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「汚れハンター」の目

これは私だけでなくて、多くの人がそうだと思いますが、大掃除というのは、年の瀬のあわただしさの原因の何割かを占めていて、必死で作業をこなしているうちに、あっという間に新年が来てしまう、というのがいつものパターンになっています。

 

去り行く1年を静かに振り返っている余裕などなく、毎年毎年、何でこんなにバタバタしているのかと思うのですが、新年を迎えた瞬間、そのモヤモヤはリセットされてしまうようで、ボーッと過ごしているうちに、1年はすぐに経ってしまいます。

 

そしてまた年末が近づくと、あの膨大な作業の山を思い出して、早くもげんなりしてしまうのですが、さすがに、忘れたフリをしてスルーするわけにもいきません。

 

部屋の片隅の汚れやカビを放置していると、その後始末がもっと大変になるだけです。どうにもならなくなって、専門業者に頼むようなことになれば、相当な出費も強いられるでしょう。

 

私の場合は、大掃除をサボっては後悔する、というパターンを何度も繰り返し、結局、多少しんどい思いをしても、せめて1年に1回くらいは家の中を念入りにチェックして、気がついたところはきれいに掃除しておくのが、長い目で見ればいちばん楽だ、ということを学びました。

 

しかし、大掃除に対して前向きな気持ちになったところで、かかる手間や時間が減るわけではないし、効率的なやり方をネットで調べたり、100均で便利なグッズを買ったりしてみても、それで減らせる労力には限界があります。

 

年末になったら、気合いで一気に片づけよう、みたいに考えていると、今年も残り数日、という瀬戸際になって、あわてて掃除に取りかかることになり、天気を選ぶ余裕もなくなって、凍えるような寒さの中、時間に追われながら丸一日掃除し続けるという悪夢を味わうことになりがちです。

 

今は、反省と改善を重ねた結果、大掃除する場所をあらかじめリストアップしておき、一度の作業が、30分から1時間くらいで終わるように小分けにして、日常生活の負担にならないよう、できれば11月くらいからスケジュールの中に組み入れて、少しずつ掃除をすすめるようにしています。

 

まあ、そこまでしても、つい作業を先延ばしにしてしまうので、結局、12月の最後の週になっても、掃除に追われていたりするのですが……。

 

というわけで、年末になると、しょっちゅうどこかを掃除しているせいか、部屋の中のどこに目をやっても、何となく汚れが浮かび上がって見えてくるようになります。

 

きっと、この時期は、思考と行動がずっと「お掃除モード」に入ったままで、切りたくても、スイッチを切れない状態になっているのでしょう。掃除をしていないときでも、「汚れハンター」の目が、常に「獲物」を探していて、視線が向かう先に、次々に汚れを見つけ出してしまいます。

 

そして、汚れが見つかると、当然、それが気になるので、ここも後で片づけよう、あそこも大掃除のリストに加えなければと、当初の予定になかったところまで、やるべき作業がふくれ上がっていくのです。

 

もっとも、片っ端から掃除していたら、年内に終わらなくなるので、さすがに限界だと感じたら、汚れに気づかないフリをすることもありますが……。

 

それはともかく、ふだんの私たちが、部屋の汚れにあまり気がつかないのは、「汚れハンター」の目になっていない状態だから、というより、そもそも、部屋の片隅みたいなところには、目を向けることさえしていないからではないか、という気がします。

 

私たちの日常のほとんどは、かなりワンパターンな思考と行動の繰り返しで、いつもの手順を、ほとんど無意識にこなしているだけだったりします。そういうときには、自分が何かをしたり座ったり寝たりしている、半径1メートルくらいの狭い範囲の、さらにごく一部のところにしか注意が向いておらず、その外側には、意識がまったく向いていないことがほとんどなのではないでしょうか。

 

部屋の隅っことか、壁とか天井というのは、私たちにとって、いつもピントの外れた背景でしかなく、当然、そこが汚れていることにも気がつきません。そして、いざ大掃除にとりかかろう、ということで、久しぶりに部屋の中を見回して初めて、ずっと前からそこにあった汚れに気がつく、ということなのだと思います。

 

実際、部屋の隅とか、何にもない壁を見つめることに、生活上の意味はないので、ふだんからそんなところに注意を向ける人などほとんどおらず、目を向ける機会があるとしたら、それこそ、たまに掃除をするときくらいなのかもしれません。

 

別の言い方をすれば、私たちにとって、部屋の中の、ふだん見ない場所に目を向けるという行動自体、思考と行動のパターンが、通常とはぜんぜん違う「お掃除モード」という、特殊な状態になっていることを意味するのでしょう。

 

それは、考えようによっては、ごくごく身近で平凡な世界を、いつもとはまったく違う目を通して眺めているわけで、かなり強引に解釈すれば、日常とはまるで違った、非日常の世界をかいま見る機会の一つだと言えなくもないのかもしれません。

 

ただし、非日常といっても、そこにはエキゾチックな魅力など皆無だし、目に飛び込んでくるのは部屋の汚れだけかもしれませんが……。

 

 

JUGEMテーマ:日記・一般

 

 

at 20:55, 浪人, つれづれの記

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おいしさがもたらす、ささやかな自由

デパートの贈答品売り場に並んでいるような、かなり高級な食べ物というのは、私にはまったく別世界の存在で、自分のために買おうなどとは思いませんが、ごくたまに、誰かの手みやげとか、お中元やお歳暮の品が流れ流れて、私のような人間の元にまでやってくることもあります。

 

そんなときは、めったに口にできない一品を、ありがたく味わわせてもらうことにしています。

 

言うまでもなく、それらはとてもおいしく、ふだんからこういうものを食べている人には、この世界はどんな風に見えているんだろう、などと、自分とは無縁の世界について、しばし思いを馳せたりします。

 

ただ、そうした高級品の味つけが、私には少々上品すぎるのも確かで、ガサツで濃い味つけに慣れ切った舌には、ちょっと物足りない気がしなくもありません。それに、量的にも、ほんの一口サイズだったりするので、いつも十分に食った気がしないまま、一瞬で腹の中に消えてしまい、「お試し体験」はそこで終了になってしまいます。

 

もっとも、こうした物足りなさというか、ささやかな不満みたいなものには、無意識レベルでの防御反応が関わっているのかもしれません。おいしいものを素直においしいと思い、また食べたいなあ、などという欲求が、心にしっかりと植えつけられてしまうのは、自分にとって、とても危険なことだからです。

 

自分の経済力では、食べたいときにいつでも自由に食べられない高価なものに執着してしまえば、この先の人生で、つねに欠乏感にさいなまれ、とても苦しい思いをすることになるでしょう。

 

だから私は、自分を守るために、そうした高級な食べ物は自分とは別世界の存在なのだ、と意識的に割り切り、日常世界の向こう側に、つねに追いやろうとするだけでなく、無意識的にも自らを欺き、それらは口に合わない、と思い込もうとしているのかもしれません。

 

これは、その逆のケースにもあてはまるようで、とても安い食べ物が、意外とうまかったりすると、実際のおいしさ以上に深く印象に残るような気がします。安いものなら、かりに執着しても、気兼ねなく何度でも手を出せるし、それで満足していられるあいだは、けっこう手軽にハッピーになれるからでしょう。

 

こうした無意識の作用は、ある食べ物が本当においしいのかどうか、その判断を、自分が気がつかないところでゆがめてしまっていて、手に入れやすい、安い食べ物ばかりに執着するよう、自分自身を密かに誘導しているのかもしれません。

 

しかし、一方で、そうした心の働きがあるおかげで、私たちは手近でありふれたモノに満足を覚え、そのたびにささやかな幸せを感じ、この世界で前向きに生きていくことが可能になっているのではないか、という気もします。

 

この世界には、いわゆる「B級グルメ」をはじめとして、高級ではないけれど、なかなかおいしい食べ物というのが、それこそ数えきれないほど存在するので、食に関する好みは人それぞれに違っていても、誰もが、自分をハッピーにしてくれる料理とかお菓子とかを、いくつも挙げることができるのではないでしょうか。
ウィキペディア 「B級グルメ」

 

そして、多くの人にとって、食べ物に関して、そういう「コスパのいい幸せ」への手段をいろいろと知っていることは、一見どうでもいいことのようで、実は、けっこう大きな安心感のベースになっているのではないかと思います。

 

ふだんの暮らしの中で、辛いことや不愉快なことは、それこそいくらでもありますが、お気に入りの食べ物さえあれば、しばらくの間だけでもハッピーな気持ちを取り戻すことができます。もちろん、それは万能の解決策にはならないでしょうが、ある程度は心理的なセーフティ・ネットとして機能しているのではないでしょうか。

 

また、幼いころからさまざまな食べ物に挑戦し、目の前に広がる膨大な選択肢の中から、自分の大好物を見つけ出すプロセスを繰り返すうちに、この世界には、自分をちょっぴりハッピーにしてくれるものが、まだまだどこかに眠っていて、その気にさえなれば、自分の手で、それらをいくらでも探すことができるのだという、自由の感覚とか、将来への明るい見通しが育まれていくのではないかと思います。

 

さらに、スーパーやコンビニの安くてうまい商品とか、お気に入りのメシ屋を知っているだけでなく、大好物の料理を、自分の手で、手近な材料を使って、思い通りの味つけで作れるなら、それ以上に大きな自由が手に入るでしょう。

 

他人との激烈な競争を制して莫大なカネを稼ぎ、そのカネで高級な食べ物を毎日腹いっぱい食べたい、という「夢」を実現しようとしても、その難易度は非常に高いでしょうが、それよりも、ネット上の無料動画などで料理の基本をひととおり覚え、スーパーで安売りしている材料で、いつでも自分の大好物を作れるようになる方が、はるかに簡単だろうし、一度身につけた能力は、将来もずっと役に立ってくれるはずです。

 

そう考えると、自分の舌にぴったりと合う、コスパのいい食べ物を早めに見つけて、できれば、それを自分でパパッと作れるようになることは、この世知辛い世界でハッピーに生きていくうえで、かなり優先度の高い項目なのではないかという気がします。

 

 

JUGEMテーマ:日記・一般

 

 

at 20:21, 浪人, つれづれの記

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たまには雨に濡れるべき?

すでに多くの人が使っていると思いますが、Yahoo! の「雨雲レーダー」など、ネットの無料天気情報は実に便利で、自分の近所や出先の天気を、数時間先までかなり正確に見通すことができます。

 

もちろん、それらはあくまでも予測なので、たまに大きく外れることもありますが、出かける前に、とりあえずそうした情報をチェックしておくだけで、傘を持たずに雨に降られる失敗は激減するでしょう。

 

さらに、雨雲の画像を拡大すると、濃いところや薄いところが見えてくるので、自分の頭上を通過していく雨雲が、しばらく途切れるタイミングを見極めることができるようになれば、雨の日でも、傘をささずに近所でサクッと買い物してくることさえ可能です。

 

今後、こうした気象予測のテクノロジーはさらに進歩して、より正確な情報を、常に活用するのが当たり前になっていくと思います。そうなれば、天気の予想を外してずぶ濡れになるような失敗も、大昔の笑い話になり、ほとんど誰も経験しなくなっていくのではないでしょうか。

 

それは、実にすばらしいことではあるのですが、反面、失敗を通じての切実な学びの機会もまた、失われてしまうのかもしれません。

 

雨に濡れるアクシデントに限らず、日常生活でとんでもない目に遭う経験というのは、心身ともに辛いものだし、しないで済むならそれに越したことはないのでしょうが、そういう体験によって、自分の生活能力のレベルとか、心身の許容範囲とか、誰かに助けを求めるべきタイミングとかが、具体的に見えてくるのも確かです。

 

逆に、そういう経験をほとんどしてこなかった人は、万が一、そういう悲惨な状況に陥ってしまったとき、平穏な日常との落差が大きすぎてパニックになり、動揺のあまり、さらに判断や行動を誤って、二次災害を招いてしまう危険すらあるかもしれません。

 

また、若い時なら、経験不足で対処能力に欠けていても、気力や体力で何とかカバーすることもできるでしょうが、歳をとると、知らないうちに心身の適応力がかなり下がっていて、そういう無理が効かなくなっている可能性があります。失敗や波乱のない生活を長く続けていると、そういう自分の変化に気づかないまま、いきなり重大なトラブルに直面して、初めてそれに気づくことにもなりかねません。

 

旅行などに出かける際には、そうしたアクシデントへの対処能力が読み切れないために不安になり、保険のつもりで、ついあれこれと荷物を増やしてしまったり、そもそも遠出をしたり、不慣れなことをするのが億劫になってしまう人もいるでしょう。

 

想定内・想定外のトラブルに自分がどのくらい耐えられるのか、(歳とともに低下していく)対処能力や回復力を見極めておくという意味でも、たまには、あえて事前の情報収集はせずに、自分の経験とカンだけを頼りに外出してみて、その結果、とんでもない目に遭うような経験も、もしかすると必要で、むしろ、そうした失敗を定期的にしておくくらいの方がいいのかもしれません。

 

まあ、だからといって、わざわざ自分から大失敗をしたいという人はいないでしょうが、日常生活や、ちょっとした旅行の際に、命にかかわらない程度のトラブルが起きるくらいの「隙」をあえて残しておいたほうが、長い目で見たときに、いろいろなメリットがあるのではないでしょうか。

 

例えば、自宅の近所なら、かりに大雨に降られてずぶ濡れになっても、すぐに安全に家に戻れるし、トラブルに手際よく対処する練習にもなるわけで、不慣れな旅先でいきなりそうなるよりは、ずっとマシなのではないかと思います。

 

もっとも、自分でわざわざ「隙」を作ろうと努力しなくても、不慣れなことをしたり、知らない土地に出かければ、「隙」だらけにならざるを得ないので、もしかすると、いちばん簡単なのは、自分の対処能力が試されるような、少しハードな旅に出て、自分を未知の環境に、定期的に放り込んでみることなのかもしれません。

 

それに、実際のところ、雨に濡れるというのは、ふだん私たちが思っているほど、ひどい出来事ではないかもしれません。

 

日常生活において、私たちは、雨水を避けるために最大限の努力をするのが常識だと考え、それに沿って行動しているわけですが、その常識的な努力がことごとく失敗し、結果として雨に降られてずぶ濡れになったとしても、そうした一連のドタバタ劇で、アクシデントに驚いたり、必死で対処したりする自分自身の姿を見たり感じたりすることは、意外と新鮮で面白い体験だったりします。

 

もちろん、面白いと言っていられる限度というものはあるでしょうが、不快な出来事でも、見方を変えれば、退屈な日常への、ちょっとした刺激だと思えなくもないし、そういう風に見方を変えてみる練習、という意味でも、やはり、たまには何らかのトラブルに巻き込まれるのも必要なのかもしれません……。

 

 

JUGEMテーマ:日記・一般

 

at 20:26, 浪人, つれづれの記

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ポイントを集めてるふり

もう何年も前から、スーパーやドラッグストア、ホームセンターなど、日常的に買い物をするような店のほとんどで、ポイントカードが使われるようになっています。

 

店側としては、顧客の囲い込みとか、集めたデータの活用など、さまざまな目的があるのでしょうが、客側としても、日々の買い物で貯まっていくポイントはけっこうな額になるはずで、店側も客側も、それなりにおいしい仕組みだからこそ、カードがここまで普及したのでしょう。

 

個人的には、ポイントカードというものがどうも好きになれず、これまでは、どうしても必要な場合を除いて、できるだけカードを持たないようにしてきたのですが、最近、ようやくその考えを改めて、カードを使うようになりました。

 

以前は、会計の際に、店員さんからポイントカードについて聞かれるたびに、カードは持っていないし、作るつもりもないということを、できるだけ簡潔に、でも、キツい言い方にならないように気をつけながら、伝えるようにしていました。

 

しかし、ほんの一瞬とはいえ、そのやりとりを毎回繰り返すのが、微妙なストレスになっていました。

 

目の前の店員さんに対して、カードは持ってい「ない」し、作るつもりも「ない」という、否定ばかりの返事を返さなければならないわけで、自分としては全く悪意はないつもりでも、やはり否定的な言葉を重ねるのは、気持ちのいいものではありません。

 

しかも、ポイントカードを使わない旨を伝えると、店によっては、なぜか店員さんが、「申し訳ございません」と謝ってくることがあります。それは、店のマニュアルでそう答えるように決まっているだけなのかもしれませんが、何の落ち度もない、自分には関係のないことのために、いちいち謝罪させられる店員さんもストレスだろうな、などと考えて、何か、こちらまで申し訳ない気分になります。

 

そして、こちらがカードを作らない限り、そうした不毛なやり取りが、レジの前に立つたびに、この先もずっと繰り返されることになるのです。

 

しかし、先日、ある店で、家族から借りたポイントカードを使ったのですが、その時に、何もかもがスムーズに進んでいくことに、とても驚きました。

 

こちらは、会計のさいにカードを差し出すだけで、それ以上余計なことを言う必要はなく、店員さんも、他の大勢の客に対するのと同じように、慣れた手つきで、いつも通りの作業をするだけです。

 

周囲の空気を気にする日本人の私としては、その場に何の緊張感もなく、すべてが平穏に、流れるように進んでいくことそのものに、心からホッとしました。

 

考えてみれば、私がポイントカードに抵抗があったのは、ポイントの損得計算が気になるあまり、自分の意思や行動が、どんどんねじ曲げられていくのではないかと恐れていたからでした。

 

いったんカードを持てば、ポイントの残高や有効期限が気になり始めるのは確実だし、そうなれば、ポイントが失効しないように、そして新たなポイントを効率よく貯めようとして、その店で定期的に買い物をせざるを得なくなるだけでなく、セール情報とか、ボーナスポイントがつく商品のことを、絶えずチェックするようになるでしょう。やがて、たかが数ポイントの損得のために、あっちの店であれを買い、こっちの店でこれを買い、といった感じで、さまざまな店の思惑に、いちいち振り回されるようになってしまうかもしれません。

 

しかし、私は、そういうネガティブな側面ばかりを気にして、ポイントカードというものが、レジで一種の「通行手形」みたいな役目を果たしてくれることに、ぜんぜん気がついていなかったようです。

 

もしかすると、ポイントカードは、店や客にとって、いろいろな経済的メリットがあること以上に、客自身がその店の常連であることを示し、レジの前での店員とのやり取りをスムーズにする、一種のパスポートとして機能しているのではないでしょうか。

 

カードを使うのは、その店やチェーンの常連だけなので、店員は、カードを提示する客に対しては、ポイントの仕組みとか、会計時の手順みたいなことについて、いちいち説明をする必要はありません。客も店員も、ふだんどおりの「リラックスモード」で、お互いに最小限の作業をこなせばいいだけです。

 

一方、もしもカードを持っていない客が来たら、店員は、「一見さん対応モード」に切り替えて、マニュアルに従い、ポイントカードの勧誘やら説明やら、余計な手間をかけなければいけないし、客としても、カードを作る気がないなら、その勧誘やら説明やらを、一つ一つ丁寧に拒絶しなければならなくなります。

 

だとすれば、常連客としては、レジでの余計な手間をお互いに減らすためにも、とりあえずカードだけは作っておいて、会計のたびに、それを「常連の証」として提示する、というのが、レジの流れをスムーズにし、その場の空気を乱さない、ベストなやり方と言えるのかもしれません。

 

逆に、何度も店を利用していながら、カードを持たず、しかも毎回、カードの発行を渋り続ける私のような人間は、店員からすれば、「いろいろと面倒くさい客」だったのではないでしょうか。

 

私は、自分にとっての損得ばかり考えて、カードを持たない判断をしてきたのですが、それは、レジでの微妙な気まずさみたいなものを、この先もずっと繰り返してまで、優先しなければならないことなのでしょうか。

 

それに、考えてみれば、ポイントカードを作ったからといって、真面目にポイントを貯めなければならないわけではありません。

 

もらったポイントを利用しようが、失効させようが、カードを使う本人の自由なのだから、ポイントのことは完全に無視して、カードを、ただ、レジでのやりとりをスムーズにする「常連の証」としてだけ使う、ということでもいいのではないでしょうか。

 

つまり、その場の流れや空気を乱さないために、他の客と同じようにカードを提示するけれど、実際には、それは、ポイントを集めているふりをしているだけで、もらったポイントのことはいっさい考えないようにするのです。

 

そもそも、これまでも、ポイントカードを持たないことで、本来ならもらえたはずのポイントを、ずっと手に入れ損ねてきたし、それを別に何とも思っていなかったのだから、これから手にするポイントも、残高がいくらになろうが、そのまま失効しようが、そんなものは最初から存在しなかったのだと思えば、たいして気にはならないのでは……。

 

そんな風に考え、いくつかの店でカードを作ってみたのですが、やはり、というべきか、そういう理屈どおりにはいきませんでした。

 

もともと、私自身、元バックパッカーとして、金銭感覚が相当にしみったれているので、ポイントが実際に貯まり始めれば、その残高が気にならないわけがありません。ポイントカードを、あくまでもレジでの「通行手形」として使うつもりだったのに、結局、ちまちまとした損得の計算に、すっかり巻き込まれてしまっています。

 

しかも、めったに行かない店とか、初めて行くような店では、いちいちポイントカードを作るわけにもいかないので、カードは持ってないし、作るつもりもないという問答を、これまでと同じように繰り返さなければなりません。

 

それに、ようやく今ごろになって作ったポイントカードですが、もしかすると、あと数年もしないうちに、ほとんど使われなくなってしまう可能性もあります。

 

最近では、多くの店が、スマホ用のポイントアプリを導入して、さまざまな特典をつけて登録を促しているし、いずれ、ほとんどの人がスマホを持ち歩くようになれば、ポイントカードの機能は、どんどんアプリに移行していくのでしょう。

 

そして、そうしたアプリだって、この先、何年使われ続けるのかは、誰にも分かりません。

 

私たちが、損得勘定から、あるいは、長いものに巻かれてポイントカードを使い始めたように、次の時代に現れる新しいモノや仕組みが何であれ、私たちは、多少不本意ではあっても、周囲の空気を読みながら、それらを身につけ、新しい仕組みに少しずつ適応していくのでしょう。

 

というか、それ以外に、私たちの選択肢はありません……。

 

 

JUGEMテーマ:日記・一般

 

at 21:22, 浪人, つれづれの記

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ファンの愛

以前に、このブログで、音楽ストリーミングサービスの Spotify を「懐メロ」プレイヤー代わりに使っている、みたいなことを書きましたが、昔よく聴いていたアーティストの曲をあれこれチェックしていると、そうした利用データに基づいて、Spotify の方から、そのアーティストの最新作などを「オススメ」してくるようになります。
記事 Spotifyと「懐メロ」

 

せっかくのオススメだし、無料だし、多少の好奇心もあって、とりあえず冒頭だけでも聴いてみたりするのですが、やはり、これまでずっと遠ざかっていたのには、それなりの理由があるわけで、久しぶりに新曲を聴いてみても、ほとんどの場合、心は動かず、最後まで聴き終わらないうちに、別の曲にスキップしてしまうことになります。

 

そして、かつてのファンの多くが、きっと、同じような経験をしているのでしょう。

 

しかし、この世界は、私のような、移り気で薄情な人間ばかりではありません。昔も今も、同じアーティストの熱狂的なファンであり続けている、という人も、けっこういるのではないでしょうか。

 

音楽にかなり疎い、私みたいな人間でさえファンになったくらいだから、当時、それらのアーティストはとてもメジャーな存在でした。だからこそ、亡くなったり引退したりしていなければ、全盛期をはるかに過ぎた今でも、新曲を出し、息長く音楽活動を続けているケースが多いのですが、それは、日々新たなファンを獲得しているから、というよりも、たぶん、昔からの忠実なファンが、今でもそのアーティストをしっかりと支えている、ということなのだと思います。

 

もしも自分が、そのアーティストのファンをずっと続けていたら、今、Spotify で試聴している最新のアルバムも、きっと、発売と同時に購入していたことでしょう。そして、その別の人生では、自分は、そのアーティストの曲をいつも聴きながら、いい感じの毎日を送っていたのかもしれません。それとも逆に、何かボタンをかけ違えたような、こうじゃない、という違和感を抱えながら、モヤモヤとした日々を送っていたのでしょうか……。

 

そんなことを、ついぼんやりと考えていると、自分がたどっていたかもしれない別の人生の選択肢を、今、Spotify を通じて垣間見ているような、ちょっと不思議な感じがします。

 

まあ、それはともかく、かつてのメジャーなアーティストをサポートしている忠実な人たちは、どんな気持ちで、ファンを続けているのでしょうか。

 

彼らは、一時的な人気の波が引き、大勢の「にわかファン」たちがどこかへ消えてしまったあとも、変わることなくアーティストの作品を購入し続け、ライブに足を運び、さまざまな媒体を通じて、本人に励ましのメッセージを送り続けています。

 

たぶん、彼らだって、アーティストのセンスが、すでに時代からズレてしまったり、年齢とともに、いろいろな衰えが出てきていることには気づいているでしょう。

 

でも、忠実なファンたちは、そういうこともすべて分かった上で、最後までアーティストについていこうとしているのではないか、という気がします。

 

彼らは、若いころに、そのアーティストにあまりにも深く入れ込んでいたために、青春時代という人生の輝かしい一時期と、そのアーティストの存在とが分かちがたく結びついてしまい、自分の心の中で今なお燃え続ける青春の炎を消さないためには、そのアーティストと関わり続けるしかない、と信じているのかもしれません。

 

また、彼らにとって、そのアーティストは、もはや単なる芸能人ではなく、自分の心の中の、何かとても大切なものの象徴と化していて、その大切なものを守るためにも、アーティストを支え続けなければならない、と感じている可能性もあるでしょう。

 

あるいは、自分にとっての意味とかメリットとか、そういうことはもはやどうでもよくて、ただひたすらに、そのアーティストを人間として愛してしまっているのかもしれません。まあ、そういう純粋なファンというのは、決して多くはないでしょうが……。

 

ほとんどの人は、あるアーティストが、ベストなパフォーマンスをしているときにだけ近づいてきて、そのいちばん美味しいところだけを味わい、旬が過ぎたと思ったら、私のように、ただ黙って立ち去っていくのです。

 

そして、そういう人間からすれば、忠実なファンたちは、ひたすら損な役回りをしているようにしか見えません。

 

しかし、熱心なファンたちは、ひとりのアーティストやひとつのグループを、長い時間にわたって追い続けることで、美味しいところをつまみ食いするだけの飽きっぽい人間には絶対に気がつくことのできない、この世界のもっと深くて微妙なものを、しっかりと味わっているのではないか、という気もします。

 

ただ、そういう微妙なものは、きっと、それを知らない人たちに、言葉で分かりやすく説明できるようなものではないのだろうし、かりに説明できたところで、誰もが味わえると約束されているわけでもないでしょう。

 

それに、外野の人間からすれば、そうした、ファンだけのディープな世界というか、秘密めいて分かりにくい感じがつきまとうところこそ、むしろ、そこに深入りしたくない、と思う原因になっているのかもしれません。

 

もっとも、そうした誤解は、音楽の世界にかぎった話ではないでしょう。実際には、どんな分野だろうと、熱烈なファンが長年入れ込んでいるのは、きっと、その対象に対する強烈な愛情からで、そこに秘密めいたものとか、怪しげなものなど、何もないのだろうと思います。

 

しかし、その情熱を理解できない部外者からすれば、まさにその熱中ぶりこそが、非常にマニアックで、業が深くて、どこか異常なものに見えてしまうのかもしれません……。

 

 

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at 20:18, 浪人, つれづれの記

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しぼんでいく物欲

最近、モノが欲しいとあまり思わなくなりました。


もちろん、新型コロナウイルスの感染拡大で、私たちの日常が激変し、これまでのように消費生活を楽しむ機会が失われてしまったことが、それに大きく影響しているはずですが、それとは別に、物欲そのものも、ここ数年で急速に衰えている気がします。


もともと子供のころから、本以外のモノを買うことに、あまり幸せを感じないタイプだったのですが、年々、その傾向に拍車がかかっているうえに、今では、本ですら、ほとんど買いたいと思わなくなりました。


もちろん、欲しいものが全くないわけではないし、それが手に入ればそれなりの喜びもあるのですが、同時に、モノを抱え込むことのネガティブな側面がどうしても頭にちらついたりして、せっかくのうれしさが帳消しにされてしまう感じなのです。


物欲がしぼんでいく理由を、自分なりに考えてみました。


まず第一に、楽しい時間を過ごしたいときに、モノは必ずしも必要ではないし、最近は、モノ以外の選択肢がどんどん増えてきている、ということがあります。


特に、インターネットの存在はとてつもなく大きくて、とりあえずカネがなくても、一緒に遊ぶ友達がいなくても、まずはネットに「相談」してみれば、今すぐその場で手に入るいろいろな楽しみを、しかも多くの場合、無料で与えてくれます。


そして、実際、かなりの欲求が、それで満たされてしまいます。


ちなみに、退屈を感じてから、あれこれ検索したり調べたりし始めるのではなく、自分の興味関心に応じたアンテナを、あらかじめネットのあちこちに伸ばしておけば、ふだんから、面白そうな情報やコンテンツが絶えず飛び込んできます。


それを片っ端から消費しているだけで、自由な時間のほとんどが消えてしまうほどで、むしろ、退屈を感じるヒマさえありません。


私の場合も、ネット以外のところで、わざわざ何かをしようとする意欲が、かなり減退してきていると思います。


第二に、この世でそれなりに生きて、物事のいろいろな側面を知ったことで、モノの所有に伴うさまざまなコストやマイナス面が、どうしても気になるようになりました。


買ったモノが部屋の中でずっと占拠し続けるスペースとか、膨大なモノをきちんと管理したり手入れしたり処分したりするための費用や手間や時間は、本当にバカにならないと思います。


つまり、大量のモノを所有するなら、ペットの飼育と同様、自分で責任をもってそれらを「世話」し続けなければならないし、そのためのスキルや気力も必要で、それらが足りないと、すぐにガラクタやゴミの山に埋もれることになります。


しかも、モノを廃棄処分する費用は年々上がっていて、処分に関するルールも厳しくなるばかりです。最近では、モノにあふれた暮らしが地球環境を破壊している、という罪悪感も強くなってきました。


第三に、歳をとると、いろいろな物事に新たに首を突っ込んだり、モノを集めたりすることに費やせる心と身体のエネルギーが減少し、現状の維持さえ、だんだん難しくなってきます。


それに、人間、いつ死ぬか分からないわけで、大切にしているモノたちが、自分の死後にどうなるのかを考えると、ほとんどの人が、とても憂鬱な気持ちになるのではないでしょうか。


モノを大量にため込んだまま死んで、誰かにその後始末をさせたり、思い入れのある多くのモノが、価値の分からない遺族の手で無造作に捨てられたり、二束三文で売り払われたりするくらいなら、せめて自分の手で、あらかじめ処分しておきたい、と思う人もいるでしょう。


私は、人生の残り時間が見えてきた今の時点で、いまさら何かを集めたいとは思わないし、とりあえず一通りは「断捨離」した自分の所有物も、さらにもっと減らさなければ、と思ってしまいます。

ウィキペディア 「断捨離」


第四に、世の中の変化が激しさを増し、自然災害のニュースを目にする機会も増えたせいか、自分にとって大切なモノを徹底的に絞り込んで、何かあったらそれだけを持って、いつでもどこにでも身軽に動けるようにしておきたい、という思いもあります。


本当に大事だと思うモノだけは、何があっても守り抜けるよう、今のうちにしっかり手を打っておくべきだし、そうでないものは、いざとなったらキッパリあきらめられるよう、できれば今のうちに、気持ちを整理しておきたいと考えています。


似たようなことですが、世界全体が目まぐるしく変化し、先がまったく見通せない状況では、身のまわりにモノをため込み、その世話に追われている余裕などないし、むしろ、できるだけ自分を身軽にして、世の中がどこへ向かおうとしているのか、目を離さずにしっかりと見ておいた方がいいのではないでしょうか。


というか、今、私たちの目の前で繰り広げられている世界の大変動は、この時代を生きる私たちだけしか体験することのできない、世紀の一大スペクタクルなので、これを見逃してしまうのは、実にもったいないと思います。


そんなこんなで、最近は、本当に必要なモノだけを所有し、書類なども、できるだけネット上に保存するようにして、身のまわりを、とにかくスッキリさせておきたいと強く思うようになっています。


ただ、ここまで書いてきたことは、自分自身の物欲の衰えの理由を、そのように解釈してみた、というだけです。実際には、単なる好みや生活習慣といった個人的な事情を、世の中の変化と無理やり結びつけ、大げさに考えすぎているのかもしれません。


個人的な事情ということで言えば、私の場合は、若い頃にバックパッカーとして長い旅をしているうちに、実際にモノがなくても、それなりに生活が成り立ってしまうばかりか、いろいろな心配ごとや雑務からも解放されて、気楽で身軽でいられることが分かった、というのも大きいと思います。


逆に、たまたまいろいろな条件が重なって、モノに囲まれた生活をずっと続けてきた人なら、それが当たり前だと思うようになるのは当然だし、それらを失うことへの抵抗感も大きいはずです。


そういう人たちの多くは、モノのない暮らしなど別世界の話だと思っているだろうし、何かよほどのきっかけでもないかぎり、自分からモノを手放そうなどとは思わないのではないでしょうか。


それは、いいとか悪いとかいう問題ではなくて、ただ、自分が置かれた環境次第で、そこから見える世界の風景も、どんな価値観を抱くようになるのかも、かなり左右されてしまい、自分の意思だけでそこから自由になるのはけっこう難しい、ということなのだと思います。


私の場合は、大量の好きなモノに囲まれて暮らす至福、みたいなものを知る機会のないままに生きてきてしまいましたが、バックパッカーとして旅を続ける中で、モノの少ないシンプルな暮らしが自分の好みに合うと感じ、その後の生活で、それをますます確信するようになった、ということなのでしょう。


いずれにしても、たぶん私の物欲は、さらにこのまま衰えていくことになるんだろうな、という気がします。


それとも、この先、テクノロジーの飛躍的な進歩とか、社会の根本的な変化によって、私のような人間ですら物欲を刺激されてしまうような、何かとてつもなく魅力的なものが、この世界に現れたりするのでしょうか。


未来は誰にも分かりませんが、何か面白いことが起きることを、少しだけ期待して待ちたいと思います。

 

 

記事 何もない部屋がもたらす解放感

 

 

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at 19:29, 浪人, つれづれの記

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圧倒的な物量がもたらす謙虚さ

ショッピングモールでも、大きな図書館でも、博物館でも、いろいろなモノが見渡す限りに並んでいる場所に行くと、いつでも、大量のモノがもたらす圧力とか、非日常性のようなものを感じます。


そして、それらの膨大なモノのうち、自分が知ったり関わったりしてきたのはほんのわずかで、たぶん、それ以外のほとんどのモノについては、このまま何も知らずに死んでいくんだろうな……などと思うこともあります。


似たようなことを考えるようになったのは、たぶん高校生のころだと思います。読書の面白さに目覚め、図書館や本屋にせっせと通うようになり、始めのうちは、そこにズラッと並んだ本を全部読んでやるくらいの勢いだったのが、そんなことは不可能だという、実に当たり前のことをすぐに思い知らされ、悲しいような、寂しいような、何ともいえない気持ちになりました。


それ以来、その気持ちはずっと心の奥深くにとどまったまま、私の思考や行動に強く影響を与え続けているのでしょう。


でも、一人の人間が一生のあいだに体験できることは非常に限られていて、それは宇宙のほんの片隅に触れるくらいで終わってしまうのだ、という厳しい現実に気がつくことは、決して悪いことばかりでもないと思います。


それは、自分がこの世界についてほんのわずかしか知らないし、知り得ないのだから、何事も、すぐに分かったつもりになってはいけないし、自分が考えていることが常に適切だとは限らない、という謙虚さも与えてくれるのではないでしょうか。


そう考えると、目の前にいろいろなものがドーンと並んでいて、その物量によって見るものを圧倒し、私たちがいかにちっぽけな存在かを強く印象づけるような施設というのは、そういう謙虚さへの一つのきっかけとして、それなりに意味があるのかもしれません。


考えてみると、昔は、そうやって膨大なモノを陳列し、誰でも立ち入れるような施設がほとんどありませんでした。現在のように、そういう施設が、大都会だけでなく、地方にも存在すること、さらには、インターネットの発展によって、世界中の人々が膨大な情報に触れ、圧倒されて立ちすくむような経験が簡単に得られるようになったことは、長い目で見れば、多くの人のあいだに、謙虚さや寛容さみたいなものが広がることにつながっていくのかもしれません。


もっとも、今、世界各地で現実に起きている出来事をニュースで見る限りでは、人々のあいだに謙虚さが広がっているようには全然見えませんが……。

 

 

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at 20:40, 浪人, つれづれの記

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見えないものを守る

◆ すべての人を熱狂させる「究極の曲」は存在しない

 

音楽ストリーミングサービス Spotify のプレイリストで、昔のヒット曲などをぼんやり聞いていると、とりとめのない思考が浮かんでは消えていきます。

 

例えば、それらの歌がヒットしたということは、当時の何十万、何百万もの人々の心を揺さぶり、夢中にさせたということですが、それってすごいことだし、そういうことが、昔も今も世界中で当たり前のように繰り返されているのは、それ以上にすごいことだな、と改めて思ったりします。

 

もちろん私も、有名な曲のいくつかを何度も飽きずに聴いてきたし、これからもずっと聴き続けることになるのでしょう。

 

でも、その一方で、プレイリストの大半は、意外と退屈だったりします。世界中の人が知っているような、超メジャーな曲なのに、聴いてもほとんど心が動かず、しばらくしたら、聴いたことすら忘れてしまうケースの方が、はるかに多いのではないでしょうか。

 

たくさんの人を感動させた実績のあるパワフルな音楽でも、自分の好みにうまく合わなければ、心がまるっきり反応しない、というのは、別に私だけの話ではないはずです。

 

この世界には、幸か不幸か、100%の人間を確実に熱狂させられるような「究極の曲」は存在しません。

 

 

◆ 感受性の違いが生み出す多様性

 

同じことが、音楽以外のジャンルにも言えます。本だって、映画だって、ゲームだって、ファッションだって、何だってそうなのではないでしょうか。どんな分野のどんな優れた作品や商品であっても、人によって合うものと合わないものがあります。

 

そして、各人が自分に合うものを強く求めていく中で、それに呼応する形で、それぞれの分野ごとに多様なものが生み出され、流通し、そうした活動を支えるために、しっかりとした社会の仕組みも生み出されてきたのでしょう。

 

ただ、そうした人々の好みの違いは、頭で何かを理解すれば、それで簡単に乗り越えていけるような性質のものではありません。

 

それらは、各人の生まれ持った性質とか、身近な人々や社会からの影響とか、これまでの人生経験などによって、長い時間をかけて育まれてきた感受性の違いによるもので、本人のちょっとした思いつきくらいですぐに変更したり、リセットすることはできないでしょう。

 

というか、むしろ、そういう感受性の違いのために、生活のあらゆる場面でみんなの好みや意見がバラバラに分かれていて、簡単には分かり合えないことを毎日のように思い知らされることによって、私たちは、人間社会における多様性というものを、当たり前の事実として受け入れていくのだと思います。

 

 

◆ 心のフィルターが見えなくするもの

 

とはいえ、それはあくまで、人間社会の多様さをとりあえず知っている、というレベルに過ぎません。この世界が多様だと分かっていても、自分とは好みがまったく違う人たちが、この世界をどんなふうに見たり感じたりしているのか、相手の視点に立って深く理解しているわけではないのです。

 

実際のところ、ほとんどの人にとっては、自分に大きな影響を及ぼす重要人物とか親しい人間でもないかぎり、他の人が何を考え、何を好むかなんて、正直な話、どうでもいいことだと思います。

 

例えば、先ほどの Spotify では、数千万もの曲にアクセス可能で、一生かかってもすべてを聴くことなどできませんが、たとえそれだけの選択肢が用意されていても、興味関心のないジャンルとか、心に刺さらない曲というのは、あってもなくても自分には関係がないわけだし、世界中の音楽を片っ端から試してみたいという欲求に駆られる人も、ほとんどいないのではないでしょうか。

 

そもそも私たちは、自分で意識的に音楽を聴いていないときでも、テレビ番組や店内のBGMなどの形で、しょっちゅう何かの曲を耳にしていますが、それらが自分の好みに合わないときは、心の中の感受性のフィルターで無意識のうちに弾いてしまうので、自分が今、音楽に触れていることにすら気づかなかったりします。

 

つまり、自分が興味を持てないものは、それがいくら目の前に存在しても、まったく意識せずに無視してしまうわけで、実質的に、それが存在しないのと同じになってしまうのです。

 

もちろん、そうした心のフィルターは、本当に大切なものだけに意識を集中させ、生存を有利にするために、人類が長年の進化の過程で身につけてきた重要な能力の一つだし、自分の意思で好きなように解除できるものでもありません。

 

しかし、そういう機能が、幼い子供の頃から休みなく働き続けているので、私たちは、心のフィルターなしでこの世界がどのように見えるのかを知らないし、この世界の多様性が生み出している豊かな現実を、そのままの形で味わうこともできないのです。

 

 

◆ この世界の途方もないリアリティを、そのまま把握できる人間はいない

 

つまり、私たち個人個人は、それぞれの興味関心に合わせて、世界のほんの一部だけなら深く味わっているし、そうした個人の体験を全部まとめて、人類全体として見るなら、この世界に存在する膨大なモノや出来事を享受していることになるのでしょうが、それぞれの個人には、残念ながら、そうした全人類レベルの途方もない体験そのものを、ダイレクトに認識したり理解したりする力はありません。

 

むしろ、私たちの感覚は、各々の感受性とか興味関心の傾向によって、かなり偏っているというか、歪んでしまっているとさえ言えます。

 

だから、もしも、自分が個人的に味わっている世界の小さな断片だけでは満足できず、人類全体のレベルで見たこの世界がどうなっているのかを想像してみようとするなら、頼りない理屈の力を総動員して、自分の心に映る世界の歪みを何とか補正しつつ、さまざまな分野の膨大な情報をあちこちからかき集めて、そこにつけ加えていく必要があるでしょうが、それでも、解像度の非常に低い、ぼんやりとしたイメージを思い描く程度のことしかできないでしょう。

 

それに、それではあまりに不完全すぎて、かえってこの世界についての誤解を深めてしまうだけかもしれません。結局のところ、この宇宙の巨大さや複雑さをそのままの形で把握し、味わい尽くすことができる人など誰もいないのです。

 

 

◆ 多様性を生み出す土壌を守る
 
私たちの社会が、多様性というものを口では持てはやしながらも、実際には何となく軽視しがちなのは、そのせいなのかもしれません。

 

むしろ、放っておくと、自分の狭い世界観とか価値観に合うものだけで、世界を強引に塗りつぶしてしまおうとする人物が現れたり、そういう人たちの過激な意見が、けっこう多くの人々の支持を集めたり、実際に行動に移されてしまったりします。

 

しかし、たとえそこまで深刻な状況にはならないとしても、私たちは、社会のあちこちで、多様なモノや考え方がつねに生み出されるような仕組みを守り続けていく必要があるし、そのためにはもちろん、大勢の人々が意識的な努力をし続けなければなりません。

 

私たちそれぞれのとても個人的で偏った嗜好に、なぜかぴったりと合う素晴らしいモノや考え方が、つねに身近なところに存在していて、誰に遠慮することもなく、それらを気軽に楽しむことができるためには、そうしたものを生み出す土壌がしっかりと維持されている必要があるのです。

 

また、社会の多様性を守ろうとすれば、物事を一つの単純な考え方で割り切ってしまうことを不可能にするので、実際にはかなり面倒くさいというか、スッキリしないモヤモヤを、みんなが少しずつ抱えることになります。

 

多様性のある社会とは、いろいろな人が、つねにいろいろなことをやらかす社会でもあるわけで、それがもたらす多少の混乱や手間を、おおらかに許容する文化も守り続けなければならないでしょう。

 

 

◆ 自分らしく生きる試みが、世界に多様性をもたらすのでは?

 

とはいえ、世界のすべてを把握しているような人が誰もいない中で、世界観も価値観もバラバラな人々の間に、それなりのコミュニケーションや共通の認識を成り立たせたり、世の中の仕組みを少しずつ改良していくのは、簡単なことではありません。

 

やはり私たちは、賢くて使命感にあふれた人たちが、素人にはよく分からない、立派な仕事をしてくれるのを期待するしかないのでしょうか?

 

たしかに、そうせざるを得ない面があるのは否定できないし、実際、今の社会の仕組みは、非常に専門的で複雑な問題に対処できる膨大な人々の手によって支えられています。

 

ただ、そういう専門家ではない、ごくふつうの人間にもできることがあるとしたら、それは、自分自身の内面にしっかりと目を向け続けることなのかもしれません。

 

たとえ時間がかかっても、心の底から好きなことを見つけ出し、それを心から味わい、さらには、たとえ一歩ずつでも、自分の望む生き方を実現しようと試みることによって、ささやかながら、世界に多様性をもたらし、それを守り育てる活動に参加していることになるのではないでしょうか。

 

私たちが、他人の目を気にして自分を抑圧しすぎず、何とか世の中と折り合いをつけながら、可能なかぎり自分らしく生きようとすれば、その試行錯誤自体が、おのずとこの世界を豊かにしていくのだと思います。

 

そういう無数の行為が寄り集まって生み出しているこの世界の全体像は、私たちそれぞれの目には見えないかもしれませんが……。

 

 

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at 20:06, 浪人, つれづれの記

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老いの自覚と心身のケア

あえて言うまでもないことではありますが、ふだんの生活でどれだけ気をつけていても、歳を重ねるにつれて、身体のあちこちに不調が出てくるのは防ぎようがなく、誰もが必ず、それなりの対処を迫られることになります。

 

これは、いいとか悪いとかいう問題ではなくて、この世界に存在するものの、避けられない宿命なのでしょう。他の生き物にしても、ずっと元気なままでいられないのは人間と同じだし、機械や道具にしても、必ず経年劣化していき、長く使えば使うほど、ますます頻繁な手入れが必要になります。

 

もちろん、老化による不調は、放っておいても自然によくなることなどなく、むしろどんどん悪化していくので、ネットや図書館で調べて可能な限りのセルフケアをしてみたり、不安なら、早めに医者に相談しておくべきなのでしょう。その先のことを考えるなら、生活習慣とか食生活の大幅な見直しをする必要もあるかもしれません。

 

こうしたことについて、学校や身近な大人たちから、何か役に立ちそうなことを教えてもらった記憶はありませんが、実際には、あえて誰かにアドバイスしてもらうまでもないでしょう。いろいろな不調とか苦痛に追い立てられれば、誰だって、少しでも楽になるために何をすればいいか、必死で調べ、考え、行動するようになるはずなので。

 

若いうちなら、そういうことは、はるか先の話だと思って放置していられるのですが、それなりの歳になれば、やがて、自分の老いを自覚する瞬間が、静かに、そして確実にやってきます。

 

若い時と同じような生活をまだまだ続けていたいのに、それが体力的にも、精神的にも、だんだんしんどくなってきたり、これまでずっと、気がつかないフリをしてごまかしてきた慢性的な身体のトラブルを、もはや無視できなくなって、自分はもう、若くはないんだな……と完全に認めざるを得なくなる、とても切ない瞬間です。

 

自分の老いを悟るだけならともかく、心身の不調がひどく、日常生活に支障をきたすレベルになれば、さすがに誰かに助けを求めざるを得ないし、この先、自分はあとどのくらい普通に暮らしていられるのだろうかと、残された時間の短さなどを、強く意識しないではいられなくなるでしょう。

 

そして、そういう瞬間を、誰もがみな、人生のどこかで体験するのだと思います。老化のスピードは、各人の体質とか、これまでの生活習慣によってかなり差があるだろうから、尻に火がつくタイミングが、人それぞれに違うというだけです。

 

ただ、誰がどんな心身のトラブルに見舞われるかは、そのときになってみないと分かりません。将来を正確に見通した上で、あらかじめ万全の準備をしておくことなどできないので、ほとんどの人は、急なトラブルで切羽詰まってから、泥縄式に対処する形になるのではないでしょうか。

 

それでも、必要に迫られての対応を重ねるうちに、多くの人が、自分の心や体の状態について、これまでよりもずっと注意深くなるはずだし、トラブルを抱えている箇所については、基本的なセルフケアの方法くらいは身につくでしょう。

 

それは、テレビのバラエティ番組や新聞の家庭欄でよく見かける、その場で数分もあればできるような簡単な体操であったり、シンプルな呼吸法であったり、睡眠の質を高めるコツや寝具の調整法だったりと、人それぞれだと思います。身体の痛みやこりを軽減するために、自分でできる整体のやり方などを学ぶ人もいるでしょう。

 

また、中には、もっと本格的に、ジムに通い始めたり、気功やヨガなどを習ったり、あるいは、体系だった理論をもとに、食事の内容や生活パターンを根本的に見直したりする人もいるかもしれません。

 

そうしたさまざまな取り組みの結果、体調が一時的によくなることもあるだろうし、ときには、何かの方法がうまく作用して、驚くほどの効果を発揮し、それまでずっと悩まされてきた心身の不調が劇的に改善され、これまでにない軽快感を覚えるようなことも、あり得ない話ではないでしょう。

 

しかし、どんなにすぐれた処置をしても、老化自体をストップすることはできないので、数年もすれば元の木阿弥になってしまいます。

 

ちょっといい感じになって、一服できたと思ったら、すぐに死神の姿が遠くに見えてくる、という感じでしょうか。

 

でも、たとえ一時しのぎに過ぎないとしても、自分の心身への関心を保ち、できる範囲で対処したり、あまり無理せずいたわるように心がけていくことは、決してムダではないと思います。

 

死神に追い立てられながらではあっても、常に心身に注意を向け、その微妙な感覚の変化に気づけるようになれば、ふだん自分がまったく意識していないところでも、24時間しっかりと働き続け、日々の生活を支えてくれている身体の仕組みの精妙さに改めて驚き、その健気さに感謝する機会も増えるでしょう。

 

そして、とても月並みな表現ではありますが、限りある命の尊さを再認識し、自分の身体を愛おしむ気持ちも湧いてくるのではないでしょうか。

 

もしも、死なない身体なんていうものを持っていたら、きっと、その丈夫さに甘えて、ただひたすら鈍感になり、身体を一方的に酷使するばかりで、そのありがたみに気づくこともないでしょう。私たちは、いつか死ぬ運命にありますが、そのことから目を背けず、きちんと受け入れるからこそ、限られた日々の貴重さを、心から噛みしめることができます。

 

もちろん、命の尊さを再認識しようと、死の運命を受け入れようと、死そのものから逃れられるわけではないので、やがていつかは、死神に追いつかれる瞬間がやってくるわけですが……。

 

 

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at 20:01, 浪人, つれづれの記

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心身に染みついた溜め込みグセ

◆ 「ネット以前」に染みついた思考と行動のパターン

 

今では当たり前すぎて、ほとんど意識する人もいないかもしれませんが、映画にしても、音楽や本にしても、昔のようにDVDとかCDとか紙の本の形で買ったり保存したりする必要はなく、いつでも気が向いたときにネット経由で楽しめるようになっています。

 

しかし、若い人たちはともかく、ずっと昔の、いろいろと不便だった時代に生まれ育った私のような人間は、こうした世の中の大きな変化を頭では分かっているつもりなのですが、長年にわたって染みついた、古い思考と行動のパターンをいまだに引きずっています。

 

例えば、それは、実際に形のあるモノを手にしないと満足できなかったり、何でも必要以上に溜め込みたがる悪いクセとして、今なおひんぱんに顔を出してきます。

 

そしてこれは、私だけの話ではなくて、同世代や、もっと年長の世代の多くの人が、同じような「症状」を抱えているのではないでしょうか。

 

いちおう弁解しておくと、それは、私たち昔の人間が、特別に意地汚く生まれついたということではなくて、物心ついたときから、欲しいモノを手に入れ損ねたり、失ったりするような痛い経験を何度も繰り返す中で、いつの間にか心身に深く刻み込まれてしまった、ほとんど無意識の反応なのだと思います。

 

そして、それはきっと、私たちが、自分にとって本当に大切なモノを取り逃がし、結果的に幸せもつかみ損ねてしまうのではないかという不安を、常に抱いていることの裏返しでもあるのでしょう。

 

思い返せば、インターネット以前の世界では、自分が心から熱中できたり、何度でも味わいたいと思えるような素晴らしいコンテンツにめぐり合うことは、大変な幸運でした。

 

当時でも、とりあえず「一般大衆」向けに大量生産されたコンテンツは豊富にあったし、それで満足することもできなくはなかったのですが、自分の心にもっと深く刺さるものをどこまでも追い求めていこうとするなら、やはりそれでは不十分です。

 

しかし、メジャーでない作品については、その流通も、それらに関する情報も、非常に限られていました。

 

そういう環境の中で、例えば、本好きの人間なら、書店はもちろん、図書館や古書店に足繁く通うなど、それなりの手間暇をかけ、できることは何でもやってみようとしたものです。そして、たまたま運よく、「これだ!」と思うような本に巡り合えたら、たとえ自分の懐がどんなに寂しくても、何とかしてそれを確保しておく必要がありました。

 

「この場はいったん引き揚げてゆっくり考え、どうしても必要なら出直そう」などとのんびり構えていたら、誰かにその本を持っていかれて二度と出合えず、ずっと後悔し続けることになりかねません。

 

若い頃に、そんな体験を重ねてきたせいか、今、自分が絶対に必要だとは思わないようなモノでも、よく考える前に、とにかく手元に溜め込んでおこうとするクセがどうしても抜けないのです。

 


◆ ネット上へ移行する溜め込みグセ

 

そして、そうした思考と行動のパターンは、インターネットが普及し、世の中の仕組みが大きく変わりつつある今でも、基本的には変わっていません。

 

ネットで膨大な情報が手に入るようになって、さすがに、紙の本を溜め込むような習慣は薄れつつあるのかもしれませんが、今度は、ネット上の情報を溜め込もうとしてしまうのです。

 

面白い記事に出合ったら、まずはそれをクラウド・ストレージに保存しようとするし、青空文庫みたいな、いつでも読める無料の電子書籍でさえ、まだ読むと決めたわけでもないのに端末にダウンロードして、手元にデータを確保しておきたくなってしまいます。

 

冒頭に書いたように、現在の私たちは、何かを観たり聴いたり読みたくなったりしたまさにその瞬間に、ネット上のしかるべき場所からデータをダウンロードすればいいわけで、あらかじめそれらを溜め込んでおく必要などありません。

 

お気に入りのブログ記事なども、とりあえずリンクだけ保存しておくか、記事のタイトルや書き手の情報などをどこかにメモしておけば、後からリンクをたどったり検索したりするだけで、すぐにオリジナルの記事にたどり着くことができます。

 

しかし、それを頭では十分に分かっていても、もしかしたらそのコンテンツに再会できなくなるかもしれない、という心配を完全に拭い去ることができず、できれば、自分が管理できる場所にデータを囲い込んでしまおうとするのです。

 

たしかに、電子書籍の場合など、配信サービス業者の撤退などで、これまでに購入した本が読めなくなるようなことは何度か起きているし、ブログやニュース記事なども、書き手や管理者の都合で、ある日突然削除されたり、中身を大幅に書き換えられてしまうことがあります。

 

また、ちょっと大げさな話になりますが、何かのきっかけで、世界全体で大きな揺り戻しが起きて、ネット世界の基本的なルールが大幅に書き換えられてしまったり、情報の価値や扱われ方が短期間で大きく変わって、これまで簡単に手に入ったさまざまなコンテンツが、急に手の届かないものになってしまう可能性も、まったくないとは言い切れません。

 

もっとも、いざそういう事態になったら、世の中に対するインパクトは、もちろん、自分のお気に入りの記事が再び読めるかどうか、などというレベルで収まるはずもなく、それこそ、私たちのプライバシーとか行動の自由をめぐって、はるかに深刻な問題に直面しそうですが……。

 

そして、そういう最悪のパターンをあれこれ想像し、万が一の事態に先回りして保険をかけておこうとするのも、これまた、人間が長い歴史を通じて身につけてきた悲しい習性の一つなのでしょう。

 


◆ 溜め込むことのデメリット

 

それはともかく、実際の日常生活では、そういう妄想的な不安はほとんどすべて杞憂なので、わざわざ手間をかけてデータの確保に走らなくても、まず何の問題も起きないと思います。

 

それに、私の場合、クラウド・ストレージにいろいろなデータを溜め込んではいるものの、後でそれらを見返したり整理したりすることはほとんどありません。むしろ、毎日ネット上に追加されていく新たな情報を追うだけで精一杯だし、囲い込んだデータの山がどんどん膨れ上がっていくのをどうするか、という別の問題も生じてきます。

 

もちろん、知的生産性の高い人の中には、創造的な活動のための下地として、そうしたデータをフル活用できる人もいるのでしょう。

 

しかし、私を含めた大多数の人間にとっては、情報を溜め込むことのメリットよりも、デメリットの方が大きいような気がします。抱え込んだ情報の山が大きくなるのに比例して、何かが豊かになっているという実感はほとんどなく、むしろ逆に、処理しなければならない仕事が増えていくようなウンザリ感がこみ上げてくるのです。

 

もっとも、ネット上のデータの場合は、保管にほとんど費用がかからないので、かける手間暇の問題は別にして、少なくとも金銭面で家計を圧迫することはないし、昔みたいに、本やビデオテープの山が崩れて下敷きになったり、床が抜けたり、つき合いきれなくなった家族に勝手にコレクションを処分されたり、といった悲劇がないだけマシなのかもしれません……。

 


◆ 身についた習慣は変えられない?

 

ただ、自分自身の思考と行動のパターンを観察していると、ひたすらデータを溜め込もうとしがちなのは、もしかすると、大事なデータにアクセスできなくなることへの不安から、というより、単に、これまでの生活の中で慣れ親しんできた、昔からの行動パターンを変えられないだけなのではないか、という気もします。

 

今、世界中がものすごい勢いで変化していて、これまでと同じ思考と行動を続ける意味がどんどんなくなっているにもかかわらず、私を含めた非常に多くの人々が、幼いころに身近な人から教えられたことや、これまでの人生の経験の中で自ら学んだり、身につけてきたことを、今なおしっかり守り続けていたりします。

 

もちろん、私たちは、新しい社会の仕組みに適応するために、そうした習慣の一部だけでも変えていかなければならないのですが、これまでに築き上げた思考と行動のパターンに安住する心地よさを守りたい、という気持ちはあまりにも強いので、私たちの心はつねにその両方の動きに引き裂かれているし、それがもたらす心の混乱が、生活のあらゆる面に顔を出してきて、そのたびに私たちを不安にさせるのでしょう。

 

その混乱から脱け出すためには、古い思考と行動のパターンをサッサと捨ててしまえばいいのでしょうが、さすがに、人間はそれほど便利にはできていません。

 

戦争やその後の混乱期を知る世代が、戦後、どんなに豊かになっても子供時代の飢えや貧しさの経験を忘れられず、どうしても食べ物やモノを溜め込んだり、捨てられなかったりするように、そうした飢えとは無縁な私たちの世代でさえ、ネットの豊かな世界と何年つき合おうと、ずっと昔に身につけてしまった溜め込みグセを手放すことは、死ぬまでできないのかもしれません。

 

無尽蔵な情報の海を、変に囲い込んだりすることなく、自由に利用して、軽快に楽しむことができるのは、やはり、デジタル・ネイティブ世代より先のことになるのでしょうか……。

 

 

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at 20:20, 浪人, つれづれの記

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