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CDの寿命

ずっと昔に買った音楽用のCD(コンパクトディスク)が、いつの間にか劣化して聴けなくなっていた、みたいな話を、最近、ネット上でポツポツと見かけるようになりました。

 

データが記録されているアルミニウムの薄膜層に空気が触れると、酸化して読み取りができなくなってしまうのだそうで、CDを乱暴に扱って傷つけたり、保存環境が悪かったりした場合はもちろんですが、製造時の品質に問題があって、想定よりもずっと早く劣化が進んでしまうこともあるようです。
CDやDVDの寿命は意外に短い? WIRED

 

最初のCDプレーヤーとソフトが1982年に発売されてから、そろそろ40年になろうとしていますが、1980年代に製造された古いCDの一部が、そうしたさまざまな理由によって寿命を迎えつつある、ということなのでしょう。
ウィキペディア 「コンパクトディスク」
 

私も、かなり昔になりますが、仕事でストレスを抱えていた反動か、CDをやたらに買いまくっていた時期があり、その後、あまり音楽を聴かなくなってからは、それらを押し入れの奥にしまい込んでいました。

 

ずっと昔のカセットテープやビデオテープは、劣悪な環境に放置している間にすっかり傷んでダメになってしまいましたが、CDの方は、特にチェックしたこともありませんでした。ブックレットや歌詞カードはともかく、本体はプラスチック製なのだから、放っておいても大丈夫だと思い込んでいて、いつか気が向いたときにでも、昔の音楽を聴きつつゆっくりと整理しよう……などと考えていたのです。

 

ネット上の情報が正しいなら、そんな日がやってくるずっと前に、ため込んだCDがダメになってしまうかもしれません。さすがに、すぐに全滅してしまうようなことはないでしょうが、劣化が今後、どのくらいの割合で発生するか分からないのは不安です。しかも、ネット上には、CDの外見では劣化に気がつかないことがある、という恐ろしい情報もあり、だとすれば、自分がまだ気がついていないだけで、今この瞬間にも、すでに聴けないCDが出始めている可能性があります。

 

まあ、現在は、手持ちのCDを活用しているとはとても言えない状態なので、かりに多くのCDがダメになっていたところで、ひどい精神的ダメージを負うようなことはないのかもしれません。それでも、自分が生きている間くらいなら余裕で持つだろうと信じて安心しきっていたものが、実は全然そうではなかったと後から分かるのはかなりのショックだし、当時、劣化の件について詳しく知っていたなら、こんなにCDを買い集めることもなかっただろうと思います。

 

しかし、今の時点であれこれ考えてみても仕方のないことです。私がCDを買いあさっていたのは、ネット上の検索一つでいろいろなことが簡単に分かるようになるずっと前のことで、当時の私たちの多くは、実質的に、メーカーの宣伝文句を鵜呑みにするしかありませんでした。

 

それに、この件に関して、かなりショックを受けつつも、それなりに冷静でいられるのは、今では、好きな音楽を聴くための方法が、CD以外にもいろいろあるからなのかもしれません。

 

何よりも、ネット上には定額で音楽聴き放題(または一定時間まで無料)のサービスがあって、「大人の事情」で参加していない一部のアーティストの楽曲を除けば、古今東西の膨大な曲をそこで聴くことができます。もちろん、私がかつて購入したCDの多くも、そうしたサービスでカバーできるので、かりに手持ちのCDが寿命を迎えても、それらの曲を永遠に聴けなくなってしまうことはないでしょう。

 

だから、CDの劣化問題に対する現実的な対応としては、とりあえず、ネット上で聴くことのできない一部のCDだけは、早めに他の記録媒体にバックアップをとっておく、という程度で十分なのかもしれません。

 

現在では、無料でかなり大容量のデータをクラウド保存できるサービスもあるので、この機会に、自分なりに使い勝手の良いサービスを見つけられれば、いざというときの保険になるだけでなく、押し入れの奥からいちいちCDを引っ張り出さなくても、自分の音楽ライブラリーを、ずっと気楽に楽しめるようになるでしょう。

 

実際、そう考えて、とりあえず実験的にデータをアップロードしていて思ったのですが、もしかすると、こうやって個人がどこかに楽曲のデータをため込んでおく必要性自体が、すでに薄れつつあるのかもしれません。

 

ネットにつながることさえできれば、世界中の膨大な楽曲を、非常に低コストでいくらでも楽しめる状況がほぼ実現してしまっている今、私たちにとって重要なのは、楽曲のデータ自体よりも、お気に入りの曲を集めたプレイリストの方です。楽曲のタイトルやアーティスト名のリストさえどこかに保存しておけば、ネット上で、いつでも好きな時にそれらを楽しめるのですから。

 

もしかすると、CDの登場から40年近くを経て、最初期のCDが物理的に劣化し始めるタイミングで、CDという媒体そのものも、そろそろ寿命を迎えつつあるのかもしれません。今後、10年、20年と経過する中で、昭和生まれのCD世代が長年にわたって保管してきたCDが、あちこちで再生不能になっていくのと同時に、CDという媒体に深い思い入れのある人々も、少しずつこの世界から退いていくことになるのでしょう。

 

というか、もしも50年先、100年先までCDを劣化させずに保存できたとして、そのとき、それを再生するCDプレーヤーはこの世に存在しているのでしょうか……。

 

でも、考えてみれば、ネット上の音楽聴き放題サービスにしても、この先、何十年も存続できるかどうかは分かりません。

 

近い将来、人工知能がユーザーの心身の状態をリアルタイムで把握して、本人の好みやそのときの気分に応じたオリジナルの楽曲を、即興で作って聞かせてくれるようになるのではないでしょうか。そしてそれらは、人間のアーティストがあらかじめ制作した楽曲をはるかに上回るポジティブな効果を、私たちの心身にもたらしてくれそうな気がします。

 

そうなれば、私たちは、お気に入りのプレイリストをどこかに保管しておく手間すら必要なくなって、ただ、人工知能の思し召しにすべてをゆだねていれば万事OK、ということになっていくのかもしれません……。

 

 

JUGEMテーマ:日記・一般

at 21:45, 浪人, つれづれの記

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「正しい」参拝

先日、ネットで、とても興味深い記事を読みました。

 

神社で「二礼二拍手一礼」は伝統的な作法ではない 宗教学者が教える“しきたり”の嘘 デイリー新潮

 

最近、神社での正しい参拝の仕方として、「二礼二拍手一礼」が、半ば常識のような感じになりつつありますが、それは明治以降に原形が定まり、戦後の高度成長期に一般に広まったやり方にすぎず、昔の日本人は、お寺の参拝と同じように、合掌したりしていたのだそうです。
ウィキペディア 「二礼二拍手一礼」
 

私も、幼かったころ、親に連れられて神社に行ったときには、まわりの人のマネをして手を合わせていました。当時、二礼二拍手一礼のような作法を教えられたことはないし、親を含めて、そういう参拝をしている人を見かけたこともなかったと思います。

 

まあ、このあたりは、あくまでも子供の記憶なので確かではありませんが、少なくとも、子供の自分には気づけないほど少数の人しか実践していなかったのではないでしょうか。

 

昔は、神社仏閣の参拝に限らず、生活上のさまざまなしきたりやマナー全般に関して、今よりもずっといい加減というか、おおらかだった気がします。

 

そもそも、ふつうの人にとっては、お寺や神社に行くこと自体、多くても年に数回程度だったと思うので、そのときどんな作法で祈るか、みたいな細かいことまで気にする人はほとんどいなかっただろうし、たとえ気になっても、図書館などできちんと調べようとすれば、手間も時間もかかる大仕事だったはずです。

 

しかし、今ではインターネットでちょっと検索すれば、「正しい」とされるやり方をすぐに知ることができます。

 

パワースポットめぐりなどで、神社やお寺に頻繁に出かけるような人は、他の人の参拝方法を目にする機会も多く、自分のやり方が適切かどうか、だんだん気になってくるでしょう。そんなときに、ネットでサクッと調べてみて、二礼二拍手一礼というやり方にたどり着いた、という人もけっこう多いのではないでしょうか。

 

そんな感じで、二礼二拍手一礼という新しいスタイルが、ネットの普及とともに、ここ20年くらいの間に急速に浸透してきたのではないかと思います。

 

そして、それを実践する人がどんどん増えていけば、周囲を気にしてそれに合わせる日本人の特性からして、近い将来、ほとんどの神社では、そのやり方が「正しい」マナーになっていくのだと思います。

 

私も、ネットで知ったのをきっかけに、たぶん10年くらい前から、二礼二拍手一礼をするようになったのですが、正直に言うと、微妙な違和感があって、何かしっくりしない感じがしていました。

 

上の記事にも書かれているのですが、この参拝方法だと、頭を下げたり、手を打ったりという動きの連続なので、途中でゆっくりと祈るタイミングがありません。

 

それに、礼を二回続けるところで、どうしても動作がぎこちなくなります。それはたぶん、二回目の礼に移るのが早すぎるからで、もっとゆったりと、たっぷりと時間をかけて参拝すれば、自然な流れになるのでしょうが、大勢の人が行き交う正月の神社などでは、他の人たちの邪魔になってしまいそうです。

 

あと、神社に行くこと自体、そうしょっちゅうあるわけではないので、久しぶりに参拝すると、動作の順番とか回数を間違えてしまいそうで、どうしてもそちらに気をとられてしまいます。

 

でもまあ、そのあたりは、事前に何度か練習をして、一連の動作をしっかり身体にたたき込んでしまえば、スムーズにお祈りができるようになるのかもしれません。

 

ただ、それでも個人的に苦手なのが、二拍手の、どうしても音を立てざるを得ないところです。

 

神社では、あの大きな鈴をガラガラ鳴らすのは気が引けるので、いつもそのプロセスは省略しているのですが、手を鳴らせば、結局、大きな音を立てて、周囲の人たちの祈りを邪魔してしまう気がします。

 

自分としては、できるだけ音を立てないように、形だけの拍手をするようにしているのですが、それはそれで、何か中途半端なことをしている感じになってしまいます。

 

しかし、今回、上の記事を読んだことで、これまでのそういういろいろなモヤモヤが一気に晴れました。

 

今、世間で広まりつつある新しい参拝のスタイルは、別に古くからの伝統というわけではないのだから、昔から多くの日本人がそうしてきたように、黙って手を合わせて祈るだけでもいいんだ、と思いました。

 

個人的には、ただ静かに合掌する、というのが、いちばん心が落ち着くし、素直な気持ちで祈ることができる気がします。そしてそれは、子供のころからなじんできた、とても自然な動作でもあります。

 

というわけで、今後、神社に行く機会があれば、以前のやり方に戻って、ただ合掌をするスタイルで参拝したいと思います。

 

もしかすると、誰かが、「それは仏教式の祈り方で、神道式じゃないよ」と、親切に教えてくれるかもしれませんが、そのときは、「そうですか、勉強になりました」と、にこやかに答えて立ち去ればいいのです。

 

もちろん、上の記事で、二礼二拍手一礼は伝統ではない、とされているのも、一人の著名な宗教学者による一つの説にすぎません。それに、歴史を踏まえた学者の見解と、実際の宗教的な実践とは、それぞれ別の問題だという考え方もあるでしょう。

 

でも、究極的には何が正しいか、とか、細かな作法のあり方を気にするよりも、このさい、学者の説明にうまく便乗し、それを心の支えにすることによって、自分なりの素朴な感覚に従い、のびのびとした気持ちで参拝できるようになるなら、その方がずっといいのかもしれません。

 

 

JUGEMテーマ:日記・一般

at 20:03, 浪人, つれづれの記

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「免罪符」の効用

最近、スーパーやコンビニに行くと、さまざまな健康飲料が並んでいるのを目にします。テレビでも、それらがいかに身体にいいかを訴える数十秒のプレゼンが、朝から晩まで繰り返されています。

 

しかし、本気で健康にいい生活をしたいなら、そんなものを毎日飲むより、それなりの運動を習慣づけるとか、酒やタバコを控えるとか、もっと言えば、ストレスの多い仕事をスッパリ辞めて、別の仕事を探すとかした方が、ずっと効果があるのではないでしょうか。

 

でも、健康のために本当にやるべきことを、誰もがためらいもなくできるなら、世界中で健康飲料が大量に飲まれ続けることにはならないわけで、そこには、みんなが健康飲料に手を出さざるを得ない、それなりの理由があるのだと思います。

 

たぶん、私たちにとって、それらは「免罪符」のような存在なのでしょう。

 

かつてヨーロッパでは、人々が教会から免罪符(贖宥状)を買う時代がありました。贖宥状とは、教会への献金と引き換えに、自分がこれまでに犯した罪への償いが軽減されることを証明する書状です。
ウィキペディア 「レオ10世による贖宥状」(贖宥状についての分かりやすい説明があります)

 

ふだんから信仰も言動も非の打ちどころがなく、自分は天国にまっすぐ行けると確信できる人間は、当時も決して多くなかったはずだし、かといって、たとえ地獄に落ちようと、自分はすべてを甘んじて受け入れると開き直れる人もほとんどいなかったでしょう。多くの人は、死ぬまでに延々と償い続けなければならない大小の罪を抱え込んでいただろうし、もしも償いを果たさないうちに死んでしまったら、向こうの世界でいったいどんな苦しみを味わうことになるかと、ひどい不安も感じていたのではないかと思います。

 

だから、とりあえず教会にカネを払うことで、早めに罪を償い、天国入りを確実にしようとするのは、死後のためという以上に、生きている間の安心を得るため、という側面が大きかったのではないかという気がします。

 

当時の人々も、死んだ後にそんなものが本当の役には立たないだろうということは、薄々分かっていたのではないでしょうか。でも、自分が払えるカネと、手に入る安心感を天秤にかけて、とりあえずは、カネで当面の安心を買うことを選んだのではないかという気がします。まあ、私は歴史に詳しくはないので、これはあくまでも素人の勝手な想像に過ぎませんが……。

 

健康飲料にしても、それが万能の秘薬だなどと思っている人はほとんどいないでしょう。しかし、健康にいい生活になかなか踏み切れない事情がある人が、その罪悪感みたいなものを、ささやかなカネと引き換えにいったん忘れ、問題を先送りにするために、それはちょうどいい存在なのだと思います。

 

とりあえずそれらを口にしていれば、体にいいことを何もしていないという心のモヤモヤからは逃げられるけれど、それで問題が解決したとは本人も思っていないでしょう。いつか、もっと本気を出した時には何とかするつもりだけど、今はそこまではできない、だからこれでしばらく静かにしていてね、と、自分の心をうまく丸め込む感じなのではないでしょうか。

 

もしも、そういう免罪符のような働きをしてくれるモノがなかったら、私たちにできることは、すぐさま健康にいいことを始めるか、それができない自分をいつまでも責め続けて苦しむか、それとも、問題があることを否定して、万事OKだと自分にウソをつくか、しかありません。

 

前の二つの選択肢は、どちらも苦しくて大変でしょう。三つ目の選択肢も、自分を偽ることで、より大きなストレスを抱え込むことになりますが、目の前の罪悪感から逃れたい一心で、自己欺瞞に逃げ込んでしまう人は、けっこう多いかもしれません。

 

そう考えると、健康飲料というのは、選択と行動の苦しみからしばらくのあいだ逃げられる、意外に便利な存在で、そういう選択肢がないよりは、ある方がずっとマシなのではないでしょうか。

 

こういうモノがあるおかげで、どちらを選んでも苦しい選択を、いったん保留にすることができるし、問題がまだそのまま残っていることを忘れないよう、リマインダーの役割をさせることもできます。 健康飲料を口にするたびに、それが最終的な解決ではないことを、それとなく自分に思い出させるのです。

 

しかし、習慣というのは、あまりに長いこと続けていると、本人にも、それがもともと何のためだったか分からなくなることがあります。

 

免罪符を購入した昔の人々も、それをカネと引き換えに手にする前の、なまなましい葛藤のようなものは、時が経つにつれて薄れてしまったのではないでしょうか。健康飲料も、何十回何百回と口にしていれば、そのうち、何も考えずに惰性で口にするだけの存在になってしまう可能性はあるでしょう。

 

そうなると、はた目には、本人にとって何の得にもならないことを延々と続けているようにしか見えないかもしれません。それでも、本人はやるべきことをやっていないという罪悪感からはとりあえず逃げ続けていられるわけだし、問題などないと自分を偽る苦しみも抱え込まずに済んでいます。そういう意味では、たとえ惰性であっても、そこにはそれなりのメリットがあるのです。

 

とはいえ、それが問題の先送りであることに変わりはないし、永遠にそれを続けられるものでもありません。

 

それに、健康のために生活を本格的に改めていけば、最初こそ苦しいけれど、やがてしっかりとした成果も見えてきます。本気で始める決意をして、できることから少しずつ取りかかり、あせらず着実に続けていくなら、しばらくは大変でしょうが、やがて新しい習慣が、自分の心身を少しずつ変えていってくれるでしょう。

 

せっかくそういう選択肢があるのに、健康飲料を飲み続けることで、それを保留にしたまま放置してしまうのは、とてももったいないことなのかもしれません。

 

 

JUGEMテーマ:日記・一般

at 20:16, 浪人, つれづれの記

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