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地球サファリパーク

ずいぶん前になりますが、ネット上で、未来型の動物園についての記事を見かけました。

見学者が動物たちから見えないようにして、彼らのありのままの生態を観察するというアイデアです。

カラパイア 【人間が透明ポッドに入り擬態しながら動物を観察する。未来型動物園「ズートピア」構想】

今のところ、これはあくまで構想にすぎないようだし、実現までにはさまざまな困難もあるでしょうが、もし完成すれば、ユニークで楽しい動物園になりそうです。

記事を読んで、そうか、動物園もこれからどんどん変わっていくんだなあとぼんやり考えながら、ふと、もしも地球よりはるかに文明の進んだ宇宙人が存在しているなら、彼らはすでに地球にやってきていて、私たちを同じようなやり方で観察しているのかもしれないな、と思いました。

もちろん、現時点では、宇宙人がいるなどという証拠はどこにもありません。

ただ、それはあくまで、私たちが知っているかぎりの観測手段では宇宙人が「見えない」というだけの話で、実際には、私たちが驚いたり恐れおののいたりしないよう、宇宙人があえて身を隠してくれている、という可能性もないわけではないのです。

もしかすると、地球はすでに、宇宙人にとっての「サファリパーク」になっていて、姿を隠した彼らは地球人のありのままの姿を観察し、私たちが犬や猫のおバカな行動をビデオに撮って楽しむみたいに、人間たちが日々繰り広げる愚かで愛すべき行動の数々を覗いては、ひそかに笑い転げているのかもしれません……。

もっとも、こういう話は、SFや映画の世界ではさんざん出尽くしたアイデアだろうし、数年前にも、黒ずくめの男たちが宇宙人の存在を隠すという有名なSFコメディがありました。

いわゆるスピリチュアル業界でも、どこまで真面目に受け止めるべきかは別にして、進んだ宇宙文明が私たち人類の進化を見守っているとか、進化を加速するために密かにちょっかいを出している、みたいな話はあちこちにあるようです。

ところで、ハリウッド映画などのエンターテインメントの世界では、昔から、宇宙人といえば暴力的で残虐で、圧倒的な武力で人類を支配しようとしたり、無慈悲に殺戮するイメージがありますが、考えてみれば、宇宙人に会ったこともない私たちが、彼らの性格を知っているはずもないわけで、こうしたイメージはむしろ、私たち人類が今までに動物たちを暴力的に、残虐に扱ってきたこと、そして今でもそうであるという現実を、宇宙人と地球人の関係に投影しているだけなのかもしれません。

それでも、最近の地球人は、以前に比べれば、動物たちに対して少しずつ優しくなっているようだし、また、自分たちが動物たちにしていることを、冷静に見つめ直そうとする視点も、多くの人に共有されるようになってきている気がします。

宇宙人も、もし宇宙旅行を可能にするほどの優れた文明をもっているなら、自他を客観的に、繊細に観察する能力もあるはずだし、そうであれば、意味もなく他者に苦痛を与えたり、相手の恨みを買うような残酷な行為をしないだけの分別も備えているのではないでしょうか。

彼らが文明人であるなら、こんな小さな星から資源を強奪したり、人間をあからさまに支配するような、荒っぽくて気の滅入る仕事はやりたくないはずです。かりに、どうしても私たちを利用しなければならないとしても、地球人の欲望や行動をうまく誘導することで、私たちが気がつかないうちに、彼らの目的を達成してしまう仕組みを考えるのではないでしょうか。

というか、もし本当に高度な文明を誇る人々がわざわざ地球にやってくるとしたら、それは、資源などのモノへの欲求とか、人類への支配欲からというよりも、地球人のありのままの生態を知ることが、ただ単に楽しいから、面白いからであって、このユニークな星とそこに暮らす生き物たちを、これからもずっと観察し続けられるよう、できるだけ手つかずのままにしておきたいと考えるのではないかという気がします。

でもまあ、こういう考えもまた、私たち人類がそうであってほしいという私の勝手な願望を、宇宙人に投影しているだけなのかもしれません。

それに、いくら害はないといっても、もしかしたら誰かがどこかで自分を観察しているかもしれないと思ったら、あまりいい気持ちはしないでしょう。

もっとも、宇宙人はともかく、最近のニュースによれば、私たちはいろいろな国の情報機関の人間から、それとなく監視されたり、ちょっかいをかけられたりしているみたいですが……。


記事 「カビキラー衝動」


JUGEMテーマ:日記・一般

at 18:45, 浪人, つれづれの記

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ネットは体を酷使する?

ふだんネットの世界に入り浸っている人間は、頭ばかりで、体をぜんぜん使っていないイメージがありますが、最近、それは逆で、むしろ普通の人より体を酷使していると思うようになりました。

私の場合、ディスプレイの見過ぎで目がボロボロだし、ずっと同じ姿勢で座っているので腰や背中が痛みます。それと、クリックのしすぎなのか、まだ軽度ですが、指や腕にも慢性的な違和感を覚えるようになりました。

もちろん、以前から、仕事で端末を一日中使うような人がさまざまな症状に悩まされていることは知っていましたが、若い頃には多少の無理はきいたし、今ほどネット浸けではなかったこともあって、そういう話はあくまで他人事として聞き流していました。

しかし、さすがに歳をとると、体が早々と悲鳴を上げるようになります。今さら気づいたのか、という感じではありますが、端末を使うというのは、人間の身体にとって、かなり不自然な姿勢と動作を要求する行為で、長時間それを続けるのは無理だということが、身にしみて分かったのでした。

端末の使用が体にかなりの負担をかけるのは、その一部を酷使するだけでなく、同時に、他の部分をほとんど動かさず、同じ姿勢で固まっていることも原因だと思います。目や指先が忙しく動き回っているあいだ、それ以外の部分は休んで楽をしているわけではなく、作業の邪魔にならないよう、じっとしたまま、同じ姿勢をひたすら維持することを強いられているのです。

ひと昔前までの私たちは、情報収集といえば、図書館や本屋などに実際に足を運んだり、直接人に会って話を聞くなど、その過程に膨大な時間と手間とカネをかけ、体も使っていました。

そこには、ずいぶんとムダな作業も多かったでしょうが、それが結果的には、体の全体をまんべんなく動かすことにもつながっていたわけで、今のように、目と指先ばかりを動かし、同じ姿勢のまま情報を浴び続ける生活よりは、ずっと健康的だったのかもしれません。

もちろん、インターネットのおかげで、昔よりもはるかに効率的に情報を集められるようになったのは、とても素晴らしいことだと思います。そしてだからこそ、座ったままで世界中の情報が次々に手に入る快感に、私を含めて多くの人が溺れてしまうのでしょう。

しかしその反面、情報を求めてリアル世界を動き回ることで図らずも実現していた、想定外の体験とか、バラエティ豊かな体の動き、つまりはムダの効用みたいなものが、効率化によって失われつつある、ということなのだと思います。

そして、情報端末にかじりつき、体の一部だけを反復して使い続けるような生活は、身体全体のバランスを損ね、ひいては、その人の意識状態や、心身の健康にも歪みをもたらしかねないと思うし、そのことが、ネット世界は不健全だと言われるような状況の一部を生み出しているような気もします。

だとすると、私たちは、効率化によっておおいに節約した時間の、せめて一部だけでも使って、意識的に、失われた身体のバランスを回復するよう努める必要があるのかもしれません。

今のような、目や指先ばかりに負担をかける端末のインターフェイスに代わって、近い将来、例えば、ネットと脳をダイレクトにつなぐような新たなしくみが生み出されれば、肉体にかかる負荷は全体的に軽減されるかもしれませんが、それがむしろ、身体の一部である脳を、これまで以上に酷使することになり、そうした偏りが利用者のアンバランスな精神状態を生み、それがネット世界の偏りとして、もっと先鋭化した形であらわれてくる可能性もあります。

でもまあ、そんな未来の心配をしても仕方がないし、この世界で生きている限り、肉体に全くストレスをかけない情報処理の方法などないのだと思います。いずれにしても、今よりもましなインターフェイスが開発され、普及するまでは、今の方式の端末を使い続けるしかありません。

個人的には、ネットにつながる時間はほどほどに、体全体を動かす時間も意識的に作ることで、できるだけ心身のバランスと健康を保てるよう、せめて注意を怠らないようにしたいと思います。


JUGEMテーマ:インターネット

at 18:58, 浪人, ネットの旅

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恥ずかしい記憶とともに生きる

夜、なかなか寝つけないようなとき、つい余計な考えごとを始めてしまい、そのうち何の脈絡もなく、昔の失敗や恥ずかしい出来事が、記憶の奥底から浮かび上がってくることがあります。

そんなときは、ただ黙ってそれをやり過ごせればいいのでしょうが、なかなかそうはいかず、記憶の細部にどんどん巻き込まれて、あのとき何であんなことをしたんだろうとか、どうしてあんなことを言ったんだろうと、頭のなかのモヤモヤをひたすら巨大化させて、思わず叫び出したくなることも少なくありません。
 
ただ、私の場合は、そうして夜中によみがえる恥ずかしい記憶の多くは、人生の重大事件というほどでもない、ささいな出来事がほとんどです。例えば、はずみで言ってしまった余計な一言とか、後で考えたら相手に失礼だった行為とか、あるいは逆に、タイミングを逸して何もしないまま、結果的に非礼になってしまったこととか……。

まあ、当時はささいな出来事だと思ったからこそ、たいして後悔もせず、スルーしてそのまま忘れていたわけですが、それから何年、何十年と経ち、その間、いろいろな経験をしてきた後で、そうしたエピソードをふと思い出したとき、あのときはどうして平気でいられたのだろうかと、昔の自分の鈍感さが信じられず、かといって今となっては取り返しもつかず、ただただ恥ずかしさを噛みしめることになるのです。

旅の失敗にしても同じで、当時は何も感じなかった旅先での何気ない行動が、のちに、その国の文化や慣習をいろいろ知ってから改めて思い出すと、けっこう冷や汗ものだったりします。

最近、そういう体験が増えたのは、つまりは、歳をとったということなのでしょう。昔読んだ本を、何年もしてから再読すると、若いときには分からなかった微妙な意味が分かったり、深い感動を覚えたりするものだとよく言われますが、それと同じ仕組みなのだと思います。

でも、そうやって過去の自分に恥ずかしさを覚えるのは、別の見方をすれば、今の自分が、若い頃とは違う視点や価値観で物事を見られるようになった、さらに手前勝手なことを言えば、自分が過去を反省できる程度には成長した、ということなのかもしれません。

まあ、今さらいくら悩んだりジタバタしてみても過去は変えられないので、自分はあのときよりはマシになったとでも考えて、強引に納得するしかないわけですが……。

それにしても、私たちの世代や、もっと年長の人たちが、かなり恵まれていたと思うのは、そうした恥ずかしい思い出が、たいていの場合、自分や関係者の記憶の中だけにとどまっているということです。

同窓会などで、そういう「黒歴史」が蒸し返されるのはよくある話ですが、しょせんはその場に集まった内輪での笑い話にすぎません。それにほとんどの記憶は、あえて口に出される機会もないまま、年を経るごとに薄れていき、やがては忘却の彼方へと消えていってくれます。

しかし、ネットの普及によって、過去の発言や行動が、細かなことまですべて記録として残るようになると、話は全然違ってきます。

今、ネット上で自分の醜態をさらされたり、炎上している人たちは、かなり恥ずかしい思いをしているはずですが、より重大な問題は、歳をとると、当人がそれをもっと恥ずかしく感じるようになるということなのです。そして、たとえそうなっても、ネット上に刻まれた記憶は、いつまでも消えてくれないのです。

誰もが、人間的に成長すればするほど、若い頃の失態をより恥ずかしく思い返すだろうし、世間的に偉くなったり有名になれば、ネットに残る過去の言動を、面白半分にほじくり返される機会が増えるでしょう。そして一般人も、程度の差こそあれ、その被害を免れることはできません。

今後しばらくのあいだ、ネット上ではそうやって、痛々しい暴露合戦が繰り返されることになるのだろうと思います。そして、みんながボロボロに傷つき、自分の過去のことで心をすり減らすのにうんざりしたところで、お互いに過去をつつき合うのはやめようという、一種の紳士協定が生まれてくるかもしれません。

他人に一方的に石を投げられるほど立派な人間など、どこにもいないのだし、延々と石をぶつけ合うよりも、何とかして、それをやめる方がずっといいわけですから……。

あるいは、紳士協定など成立せず、みんなでひたすら石を投げ合い、そのうち、心のサバイバルのために、みんなが「鈍感力」を身につけて、どんなに恥ずかしい過去を突きつけられても平気、ということになるかもしれません。もっとも、そんな世界では、繊細な感受性は失われ、みんなが人間的に退化することになりそうですが……。

それとも、過去の自分への攻撃に耐えられなくなったら、そのつど初めからやり直せるように、改名などの手続きが認められやすくなったり、あらかじめ攻撃を想定して、半分匿名の、使い捨て可能な「人格」が、ウェブ上で多用されるようになるかもしれません。

ほかにも、ネット利用者の自主性には任せておけないということで、当局による規制が行われたり、ネット上でサービスを提供する企業が、「安心・安全」なネットをめざして、サービスの自由度を制限していく可能性もあるでしょう。

たぶん、実際には、そうしたいろいろな可能性を足して割ったようなところで、事態は落ち着くことになるのでしょうが、個人的には、たとえば5年とか10年とか、ある程度以上昔のできごとは、もう「時効」ということで、みんなの心の平安のためにも、あえて互いに蒸し返さないことが、近い将来のマナーになってほしいと思います。

もっとも、そうしたマナーや紳士協定がいくら徹底され、他人がそっとしておいてくれたとしても、歳をとった自分が、過去の恥ずかしい記憶に悶絶するのは止められませんが……。


JUGEMテーマ:日記・一般

at 19:09, 浪人, つれづれの記

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