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2015.11.26 Thursday
旅人たちの夢のあと
先日、ネットで、ちょっと面白い記事を読みました。
かつて、日本人バックパッカーでにぎわっていた中国雲南省の大理の街で、彼らが残していった古本の山が、今どうなっているかを訪ねて回るという内容です。
かつて日本人がいた“本塚”めぐり デイリーポータルZ
ただ、上の記事を面白いと感じる人は、かなり限られるかもしれません。たぶん、「前世紀」の1980年代や90年代に、海外を長く旅したことのある人でないと、ピンとこないのではないでしょうか。
その当時の大理は、多くの日本人バックパッカーが流れ着き、人によっては何か月も腰を落ち着けてしまうほど居心地のいい「沈没地」として、かなり有名な存在でした。私も、自分が旅に出る前から、「伝説の地」としてその噂を耳にしていたし、実際に雲南省各地をまわったときには、大理で長旅の疲れを癒しました。気候も食べ物も申し分なく、のんびりとして開放的な街の雰囲気にホッとしたのを覚えています。
その大理も、現在は観光客のほとんどが中国人となり、日本の旅人はほとんど姿を消してしまったそうで、当時、大勢の日本人が入り浸っていたツーリスト・カフェには、日本語の本の山が、ほこりをかぶってそのまま残されています。
今や、旅行者はスマホを一台持ってさえいれば、日本語の本をいつでもどこでもダウンロードできます。昔のように、長旅で活字に飢えるなんてことはなくなり、日本人行きつけの古本屋やカフェで、日本語の本を血眼で物色する必要もなくなりました。上の記事を書いたライスマウンテンさんのように、特別な動機でもなければ、ボロボロになった昔の本の山に目をくれるような旅人は、もはや一人もいないのかもしれません。
考えてみれば、ここ20年ほどのテクノロジーの進化は、旅人と本との関係に限らず、旅人の行動パターンをすさまじい勢いで変え続けてきました。
20年ほど前までは、長期旅行者の連絡手段といえば、高額な国際電話と局留めの郵便しかありませんでしたが、90年代後半に Hotmail などの無料メールサービスが登場、ネットカフェが旅人の新しいライフラインとなり、お互いに移動中の旅人同士がほぼリアルタイムで連絡を取り合うという、以前にはあり得なかったことまで可能になりました。しかし、それから10年もしないうちに、スマホの普及によって、ネットカフェは急速に廃れていきます。
記事 ネットカフェの黄昏と旅の未来
また、十数年前までは、写真はフィルム式カメラで撮るのが普通でした。旅人はつねにフィルムの山を持ち運ばなければならなかったし、撮り終えたフィルムをどこで現像するか、また、現像後にたまっていくネガやプリントを、どうやって安全に日本に送るかも大きな問題でした。もちろん、貧乏旅行者にとっては、フィルム代・現像代・郵便料金の負担もバカになりません。それが、いつの間にかデジカメが主流になり、と思う間もなく、今ではスマホで気軽に撮影し、即座にネットに画像をアップするのが当たり前になりつつあります。
旅の情報にしても、かつてはガイドブックと旅先での「情報ノート」、そして旅人同士のクチコミが頼りだったし、それは、英語を苦手とする日本人旅行者が「日本人宿」に集まる理由の一つでもありました。しかし、これもネット上のクチコミサイトや地図アプリ・翻訳アプリなどを活用することで、それ以上の情報を手に入れることが可能になり、少なくとも情報を手に入れるために、旅先で日本人同士が集まる必然性はなくなりました。
もちろん、それは、決して悪いことではありません。新しいテクノロジーのおかげで、旅はずっと安全・快適になっているわけだし、私も昔のような、不便で余計な出費がかさむような旅を、今さらしたいとは思いません。
ただ、その一方で、大理の「本塚」のように、旅人の流れや行動パターンが変わったことで、かつてのコミュニティがすっかりさびれ、まるで抜け殻のようになった姿には、バックパッカーの夢のあと、というか、世の無常をひしひしと感じさせられます。
そしてそれは、かつての自分たちには当たり前だった物事が、今の若い世代にとってはもはや意味不明な歴史的遺物に過ぎないことに気づかされ、自分が旧世代の人間だという事実を、改めて思い知らされる、ということでもあります。
あと10年、20年もすれば、20世紀のバックパッカーの旅なんて、きっと、古老が語る摩訶不思議な昔話になっているのでしょう……。
JUGEMテーマ:旅行
かつて、日本人バックパッカーでにぎわっていた中国雲南省の大理の街で、彼らが残していった古本の山が、今どうなっているかを訪ねて回るという内容です。
かつて日本人がいた“本塚”めぐり デイリーポータルZ
ただ、上の記事を面白いと感じる人は、かなり限られるかもしれません。たぶん、「前世紀」の1980年代や90年代に、海外を長く旅したことのある人でないと、ピンとこないのではないでしょうか。
その当時の大理は、多くの日本人バックパッカーが流れ着き、人によっては何か月も腰を落ち着けてしまうほど居心地のいい「沈没地」として、かなり有名な存在でした。私も、自分が旅に出る前から、「伝説の地」としてその噂を耳にしていたし、実際に雲南省各地をまわったときには、大理で長旅の疲れを癒しました。気候も食べ物も申し分なく、のんびりとして開放的な街の雰囲気にホッとしたのを覚えています。
その大理も、現在は観光客のほとんどが中国人となり、日本の旅人はほとんど姿を消してしまったそうで、当時、大勢の日本人が入り浸っていたツーリスト・カフェには、日本語の本の山が、ほこりをかぶってそのまま残されています。
今や、旅行者はスマホを一台持ってさえいれば、日本語の本をいつでもどこでもダウンロードできます。昔のように、長旅で活字に飢えるなんてことはなくなり、日本人行きつけの古本屋やカフェで、日本語の本を血眼で物色する必要もなくなりました。上の記事を書いたライスマウンテンさんのように、特別な動機でもなければ、ボロボロになった昔の本の山に目をくれるような旅人は、もはや一人もいないのかもしれません。
考えてみれば、ここ20年ほどのテクノロジーの進化は、旅人と本との関係に限らず、旅人の行動パターンをすさまじい勢いで変え続けてきました。
20年ほど前までは、長期旅行者の連絡手段といえば、高額な国際電話と局留めの郵便しかありませんでしたが、90年代後半に Hotmail などの無料メールサービスが登場、ネットカフェが旅人の新しいライフラインとなり、お互いに移動中の旅人同士がほぼリアルタイムで連絡を取り合うという、以前にはあり得なかったことまで可能になりました。しかし、それから10年もしないうちに、スマホの普及によって、ネットカフェは急速に廃れていきます。
記事 ネットカフェの黄昏と旅の未来
また、十数年前までは、写真はフィルム式カメラで撮るのが普通でした。旅人はつねにフィルムの山を持ち運ばなければならなかったし、撮り終えたフィルムをどこで現像するか、また、現像後にたまっていくネガやプリントを、どうやって安全に日本に送るかも大きな問題でした。もちろん、貧乏旅行者にとっては、フィルム代・現像代・郵便料金の負担もバカになりません。それが、いつの間にかデジカメが主流になり、と思う間もなく、今ではスマホで気軽に撮影し、即座にネットに画像をアップするのが当たり前になりつつあります。
旅の情報にしても、かつてはガイドブックと旅先での「情報ノート」、そして旅人同士のクチコミが頼りだったし、それは、英語を苦手とする日本人旅行者が「日本人宿」に集まる理由の一つでもありました。しかし、これもネット上のクチコミサイトや地図アプリ・翻訳アプリなどを活用することで、それ以上の情報を手に入れることが可能になり、少なくとも情報を手に入れるために、旅先で日本人同士が集まる必然性はなくなりました。
もちろん、それは、決して悪いことではありません。新しいテクノロジーのおかげで、旅はずっと安全・快適になっているわけだし、私も昔のような、不便で余計な出費がかさむような旅を、今さらしたいとは思いません。
ただ、その一方で、大理の「本塚」のように、旅人の流れや行動パターンが変わったことで、かつてのコミュニティがすっかりさびれ、まるで抜け殻のようになった姿には、バックパッカーの夢のあと、というか、世の無常をひしひしと感じさせられます。
そしてそれは、かつての自分たちには当たり前だった物事が、今の若い世代にとってはもはや意味不明な歴史的遺物に過ぎないことに気づかされ、自分が旧世代の人間だという事実を、改めて思い知らされる、ということでもあります。
あと10年、20年もすれば、20世紀のバックパッカーの旅なんて、きっと、古老が語る摩訶不思議な昔話になっているのでしょう……。
JUGEMテーマ:旅行
2009.02.17 Tuesday
砂漠の洞窟不動産
中国・甘粛省の敦煌に滞在していたときのことです。
宿のドミトリーで知り合った日本人旅行者数人と、ミニバスに乗って、世界遺産の莫高窟に向かいました。
莫高窟には唐代を中心に、前後千年にもわたって掘り続けられたという数百の石窟が残されています。井上靖氏の小説『敦煌』や、TV番組の「シルクロード」などで紹介されたこともあり、日本人にはよく知られた観光名所です。
ウィキペディア 「莫高窟」
やがて私たちの前に、断崖に穿たれた無数の洞窟が見えてきました。といっても、実際には新しくコンクリートで補修が加えられ、それぞれの石窟の入口には防犯用の鉄扉もついているので、遠目にはまるで崖下に作られたアパートか何かのように見えます。
インターネットで調べると、現在、莫高窟の入場料はべらぼうな金額になっているようですが、私が旅した頃はその数分の一ほどでした。
それでも決して安いとはいえない入場料を払うと、数え切れないほどある石窟のうちのごく一部を、中国人ガイドが引率して案内してくれます。ごく一部といっても、貴重な「敦煌文献」が秘蔵されていた場所や、天井までびっしりと仏教壁画で埋め尽くされた石窟、大仏や寝釈迦仏の安置された石窟など、主だった見どころは網羅されているし、壁画には鮮やかな色彩がまだ残っていて、当時の華やかさをしのぶことができます。
また、「基本料金」の他に、さらに高額な特別料金を払うと、他の重要な石窟も追加で見学できる仕組みになっています。
ただし、ガイドが扉のカギを持っていて、一つひとつの石窟のカギを開け閉めしながら案内するので、自分のペースで自由にあちこち覗きまわることはできません。一つの洞窟に団体でドヤドヤと入り、中を数分間見学して、またドヤドヤと出ていく感じなので、ゆっくりと壁画を鑑賞したり、感慨に浸っている余裕はありません。
個人的な理想をいえば、ひとり薄暗い洞窟の中に座り、壁画を見上げたりしながら静かに時を過ごせたらいいなあと思っていたのですが、そういうぜいたくは許されないようです。
まるで時間を惜しむかのように、あちこちの「部屋」を慌ただしく出入りしていく様子は、まるで、不動産屋に連れられてオススメ物件を見て回るのにそっくりです。それに、払う金に応じて入れる部屋が違うというシステムも、実に資本主義的というか、現代のマンションやホテルにそっくりです。
考えてみれば、かつてはこれらの洞窟の中にも多くの人が暮らしていたわけで、そういう意味では、ここも一種の不動産物件といえなくもないのかもしれません。
さらに皮肉な言い方をすれば、マンションやホテルのような物件の場合、基本的に物件を購入したり、そこに住んだり泊まったりすることで初めてお金のやり取りがあるわけですが、ここの場合は、ただ物件を見るだけのためにお金を払わなければなりません。管理する側にとっては、多くの人に見せれば見せるほどお金が稼げるわけで、これは不動産の域を超えているというべきでしょう。
私は莫高窟について、ほとんど何の下調べも予備知識もなく見学したので、「基本料金」分だけで十分満足できましたが、この遺跡について詳しい人なら、実際に見てみたい石窟がいくつもあるはずで、そのたびに特別料金を追加徴収されるとなると、相当なフラストレーションを感じるのではないでしょうか。
でもまあ、それだけ熱心なファンなら、実物をただ一目見るためだけに多額の出費を重ねることも厭わないのかもしれないし、現地の物価水準に慣れてしまったバックパッカーとは違い、団体のツアー客なら、それほど高いとも感じないかもしれません。
それに、世界中の人々に知られた人気の高い遺跡だからこそ、すべての観光客をそのまま受け入れ、自由に見学するままに任せていたら、狭い洞窟の壁面に描かれた繊細な美術品は、すぐに傷んでしまうでしょう。私が見学するその行為自体も、わずかながらその風化を促進してしまうわけで、そう考えると、こうした厳しい管理や高い入場料も仕方のないことではあります。
いろいろと余計なことを書いてしまいましたが、これは莫高窟の本質とは関係のない話で、石窟遺跡自体はすばらしいものでした。当時、西の彼方から砂漠を越えてやってきた仏教という新しい信仰に人生を捧げ、莫高窟の造営に心血を注いだ人々の熱意がヒシヒシと伝わってきます。
ただ、そうは言ってもやはり、文化財保護の名目で鉄の扉の向こうに閉じ込められ、当時の信仰とは切り離された美術品として、金持ち観光客の見物対象になってしまったこの遺跡の姿には痛々しいものを感じたし、そうした印象が、遺跡をこの目でじかに見た感動をかなり打ち消してしまったのは確かです。
莫高窟自体は、当時そこに生きていた人々の熱い信仰が残した抜け殻のようなものですが、その抜け殻があまりに美しく、後世の人々の強烈な関心を惹きつけてしまったがゆえに、時間とともに少しずつ朽ち果てていくという本来の道に従うことを許されず、こうして見せ物のような運命をたどることになったのは、何とも皮肉です。
これはあくまで個人的な趣味の問題かもしれませんが、遺跡というのは、人間の管理の手からできるだけ離れ、そのまま自然に朽ちていくままになっている方が遺跡らしいと思うし、できれば、周囲の景観も含めて、遺跡全体が醸し出す雰囲気を、ゆっくりと静かに味わえるところの方がいいと思います。
そういう意味では、世界遺産のように「超有名」になっていないところの方が、訪れた人の総合的な満足度という点では、ずっとコストパフォーマンスが高いといえるかもしれません。
例えば、同じシルクロードなら、トルファン(吐魯番)の郊外に、交河故城という遺跡があります。
宿のある市街地から、自転車をゆっくりこいで数十分ほどで行けるので、タクシーをチャーターしたりツアーに参加したりする必要もなく、好きなときに、一人でぶらっと立ち寄ることができます。
もっとも、そこには、美術的に価値のありそうな建物は残っておらず、風化の進んだ、荒れ果てた街の跡があるだけです。私が行ったときには見物する人もごくわずかでしたが、午後の強烈な陽射しの中、人の気配のない、乾き切った廃墟にボーッと立ち尽くしていると、何ともいえない感傷がこみ上げてきました。
テレビの「シルクロード」的な雰囲気をじっくりと味わいたいのなら、こうした、何でもなさそうな遺跡の方がずっとふさわしいのかもしれません。
もっとも、そんな何もないような遺跡でも、入場料だけはしっかり取られますが……。
JUGEMテーマ:旅行
宿のドミトリーで知り合った日本人旅行者数人と、ミニバスに乗って、世界遺産の莫高窟に向かいました。
莫高窟には唐代を中心に、前後千年にもわたって掘り続けられたという数百の石窟が残されています。井上靖氏の小説『敦煌』や、TV番組の「シルクロード」などで紹介されたこともあり、日本人にはよく知られた観光名所です。
ウィキペディア 「莫高窟」
やがて私たちの前に、断崖に穿たれた無数の洞窟が見えてきました。といっても、実際には新しくコンクリートで補修が加えられ、それぞれの石窟の入口には防犯用の鉄扉もついているので、遠目にはまるで崖下に作られたアパートか何かのように見えます。
インターネットで調べると、現在、莫高窟の入場料はべらぼうな金額になっているようですが、私が旅した頃はその数分の一ほどでした。
それでも決して安いとはいえない入場料を払うと、数え切れないほどある石窟のうちのごく一部を、中国人ガイドが引率して案内してくれます。ごく一部といっても、貴重な「敦煌文献」が秘蔵されていた場所や、天井までびっしりと仏教壁画で埋め尽くされた石窟、大仏や寝釈迦仏の安置された石窟など、主だった見どころは網羅されているし、壁画には鮮やかな色彩がまだ残っていて、当時の華やかさをしのぶことができます。
また、「基本料金」の他に、さらに高額な特別料金を払うと、他の重要な石窟も追加で見学できる仕組みになっています。
ただし、ガイドが扉のカギを持っていて、一つひとつの石窟のカギを開け閉めしながら案内するので、自分のペースで自由にあちこち覗きまわることはできません。一つの洞窟に団体でドヤドヤと入り、中を数分間見学して、またドヤドヤと出ていく感じなので、ゆっくりと壁画を鑑賞したり、感慨に浸っている余裕はありません。
個人的な理想をいえば、ひとり薄暗い洞窟の中に座り、壁画を見上げたりしながら静かに時を過ごせたらいいなあと思っていたのですが、そういうぜいたくは許されないようです。
まるで時間を惜しむかのように、あちこちの「部屋」を慌ただしく出入りしていく様子は、まるで、不動産屋に連れられてオススメ物件を見て回るのにそっくりです。それに、払う金に応じて入れる部屋が違うというシステムも、実に資本主義的というか、現代のマンションやホテルにそっくりです。
考えてみれば、かつてはこれらの洞窟の中にも多くの人が暮らしていたわけで、そういう意味では、ここも一種の不動産物件といえなくもないのかもしれません。
さらに皮肉な言い方をすれば、マンションやホテルのような物件の場合、基本的に物件を購入したり、そこに住んだり泊まったりすることで初めてお金のやり取りがあるわけですが、ここの場合は、ただ物件を見るだけのためにお金を払わなければなりません。管理する側にとっては、多くの人に見せれば見せるほどお金が稼げるわけで、これは不動産の域を超えているというべきでしょう。
私は莫高窟について、ほとんど何の下調べも予備知識もなく見学したので、「基本料金」分だけで十分満足できましたが、この遺跡について詳しい人なら、実際に見てみたい石窟がいくつもあるはずで、そのたびに特別料金を追加徴収されるとなると、相当なフラストレーションを感じるのではないでしょうか。
でもまあ、それだけ熱心なファンなら、実物をただ一目見るためだけに多額の出費を重ねることも厭わないのかもしれないし、現地の物価水準に慣れてしまったバックパッカーとは違い、団体のツアー客なら、それほど高いとも感じないかもしれません。
それに、世界中の人々に知られた人気の高い遺跡だからこそ、すべての観光客をそのまま受け入れ、自由に見学するままに任せていたら、狭い洞窟の壁面に描かれた繊細な美術品は、すぐに傷んでしまうでしょう。私が見学するその行為自体も、わずかながらその風化を促進してしまうわけで、そう考えると、こうした厳しい管理や高い入場料も仕方のないことではあります。
いろいろと余計なことを書いてしまいましたが、これは莫高窟の本質とは関係のない話で、石窟遺跡自体はすばらしいものでした。当時、西の彼方から砂漠を越えてやってきた仏教という新しい信仰に人生を捧げ、莫高窟の造営に心血を注いだ人々の熱意がヒシヒシと伝わってきます。
ただ、そうは言ってもやはり、文化財保護の名目で鉄の扉の向こうに閉じ込められ、当時の信仰とは切り離された美術品として、金持ち観光客の見物対象になってしまったこの遺跡の姿には痛々しいものを感じたし、そうした印象が、遺跡をこの目でじかに見た感動をかなり打ち消してしまったのは確かです。
莫高窟自体は、当時そこに生きていた人々の熱い信仰が残した抜け殻のようなものですが、その抜け殻があまりに美しく、後世の人々の強烈な関心を惹きつけてしまったがゆえに、時間とともに少しずつ朽ち果てていくという本来の道に従うことを許されず、こうして見せ物のような運命をたどることになったのは、何とも皮肉です。
これはあくまで個人的な趣味の問題かもしれませんが、遺跡というのは、人間の管理の手からできるだけ離れ、そのまま自然に朽ちていくままになっている方が遺跡らしいと思うし、できれば、周囲の景観も含めて、遺跡全体が醸し出す雰囲気を、ゆっくりと静かに味わえるところの方がいいと思います。
そういう意味では、世界遺産のように「超有名」になっていないところの方が、訪れた人の総合的な満足度という点では、ずっとコストパフォーマンスが高いといえるかもしれません。
例えば、同じシルクロードなら、トルファン(吐魯番)の郊外に、交河故城という遺跡があります。
宿のある市街地から、自転車をゆっくりこいで数十分ほどで行けるので、タクシーをチャーターしたりツアーに参加したりする必要もなく、好きなときに、一人でぶらっと立ち寄ることができます。
もっとも、そこには、美術的に価値のありそうな建物は残っておらず、風化の進んだ、荒れ果てた街の跡があるだけです。私が行ったときには見物する人もごくわずかでしたが、午後の強烈な陽射しの中、人の気配のない、乾き切った廃墟にボーッと立ち尽くしていると、何ともいえない感傷がこみ上げてきました。
テレビの「シルクロード」的な雰囲気をじっくりと味わいたいのなら、こうした、何でもなさそうな遺跡の方がずっとふさわしいのかもしれません。
もっとも、そんな何もないような遺跡でも、入場料だけはしっかり取られますが……。
JUGEMテーマ:旅行
2008.10.02 Thursday
南京虫大発生
香港を旅したときのことです。
ベトナムのホーチミンから、飛行機で香港に飛びました。当時、ランタオ島の新空港が開港するまであと数カ月という時期だったので、九龍半島の市街地にあったカイタック(啓徳)空港へのスリル満点の着陸は、これで見納めでした。
数年ぶりに空から眺める香港は、以前よりさらにビルが増えたようで、地上をビルがビッシリと埋め尽くす姿には現実感がまったく感じられず、まるでシム・シティの画面のようでした。
飛行機はそのビルの波の中へ突っ込んでいきます。
ほとんど激突かと思われた瞬間、ビルの群れの中にボコッと穴があき、滑走路が現れました。もちろん無事着陸しましたが、まるでビルで出来た「すり鉢」の底に落ちていくようなスリル(というより恐怖)は、本当にここだけでしか味わえない感覚でした。
着陸を堪能したあと、数年前に泊まった日本人宿の某有名ゲストハウスを目指そうとしたのですが、場所を忘れてしまい、ツーリスト・インフォメーションに聞いても、安宿すぎて扱っていないと言われ、仕方なく重慶大厦(チョンキン・マンション)の隣の美麗都大厦(ミラドール・マンション)内のゲストハウスにチェックインしました。
それでも、何とかしてその日本人宿を見つけ出したいという思いは消えませんでした。
以前にそこに滞在していたときには、宿泊者同士で、さらには香港で働く日本人まで遊びにやってきて、たわいない話で毎晩遅くまで盛り上がったし、宿で知り合った旅人と九龍城を「探険」したりと、楽しい思い出がいっぱいで、今そこがどうなっているかぜひ一目見て、できればまた泊まってみたかったのです。
翌日、おぼろげな記憶を頼りに、何度もそれらしき場所を歩き回ったあげく、ようやくゲストハウスの看板を見つけました。
しかし、階段を昇って受付に行ってみると、宿泊客の姿はほとんど見当たらず、妙に閑散としています。これでは、たとえ泊まっても、ドミトリーならではの面白さがありません。みんなで話をして盛り上がるという感じではないし、旅の情報も得られそうにありませんでした。
しかも、2~3人ほどいた日本人宿泊者は、みんな元気のないやつれた顔をして、体をボリボリとかきむしり、口々に「かゆい! かゆい!」と連発しています。
どうも、南京虫にやられたようです。彼らは親切にもTシャツをまくって見せてくれましたが、全身、赤いブツブツだらけになっていました。これはどう考えても数匹というレベルではありません。宿の中で南京虫が大発生しているとしか思えませんでした。
しかし、宿のスタッフは、殺虫剤をまくなり、布団を虫干しするなりという対策をとっているようにも見えなかったし、今後もそうするようなそぶりは見えませんでした。この宿では、ふだんは番頭役の日本人アルバイトが常駐して管理をしているらしいのですが、本格的に南京虫を駆除するとなると、相当な手間も費用もかかるはずで、きっとアルバイトだけでは対応できないのでしょう。
さすがにこれでは、あまりのかゆさに夜も眠れないだろうし、何より自分があのようなブツブツだらけになるのが恐ろしくて、さすがにそのゲストハウスに移るのは断念しました。
それでも、人数が少ないとはいえ、日本人がいるというのは貴重です。
短い旅ならそれほどでもないのでしょうが、多少の長旅となると、日本語で話せる機会というのはなかなか貴重なのです。経験した人なら分かってもらえると思いますが、カタコトの現地の言葉や英語だけで生活していると、情報交換以前の問題として、何でもいいから日本語を話したいという思いが強くなってくるのです。
私は、アルバイトの番頭さんや宿泊客たちと、夕方までダラダラと話をしてから自分の宿に戻りました。
この某ゲストハウスは、今でも営業しているようです。確信をもって言うことはできないのですが、きっと当時の南京虫騒動も、なんとか無事に乗り越えたのでしょう……。
JUGEMテーマ:旅行
ベトナムのホーチミンから、飛行機で香港に飛びました。当時、ランタオ島の新空港が開港するまであと数カ月という時期だったので、九龍半島の市街地にあったカイタック(啓徳)空港へのスリル満点の着陸は、これで見納めでした。
数年ぶりに空から眺める香港は、以前よりさらにビルが増えたようで、地上をビルがビッシリと埋め尽くす姿には現実感がまったく感じられず、まるでシム・シティの画面のようでした。
飛行機はそのビルの波の中へ突っ込んでいきます。
ほとんど激突かと思われた瞬間、ビルの群れの中にボコッと穴があき、滑走路が現れました。もちろん無事着陸しましたが、まるでビルで出来た「すり鉢」の底に落ちていくようなスリル(というより恐怖)は、本当にここだけでしか味わえない感覚でした。
着陸を堪能したあと、数年前に泊まった日本人宿の某有名ゲストハウスを目指そうとしたのですが、場所を忘れてしまい、ツーリスト・インフォメーションに聞いても、安宿すぎて扱っていないと言われ、仕方なく重慶大厦(チョンキン・マンション)の隣の美麗都大厦(ミラドール・マンション)内のゲストハウスにチェックインしました。
それでも、何とかしてその日本人宿を見つけ出したいという思いは消えませんでした。
以前にそこに滞在していたときには、宿泊者同士で、さらには香港で働く日本人まで遊びにやってきて、たわいない話で毎晩遅くまで盛り上がったし、宿で知り合った旅人と九龍城を「探険」したりと、楽しい思い出がいっぱいで、今そこがどうなっているかぜひ一目見て、できればまた泊まってみたかったのです。
翌日、おぼろげな記憶を頼りに、何度もそれらしき場所を歩き回ったあげく、ようやくゲストハウスの看板を見つけました。
しかし、階段を昇って受付に行ってみると、宿泊客の姿はほとんど見当たらず、妙に閑散としています。これでは、たとえ泊まっても、ドミトリーならではの面白さがありません。みんなで話をして盛り上がるという感じではないし、旅の情報も得られそうにありませんでした。
しかも、2~3人ほどいた日本人宿泊者は、みんな元気のないやつれた顔をして、体をボリボリとかきむしり、口々に「かゆい! かゆい!」と連発しています。
どうも、南京虫にやられたようです。彼らは親切にもTシャツをまくって見せてくれましたが、全身、赤いブツブツだらけになっていました。これはどう考えても数匹というレベルではありません。宿の中で南京虫が大発生しているとしか思えませんでした。
しかし、宿のスタッフは、殺虫剤をまくなり、布団を虫干しするなりという対策をとっているようにも見えなかったし、今後もそうするようなそぶりは見えませんでした。この宿では、ふだんは番頭役の日本人アルバイトが常駐して管理をしているらしいのですが、本格的に南京虫を駆除するとなると、相当な手間も費用もかかるはずで、きっとアルバイトだけでは対応できないのでしょう。
さすがにこれでは、あまりのかゆさに夜も眠れないだろうし、何より自分があのようなブツブツだらけになるのが恐ろしくて、さすがにそのゲストハウスに移るのは断念しました。
それでも、人数が少ないとはいえ、日本人がいるというのは貴重です。
短い旅ならそれほどでもないのでしょうが、多少の長旅となると、日本語で話せる機会というのはなかなか貴重なのです。経験した人なら分かってもらえると思いますが、カタコトの現地の言葉や英語だけで生活していると、情報交換以前の問題として、何でもいいから日本語を話したいという思いが強くなってくるのです。
私は、アルバイトの番頭さんや宿泊客たちと、夕方までダラダラと話をしてから自分の宿に戻りました。
この某ゲストハウスは、今でも営業しているようです。確信をもって言うことはできないのですが、きっと当時の南京虫騒動も、なんとか無事に乗り越えたのでしょう……。
JUGEMテーマ:旅行
2007.06.11 Monday
ピチャンの砂丘
シルクロードを旅していたときのことです。
中国のウイグル自治区、トルファン(吐魯番)の近くにピチャン(ゼン善)という町があります。特に見どころもない地味な町なのですが、ハミ(哈密)からトルファンに向かう途中で知り合った日本人留学生から美しい砂丘が見られると聞いて、一緒に立ち寄ってみることにしました。
シルクロードといえば砂漠、砂漠といえば地平線まで続く砂丘というイメージがありますが、実際にバスで移動をしていると、ゴツゴツとした荒野の風景が続くばかりで、童謡「月の沙漠」のような、絵に描いたようなロマンチックな光景に出会うことはほとんどありません。
もちろん、例えば敦煌の鳴沙山のように、美しい砂丘が見られるところもあるのですが、鳴沙山の場合、街からすぐに行けるためか、狭い砂丘エリアに大勢の観光客が群がっているし、砂の上は足跡だらけで、雰囲気に浸ることが難しかったりします。
ピチャンの砂丘も街の郊外にあるということなので、あまり期待はしていませんでした。
昼過ぎにピチャンに着き、陽射しが弱まるのを待って、夕方8時頃、市内バスに乗って街の南端にある「沙山公園」に向かいました。
入園料を払って中に入ると、公園らしい施設など何もなく、すぐに砂丘が広がっています。私たち三人の日本人のほかに客は誰もおらず、園内は静まり返っていました。視野いっぱいの砂丘に圧倒され、どちらに行けばいいのか分かりませんでしたが、とりあえず目の前の砂山の頂上まで上がってみることにしました。
夕暮れ時なので暑さはそれほど感じません。砂に足をとられながらゆっくりと登っていくと、風景はますます神秘的になっていきます。
何度も立ち止まって写真を撮ったりしているうちに、いつの間にか同行の二人は先に行ってしまい、私一人になっていました。最初の砂山を乗り越え、砂丘の間の窪地に降りてみると、周囲は360度砂丘だけになり、耳に入ってくるのは遠い鳥の声と微かな風の音だけです。
砂の表面には全く足跡はなく、人間社会はおろか、動物の痕跡さえも見当たりません。夕陽を浴びてオレンジ色に染まった美しい風紋となめらかな砂丘の稜線が、幻想的な雰囲気をかもしだしていました。
しばらく一人で砂漠の静寂を楽しんでから、別のさらに高い砂丘を登ったところで二人と合流しました。そこからは、街の南側に広がる無人の荒野がはるか彼方まで続いているのが見えます。それが街外れの風景だというのが信じられませんでした。
どうやらそこが「沙山公園」のビューポイントだったようです。私たちはそこで、地平線の向こうに夕陽が沈んでいくのを見守りました。
空気が少しヒンヤリとしてきたので靴を脱いでみると、砂はもう熱くはなく、サクサクとした感触が足に心地よく感じられます。私たちは子どものようにはしゃぎ、歓声を上げながら裸足で砂丘を駆け下りました。
公園の入口まで戻ると、売店でビールを売っていました。こんな場所では奇跡的なことに、ビールはギンギンに冷えています。三人で乾杯し、ビールをラッパ飲みしながら、このささやかな快楽を心ゆくまで味わいました。
中国のウイグル自治区、トルファン(吐魯番)の近くにピチャン(ゼン善)という町があります。特に見どころもない地味な町なのですが、ハミ(哈密)からトルファンに向かう途中で知り合った日本人留学生から美しい砂丘が見られると聞いて、一緒に立ち寄ってみることにしました。
シルクロードといえば砂漠、砂漠といえば地平線まで続く砂丘というイメージがありますが、実際にバスで移動をしていると、ゴツゴツとした荒野の風景が続くばかりで、童謡「月の沙漠」のような、絵に描いたようなロマンチックな光景に出会うことはほとんどありません。
もちろん、例えば敦煌の鳴沙山のように、美しい砂丘が見られるところもあるのですが、鳴沙山の場合、街からすぐに行けるためか、狭い砂丘エリアに大勢の観光客が群がっているし、砂の上は足跡だらけで、雰囲気に浸ることが難しかったりします。
ピチャンの砂丘も街の郊外にあるということなので、あまり期待はしていませんでした。
昼過ぎにピチャンに着き、陽射しが弱まるのを待って、夕方8時頃、市内バスに乗って街の南端にある「沙山公園」に向かいました。
入園料を払って中に入ると、公園らしい施設など何もなく、すぐに砂丘が広がっています。私たち三人の日本人のほかに客は誰もおらず、園内は静まり返っていました。視野いっぱいの砂丘に圧倒され、どちらに行けばいいのか分かりませんでしたが、とりあえず目の前の砂山の頂上まで上がってみることにしました。
夕暮れ時なので暑さはそれほど感じません。砂に足をとられながらゆっくりと登っていくと、風景はますます神秘的になっていきます。
何度も立ち止まって写真を撮ったりしているうちに、いつの間にか同行の二人は先に行ってしまい、私一人になっていました。最初の砂山を乗り越え、砂丘の間の窪地に降りてみると、周囲は360度砂丘だけになり、耳に入ってくるのは遠い鳥の声と微かな風の音だけです。
砂の表面には全く足跡はなく、人間社会はおろか、動物の痕跡さえも見当たりません。夕陽を浴びてオレンジ色に染まった美しい風紋となめらかな砂丘の稜線が、幻想的な雰囲気をかもしだしていました。
しばらく一人で砂漠の静寂を楽しんでから、別のさらに高い砂丘を登ったところで二人と合流しました。そこからは、街の南側に広がる無人の荒野がはるか彼方まで続いているのが見えます。それが街外れの風景だというのが信じられませんでした。
どうやらそこが「沙山公園」のビューポイントだったようです。私たちはそこで、地平線の向こうに夕陽が沈んでいくのを見守りました。
空気が少しヒンヤリとしてきたので靴を脱いでみると、砂はもう熱くはなく、サクサクとした感触が足に心地よく感じられます。私たちは子どものようにはしゃぎ、歓声を上げながら裸足で砂丘を駆け下りました。
公園の入口まで戻ると、売店でビールを売っていました。こんな場所では奇跡的なことに、ビールはギンギンに冷えています。三人で乾杯し、ビールをラッパ飲みしながら、このささやかな快楽を心ゆくまで味わいました。
2006.12.10 Sunday
カギ番の小姐
今はどうなっているのか分かりませんが、私が中国の田舎を旅した頃は、外国人は指定された国営の招待所にしか泊まれないことになっていました。
国営の宿は、建物は古いし従業員も無愛想で、居心地のいいところではありません。自由に宿を選べる状況であれば、絶対に選ばないタイプの宿なのですが、これは強制なので仕方がありません。中国人の旅行客が、もっと清潔でサービスも良さそうな、小ぢんまりとした民宿に泊まっているのを横目に見ながら、「この国を自由に旅行させてもらっているだけでもありがたいと思わなきゃ!」と自分に言い聞かせるしかなかったのです。
しかし、あえて善意に解釈するなら、中国滞在中ほとんど毎日、そんな居心地の悪い宿に泊まっていたおかげで、他の国では味わえない貴重な体験を積むことができたと言えなくもありません。
ほとんどの国営招待所は、殺風景で煤けたコンクリートのビルで、各フロアの廊下にカウンターがあって、そこに「カギ番」の小姐がいます。宿泊客は部屋のカギを渡してもらえず、部屋に入る時は、そのつど小姐にお願いして、部屋のカギを開けてもらうシステムになっているのです。
小姐とは、中国語で「お嬢さん」といったような意味ですが、食堂や宿で働いている中年のオバサンも小姐と呼ぶことになっています。国営招待所のオバサン方を見ていると、とても「お嬢さん」と呼ぶ気はしないのですが、これも慣習なので仕方がありません。
なぜカギ番が必要なのでしょうか? 他の国のように客に部屋のカギを持たせても、何の問題もなさそうな気がするのですが、カギを客に持たせると、何か良からぬことをするのではないかと疑っているのでしょうか。それとも沢山の従業員を雇うための一種の雇用対策なのでしょうか。
それはともかく、部屋のドアは自動ロックになっていて、扉を閉めると自動的にカギがかかるようになっているので、一度ドアを閉めてしまったら、小姐にカギを開けてもらわなければなりません。
小姐はずっとフロアのカウンターに座っているわけではなく、用のないときは近くの小部屋でTVを見たりしています。時には小姐がどこにも見当たらず、彼女が持ち場に戻ってくるまでひたすら待つしかないこともありますが、運良く部屋の中にいたとしても、こちらの気配を察して出てきてくれるなどということはないので、「小姐!小姐!」と大声で叫んで注意を引かなければなりません。
オバサンは、TVに夢中なのか、応対するのが面倒なのか、こちらが叫んでも知らんぷりをして、部屋から出てきてくれないこともあります。ナイーブな日本人なら、これだけで相当めげてしまうのですが、こんなことで引き下がるわけにはいきません。小姐がカギを開けてくれない限り、私は部屋に入ることができないのです。彼女の気が向くまで、部屋から締め出されたまま、イライラと無駄に時間をつぶすくらいなら、オバサンに嫌われても、しつこく食い下がるしかありません。
何度かしつこく呼び続けると、嫌そうな顔をして小姐が部屋から出てきます。手にはフロアーすべての部屋のカギがぶら下がったカギ束をジャラジャラさせています。通常は、小姐がそのままドアの前まで歩いていって、カギを開けてくれるのですが、ある時など、「自分でやれ!」と言わんばかりに、カギ束を投げられたこともあります。
その時、私はカウンターから20メートルくらい離れた自分の部屋のドアの前まで来ていたのですが、小姐はカウンターの所から勢いよくカギ束を放り投げたのです。カギは廊下の上をガシャーッと引っ掻きながら、私の足元まで滑ってきました。私はそれを拾い上げ、自分で部屋のカギを開けましたが、さすがにそれを投げ返すのもはばかられ、歩いて小姐に返しにいきました。
こんなわけで、金を払って泊まっているのに、カギを開けるたびに、いちいち不機嫌な小姐にお伺いを立てなければならないというのは苦痛でした。
自分が外に出かけて数時間戻ってこないような場合は、当然カギをかけるしかないのですが、困るのはトイレやシャワーに行く時です。二人以上で旅をしたり、ドミトリーで同室の客がいたりするなら、部屋の中からカギを開けてもらえば済むのですが、一人だけで部屋を使っている時には、トイレに行くたびに部屋のドアを閉めていたら、一日に何度も小姐にお願いして、カギを開けてもらわなければならなくなります。
中国を旅していると、どんな人でも多少は図太くなるものですが、それでも私には、一日に何度も小姐に嫌な顔をされるのは苦痛でした。
仕方なく、トイレやシャワーなど、短時間だけ部屋を出る時は、ドアを半開きの状態にしておいて、用を済ませたら、できるだけ早く部屋に戻るようにしました。といっても、ドアを開けっ放しにしたまま部屋を離れるのは不安なものです。トイレならまだしも、シャワーの場合など、10分くらいは戻ってこられないので、目を離したスキに、誰かに荷物を盗まれることも考えられます。
そのため、人が中にいるように見せかけるために、部屋のテレビをつけっ放しにしておいたり、バックパックをベッドの枠にワイヤーで縛りつけてみたりと、涙ぐましい努力もしました。今思い返すと、ちょっと心配のしすぎだったし、もっと気楽な気持ちで小姐にカギを開けてもらえばよかったのかもしれませんが、当時は長旅で疲れていたせいか、毎日のように無愛想なオバサンたちに邪険に扱われることが相当こたえていたのでしょう。
今になって冷静に考えてみれば、招待所の小姐たちも、いわゆる「田舎の国営企業」的なスタイルを無意識のうちに身につけていただけで、宿泊客に対して意識的に邪険にしていたわけでもないでしょう。彼女らにとって、カギを何回開け閉めしても、客に喜ばれるサービスをしても、もらえる給料は同じだったはずです。そういう条件であれば、長年のうちに、一番労力が少なくて済む、自分本位の楽なやり方に落ち着いていくのは必然だったのかもしれません。
しかし、私が旅していた頃でも、すでに国を挙げての経済政策の大転換が進行していました。今後は、中国の辺境といえども、昔の国営企業的なスタイルが生き残っていくのは難しいでしょう。あと10年か20年もすれば、かつての国営招待所のような接客態度は、一つの時代の象徴として、むしろ一種の懐かしさをもって語られるようになるのかもしれません……。
国営の宿は、建物は古いし従業員も無愛想で、居心地のいいところではありません。自由に宿を選べる状況であれば、絶対に選ばないタイプの宿なのですが、これは強制なので仕方がありません。中国人の旅行客が、もっと清潔でサービスも良さそうな、小ぢんまりとした民宿に泊まっているのを横目に見ながら、「この国を自由に旅行させてもらっているだけでもありがたいと思わなきゃ!」と自分に言い聞かせるしかなかったのです。
しかし、あえて善意に解釈するなら、中国滞在中ほとんど毎日、そんな居心地の悪い宿に泊まっていたおかげで、他の国では味わえない貴重な体験を積むことができたと言えなくもありません。
ほとんどの国営招待所は、殺風景で煤けたコンクリートのビルで、各フロアの廊下にカウンターがあって、そこに「カギ番」の小姐がいます。宿泊客は部屋のカギを渡してもらえず、部屋に入る時は、そのつど小姐にお願いして、部屋のカギを開けてもらうシステムになっているのです。
小姐とは、中国語で「お嬢さん」といったような意味ですが、食堂や宿で働いている中年のオバサンも小姐と呼ぶことになっています。国営招待所のオバサン方を見ていると、とても「お嬢さん」と呼ぶ気はしないのですが、これも慣習なので仕方がありません。
なぜカギ番が必要なのでしょうか? 他の国のように客に部屋のカギを持たせても、何の問題もなさそうな気がするのですが、カギを客に持たせると、何か良からぬことをするのではないかと疑っているのでしょうか。それとも沢山の従業員を雇うための一種の雇用対策なのでしょうか。
それはともかく、部屋のドアは自動ロックになっていて、扉を閉めると自動的にカギがかかるようになっているので、一度ドアを閉めてしまったら、小姐にカギを開けてもらわなければなりません。
小姐はずっとフロアのカウンターに座っているわけではなく、用のないときは近くの小部屋でTVを見たりしています。時には小姐がどこにも見当たらず、彼女が持ち場に戻ってくるまでひたすら待つしかないこともありますが、運良く部屋の中にいたとしても、こちらの気配を察して出てきてくれるなどということはないので、「小姐!小姐!」と大声で叫んで注意を引かなければなりません。
オバサンは、TVに夢中なのか、応対するのが面倒なのか、こちらが叫んでも知らんぷりをして、部屋から出てきてくれないこともあります。ナイーブな日本人なら、これだけで相当めげてしまうのですが、こんなことで引き下がるわけにはいきません。小姐がカギを開けてくれない限り、私は部屋に入ることができないのです。彼女の気が向くまで、部屋から締め出されたまま、イライラと無駄に時間をつぶすくらいなら、オバサンに嫌われても、しつこく食い下がるしかありません。
何度かしつこく呼び続けると、嫌そうな顔をして小姐が部屋から出てきます。手にはフロアーすべての部屋のカギがぶら下がったカギ束をジャラジャラさせています。通常は、小姐がそのままドアの前まで歩いていって、カギを開けてくれるのですが、ある時など、「自分でやれ!」と言わんばかりに、カギ束を投げられたこともあります。
その時、私はカウンターから20メートルくらい離れた自分の部屋のドアの前まで来ていたのですが、小姐はカウンターの所から勢いよくカギ束を放り投げたのです。カギは廊下の上をガシャーッと引っ掻きながら、私の足元まで滑ってきました。私はそれを拾い上げ、自分で部屋のカギを開けましたが、さすがにそれを投げ返すのもはばかられ、歩いて小姐に返しにいきました。
こんなわけで、金を払って泊まっているのに、カギを開けるたびに、いちいち不機嫌な小姐にお伺いを立てなければならないというのは苦痛でした。
自分が外に出かけて数時間戻ってこないような場合は、当然カギをかけるしかないのですが、困るのはトイレやシャワーに行く時です。二人以上で旅をしたり、ドミトリーで同室の客がいたりするなら、部屋の中からカギを開けてもらえば済むのですが、一人だけで部屋を使っている時には、トイレに行くたびに部屋のドアを閉めていたら、一日に何度も小姐にお願いして、カギを開けてもらわなければならなくなります。
中国を旅していると、どんな人でも多少は図太くなるものですが、それでも私には、一日に何度も小姐に嫌な顔をされるのは苦痛でした。
仕方なく、トイレやシャワーなど、短時間だけ部屋を出る時は、ドアを半開きの状態にしておいて、用を済ませたら、できるだけ早く部屋に戻るようにしました。といっても、ドアを開けっ放しにしたまま部屋を離れるのは不安なものです。トイレならまだしも、シャワーの場合など、10分くらいは戻ってこられないので、目を離したスキに、誰かに荷物を盗まれることも考えられます。
そのため、人が中にいるように見せかけるために、部屋のテレビをつけっ放しにしておいたり、バックパックをベッドの枠にワイヤーで縛りつけてみたりと、涙ぐましい努力もしました。今思い返すと、ちょっと心配のしすぎだったし、もっと気楽な気持ちで小姐にカギを開けてもらえばよかったのかもしれませんが、当時は長旅で疲れていたせいか、毎日のように無愛想なオバサンたちに邪険に扱われることが相当こたえていたのでしょう。
今になって冷静に考えてみれば、招待所の小姐たちも、いわゆる「田舎の国営企業」的なスタイルを無意識のうちに身につけていただけで、宿泊客に対して意識的に邪険にしていたわけでもないでしょう。彼女らにとって、カギを何回開け閉めしても、客に喜ばれるサービスをしても、もらえる給料は同じだったはずです。そういう条件であれば、長年のうちに、一番労力が少なくて済む、自分本位の楽なやり方に落ち着いていくのは必然だったのかもしれません。
しかし、私が旅していた頃でも、すでに国を挙げての経済政策の大転換が進行していました。今後は、中国の辺境といえども、昔の国営企業的なスタイルが生き残っていくのは難しいでしょう。あと10年か20年もすれば、かつての国営招待所のような接客態度は、一つの時代の象徴として、むしろ一種の懐かしさをもって語られるようになるのかもしれません……。
2006.09.24 Sunday
好運?不運?
中国の雲南省を旅していたときのことです。
金平(ジンピン)を早朝に発つバスで個旧(ケチウ)に向かいました。このルートは雲南の山中を走るので、悪路を登ったり下ったりという、なかなかしんどい旅になりますが、時には尾根道からはるか下の谷底まで棚田が続く、目の覚めるようなパノラマが楽しめたり、沿道を行き交う少数民族のカラフルな民族衣装を見ることもできて、退屈する心配はありません。
昼過ぎ、そろそろ個旧にも近づいてきたかと思われる頃、山道を登っていると突然破壊音がして、バスの左前輪が外れてコロコロと転がっていくのが窓から見えました。あっけにとられる間もなく、バスはガラガラと道路を豪快に引っかくと、道の真ん中に「座礁」してしまいました。
とりあえず全員が外に出ましたが、前輪部分が派手に壊れていて修理の余地もないらしく、運転手も車掌の小姐も途方に暮れるばかりです。バスが狭い山道を塞いでしまったので、やがて前後に車の列が出来はじめました。
私は、「こんな状態では、レッカー車か何かが到着するまで、前にも後ろにも進めないな」とぼんやり考えていました。しかしそもそもこんな山の中にレッカー車なんていうものがあるのか、あったとしても渋滞の中どうやってここまでたどり着けるのか想像がつきませんでした。
そしてそんなことよりも、下り坂やスピードの出ているときに車輪が外れなくて本当によかったと思いました。もしそうなっていたら、私たちはバスごと谷底に落ちていたかもしれません。
そうこうしているうちに、待ちきれなくなった後続の車が、崖側に残ったわずかな隙間をゆっくりと通過して無事反対側に抜けました。私たちも協力して岩の破片を崖側に敷き詰め、通りやすくすると、後続のバスも反対側に抜けることができました。
私たちはそのバスに乗り換えると再び個旧に向けて出発しました。
バスが順調に山道を走っていると、再びガシャン!という衝撃と破壊音がしました。何が起こったのか一瞬分からず、「爆発か?」と思いましたが、次の瞬間ガラスの破片がバラバラと後ろから飛んできたので、追突されたのだと分かりました。
バスは衝突ではずみがついたのか、急加速して坂道を滑り降りていきます。対向するトラックを何とか左にかわしたものの、まだブレーキが効いていないようでした。
スローモーションでも見ているみたいに、全ての状況がハッキリと目に飛び込んできます。「このまま谷底に落ちて死ぬのかな」と思いました。一瞬のことで体は動かず、妙に冷静でした。
ブレーキが間に合って、バスは何とか道路上で止まりました。乗客がわれ先に飛び降ります。後ろを見ると、追突してきたのは後続のバスのようで、今私たちがよけた対向車のトラックにもぶつかって止まっていました。後ろのバスのドライバーは額を割って血を流していましたが、見たところそれほどの重傷ではなさそうだし、他にケガ人もいないようです。
とにかく大惨事はまぬがれたものの、事故現場を保存することになったらしく、その場で足止めを食うことになりました。再び前後に渋滞が発生し、乗客のほかにもあちこちから大勢の見物人がやってきて、事故現場の周りでワイワイと議論が始まります。近所に住んでいるのか、カラフルな衣装の少数民族の人々も見物にやってきました。
1時間すると、やっと公安のパトカーがやって来て、デップリと太ったオヤジさんと若い男女の助手が現場検証を始めました。その間、渋滞で止まっているトラックの中には、積荷を下ろしてミカンやお菓子を売る商売人も現れました。ヤジ馬も興奮して「祭り」状態なのか、待たされてイライラしていたのか、そうしたお菓子が飛ぶように売れていきます。
事故から2時間くらいたってようやく検証が済みました。どの車も派手にガラスが割れ、ボディもグシャグシャでしたが、なんとか走ることはできたので、バスは再び乗客を乗せて出発しました。
結局、日も暮れようとする頃になって、ようやく個旧にたどり着きました。夕暮れの光の中で見たせいか、個旧はホコリっぽい、レンガ色の街でした。
今になって思えば、一日に二度も事故に遭いながら、乗客全員カスリ傷も負わず、無事終点までたどり着けたのは非常な好運だったような気がします。いずれのケースも一歩間違えれば全員が谷底に落ちて、誰も助からなかったかもしれません。しかし一方では、本当に運がいい人なら、こんな事故には遭わないという気もします。
事故に遭いながら難を逃れるというのは、好運なのでしょうか、それとも不運なのでしょうか?
金平(ジンピン)を早朝に発つバスで個旧(ケチウ)に向かいました。このルートは雲南の山中を走るので、悪路を登ったり下ったりという、なかなかしんどい旅になりますが、時には尾根道からはるか下の谷底まで棚田が続く、目の覚めるようなパノラマが楽しめたり、沿道を行き交う少数民族のカラフルな民族衣装を見ることもできて、退屈する心配はありません。
昼過ぎ、そろそろ個旧にも近づいてきたかと思われる頃、山道を登っていると突然破壊音がして、バスの左前輪が外れてコロコロと転がっていくのが窓から見えました。あっけにとられる間もなく、バスはガラガラと道路を豪快に引っかくと、道の真ん中に「座礁」してしまいました。
とりあえず全員が外に出ましたが、前輪部分が派手に壊れていて修理の余地もないらしく、運転手も車掌の小姐も途方に暮れるばかりです。バスが狭い山道を塞いでしまったので、やがて前後に車の列が出来はじめました。
私は、「こんな状態では、レッカー車か何かが到着するまで、前にも後ろにも進めないな」とぼんやり考えていました。しかしそもそもこんな山の中にレッカー車なんていうものがあるのか、あったとしても渋滞の中どうやってここまでたどり着けるのか想像がつきませんでした。
そしてそんなことよりも、下り坂やスピードの出ているときに車輪が外れなくて本当によかったと思いました。もしそうなっていたら、私たちはバスごと谷底に落ちていたかもしれません。
そうこうしているうちに、待ちきれなくなった後続の車が、崖側に残ったわずかな隙間をゆっくりと通過して無事反対側に抜けました。私たちも協力して岩の破片を崖側に敷き詰め、通りやすくすると、後続のバスも反対側に抜けることができました。
私たちはそのバスに乗り換えると再び個旧に向けて出発しました。
バスが順調に山道を走っていると、再びガシャン!という衝撃と破壊音がしました。何が起こったのか一瞬分からず、「爆発か?」と思いましたが、次の瞬間ガラスの破片がバラバラと後ろから飛んできたので、追突されたのだと分かりました。
バスは衝突ではずみがついたのか、急加速して坂道を滑り降りていきます。対向するトラックを何とか左にかわしたものの、まだブレーキが効いていないようでした。
スローモーションでも見ているみたいに、全ての状況がハッキリと目に飛び込んできます。「このまま谷底に落ちて死ぬのかな」と思いました。一瞬のことで体は動かず、妙に冷静でした。
ブレーキが間に合って、バスは何とか道路上で止まりました。乗客がわれ先に飛び降ります。後ろを見ると、追突してきたのは後続のバスのようで、今私たちがよけた対向車のトラックにもぶつかって止まっていました。後ろのバスのドライバーは額を割って血を流していましたが、見たところそれほどの重傷ではなさそうだし、他にケガ人もいないようです。
とにかく大惨事はまぬがれたものの、事故現場を保存することになったらしく、その場で足止めを食うことになりました。再び前後に渋滞が発生し、乗客のほかにもあちこちから大勢の見物人がやってきて、事故現場の周りでワイワイと議論が始まります。近所に住んでいるのか、カラフルな衣装の少数民族の人々も見物にやってきました。
1時間すると、やっと公安のパトカーがやって来て、デップリと太ったオヤジさんと若い男女の助手が現場検証を始めました。その間、渋滞で止まっているトラックの中には、積荷を下ろしてミカンやお菓子を売る商売人も現れました。ヤジ馬も興奮して「祭り」状態なのか、待たされてイライラしていたのか、そうしたお菓子が飛ぶように売れていきます。
事故から2時間くらいたってようやく検証が済みました。どの車も派手にガラスが割れ、ボディもグシャグシャでしたが、なんとか走ることはできたので、バスは再び乗客を乗せて出発しました。
結局、日も暮れようとする頃になって、ようやく個旧にたどり着きました。夕暮れの光の中で見たせいか、個旧はホコリっぽい、レンガ色の街でした。
今になって思えば、一日に二度も事故に遭いながら、乗客全員カスリ傷も負わず、無事終点までたどり着けたのは非常な好運だったような気がします。いずれのケースも一歩間違えれば全員が谷底に落ちて、誰も助からなかったかもしれません。しかし一方では、本当に運がいい人なら、こんな事故には遭わないという気もします。
事故に遭いながら難を逃れるというのは、好運なのでしょうか、それとも不運なのでしょうか?
2006.06.12 Monday
招待所の絶叫カラオケ
中国の雲南省を旅しているとき、宿は国営の招待所でした。建物は古く、従業員は無愛想なので、本当は泊まりたくないのですが、外国人は指定された宿にしか泊まれない規則になっているので仕方がありません。街を歩いていて、小奇麗で居心地のよさそうな民宿を見つけたとしても、涙をのんであきらめるしかないのです。
国営の招待所には、カラオケルームが設置されていることが多く、夜になるとお客の歌声がドミトリーの中まで聞こえてきます。何故かいつもフルボリュームで、ビリビリと割れた音が、まるで館内放送のように建物中に響き渡っているのです。
歌っているのはいつもオッサンで、私が聞いた限りでは、歌のうまい人はいませんでした。何故か、どのオッサンも歌うというより絶叫していて、悲鳴のような叫び声が延々と続きます。
何故いつもフルボリュームなのでしょうか? 招待所としては、「こんな楽しいことをしているんだから、あなたも是非カラオケルームにいらっしゃい」と呼びかけているのかもしれないし、客がフルボリュームにしろと、いやがる従業員に要求しているのかもしれません。
少なくとも私はそれを聞いて、一緒にカラオケをしようという気には絶対にならないのですが、もしかすると、招待所に泊まっている中国人の客の中には、その音に誘われて、「俺も大声で歌いたい!」と思う人が結構いるのかもしれません。
深夜まで続くカラオケの絶叫を毎晩のように聞いていると、慣れてしまうのか、あまり不快に感じなくなってきます。むしろやがて、中国のオッサンたちの孤独で悲しい「魂の叫び」が感じられるような気さえしてきます。私たちのような旅人には知る由もありませんが、オッサン達にも、叫びたくもなるような心の葛藤や、日々の辛い生活があるのかもしれません。「俺の叫びを聞いてくれ!」という切ない思いが、フルボリュームとなって部屋からあふれ出ているのかもしれません。
私の場合、日中は観光ポイントなどを歩き回って疲れていたので、騒音にいらだつこともあまりなく、すぐに寝入ることができました。招待所に泊まるときは、日中は動き回って夜はサッサと寝てしまうのがベストだと思います。オッサンの絶叫は、おやすみの音楽としては最悪ですが……。
国営の招待所には、カラオケルームが設置されていることが多く、夜になるとお客の歌声がドミトリーの中まで聞こえてきます。何故かいつもフルボリュームで、ビリビリと割れた音が、まるで館内放送のように建物中に響き渡っているのです。
歌っているのはいつもオッサンで、私が聞いた限りでは、歌のうまい人はいませんでした。何故か、どのオッサンも歌うというより絶叫していて、悲鳴のような叫び声が延々と続きます。
何故いつもフルボリュームなのでしょうか? 招待所としては、「こんな楽しいことをしているんだから、あなたも是非カラオケルームにいらっしゃい」と呼びかけているのかもしれないし、客がフルボリュームにしろと、いやがる従業員に要求しているのかもしれません。
少なくとも私はそれを聞いて、一緒にカラオケをしようという気には絶対にならないのですが、もしかすると、招待所に泊まっている中国人の客の中には、その音に誘われて、「俺も大声で歌いたい!」と思う人が結構いるのかもしれません。
深夜まで続くカラオケの絶叫を毎晩のように聞いていると、慣れてしまうのか、あまり不快に感じなくなってきます。むしろやがて、中国のオッサンたちの孤独で悲しい「魂の叫び」が感じられるような気さえしてきます。私たちのような旅人には知る由もありませんが、オッサン達にも、叫びたくもなるような心の葛藤や、日々の辛い生活があるのかもしれません。「俺の叫びを聞いてくれ!」という切ない思いが、フルボリュームとなって部屋からあふれ出ているのかもしれません。
私の場合、日中は観光ポイントなどを歩き回って疲れていたので、騒音にいらだつこともあまりなく、すぐに寝入ることができました。招待所に泊まるときは、日中は動き回って夜はサッサと寝てしまうのがベストだと思います。オッサンの絶叫は、おやすみの音楽としては最悪ですが……。
2006.05.23 Tuesday
中国の夜行寝台バス
中国は広い国なので、移動にはとにかく時間がかかります。北京や上海のような主要都市間を一気に移動しようと思ったら、飛行機か列車を使うことになりますが、列車が通っていない比較的マイナーな都市間の移動は、バスを使うしかありません。
同じ省内で、地図の上ではすぐ隣同士のような都市の間も、バスで行くと数十時間かかることがあります。私としては、何日もひたすら同じバスに乗り続けるというのはイヤなので、移動は一日数時間にとどめて途中の街で宿泊し、適度に疲労も回復させつつ、少しずつ刻みながら旅をするのが好みなのですが、諸般の事情でどうしても一気に移動せざるを得ないこともあります。
長時間の移動が苦痛なのは中国人も同じらしく、誰が発明したのか、フラット寝台(平臥)バスというのが各地に普及しています。これはその名のとおり、平らな2段ベッドが通路の両側に造りつけられていて、ベッドに寝たまま目的地まで移動できるという素晴らしい乗り物です。
これで移動すれば、尻の痛みや疲労に悩まされることなく、快適に長旅を楽しむことができそうですが、実はいくつかの欠点もあります。
まず、当然のことですが、料金が高いということです。これは一人当たりの占有面積が大きいので仕方のないことです。また、寝台車という性質上、席が予約制になっていて、早めにチケットを確保する必要もあります。
寝台は2人ずつ使用するので、一人旅の場合は同じ「ベッド」を誰か見知らぬ人と共有することになります。運命のいたずらで、若くてかわいらしい女性と隣になる幸運にめぐりあう可能性もゼロではありませんが、乗客の人数比からいって、中国人のオッサンに当たる確率の方が圧倒的に高いでしょう。女性の一人旅なら、予約の時に隣席も女性にしてもらうなどの「防衛策」をとる必要があります。
また、列車と違ってバスの揺れは激しいので、上段ベッドに寝ているときは、揺れたはずみで転げ落ちないよう細心の注意が必要です。旅先で読んだ情報ノートには、寝台から転げ落ちてケガをした旅行者の話が書かれていました。
最後に、これは防ぎようのないことですが、寝台に横になっていると、ムッとするような異臭のすることがあります。寝台バスでは普通、進行方向に足を向けて横になるので、自分の頭の真後ろは、後席の乗客の足の先ということになります。よって、後ろの席にオッサンが二人寝ているような時には、彼らの靴下から強烈な「異臭」が漂ってくることになるのです。
もっとも、人間の感覚というのはうまくできているので、数十分もすれば臭いに慣れて、ほとんど気にならなくなるでしょう。中国の田舎を旅する人ならば、それ以前に様々な試練を乗り越えているので、このくらいの不都合は笑って許せるはずです。
同じ省内で、地図の上ではすぐ隣同士のような都市の間も、バスで行くと数十時間かかることがあります。私としては、何日もひたすら同じバスに乗り続けるというのはイヤなので、移動は一日数時間にとどめて途中の街で宿泊し、適度に疲労も回復させつつ、少しずつ刻みながら旅をするのが好みなのですが、諸般の事情でどうしても一気に移動せざるを得ないこともあります。
長時間の移動が苦痛なのは中国人も同じらしく、誰が発明したのか、フラット寝台(平臥)バスというのが各地に普及しています。これはその名のとおり、平らな2段ベッドが通路の両側に造りつけられていて、ベッドに寝たまま目的地まで移動できるという素晴らしい乗り物です。
これで移動すれば、尻の痛みや疲労に悩まされることなく、快適に長旅を楽しむことができそうですが、実はいくつかの欠点もあります。
まず、当然のことですが、料金が高いということです。これは一人当たりの占有面積が大きいので仕方のないことです。また、寝台車という性質上、席が予約制になっていて、早めにチケットを確保する必要もあります。
寝台は2人ずつ使用するので、一人旅の場合は同じ「ベッド」を誰か見知らぬ人と共有することになります。運命のいたずらで、若くてかわいらしい女性と隣になる幸運にめぐりあう可能性もゼロではありませんが、乗客の人数比からいって、中国人のオッサンに当たる確率の方が圧倒的に高いでしょう。女性の一人旅なら、予約の時に隣席も女性にしてもらうなどの「防衛策」をとる必要があります。
また、列車と違ってバスの揺れは激しいので、上段ベッドに寝ているときは、揺れたはずみで転げ落ちないよう細心の注意が必要です。旅先で読んだ情報ノートには、寝台から転げ落ちてケガをした旅行者の話が書かれていました。
最後に、これは防ぎようのないことですが、寝台に横になっていると、ムッとするような異臭のすることがあります。寝台バスでは普通、進行方向に足を向けて横になるので、自分の頭の真後ろは、後席の乗客の足の先ということになります。よって、後ろの席にオッサンが二人寝ているような時には、彼らの靴下から強烈な「異臭」が漂ってくることになるのです。
もっとも、人間の感覚というのはうまくできているので、数十分もすれば臭いに慣れて、ほとんど気にならなくなるでしょう。中国の田舎を旅する人ならば、それ以前に様々な試練を乗り越えているので、このくらいの不都合は笑って許せるはずです。
2006.05.05 Friday
香港で注射器を探した話
チベットに行こうと思い、香港で6か月の中国ビザを取得したり、寝袋を買ったりと、いろいろ準備していたときのことです。
チベットや中国の田舎では、医療器具が不足していて注射器が使い回されていたりするので、いざというときのために個人で用意しておいたほうがいいと、以前に何かの本で読んだか、話に聞いていました。
そういうものは、中国では手に入らないと思い、香港にいるうちに注射器と点滴針を探すことにしました。
日系の百貨店や、あちこちの薬屋を訪れ、怪しい英語と筆談でたずねてまわりましたが、言葉が通じないのか、在庫を確認するのが面倒なのか、どこでも冷たくあしらわれました。
こんなに病院がいっぱいあるんだから、どこかで注射器くらい市販されてるだろうと思ったのですが、読みが甘かったようです。
一日探し回って、ようやくある薬屋で、奥の倉庫の一角に置いてあった注射器を2、3本購入することができました。点滴針はないと言われてあきらめました。
幸い、チベットの旅ではケガも病気もなく、その後に行った別の国でも注射器のお世話になることはありませんでした。
しかし、今考えてみると、病院がたくさんある香港で、しろうとが注射器を自分で買って使うというシチュエーションがあるわけないし、チベットで必要になるかもしれないという私の側の事情など、薬屋の人が知る由もないわけで、彼らとしては、「こいつはヤバイことに使うんじゃないか」と考えていたんだろうなと思います。
私はよく知りませんが、日本でも、薬屋で注射器とかを普通に売ってくれるのでしょうか? 辺境を旅行する際に、注射器を持参する旅行者がどれくらいいるのかわかりませんが、どこでどういう風に調達しているものなのか、一度旅のプロに聞いてみたい気がします。
チベットや中国の田舎では、医療器具が不足していて注射器が使い回されていたりするので、いざというときのために個人で用意しておいたほうがいいと、以前に何かの本で読んだか、話に聞いていました。
そういうものは、中国では手に入らないと思い、香港にいるうちに注射器と点滴針を探すことにしました。
日系の百貨店や、あちこちの薬屋を訪れ、怪しい英語と筆談でたずねてまわりましたが、言葉が通じないのか、在庫を確認するのが面倒なのか、どこでも冷たくあしらわれました。
こんなに病院がいっぱいあるんだから、どこかで注射器くらい市販されてるだろうと思ったのですが、読みが甘かったようです。
一日探し回って、ようやくある薬屋で、奥の倉庫の一角に置いてあった注射器を2、3本購入することができました。点滴針はないと言われてあきらめました。
幸い、チベットの旅ではケガも病気もなく、その後に行った別の国でも注射器のお世話になることはありませんでした。
しかし、今考えてみると、病院がたくさんある香港で、しろうとが注射器を自分で買って使うというシチュエーションがあるわけないし、チベットで必要になるかもしれないという私の側の事情など、薬屋の人が知る由もないわけで、彼らとしては、「こいつはヤバイことに使うんじゃないか」と考えていたんだろうなと思います。
私はよく知りませんが、日本でも、薬屋で注射器とかを普通に売ってくれるのでしょうか? 辺境を旅行する際に、注射器を持参する旅行者がどれくらいいるのかわかりませんが、どこでどういう風に調達しているものなのか、一度旅のプロに聞いてみたい気がします。
2006.04.28 Friday
中国のトイレ事情
バックパッカーとして中国を旅した人なら誰でも知っていることですが、中国でトイレに入ると、未知の体験が待っています。
もちろん、日本や欧米並みの料金をとる一流ホテルや、一流でなくても各部屋にバス・トイレがついているような中級ホテルに泊まる限りは何の問題もなく、いつもそういった宿に泊まっている人は体験せずに済んでいるかもしれません。
しかし中国でも辺境の地を旅していると、外国人の立ち入りが許される町では、いわゆる国営の招待所しか泊まるところはなく、お金を節約しようとすれば個室ではなくドミトリーに入ることになり、当然シャワー、トイレは共同になります。
国営招待所のトイレといってもいろいろなレベルがありますが、共通して言えるのは、トイレに個室の壁がないか、あっても高さ50センチくらいしかない、ということです。当然用を足している人同士は丸見えになります。
田舎に行くと、トイレの下に大きく穴を掘ってあるだけ、という場合もありますが、やや大きな町では、トイレの「大」用のスペースに、道路の側溝を小さくしたような溝が一本走っていて、水を流せるようになっているのを多く見かけます。その溝と直角に30〜50センチくらいの高さの仕切り壁が何枚か並んでいて、一人につき幅1メートル分くらいのスペースを確保してあるのです。
用を足すときは、その溝をまたいでしゃがむわけですが、複数の人が同時に用を足すときは、乾電池を直列につなぐような感じで、溝に沿って縦一列に並ぶことになります。誰かが逆を向いてしゃがむと、用を足している間中、互いに見つめ合うことになってしまうので、みな最初の一人と同じ方向を向いてしゃがむようです。
また、「上流」から水が流されるたび、上流にしゃがんでいる人達の「大」が一緒に流れてきて、自分の下を通過していきます。これは気持ちのいいものではありません。
トイレには毎日行かなければならないし、他に選択肢がないので、慣れるしかないのですが、「大」をしている時に人が隣にいるというのは本当に落ち着かないものです。
私は経験がありませんが、トイレが混んでいる時間帯などは、自分の目の前に列をつくって人が待っていたりするわけで、そういう状況で果たして落ち着いていられるか、自信がありません。
トイレにもシャワー室にも壁がない以上、中国でドミトリーに泊まり続けるということは、24時間全くプライバシーのない生活を送るということです。
「欧米人のバックパッカーで、1ヶ月以上中国を旅行していてノイローゼになった人がいるらしい」という噂を聞きましたが、いかにもありそうな話だと思いました。そこまでいかなくても、中国の旅は欧米人にはかなりしんどいようです。
彼らは我々日本人より外見がずっと目立つので、トイレでは当然視線も集まることでしょう。個室の完備した社会で育った人達にはプライバシーゼロという世界はつらいだろうなと思います。
旅の名言 「便所で手が……」
旅の名言 「自分の中で何かが壊れ……」
記事 「チベットのトイレ事情」
内沢旬子・斉藤政喜著 『東方見便録』 の紹介記事
もちろん、日本や欧米並みの料金をとる一流ホテルや、一流でなくても各部屋にバス・トイレがついているような中級ホテルに泊まる限りは何の問題もなく、いつもそういった宿に泊まっている人は体験せずに済んでいるかもしれません。
しかし中国でも辺境の地を旅していると、外国人の立ち入りが許される町では、いわゆる国営の招待所しか泊まるところはなく、お金を節約しようとすれば個室ではなくドミトリーに入ることになり、当然シャワー、トイレは共同になります。
国営招待所のトイレといってもいろいろなレベルがありますが、共通して言えるのは、トイレに個室の壁がないか、あっても高さ50センチくらいしかない、ということです。当然用を足している人同士は丸見えになります。
田舎に行くと、トイレの下に大きく穴を掘ってあるだけ、という場合もありますが、やや大きな町では、トイレの「大」用のスペースに、道路の側溝を小さくしたような溝が一本走っていて、水を流せるようになっているのを多く見かけます。その溝と直角に30〜50センチくらいの高さの仕切り壁が何枚か並んでいて、一人につき幅1メートル分くらいのスペースを確保してあるのです。
用を足すときは、その溝をまたいでしゃがむわけですが、複数の人が同時に用を足すときは、乾電池を直列につなぐような感じで、溝に沿って縦一列に並ぶことになります。誰かが逆を向いてしゃがむと、用を足している間中、互いに見つめ合うことになってしまうので、みな最初の一人と同じ方向を向いてしゃがむようです。
また、「上流」から水が流されるたび、上流にしゃがんでいる人達の「大」が一緒に流れてきて、自分の下を通過していきます。これは気持ちのいいものではありません。
トイレには毎日行かなければならないし、他に選択肢がないので、慣れるしかないのですが、「大」をしている時に人が隣にいるというのは本当に落ち着かないものです。
私は経験がありませんが、トイレが混んでいる時間帯などは、自分の目の前に列をつくって人が待っていたりするわけで、そういう状況で果たして落ち着いていられるか、自信がありません。
トイレにもシャワー室にも壁がない以上、中国でドミトリーに泊まり続けるということは、24時間全くプライバシーのない生活を送るということです。
「欧米人のバックパッカーで、1ヶ月以上中国を旅行していてノイローゼになった人がいるらしい」という噂を聞きましたが、いかにもありそうな話だと思いました。そこまでいかなくても、中国の旅は欧米人にはかなりしんどいようです。
彼らは我々日本人より外見がずっと目立つので、トイレでは当然視線も集まることでしょう。個室の完備した社会で育った人達にはプライバシーゼロという世界はつらいだろうなと思います。
旅の名言 「便所で手が……」
旅の名言 「自分の中で何かが壊れ……」
記事 「チベットのトイレ事情」
内沢旬子・斉藤政喜著 『東方見便録』 の紹介記事