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心身に染みついた溜め込みグセ

◆ 「ネット以前」に染みついた思考と行動のパターン

 

今では当たり前すぎて、ほとんど意識する人もいないかもしれませんが、映画にしても、音楽や本にしても、昔のようにDVDとかCDとか紙の本の形で買ったり保存したりする必要はなく、いつでも気が向いたときにネット経由で楽しめるようになっています。

 

しかし、若い人たちはともかく、ずっと昔の、いろいろと不便だった時代に生まれ育った私のような人間は、こうした世の中の大きな変化を頭では分かっているつもりなのですが、長年にわたって染みついた、古い思考と行動のパターンをいまだに引きずっています。

 

例えば、それは、実際に形のあるモノを手にしないと満足できなかったり、何でも必要以上に溜め込みたがる悪いクセとして、今なおひんぱんに顔を出してきます。

 

そしてこれは、私だけの話ではなくて、同世代や、もっと年長の世代の多くの人が、同じような「症状」を抱えているのではないでしょうか。

 

いちおう弁解しておくと、それは、私たち昔の人間が、特別に意地汚く生まれついたということではなくて、物心ついたときから、欲しいモノを手に入れ損ねたり、失ったりするような痛い経験を何度も繰り返す中で、いつの間にか心身に深く刻み込まれてしまった、ほとんど無意識の反応なのだと思います。

 

そして、それはきっと、私たちが、自分にとって本当に大切なモノを取り逃がし、結果的に幸せもつかみ損ねてしまうのではないかという不安を、常に抱いていることの裏返しでもあるのでしょう。

 

思い返せば、インターネット以前の世界では、自分が心から熱中できたり、何度でも味わいたいと思えるような素晴らしいコンテンツにめぐり合うことは、大変な幸運でした。

 

当時でも、とりあえず「一般大衆」向けに大量生産されたコンテンツは豊富にあったし、それで満足することもできなくはなかったのですが、自分の心にもっと深く刺さるものをどこまでも追い求めていこうとするなら、やはりそれでは不十分です。

 

しかし、メジャーでない作品については、その流通も、それらに関する情報も、非常に限られていました。

 

そういう環境の中で、例えば、本好きの人間なら、書店はもちろん、図書館や古書店に足繁く通うなど、それなりの手間暇をかけ、できることは何でもやってみようとしたものです。そして、たまたま運よく、「これだ!」と思うような本に巡り合えたら、たとえ自分の懐がどんなに寂しくても、何とかしてそれを確保しておく必要がありました。

 

「この場はいったん引き揚げてゆっくり考え、どうしても必要なら出直そう」などとのんびり構えていたら、誰かにその本を持っていかれて二度と出合えず、ずっと後悔し続けることになりかねません。

 

若い頃に、そんな体験を重ねてきたせいか、今、自分が絶対に必要だとは思わないようなモノでも、よく考える前に、とにかく手元に溜め込んでおこうとするクセがどうしても抜けないのです。

 


◆ ネット上へ移行する溜め込みグセ

 

そして、そうした思考と行動のパターンは、インターネットが普及し、世の中の仕組みが大きく変わりつつある今でも、基本的には変わっていません。

 

ネットで膨大な情報が手に入るようになって、さすがに、紙の本を溜め込むような習慣は薄れつつあるのかもしれませんが、今度は、ネット上の情報を溜め込もうとしてしまうのです。

 

面白い記事に出合ったら、まずはそれをクラウド・ストレージに保存しようとするし、青空文庫みたいな、いつでも読める無料の電子書籍でさえ、まだ読むと決めたわけでもないのに端末にダウンロードして、手元にデータを確保しておきたくなってしまいます。

 

冒頭に書いたように、現在の私たちは、何かを観たり聴いたり読みたくなったりしたまさにその瞬間に、ネット上のしかるべき場所からデータをダウンロードすればいいわけで、あらかじめそれらを溜め込んでおく必要などありません。

 

お気に入りのブログ記事なども、とりあえずリンクだけ保存しておくか、記事のタイトルや書き手の情報などをどこかにメモしておけば、後からリンクをたどったり検索したりするだけで、すぐにオリジナルの記事にたどり着くことができます。

 

しかし、それを頭では十分に分かっていても、もしかしたらそのコンテンツに再会できなくなるかもしれない、という心配を完全に拭い去ることができず、できれば、自分が管理できる場所にデータを囲い込んでしまおうとするのです。

 

たしかに、電子書籍の場合など、配信サービス業者の撤退などで、これまでに購入した本が読めなくなるようなことは何度か起きているし、ブログやニュース記事なども、書き手や管理者の都合で、ある日突然削除されたり、中身を大幅に書き換えられてしまうことがあります。

 

また、ちょっと大げさな話になりますが、何かのきっかけで、世界全体で大きな揺り戻しが起きて、ネット世界の基本的なルールが大幅に書き換えられてしまったり、情報の価値や扱われ方が短期間で大きく変わって、これまで簡単に手に入ったさまざまなコンテンツが、急に手の届かないものになってしまう可能性も、まったくないとは言い切れません。

 

もっとも、いざそういう事態になったら、世の中に対するインパクトは、もちろん、自分のお気に入りの記事が再び読めるかどうか、などというレベルで収まるはずもなく、それこそ、私たちのプライバシーとか行動の自由をめぐって、はるかに深刻な問題に直面しそうですが……。

 

そして、そういう最悪のパターンをあれこれ想像し、万が一の事態に先回りして保険をかけておこうとするのも、これまた、人間が長い歴史を通じて身につけてきた悲しい習性の一つなのでしょう。

 


◆ 溜め込むことのデメリット

 

それはともかく、実際の日常生活では、そういう妄想的な不安はほとんどすべて杞憂なので、わざわざ手間をかけてデータの確保に走らなくても、まず何の問題も起きないと思います。

 

それに、私の場合、クラウド・ストレージにいろいろなデータを溜め込んではいるものの、後でそれらを見返したり整理したりすることはほとんどありません。むしろ、毎日ネット上に追加されていく新たな情報を追うだけで精一杯だし、囲い込んだデータの山がどんどん膨れ上がっていくのをどうするか、という別の問題も生じてきます。

 

もちろん、知的生産性の高い人の中には、創造的な活動のための下地として、そうしたデータをフル活用できる人もいるのでしょう。

 

しかし、私を含めた大多数の人間にとっては、情報を溜め込むことのメリットよりも、デメリットの方が大きいような気がします。抱え込んだ情報の山が大きくなるのに比例して、何かが豊かになっているという実感はほとんどなく、むしろ逆に、処理しなければならない仕事が増えていくようなウンザリ感がこみ上げてくるのです。

 

もっとも、ネット上のデータの場合は、保管にほとんど費用がかからないので、かける手間暇の問題は別にして、少なくとも金銭面で家計を圧迫することはないし、昔みたいに、本やビデオテープの山が崩れて下敷きになったり、床が抜けたり、つき合いきれなくなった家族に勝手にコレクションを処分されたり、といった悲劇がないだけマシなのかもしれません……。

 


◆ 身についた習慣は変えられない?

 

ただ、自分自身の思考と行動のパターンを観察していると、ひたすらデータを溜め込もうとしがちなのは、もしかすると、大事なデータにアクセスできなくなることへの不安から、というより、単に、これまでの生活の中で慣れ親しんできた、昔からの行動パターンを変えられないだけなのではないか、という気もします。

 

今、世界中がものすごい勢いで変化していて、これまでと同じ思考と行動を続ける意味がどんどんなくなっているにもかかわらず、私を含めた非常に多くの人々が、幼いころに身近な人から教えられたことや、これまでの人生の経験の中で自ら学んだり、身につけてきたことを、今なおしっかり守り続けていたりします。

 

もちろん、私たちは、新しい社会の仕組みに適応するために、そうした習慣の一部だけでも変えていかなければならないのですが、これまでに築き上げた思考と行動のパターンに安住する心地よさを守りたい、という気持ちはあまりにも強いので、私たちの心はつねにその両方の動きに引き裂かれているし、それがもたらす心の混乱が、生活のあらゆる面に顔を出してきて、そのたびに私たちを不安にさせるのでしょう。

 

その混乱から脱け出すためには、古い思考と行動のパターンをサッサと捨ててしまえばいいのでしょうが、さすがに、人間はそれほど便利にはできていません。

 

戦争やその後の混乱期を知る世代が、戦後、どんなに豊かになっても子供時代の飢えや貧しさの経験を忘れられず、どうしても食べ物やモノを溜め込んだり、捨てられなかったりするように、そうした飢えとは無縁な私たちの世代でさえ、ネットの豊かな世界と何年つき合おうと、ずっと昔に身につけてしまった溜め込みグセを手放すことは、死ぬまでできないのかもしれません。

 

無尽蔵な情報の海を、変に囲い込んだりすることなく、自由に利用して、軽快に楽しむことができるのは、やはり、デジタル・ネイティブ世代より先のことになるのでしょうか……。

 

 

JUGEMテーマ:日記・一般

at 20:20, 浪人, つれづれの記

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食べ始めたら別人

新型コロナウイルスとは関係がないのですが、最近、何だかんだで、かなり夜更かしをするようになりました。一方、夕食の時間はそのままで、何時間か経つとさすがに腹が減ってくるため、真夜中になってから、夕食の残りとかお菓子を食べるのがお決まりのパターンになってしまっています。

 

そんなときは、せめてもの対策として、料理の皿やお菓子の袋をそのままテーブルには出さず、少しずつ小皿に取り分けるようにしています。

 

もちろん、何か食べたい気持ちで頭がいっぱいになっているときに、それらは余計な手間になるし、食べ終わってからも、その小皿をいちいち洗わなければなりません。

 

でも、食べ始める直前の、空腹ではあるけれど、まだ比較的冷静でいられる自分と、食べ始めた直後の、何かに取り憑かれたように食べ物を口に放り込む自分というのは、まるで別人です。そして、一度そういう「やめられない止まらない」モードに陥ってしまうと、食欲を自分の意志でコントロールするのはとても難しく、気がついたら目の前にあるものをすべて食べ尽くしていたりします。それを身に沁みて分かっているからこそ、あえて小皿に移すというひと手間をかけるわけです。

 

もっとも、食べる前と、食べ始めた直後との落差は人それぞれなのだろうし、同じ人でも、腹の減り具合など、その時々の状況によっても行動は違ってくるでしょう。私だって、多少大げさな表現をしていますが、食べ始めた途端に、いつでも食欲が暴走するわけではありません。それでも、どんな人であれ、いったん加速がついた食欲を抑えようとすれば、限りある貴重な意志の力を、それなりに消耗するのではないでしょうか。

 

それに、若い頃は、食欲に任せて食べまくるのが当たり前、みたいに思っていましたが、そういう行為を数えきれないほど繰り返しては、それがもたらす短期的・長期的な結末にげんなりしているうちに、だんだんバカバカしく感じるようにもなってきました。

 

そして、自分の行動を批判的に観察するようになると、食べる前ならば、食欲をコントロールするのはそれほど難しくないので、その時点で食べる量を決めてしまい、(中身が多く見える)小さな皿に盛りつけ、それ以外はすぐに片づけて、目の届く範囲から隠せばいいことが分かってきました。

 

まあ、本当に腹が減っているときは、そんな小細工をしてもムダで、すぐにその一皿を食べ尽くし、席を立って自分で「おかわり」を盛りつけにいくだけのことなので、いつも成功するわけではないのですが、手が届くところに余計な食べ物を置かないようにすれば、何も考えずにそれを口にするような行動は止められるので、効果はかなり大きいといえます。

 

もちろん、私の意志の力がもっと強ければ、小腹が空いたくらいの理由で、いちいち何かを口に入れようとは思わないだろうし、そういう、間食を一切しないシンプルな生活を確立することができるなら、長い目で見て、心身にいい影響を与えることができるのかもしれません。

 

ただ、個人的には、間食をする「だらしなさ」くらいは、自分に許してあげたい気がします。というか、何もかもきっちりとした禁欲的な生活みたいなのは、きっと私には無理でしょう。

 

実際、これまでに何度もそういう「だらしなさ」への誘惑に負け続け、どんどん生活がルーズになり、さすがに無視できない状況になってから、ようやく決意して少しだけ立て直す、みたいな展開を繰り返してきました。

 

その中で、「分かっちゃいるけどやめられない」行動を何とかコントロールしようとするなら、いきなり力づくで抑圧するよりも、まずは、自分の陥りがちな行動パターンを観察して、いちばん楽に介入できそうなタイミングで行動を少しずつ変えていく方がいい、ということを学んできたのだと思います。

 

そして、同じことが、ネット上の膨大な情報への対応にも当てはまるかもしれません。

 

一つの記事は、別の関連記事へ、一つの動画は、別の関連動画へと芋づる式につながっているので、一つ読んだり、一つ見たりし始めると、次々にクリックして止まらなくなってしまいがちだし、ウェブサイトを運営する側だって、利用者がそういう風にいつまでも居座ってくれるよう、考えつくかぎりの巧妙な仕掛けを用意して待ち構えています。

 

だからこちらも、読みたい記事や見たい動画を、いったん「小皿に取り分ける」ようにした方がいいと思います。

 

例えば、ほんとうに読みたい記事や見たい動画だけをあらかじめ選び、それらをブックマークアプリなどに移すというひと手間をかければ、前のめりになっている気持ちをクールダウンできるし、芋づるも(ある程度は)断ち切ることができます。その後、アプリ経由で記事や動画に手をつけ、それらを見終わった時点ですぐに切り上げるような習慣を身につければ、クリック地獄にはまり込む恐れは少し減るし、クリック衝動をガマンするために、余計な意志力を費やす必要もなくなるでしょう。

 

ただし、こういう方法は、いつでもどこでも通用するわけではありません。

 

「小皿に取り分ける」やり方をしっかり身につけたとしても、そういう制約をかけられない場、つまり、ふつうの飲み会とか食事会の場で、目の前に料理がズラッと並んでいるようなときに、ちゃんと自制しつつ飲み食いできるようにはならないだろうし、むしろ、ふだんはガマンしているだけに、そういう場ではタガが外れてしまうかもしれません。

 

ネット上での情報摂取にしても、RSSリーダーを使った新着記事のチェックなど、毎日欠かさずやっているような作業なら、選んだ記事を常にブックマークアプリ経由で読むようにルーチン化すれば、欲求の暴走を多少は防ぐことができますが、それ以外の場合、例えば、急いで調べたいことがあったり、ちょっとしたニュースが入ってきたのをきっかけに、あれこれと記事を見始めてしまうようなケースでは、いつものパターン通りの自制ができず、ついそのままズルズルと深みにはまってしまったりします。

 

結局のところ、どんなときでも盤石な自己コントロールみたいなものを確立しようとするなら、特定の行動パターンを身につけるだけでは不十分で、自分の思考と行動を深いレベルで見つめ直し、自分の中の強烈な欲求がいったいどこから来ているのか、もっと本質的な気づきみたいなものを得なければならないような気がします。

 

ただ、そこまでいくと、ほとんど宗教的な修行に近くなってしまうし、だとすれば、口で言うのはともかく、実際にそれを実現するのは、とても難しいことなのかもしれません……。

 

 

JUGEMテーマ:日記・一般

at 19:41, 浪人, つれづれの記

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CDの寿命

ずっと昔に買った音楽用のCD(コンパクトディスク)が、いつの間にか劣化して聴けなくなっていた、みたいな話を、最近、ネット上でポツポツと見かけるようになりました。

 

データが記録されているアルミニウムの薄膜層に空気が触れると、酸化して読み取りができなくなってしまうのだそうで、CDを乱暴に扱って傷つけたり、保存環境が悪かったりした場合はもちろんですが、製造時の品質に問題があって、想定よりもずっと早く劣化が進んでしまうこともあるようです。
CDやDVDの寿命は意外に短い? WIRED

 

最初のCDプレーヤーとソフトが1982年に発売されてから、そろそろ40年になろうとしていますが、1980年代に製造された古いCDの一部が、そうしたさまざまな理由によって寿命を迎えつつある、ということなのでしょう。
ウィキペディア 「コンパクトディスク」
 

私も、かなり昔になりますが、仕事でストレスを抱えていた反動か、CDをやたらに買いまくっていた時期があり、その後、あまり音楽を聴かなくなってからは、それらを押し入れの奥にしまい込んでいました。

 

ずっと昔のカセットテープやビデオテープは、劣悪な環境に放置している間にすっかり傷んでダメになってしまいましたが、CDの方は、特にチェックしたこともありませんでした。ブックレットや歌詞カードはともかく、本体はプラスチック製なのだから、放っておいても大丈夫だと思い込んでいて、いつか気が向いたときにでも、昔の音楽を聴きつつゆっくりと整理しよう……などと考えていたのです。

 

ネット上の情報が正しいなら、そんな日がやってくるずっと前に、ため込んだCDがダメになってしまうかもしれません。さすがに、すぐに全滅してしまうようなことはないでしょうが、劣化が今後、どのくらいの割合で発生するか分からないのは不安です。しかも、ネット上には、CDの外見では劣化に気がつかないことがある、という恐ろしい情報もあり、だとすれば、自分がまだ気がついていないだけで、今この瞬間にも、すでに聴けないCDが出始めている可能性があります。

 

まあ、現在は、手持ちのCDを活用しているとはとても言えない状態なので、かりに多くのCDがダメになっていたところで、ひどい精神的ダメージを負うようなことはないのかもしれません。それでも、自分が生きている間くらいなら余裕で持つだろうと信じて安心しきっていたものが、実は全然そうではなかったと後から分かるのはかなりのショックだし、当時、劣化の件について詳しく知っていたなら、こんなにCDを買い集めることもなかっただろうと思います。

 

しかし、今の時点であれこれ考えてみても仕方のないことです。私がCDを買いあさっていたのは、ネット上の検索一つでいろいろなことが簡単に分かるようになるずっと前のことで、当時の私たちの多くは、実質的に、メーカーの宣伝文句を鵜呑みにするしかありませんでした。

 

それに、この件に関して、かなりショックを受けつつも、それなりに冷静でいられるのは、今では、好きな音楽を聴くための方法が、CD以外にもいろいろあるからなのかもしれません。

 

何よりも、ネット上には定額で音楽聴き放題(または一定時間まで無料)のサービスがあって、「大人の事情」で参加していない一部のアーティストの楽曲を除けば、古今東西の膨大な曲をそこで聴くことができます。もちろん、私がかつて購入したCDの多くも、そうしたサービスでカバーできるので、かりに手持ちのCDが寿命を迎えても、それらの曲を永遠に聴けなくなってしまうことはないでしょう。

 

だから、CDの劣化問題に対する現実的な対応としては、とりあえず、ネット上で聴くことのできない一部のCDだけは、早めに他の記録媒体にバックアップをとっておく、という程度で十分なのかもしれません。

 

現在では、無料でかなり大容量のデータをクラウド保存できるサービスもあるので、この機会に、自分なりに使い勝手の良いサービスを見つけられれば、いざというときの保険になるだけでなく、押し入れの奥からいちいちCDを引っ張り出さなくても、自分の音楽ライブラリーを、ずっと気楽に楽しめるようになるでしょう。

 

実際、そう考えて、とりあえず実験的にデータをアップロードしていて思ったのですが、もしかすると、こうやって個人がどこかに楽曲のデータをため込んでおく必要性自体が、すでに薄れつつあるのかもしれません。

 

ネットにつながることさえできれば、世界中の膨大な楽曲を、非常に低コストでいくらでも楽しめる状況がほぼ実現してしまっている今、私たちにとって重要なのは、楽曲のデータ自体よりも、お気に入りの曲を集めたプレイリストの方です。楽曲のタイトルやアーティスト名のリストさえどこかに保存しておけば、ネット上で、いつでも好きな時にそれらを楽しめるのですから。

 

もしかすると、CDの登場から40年近くを経て、最初期のCDが物理的に劣化し始めるタイミングで、CDという媒体そのものも、そろそろ寿命を迎えつつあるのかもしれません。今後、10年、20年と経過する中で、昭和生まれのCD世代が長年にわたって保管してきたCDが、あちこちで再生不能になっていくのと同時に、CDという媒体に深い思い入れのある人々も、少しずつこの世界から退いていくことになるのでしょう。

 

というか、もしも50年先、100年先までCDを劣化させずに保存できたとして、そのとき、それを再生するCDプレーヤーはこの世に存在しているのでしょうか……。

 

でも、考えてみれば、ネット上の音楽聴き放題サービスにしても、この先、何十年も存続できるかどうかは分かりません。

 

近い将来、人工知能がユーザーの心身の状態をリアルタイムで把握して、本人の好みやそのときの気分に応じたオリジナルの楽曲を、即興で作って聞かせてくれるようになるのではないでしょうか。そしてそれらは、人間のアーティストがあらかじめ制作した楽曲をはるかに上回るポジティブな効果を、私たちの心身にもたらしてくれそうな気がします。

 

そうなれば、私たちは、お気に入りのプレイリストをどこかに保管しておく手間すら必要なくなって、ただ、人工知能の思し召しにすべてをゆだねていれば万事OK、ということになっていくのかもしれません……。

 

 

JUGEMテーマ:日記・一般

at 21:45, 浪人, つれづれの記

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