、RSSリーダーにサイトをいちいち登録したり、それを毎日チェックしたりするよりも、自分のネット上の活動から生まれる膨大な個人データをAIに分析させ、自分が特に何もしなくても、オススメの情報が自動的に提示されるようにしてほしい、その方がずっと楽だし時間も節約できるから、と考える人は多いと思います。

 

ただ、近い将来、そうしたプロセスがどんどん自動化されるようになれば、私たちは、これまでほとんど無意識のうちにおこなってきたさまざまな探求活動に対して、さらに無自覚になってしまうでしょう。そして、無自覚になれば、そういう探求の本当の価値に気づかないまま、それに費やしていた膨大な時間を、単なるムダな作業として簡単に捨て去ってしまうかもしれません。

 

しかし、そうなれば、自分が何者であるかという根本を、つねに問い直し続けるという重要なプロセスを、人間以外の何かにゆだねることになってしまいます。大げさな言い方をすれば、それによって、自分がどんな人間かを自覚するきっかけすら失う人も出てくるかもしれないし、いったんそうなれば、自分が何者かを決めるのは自分ではなくなり、誰かに与えられた「自分の定義」から抜け出せなくなってしまうのではないでしょうか。

 

それは、いつまでも覚めることのできない夢のようなものであり、ある意味では悪夢とさえ言えるのかもしれません。

 

 

 

◆ 「何となく満たされない」という思いが導くもの

 

しかし、テクノロジーの発達によって、膨大な個人データをもとに、アルゴリズムがすべてを先回りして示してくれる世界、言いかえれば、親切すぎる機械に囲まれた息苦しい世界ができあがったとしても、私たちがそこから永遠に抜け出せないということはないでしょう。

 

私たちは、そうしてあてがわれた世界の中でずっと過ごすことになるとしても、そのうちにきっと、何となく面白くない、満たされない、という形で、違和感を感じ始めるはずです。

 

そして、違和感をもった人々の一部は、おせっかいで埋め尽くされた日常の外側にどんな世界が広がっているのか、その未知の世界を見てみたいという衝動に駆られ、実際にそれをせずにはいられなくなるのではないでしょうか。

 

 


◆ すでにあるものを選ぶだけでは限界がある

 

もちろん、ここまでの話は、説明しやすくするためにかなり単純化しています。

 

そもそも、いくら世界中を探索しても、私たちそれぞれにピッタリの選択肢が、何かのコンテンツや商品という形で、どこかに必ず見つかるという保証はありません。誰かがすでに表現した何か、誰かが商品として発売した何かを検索し、それらの中から自分の好きなものを選ぶだけで、自分が何者であるかについてすべてが分かってしまうほど、この世界は簡単ではないと思います。

 

私たち自身について、本当に肝心なところは、そうやって誰かがすでに表現したものを超えて、私たち自身にしか表現できない、あるいは、表現することなどできない、もっとオリジナルで微妙な「何か」としてしか見出せないのかもしれません。そして、そうした、まさに自分だけのために用意されていたような何かをかいま見たときに初めて、人は本当に、それを何とかして表現したいという欲求にかられるのではないかという気がします。

 

もっとも、そのオリジナルな何かを自分なりに形にするのは、たぶん、出来合いの商品を選択するような行為よりも、はるかに困難なプロセスになるのでしょうが……。

 

それでも、たぶん私たちは、「何となく満たされない」という思いに導かれる形で、やがてはそうした表現活動にも踏み込んでいかざるを得なくなるだろうし、近未来の世の中では、そうした活動こそが、人々の興味関心の中心になっていくのかもしれません。

 

 

JUGEMテーマ:日記・一般

 

at 20:02, 浪人, つれづれの記

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美しいから欲しいのか、高価だから欲しいのか

先日、非常に面白いだけでなく、実に考えさせられる記事を読みました。

 

この地球の地下深くには、途方もなく大量のダイヤモンドが存在するらしいが、残念ながら、現代のテクノロジーではそれを掘り出すことができない、という内容です。

 

1000兆トンのダイヤモンドが地中深くに眠っていることが判明 GIGAZINE

 

今の私たちにとって、ダイヤモンドはとても貴重な宝石ということになっていますが、それはあくまで人間側の事情によるもので、宇宙的なスケールで見れば、それはごくごくありふれた鉱物にすぎないし、未来の人類が宇宙に進出していくようになれば、ダイヤモンドなんていうのは、砂利の代わりに庭に撒くような代物になってしまうのかもしれません。

 

というか、現時点でも、技術の進歩によって、天然モノとほとんど変わらないレベルの人工ダイヤを安価に製造できるようになり、専門家でもその違いを区別するのが難しくなりつつあるようです。
記事 古酒促成

 

もしも将来、簡単に採掘したり、いくらでも生産できるようになったりして、ダイヤモンドが道端の石みたいにありふれた存在になるとしたら、それでも人々は、今みたいにそれを美しいと感じることができるのでしょうか。

 

今、私たちがダイヤモンドに感じている美しさは、カット技術の進歩とか、業界による高級イメージの刷り込みの成功もあるでしょうが、それ以上に、希少さによる経済的な価値の高さによって、実際以上に輝いて見えてしまっている部分が大きいのではないかという気がします。

 

私たちがダイヤモンドの輝きに魅せられ、何としてでも手に入れたいと思うとき、それは、ダイヤモンドというモノ自体を欲しているというよりは、それが象徴する豊かさのイメージや、希少なものを独占し、誇示できる社会的地位の証しこそを求めているのかもしれません。

 

そして、そうした欲求を生み出す人々の価値観自体も、歴史的に大きく移り変わってきました。ダイヤモンドに限らず、鉄などの金属にしても、コショウなどのスパイスにしても、ガラスや陶器などの工芸品にしても、時計などの精密機械にしても、それぞれの時代と社会において、そうした希少で価値あるとされるモノに多くの人々が魅せられ、それらを求めるあまり、ときには悲惨な争いさえ起きました。

 

しかし、人類のテクノロジーの進歩、生産の拡大やコストダウン、流通ルートの整備などによって、それらはより多くの人が簡単に手に入れられる、ありふれた存在になっていきました。

 

考えてみれば、それは当たり前の話で、みんなが欲しいと思う素晴らしいモノだからこそ、それらをより安く、より多くの人に届けるために、大勢の人々によってさまざまな探求や工夫がなされ、そうした無数の努力の積み重ねの結果、今の豊かな消費社会が出来上がっているわけです。

 

あるモノが広く行き渡ることによって、その社会的な価値を失えば、次はまた別のモノが社会的な注目を集め、多くの人が欲しがることによって価値が高まり、さまざまな研究開発や企業努力の結果、大量に供給されるようになり、それらもまた、やがて社会的な価値を失っていく、というプロセスが繰り返されていきます。

 

そしてまた、その過程を通じて、世の中の仕組みや人々の価値観自体も少しずつ変化し、やがては社会全体を大きく動かしていくことになります。

 

ダイヤモンドも、他のさまざまなモノと同様、大量採掘や大量生産によって、これからどんどん社会的な価値が失われていき、やがては、ちょっとした装飾品として、便利な素材として、どこでも当たり前に使われる存在に変わっていくに違いありません。

 

ただしそれは、今すぐという話ではないのでしょう。

 

数十年後、あるいはもっと遠い未来にそうなる見込みは高いと思いますが、とりあえず現時点で、ダイヤモンドが希少な存在であるという事実は揺るぎません。そして、未来がどうであろうと、今この瞬間に貴重なモノであれば、やはり多くの人がそれを渇望するのかもしれません。たとえ、この地面の下にダイヤがゴロゴロ埋まっていようと、それが将来ごっそり掘り出されることになろうと、今、ダイヤを欲しいと思う人たちが、それをあきらめる理由にはならないでしょう。

 

もっとも、彼らが将来、タンスの奥にしまい込んでいたダイヤを換金しようとしても、そのときにはすでにすっかり価値が暴落した後で、まるでガラス玉みたいな扱いになっているかもしれませんが……。

 

 

JUGEMテーマ:日記・一般

at 19:07, 浪人, つれづれの記

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