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日常の非日常化と非日常の日常化

これまで、このブログの中で、旅とは非日常を味わう行為だ、みたいなことを何度も書いてきましたが、最近、日本でのごく普通の生活こそ、旅をする以上の非日常になりつつあるのかもしれない、と思うようになりました。

ここ20年ほどの、ネットの世界の爆発的な拡大と、加速するテクノロジーの進化が、この世界に新奇なモノやサービスを次々にもたらし、それらが私たちの日常を急速に変えつつあるからです。

ほんの数年前にはこの世界に全く存在しなかったモノが、気がつけば、それなしでは生活が成り立たないほど重要になっていたり、その一方で、数年前までみんなが当たり前のように使っていたモノが、いつの間にか忘れ去られていたりします。

世界に目を向ければ、ヒト・モノ・カネの流動化はとどまることなく進んでいて、かつての途上国は急速な経済発展をとげ、ビジネスの分野でも、国同士の関係も、すべてが大きく変わりつつあって、それが私たちの生活に大きな影響を与えています。

世界や日本の5年先、10年先がどうなるか、誰もはっきりとしたことは言えなくなり、昔のような、何十年も先を見越した「人生設計」など成り立たなくなってしまいました。

先が見えず、身の周りに未知の物事が増殖している環境で、それなりに平穏な生活を維持しようとすれば、こうした変化から目を背けたり拒んだりするよりも、むしろ、世の中の動きにつねに注意を払い、その変化に遅れないよう、何とかついていくしかありません。

今や、カネと手間と時間をかけてわざわざ異国に行かなくても、未知の状況とリスクに満ちた流動的な世界が、日常世界に押し寄せてきているのではないでしょうか。

それを面白いと感じるか、そうでないかは人によりけりだと思いますが、いずれにしても、私たち全員が、異世界に放り出された旅人のような状況におかれ、ふだんの生活こそが、非日常的な環境下でのサバイバルみたいになりつつあるのかもしれません。

その一方で、旅のあり方も、ここ20年ほどの間に大きく変化していて、それは、苦労や困難の中に非日常を味わうような旅から、むしろ日常生活の延長のような気楽さを求めるものになりつつあるような気がします。

今では、ネット上のさまざまなツールやクチコミ情報をうまく使いこなせば、海外への自由旅行も、かなり安全かつ快適にできるようになってきています。また、多くの旅人が、旅先でもSNSのチェックや更新をしていますが、それは、いつもの行動パターンと人間関係を、そのまま旅先に持ち込んでいるといえます。

それに加えて、旅行先で出会う現地の人々についても、私たちと同じような情報端末やアプリを使い、似たようなコンテンツを楽しんでいるし、世界中の大都市には、おなじみのファストフード店や似たようなショッピング・モールがあって、そこでは彼らも私たちも、同じようなものを食べたり、同じようなものを買ったりしています。もちろん、彼らの話す言葉は私たちとは違うし、それぞれの国や地域にはオリジナルの生活文化があるわけですが、現在世界中に浸透しつつある共通のモノやサービスは、そうした文化や生活の違いからくるお互いの心理的な壁を、急速に崩しつつあるように思います。

旅が便利で快適で安全なものになり、かつ、旅先で会う人々が、自分と似たような暮らしをしたり、同じようなことを考えているのなら、たとえ海外に行っても、日本にいる時とあまり変わらない体験が続くだけで、心から衝撃を受けたり、感動するようなことはなくなりつつあるのかもしれません。

もしも、旅人が本当の意味での非日常を味わいたいのなら、それこそ、ネットとの接続を断ち切った上で、人の住めない山奥や荒野にでも分け入ったり、社会秩序の崩壊した紛争地帯に潜入したりするなどして、この地球を覆い尽くす経済的・社会的なシステムの外側に出て行くしかないだろうし、だとすればそれは、普通の人間にとっては、あまりにもハードルが高いのではないでしょうか。

ただ、これらの状況をどうとらえるかは、人それぞれなのだと思います。

本当の非日常は「システム」の外にしかないと考えて、それを味わうために、あえて危険な場所に足を踏み入れていく人もいれば、非日常なんかよりも、便利で快適で安全な旅を楽しめるなら、それで充分だという人もいるでしょう。あるいは、ふだんの生活自体が非日常化しつつあるなら、わざわざ海外に出る必要なんてない、毎日普通に生きるだけで面白いという人もいるかもしれません。

また、物事に対する感受性も人それぞれです。どんなに気楽で安全な旅行だとしても、そこにさまざまな発見や感動の余地を見出せる人はいるだろうし、逆に、日常生活がどんな変化に見舞われようと、周囲の状況に鈍感であれば、何も感じ取ることはできないでしょう。

それに、かつては非日常だったものが日常になり、かつての日常が非日常になりつつあるのだとしても、それは、歳を重ねた人間が、過去と現在とを比較して、相対的な変化を感じているだけの話です。若い人々にとっては、今ここで生きている現実がすべてであって、日常は日常以外の何物でもなく、旅もまた、充分に非日常であり続けているのかもしれません。

そう考えると、日常だ、非日常だとあれこれ考えて、何か結論らしきものを出したところで、それは各人の感覚や価値観や、置かれている立場の違いによってバラバラだろうし、そこには個人的な意味しかないような気もします。

それでも、ついこうした余計なことを考えてしまうのは、世界の変化の激しさや先が見えないことに、私自身が不安を感じていて、目の前の状況に、自分なりの意味を見出したいからなのでしょう。

もしも、このめまぐるしい変化の中に、不安だけでなく、それ以上に、新鮮さや、未来への期待や、尽きない面白さを感じ取ることができるなら、これから先もずっと続く、日常という長い旅を楽しむことができるのかもしれません。


JUGEMテーマ:旅行

at 18:53, 浪人, 地上の旅〜旅全般

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「裸のおじさん」の危機

先日、気になる記事を目にしました。

沖縄の無人島(外離島)で一人暮らしをしていた「裸のおじさん」が、島を追放されてしまったというのです。

めちゃイケ出演がアダ 無人島の全裸おじさん追放  東スポWeb

おじさん、というより、おじいさんのことは、数年前にテレビで見て初めて知りました。無人島で一人暮らしといっても、実際には近くの町に買い出しに行ったりしていたのですが、それでも自給自足に近い生活を何十年も続けるのは並大抵のことではないし、あえてそういう生き方を選び、実行してしまう意志力がすごいと思いました。

無人島で孤独に暮らす全裸の男 - In Subtropical Solitude  VICE Japan


その後、彼に関する記事をネットで何度か見かけ、彼も有名人になりつつあるのかな、なんて思っていたのですが、冒頭の記事によれば、昨年、人気テレビ番組で取り上げられてから、彼を目当てに現地を訪れる観光客が急増したようで、それを見かねた土地の所有者から退去を求められ、次に移り住んだ西表島の無人の浜からも、国有地ということで立ち退きを迫られているのだそうです。

20年以上にもわたって、確固とした生活を築き上げてきた本人にとってみれば、これは大変な事態だと思います。

今回の「追放」について、何とも言えない気持ちになるのは、無人島に押し寄せた観光客にしても、彼に退去を求めた関係者にしても、たぶん彼に対する悪意があるわけではなく、ただ単に、自分の好奇心やワクワク感に従っただけだったり、あるいは自分の置かれた立場に従って、言わざるを得ないことを言っただけだったりするのだろう、ということです。

みんな、おじさんを追い詰めるつもりはなかったけれど、多くの人のさまざまな行為が積み重なった結果、誰も望まない方向に状況が動き、おじさんは今までのようには暮らせなくなり、大事な居場所を失ってしまったということなのでしょう。

すでに起きてしまったことについて、関係者でもない私が、今さら何を言っても仕方ないのですが、ただ、こうなるのを防ぐ方法は、いくつもあっただろうにと思います。

まず何より、もしもおじさんが、ふだんから海パン一枚でもはいていれば、せめて、誰かが島にやって来たときだけでもそうしていれば、これほど人々の注目を集めることはなく、彼の暮らしが乱されることもなかったでしょう。

あるいは、メディアの取材、少なくともテレビの取材だけでも断っていれば、もっと穏やかな展開になっていたはずです。

おじさんのように、一日中素っ裸で暮らすというのは、今の日本では基本的に許されませんが、無人島で勝手にやっている限りは誰にも迷惑をかけないし、実際、誰の迷惑にもならなかったからこそ、彼は何十年もそれを続けてこられたといえます。

ただ、そうやって誰の制約も受けない暮らしを通じて突き詰められたライフスタイルが、多くの人にとってはあまりにもユニークなものになってしまったことで、結果的にそれは、大いに人目をひくネタとして、マスメディアの格好のターゲットになってしまいました。

しかも、彼はその生き方を隠そうとしなかったし、来る人を拒もうともしませんでした。

彼のライフスタイルが人々の話題になればなるほど、ネットの「炎上」と同様、彼の生き方を批判したり、干渉したりする人が増えていくのは必然だし、いったんそうなってしまえば、それまで彼の存在を黙認してきた地元の関係者も、自分に火の粉がふりかからないよう、タテマエを持ち出して対応せざるを得なくなっていきます。

そう考えると、私がこうやって記事を書くことも、騒動を大きくすることに加担しているだけなのかもしれません。

これから、おじさんがどうなってしまうのか、私には全く分かりませんが、彼のように、この社会から距離を置いて、独自の生き方を貫き通したいと願う人がいるなら、今回の事例を苦い教訓として、世間から余計な注目を集めて生活を翻弄されないよう、できる限りひっそりと隠れ住むしかないのかもしれません……。

ただ、一方で、もしかすると、彼にとっても、これが「潮時」だったのかもしれない、という気もしなくはありません。

おじさんは、何十年も一人暮らしを続けてきて、口ではともかく、内心では寂しさを感じることも多かったのではないでしょうか。だからこそ、観光客の来訪やメディアの取材を、それなりに受け入れてしまったのではないかという気がします。

もう、おじさんが素っ裸で暮らせる場所はないかもしれないけれど、とりあえず服さえ着ていれば、彼は波乱万丈の人生をくぐり抜けてきた「名物おじいさん」として社会に受け入れられ、培ってきたサバイバル能力を生かして、どこかで十分幸せな余生を送れるのではないでしょうか。


JUGEMテーマ:ニュース

at 18:45, 浪人, ニュースの旅

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旅人たちの夢のあと

先日、ネットで、ちょっと面白い記事を読みました。

かつて、日本人バックパッカーでにぎわっていた中国雲南省の大理の街で、彼らが残していった古本の山が、今どうなっているかを訪ねて回るという内容です。

かつて日本人がいた“本塚”めぐり  デイリーポータルZ

ただ、上の記事を面白いと感じる人は、かなり限られるかもしれません。たぶん、「前世紀」の1980年代や90年代に、海外を長く旅したことのある人でないと、ピンとこないのではないでしょうか。

その当時の大理は、多くの日本人バックパッカーが流れ着き、人によっては何か月も腰を落ち着けてしまうほど居心地のいい「沈没地」として、かなり有名な存在でした。私も、自分が旅に出る前から、「伝説の地」としてその噂を耳にしていたし、実際に雲南省各地をまわったときには、大理で長旅の疲れを癒しました。気候も食べ物も申し分なく、のんびりとして開放的な街の雰囲気にホッとしたのを覚えています。

その大理も、現在は観光客のほとんどが中国人となり、日本の旅人はほとんど姿を消してしまったそうで、当時、大勢の日本人が入り浸っていたツーリスト・カフェには、日本語の本の山が、ほこりをかぶってそのまま残されています。

今や、旅行者はスマホを一台持ってさえいれば、日本語の本をいつでもどこでもダウンロードできます。昔のように、長旅で活字に飢えるなんてことはなくなり、日本人行きつけの古本屋やカフェで、日本語の本を血眼で物色する必要もなくなりました。上の記事を書いたライスマウンテンさんのように、特別な動機でもなければ、ボロボロになった昔の本の山に目をくれるような旅人は、もはや一人もいないのかもしれません。

考えてみれば、ここ20年ほどのテクノロジーの進化は、旅人と本との関係に限らず、旅人の行動パターンをすさまじい勢いで変え続けてきました。

20年ほど前までは、長期旅行者の連絡手段といえば、高額な国際電話と局留めの郵便しかありませんでしたが、90年代後半に Hotmail などの無料メールサービスが登場、ネットカフェが旅人の新しいライフラインとなり、お互いに移動中の旅人同士がほぼリアルタイムで連絡を取り合うという、以前にはあり得なかったことまで可能になりました。しかし、それから10年もしないうちに、スマホの普及によって、ネットカフェは急速に廃れていきます。
記事 ネットカフェの黄昏と旅の未来

また、十数年前までは、写真はフィルム式カメラで撮るのが普通でした。旅人はつねにフィルムの山を持ち運ばなければならなかったし、撮り終えたフィルムをどこで現像するか、また、現像後にたまっていくネガやプリントを、どうやって安全に日本に送るかも大きな問題でした。もちろん、貧乏旅行者にとっては、フィルム代・現像代・郵便料金の負担もバカになりません。それが、いつの間にかデジカメが主流になり、と思う間もなく、今ではスマホで気軽に撮影し、即座にネットに画像をアップするのが当たり前になりつつあります。

旅の情報にしても、かつてはガイドブックと旅先での「情報ノート」、そして旅人同士のクチコミが頼りだったし、それは、英語を苦手とする日本人旅行者が「日本人宿」に集まる理由の一つでもありました。しかし、これもネット上のクチコミサイトや地図アプリ・翻訳アプリなどを活用することで、それ以上の情報を手に入れることが可能になり、少なくとも情報を手に入れるために、旅先で日本人同士が集まる必然性はなくなりました。

もちろん、それは、決して悪いことではありません。新しいテクノロジーのおかげで、旅はずっと安全・快適になっているわけだし、私も昔のような、不便で余計な出費がかさむような旅を、今さらしたいとは思いません。

ただ、その一方で、大理の「本塚」のように、旅人の流れや行動パターンが変わったことで、かつてのコミュニティがすっかりさびれ、まるで抜け殻のようになった姿には、バックパッカーの夢のあと、というか、世の無常をひしひしと感じさせられます。

そしてそれは、かつての自分たちには当たり前だった物事が、今の若い世代にとってはもはや意味不明な歴史的遺物に過ぎないことに気づかされ、自分が旧世代の人間だという事実を、改めて思い知らされる、ということでもあります。

あと10年、20年もすれば、20世紀のバックパッカーの旅なんて、きっと、古老が語る摩訶不思議な昔話になっているのでしょう……。
 

JUGEMテーマ:旅行

at 18:51, 浪人, 地上の旅〜中国

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