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「免罪符」の効用

最近、スーパーやコンビニに行くと、さまざまな健康飲料が並んでいるのを目にします。テレビでも、それらがいかに身体にいいかを訴える数十秒のプレゼンが、朝から晩まで繰り返されています。

 

しかし、本気で健康にいい生活をしたいなら、そんなものを毎日飲むより、それなりの運動を習慣づけるとか、酒やタバコを控えるとか、もっと言えば、ストレスの多い仕事をスッパリ辞めて、別の仕事を探すとかした方が、ずっと効果があるのではないでしょうか。

 

でも、健康のために本当にやるべきことを、誰もがためらいもなくできるなら、世界中で健康飲料が大量に飲まれ続けることにはならないわけで、そこには、みんなが健康飲料に手を出さざるを得ない、それなりの理由があるのだと思います。

 

たぶん、私たちにとって、それらは「免罪符」のような存在なのでしょう。

 

かつてヨーロッパでは、人々が教会から免罪符(贖宥状)を買う時代がありました。贖宥状とは、教会への献金と引き換えに、自分がこれまでに犯した罪への償いが軽減されることを証明する書状です。
ウィキペディア 「レオ10世による贖宥状」(贖宥状についての分かりやすい説明があります)

 

ふだんから信仰も言動も非の打ちどころがなく、自分は天国にまっすぐ行けると確信できる人間は、当時も決して多くなかったはずだし、かといって、たとえ地獄に落ちようと、自分はすべてを甘んじて受け入れると開き直れる人もほとんどいなかったでしょう。多くの人は、死ぬまでに延々と償い続けなければならない大小の罪を抱え込んでいただろうし、もしも償いを果たさないうちに死んでしまったら、向こうの世界でいったいどんな苦しみを味わうことになるかと、ひどい不安も感じていたのではないかと思います。

 

だから、とりあえず教会にカネを払うことで、早めに罪を償い、天国入りを確実にしようとするのは、死後のためという以上に、生きている間の安心を得るため、という側面が大きかったのではないかという気がします。

 

当時の人々も、死んだ後にそんなものが本当の役には立たないだろうということは、薄々分かっていたのではないでしょうか。でも、自分が払えるカネと、手に入る安心感を天秤にかけて、とりあえずは、カネで当面の安心を買うことを選んだのではないかという気がします。まあ、私は歴史に詳しくはないので、これはあくまでも素人の勝手な想像に過ぎませんが……。

 

健康飲料にしても、それが万能の秘薬だなどと思っている人はほとんどいないでしょう。しかし、健康にいい生活になかなか踏み切れない事情がある人が、その罪悪感みたいなものを、ささやかなカネと引き換えにいったん忘れ、問題を先送りにするために、それはちょうどいい存在なのだと思います。

 

とりあえずそれらを口にしていれば、体にいいことを何もしていないという心のモヤモヤからは逃げられるけれど、それで問題が解決したとは本人も思っていないでしょう。いつか、もっと本気を出した時には何とかするつもりだけど、今はそこまではできない、だからこれでしばらく静かにしていてね、と、自分の心をうまく丸め込む感じなのではないでしょうか。

 

もしも、そういう免罪符のような働きをしてくれるモノがなかったら、私たちにできることは、すぐさま健康にいいことを始めるか、それができない自分をいつまでも責め続けて苦しむか、それとも、問題があることを否定して、万事OKだと自分にウソをつくか、しかありません。

 

前の二つの選択肢は、どちらも苦しくて大変でしょう。三つ目の選択肢も、自分を偽ることで、より大きなストレスを抱え込むことになりますが、目の前の罪悪感から逃れたい一心で、自己欺瞞に逃げ込んでしまう人は、けっこう多いかもしれません。

 

そう考えると、健康飲料というのは、選択と行動の苦しみからしばらくのあいだ逃げられる、意外に便利な存在で、そういう選択肢がないよりは、ある方がずっとマシなのではないでしょうか。

 

こういうモノがあるおかげで、どちらを選んでも苦しい選択を、いったん保留にすることができるし、問題がまだそのまま残っていることを忘れないよう、リマインダーの役割をさせることもできます。 健康飲料を口にするたびに、それが最終的な解決ではないことを、それとなく自分に思い出させるのです。

 

しかし、習慣というのは、あまりに長いこと続けていると、本人にも、それがもともと何のためだったか分からなくなることがあります。

 

免罪符を購入した昔の人々も、それをカネと引き換えに手にする前の、なまなましい葛藤のようなものは、時が経つにつれて薄れてしまったのではないでしょうか。健康飲料も、何十回何百回と口にしていれば、そのうち、何も考えずに惰性で口にするだけの存在になってしまう可能性はあるでしょう。

 

そうなると、はた目には、本人にとって何の得にもならないことを延々と続けているようにしか見えないかもしれません。それでも、本人はやるべきことをやっていないという罪悪感からはとりあえず逃げ続けていられるわけだし、問題などないと自分を偽る苦しみも抱え込まずに済んでいます。そういう意味では、たとえ惰性であっても、そこにはそれなりのメリットがあるのです。

 

とはいえ、それが問題の先送りであることに変わりはないし、永遠にそれを続けられるものでもありません。

 

それに、健康のために生活を本格的に改めていけば、最初こそ苦しいけれど、やがてしっかりとした成果も見えてきます。本気で始める決意をして、できることから少しずつ取りかかり、あせらず着実に続けていくなら、しばらくは大変でしょうが、やがて新しい習慣が、自分の心身を少しずつ変えていってくれるでしょう。

 

せっかくそういう選択肢があるのに、健康飲料を飲み続けることで、それを保留にしたまま放置してしまうのは、とてももったいないことなのかもしれません。

 

 

JUGEMテーマ:日記・一般

at 20:16, 浪人, つれづれの記

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過去に光を当てる

以前にこのブログで、Spotifyを「懐メロ」プレイヤーとして使っているという話を書いたのですが、今でもたまに気が向くと、Spotifyで昔の曲を漁っては、自分用のプレイリストを作って楽しんでいます。
記事 Spotifyと「懐メロ」
記事 「懐メロ」の効用

 

今は、良くも悪くも激動の時代で、日々、驚くようなニュースには事欠かないし、新しいコンテンツも世界中で次々に生み出されています。若い人たちからすれば、最新の話題についていくだけでも大変だというのに、古ぼけた音楽にわざわざ目を向けている時間などないかもしれません。

 

しかし、もう若くない人間は、むしろ逆で、世の中のめまぐるしい動きについていけないからこそ、思いは自然と、古き良き過去へと向かっていくのです。

 

ある調査によれば、多くの人は、自分が中学生だったころの曲ばかり聴いているようだし、30代になると、新しい音楽を探すのもやめてしまうみたいです。つまり、ある程度歳をとった人間は、みんな懐メロばかり聴いているということになります。もちろん、例外はあるでしょうが。
大人になってからの音楽の好みは14歳の時に聴いた音楽で形成されている FNMNL
新しい音楽を楽しめるのは30歳まで? ニューズウィーク日本版
記事 過去に惹かれる心

 

Spotifyの公式プレイリストも、年代別のものがどんどん充実してきていますが、それも、中高年のユーザーの利用データなどを分析したうえで、彼らのニーズにそれなりに応えようとしてくれている、ということなのかもしれません。

 

個人的には、そうした年代別のプレイリストが増えたおかげで、昔の曲を探すのがさらに簡単になりました。

 

目当ての曲名やアーティスト名をはっきり覚えているなら、そのままダイレクトに検索すれば済むのですが、そういう曲は多くないし、自分で思いつく範囲のものは、もうだいたい検索し尽くしてしまっています。それに、そこまで深い思い入れがなく、曲名もアーティストも全く覚えていないけれど、当時、ラジオとか街頭で何度も流れているのを聞いて、サビのフレーズだけは記憶に残っている、みたいな曲は、めぼしいヒット曲を集めたプレイリストを片っ端からチェックするようなことでもしないと、なかなか見つけられないのです。

 

ただ、年代別のプレイリストは、Spotifyのトップ画面から何度かクリックしないとたどり着けないような、ちょっと分かりにくい場所に置かれています。例えば、デスクトップ版だと、現時点では、トップ画面の「Browse」から「ジャンル&気分」を選択し、そこからさらに「年代別」のコーナーを開き、多数のプレイリストの中から、どれか一つを選ぶ必要があります。

 

でもまあ、Spotifyを懐メロプレイヤーとして使う私のようなユーザーは、課金して月に何十時間も音楽を聴いたりはしないので、運営側も、ビジネスとして、そういう人々のためのサービスを重視することはないでしょう。むしろ、それにもかかわらず、年代別のプレイリストをいろいろ用意し、随時更新してくれていることに、大いに感謝しなければならないのかもしれません。

 

それはともかく、そうやって昔の曲をあれこれ聴いていると、ふと興味がわいて、ときどき、曲名をウィキペディアで検索してみることがあります。

 

みんなが知っているような名曲なら、どんな経緯で曲が生まれたのか、とか、どういう風にヒットしていったか、とか、その後どんなアーティストたちにカバーされたか、みたいな、さまざまなこぼれ話が書かれていることが多く、読んでいて面白いだけでなく、当時、何も知らずに聞き流していた一曲一曲の歌の陰に、深い人間ドラマがあったことを知り、同時代を生きていた人間として、さまざまな感慨も湧いてきます。

 

今思えば、自分が中学生や高校生だったころは、学校で習ったタテマエみたいなことを除けば、大人の社会についてのリアルな知識もなく、日々のニュースも何となく受け流しているだけで、それぞれの出来事にどんな意味があるのか、世界で何が起こりつつあるのか、ちゃんと考えたことなんてほとんどありませんでした。それよりも、思春期の不安定な心身を抱えた自分が、毎日を何とか無事に生きていくだけで精一杯だった気がします。

 

そういう意味では、当時の記憶といっても、自分と身のまわりの、ごく狭い範囲の経験に限られたものでしかなく、あとは誰でも知っているような大事件とか流行したモノなどが、断片的に浮かんでくるだけです。それでも、そのころの音楽を改めて聴いていると、その時代の雰囲気のようなものが、ぼんやりと蘇ってくるような気がするし、その曲やアーティストにまつわるエピソードを読んだり、関連するリンクをたどったりしていると、ああ、そういえばそんなこともあったなあ、という感じで、それをきっかけに記憶のフタがあちこちで開いて、昔のことを少しずつ思い出したり、当時は全く知らなかった意外な事実を知って、いまさらのように驚いたりするのです。

 

もちろん、そうやっていろいろなことを思い出したり、過去の事実を新たに知ったりしたところで、生きていくうえで何かの役に立つということはほとんどありません。

 

ただ、そうやって昔の出来事を脈絡なくたどったり、当時の雰囲気をぼんやり思い出したりして遊んでいると、過去の乏しい記憶の世界が、少しだけ色鮮やかに、そしてポジティブで温かな雰囲気に変わっていくような感じがします。

 

私が10代だったころは、とにかく視野が狭くて愚かで未熟だったから、その当時のオリジナルの記憶も、そんな自分の、相当に歪んだ世界観や価値観のフィルターを通して受けとられ、心に刻み込まれたものばかりです。まあ、今思えば、そのひどい歪みこそが、自分が人間として生きていたという証でもあるので、それなりに大切なものではあるのですが、同時に、そうした記憶の歪みが今に至るまでずっと尾を引いて、いろいろとネガティブな影響をもたらしているのも確かです。

 

しかし、いま、私たちには、インターネットが与えてくれる膨大な情報があります。懐メロをはじめとする過去のコンテンツだけでなく、自分以外の無数の人々が過去をどのように生きてきたのか、それぞれの視点によるさまざまな人生経験とその意味づけがネット上にあふれており、それらを通じて私たちは、ちっぽけな自分というフィルターを通した過去だけでなく、多様な人々が生み出す壮大なドラマとしての過去の世界を、その細部にいたるまで飽きることなく見ていくことができます。そして、自分の記憶もまた、人類を主人公にした超大河ドラマのささやかな一部であることが分かれば、苦しかったり悲しかったりした過去の出来事でさえ、ただのムダな経験ではなかったような気がしてきます。

 

もちろん、いくら当時を振り返ったところで、過去をやり直すことはできないし、先ほども書いたように、今は今で、世の中は激しく動いていて、一瞬たりとも目が離せないような状況なのだから、それがどんなに心地よく癒される体験だからといって、過去の世界にばかり浸っているわけにもいかないでしょう。

 

それでも、そうやって、現在のネットが可能にした圧倒的な情報量をもって過去に光を当てることで、過去の出来事を変えることはできなくても、自分の過去をどう意味づけるか、その解釈はもっとポジティブなものに少しずつ変えていくことができます。そして、たとえそこまではいかなくても、過去の世界に何度か親しんでいるうちに、それは、ずっと放置されたままだった、ほこりだらけの物置小屋のような世界から、しばらくのあいだ心を休めることくらいはできそうな、ほんのりと温かみのある世界に見えてくるかもしれません。

 

もしかすると、歳をとった人間が、懐メロみたいなものにだんだん興味が湧いてくるのは、現代の世の中の動きについていけなくなったからだけではなく、心の片隅に封印したり放置したままだった過去のさまざまな記憶とそろそろ向き合う準備ができた、というサインでもあるのかもしれません。

 

恥ずかしかったり情けなかったりしてずっと目を背けてきた当時の出来事も、さすがに何十年も経てば、何とか耐えられるくらいにはなるだろうし、人生経験を重ね、それなりに知恵もついてきた今の自分は、ずっと昔の自分の判断や行動を、あるていど冷静に、寛容に受け止めることができるようになっているでしょう。

 

Spotifyで昔の懐かしい曲を聴いて、久しぶりにゆっくりと過去の感傷に浸ったら、あのころ、わけもわからず精一杯生きていたのは自分だけではなく、まわりの人々もほとんどがみなそうだったのだということを改めて思い、それに免じて、かつての自分の数々のあやまちを許してあげるのもいいかもしれません。もちろん、何でもかんでもOK、というわけにはいかないでしょうが……。

 

 

JUGEMテーマ:日記・一般

at 20:33, 浪人, つれづれの記

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探求と選択と自覚のプロセス

◆ ネット上の情報選択

 

以前にもこのブログで何回か書きましたが、私はネット上での情報収集のために、今でもRSSリーダーを愛用しています。
記事 カレイドスコープ・メディアの時代?
記事 RSSリーダーの「断捨離」
記事 最強のエンターテインメント?

 

ずっと昔、RSSリーダーを使い始めたころは、登録したサイトの数もそれほどではなかったので、ちょっとした散歩でもするような気持ちで、見出しをざっと眺めてみたり、気になった記事を読んでみたりという作業を、行き当たりばったりに繰り返していました。

 

しかし、チェックしたいサイトの数がどんどん増えて、フィードの数も膨大になると、気分にまかせてあちこち寄り道するようなやり方を楽しむ余裕がなくなりました。それではとにかく疲れるし、時間がかかりすぎます。いったん始めたチェック作業がいつ終わるのか目処が立たず、好きなことをしているはずなのに、だんだんイライラしてくるのです。

 

それでも、毎日膨大なフィードを処理しているうちに、おのずと、作業の流れのようなものが確立されていきました。今は、RSSリーダーを立ち上げるのは一日2〜3回ほどに制限し、そのさいにはできるだけ時間をかけず、自分の興味関心にうまく当てはまるものとか、特に理由はないが何となく気になるものを、流れ作業で瞬時に選別する感じで、読む記事と読まない記事とをどんどん振り分けていきます。

 

この時点で、一度読まないと判断された記事を、あとで読むような機会は二度とありません。明日になれば、いや、数時間後には、RSSリーダーに次の新しいフィードが大量に溜まっているので、もはや、過去にさかのぼって記事の再チェックをしているような時間はないのです。だから、一瞬の判断で読まないと決めた記事については、初めから縁がなかったということで、すっぱりと忘れ去るしかありません。そして、読むと決めた記事だけを、後で時間をみつくろって、少しずつ読んでいきます。

 

とはいえ、こういうフィードのチェック作業には、かなりの集中力が必要だし、目も頭もけっこう疲れます。それに、こうした作業に毎日かなりの時間もかかっているので、それらが自動化できたら、かなり楽だろうな、とは思います。実際、ネット上のさまざまなサービスも、そういう方向に向かって開発と進化が進んでいるように見えます。

 

 

 

◆ 探求と選択と自覚のプロセス

 

そして、日常生活において、こうしたチェックや選別のプロセスというのは、至るところに存在します。

 

例えば、テレビのザッピング。私たちは、ひとりでボーっとテレビを見ているときなど、チャンネルを目まぐるしく変えながら、見たい番組を決め、それと同時に、いくつもの裏番組という別の選択肢を捨てていきます。

 

あるいは、私たちは、巨大なショッピングモールやネット通販のサイト上を、特にあてもなくぶらついたりします。そして、ゆっくりと時間をかけ、膨大な商品の山に目を泳がせながら、その中のごくごくわずかな、自分が本当に欲しいと思うものだけを選び出していくわけですが、それは同時に、他の無数の商品を購入する可能性を、バッサリと切り捨てていくことでもあるのです。

 

私たちは日夜、ムダとしか思えないような多大な時間と手間暇をかけて、目の前に広がる数え切れない選択肢に目をやり、それを自分の興味関心や必要性とつき合わせ、その中から、選ぶべきわずかなものだけをすくい上げています。そのプロセスはふつう、ほとんど無意識のうちに行なわれているので、自分の心の中で何が起きているか、きちんと自覚されることはめったにありません。しかし、実際には、そうやって無意識の選別が行われるたびに、自分はどういう人間で、何を欲しているのか、つねに自分自身への問いかけがなされているはずです。

 

そしてそれは、自分の興味や関心という、そのままでは漠然としてとりとめのないものを、見たいテレビ番組とか、欲しい商品を選ぶという行動を通じて、具体的なイメージやモノという、目に見える形に変換していくことでもあります。

 

私たちは、そういう活動を毎日のように繰り返すことで、自分がどんな人間であり、何を求め、どこに向かって進もうとしているのかを確認し、それを分かりやすいイメージとして自覚していくのだと思います。実際、私たちが、自分はどういう人間かと考えるとき、頭の中には、これまで自分が選び、好きになった商品やコンテンツ(の集合体)が浮かんでくることも多いのではないでしょうか。

 

もちろん、この世界全体が常に変化しつつあるように、私たちの興味や関心も、自分自身のイメージも、時間とともに少しずつ変化していくわけですが、日々休むことなく繰り返される、そうした探求と選択のプロセスを通じて、これまでの自己イメージにはなかった、新しい自分の姿がおぼろげに見えてきたりすることもあるでしょう。

 

そうやって、時間とともに移り変わっていく私たちの自己イメージの分かりやすい輪郭を形作り、また、新たな自分の可能性につながっていく、という意味では、一見ムダに費やされているようにしか見えない、そうした探索と選択の時間は、私たちが思っている以上に大事な時間だったりするのかもしれません。

 

 

 

◆ プロセスを効率化したいという欲求

 

ただ、そうした作業は、いつもほとんど無意識のうちになされているし、はっきりとした方向性の見えない、行き当たりばったりのものであることも多いので、本人としては、それを単純にムダなことだと思い、そういう時間を何とかして減らせないかと考えてしまいがちだと思います。膨大なTV番組の中からどれを見るかという選択にしても、ショッピングにしても、自分でじっくりと迷いながら決めていくよりも、何を選んだらいいか、失敗しない最良の選択肢を誰かに示してほしいと思う人は多いのではないでしょうか。

 

また、ネット上の情報収集にしても、RSSリーダーにサイトをいちいち登録したり、それを毎日チェックしたりするよりも、自分のネット上の活動から生まれる膨大な個人データをAIに分析させ、自分が特に何もしなくても、オススメの情報が自動的に提示されるようにしてほしい、その方がずっと楽だし時間も節約できるから、と考える人は多いと思います。

 

ただ、近い将来、そうしたプロセスがどんどん自動化されるようになれば、私たちは、これまでほとんど無意識のうちにおこなってきたさまざまな探求活動に対して、さらに無自覚になってしまうでしょう。そして、無自覚になれば、そういう探求の本当の価値に気づかないまま、それに費やしていた膨大な時間を、単なるムダな作業として簡単に捨て去ってしまうかもしれません。

 

しかし、そうなれば、自分が何者であるかという根本を、つねに問い直し続けるという重要なプロセスを、人間以外の何かにゆだねることになってしまいます。大げさな言い方をすれば、それによって、自分がどんな人間かを自覚するきっかけすら失う人も出てくるかもしれないし、いったんそうなれば、自分が何者かを決めるのは自分ではなくなり、誰かに与えられた「自分の定義」から抜け出せなくなってしまうのではないでしょうか。

 

それは、いつまでも覚めることのできない夢のようなものであり、ある意味では悪夢とさえ言えるのかもしれません。

 

 

 

◆ 「何となく満たされない」という思いが導くもの

 

しかし、テクノロジーの発達によって、膨大な個人データをもとに、アルゴリズムがすべてを先回りして示してくれる世界、言いかえれば、親切すぎる機械に囲まれた息苦しい世界ができあがったとしても、私たちがそこから永遠に抜け出せないということはないでしょう。

 

私たちは、そうしてあてがわれた世界の中でずっと過ごすことになるとしても、そのうちにきっと、何となく面白くない、満たされない、という形で、違和感を感じ始めるはずです。

 

そして、違和感をもった人々の一部は、おせっかいで埋め尽くされた日常の外側にどんな世界が広がっているのか、その未知の世界を見てみたいという衝動に駆られ、実際にそれをせずにはいられなくなるのではないでしょうか。

 

 


◆ すでにあるものを選ぶだけでは限界がある

 

もちろん、ここまでの話は、説明しやすくするためにかなり単純化しています。

 

そもそも、いくら世界中を探索しても、私たちそれぞれにピッタリの選択肢が、何かのコンテンツや商品という形で、どこかに必ず見つかるという保証はありません。誰かがすでに表現した何か、誰かが商品として発売した何かを検索し、それらの中から自分の好きなものを選ぶだけで、自分が何者であるかについてすべてが分かってしまうほど、この世界は簡単ではないと思います。

 

私たち自身について、本当に肝心なところは、そうやって誰かがすでに表現したものを超えて、私たち自身にしか表現できない、あるいは、表現することなどできない、もっとオリジナルで微妙な「何か」としてしか見出せないのかもしれません。そして、そうした、まさに自分だけのために用意されていたような何かをかいま見たときに初めて、人は本当に、それを何とかして表現したいという欲求にかられるのではないかという気がします。

 

もっとも、そのオリジナルな何かを自分なりに形にするのは、たぶん、出来合いの商品を選択するような行為よりも、はるかに困難なプロセスになるのでしょうが……。

 

それでも、たぶん私たちは、「何となく満たされない」という思いに導かれる形で、やがてはそうした表現活動にも踏み込んでいかざるを得なくなるだろうし、近未来の世の中では、そうした活動こそが、人々の興味関心の中心になっていくのかもしれません。

 

 

JUGEMテーマ:日記・一般

 

at 20:02, 浪人, つれづれの記

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