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過去に惹かれる心

先日、ネットで興味深い記事を見かけました。人は30代になると新しい音楽を聴かなくなってしまう、という内容です。

 

新しい音楽を楽しめるのは30歳まで? ニューズウィーク日本版

以前にも、人は、自分が中学生だった頃の曲をいちばん多く聴いている、という話を読んだことがあります。これらはたぶん、同じようなことを、別の切り口から言っているのでしょう。
記事 「懐メロ」の効用

 

歳をとると、自分にとって新しい世界を開拓したいという意欲が衰えていき、つい、おなじみの懐かしい世界にしがみついてしまいがちになるのは、音楽に限った話ではありません。

 

仕事でも、恋愛でも、旅でも、何でもそうですが、若いころは誰でも、とにかく「自分の世界」をどんどん広げていきたいと思うもので、つねに新しい体験、新しい人間関係、新しいモノへと目が向いています。それに、若いうちは、何をやっても、人生で初めて経験することの割合が多いので、何もかもが新鮮に感じられます。

 

しかし、歳をとり、さまざまな経験を重ねていくうちに、目の前で起きる出来事が、過去の繰り返しみたいに感じられることが多くなり、過去のベストを塗り替えるような感動的な体験も、出合うのが次第に難しくなっていきます。

 

言い換えれば、何をしても、だんだんワクワクしなくなってしまうのです。

 

そしてふと、過去を振り返ってみたときに、これまでの記憶で生み出された「自分の思い出の世界」が、すでにかなりの大きさになっていて、その中でいくらでも遊んでいられることに気がつきます。昔の体験を頭の中で再生し、喜怒哀楽のさまざまな感情を呼び起こしていると、まるで、自分を主人公にしたメロドラマでも見ているような気分になれるのです。

 

新しく刺激的な体験を求める努力に関しては、年齢とともに、だんだん分が悪くなっていき、なかなか満足感を味わえなくなる一方で、過去の記憶の世界に浸るのは、簡単だし、それなりの楽しさも得られる、実に効率のいいエンターテインメントだということが分かってきます。

 

たしかに、記憶の世界では、新しいことが全く起きないのが最大の欠点だし、どんなに素晴らしい思い出であっても、頭の中で何度も繰り返していれば、いいかげんに飽きてきます。それでも、日々周囲で起きている、退屈でストレスの多い日常にくらべれば、たとえそれが色褪せていようと、過去の輝かしい思い出にすがっている方がまだマシだと思える人も、けっこういるのかもしれません。

 

それに、新しいことを始めようとすれば、それが何であれ、ふだんの生活パターンが乱されるのは確実です。初心者としていろいろなことを覚えたり、試行錯誤をするために、最初のうちはまとまった時間を必要とするし、その後も、日常生活の中で、一定の時間を確保しなければなりません。

 

しかし、それなりの年齢になっていると、朝起きてから夜寝るまで、自分の活動時間をどんなことに割り当てるかは、すでにかなり固定化してしまっています。そしてそれらの活動は、これまでの人生経験を通じて選び抜かれ、定着してきたもので、本人にとっても深い愛着のあるものです。

 

新しいことをするためには、そうした生活パターンを見直し、ときには大幅なリストラをして、新たに自由な時間を捻出しなければならないのですが、それは、これまでずっと続けてきた何かをあきらめなければならないことを意味します。当然、心の中では激しい葛藤が生まれるでしょう。

 

今ちょっと興味を覚えていて、これからやってみようと思ってはいるが、本当に面白いかどうかはまだよく分からないことと、すでに勝手がよく分かっていて愛着もある活動とを比較すれば、後者をどうしても捨てがたいと思うのは仕方のないことだし、多くの人は、そういう葛藤を乗り越え、愛着のある何かをなげうってまで、未知の何かを始めることに対して、だんだん気乗りがしなくなっていくのではないでしょうか。

 

考えてみれば、ネット上で無料の音楽をいくらでも試せる今の時代、自分にとって新しい音楽を探すなんてことは、本人にやる気がありさえすれば、ほんの数分の空き時間で十分にできることです。それなのに、まだまだ気力も体力も申し分ないはずの30代前半でさえ、すでに、そういう習慣を失ってしまっているのです。

 

いったん出来上がってしまった日常生活のパターンの中では、わずか数分であっても、ふだんと異なる行動を始めるのはかなり難しいことだし、実際には、いつもと違うことをしようと思いつくこと自体が困難なのかもしれません。

 

さらに言えば、過去の自分の思い出を反芻し、それをエンターテインメントとして楽しむ行為には、危険やリスクもほとんどありません。

 

歳を重ねる中で、それなりの社会的地位や人間関係を手に入れ、つまり、失うものが多くなった人にとっては、新しいことを始めるとなると、その手間や時間だけでなく、それがどんなリスクをもたらすことになるか、大いに気になってしまうのではないでしょうか。その点、すでに起きてしまった過去には、予想外のアクシデントに巻き込まれる心配は一切なく、安心・安全が約束されています。人生の残り時間が見え始めてきたような人なら、最後の最後で崖から落ちるような体験などしたくないはずで、勝手知ったる安楽な過去に心を惹かれてしまうのは仕方がないことなのかもしれません。

 

そんなわけで、私たちは、歳をとるごとに、新しいことをなかなか始められなくなり、放っておけば、そういうことをするのがさらに億劫で不安になっていくのだと思います。

 

でも、人間とは、そういうものなのかもしれません。そして、基本的にはそれでいいのではないか、という気もします。

 

私もきっと、このままいけば、どんどん新しいことに挑戦しなくなり、ますます過去の世界に惹かれていくのでしょう。でも、人間の自然な傾向に抵抗して、無理やり新しいことをやろうとしてもムダだと思います。自分の気持ちに反することをやってみたところで苦痛なだけだし、いずれ、気力も体力も続かなくなるだけなのではないでしょうか。

 

とはいえ、安心・安全で気楽な生活を望むあまり、思い出ばかりに浸って暮らすというのも、行き過ぎれば退屈で、閉塞感を覚えるようになりそうです。放っておくと、加齢とともに自分の世界はどんどん狭くなってしまいがちなのだとしても、せめて、外の世界への小さな窓くらいは塞がずに残しておきたいという気がします。

 

その点、ネットの世界には、さまざまな可能性があります。

 

ネット上にあふれるさまざまなコンテンツを、もっぱら、過去の思い出の世界にどっぷりと浸るために利用することもできるでしょうが、その逆に、自分にとって全く新しい世界に、気軽に少しずつ足を踏み入れるために使うこともできます。

 

実際、その恩恵を利用して、歳をとってから、自分のペースで、無理せず少しずつ、新しいことに挑戦する人もけっこういるのではないでしょうか。私たちにとって、新しいことを始めることが、年齢とともにどれだけ難しくなるかを十分に承知した上で、ネット上のさまざまなツールを活用し、心身への負担を極力減らしつつ、5年先、10年先を見すえて、新しい生活習慣を、あせらずコツコツと築き上げていくのです。

 

例えば、新しい音楽に、これからもずっと出合い続けていたいのであれば、自分のその熱意がいつまでも失われないように漠然と願うだけではなく、現実的で無理のない行動パターンとして、それを日常生活の中に組み込んでおく必要があります。週に一回、あるいは月に一回、Spotify などの音楽ストリーミング配信サービスで、自分の嗜好に基づいたおすすめの曲を試してみる時間をスケジュールの中に組み込んでしまい、定期的に同じ行動を繰り返すなどの工夫をすれば、それは新しい習慣として、生活の中に根づいていくかもしれません。

 

もちろん、そうした行動が、長い目で見て本当に自分にとって大切な習慣になりそうかどうか、あらかじめよく吟味してみる必要はあると思います。心の若さを保とうと躍起になって、新しいことにやみくもに手を出したりしても、それは苦行になるだけだし、長続きもしないでしょう。しかし、ネットの気安さをうまく利用して、自分の中の抵抗感をうまく取り除きつつ、日常生活の中に、新しい習慣を少しずつ忍び込ませる工夫をしていけば、過去ばかりを向いて、どんどん閉じてしまいがちな自分の世界に、ちょっとした隙間を作り出すことくらいはできるのかもしれません。

 

私も、過去に惹かれる心にささやかに抵抗しつつ、そういう小さな窓を通じて、この世界の「いま」を感じ続けていられれば、と思います。

 

 

JUGEMテーマ:日記・一般

at 19:27, 浪人, つれづれの記

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心の中の官僚制度

これは別に、今に始まったことではないのですが、マスメディアの報道からネット上の匿名コメントに至るまで、いわゆる「お役所」の人たちや、その仕事ぶりが批判されているのをよく目にします。

 

そうした批判には、ロジカルで説得力のあるものもあれば、自分の怒りを誰かにぶつけたいだけ、みたいなのもありますが、お役所や公務員が多くの人々の不満のターゲットになること自体には、それなりの理由はあると思います。

 

例えば、「お役所仕事」という言葉があるように、実態はともかく、公的機関の仕事ぶりに、効率の悪さや無責任さ、目的意識やサービス精神の欠如などを感じる、という人は多いでしょう。

 

また、私たちの社会では、民主主義や国民主権というタテマエが掲げられてはいるものの、主権者であるはずの私たちは、いつも重要な決定から締め出されており、実際には、高級官僚とか、彼らを取り巻く政界・財界の利害関係者など、ごく少数の人間だけが重要事項を判断・決定して、彼ら自身の利益のために世の中を動かしている、と思っている人もいるのではないでしょうか。

 

それが本当なのか、単なる陰謀論に過ぎないのか、実際のところは私にも分かりません。

 

ただ、その真実はともかく、お役所の仕事ぶりや、そこで働く人々に対して、私たちがつい非難がましい気持ちになってしまうのには、ほかにももう一つ、大きな理由があるのではないかという気がします。

 

もしかすると、私たちは、自分の心の中に存在する、自分では認めたくないさまざまな欠点を彼らに「投影」し、本来なら自分自身に向けるべき批判の矛先を、自分以外の誰かに向けているだけなのかもしれません。
ウィキペディア 「投影」

 

私たちは、他人の発言や行動を観察して、その欠点を見つけるのは簡単にできますが、自分自身がやっていることについてはかなり無自覚だったりします。私たちの誰もが、いつも無意識のうちに繰り返してしまう、ネガティブな思考と行動のパターンを持っているものですが、それらに自分ではっきりと気づくのは難しいし、それらを修正するのはさらに困難なことです。

 

私たちの頭の中では、朝から晩まであらゆる種類の思考が駆け巡っているわけですが、それらはどこからともなく湧いてきて、深く吟味されることもないまま、私たち自身の思考としてそのまま受け止められ、その結果、私たちの日常的な発言や行動につながっていきます。しかし、そうした思考が、つねにポジティブで柔軟で、創造的だという人は、ほとんどいないのではないでしょうか。

 

実際には、本当はやりたくもないことを、これまでずっとそうしてきたからとか、ルールで決まっているからという理由でやらなきゃいけないと考えたり、逆に、本当はやりたいことなのに、世間体が悪いとか、今の「自分らしさ」に反しているという理由であきらめたりと、さまざまな思考がマイナスに働いて、自分自身の発言や行動を束縛している人が、かなり多いのではないかと思います。私たちは、せっかくいいアイデアを思いついても、それを素直に実行できるわけではなく、やるべきか、やめておくべきか、あーだこーだと考えた末に結局やめてしまったり、余計なことをいろいろ考えすぎて、何が何だか分からなくなり、やりたいと思ってもいないことを行動に移してしまったりするのです。

 

つまり、私たちの日常的な思考と行動のパターンの中にも、まるで官僚制度みたいに複雑で重たい仕組みができあがってしまっていて、それが、私たち一人ひとりが自由に生きることを阻害しているのではないでしょうか。

 

そして、そういうネガティブな仕組みについて、自分ではっきり自覚することも、変えていくこともできず、頭の中の思考に流されるまま、楽しくない生活を続けている自分に対して、私たちは常にイライラしており、そのモヤモヤとした怒りを、外の世界の、同じように複雑で重たい仕組みである官僚制度に、ついぶつけたくなってしまうのではないでしょうか。

 

しかし、自分自身の心の中の問題を、外部の何かに投影して、そこに怒りをぶつけてみたところで、問題はいっこうに解決しません。そして、そうやって憂さ晴らしを続けている間にも、朝から晩まで私たちの頭の中を駆け巡り、ああしろこうしろと余計な介入ばかりしてくる自動思考によって、私たちの生きるエネルギーはどんどん奪い取られているのではないでしょうか。外のリアルな世界において、誰の得にもならないような、ややこしい制度やら煩雑な手続きやらを維持するために、多くの税金が消えていくみたいに。

 

もちろん、そういうややこしい仕組みは、完全にムダで無意味というわけではなくて、それらが今までずっと残り続けてきたのには、それなりの理由があるのも確かです。例えば、実際の官僚制度には、これまでの長い歴史の中で、先人たちが苦労して見出した有用なルールや慣例を積み重ねていくことで、不要な争いや間違いが起きるのを防ぎ、さまざまな立場や価値観をもつ人々の利害をそれなりにうまくまとめてきたという側面があります。

 

同様に、私たち一人ひとりの心の中でも、ときに矛盾するさまざまな欲求がつねにせめぎ合っているわけで、もつれ合う欲求の間で何とか折り合いをつけ、さらには社会的な失態を防ぎ、トラブルに巻き込まれる危険を避けるためにも、考えるべきポイントはどんどん増えていくことになります。その結果、思考のパターンが複雑化し、結果的に、生き生きとした生命力に欠けてしまいがちになるのは、仕方ない面があるのかもしれません。

 

それでも、これまでの人生の中で蓄えてきた知識や経験が、未整理のまま頭の中にゴチャゴチャと居座っている状態だと、自分にとっていちばん大切なことは何か、自分は本当は何がしたいのか、みたいな大事なことが、見えにくくなりがちだし、頭の中を飛び交う余計な思考に邪魔されて、判断も鈍りがちになってしまいます。

 

そうした心の中の混乱を、ある日突然、何もかも解決してくれるような秘策はありません。リアル世界で、ゴミ屋敷や汚部屋を、専門の業者がてきぱきと片づけてくれるようなわけにはいかないのです。それでも、自分の思考と行動のパターンにもっと自覚的になり、気がついたところから、できる範囲で少しずつ整理してみるだけでも、私たちの心はそれなりに身軽になり、これまで失われがちだったエネルギーを、多少なりとも回復することができるのではないでしょうか。

   

自分以外の誰かに怒りをぶつけてみたり、外の世界を自分の思い通りに変えようとして強引に動くよりも、まずはそうやって、心の中の官僚制度の改革に着手してみることのほうがずっと効果がありそうだし、それがうまくいけば、世の中が変わっても変わらなくても、自分自身の問題にコツコツと地道に向き合いながら、少しずつ確実に、心に余裕が持てるようになっていくのではないかと思います。

 

そして、そうやって、自分のやるべきことに集中していくならば、この世界にありがちな、「お役所仕事」的なものごとに遭遇しても、必要以上にイライラしたりすることはなくなるのかもしれません。

 

 

JUGEMテーマ:日記・一般

at 19:11, 浪人, つれづれの記

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「懐メロ」の効用

先日、ネットで面白い記事を読みました。

 

音楽ストリーミング配信サービス Spotify の利用者のデータを調べてみたら、どの年齢層も、自分たちが中学生の頃の曲をもっとも好む傾向がみられたという内容です。

 

大人になってからの音楽の好みは14歳の時に聴いた音楽で形成されている FNMNL

 

似たような話は、以前にも何度か目にしたことがありますが、膨大なデータの裏づけをもって示されると、かなりの説得力があります。

 

ただ、調査の元になったデータについては、別の解釈の余地もあるように思います。

 

上の記事では、ある曲の再生数が多ければ、その曲はユーザーに好まれていると解釈していますが、もしかすると、再生数自体は、私たちの行動パターンを客観的に示すものではあっても、音楽の好みそのものを正確に反映しているとは限らないかもしれません。

 

私たちのほとんどは、中学生時代に好きだった曲を延々と聞き続けているわけではなく、ふだんはみな、それぞれの趣味嗜好に応じて、新しい曲や古い曲をいろいろ取り混ぜて聴いているはずですが、それらの好みはバラバラなので、どれもまとまった再生数にはならず、統計的に見た場合に、目立った傾向として表れないのかもしれません。

 

その一方で、私たちは時々ふと、ずっと昔のなつかしい曲も聴きたくなるわけですが、そんなときは、アーティストや曲名ですぐに検索して曲にたどりつけるくらい、誰もが知っている有名な曲に再生が偏りがちになっているのではないかとも考えられます。中学生の頃は、まだそれほど音楽の興味が細分化されておらず、みんな同じような曲を聴いていただろうし、テレビやラジオ、あるいは街中で耳にする機会の多かったヒット曲なら、かなりしっかりと記憶に残っているはずで、ずっと後になっても、そういう曲のことは思い出しやすいのではないでしょうか。

 

Spotify は、もうレコードやカセットテープを手放したり失くしてしまったりしたような、何十年も前の曲を、いつでも気軽に聴くことができるので、そういう曲を、ふと思い出してササッと検索し、とりあえず聴いてみた、というパターンがけっこうあって、それが再生数のデータに表れてはいるが、みんな、それらの曲をなつかしいとは感じていても、大好きな曲だとまでは思っていない可能性もあると思います。

 

そして、中学時代の曲が最も多く再生されているのは、そのころの曲が好きだからというよりは、私たちがなつかしい気持ちに浸りたいと思ったときに、大学時代や高校時代よりも、中学生のころを思い浮かべ、そこに戻ろうとする傾向が強い、ということを示しているのではないかという気がします。

 

当時のヒット曲は、そうやって昔の思い出に浸るためのスイッチ、ちょっとした時間旅行の入り口として利用されているのかもしれません。

 

まあ、このあたりは、あくまでも私個人の妄想的な仮説に過ぎませんが……。

 

それはともかく、最近、Spotify で自分にとっての「懐メロ」を聴いていて気がついたのですが、昔なつかしい曲を耳にしているときに湧いてくる感情は、過去の感情の記憶がよみがえっているわけではありません。それは、音楽をきっかけに、今まさに心の中に湧き起こっている、生き生きとした心の動きです。そして、ずっと昔にその曲を聴いていたときにも、ほとんど同じような感情が、心の中に沸き上がっていたのだと思います。

記事 Spotifyと「懐メロ」

記事 記憶の発掘

 

私たちは、自分の置かれた状況とか、人間関係とか、時代の流れとか、そういうものが大きく変わっているのだから、過去と現在の自分は全く違うと思い込んでいますが、実際はそうではなく、もしも過去と同じような状況が再現されるなら、私たちの心は、今もなお、過去とほとんど同じように反応するのではないでしょうか。

 

私たちは、年齢とともにさまざまな経験を重ねている分、けっこうずる賢くなっており、自分が傷つかないように、心に鎧をまとい、うまく立ち回ったりしていますが、それは表面的な部分の話で、心の底で何を感じるかという点に関しては、歳をいくら重ねても、本質的なあり方はほとんど変わっていないのかもしれません。

 

もちろん、過去に起きたことも、過去の自分がしたことも、もはややり直すことはできませんが、過去の自分が感じていたのとほとんど同じ感情は、いつでも呼び出せるし、その中にいくらでも浸ることができるのです。

 

多くの人は、そのことに何となく気づいていて、いつの間にか見失ってしまった自分の心を取り戻したいと感じた時には、ほとんど無意識のうちに、昔の曲を聴いたりしようとするのかもしれません。なつかしい曲を耳にし、当時の雰囲気を思い出すことで、歳を重ねるごとに分厚くなっていた心の鎧から解き放たれ、たとえひとときであっても、昔のナイーブで傷つきやすく、でも今よりももっとみずみずしく、生き生きとしていた自分の心に触れようとするのではないでしょうか。

 

そして、そんなときに私たちが目指すのは、なぜか中学時代の自分というわけです。

 

中学時代は、大人の社会の仕組みやルールを理解し、身につけ、親やまわりの人々に頼らずに、いろいろなことを自分で判断し、自由に動けるようになりつつある一方で、大人の社会のしがらみにも少しずつ取り込まれ、子供のように無邪気なままではいられなくなることへの恐怖も感じている、複雑な時期でもあります。もしかすると、大人でも子供でもない、その境界の微妙な時期だからこそ、まるで脱皮や羽化の最中の生き物のように、柔らかくて繊細で不安定な心が露わになり、どんなに鈍感な人でも、自分でそれに気がつくことができるのかもしれません。

 

そうした記憶が心の底にしっかりと残っているので、生き生きとした自分の心にもう一度触れたいと思った人は、とりあえず中学時代の自分に戻ろうとするのではないでしょうか。

 

しかし、私たちは傷つくことを恐れているので、その頃のように、ずっと無防備な心のままでいるわけにはいきません。懐メロをきっかけに、しばらくのあいだ、自分自身の柔らかな心に触れたら、それを再び、心の鎧の奥にしまい込んでしまうのですが、それでも、自分の心がまだ死んでいないことを確認してホッとするのです。

 

私たちは、歳をとると、自分が昔よりもちゃんとした人間になったと思い込みたくなるものですが、懐メロは、むしろ、私たちが本質的な部分では何も変わっていないことを教えてくれます。そしていつでも、柔らかくて素朴な心を取り戻すきっかけを与えてくれます。

 

懐メロだけでなく、昔の映像とか、大事に保管してきたなつかしい品物など、時間をさかのぼり、過去の自分を思い出させてくれるアイテムは、そうした作業のために欠かせない道具なのではないでしょうか。

 

ただし、中学時代の日記などをいまだに処分していなかった場合、それらをうっかり読んでしまうと、昔の心を取り戻すどころか、忘れていた心の傷が強烈にうずきだしたり、恥ずかしさに身悶えすることになりかねないので、くれぐれもご注意ください……。

 

 

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at 19:08, 浪人, つれづれの記

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