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旅の名言 「季節のうつりかわりに敏感なのは……」

季節のうつりかわりに敏感なのは、植物では草、動物では虫、人間では独り者、旅人、貧乏人である (後略) 。

『草と虫とそして』種田 山頭火 青空文庫 より
Kindle版もあります

漂泊の俳人、種田山頭火が、身近な秋の風物を描いた短いエッセイからの一節です。
ウィキペディア 「種田山頭火」

40代で出家し、何年にもわたる行乞の旅を続けた山頭火ならではの名言で、一人旅のバックパッカーなら、彼の言葉が心に沁みるかもしれません。

もちろん、彼の波乱万丈の人生にくらべれば、現代の貧乏旅行者の旅などずっと気楽なもので、彼がこの言葉に込めた深い思いのすべてを受け止めることはできないのかもしれませんが……。

季節の移り変わりを含め、さまざまな外界の変化に対して貧しい旅人が敏感なのは、彼らが風流人だからというより、厳しい旅の日々を生き抜くために、身の周りのささいな変化も逃さず察知するような鋭い感受性が、いやでも発達せざるを得ないからなのだと思います。

私たちのふだんの生活では、家族や友人、職場の組織や地元のコミュニティといった人間関係のネットワークに加えて、居心地のいい自宅、便利さや快適さを保証するさまざまなモノやサービスが、「変わらない日常」という安心感を支えてくれています。

しかし、旅人は、そうした「セーフティネット」をほとんど持たず、心身をつねに激しい変化にさらしつつ、旅をまっとうしなければなりません。

特に、一人旅の貧乏旅行者ということになれば、わずかな持ち物と所持金だけで、旅先の気候や食べ物や慣習に適応し、仲間の助けがない中で、未知の人々とコミュニケーションを図り、次々に巻き起こるトラブルに対処していかなければならないのです。

さまざまな潜在的リスクに満ちた異郷で、彼らは、自分自身と周囲の状況を注意深く読み取りつつ、つねに適切な判断を重ねていく必要があるし、その判断の結果がどうなろうと、それらをすべて自分の心身で引き受けなければなりません。

そして、そうした経験の積み重ねが、旅人の感覚を、いい意味でも悪い意味でも、どんどん研ぎ澄ましていくのだと思います。

つまり、変化に敏感であるとは、裏を返せば、その人が絶えずさまざまなリスクにさらされ、しかも、多くの場合、それに十分に対処できる手段も持ち合わせていない、ということを意味しているのかもしれません。

そう考えると、昔の人の多くは、生きていく上でのさまざまな苦しみと、それをそのまま受け入れるしかない弱さと引き換えに、千変万化する現実世界の豊かさを、深く感じ取ることができる鋭敏な感受性というものを持ち合わせていたのではないかという気がします。

一方、現代に生きる私たちは、安心・安全(で鈍感)な生活をしっかり確保したうえで、その気になったときだけ、「旅人」になったり「独り者」になったりして、自らの心身を変化やリスクにさらし、そうした行為を通じて、少しずつ敏感になっていく自分というものを楽しむことができます。

それは、昔の人間にくらべれば、気楽で生ぬるい人生なのかもしれませんが、昔も今も、ほとんどの人間が、「昨日と変わらない今日」という、退屈と安心の中でまどろむ自由こそを求めているのだとすれば、私たちは、敏感さを失ったことと引き換えに、昔よりも少しだけ幸せになっているのかもしれません……。


JUGEMテーマ:旅行

at 19:40, 浪人, 旅の名言〜旅人

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地味で贅沢な旅

先日、「日本一有名なニート」のphaさんが、「青春18きっぷ」についての、とても面白いブログ記事を書いていました。

青春18きっぷでだらだら旅をするのが好きだ phaの日記

「青春18きっぷ」は、JRが期間限定で発売している、普通列車1日乗り放題のチケットです。その魅力は、何よりもまず、その安さにありますが、どこでも自由に乗り降りできるという制約のなさは、実は、それ以上のメリットかもしれません。

「18きっぷ」には目的地もルートも設定されていないので、旅の途中で行き先を変えることができるし、気が向いたら好きなところで下車して、食事するなり散歩するなりして、再び列車に乗ることもできます。

phaさんの記事を読んでいると、彼が、そうしたチケットの特性を生かしつつ、ささやかだけど、実はけっこう贅沢な旅を楽しんでいるのが伝わってきます。
 
ぼんやりと風景を眺めながら、イヤフォンで音楽を聴きながら一時間くらい電車に乗って、ちょっと飽きてきたら適当な駅で降りてごはんを食べて、駅の近くの本屋で本を買って電車の中で本を読んで、飽きてきたらまた適当な駅で降りて喫茶店でコーヒーを飲んだりする、というのを延々と繰り返す旅がすごく好きだ。温泉のある町だと駅前に無料の足湯があったりするのでそういうので休憩するのも良い。

特に用もなく今まで降りたことがない駅で降りてみるのも好きだ。駅前の様子を観察して、「この県庁所在地はこれくらい発展しているのか……大きな本屋とかデパートとか一通りあるし住んでも不自由しなさそうだな……」とか、「この駅は複数の路線の乗り換え駅なのに駅前に喫茶店の一つもないのか……次の電車まで一時間半もあるのに厳しい……」とかそういうことを考えるのが楽しい。いろんな町を見てその町でたくさんの人がさまざまな生活をしているんだなというのを想像するのが好きなのだと思う。

もちろん、リッチな旅行者なら、特急のチケットをそのつど買うとか、タクシーに乗りまくるとか、同じような旅をもっと快適に行う方法がいくらでもあるし、逆にもっと安さを追求したいなら、自転車や徒歩で旅をする方法もあります。ただ、すべての人が旅にカネをつぎ込めるわけではないし、カネを使わないハードな旅は、体力気力の面で、旅の難度がかなり上がってしまいます。

そう考えると、「18きっぷ」の場合は、あまりコストをかけずに、日常の生活圏を遠く離れたところまで行けて、しかも気楽に自由な旅が味わえるという点で、とてもバランスがいいのだと思います。

それに加えて、ネットの普及で、旅行情報がいつでもどこでも手に入るようになり、その場の思いつきで、旅のプランを即座に組み立てられるようになったことも、「18きっぷ」の魅力を高めています。
 
そんな風に電車に乗ったり降りたりしながら移動しているとだんだん日が傾いてきて、そろそろ今晩の宿はどうしようかということを考え始める。宿を探すにはある程度大きな町に行く必要がある。安く一泊できるネットカフェやサウナやカプセルホテルはある程度以上の繁華街にしかない。安いビジネスホテルもある程度以上の市街地にしかない。電車の中でスマートフォンを使って地図や路線図やホテル予約アプリを見て、夜を過ごすための大きな町の見当を付ける。無事に宿を確保できるとほっとする。よく知らない街の安っぽい寝床で眠る瞬間が一番「旅だなー」って気分になる。

私もずっと昔、学生だった頃には何度も「18きっぷ」を使いましたが、そのほとんどは、あらかじめ決めた目的地までを格安で移動するためでした。

インターネット以前の時代は、旅の情報といえば本や雑誌で事前に調べておくしかなかったので、目的地やルートを外れ、その場の思いつきで途中下車するのは、全く情報がないまま、見知らぬ場所に放り出されることを意味しました。

昔でも、そういう旅を楽しめる人はいたでしょうが、それは宿もない町で立ち往生したり、余計な出費を強いられたりするリスクと引き換えでした。

所持金も限られ、いざとなったら野宿するくらいの度胸もなかった当時の私は、さすがに、気分次第で行き当たりばったりの旅を楽しむことはできなかったのです。

今では、日本を初めて訪れる外国人でも、その気になれば、ネットを駆使して、phaさんのような旅を自由に楽しめるわけで、いい時代になったものだと思います。

それはともかく、phaさんのような旅のスタイルは、自由気ままにのんびりと旅する、そのプロセス自体に喜びを感じられる人にはベストの方法だと思うのですが、一方で、地味な田舎の駅前をあてもなくブラブラしたり、車窓を眺めながら何時間もボーッとしているのはあまりに退屈で苦痛だ、という人もいるでしょう。あるいは、あらかじめ予定を立てず、その場の状況に合わせて旅を組み立てるなんて、不安でたまらない、という人もいるかもしれません。

それに、日本で暮らしていると、仕事でも私生活でも、目的・効率・成果のようなものをつねに意識せざるを得ないので、休みの日だからといって、そういう思考回路をスパッと切り替えて、旅のプロセスを純粋に楽しむようなわけにはなかなかいきません。

どこかへ旅に出ようと思い立っても、せっかくの機会なのにがっかりしたくない、ということで、オススメの観光地や食べ物を事前に調べておきたくなるし、旅先では、facebook や Twitter に投稿できそうなネタを、必死で探し回ったりする人も多いのではないでしょうか。

その結果、私たちの旅の多くは、有名なツーリスト・スポットを効率的に回り、みんなにウケそうな写真を撮りまくり、ポジティブな思い出の山を築き上げていくような、「生産的」なものになりがちです。

もちろん、どこへ行って何をするか、どんなスタイルの旅をするかは、人それぞれで、何が正しいとか、何が一番楽しいとか、一概に決められるわけではありません。

ただ、phaさんの描いているような、はっきりとした目的地も計画もない旅というのは、そういう「生産的」な旅とは方向性が全く違うので、ある程度人を選ぶというか、誰もが同じように楽しめるわけではないような気がするのです。

それは、子供時代によくやった、学校帰りの「道草」に似ているかもしれません。別に何かあてがあるわけでもなく、その瞬間の心の動きにまかせて、どんどん脇道に迷い込んでいくような旅です。

そういう旅は、とにかく、自分の気分にだけは忠実に従うので、本人の満足感はそれなりに高いと思うのですが、実際にやっていることは非常に地味だし、ほとんどの場合、何か劇的な展開が待っているわけでもないので、人に話せるようなネタには欠けます。それに、たぶん多くの人が、やり始めてすぐに、「何でこんなことやってるんだろう?」とか、「時間をムダにしてるのでは?」とか、さまざまな疑いが心の中で渦巻き、罪悪感にかられて、居ても立ってもいられなくなってしまうのではないでしょうか。

こうした罪悪感や疑いの気持ちにとらわれず、あてのない旅を心から楽しもうとするなら、世間一般の風潮や価値観に対して、ふだんから一定の距離をおいて、マイペースな人生を貫き、ゆるぎのない、独自の感性を養っておく必要があるのかもしれません。

もっとも、そのあたりを徹底しすぎると、その人の人生そのものが、先の見えない、スリリングな旅になってしまいそうですが……。


JUGEMテーマ:旅行

at 19:22, 浪人, 地上の旅〜旅全般

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地球の旗

1か月ほど前に、ネット上で面白い記事を読みました。
WIRED ネットで話題を呼んでいる「地球の旗」の謎

スウェーデンの大学生が、卒業制作の一環として、美しい「地球の旗」をデザインしてみた、という内容で、宇宙飛行士が身につけたり、火星に旗を立てている想像図もあって、近い将来、こういう旗が使われる時代がくるかもしれないという、具体的なイメージをかきたててくれます。

ネットでざっと見てみましたが、これ以前にも、「地球の旗」を個人的にデザインしたり、実際に作ってみたという人は少なくないようです。

また、SF映画やアニメの世界では、「地球連邦軍」とか「地球政府」みたいな組織がよく出てくるので、作品によっては、そうした組織のシンボル・マークが登場するシーンもあるかもしれません。

ただ、いずれの場合も、個人がちょっとした思いつきを形にしたとか、フィクションの世界で設定を作り込んで遊んでみた、といった感じで、今のところ、公的な組織が、「地球の旗」を本気で制定しようという試みはないと思います。

もちろんそれは、これまでその必要が全くなかったからだし、これからも当面は、そうした旗が必要になる機会はないだろうという気がします。

地球人類や地球上の全生命、あるいは惑星としての地球を象徴するための旗が必要になるとしたら、当然、それを見せる相手、つまり、地球上の生命とは別種の、いわゆるエイリアンがいなければなりません。しかし、それだけではなく、彼らが「旗」というシンボルを視覚的に認識できて、なおかつ、その意味を正確に把握してくれる必要もあります。

そのためには、エイリアンとのコミュニケーションを通じて、「旗」だけではなく、互いの平和共存に関して、基本的な理解が成立していなければならないでしょう。

とはいえ、彼らとのファースト・コンタクトが突然すぎて、あまり悠長なことを言ってられない場合もあるだろうし、そうしたコンタクトが現実になる前に、敵対的なエイリアンとの遭遇に備えるという名目で、「地球防衛軍」みたいな組織が、先行して作られるケースもあり得るのかもしれません。

そういう場合には、相手が「旗」というものを理解できるのか、みたいな難しい問題はとりあえず脇において、人類の団結を促すことを目的に、防衛組織のシンボル・マークが設定されたり、あるいは国連旗が、その当面の代用とみなされる可能性もあるでしょう。

ただ、国連にはすべての国が加盟しているわけではないので、その旗が人類を代表できるのかという問題があるし、大陸の形を描いた旗のデザインにしても、それは、人類が地上にしか生きられなかった、20世紀半ばの古い価値観を反映しているように見えてしまうかもしれません。

かといって、「地球の旗」を公式に制定しようということになれば、誰がそれをデザインし、どういう組織がどんなプロセスでそれを決めるのかをめぐって、地上のさまざまな利害関係を反映した、とても泥臭い駆け引きが繰り広げられることになりそうな気がします。

それはともかく、未来の人類が、惑星間・恒星間を移動できるくらいのテクノロジーを持つようになったとして、やはりそのときでも、他の天体に到達するたびに、「地球の旗」を立てて回りたいと思うものなのでしょうか?

もしも、この宇宙に、私たちと同じかそれ以上の知性をもった異星人が全く存在しないのだとしたら、荒涼とした宇宙で、ただ自己満足のためだけに、黙々と旗を立てて回る人類の姿はあまりにも切なく、また虚しく見えてしまうだろうし、逆に、知的なエイリアンがどこかに存在していたら、彼らが私たちの前に姿を現すかどうかはともかく、得意げに旗を立てまくる人類の姿をみて、イラッとするんじゃないかという気がしなくもありません。

彼らが、人類のそうした行為を、「愛すべき愚かさ」だと笑って許してくれればいいのですが……。

もっとも、宇宙に進出し、さまざまな惑星やスペース・コロニーに移住するようになった人類が、エイリアンをイラつかせるくらいの存在になるよりも前に、互いの生活環境や価値観の違いをまとめ切れなくなって分裂し、「地球の旗」を掲げる保守勢力と、別の旗を掲げる新興勢力とのあいだで、激しい戦いが始まる可能性の方が高いのかもしれません……。


記事 「宇宙人を見つけたら?」

at 19:06, 浪人, つれづれの記

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