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見えないものを守る

◆ すべての人を熱狂させる「究極の曲」は存在しない

 

音楽ストリーミングサービス Spotify のプレイリストで、昔のヒット曲などをぼんやり聞いていると、とりとめのない思考が浮かんでは消えていきます。

 

例えば、それらの歌がヒットしたということは、当時の何十万、何百万もの人々の心を揺さぶり、夢中にさせたということですが、それってすごいことだし、そういうことが、昔も今も世界中で当たり前のように繰り返されているのは、それ以上にすごいことだな、と改めて思ったりします。

 

もちろん私も、有名な曲のいくつかを何度も飽きずに聴いてきたし、これからもずっと聴き続けることになるのでしょう。

 

でも、その一方で、プレイリストの大半は、意外と退屈だったりします。世界中の人が知っているような、超メジャーな曲なのに、聴いてもほとんど心が動かず、しばらくしたら、聴いたことすら忘れてしまうケースの方が、はるかに多いのではないでしょうか。

 

たくさんの人を感動させた実績のあるパワフルな音楽でも、自分の好みにうまく合わなければ、心がまるっきり反応しない、というのは、別に私だけの話ではないはずです。

 

この世界には、幸か不幸か、100%の人間を確実に熱狂させられるような「究極の曲」は存在しません。

 

 

◆ 感受性の違いが生み出す多様性

 

同じことが、音楽以外のジャンルにも言えます。本だって、映画だって、ゲームだって、ファッションだって、何だってそうなのではないでしょうか。どんな分野のどんな優れた作品や商品であっても、人によって合うものと合わないものがあります。

 

そして、各人が自分に合うものを強く求めていく中で、それに呼応する形で、それぞれの分野ごとに多様なものが生み出され、流通し、そうした活動を支えるために、しっかりとした社会の仕組みも生み出されてきたのでしょう。

 

ただ、そうした人々の好みの違いは、頭で何かを理解すれば、それで簡単に乗り越えていけるような性質のものではありません。

 

それらは、各人の生まれ持った性質とか、身近な人々や社会からの影響とか、これまでの人生経験などによって、長い時間をかけて育まれてきた感受性の違いによるもので、本人のちょっとした思いつきくらいですぐに変更したり、リセットすることはできないでしょう。

 

というか、むしろ、そういう感受性の違いのために、生活のあらゆる場面でみんなの好みや意見がバラバラに分かれていて、簡単には分かり合えないことを毎日のように思い知らされることによって、私たちは、人間社会における多様性というものを、当たり前の事実として受け入れていくのだと思います。

 

 

◆ 心のフィルターが見えなくするもの

 

とはいえ、それはあくまで、人間社会の多様さをとりあえず知っている、というレベルに過ぎません。この世界が多様だと分かっていても、自分とは好みがまったく違う人たちが、この世界をどんなふうに見たり感じたりしているのか、相手の視点に立って深く理解しているわけではないのです。

 

実際のところ、ほとんどの人にとっては、自分に大きな影響を及ぼす重要人物とか親しい人間でもないかぎり、他の人が何を考え、何を好むかなんて、正直な話、どうでもいいことだと思います。

 

例えば、先ほどの Spotify では、数千万もの曲にアクセス可能で、一生かかってもすべてを聴くことなどできませんが、たとえそれだけの選択肢が用意されていても、興味関心のないジャンルとか、心に刺さらない曲というのは、あってもなくても自分には関係がないわけだし、世界中の音楽を片っ端から試してみたいという欲求に駆られる人も、ほとんどいないのではないでしょうか。

 

そもそも私たちは、自分で意識的に音楽を聴いていないときでも、テレビ番組や店内のBGMなどの形で、しょっちゅう何かの曲を耳にしていますが、それらが自分の好みに合わないときは、心の中の感受性のフィルターで無意識のうちに弾いてしまうので、自分が今、音楽に触れていることにすら気づかなかったりします。

 

つまり、自分が興味を持てないものは、それがいくら目の前に存在しても、まったく意識せずに無視してしまうわけで、実質的に、それが存在しないのと同じになってしまうのです。

 

もちろん、そうした心のフィルターは、本当に大切なものだけに意識を集中させ、生存を有利にするために、人類が長年の進化の過程で身につけてきた重要な能力の一つだし、自分の意思で好きなように解除できるものでもありません。

 

しかし、そういう機能が、幼い子供の頃から休みなく働き続けているので、私たちは、心のフィルターなしでこの世界がどのように見えるのかを知らないし、この世界の多様性が生み出している豊かな現実を、そのままの形で味わうこともできないのです。

 

 

◆ この世界の途方もないリアリティを、そのまま把握できる人間はいない

 

つまり、私たち個人個人は、それぞれの興味関心に合わせて、世界のほんの一部だけなら深く味わっているし、そうした個人の体験を全部まとめて、人類全体として見るなら、この世界に存在する膨大なモノや出来事を享受していることになるのでしょうが、それぞれの個人には、残念ながら、そうした全人類レベルの途方もない体験そのものを、ダイレクトに認識したり理解したりする力はありません。

 

むしろ、私たちの感覚は、各々の感受性とか興味関心の傾向によって、かなり偏っているというか、歪んでしまっているとさえ言えます。

 

だから、もしも、自分が個人的に味わっている世界の小さな断片だけでは満足できず、人類全体のレベルで見たこの世界がどうなっているのかを想像してみようとするなら、頼りない理屈の力を総動員して、自分の心に映る世界の歪みを何とか補正しつつ、さまざまな分野の膨大な情報をあちこちからかき集めて、そこにつけ加えていく必要があるでしょうが、それでも、解像度の非常に低い、ぼんやりとしたイメージを思い描く程度のことしかできないでしょう。

 

それに、それではあまりに不完全すぎて、かえってこの世界についての誤解を深めてしまうだけかもしれません。結局のところ、この宇宙の巨大さや複雑さをそのままの形で把握し、味わい尽くすことができる人など誰もいないのです。

 

 

◆ 多様性を生み出す土壌を守る
 
私たちの社会が、多様性というものを口では持てはやしながらも、実際には何となく軽視しがちなのは、そのせいなのかもしれません。

 

むしろ、放っておくと、自分の狭い世界観とか価値観に合うものだけで、世界を強引に塗りつぶしてしまおうとする人物が現れたり、そういう人たちの過激な意見が、けっこう多くの人々の支持を集めたり、実際に行動に移されてしまったりします。

 

しかし、たとえそこまで深刻な状況にはならないとしても、私たちは、社会のあちこちで、多様なモノや考え方がつねに生み出されるような仕組みを守り続けていく必要があるし、そのためにはもちろん、大勢の人々が意識的な努力をし続けなければなりません。

 

私たちそれぞれのとても個人的で偏った嗜好に、なぜかぴったりと合う素晴らしいモノや考え方が、つねに身近なところに存在していて、誰に遠慮することもなく、それらを気軽に楽しむことができるためには、そうしたものを生み出す土壌がしっかりと維持されている必要があるのです。

 

また、社会の多様性を守ろうとすれば、物事を一つの単純な考え方で割り切ってしまうことを不可能にするので、実際にはかなり面倒くさいというか、スッキリしないモヤモヤを、みんなが少しずつ抱えることになります。

 

多様性のある社会とは、いろいろな人が、つねにいろいろなことをやらかす社会でもあるわけで、それがもたらす多少の混乱や手間を、おおらかに許容する文化も守り続けなければならないでしょう。

 

 

◆ 自分らしく生きる試みが、世界に多様性をもたらすのでは?

 

とはいえ、世界のすべてを把握しているような人が誰もいない中で、世界観も価値観もバラバラな人々の間に、それなりのコミュニケーションや共通の認識を成り立たせたり、世の中の仕組みを少しずつ改良していくのは、簡単なことではありません。

 

やはり私たちは、賢くて使命感にあふれた人たちが、素人にはよく分からない、立派な仕事をしてくれるのを期待するしかないのでしょうか?

 

たしかに、そうせざるを得ない面があるのは否定できないし、実際、今の社会の仕組みは、非常に専門的で複雑な問題に対処できる膨大な人々の手によって支えられています。

 

ただ、そういう専門家ではない、ごくふつうの人間にもできることがあるとしたら、それは、自分自身の内面にしっかりと目を向け続けることなのかもしれません。

 

たとえ時間がかかっても、心の底から好きなことを見つけ出し、それを心から味わい、さらには、たとえ一歩ずつでも、自分の望む生き方を実現しようと試みることによって、ささやかながら、世界に多様性をもたらし、それを守り育てる活動に参加していることになるのではないでしょうか。

 

私たちが、他人の目を気にして自分を抑圧しすぎず、何とか世の中と折り合いをつけながら、可能なかぎり自分らしく生きようとすれば、その試行錯誤自体が、おのずとこの世界を豊かにしていくのだと思います。

 

そういう無数の行為が寄り集まって生み出しているこの世界の全体像は、私たちそれぞれの目には見えないかもしれませんが……。

 

 

JUGEMテーマ:日記・一般

at 20:06, 浪人, つれづれの記

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老いの自覚と心身のケア

あえて言うまでもないことではありますが、ふだんの生活でどれだけ気をつけていても、歳を重ねるにつれて、身体のあちこちに不調が出てくるのは防ぎようがなく、誰もが必ず、それなりの対処を迫られることになります。

 

これは、いいとか悪いとかいう問題ではなくて、この世界に存在するものの、避けられない宿命なのでしょう。他の生き物にしても、ずっと元気なままでいられないのは人間と同じだし、機械や道具にしても、必ず経年劣化していき、長く使えば使うほど、ますます頻繁な手入れが必要になります。

 

もちろん、老化による不調は、放っておいても自然によくなることなどなく、むしろどんどん悪化していくので、ネットや図書館で調べて可能な限りのセルフケアをしてみたり、不安なら、早めに医者に相談しておくべきなのでしょう。その先のことを考えるなら、生活習慣とか食生活の大幅な見直しをする必要もあるかもしれません。

 

こうしたことについて、学校や身近な大人たちから、何か役に立ちそうなことを教えてもらった記憶はありませんが、実際には、あえて誰かにアドバイスしてもらうまでもないでしょう。いろいろな不調とか苦痛に追い立てられれば、誰だって、少しでも楽になるために何をすればいいか、必死で調べ、考え、行動するようになるはずなので。

 

若いうちなら、そういうことは、はるか先の話だと思って放置していられるのですが、それなりの歳になれば、やがて、自分の老いを自覚する瞬間が、静かに、そして確実にやってきます。

 

若い時と同じような生活をまだまだ続けていたいのに、それが体力的にも、精神的にも、だんだんしんどくなってきたり、これまでずっと、気がつかないフリをしてごまかしてきた慢性的な身体のトラブルを、もはや無視できなくなって、自分はもう、若くはないんだな……と完全に認めざるを得なくなる、とても切ない瞬間です。

 

自分の老いを悟るだけならともかく、心身の不調がひどく、日常生活に支障をきたすレベルになれば、さすがに誰かに助けを求めざるを得ないし、この先、自分はあとどのくらい普通に暮らしていられるのだろうかと、残された時間の短さなどを、強く意識しないではいられなくなるでしょう。

 

そして、そういう瞬間を、誰もがみな、人生のどこかで体験するのだと思います。老化のスピードは、各人の体質とか、これまでの生活習慣によってかなり差があるだろうから、尻に火がつくタイミングが、人それぞれに違うというだけです。

 

ただ、誰がどんな心身のトラブルに見舞われるかは、そのときになってみないと分かりません。将来を正確に見通した上で、あらかじめ万全の準備をしておくことなどできないので、ほとんどの人は、急なトラブルで切羽詰まってから、泥縄式に対処する形になるのではないでしょうか。

 

それでも、必要に迫られての対応を重ねるうちに、多くの人が、自分の心や体の状態について、これまでよりもずっと注意深くなるはずだし、トラブルを抱えている箇所については、基本的なセルフケアの方法くらいは身につくでしょう。

 

それは、テレビのバラエティ番組や新聞の家庭欄でよく見かける、その場で数分もあればできるような簡単な体操であったり、シンプルな呼吸法であったり、睡眠の質を高めるコツや寝具の調整法だったりと、人それぞれだと思います。身体の痛みやこりを軽減するために、自分でできる整体のやり方などを学ぶ人もいるでしょう。

 

また、中には、もっと本格的に、ジムに通い始めたり、気功やヨガなどを習ったり、あるいは、体系だった理論をもとに、食事の内容や生活パターンを根本的に見直したりする人もいるかもしれません。

 

そうしたさまざまな取り組みの結果、体調が一時的によくなることもあるだろうし、ときには、何かの方法がうまく作用して、驚くほどの効果を発揮し、それまでずっと悩まされてきた心身の不調が劇的に改善され、これまでにない軽快感を覚えるようなことも、あり得ない話ではないでしょう。

 

しかし、どんなにすぐれた処置をしても、老化自体をストップすることはできないので、数年もすれば元の木阿弥になってしまいます。

 

ちょっといい感じになって、一服できたと思ったら、すぐに死神の姿が遠くに見えてくる、という感じでしょうか。

 

でも、たとえ一時しのぎに過ぎないとしても、自分の心身への関心を保ち、できる範囲で対処したり、あまり無理せずいたわるように心がけていくことは、決してムダではないと思います。

 

死神に追い立てられながらではあっても、常に心身に注意を向け、その微妙な感覚の変化に気づけるようになれば、ふだん自分がまったく意識していないところでも、24時間しっかりと働き続け、日々の生活を支えてくれている身体の仕組みの精妙さに改めて驚き、その健気さに感謝する機会も増えるでしょう。

 

そして、とても月並みな表現ではありますが、限りある命の尊さを再認識し、自分の身体を愛おしむ気持ちも湧いてくるのではないでしょうか。

 

もしも、死なない身体なんていうものを持っていたら、きっと、その丈夫さに甘えて、ただひたすら鈍感になり、身体を一方的に酷使するばかりで、そのありがたみに気づくこともないでしょう。私たちは、いつか死ぬ運命にありますが、そのことから目を背けず、きちんと受け入れるからこそ、限られた日々の貴重さを、心から噛みしめることができます。

 

もちろん、命の尊さを再認識しようと、死の運命を受け入れようと、死そのものから逃れられるわけではないので、やがていつかは、死神に追いつかれる瞬間がやってくるわけですが……。

 

 

JUGEMテーマ:日記・一般

at 20:01, 浪人, つれづれの記

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心身に染みついた溜め込みグセ

◆ 「ネット以前」に染みついた思考と行動のパターン

 

今では当たり前すぎて、ほとんど意識する人もいないかもしれませんが、映画にしても、音楽や本にしても、昔のようにDVDとかCDとか紙の本の形で買ったり保存したりする必要はなく、いつでも気が向いたときにネット経由で楽しめるようになっています。

 

しかし、若い人たちはともかく、ずっと昔の、いろいろと不便だった時代に生まれ育った私のような人間は、こうした世の中の大きな変化を頭では分かっているつもりなのですが、長年にわたって染みついた、古い思考と行動のパターンをいまだに引きずっています。

 

例えば、それは、実際に形のあるモノを手にしないと満足できなかったり、何でも必要以上に溜め込みたがる悪いクセとして、今なおひんぱんに顔を出してきます。

 

そしてこれは、私だけの話ではなくて、同世代や、もっと年長の世代の多くの人が、同じような「症状」を抱えているのではないでしょうか。

 

いちおう弁解しておくと、それは、私たち昔の人間が、特別に意地汚く生まれついたということではなくて、物心ついたときから、欲しいモノを手に入れ損ねたり、失ったりするような痛い経験を何度も繰り返す中で、いつの間にか心身に深く刻み込まれてしまった、ほとんど無意識の反応なのだと思います。

 

そして、それはきっと、私たちが、自分にとって本当に大切なモノを取り逃がし、結果的に幸せもつかみ損ねてしまうのではないかという不安を、常に抱いていることの裏返しでもあるのでしょう。

 

思い返せば、インターネット以前の世界では、自分が心から熱中できたり、何度でも味わいたいと思えるような素晴らしいコンテンツにめぐり合うことは、大変な幸運でした。

 

当時でも、とりあえず「一般大衆」向けに大量生産されたコンテンツは豊富にあったし、それで満足することもできなくはなかったのですが、自分の心にもっと深く刺さるものをどこまでも追い求めていこうとするなら、やはりそれでは不十分です。

 

しかし、メジャーでない作品については、その流通も、それらに関する情報も、非常に限られていました。

 

そういう環境の中で、例えば、本好きの人間なら、書店はもちろん、図書館や古書店に足繁く通うなど、それなりの手間暇をかけ、できることは何でもやってみようとしたものです。そして、たまたま運よく、「これだ!」と思うような本に巡り合えたら、たとえ自分の懐がどんなに寂しくても、何とかしてそれを確保しておく必要がありました。

 

「この場はいったん引き揚げてゆっくり考え、どうしても必要なら出直そう」などとのんびり構えていたら、誰かにその本を持っていかれて二度と出合えず、ずっと後悔し続けることになりかねません。

 

若い頃に、そんな体験を重ねてきたせいか、今、自分が絶対に必要だとは思わないようなモノでも、よく考える前に、とにかく手元に溜め込んでおこうとするクセがどうしても抜けないのです。

 


◆ ネット上へ移行する溜め込みグセ

 

そして、そうした思考と行動のパターンは、インターネットが普及し、世の中の仕組みが大きく変わりつつある今でも、基本的には変わっていません。

 

ネットで膨大な情報が手に入るようになって、さすがに、紙の本を溜め込むような習慣は薄れつつあるのかもしれませんが、今度は、ネット上の情報を溜め込もうとしてしまうのです。

 

面白い記事に出合ったら、まずはそれをクラウド・ストレージに保存しようとするし、青空文庫みたいな、いつでも読める無料の電子書籍でさえ、まだ読むと決めたわけでもないのに端末にダウンロードして、手元にデータを確保しておきたくなってしまいます。

 

冒頭に書いたように、現在の私たちは、何かを観たり聴いたり読みたくなったりしたまさにその瞬間に、ネット上のしかるべき場所からデータをダウンロードすればいいわけで、あらかじめそれらを溜め込んでおく必要などありません。

 

お気に入りのブログ記事なども、とりあえずリンクだけ保存しておくか、記事のタイトルや書き手の情報などをどこかにメモしておけば、後からリンクをたどったり検索したりするだけで、すぐにオリジナルの記事にたどり着くことができます。

 

しかし、それを頭では十分に分かっていても、もしかしたらそのコンテンツに再会できなくなるかもしれない、という心配を完全に拭い去ることができず、できれば、自分が管理できる場所にデータを囲い込んでしまおうとするのです。

 

たしかに、電子書籍の場合など、配信サービス業者の撤退などで、これまでに購入した本が読めなくなるようなことは何度か起きているし、ブログやニュース記事なども、書き手や管理者の都合で、ある日突然削除されたり、中身を大幅に書き換えられてしまうことがあります。

 

また、ちょっと大げさな話になりますが、何かのきっかけで、世界全体で大きな揺り戻しが起きて、ネット世界の基本的なルールが大幅に書き換えられてしまったり、情報の価値や扱われ方が短期間で大きく変わって、これまで簡単に手に入ったさまざまなコンテンツが、急に手の届かないものになってしまう可能性も、まったくないとは言い切れません。

 

もっとも、いざそういう事態になったら、世の中に対するインパクトは、もちろん、自分のお気に入りの記事が再び読めるかどうか、などというレベルで収まるはずもなく、それこそ、私たちのプライバシーとか行動の自由をめぐって、はるかに深刻な問題に直面しそうですが……。

 

そして、そういう最悪のパターンをあれこれ想像し、万が一の事態に先回りして保険をかけておこうとするのも、これまた、人間が長い歴史を通じて身につけてきた悲しい習性の一つなのでしょう。

 


◆ 溜め込むことのデメリット

 

それはともかく、実際の日常生活では、そういう妄想的な不安はほとんどすべて杞憂なので、わざわざ手間をかけてデータの確保に走らなくても、まず何の問題も起きないと思います。

 

それに、私の場合、クラウド・ストレージにいろいろなデータを溜め込んではいるものの、後でそれらを見返したり整理したりすることはほとんどありません。むしろ、毎日ネット上に追加されていく新たな情報を追うだけで精一杯だし、囲い込んだデータの山がどんどん膨れ上がっていくのをどうするか、という別の問題も生じてきます。

 

もちろん、知的生産性の高い人の中には、創造的な活動のための下地として、そうしたデータをフル活用できる人もいるのでしょう。

 

しかし、私を含めた大多数の人間にとっては、情報を溜め込むことのメリットよりも、デメリットの方が大きいような気がします。抱え込んだ情報の山が大きくなるのに比例して、何かが豊かになっているという実感はほとんどなく、むしろ逆に、処理しなければならない仕事が増えていくようなウンザリ感がこみ上げてくるのです。

 

もっとも、ネット上のデータの場合は、保管にほとんど費用がかからないので、かける手間暇の問題は別にして、少なくとも金銭面で家計を圧迫することはないし、昔みたいに、本やビデオテープの山が崩れて下敷きになったり、床が抜けたり、つき合いきれなくなった家族に勝手にコレクションを処分されたり、といった悲劇がないだけマシなのかもしれません……。

 


◆ 身についた習慣は変えられない?

 

ただ、自分自身の思考と行動のパターンを観察していると、ひたすらデータを溜め込もうとしがちなのは、もしかすると、大事なデータにアクセスできなくなることへの不安から、というより、単に、これまでの生活の中で慣れ親しんできた、昔からの行動パターンを変えられないだけなのではないか、という気もします。

 

今、世界中がものすごい勢いで変化していて、これまでと同じ思考と行動を続ける意味がどんどんなくなっているにもかかわらず、私を含めた非常に多くの人々が、幼いころに身近な人から教えられたことや、これまでの人生の経験の中で自ら学んだり、身につけてきたことを、今なおしっかり守り続けていたりします。

 

もちろん、私たちは、新しい社会の仕組みに適応するために、そうした習慣の一部だけでも変えていかなければならないのですが、これまでに築き上げた思考と行動のパターンに安住する心地よさを守りたい、という気持ちはあまりにも強いので、私たちの心はつねにその両方の動きに引き裂かれているし、それがもたらす心の混乱が、生活のあらゆる面に顔を出してきて、そのたびに私たちを不安にさせるのでしょう。

 

その混乱から脱け出すためには、古い思考と行動のパターンをサッサと捨ててしまえばいいのでしょうが、さすがに、人間はそれほど便利にはできていません。

 

戦争やその後の混乱期を知る世代が、戦後、どんなに豊かになっても子供時代の飢えや貧しさの経験を忘れられず、どうしても食べ物やモノを溜め込んだり、捨てられなかったりするように、そうした飢えとは無縁な私たちの世代でさえ、ネットの豊かな世界と何年つき合おうと、ずっと昔に身につけてしまった溜め込みグセを手放すことは、死ぬまでできないのかもしれません。

 

無尽蔵な情報の海を、変に囲い込んだりすることなく、自由に利用して、軽快に楽しむことができるのは、やはり、デジタル・ネイティブ世代より先のことになるのでしょうか……。

 

 

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