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暗闇からの生還

タイ北部の洞窟の奥に閉じ込められていた少年ら13人が、先日、無事救出されました。
ウィキペディア  「タムルアン洞窟の遭難事故」
 

救出活動の最中に、一人のダイバーが亡くなるという不幸な出来事がありましたが、それでも、最後には少年たちが全員そろって助け出されたことで、事態を見守っていた世界中の人々が安堵したのではないでしょうか。

 

この遭難事故は、大勢の子供たちが一度に行方不明になったということで、事件の発端から衝撃的だっただけでなく、救出の過程で少しずつ明らかになった事実も、そして、大詰めの大掛かりで緻密な救出作戦も、とても興味深いものでした。

 

同じサッカーチームの少年たちと若いコーチが洞窟に入った理由は、ある少年の誕生日を祝うためだった、とされていますが、そのイベントを誰が思いついて、誰が主導したのか、ニュース記事によって情報がバラバラなので、はっきりとしたことは分かりません。

 

ただ、地元の子供たちにとっては、洞窟の奥まで行って帰ってくるというのは、日本の若者が肝だめしに夜の廃墟を探検するみたいな、おなじみの冒険行為だったのでしょう。コーチや少年たちも、これまでに何度か同じことをしていたようで、今回、まさか自分たちが閉じ込められるとは夢にも思っていなかっただろうし、当然、食料や装備もきちんと用意してはいませんでした。それが、思いがけない増水によって出口を塞がれ、洞窟の奥から動けなくなってしまったわけですが、もしも少年だけのグループだったら、パニックになり、無茶な行動をとったりして、最悪の結果になっていたかもしれません。

 

しかし、一緒にいたコーチは、少年時代に両親を失い、お寺に預けられて長い間お坊さんをしていた人物で、そのときに覚えた瞑想の仕方を子供たちに教えることで、全員がずっと冷静さを保ち続けることができたようです。これは実にタイらしい展開といえるし、人それぞれの人生経験が、どこでどんな形で役に立つか分からないということを、深く印象づける話にもなっています。
タイ洞窟のサッカー少年たち、心身を支える瞑想で耐えた9日間 ニューズウィーク日本版

 

洞窟の外では、ポンプを並べてひたすら水を抜く一方で、遭難事故を知った優秀なケイブ・ダイバーたちが世界各地から結集し、危険な捜索活動を重ねてついに少年たちを発見します。しかし、子供たちの無事は確認できても、彼らを安全に洞窟から救出するのは非常に困難でした。

 

当初は、雨季が終わって水が引くまで数か月間ひたすら待つ、という案も選択肢のひとつだったようです。一人のダイバーの事故死もあって、専門家たちも、泳げない少年を含む完全な素人に洞窟潜水をさせるのはさすがにリスクが大きいと考えたのではないでしょうか。また、洞窟の上から穴を掘るとか、未知の出口を探すとか、その他のいろいろな可能性も試したようですが、いずれも有力な選択肢となるまでには至りませんでした。

 

結局、雨によるさらなる増水の恐れや、洞窟内の酸素濃度の低下、そして少年たちの体調などを考えて、残された時間は限られているという判断になり、13人にダイビングをさせるという、リスクの高い方法をとることになったようです。

 

しかし、目の前の状況について、もっとも正確な情報を把握していた専門家たちがそう判断したということは、その時点で実行可能な選択肢の中では、それが最も安全で確実な方法だったということなのでしょう。だとすれば、少年たちは相当危険な状況に置かれていたということです。ダイビングによる救出作戦がどれほど複雑で神経を使うものだったのか、その詳細なプロセスまではまだ明かされていないようですが、結果的に13人全員が無事に救出されたわけで、何はともあれ、私たちはそのことを素直に喜んでいいのかもしれません。

 

2010年に、チリの鉱山の落盤事故から33人が生還したときにも思ったのですが、こういう事故が起きるたびに、この地球上で、私たち人間がどれだけちっぽけな存在か、圧倒的な自然のパワーの前に、自分たちがいかに無力かを痛感させられます。
ウィキペディア 「コピアポ鉱山落盤事故」
記事 地中からの生還

 

それでも、世界中から優秀な専門家が集まり、人間の力で可能な方法を必死で考え、大きなリスクにもひるむことなく、みんなで力を合わせて活路を切り開いていこうとする姿に、そして、その一方で、誰かがきっとそうしてくれると信じて、暗闇の中で希望を失わずいつまでも待ち続ける姿に、私たち人類の美しさとけなげさが、純粋な形で映し出されているような気がするのです。

 

ただ、それと同時に、恐ろしい暗闇の世界に長いあいだ閉じ込められ、お互いに助け合いながら苦しみに耐え抜いた13人が、明るい太陽の下でこの世界を再び目にしたいと、親しい人たちと再会したいと、どれだけ強く思っていたのか、その切実さを想像すると、いまの自分が、この世界でのかけがえのない時間を中途半端な気持ちで過ごしてしまっていることに、何ともいえない居心地の悪さを感じないではいられません。

 

もちろん、そういう反省を強く迫ってくる機会は、今回の遭難事件にかぎらないのですが……。

 

 

JUGEMテーマ:ニュース

at 19:19, 浪人, ニュースの旅

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過去に惹かれる心

先日、ネットで興味深い記事を見かけました。人は30代になると新しい音楽を聴かなくなってしまう、という内容です。

 

新しい音楽を楽しめるのは30歳まで? ニューズウィーク日本版

以前にも、人は、自分が中学生だった頃の曲をいちばん多く聴いている、という話を読んだことがあります。これらはたぶん、同じようなことを、別の切り口から言っているのでしょう。
記事 「懐メロ」の効用

 

歳をとると、自分にとって新しい世界を開拓したいという意欲が衰えていき、つい、おなじみの懐かしい世界にしがみついてしまいがちになるのは、音楽に限った話ではありません。

 

仕事でも、恋愛でも、旅でも、何でもそうですが、若いころは誰でも、とにかく「自分の世界」をどんどん広げていきたいと思うもので、つねに新しい体験、新しい人間関係、新しいモノへと目が向いています。それに、若いうちは、何をやっても、人生で初めて経験することの割合が多いので、何もかもが新鮮に感じられます。

 

しかし、歳をとり、さまざまな経験を重ねていくうちに、目の前で起きる出来事が、過去の繰り返しみたいに感じられることが多くなり、過去のベストを塗り替えるような感動的な体験も、出合うのが次第に難しくなっていきます。

 

言い換えれば、何をしても、だんだんワクワクしなくなってしまうのです。

 

そしてふと、過去を振り返ってみたときに、これまでの記憶で生み出された「自分の思い出の世界」が、すでにかなりの大きさになっていて、その中でいくらでも遊んでいられることに気がつきます。昔の体験を頭の中で再生し、喜怒哀楽のさまざまな感情を呼び起こしていると、まるで、自分を主人公にしたメロドラマでも見ているような気分になれるのです。

 

新しく刺激的な体験を求める努力に関しては、年齢とともに、だんだん分が悪くなっていき、なかなか満足感を味わえなくなる一方で、過去の記憶の世界に浸るのは、簡単だし、それなりの楽しさも得られる、実に効率のいいエンターテインメントだということが分かってきます。

 

たしかに、記憶の世界では、新しいことが全く起きないのが最大の欠点だし、どんなに素晴らしい思い出であっても、頭の中で何度も繰り返していれば、いいかげんに飽きてきます。それでも、日々周囲で起きている、退屈でストレスの多い日常にくらべれば、たとえそれが色褪せていようと、過去の輝かしい思い出にすがっている方がまだマシだと思える人も、けっこういるのかもしれません。

 

それに、新しいことを始めようとすれば、それが何であれ、ふだんの生活パターンが乱されるのは確実です。初心者としていろいろなことを覚えたり、試行錯誤をするために、最初のうちはまとまった時間を必要とするし、その後も、日常生活の中で、一定の時間を確保しなければなりません。

 

しかし、それなりの年齢になっていると、朝起きてから夜寝るまで、自分の活動時間をどんなことに割り当てるかは、すでにかなり固定化してしまっています。そしてそれらの活動は、これまでの人生経験を通じて選び抜かれ、定着してきたもので、本人にとっても深い愛着のあるものです。

 

新しいことをするためには、そうした生活パターンを見直し、ときには大幅なリストラをして、新たに自由な時間を捻出しなければならないのですが、それは、これまでずっと続けてきた何かをあきらめなければならないことを意味します。当然、心の中では激しい葛藤が生まれるでしょう。

 

今ちょっと興味を覚えていて、これからやってみようと思ってはいるが、本当に面白いかどうかはまだよく分からないことと、すでに勝手がよく分かっていて愛着もある活動とを比較すれば、後者をどうしても捨てがたいと思うのは仕方のないことだし、多くの人は、そういう葛藤を乗り越え、愛着のある何かをなげうってまで、未知の何かを始めることに対して、だんだん気乗りがしなくなっていくのではないでしょうか。

 

考えてみれば、ネット上で無料の音楽をいくらでも試せる今の時代、自分にとって新しい音楽を探すなんてことは、本人にやる気がありさえすれば、ほんの数分の空き時間で十分にできることです。それなのに、まだまだ気力も体力も申し分ないはずの30代前半でさえ、すでに、そういう習慣を失ってしまっているのです。

 

いったん出来上がってしまった日常生活のパターンの中では、わずか数分であっても、ふだんと異なる行動を始めるのはかなり難しいことだし、実際には、いつもと違うことをしようと思いつくこと自体が困難なのかもしれません。

 

さらに言えば、過去の自分の思い出を反芻し、それをエンターテインメントとして楽しむ行為には、危険やリスクもほとんどありません。

 

歳を重ねる中で、それなりの社会的地位や人間関係を手に入れ、つまり、失うものが多くなった人にとっては、新しいことを始めるとなると、その手間や時間だけでなく、それがどんなリスクをもたらすことになるか、大いに気になってしまうのではないでしょうか。その点、すでに起きてしまった過去には、予想外のアクシデントに巻き込まれる心配は一切なく、安心・安全が約束されています。人生の残り時間が見え始めてきたような人なら、最後の最後で崖から落ちるような体験などしたくないはずで、勝手知ったる安楽な過去に心を惹かれてしまうのは仕方がないことなのかもしれません。

 

そんなわけで、私たちは、歳をとるごとに、新しいことをなかなか始められなくなり、放っておけば、そういうことをするのがさらに億劫で不安になっていくのだと思います。

 

でも、人間とは、そういうものなのかもしれません。そして、基本的にはそれでいいのではないか、という気もします。

 

私もきっと、このままいけば、どんどん新しいことに挑戦しなくなり、ますます過去の世界に惹かれていくのでしょう。でも、人間の自然な傾向に抵抗して、無理やり新しいことをやろうとしてもムダだと思います。自分の気持ちに反することをやってみたところで苦痛なだけだし、いずれ、気力も体力も続かなくなるだけなのではないでしょうか。

 

とはいえ、安心・安全で気楽な生活を望むあまり、思い出ばかりに浸って暮らすというのも、行き過ぎれば退屈で、閉塞感を覚えるようになりそうです。放っておくと、加齢とともに自分の世界はどんどん狭くなってしまいがちなのだとしても、せめて、外の世界への小さな窓くらいは塞がずに残しておきたいという気がします。

 

その点、ネットの世界には、さまざまな可能性があります。

 

ネット上にあふれるさまざまなコンテンツを、もっぱら、過去の思い出の世界にどっぷりと浸るために利用することもできるでしょうが、その逆に、自分にとって全く新しい世界に、気軽に少しずつ足を踏み入れるために使うこともできます。

 

実際、その恩恵を利用して、歳をとってから、自分のペースで、無理せず少しずつ、新しいことに挑戦する人もけっこういるのではないでしょうか。私たちにとって、新しいことを始めることが、年齢とともにどれだけ難しくなるかを十分に承知した上で、ネット上のさまざまなツールを活用し、心身への負担を極力減らしつつ、5年先、10年先を見すえて、新しい生活習慣を、あせらずコツコツと築き上げていくのです。

 

例えば、新しい音楽に、これからもずっと出合い続けていたいのであれば、自分のその熱意がいつまでも失われないように漠然と願うだけではなく、現実的で無理のない行動パターンとして、それを日常生活の中に組み込んでおく必要があります。週に一回、あるいは月に一回、Spotify などの音楽ストリーミング配信サービスで、自分の嗜好に基づいたおすすめの曲を試してみる時間をスケジュールの中に組み込んでしまい、定期的に同じ行動を繰り返すなどの工夫をすれば、それは新しい習慣として、生活の中に根づいていくかもしれません。

 

もちろん、そうした行動が、長い目で見て本当に自分にとって大切な習慣になりそうかどうか、あらかじめよく吟味してみる必要はあると思います。心の若さを保とうと躍起になって、新しいことにやみくもに手を出したりしても、それは苦行になるだけだし、長続きもしないでしょう。しかし、ネットの気安さをうまく利用して、自分の中の抵抗感をうまく取り除きつつ、日常生活の中に、新しい習慣を少しずつ忍び込ませる工夫をしていけば、過去ばかりを向いて、どんどん閉じてしまいがちな自分の世界に、ちょっとした隙間を作り出すことくらいはできるのかもしれません。

 

私も、過去に惹かれる心にささやかに抵抗しつつ、そういう小さな窓を通じて、この世界の「いま」を感じ続けていられれば、と思います。

 

 

JUGEMテーマ:日記・一般

at 19:27, 浪人, つれづれの記

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心の中の官僚制度

これは別に、今に始まったことではないのですが、マスメディアの報道からネット上の匿名コメントに至るまで、いわゆる「お役所」の人たちや、その仕事ぶりが批判されているのをよく目にします。

 

そうした批判には、ロジカルで説得力のあるものもあれば、自分の怒りを誰かにぶつけたいだけ、みたいなのもありますが、お役所や公務員が多くの人々の不満のターゲットになること自体には、それなりの理由はあると思います。

 

例えば、「お役所仕事」という言葉があるように、実態はともかく、公的機関の仕事ぶりに、効率の悪さや無責任さ、目的意識やサービス精神の欠如などを感じる、という人は多いでしょう。

 

また、私たちの社会では、民主主義や国民主権というタテマエが掲げられてはいるものの、主権者であるはずの私たちは、いつも重要な決定から締め出されており、実際には、高級官僚とか、彼らを取り巻く政界・財界の利害関係者など、ごく少数の人間だけが重要事項を判断・決定して、彼ら自身の利益のために世の中を動かしている、と思っている人もいるのではないでしょうか。

 

それが本当なのか、単なる陰謀論に過ぎないのか、実際のところは私にも分かりません。

 

ただ、その真実はともかく、お役所の仕事ぶりや、そこで働く人々に対して、私たちがつい非難がましい気持ちになってしまうのには、ほかにももう一つ、大きな理由があるのではないかという気がします。

 

もしかすると、私たちは、自分の心の中に存在する、自分では認めたくないさまざまな欠点を彼らに「投影」し、本来なら自分自身に向けるべき批判の矛先を、自分以外の誰かに向けているだけなのかもしれません。
ウィキペディア 「投影」

 

私たちは、他人の発言や行動を観察して、その欠点を見つけるのは簡単にできますが、自分自身がやっていることについてはかなり無自覚だったりします。私たちの誰もが、いつも無意識のうちに繰り返してしまう、ネガティブな思考と行動のパターンを持っているものですが、それらに自分ではっきりと気づくのは難しいし、それらを修正するのはさらに困難なことです。

 

私たちの頭の中では、朝から晩まであらゆる種類の思考が駆け巡っているわけですが、それらはどこからともなく湧いてきて、深く吟味されることもないまま、私たち自身の思考としてそのまま受け止められ、その結果、私たちの日常的な発言や行動につながっていきます。しかし、そうした思考が、つねにポジティブで柔軟で、創造的だという人は、ほとんどいないのではないでしょうか。

 

実際には、本当はやりたくもないことを、これまでずっとそうしてきたからとか、ルールで決まっているからという理由でやらなきゃいけないと考えたり、逆に、本当はやりたいことなのに、世間体が悪いとか、今の「自分らしさ」に反しているという理由であきらめたりと、さまざまな思考がマイナスに働いて、自分自身の発言や行動を束縛している人が、かなり多いのではないかと思います。私たちは、せっかくいいアイデアを思いついても、それを素直に実行できるわけではなく、やるべきか、やめておくべきか、あーだこーだと考えた末に結局やめてしまったり、余計なことをいろいろ考えすぎて、何が何だか分からなくなり、やりたいと思ってもいないことを行動に移してしまったりするのです。

 

つまり、私たちの日常的な思考と行動のパターンの中にも、まるで官僚制度みたいに複雑で重たい仕組みができあがってしまっていて、それが、私たち一人ひとりが自由に生きることを阻害しているのではないでしょうか。

 

そして、そういうネガティブな仕組みについて、自分ではっきり自覚することも、変えていくこともできず、頭の中の思考に流されるまま、楽しくない生活を続けている自分に対して、私たちは常にイライラしており、そのモヤモヤとした怒りを、外の世界の、同じように複雑で重たい仕組みである官僚制度に、ついぶつけたくなってしまうのではないでしょうか。

 

しかし、自分自身の心の中の問題を、外部の何かに投影して、そこに怒りをぶつけてみたところで、問題はいっこうに解決しません。そして、そうやって憂さ晴らしを続けている間にも、朝から晩まで私たちの頭の中を駆け巡り、ああしろこうしろと余計な介入ばかりしてくる自動思考によって、私たちの生きるエネルギーはどんどん奪い取られているのではないでしょうか。外のリアルな世界において、誰の得にもならないような、ややこしい制度やら煩雑な手続きやらを維持するために、多くの税金が消えていくみたいに。

 

もちろん、そういうややこしい仕組みは、完全にムダで無意味というわけではなくて、それらが今までずっと残り続けてきたのには、それなりの理由があるのも確かです。例えば、実際の官僚制度には、これまでの長い歴史の中で、先人たちが苦労して見出した有用なルールや慣例を積み重ねていくことで、不要な争いや間違いが起きるのを防ぎ、さまざまな立場や価値観をもつ人々の利害をそれなりにうまくまとめてきたという側面があります。

 

同様に、私たち一人ひとりの心の中でも、ときに矛盾するさまざまな欲求がつねにせめぎ合っているわけで、もつれ合う欲求の間で何とか折り合いをつけ、さらには社会的な失態を防ぎ、トラブルに巻き込まれる危険を避けるためにも、考えるべきポイントはどんどん増えていくことになります。その結果、思考のパターンが複雑化し、結果的に、生き生きとした生命力に欠けてしまいがちになるのは、仕方ない面があるのかもしれません。

 

それでも、これまでの人生の中で蓄えてきた知識や経験が、未整理のまま頭の中にゴチャゴチャと居座っている状態だと、自分にとっていちばん大切なことは何か、自分は本当は何がしたいのか、みたいな大事なことが、見えにくくなりがちだし、頭の中を飛び交う余計な思考に邪魔されて、判断も鈍りがちになってしまいます。

 

そうした心の中の混乱を、ある日突然、何もかも解決してくれるような秘策はありません。リアル世界で、ゴミ屋敷や汚部屋を、専門の業者がてきぱきと片づけてくれるようなわけにはいかないのです。それでも、自分の思考と行動のパターンにもっと自覚的になり、気がついたところから、できる範囲で少しずつ整理してみるだけでも、私たちの心はそれなりに身軽になり、これまで失われがちだったエネルギーを、多少なりとも回復することができるのではないでしょうか。

   

自分以外の誰かに怒りをぶつけてみたり、外の世界を自分の思い通りに変えようとして強引に動くよりも、まずはそうやって、心の中の官僚制度の改革に着手してみることのほうがずっと効果がありそうだし、それがうまくいけば、世の中が変わっても変わらなくても、自分自身の問題にコツコツと地道に向き合いながら、少しずつ確実に、心に余裕が持てるようになっていくのではないかと思います。

 

そして、そうやって、自分のやるべきことに集中していくならば、この世界にありがちな、「お役所仕事」的なものごとに遭遇しても、必要以上にイライラしたりすることはなくなるのかもしれません。

 

 

JUGEMテーマ:日記・一般

at 19:11, 浪人, つれづれの記

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