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旅立ちのちょっと大げさな覚悟の効用

先日、紛争地帯で拘束されていた日本人ジャーナリストが、数年ぶりに無事解放されました。

 

ほとんどの旅人は、紛争地帯に足を踏み入れたりはしないので、そこまで危険な目に遭うことはめったにありませんが、まったくゼロとは言い切れません。戦争中の国でなくても、身代金目的などで、旅人が誘拐されるようなケースはあり得ます。だから、彼の体験談は、他人事には思えないところがありました。
記事 バックパッカーと「自己責任」 (1)

 

そして、旅の危険は、誘拐や拘束だけではありません。自然災害や政治的な騒乱や交通事故に巻き込まれたり、強盗や窃盗、詐欺の被害に遭ったり、病気やケガに苦しんだり、道に迷ったり悪天候で遭難したりする可能性もあります。

 

もちろん、いわゆる先進国を周遊するグループ・ツアーとか、リゾート滞在みたいな旅なら、そういう危険に遭うことはまずないので、旅立ちに際して、いざというときのための覚悟とか、身辺の整理をわざわざするような人はほとんどいないと思います。

 

しかし、開発途上国を長期間放浪するとか、登山やトレッキングで自然の中に分け入っていくとか、現地でけっこう危険なスポーツに挑戦するような場合には、ひょっとしたら、という考えが、チラッと頭をかすめる人もいるでしょう。人によっては、そうしたリスクに備えて、サバイバル・グッズを用意するとか、予防接種を一通り受けておくとか、保険に入るとか、緊急時の連絡手段を確保するなどの、さまざまな準備をしたりするのではないでしょうか。

 

また、そうやってしっかりと旅の準備を重ね、もしもの場合について具体的に想定するうちに、それなりの覚悟がおのずとできていく、という側面もあるかもしれません。

 

私もかつて、初めて長い旅に出る前には、家財道具を整理したうえで、何かあったときには身内がすぐに見つけられるよう、役所や銀行関係の書類とか、連絡先のリストなどを、分かりやすいところにまとめておくくらいのことはした記憶があります。

 

とはいえ、さすがに、遺言めいたものを書くとか、家財道具をきれいさっぱり処分するところまではやりませんでした。実際、それではあまりにも大げさで気恥ずかしいし、ひょっとして旅先で死ぬつもりではないかと、周囲から変な誤解をされるかもしれません。それに何より、帰国後に、再び生活を始めるのが大変になってしまいます。

 

そういえば、旅に出るときは、むしろ逆に、部屋を散らかしたままにする人がいるという話を、昔どこかで読んだことがあります。出発前に身辺をきちんと整理すると、何だかそのまま死んでしまいそうな気がするので、ちゃんと戻ってこられるように、あえて部屋をごちゃごちゃにしておくというのです。

 

たしかに、それはそれで面白い発想だと思いますが、自分もそうしようとは思いませんでした。それに、本当に何かあった場合、それでは関係者が大いに迷惑することになりそうです。

 

ただ、現実に旅がどれくらい危険なのかを、統計データなどもふまえて冷静に考えてみると、あえて治安の悪い地域に立ち入ったり、危険な活動をしたりせず、常識的な判断を働かせて行動していれば、危険度は、日本で普通に暮らしているのと、さほど変わらないのではないかと思います。それに、交通網など旅行関連のインフラ整備や、ネット上にあふれる有益な現地情報によって、旅自体も基本的に、年々便利で安全で快適になっていると言えるのではないでしょうか。
記事 危険なイメージと実際の危険

 

だから、自分が旅のさなかに死ぬかもしれないなどと考えることは、現実のリスクにくらべれば、かなり過剰な反応なのかもしれません。旅が昔よりもずっと気楽なものになっているにもかかわらず、私たちは今でも、無意識のうちに、旅を危険や死と強く結びつけてしまいがちなのではないでしょうか。

 

でもそれは、全く意味のない、バカバカしい反応だとは言い切れないと思います。

 

むしろ、自分の死をちょっとでも想像してみたり、たとえ表面的なレベルでも、それに備えた具体的な行動を始めてみることは、現在の自分の生活や生き方を、少し離れた視点から批判的に振り返る、非常にいいきっかけになるのではないでしょうか。

 

ふだん私たちは、まるで永遠に生きられると約束されているみたいに、今日とほとんど同じ明日が、当たり前のようにやってくることを疑わずに暮らしています。そして、変わらない毎日を迎える自分もまた、いつもと変わらないままでいられると思っています。そんな毎日を退屈だと思うこともないわけではありませんが、何もかもが予定調和で展開する安心感に、限りない心の平和を感じてもいます。

 

その一方で、私たちは、自分がこのまま変わらないで済むために、意識的・無意識的に、さまざまな変化の兆しから目を背け、昨日と同じパターンの日常を、何としてでも守ろうとしています。生活の急激な変化や混乱は、私たちにとって、あってはならない恐ろしいことであり、死は、その最たるものです。

 

私たちは、旅に出るときでさえ、多くの場合、生活に大きな変化を与えることを望んではいません。それは、退屈な毎日にちょっとだけ刺激を与えてくれる、娯楽や気晴らし程度であれば十分で、生活を激変させたり、人生を揺るがしたりすることまでは求めていないのです。

 

それでも、人によっては、あるいは、時と場合によっては、そんな変化のない日常にうんざりし、自分の生活に波紋をもたらすことも承知で、もっと挑戦的な旅を求めることがあるかもしれません。

 

もちろんそれは、本人の中に、期待と不安の激しい感情を引き起こすことでしょう。そして、いいことにせよ、悪いことにせよ、旅先で何か予想もしないことが起こるかもしれないと想像するだけで、これまでの強固な日常の感覚に、ちょっとした亀裂が入ることになります。

 

さらに、実際に旅に出れば、ふだんとは全く違う場所や環境や人間関係に身を置いて、全く違う行動をすることになるし、時間の流れ方もぜんぜん違います。当然、そこでは、頭の中を流れていく思考のパターンも、いつもとはかなり違うものになっているはずです。いつもだったら、平和な日常を破壊してしまいそうな気がして、必死で封じ込めているような思考でさえ、意識の表面に現れてくることが可能になります。

 

自分が死ぬかもしれないという考えも、最初のうちは、大げさで突飛で、抑圧すべき不吉な発想にしか思えないでしょう。しかし、旅という非日常に飛び込んで、思考と行動のパターンがいつもと違ってくる中で、人によっては、恐れや抵抗をそれほど感じることなく、けっこう素直に、死について、そして自分の人生について、あれこれと思いをめぐらすこともできるようになるのではないでしょうか。

 

例えば、もしも自分が今ここで死ぬことになったら、これまでの人生を後悔するだろうか、後悔すると思うなら、どこで何を失敗し、何をやり残しているのか、それを今やらないのはなぜなのか……みたいな素朴でストレートな問いは、人によっては、これまでに自分が作り上げてきた平穏な暮らしをひっくり返してしまうようなインパクトがあるかもしれません。しかし、誰もがいつかは人生の終わりを迎えるのだから、遅かれ早かれ、みんながそうした問いに向き合うしかないのです。

 

それでも、旅を繰り返しているうちに、そういう問いは、別に、日常の平穏を脅かすだけのものではなく、むしろ逆に、よりよい日常をもたらすために、自分が今何をしたらいいのか、スッキリとした見通しを得るきっかけになることや、旅という非日常が、そういうことをゆっくり考えるための、いい機会になっていることも分かってくるでしょう。

 

というか、別に旅にこだわる必要はないのですが、非日常をもたらす何らかの機会をたまには自分に課し、しばらくのあいだ日常から離れて、ふだんとは別の視点から自分の生き方を見直すようにしておかないと、いつもと同じ毎日を過ごす安心感に浸っているうちに、何十年もの時間があっという間に過ぎ、ふと気がついたときには、人生の残り時間があとわずか、ということになってしまうかもしれません。

 

安心安全な生活を求めるあまり、変化や混沌や死を毛嫌いするのではなく、むしろ生活の中に、たとえささやかであっても、そうしたものの居場所を与えることこそ、私たちにとっては大事なことなのではないでしょうか。そして、自分にとって少しだけ挑戦的な旅に出るというのは、非日常を通じて、そういうものを生活の中に取り込んでいくきっかけとなる、とてもいい方法のひとつなのかもしれません。

 


記事 旅の名言「気をつけて、でも……」

 

 

JUGEMテーマ:旅行

at 19:46, 浪人, 地上の旅〜旅全般

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マツタケ食べ放題の時代がやってくる!?

先日、ネット上で、とても興味深い記事を読みました。

 

多木化学という肥料メーカーが、マツタケに味や香りでひけをとらない「バカマツタケ」の完全人工栽培に成功した、というニュースについての、非常に分かりやすい解説です。

 

株価を急騰させたバカマツタケ栽培成功は、常識破りの大発明だ Yahoo!ニュース

 

いま、スーパーで簡単に手に入るブナシメジやエノキタケなどは、朽ちた木に生えるタイプのキノコで、もともと人工栽培がしやすかったのに対して、マツタケ類は生きた植物と共生するタイプで、人工的な栽培は難しいとされていたし、実際、これまでそれに成功した者はいませんでした。

 

ところが、そのメーカーは、不可能に見えたことを可能にしてしまい、それはつまり、バカマツタケだけでなく、マツタケやトリュフなど、生きた植物と共生するタイプの高級キノコの大量生産への道が開けたことを意味するのではないかと、関係者を大いに興奮させているというわけです。

 

おいしいキノコに目がないのは日本人に限った話ではないので、これはたしかに、世界中の人にとって朗報であるのかもしれません。

 

このままうまく開発が進めば、今後何年かのうちに、バカマツタケが安く手に入るようになりそうですが、仮にそうなっても、今度は、バカマツタケという種名がネックになるような気がします。
ウィキペディア 「バカマツタケ」

 

これは別にバカマツタケのせいではなく、ずっと昔にその名前をつけた人間が悪いのですが、この名前だと、食べているうちに頭が悪くなりそうな感じがします。まあ、このあたりはメーカーの人たちも考えているはずで、たぶん、人工栽培されたバカマツタケには、マツタケの高級感はそのままに、「バカ」感を薄めた、もっとチャーミングな新しい商品名が与えられるのではないでしょうか。

 

それにしても、この地球上でなかなか手に入らない貴重なものを、知恵と工夫によって、多くの人の元に届けようとする人間の努力には、いつも感動させられます。もちろん、貴重なものを大量に生み出し、人々の切実な欲求に応えることができれば、それを実現した個人や企業に莫大な富が転がり込んでくるのもまた事実ですが……。

 

一方で、マツタケのような高級キノコに関しては、おいしいから、というだけでなく、現時点で貴重で高価だからこそ、みんな喜んで食べたがるという側面もあるのではないかと思います。近い将来、高級キノコの人工栽培が実現して、マツタケがスーパーで山積みにされ、一袋100円で売られるようになったら、それなりにうれしいとは思いますが、かといって、それを毎日のように食べたいかといえば、けっこう微妙かもしれません。
記事 古酒促成
記事 美しいから欲しいのか、高価だから欲しいのか

 

マツタケは、中国や北欧など、世界のあちこちでも自生していて、日本人が大量に輸入しているのですが、それは裏を返せば、現地の人はそれほど珍重しておらず、自分たちで食べるよりも、誰かに売ってしまう方がずっといい商売になると考えている、ということでもあります。マツタケがおいしいと私たちが思うのは、世界中の誰もが魅了されるような味や香りがあるからというより、日本でずっと受け継がれてきた食文化によるところが大きいのではないでしょうか。
ウィキペディア 「マツタケ」

 

面白いことに、西洋の珍味トリュフも日本に自生していて、実際にネット上には、それを採って食べてみたというレポートもあるのですが、もともと日本には、トリュフをおいしいキノコとしてありがたがる食習慣はなかったようです。近い将来、仮にトリュフの人工栽培が可能になり、食材としてありふれた存在になるとしたら、日本人はそれを喜んで食べるようになるのでしょうか。
国産トリュフを採ってきた デイリーポータルZ
記事 日本列島に眠る「珍味」

 

もしかすると、マツタケにしても、トリュフにしても、大量生産で誰でもいくらでも食べられる状況になり、みんながひととおり手を出してみたところで、実はそれらが万人受けするものではない、少々マニア向けの味であることがはっきりして、結局は、一部の人々だけが熱愛する、ローカルな食材として落ち着くことになるのかもしれません……。

 

 

JUGEMテーマ:ニュース

at 19:28, 浪人, ニュースの旅

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探求と選択と自覚のプロセス

◆ ネット上の情報選択

 

以前にもこのブログで何回か書きましたが、私はネット上での情報収集のために、今でもRSSリーダーを愛用しています。
記事 カレイドスコープ・メディアの時代?
記事 RSSリーダーの「断捨離」
記事 最強のエンターテインメント?

 

ずっと昔、RSSリーダーを使い始めたころは、登録したサイトの数もそれほどではなかったので、ちょっとした散歩でもするような気持ちで、見出しをざっと眺めてみたり、気になった記事を読んでみたりという作業を、行き当たりばったりに繰り返していました。

 

しかし、チェックしたいサイトの数がどんどん増えて、フィードの数も膨大になると、気分にまかせてあちこち寄り道するようなやり方を楽しむ余裕がなくなりました。それではとにかく疲れるし、時間がかかりすぎます。いったん始めたチェック作業がいつ終わるのか目処が立たず、好きなことをしているはずなのに、だんだんイライラしてくるのです。

 

それでも、毎日膨大なフィードを処理しているうちに、おのずと、作業の流れのようなものが確立されていきました。今は、RSSリーダーを立ち上げるのは一日2〜3回ほどに制限し、そのさいにはできるだけ時間をかけず、自分の興味関心にうまく当てはまるものとか、特に理由はないが何となく気になるものを、流れ作業で瞬時に選別する感じで、読む記事と読まない記事とをどんどん振り分けていきます。

 

この時点で、一度読まないと判断された記事を、あとで読むような機会は二度とありません。明日になれば、いや、数時間後には、RSSリーダーに次の新しいフィードが大量に溜まっているので、もはや、過去にさかのぼって記事の再チェックをしているような時間はないのです。だから、一瞬の判断で読まないと決めた記事については、初めから縁がなかったということで、すっぱりと忘れ去るしかありません。そして、読むと決めた記事だけを、後で時間をみつくろって、少しずつ読んでいきます。

 

とはいえ、こういうフィードのチェック作業には、かなりの集中力が必要だし、目も頭もけっこう疲れます。それに、こうした作業に毎日かなりの時間もかかっているので、それらが自動化できたら、かなり楽だろうな、とは思います。実際、ネット上のさまざまなサービスも、そういう方向に向かって開発と進化が進んでいるように見えます。

 

 

 

◆ 探求と選択と自覚のプロセス

 

そして、日常生活において、こうしたチェックや選別のプロセスというのは、至るところに存在します。

 

例えば、テレビのザッピング。私たちは、ひとりでボーっとテレビを見ているときなど、チャンネルを目まぐるしく変えながら、見たい番組を決め、それと同時に、いくつもの裏番組という別の選択肢を捨てていきます。

 

あるいは、私たちは、巨大なショッピングモールやネット通販のサイト上を、特にあてもなくぶらついたりします。そして、ゆっくりと時間をかけ、膨大な商品の山に目を泳がせながら、その中のごくごくわずかな、自分が本当に欲しいと思うものだけを選び出していくわけですが、それは同時に、他の無数の商品を購入する可能性を、バッサリと切り捨てていくことでもあるのです。

 

私たちは日夜、ムダとしか思えないような多大な時間と手間暇をかけて、目の前に広がる数え切れない選択肢に目をやり、それを自分の興味関心や必要性とつき合わせ、その中から、選ぶべきわずかなものだけをすくい上げています。そのプロセスはふつう、ほとんど無意識のうちに行なわれているので、自分の心の中で何が起きているか、きちんと自覚されることはめったにありません。しかし、実際には、そうやって無意識の選別が行われるたびに、自分はどういう人間で、何を欲しているのか、つねに自分自身への問いかけがなされているはずです。

 

そしてそれは、自分の興味や関心という、そのままでは漠然としてとりとめのないものを、見たいテレビ番組とか、欲しい商品を選ぶという行動を通じて、具体的なイメージやモノという、目に見える形に変換していくことでもあります。

 

私たちは、そういう活動を毎日のように繰り返すことで、自分がどんな人間であり、何を求め、どこに向かって進もうとしているのかを確認し、それを分かりやすいイメージとして自覚していくのだと思います。実際、私たちが、自分はどういう人間かと考えるとき、頭の中には、これまで自分が選び、好きになった商品やコンテンツ(の集合体)が浮かんでくることも多いのではないでしょうか。

 

もちろん、この世界全体が常に変化しつつあるように、私たちの興味や関心も、自分自身のイメージも、時間とともに少しずつ変化していくわけですが、日々休むことなく繰り返される、そうした探求と選択のプロセスを通じて、これまでの自己イメージにはなかった、新しい自分の姿がおぼろげに見えてきたりすることもあるでしょう。

 

そうやって、時間とともに移り変わっていく私たちの自己イメージの分かりやすい輪郭を形作り、また、新たな自分の可能性につながっていく、という意味では、一見ムダに費やされているようにしか見えない、そうした探索と選択の時間は、私たちが思っている以上に大事な時間だったりするのかもしれません。

 

 

 

◆ プロセスを効率化したいという欲求

 

ただ、そうした作業は、いつもほとんど無意識のうちになされているし、はっきりとした方向性の見えない、行き当たりばったりのものであることも多いので、本人としては、それを単純にムダなことだと思い、そういう時間を何とかして減らせないかと考えてしまいがちだと思います。膨大なTV番組の中からどれを見るかという選択にしても、ショッピングにしても、自分でじっくりと迷いながら決めていくよりも、何を選んだらいいか、失敗しない最良の選択肢を誰かに示してほしいと思う人は多いのではないでしょうか。

 

また、ネット上の情報収集にしても、RSSリーダーにサイトをいちいち登録したり、それを毎日チェックしたりするよりも、自分のネット上の活動から生まれる膨大な個人データをAIに分析させ、自分が特に何もしなくても、オススメの情報が自動的に提示されるようにしてほしい、その方がずっと楽だし時間も節約できるから、と考える人は多いと思います。

 

ただ、近い将来、そうしたプロセスがどんどん自動化されるようになれば、私たちは、これまでほとんど無意識のうちにおこなってきたさまざまな探求活動に対して、さらに無自覚になってしまうでしょう。そして、無自覚になれば、そういう探求の本当の価値に気づかないまま、それに費やしていた膨大な時間を、単なるムダな作業として簡単に捨て去ってしまうかもしれません。

 

しかし、そうなれば、自分が何者であるかという根本を、つねに問い直し続けるという重要なプロセスを、人間以外の何かにゆだねることになってしまいます。大げさな言い方をすれば、それによって、自分がどんな人間かを自覚するきっかけすら失う人も出てくるかもしれないし、いったんそうなれば、自分が何者かを決めるのは自分ではなくなり、誰かに与えられた「自分の定義」から抜け出せなくなってしまうのではないでしょうか。

 

それは、いつまでも覚めることのできない夢のようなものであり、ある意味では悪夢とさえ言えるのかもしれません。

 

 

 

◆ 「何となく満たされない」という思いが導くもの

 

しかし、テクノロジーの発達によって、膨大な個人データをもとに、アルゴリズムがすべてを先回りして示してくれる世界、言いかえれば、親切すぎる機械に囲まれた息苦しい世界ができあがったとしても、私たちがそこから永遠に抜け出せないということはないでしょう。

 

私たちは、そうしてあてがわれた世界の中でずっと過ごすことになるとしても、そのうちにきっと、何となく面白くない、満たされない、という形で、違和感を感じ始めるはずです。

 

そして、違和感をもった人々の一部は、おせっかいで埋め尽くされた日常の外側にどんな世界が広がっているのか、その未知の世界を見てみたいという衝動に駆られ、実際にそれをせずにはいられなくなるのではないでしょうか。

 

 


◆ すでにあるものを選ぶだけでは限界がある

 

もちろん、ここまでの話は、説明しやすくするためにかなり単純化しています。

 

そもそも、いくら世界中を探索しても、私たちそれぞれにピッタリの選択肢が、何かのコンテンツや商品という形で、どこかに必ず見つかるという保証はありません。誰かがすでに表現した何か、誰かが商品として発売した何かを検索し、それらの中から自分の好きなものを選ぶだけで、自分が何者であるかについてすべてが分かってしまうほど、この世界は簡単ではないと思います。

 

私たち自身について、本当に肝心なところは、そうやって誰かがすでに表現したものを超えて、私たち自身にしか表現できない、あるいは、表現することなどできない、もっとオリジナルで微妙な「何か」としてしか見出せないのかもしれません。そして、そうした、まさに自分だけのために用意されていたような何かをかいま見たときに初めて、人は本当に、それを何とかして表現したいという欲求にかられるのではないかという気がします。

 

もっとも、そのオリジナルな何かを自分なりに形にするのは、たぶん、出来合いの商品を選択するような行為よりも、はるかに困難なプロセスになるのでしょうが……。

 

それでも、たぶん私たちは、「何となく満たされない」という思いに導かれる形で、やがてはそうした表現活動にも踏み込んでいかざるを得なくなるだろうし、近未来の世の中では、そうした活動こそが、人々の興味関心の中心になっていくのかもしれません。

 

 

JUGEMテーマ:日記・一般

 

at 20:02, 浪人, つれづれの記

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