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寝耳に水

先月、ヨーロッパの大手旅行代理店トーマス・クックが経営破綻し、傘下の航空会社も運航を停止、イギリスを出発した15万人もの利用客が世界各地で立ち往生し、彼らが無事に帰国できるよう、イギリス政府がチャーター機を大量に飛ばすという出来事がありました。
英旅行大手トーマス・クック、破産申請 旅行者15万人の帰国作戦が開始 BBC NEWS JAPAN

 

トーマス・クックといえば、19世紀に世界初の近代的な旅行代理業を始めたとされる、業界の老舗中の老舗ですが、今や、そういうブランドでさえ経営が立ち行かない時代になっているんだな……と、しみじみ思います。
ウィキペディア 「トーマス・クック・グループ」

 

たしかに、今では、ネットで無料の旅行情報がいくらでも手に入るし、航空券や宿の予約も、ネット経由で簡単に手続きができるので、そういう作業を自分でやってしまう人がどんどん増えているのでしょう。

 

もちろん、世の中にはいろいろなタイプの人がいます。自分であれこれ手配するのが苦手な人もいるだろうし、せっかくの休暇なのだから、面倒ごとは誰かに任せて、自分は気楽に旅を楽しみたいという人もいるはずです。そういう人たちがいるかぎり、世の中から旅行代理店というものが消えてしまうことはないでしょう。

 

とはいえ、世界中の旅行代理店は、個人旅行者の増加や、LCC(格安航空会社)やスマホの普及など、旅行をめぐる環境が激変する中で、新たなサービスを必死で模索し、生き残りを図ろうとしています。そうやって、業界全体が激烈な競争を続けている状況では、老舗であることが、むしろ、組織の変化を妨げる重荷になっていたのかもしれません。

 

そういえば、2017年に、日本でも同様の事件がありました。旅行代理店のてるみくらぶの経営破綻で、当時、海外旅行中だった約2500人と、出発前の数万人が被害を受けました。
ウィキペディア 「てるみくらぶ」
 

実際に世界各地で、滞在先のホテルから部屋代の支払いを要求されたり、帰国便がキャンセルされたりと、さまざまなトラブルが起きたようですが、このときは日本政府がチャーター機を飛ばすまでには至りませんでした。添乗員つきのツアーの場合には、現地でそれなりのフォローが受けられたでしょうが、それ以外の場合は、それぞれの旅行者が自力と自腹で問題を解決し、日本に帰ってくるしかありませんでした。

 

ちなみに、海外旅行保険では、このような場合に現地で追加請求されたホテル代や航空券代までは補償されないようです。

 

ただ、そのとき海外にいた2500人全員が、重大なトラブルに巻き込まれたわけではありません。当時の話をネットで探して読んでみると、てるみくらぶのツアーの添乗員をしていたが、大きな問題もなく無事帰国できた、という体験談があるし、ホテル側から宿泊費を要求されたが、うまく交渉して支払いを免れた人もいるようです。

 

むしろ、本当に理不尽な目に遭ったのは、代金を全額払い込み、出発を目前にしていた客で、結局、彼らは出発することもできず、大切な休日や、人生の記念すべきイベントを台無しにされたうえに、ほとんど返金もされないという、大きな被害を受けました。

 

今回、イギリス政府がチャーター機を飛ばしたのは、さすが元大英帝国、という感じですが、実際には、てるみくらぶの事件とはケタが二つ違う、膨大な利用客が影響を受けており、国としても何らかの対策を取らざるを得なかった、という面もあったのでしょう。また、今回のケースでは、宿泊費や帰国費用は、業界の弁済保証金からカバーされるようです。

 

とはいえ、利用客の多くは、旅先でいきなり旅行代理店の破綻を聞かされて、足元が崩れるようなものすごい不安に襲われたことでしょう。

 

トーマス・クックの経営に不安があり、万が一のこともあり得るとあらかじめ知っていたら、ほとんどの人はわざわざ利用しなかったと思うので、今回の被害者は、みな、まさかこんなことになるとは夢にも思わず、旅先で事態を知らされたときには、それこそ「寝耳に水」だったのではないでしょうか。

 

しかも、自分で旅行の手配をする知識や気力がないからこそ、それなりのカネを払って専門家に任せていたはずなのに、結果的にその専門家に裏切られ、見知らぬ土地でいきなり放り出されることになるとは……。

 

まあ、被害に遭ったとはいっても、チャーター機に乗せてもらえたり、さらなる費用負担は回避できたりと、経済的にはそれほどのダメージにはならないのかもしれませんが、それでも、旅先でいったんどん底に落とされたショックは取り消せません。浮かれた旅行気分を台無しにされたことについては、運が悪かったとあきらめるしかないのでしょう。

 

すべてを旅行代理店にお膳立てしてもらい、安心・安全な旅行をしていたはずの人々が、企業の経営破綻という、自分たちのあずかり知らないところで起きた出来事によって翻弄されてしまうというのは、実に気の毒な話です。

 

しかし、この世界には、絶対の安全とか、絶対の安心というものは存在しません。

 

この世では、より多くのカネを積むことによって、他の人よりも快適で楽な思いができるし、安心・安全の度合いを高めていくこともできますが、どこまで安全を追求しても、想定外の出来事が起きる可能性はなくなりません。

 

そしてむしろ、私たちが楽をしていればいるほど、安心だと信じ切っていればいるほど、万が一のことが起きたときには、現実とのギャップが非常に大きくなり、それこそ、「青天の霹靂」のようなことになってしまうのです。

 

ただ、今回のようなトラブルで、いきなり旅先で放り出されたり、帰国のために必死な思いをする羽目になるのは、大きなストレスにはなるでしょうが、現地で天災や事故や政変に巻き込まれ、命に関わる危険にさらされる事態にくらべれば、はるかにマシだと言えなくもないのかもしれません。

 

逆に、今回の事件の被害者の場合、命に関わるほどの危険はないが、めったに起きないめずらしい出来事、見方によっては歴史的な出来事の当事者になることで、普通のツアーだったらあり得ないような、非常に貴重な体験をした、と考えることもできるのではないでしょうか。

 

もっとも、そんなことは、当事者ではないからこそ気軽に言えるのかもしれません。いくらめずらしい出来事に遭遇したといっても、それは本人が期待していた種類の体験とは全く違うでしょう。彼らの多くは、トラブルや面倒な手続きを自分で処理するのがイヤだからこそ旅行代理店を利用していたわけで、自分が巻き込まれたトラブルを、貴重な体験だと解釈して面白がるような心境には、とてもなれないかもしれません。

 

それでも、旅先でのドタバタ劇も、そこで感じていた不安や怒りも、その最中はともかく、帰国後は、いい話のネタにはなるだろうし、数年も経てば、当時のことをあれこれ思い出し、自分が困難な状況をくぐり抜ける中で、いろいろと感じることや学ぶことも確かにあったな……と気づいたりすることもあるのではないでしょうか。

 

ただ、それも、旅に出ていればの話です。

 

てるみくらぶの事件でも、トーマス・クックの事件でも、出発そのものがキャンセルされ、旅立つことすらできなかった数多くの人々にとっては、旅でリフレッシュされる機会を失った、これまで通りの日常が延々と続くだけでなく、そこにさまざまな金銭的損失とか、自分には何の責任もないトラブルの後始末がのしかかってくるわけです。

 

どれだけ屁理屈をこねまわしてみても、それを貴重な体験だと、ポジティブに受け止めるのは非常に難しいのかもしれません。

 

 

JUGEMテーマ:ニュース

at 19:57, 浪人, ニュースの旅

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冷静な激怒

数か月前、いわゆる「逃亡犯条例改正案」をめぐって始まった香港の大規模な抗議活動は、先日、行政長官が改正案の撤回を表明するまでに至りましたが、その後も抗議は衰えを見せていません。
ウィキペディア 「2019年逃亡犯条例改正案」

 

抗議活動が大規模かつ長期間に及んでいる大きな理由として、よく言われているように、改正案が成立したら、自分たちの身の安全が北京の当局に左右されてしまう、という恐怖感が香港市民の間にあったのだとすれば、それはつまり、彼らは以前から、香港・北京いずれの当局も、まったく信頼などしていなかったということです。

 

そして、今回、当局が条例改正を強引に進めようとしたことが、そうした不信感を人々にはっきりと自覚させ、さらに、デモ隊に対する警察の強硬な姿勢が、市民の怒りに火をつけてしまったのでしょう。

 

抗議活動は、もはや条例に反対するというレベルをすっかり超えて、今では、そうした不信や怒りそのものを、世界中に向けて、さまざまな手段で激しくアピールする形になりつつあるように見えます。

 

私は香港人ではないし、現地で暮らしたこともないので、彼らが今、どんな気持ちで日々を送っているのか、頭で想像してみることしかできません。それにもちろん、一口に香港人といっても、それぞれの政治的立場も経済状況も、ライフスタイルや考え方も多様なので、彼らをひとつの集団として単純なイメージでとらえようとすれば、現状を大いに見誤ることになるかもしれません。

 

それでも、彼らの多くは、もう何か月ものあいだ、ふだんと同じ日常の生活を送っている瞬間でさえ、心の中に、激しい怒りを抱え続けているのではないでしょうか。自分たち市民の気持ちに寄り添おうとしないどころか、何かまったく違う目的をもって動いているとしか思えない当局に対し、心の底から気味の悪さや嫌悪感を感じているのだろうと思います。

 

そして、一度それをはっきり自覚してしまうと、ニュースで香港政府に関する話題が出るたびに、いちいち腹を立てずにはいられないだろうし、その背後で様子を窺っている北京の当局にも、心からノーを突きつけたい、そういう非常に強い拒絶反応が、ひたすら繰り返されるデモ行進や、荒っぽい抗議活動さえ容認する市民の姿勢に現れている気がします。

 

とはいえ、そうした激しい怒りに基づいた抗議は、同時に、つねにギリギリのところで踏みとどまっているようにも見えます。

 

警察とデモ隊との暴力的な衝突は、もはや日常茶飯事で、これまでにケガ人も数えきれないほど出ていますが、双方とも、相手を死なせるほどの行き過ぎた暴力は抑制できるだけの、最低限の冷静さは保っているようだし、繁華街に催涙弾が転がり、火炎瓶が燃え上がる非日常の光景が広がることはあっても、街が無法地帯と化し、略奪などが頻繁に起きる、ということにはなっていないようです。

 

それに関して、先日、とても興味深い記事を読みました。著書の『八九六四』で大宅壮一ノンフィクション賞を受賞した、中国ルポライターの安田峰俊氏による現地からのレポートです。

 

逃亡犯条例撤回 「こいつら暴徒だわ」香港デモ隊の“醜い真実”をあえて書く 文春オンライン

香港デモは「オタク戦争」? 最前線のガチ勢“覆面部隊”の意外な正体とは 文春オンライン
 

安田氏は、抗議活動に立ち上がった香港の人々には共感を覚えるとしながらも、彼らの一部が行き過ぎて、街を破壊する「暴徒」と化していることを指摘しています。

 

しかし、その一方で、警察との衝突の最前線では、その場にたまたま居合わせただけの、明確な指揮命令系統も持たない群衆が、まるで統率のとれた軍隊のように組織的な動きを見せているとも書いています。

 

また、警官隊とデモ隊との中間地帯に陣取り、すべてをカメラに収めている各国の報道関係者の存在が、当局の過剰な暴力を抑止し、デモ隊の安全をある程度保障しているだけでなく、一見すると過激なデモ隊の行動に、そうしたカメラを多分に意識したパフォーマンスの側面があることも否定できないようです。

 

安田氏によれば、事態はもはや、欧米の自由主義陣営と中国政府とが、互いにとって都合のいい映像を世界にばら撒いて印象操作を図る、熾烈なプロパガンダ戦争と化しており、香港のデモ参加者たちもまた、誰に指示されるともなく、そうした情報戦に積極的に加わり、抗議活動のポジティブな側面だけを世界中に印象づけるべく、したたかに立ち回っているというのです。

 

警察とデモ隊が互いに最後の一線を越えずに済んでいるのは、先に越えた側がプロパガンダ戦に敗北するという、はっきりとした危機感が双方にあるだけでなく、それぞれに立場は違えど、目の前にいるのは同じ香港市民であって、両者が必要以上に傷つけあう理由などないということが、しっかりと自覚されているからなのかもしれません。

 

そして、互いに最後の一線は越えないという不文律が守られている限りは、激しい衝突の現場でさえ、双方にある程度の冷静さが保たれ、世界中のカメラの前で、自分たちの正当さをアピールする余裕が生まれるのでしょう。

 

それに、少なくともデモ参加者に関しては、次に向かうべき別の抗議活動の予定とか、実行すべき新しい活動のアイデア、そして、世界中からの共感の声や仲間同士の励ましのメッセージなど、スマホ経由で絶え間なく流れ込んでくる膨大な情報をさばき、息つく間もないスケジュールをこなしていくのに精一杯で、ある意味では、健全な疲労と高揚感に常に満たされていて、鬱屈した感情を間違った方向に爆発させてしまう余地がないのかもしれません。

 

とはいえ、当局とデモ隊とのそうした不文律は、あくまで現時点では成り立っている、というだけで、同じ状況が今後もそのまま続くと約束されているわけではないと思います。

 

抗議活動が今後も盛り上がり、効果を上げれば上げるほど、それが香港や北京の当局を追い詰め、思いがけないリアクションを招くおそれがあるし、逆に、これ以上のめぼしい成果がないまま、ズルズルと抗議活動が続くようなら、一触即発の危険はなくても、観光をはじめ、経済全般にマイナスの影響が出てくるし、長い目で見れば、人やカネが香港から逃げ出していく原因にもなるでしょう。

 

それに、警察とデモ隊がたとえ最後の一線を越えなくても、実際に現場でぶつかり合いを続けているかぎり、双方の心も身体も無傷ではいられません。

 

互いに衝突を重ね、血を流し合うたびに、怒りや憎しみをかきたてるネガティブな記憶が、それぞれに植えつけられていきます。そうやって蓄積するマイナスの感情が臨界を超え、これまで何とかそれを抑え込んできた冷静さを上回ったとき、誰かが思いがけず一線を越えてしまう可能性がないとはいえません。

 

また、香港当局と市民との対立にとどまらず、政治的・経済的な利害に基づいて各国から新たなプレイヤーが介入してくれば、事態はどんどんややこしくなり、若者たちの純粋な理想だけでは到底前に進むことのできない、複雑で出口の見えない泥沼のような状況が生み出されてしまうでしょう。

 

香港の人々の怒りは、当事者ではない私でさえ十分に共感できるものですが、上記のレポートで安田氏も述べているように、何とか早めに抗議活動の落としどころを見つけてほしいです。

 

時間とともに積み重なっていく怒りや憎しみによって、多くの人々が、はっきりと自覚しないうちに心のダークサイドに堕ちてしまい、それが、やっかいな状況を生んだりしなければいいのですが。

 

 

JUGEMテーマ:ニュース

at 21:53, 浪人, ニュースの旅

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仮想積ん読

◆ もう、個人で本を囲い込む必要はなくなった

 

ずっと昔から、一部の読書家のあいだには、読みたい本を次から次へと買ってきては家にため込んでしまう、「積ん読」という悪しき(?)習慣がありました。
ウィキペディア 「積読」

 

これは、電子書籍がそれなりに普及した現在でも、まだしぶとく残っているどころか、むしろその概念は、「Tsundoku」として、SNSなどを通じて世界中に広まりつつあるようです。

 

私もかつては、読む時間もないのにせっせと本を買い込んでいたことがありましたが、あるとき、積ん読とほぼ同じことが、本を買わずにタダでできると気づいてからは、物理的に本をため込むことはほとんどなくなりました。

 

といっても、それは、裏ワザ的なテクニックでも何でもなくて、「あっ、この本読みたい!」と思った瞬間にそのまま本を買ってしまうのではなく、メモ用のアプリなどにその本のタイトルを書き込み、「読みたい本リスト」にして、しばらく様子を見る、というだけの話です。

 

昔なら、そういうリストを作ることは、あくまでも本探しのスタートラインにすぎず、むしろ、実際に書店や古書店に足しげく通っては、必要な本を見つけて購入し、とりあえず手元に確保するというプロセスの方が、ずっと骨の折れる作業でした。

 

そうやって本を買い求めていくとき、何がなんでも手に入れたい、とか、今すぐ読み始めたい、という本なら迷う余地はないのですが、中には、今すぐ読みたいほどではないが、関心のあるテーマなので、後で必要になりそう、みたいな微妙な本もあります。そんなとき、必要になった時点でまた買いにくればいいや、みたいに軽く考えてスルーすると、二度とその本には出合えず後悔する、というのがお決まりのパターンでした。

 

以前は、そういう苦い経験を繰り返すうちに、多少財布に負担をかけてでも、気になる本は念のため確保しておく、という習慣が身についてしまった人も多いのではないでしょうか。積ん読という奇妙な習慣には、紙の本の流通上の制約から生じる、本との出合いの難しさみたいなものも、大いに影響していたと思います。

 

しかし、今では、電子書籍化されている本なら、いつでも気が向いたときに即座に手に入るし、電子化されていなくても、絶版や品切れでなければ、Amazon などのネット書店経由で簡単に購入できます。そして、たとえ新刊書店から姿を消してしまっても、ネットで古書を探したり、各地の図書館の蔵書を確認してみることもできます。

 

つまり昔は、最初に「読みたい本リスト」を作ってから、実際にその本を読み始めるまでの間にいくつもの高いハードルがあって、それらを乗り越えなければ欲しい本にたどり着けなかったし、ある意味では、それもまた読書の楽しみの一部でもあったのですが、今ではそれらの作業がものすごく効率化され、欲しい本が手に入る可能性もかなり高くなりました。

 

だから、かつてのように、積ん読という形で読みたい本をせっせと集めなくても、とりあえず本のタイトルをリストアップだけしておいて、ときどきそれを見返し、やがて、読みたい気持ちがさらに高まって、読む時間も確保できそうだと思ったら、そこで初めて本を注文すれば、ふつうは数日もしないうちに、ほぼ確実に手元に本が届くのです。

 

別の言い方をすれば、ネット経由で本を探すのが非常に簡単になり、まるで、私たちが読みたい本を日本中の書店や図書館にあらかじめ分散して預けてあるような、「仮想積ん読」状態がいつの間にか実現してしまっているので、それらの本をわざわざ個人で囲い込まなくても、実際に読み始めようとする時点で外から取り寄せればいいのです。

 

 

◆ 仮想積ん読のメリットとデメリット

 

もちろん、本当に自分のすぐ近くの、手を伸ばせば届く距離に本を確保してあるのと、他人が管理している、どこか遠い施設に収められた本を引っ張り出してくることとの間には、それなりの違いがあります。

 

ある本を読みたい、という気持ちが高まった瞬間に、待たされることなく即座に手に取って読み始めたり、本の中身がちょっと気になったときに、パラパラとページをめくってみたりできるかどうかというのは、人によっては非常に大きな差だと感じられるのかもしれません。

 

しかし、「積ん読」という言葉が示しているように、人によっては、せっかく購入した本の多くが、ただ積み上げられ、ホコリをかぶった状態で放置され、最後まで誰にも読まれないままで終わります。

 

私たちは「この本を読みたい!」という気持ちが盛り上がったときに本を買うのですが、そうした熱意がいつも長続きするわけではなく、いつの間にか関心が失われてしまうことはけっこうあります。しかし、そうやって気持ちが先細りになって手をつけなくなる本に対しても、私たちは先払いでカネを払っているのです。

 

その点、本を物理的にため込まず、無料の仮想積ん読というやり方を活用することには、その不便を補って余りある、大きなメリットがあるのではないでしょうか。

 

ただし、この仮想積ん読には、非常に大きなデメリットもあります。

 

「読みたい本リスト」にどんどん書き足すだけ、という、お手軽で、タダで、しかも場所を全くとらない便利な積ん読は、すぐに歯止めを失って、際限がなくなってしまいがちなのです。

 

何かのきっかけで面白そうな本を知るたびに、それは気楽にリストに追加されていくのですが、当然、実際に本を読むペースよりも、リストの増加ペースの方がはるかに速いので、積ん読リストは、またたく間に増殖していきます。

 

そして、読みたい本のタイトルが、数十、数百、数千と増えていくと、本人の頭の中で、それはいつしか、自分の読みたい本だけが並べられた、理想の書店や図書館のイメージとなっていきます。それは、ある意味では、とても素晴らしい光景でしょう。本棚を埋め尽くす膨大な本は、自分の好みのものばかりなので、どれを選んでも、楽しい時間や、読後の深い満足を与えてくれそうです。

 

しかし、現実には、それらを読む時間が決定的に足りないのです。

 

私たちは、永遠に生きることはできません。それに、どんなに長く生きていられるとしても、読みたい本が増えるペースが速すぎれば、頭のなかの仮想の図書館は、ひたすら膨張していきます。

 

やがてそれは、手つかずの夏休みの宿題のように、あるいは、いまだに返済していない借金のように、心の中の無視できない重荷となり、心に影を落とし始めます。それはまるで、成仏できない幽霊みたいに、頭にとりついて離れなくなります。

 

仮想積ん読の場合は、気楽でカネがかからないし、場所もとらないから、周囲の人々に迷惑をかけることはほとんどないでしょうが、読みたくても読めない本の山に本人がさいなまれるという点では、紙の本の積ん読とあまり変わらないのかもしれないし、紙の本と違って限度というものがないので、むしろ、はるかにやっかいなのかもしれません。

 

それに、Amazon などのネット書店は、多くの読書家が、昔ながらの紙の本の積ん読から、仮想積ん読や、それに似たやり方に移行しつつあるのは十分に承知しているはずで、それによって本の売り上げが減るのを防ぎ、人々の財布のヒモをゆるめるために、死に物狂いの努力を続けているはずです。

 

例えば、ネット書店が期間限定の大幅な割引セールをひんぱんに仕掛けてくれば、私たちは、特に用事がなくても、書店のサイトをウロウロするようになるでしょう。そして、割引価格が十分に魅力的なものであれば、読む直前に本を定価で買うよりも、どうせいつか読むことになるのだから、割引セールのうちに確保しておこうと考えるようになるかもしれません。

 

今後、書店側のそうした価格操作などがどんどん洗練されていけば、私たちは昔と同じように本への飢餓感を煽られて、読む時間もないのに、本をごっそりと買い込むようになるのかもしれません。

 

 

 

◆ それは、本当に読みたい本なのか?

 

ネット書店などの営業努力によって、私たちはこれからも、読みきれないほどの本を買わされて、昔みたいな積ん読を続けることになるのでしょうか。それとも、みんなが仮想積ん読をするようになると、今度は、頭の中の膨大な本の山に圧迫感を感じる羽目になるのでしょうか。

 

もちろん、未来のことは私には分かりません。

 

ただ、自分にとって、読みたい本とは何かということを、もう少し突き詰めて考えてみると、自分が本当に心の底から読みたい本というのは、結局のところ、今現在すでに読み始めているか、読み終わっているかのどちらかしかないのではないか、という気がします。

 

時間がなくて読めない、とか、まだそれを読む機が熟していない、というのは、自分をごまかす言い訳で、読むのを少しでも先延ばしにできる本というのは、実は、それほど読みたい本ではないのかもしれません。

 

だとすれば、あまり認めたくないことですが、「読みたい本リスト」に書き込まれてから何か月も何年もそのままになっているのは、そのどれもが、ヒマがあったら読んでもいい、と思う程度の本にすぎず、そういう本がいくら山になったところで、それらにさいなまれる必要など初めからなかった、ということになるのではないでしょうか。

 

ただし、それをハッキリ認めてしまうと、私たちは同時に、これまで自分を支えてきた、将来の漠然とした楽しみというか、生きがいのようなものも、ごっそりと失うことになります。

 

あんな本を読みたい、こんな本も読みたいと、いつかやってくるであろう至福の時間を夢見ながらリストに書き込んでいた行為には、ヒマつぶし程度の意味しかなかったことになるわけで、その身も蓋もない現実に直面するのは、人によっては、実に恐ろしいことであるのかもしれません。

 

ただ、もちろんそれは、自分が今すぐに読み始めずにはいられないような特別な本以外には、存在する価値がない、ということではありません。

 

何もかもを投げ出して、とにかく今すぐかじりつきたくなるほどの本に出合えるのは、そんなに頻繁には起こらない、幸せなことですが、それ以外にも、読む前には特に期待していなかったのに、読み進めるうちにいつの間にかのめり込んでいたり、読み終わってから時間が経って、じわじわとその良さに気がつくタイプの本もあるでしょう。

 

それに、自分にとってのそうしたすごい本に出合うためには、自分が今、何を求めているのかを自覚したり、本の価値を見極める力を養う必要がありますが、そのためには、結局のところ、ゆっくりと時間をかけて、いい本から悪い本まで、雑多な本を読み通していくしかありません。

 

だとすれば、やるべきことは、きっと、あまり肩に力を入れずに、それなりに自分が読みたいと思う本を、淡々と読み続けていくことなのでしょう。

 

ただ、その一方で、こんな本を読みたい、あんな本も読みたいと、「読みたい本リスト」をいたずらに増殖させていくことは、今現在の自分の時間を必要以上に費やし、未来の自分の自由な時間まで予定で埋め尽くそうとする、余計なおせっかいなのかもしれません。

 

昔のように、家の中に本をため込んでしまうことなく、そして、行き過ぎた仮想積ん読によって、未来の計画にうつつを抜かすこともなく、今やるべきことに焦点を合わせ、感覚を研ぎ澄ませていけば、膨大な本のリストをわざわざ用意しなくても、自分が読むべき本には、ふさわしいタイミングでちゃんと出合えるのではないでしょうか。

 

もっともそれは、こうやって言葉で書くほど簡単なことではないかもしれませんが……。

 

 

記事 選択肢の広大な海と読書(1/2)
記事 本の選択とタイミング

 

 

JUGEMテーマ:読書

at 20:27, 浪人, 本の旅〜本と読書

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