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舞台の裏

もうずっと昔、マレーシアのペナン島に滞在していたときのことです。

 

そのときは、タイの観光ビザを手に入れる、いわゆる「ビザラン」のために、タイから一時的にマレーシア側に出国していました。ペナンには、過去に旅の途中で何度か立ち寄ったことがあり、ひととおりの観光や街歩きもしていたので、やりたいことは特にありませんでした。
記事 ビザ・ラン

 

安宿が多い、ジョージ・タウンのチュリア通り(ルブ・チュリア)周辺に宿をとった私は、ビザがとれるまでの数日間、ベッドでゴロゴロしながら本を読んだり、食事と気晴らしのために近所を散歩するような、典型的な「沈没」スタイルの日々を送っていました。
ウィキペディア 「沈没」

 

どこの街でもそうですが、何日か滞在して、宿の近くの食堂やカフェをいろいろ試しているうちに、その中から、だんだんとお気に入りの店ができてきます。

 

安さはもちろん、おいしさやメニューの充実度、スタッフの対応や客層など、いろいろな条件がうまくかみ合い、自分にとって相性のいい店は、また行きたくなるし、そういう店が何軒か見つかると非常に居心地がよくなり、その街を離れがたい気持ちになったりします。

 

チュリア通りの近辺では、中華料理を何種類かご飯にかけてもらえる「ぶっかけ飯」(経済飯)の店とか、ベジタリアン料理の店とか、多彩なトッピングを自由に選べる麺の店など、お気に入りの店がいくつか見つかりました。

 

夜になると、通りはバックパッカーや地元の人々でにぎわいます。私はお気に入りの店のどれかで夕食をとってから、通りをぶらぶらと歩き、その締めくくりに、屋台でスターフルーツのジュースを飲むのが日課になっていました。

 

ある日、いつものように、ビニール袋に入れてもらったジュースを飲みながら宿に向かって歩いていると、前方に、ジュースの屋台で売り子をしている青年がいることに気がつきました。20代くらいのその若者とは、話をしたことはありませんでしたが、屋台で何度も見かけて顔を覚えていたのです。

 

そういえば、さっきは屋台にいなかったな、これから屋台のスタッフ(たぶん彼の家族)を手伝いに行くんだろうな、などと思ったのですが、同時に、激しい違和感がありました。

 

その若者は、手にクルマのカギを持っています。路肩の駐車スペースにクルマを止めて、今、そこから出てきたようでした。

 

あれ? 屋台で働く青年が、どうしてクルマを運転しているんだろう?

 

屋台の売り子という仕事と、自家用車を持てる中流の暮らしとがどうしても結びつかず、一瞬、思考が停止するような、何かがバグって現実が歪んだような、とても奇妙な感覚に襲われました。

 

そして、それに続いて、自分が何かに裏切られたような、怒りのような、変なモヤモヤが心に広がったのを覚えています。たぶん、最初の強い違和感が引き金になって、私の意識の奥の方で警報が鳴り、自分の身が安全かどうかを急いでチェックする、「非常時モード」の思考がフル回転を始めたのでしょう。

 

そういう思考は、一人旅をしている人間なら、何か変だぞ、と思うような状況に直面した瞬間に、自動的に働き出すものです。知り合ったばかりの人物が妙に親切すぎるとか、相手の話のつじつまが合わないとか、道路を渡って別のブロックに入ったら、路上の人々の目つきが急に険しくなったとか、そういうちょっとした違和感に気がついたら、急いでその原因を探り、早めの対処を自分に促すことで、危険に深入りするのを防げることがあります。

 

普通に旅をしているかぎり、命にかかわるような恐ろしい出来事に遭遇することはめったにありませんが、それでも、ヒヤッとしたり、不愉快な思いをすることはそれなりにあります。そして、そうしたイヤな経験を重ねるたびに、その直前に何が起きていたかがしっかりと記憶され、再び似たようなことが起きると、心の中で警報が鳴りひびくのです。

 

もっとも、そうした警報は、あくまで最悪のケースを想定したものなので、実際には空振りに終わることの方がずっと多いでしょう。それでも、警報が鳴るたびに、念のため、自分が置かれた状況を冷静にチェックしてみるのは意味のあることです。

 

そのときも、青年の姿に違和感を感じた瞬間に「非常時モード」に入り、ほとんど無意識のうちに、自分は誰かに騙されていないだろうか、とか、今、手にしているジュースは安全だろうか、みたいな、ほとんど妄想のようなことまで含めて、自分の身の安全に関わりそうなことが、あらゆる角度からチェックされたのだと思います。心に広がった「変なモヤモヤ」は、たぶん、そのときにフル稼働していた膨大な思考によるものだったのでしょう。

 

でも、屋台の青年がクルマのカギを持っていたところで、私の身の安全には何の関係もないことは明らかで、そのときの警報は空振りだと分かったからか、モヤモヤはすぐに晴れていきました。

 

ただ、何事もなかったとはいえ、その件には、何か心にひっかかるものがあったのでしょう。旅先で経験したことのほとんどは、だいたい数年もすれば忘れてしまうものなのに、そのささやかな出来事のことは、なぜか今でも覚えているのです。

 

それはきっと、そのとき、私の身は安全だったかもしれませんが、私の頭の中の「思い込みの世界」の方が、危機に瀕していたからなのだと思います。

 

当時はともかく、それなりに歳を重ねた今なら、屋台の売り子がクルマを運転していたからといって、別に不自然でも何でもないことが理解できます。

 

これはマレーシアに限った話ではありませんが、屋台で働いている人は、別に、屋台でしか働けないからそうしているわけではありません。

 

もちろん、単純に屋台だけを本業として、それで家族を養っているという人も大勢いるわけですが、別の本業があって、副業として、屋台を含めたちょっとした仕事を掛け持ちすることも、アジアの国々ではめずらしいことではないし、そうした仕事をしている家族や親戚の手伝いに駆り出されることも日常茶飯事でしょう。

 

また、屋台なら売り上げの数字をいくらでもごまかせるところに目をつけて、税金対策として、むしろ積極的にそういう商売をしている人も、かなりいるのではないかと思います。

 

これはあくまでも、現時点での私の想像に過ぎませんが、スターフルーツの屋台の青年と(たぶん)その家族は、ごく普通の中古車が買えるくらいの中流の生活をしつつ、昼間の本業とは別に、夜はその場所で屋台の営業をして、私のような外国人旅行者たちから、けっこうな利益を上げていたのではないでしょうか。

 

そして、そうした利益の一部が、クルマの購入資金になっていた可能性もあるでしょう。

 

まあ、真実がどこにあるかは、今さら知る由もありませんが……。

 

しかし、当時の私には、屋台で働いている人はみんな貧しくて素朴な庶民に違いない、という強い思い込みがあったし、それを変だとも思っていませんでした。そのために、現実には、物事がそんなに単純ではなく、屋台のオーナーや売り子にもいろいろなタイプがあることが見えなくなっていたのでしょう。

 

屋台の見た目がどれだけ素朴に見えたとしても、そのオーナーや売り子がどんな人たちで、ふだんはどんな暮らしをしていて、屋台の売り上げが実際にどれくらいなのかは、関係者とよほど親しくなって重要なことを教えてもらうなり、密着取材みたいに、彼らの商売をずっと観察し続けるなりしないかぎり、本当のところは誰にも分からないのではないでしょうか。

 

私はあの日、そういう現実のごく一部を思いがけず目にして、自分の「思い込みの世界」とはつじつまが合わなくなってしまい、一瞬、自分が頭の中に築き上げた世界が壊れていくような恐怖を感じたのだと思います。

 

そして、私たちが旅行先の国々に対して抱いている思い込みは、屋台にかぎった話ではないでしょう。

 

考えてみれば、そのときに自分が泊まっていた宿とか、近くの食堂にしても、その周辺が外国人バックパッカーでにぎわうようになってから、それをビジネスチャンスとして生かすために、いろいろな工夫を重ねて客を呼び込み、したたかに商売をしていたわけです。

 

私たちバックパッカーは、どこの国でも、観光名所にほど近い、旧市街の安宿や食堂を利用することが多く、街を行き交う人々も、いかにも庶民という格好をしているので何となく勘違いしてしまうのですが、それらを経営しているのは、本当の庶民というよりは、けっこう商売の経験があったり、ある程度の教育を受けたりしている、社会的にはそれなりの家庭で育った人間の方がずっと多いのかもしれません。また、私たち旅行者と接する機会の多い、そういう安宿や食堂のスタッフが、経営者本人だったり、その家族や親戚だったりすることも多いでしょう。

 

現実の世界は、私たちが頭の中に作り上げた思い込みのように、単純で分かりやすく出来ているわけではありません。そして、一つの土地に長く生活して、いろいろなことを注意深く見聞きする中で、ようやく見えてくるような事実というものも、いくらでもあるのだと思います。

 

逆に言えば、団体旅行の急ぎ足の旅行者はもちろん、ゆっくりと時間をかけ、自由な旅をしているはずの個人旅行者でさえ、現地の関係者が用意してくれた旅行者向けの舞台の観客として、いかにもその街らしい、イメージ通りのものを見せてもらって満足して帰っていく、というパターンの方がずっと多かったりするのかもしれません。

 

きっと私も、そういう旅行者の一人として、地元の人たちの分かりやすい「おもてなし」の数々を楽しみ、ステレオタイプな「ペナンらしさ」を堪能し、それなりに街を理解したつもりになっていたのが、たまたま舞台裏に迷い込み、そこで働くスタッフの、ありのままの姿を垣間見てしまった、ということなのでしょう。

 

でも、そういう舞台裏を目にしない旅が良くない、というわけではありません。ディズニーランドに行って、着ぐるみの中身をいちいち気にしていたら、そこで味わえるはずの楽しいひとときが台無しになるだけです。よくできた小説や映画を心から楽しむように、旅先で、旅行業界の人々が用意してくれた、その土地ならではの面白さを味わわせてもらうのは、素直でまっとうな旅の楽しみ方だと思います。

 

それに、舞台裏をことさらに覗き込もうとしたところで、それで私たちがこの世界の「真実」に、より一層近づける、というわけでもないのかもしれません。通りすがりの旅人ではなく、一つの土地にずっと暮らして、地元の言葉を流ちょうに話し、人間関係に深く通じていたとしても、この世界の表と裏のすべてを見通すことなんてできないでしょう。

 

とはいえ、私たちが旅先で見ているのが、あくまでも現実のごく一部、幾重にも重なった玉ネギの皮の一つの層に過ぎない、ということを自覚しているのは、まったく自覚しないよりも、少しはマシなのかもしれない、と思います。

 

私たちは、世界のあちこちに自ら足を運ぶことで、よりリアルな現実に触れることができると思っているけれど、実際には、現地で経験するさまざまな出来事もまた、観光客の幻想を強化するために手を加えられたアトラクションにすぎないのかもしれません。あるいは、地元の人は、別にそこまで意図的ではなく、何かを隠そうとしているわけでもないけれど、私たち旅行者が勝手に見たいものを見て、見たくないものは見なかったことにして、自分に都合のいいような幻想をせっせと強化して帰っていくだけなのかもしれません。

 

しかし、いずれにせよ、そうしたことを自覚せずに幻想を信じ続けているよりは、それが幻想だと気がついている方が、少しだけ自由でいられると思うし、ときには、現地で思いがけず目にした舞台裏の光景が、心の中の「思い込みの世界」に衝撃を与え、粉砕してくれることもあるでしょう。それは、必ずしも心地いい体験ではないかもしれませんが、これまでに見たことのない世界を見せてくれるのは確かだし、少なくとも退屈だけはしないで済むのではないかと思います。

 

もっとも、そうした衝撃にしても、数限りなく重なっている玉ネギの薄皮を、一枚だけ剥がしてくれる程度にすぎないかもしれませんが……。

 

 

JUGEMテーマ:旅行

at 19:55, 浪人, 地上の旅〜東南アジア

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夏が来れば思い出す

夏が近づき、気温も高くなってきて、台所の生ゴミからあの独特の匂いが漂ってくるとき、あるいは、生ぬるい水道水を口にふくんで、かすかな生臭さを感じるようなとき、私はタイやバンコクの街を思い出します。

 

こんなことを書くとタイの人に怒られてしまいそうなので、急いでつけ加えておくと、私にとって、その匂いは決して不快なだけのものではなく、むしろそれは、たくさんの楽しい思い出と結びついているのです。

 

もうずっと昔、初めての海外旅行でバンコクの街を歩き回って、そのアジア的な混沌に魅せられたのですが、それと同時に、屋台の立ち並ぶ道端から漂ってくる、饐えたような強烈な匂いもまた、私の心にしっかりと刻みつけられました。

 

宿のベッドで目が覚めて、枕元にすら漂っている街の匂いに気づいた瞬間、自分はいま、異国にいるのだという実感をしみじみと味わったものです。

 

最初のうちは、そうした匂いへの抵抗感とか、日本で身につけた衛生観念が邪魔をして、街の安食堂や屋台で食事をするのがためらわれたのですが、ツーリスト向けの小綺麗なレストランが見つからないときなど、ちょっと勇気を出して路上での食事にチャレンジしてみるうちに、その楽しさに少しずつ目を開かされていきました。

 

地元の人々がふだん口にしている、飾り気のないシンプルな、しかしタイ料理らしいはっきりとした個性を感じる料理の数々は、ツーリストカフェの無国籍風料理よりずっとおいしかったし、蒸し暑い土地なので、壁のない広々とした場所で食べている方が、涼しくて快適でした。

 

それに、そこでは、短パンによれよれのTシャツ、ペラペラのビーチサンダルという、いかにも貧乏旅行者という格好をしていても何の違和感もありません。また、店の人も近くのテーブルで食べている客も、私たち外国人旅行者に余計な干渉はせず、適度に放っておいてくれます。そんなゆるい雰囲気の中で、汗を滴らせながら、定番のタイ料理を夢中になって食べているとき、私はワクワクする楽しさや、何ともいえない解放感を覚えていたのだと思います。

 

その後、タイや他のアジアの国々を何度も旅するうちに、路上で食事をすることは、私にとって、旅の日常になっていきました。そしてあの、スパイスの香りが入り混じった生臭い匂いもまた、街角のごくごく当たり前の存在として、いつしか意識することもなくなっていました。

 

長い旅を終えて日本に帰ってきたとき、街のどこもかしこも清潔で、静かで、きちんとしていることに逆カルチャーショックを受けました。きちんとしすぎていて、何だか窮屈にさえ感じられたほどです。しばらくすると、そうした違和感は消えていきましたが、それでも、南国的なゆるさを求める気持ちは、帰国後も心のどこかでずっとくすぶり続けていたのかもしれません。

 

いつのことだったか、もう覚えてはいないのですが、ある暑い日に、台所の生ゴミの匂いをかいだ瞬間、タイでのさまざまな思い出が、心の中に一気に溢れ出してきました。そして、それは不思議な解放感を伴っていました。理由もなく、明るい笑いがこみ上げてきたのです。

 

それ以来、ちょっと生臭い匂いをかいだときなど、必ずというわけではありませんが、心の片隅が、懐かしいような楽しいような、ふわっとした温かい気持ちになることがあります。それは、しばらくすると別の感覚にかき消されてしまうような、ささやかな感覚にすぎないのですが、それでもそれは、日々の生活に、ちょっとした彩りを与えてくれているように思います。

 

いま、経済成長の続くアジアの国々では、日本と同じような、細かいところまできちっとした、清潔で静かで便利で快適な暮らしに向かって、多くのものが急速に変化しつつあります。きっと、バンコクの路上のあの匂いも、街の美化とともにやがては消えていくことになるのでしょう。

 

それでも、私の記憶の中のタイやバンコクは、今でもあの匂いとしっかりと結びついたままだし、それはたぶん、これからもずっと心の中から失われることはないと思います。

 

そして、夏が近づき、台所であの独特の匂いをかぐたびに、私にささやかな解放感を与えてくれるのかもしれません。

 

 

JUGEMテーマ:旅行

at 18:56, 浪人, 地上の旅〜東南アジア

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異物混入

先日、ある有名なカップ焼きそばにゴキブリが混入している写真がネット上を駆けめぐり、メーカーが商品の販売中止と回収、工場の操業停止に追い込まれました。

回収騒ぎは他社にも飛び火しているようで、食品業界の関係者は、しばらくのあいだ、いろいろと神経をすり減らす日が続くのではないでしょうか。

一連のニュースをきっかけに、もうずっと昔、ラオスのヴァンヴィエン(バンビエン)に滞在していたときの、ささやかな出来事を思い出しました。

ヴァンヴィエンは首都のヴィエンチャンからバスで数時間のところにある、山間の小さな町です。周辺では洞窟めぐりや川下りなど、それなりのアトラクションを楽しめますが、どちらかというと、何もない田舎でボケーッとしたい人向けの場所で、バックパッカーの間では「沈没地」としても有名です。
ウィキペディア 「ヴァンヴィエン」

ある日の昼下がり、宿の近くをぶらぶら歩いていて、地味な食堂に目が止まりました。

いまとなっては記憶も曖昧なのですが、それは掘っ立て小屋のような、粗末なつくりのみやげ物屋の片隅にテーブルを置いた、いちおう食事も出せます、みたいな感じの店だったと思います。

そのときは店番の若い女性が一人いただけで、ほかに客の姿もありませんでしたが、ふと、そこで昼メシを食べようという気になって、店に入りました。いつもはその近くにある、ツーリスト向けの食堂ばかりに通っていたので、たまには別の店を試してみようと思ったのです。

とりあえず、その店にも英語のメニューくらいはあったのでしょう。私は、その中から、野菜入りのヌードル・スープを注文しました。

値段は、外国人相手の食堂よりも、かなり安かったような記憶がありますが、料理自体はとりたてて特徴もない、ごく普通の味でした。

食べ始めてしばらくして、スープの中に、数センチの茶色い破片が浮かんでいるのに気がつきました。

よく見ると、昆虫の羽根です。バッタかコオロギでしょうか。

でもまあ、そこはちゃんとした壁もないような店だったし、風に吹かれてゴミが飛んできたのかな、まあ、こういうこともあるだろう、と思って、箸でつまみ、土間になっていた床に捨てたのですが、再び食べ始めると、さらに同じような破片がいくつも浮き上がってきます。

ゲッ、と思いました。羽根一枚ならともかく、何枚ともなると、気持ち悪さが半端ではありません。

それにこれは、バッタやコオロギではなくて、「あの虫」の羽根では……。

ただ、スープの中に「本体」は見つかりませんでした。知らないうちに食べてしまった可能性もゼロではないけれど、それらしい歯ごたえや違和感は感じなかったので、たぶん、野菜か何かに紛れ込んでいた虫が、調理の過程でバラバラになって、その一部がスープに入ってしまったのでしょう。

昆虫に詳しくない私には、その虫の正体は分かりません。しかし、分からないだけに、かえって、余計な想像がどんどんふくらんでいきます。

すでに、食欲はすっかり消えていましたが、かといって、店のお姉さんを呼びつけて、クレームをつけるのもためらわれました。

お互いの語学力の問題で、話がうまく通じないだろうと思ったのもありますが、かりに文句を言ったところで、変なスープを飲んでしまった事実がなくなるわけではありません。

それに何より、ここはラオスの田舎です。この程度のことは、文字どおりの「日常茶飯事」ではないでしょうか。店員さんからすれば、何か面倒な客が、虫一匹のことで大げさに騒いでる、くらいにしか思わないかもしれません。

もしそうなら、ことを荒立てても、きっと何の解決にもならないし、むしろ、独り相撲みたいになって、いっそう惨めになるだけなのでは……。

そんなことをあれこれ考えるうちに、すべてがどうでもよくなってきました。

そして逆に、食べかけの料理を残すのも何だかもったいない気がしてきて、虫の破片を全部つまみ出すと、残りを完食し、何事もなかったように店を出ました。

さいわい、その後、「健康被害」はありませんでした。まあ、さすがにその店に再び足を運ぶことはありませんでしたが……。

アジアの田舎の食堂みたいに、衛生面でいろいろ問題がある状況だと、利用者は、常に注意深くなければならないし、何かトラブルがあっても、結局は、自分の判断が甘かったとか、運が悪かったとあきらめるしかありません。そういう環境で暮らしていくのは、誰にとってもけっこうハードだと思うし、私も旅から帰るたびに、日本の清潔さに感動します。

かといって、今回の焼きそばの混入事件みたいに、ゴキブリ一匹で日本中が大騒ぎし、メーカーの存亡に関わるほどの一大事になってしまうのも、それはそれで、ちょっと行き過ぎではないかという気がします。

安心・安全の追求は大事なことではありますが、絶対的な安心を求めても際限がないし、それは当然、手間やコストの増加にもつながります。それに、ミスやトラブルが全く許されない状況は、関係者に異常なまでの緊張を強いることになるでしょう。

今後もきっと、食品に異物が混入している写真などが、ネットにたくさん出回ることになると思いますが、そういうミスをゼロにはできない以上、それが健康に直接被害をもたらすほど深刻なものでないなら、私たちにも、それを冷静にスルーする大らかさが必要になってくるのかもしれません。

 
JUGEMテーマ:旅行

at 19:14, 浪人, 地上の旅〜東南アジア

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東南アジアの国境をめぐる旅

旅行作家の下川裕治氏とカメラマンの阿部稔哉氏がウェブ上で連載していた、東南アジアの国境をめぐる旅の記事が、先日完結しました。

『裏国境を越えて東南アジア大周遊』(全20回)

2人は、バンコクを起点に、ここ数年で外国人旅行者にも開かれ始めた、主に地元民向けのマイナーな国境を越えながら、タイ、カンボジア、ベトナム、ラオス、ミャンマーを旅しています。

途中、有名な観光地や大都市も通過するものの、メインテーマはあくまで国境越えなので、かなり地味でマニアックな旅が続くのですが、簡潔な文章や写真・動画を通じて現地の雰囲気が伝わってくるので、旅の好きな人なら、けっこう楽しめるのではないかと思います。

また、旅の詳細については、下川氏のブログでも読むことができます。

【裏国境の旅がはじまった】 たそがれ色のオデッセイ BY 下川裕治

私も十年以上前に、全くの別ルートですが、そのころ開かれていた数少ない国境を抜けながら東南アジア各国を周遊したことがあるので、読んでいたら、当時の体験がいろいろとよみがえってきたし、2人の旅の詳細についても、とても興味をひかれるものがありました。

例えば、カンボジアのプノンペンからベトナム南部のチャドックまで、メコン川をスピードボートで下るルートとか、ベトナム北部のディエンビエンフーからラオス北部に入り、ルアンパバーンへ抜ける山岳ルートなどはけっこう面白そうだし、特に、ミャンマー南部のメルギー諸島については、昔からの憧れでもあり、いつか旅してみたいと改めて思いました。

新しい国境がいくつもオープンしたおかげで、個人旅行者がより自由にルートを描けるようになったのは素晴らしいことだと思います。2人のように東南アジアを大周遊するような時間と気力のある人は少ないでしょうが、彼らのたどったルートの一部を取り入れるだけでも、旅がかなり変化に富んだものになるのではないでしょうか。

ただ、少し残念なのは、最近タイの当局が、ノービザ・陸路での国境の出入りを制限する動きに出ていることで、今後の成り行き次第では、バンコクを起点にした、こうした周遊旅行がやりにくくなる可能性があるということです。
記事 「ビザ・ラン」

それにしても、2人の旅は、(仕事のスケジュールの関係なのか)途中何度か中断をはさんでいるとはいえ、現地ではひたすら先を急いでいて、ほとんど休む間もなくバスや船を乗り継いでいくのは、相当ハードだったのではないかと思います。特に下川氏は、けっこうお年も召しているし、途中、ミャンマーでは予想外のアクシデントにも巻き込まれ、ボロボロになりながらも旅をまっとうする姿には、読んでいて頭が下がります。

それと、こういうタイプの旅というのは、もしかすると、今の若い人たちには、あまりピンとこないのかもしれないな、とも思いました。

私も、最近の旅のトレンドを把握しているわけではないのですが、ふつうに考えるなら、個人旅行者の大多数は、たぶん、ネット上の豊富な情報をうまく取り入れつつ、安く快適で、しかも中身の濃い旅を楽しみたいという思いが強いだろうという気がするし、さらに、今の旅行者は、旅の目的や意義のようなものを、とても重視するのではないかと思うからです。

東南アジアでは、いま、都市部が急速に発展しつつあり、交通機関や宿やレストランなど、旅のインフラも年々便利で快適になっているし、物価も日本と比べればまだまだ安いので、あまり苦労せずに効率よく旅を楽しみたいなら、そうした大都市や人気のあるツーリスト・スポットをまわるのがベストでしょう。

実際、そういう場所では業者同士の競争もあるので、ネット上の評判などをきちんと調べれば、かなり安くて質の高いサービスを得られる可能性が高いし、観光や娯楽などの機会には事欠かないし、旅人とも多く出会えるので、淋しい思いをする必要もありません。

また、最近では、旅先でボランティア活動に参加したり、語学学校に通うなど、明確な目的意識をもって旅に出る人も多いのではないかと思います。

逆に、陸路でマイナーな国境を越えていくような旅では、個人旅行者向けの安い交通手段がなくて、かなりの出費を強いられたり、不便な思いをすることも多いだろうし、バックパッカー向けの宿や食堂は少なく、ネット上の情報も限られています。また、何もない田舎なので、静かに過ごせるのはいいのですが、人によっては退屈を持て余すだろうし、他の旅人ともなかなか出会えないかもしれません。それに、東南アジアの僻地を旅しても、残念ながら、その思い出話に興味をもって耳を傾けてくれるような人はなかなか見つからないでしょう。

しかも、そうまでして辺境を旅する目的というか、張り合いのようなものも、最近では失われつつあるのではないかという気がするのです。

ネットが普及する前は、信頼できる現地情報といえばガイドブックと旅行者のクチコミくらいだったので、ガイドブックに載っていないような場所を旅すれば、ちょっとした冒険気分に浸れたし、自分の体験したことが、他の旅人の役に立つかもしれないという実感をもつこともできました。

しかし、今や、ネット上には、誰も情報をアップしていないような空白の場所などほとんどないし、秘境といわれる場所でも、その映像を見るだけなら簡単です。そのために、誰も行ったことのない場所へ行きたいとか、誰もしたことのないような旅がしてみたいという思いは、ほとんどかなえられなくなってしまいました。他の人とは違う、自分だけのオリジナルな旅を求めてみたところで、どうしても誰かの旅の二番煎じみたいになってしまいます。

そうなると、変にオリジナリティに走ろうとして苦労するよりも、他の人と同じような旅で満足できるなら、その方がコストパフォーマンスはずっと高いということになるし、逆に、それでもあえて人と違う旅を追求するのなら、その苦労や高いコストに見合うだけの個人的な意味や必然性があるのか、自分がその旅に心から満足できるのかという点が、常に問われることになるのです。

もちろんそれは、昔の旅人の方が、今よりもずっとオリジナリティがあった、という意味ではありません。昔は情報がなさすぎたおかげで、他の人と同じような旅をしていても、それに気づかなかっただろうし、そのおかげで、多くの人が、旅の開拓者のような気分を味わえたのだろうと思います。そして今は、他の旅人たちの行為がネット上で可視化されたために、どこに行っても、どんな旅をしていても、何だか、他の誰かのマネをしているような気分になってしまうということなのだと思います。

それはともかく、旅に快適さとか、娯楽とか、日頃のストレスの解消みたいなものを求めているかぎりは、旅の動機や目的を真剣に考える必要性はないのでしょうが、辺境にあえて足を伸ばすような旅だと、その苦労に見合うだけの強烈な個人的動機がないと、とても旅を続けられないような気がします。

私も、上の旅行記を読んでいて、とても面白いとは思ったのですが、では実際に、今、自分に同じ旅ができるのかと自問してみると、ちょっと無理だろうなと思います。

ずっと以前には、陸路で国境を越えるという行為自体にワクワクしたものだし、バックパッカーとはそういう旅をするものだという思い込みみたいなものもあったのですが、そうした旅を続けているうちに、いつしか感動は薄れてしまったし、今の自分には、もう、そういう旅をせずにはいられないような、情熱のようなものが湧いてきません。

少なくとも、今の私には、陸路での国境越えとか、「裏」ルートを攻略するような旅というのは、心に響くテーマではないのでしょう。もし長い旅に出るのだとしたら、たぶん、自分にとって、もっと切実なテーマが必要なのだと思います。

まあ、これについては、自分が歳をとって、気力・体力ともに衰えたというのも大きいのでしょう。それに加えて、還暦に近い下川氏が、今回の旅でさんざん痛めつけられている描写を読んで、すっかり怖気づいてしまったせいもあるのかもしれません……。


JUGEMテーマ:旅行

at 18:40, 浪人, 地上の旅〜東南アジア

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アンコール・ワットの夕陽

もう何年も昔、東南アジア各地を旅していた頃のことです。

当時の私は、陸路の旅にこだわるバックパッカーでした。カネはともかく、時間だけはあったので、ビザの有効期間をギリギリまで使い、街から街へとゆっくり移動しながら、ガイドブックに載っているめぼしい観光地はひととおり見てまわるような、けっこうマジメな旅を続けていました。

東南アジアの観光地といえば、その最大級のものがカンボジアのアンコール遺跡です。高校生の頃に写真集で知って以来、美しい巨大遺跡アンコール・ワットや、「クメールの微笑」で知られるバイヨンなど、見どころの多いアンコール遺跡群を訪れるのは私の夢の一つでした。
ウィキペディア 「アンコール遺跡」

せっかくの大遺跡だし、長年の憧れの地でもあるし、飛行機でいきなり近くまで飛んでしまうのはもったいない気がして、できればタイ側から陸路で国境を越え、何日かかけて少しずつ移動しながら、夢にじわじわと近づいていく感覚も楽しみたいというのが当初の計画だったのですが、当時のカンボジアは政治的にかなり不安定で、陸路で移動中の外国人旅行者が事件に巻き込まれたという話をよく耳にしました。

さすがに私も命は惜しいので、もう少し状況が落ち着いてからにしようと、カンボジア行きをずっと後回しにしていたのですが、1年ほど周辺諸国をぶらぶらと旅し、他の国をざっと見終わってしまうと、さすがにもう、それ以上先延ばしにすることはできません。

かといって、安全が確保できるわけでもないので、結局、陸路で入国するという最初のプランはあきらめて、バンコクからプノンペンへ飛び、そこからスピードボートを使って、アンコール遺跡観光の拠点シェムリアップに向かいました。
ウィキペディア 「シェムリアップ」

遺跡は広い範囲に散在していて、徒歩や自転車でまわるのは無理なので、シェムリアップの安宿に出入りしているバイクタクシーを、一日か半日単位で雇います。日ざしのきつくない午前中の数時間と、2〜3時間の昼寝タイムをはさんで、日没までの数時間を使って、毎日遺跡見学に出かけました。

最初の日は、あえてガイドブックの解説は読まず、憧れのアンコール・ワットとバイヨンの第一印象を楽しみながら、好きなように見てまわることにしました。

アンコールは、インドネシアのボロブドゥールやミャンマーのバガンと並ぶ、世界の三大仏教遺跡の一つと言われています。私はそれまでに、ボロブドゥールもバガンも見ていたのですが、実際にアンコールの遺跡群を前にして感じるパワーは、それらをはるかに超えていました。

もちろん、憧れの地にようやくたどり着いたことで、気分が高揚していたのもあるでしょう。それでも、密林の中から次々に現れる巨大な石造ピラミッドや、見渡す限りの壁面を埋めつくす繊細な彫刻は、私の思考と感情を激しく揺さぶりました。

私はもう、遺跡のことで頭がいっぱいになってしまいました。翌日から数日かけて、散在する遺跡群全体をひととおり見てまわり、さらにその後の数日は、お気に入りの遺跡を数か所に絞って、その膨大な彫刻をゆっくりと見たり、その場でボーッと雰囲気にひたったり、写真を撮ったり、のんびり絵ハガキを書いたりと、気がすむまで遺跡を味わいました。

今はどうなっているか分かりませんが、当時は、あまり有名でない遺跡には見学者もほとんどおらず、バイクタクシーを入口で待たせて中に入ると、出てくるまでの間、誰にも会わないことなどしょっちゅうでした。バイヨンのような有名遺跡でも、グループツアーの人波が途切れてしまうと、広い境内はガランとして、ほとんど貸し切り状態です。

中には、タ・プロームのように、遺跡が発見された当時の状態をそのまま残した場所もあります。石積みの小さな寺院が巨大なガジュマルに絡みつかれ、密林に呑み込まれようとする異様な光景を一人きりで眺めながら、ジャングルに響きわたるけたたましい鳥の声を聞いていると、何か別の世界にでも迷い込んでしまったような、恐ろしいほどの寂しさを味わうことができました。

そんな風に、夢中になって遺跡に通いつめているうちに、何となく一日の行動パターンみたいなものが生まれてきたようで、陽が傾き始めると、足は自然にアンコール・ワットの最上層部へと向かいます。

辺りには、重いクーラーボックスを抱え、観光客に冷たい飲み物を売り歩く女の子たちがいます。彼らの一人から、その日の売れ残りのコカコーラを買い、見晴らしのいい石積みの上に腰を下ろしてそれを飲みながら、沈む夕陽を眺めるのが楽しみでした。

遺跡の上から西の方角を見下ろすと、広くまっすぐな中央参道にそって、物乞いがびっしりと並び、その間を、さまざまな国からやってきた観光客やガイド、地元の物売りや子どもや犬たちが、ぞろぞろと歩いているのが見えます。

昔なら、そこはきっと、王のような限られた人間だけが通ることを許された、神聖で特別な領域だったのでしょう。しかし今や、こうして遺跡の中心部に陣取ってコーラを飲んでいる私のように、遺跡への入域料としてそれなりの金額を払えば、誰でもどこにでも足を踏み入れることができる時代です。

夕陽をぼんやりと眺めながら、そんなことを考えていると、お約束どおりではありますが、カンボジアの人々の栄光と悲惨の歴史や、昔の王の絶大な権力とその無常へと、思いをはせずにはいられませんでした。

こうして、一週間以上を見学に費やし、お気に入りの場所でゆっくりと時間を過ごし、憧れの遺跡を堪能すると、さすがに満腹というか、これで充分だという気持ちになりました。

そして、アンコールの遺跡だけでなく、観光という行為そのものも、自分にはもう充分だという気がしました。

私はそれまで、ガイドブックなどで、多くの人が素晴らしいという場所や有名なツーリスト・スポットをチェックして、そこを順番に目的地にするような旅を続けていました。それは旅のやり方としてごく一般的なものではあるし、自分の勘だけを頼りにやみくもに動き回るよりは、素晴らしいものに出会えるチャンスも大きいと思っていました。

ただ、長い旅の中で、それがパターン化し、マンネリに陥ってしまったのか、自分で考えていた以上に、もはや、そういうスタイルの旅には心が動かなくなってしまっていたようで、今こうして、東南アジア最大の遺跡を見学して一区切りがついたことで、それをはっきりと自覚したのです。

でも、そうだとしたら、これからは、何を目的に旅を続けていけばいいのでしょう?

そのとき、私にはほとんどアイデアがありませんでした。

シェムリアップ滞在の最終日、見納めにもう一度アンコール・ワットに行きました。

入域チケットの有効日数を使い果たしていたので、日没直前、検問の人たちが家に帰ったあとを見計らって、急いで遺跡に向かいます。

早足で参道を歩き、いつもの場所にやってくると、ジュース売りの女の子たちも帰ったあとでした。空は雲に覆われていて、きれいな夕焼けは望めそうもありません。

それでも、石積みの上に腰を下ろすと、これまでの東南アジアの旅の思い出が次々によみがえってきて、胸がいっぱいになりました。

やがて思いは、この先の旅へと移っていきます。

とりあえず、明日プノンペンに戻り、カンボジアのビザが切れる前に陸路でベトナムに出て、ホーチミン市に向かおうという大ざっぱな予定だけはありましたが、そこで再びちょこまかと観光地をまわる旅には、気が乗りません。

今はどうしたらいいか分からないけれど、ベトナムに入ってみたら、何か次の展開が見えてくるかもしれない……。

そんなことをぼんやりと思いつつ、アンコール・ワットの最後の夕暮れを楽しんでいました。


記事 「アンコール遺跡の少年ガイド」


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at 18:45, 浪人, 地上の旅〜東南アジア

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ミャンマーのポップなお寺

ミャンマーを旅していたときのことです。

ヤンゴンから南に向かい、巨大な寝釈迦仏のあるバゴーや、ゴールデン・ロックで有名な聖地チャイティーヨなどを巡って、モーラミャインを目指す途中、タンルウィン河畔の町パアンに立ち寄りました。

特別な観光スポットがあるわけでもなく、たぶん旅行者もあまり訪れない地味な町ですが、河岸に立つと、対岸に石灰岩の奇岩がそびえる美しいパノラマを楽しむことができます。

宿を決めて荷物を置いたあと、特にあてもなく、近所をぶらぶらと散歩していると、建築中の奇妙な寺が目に留まりました。

建物はまだ完成しておらず、参道もむき出しのコンクリート柱が並んでいるだけでしたが、遠くからでも人目を引かずにはおかない、極彩色の奇抜なカラーリングに興味をそそられたのです。

私は好奇心の赴くまま、境内へと足を運びました。

本堂とおぼしき無人の建物に入ると、そこも内装は済んでいませんでしたが、派手に塗られたブッダや、托鉢するお坊さんの小さな像で内側の壁が埋め尽くされていて、その形と色彩の洪水に圧倒されます。

仏像の表情は、何ともマンガチックというか、ポップというか、妙に現代的でかわいらしい感じです。しかも、同じ形の小像が何十体、いや何百体と隙間なく並べられているため、空間に独特のリズムが生まれています。

たぶんこの寺自体には、歴史的な由緒などないのだろうし、一般的な感覚に照らしても、これらが芸術的だとはとても言えないのでしょうが、私はそこに、ある種のセンスというか、生々しいエネルギーがみなぎっているのを感じました。『東南アジア四次元日記』の著者、宮田珠己氏ならきっと、ここを「四次元濃度」の高い場所だと言うのではないでしょうか。

この寺がすべて完成したら、一体どんなワンダーランドが出現するのだろうと思いつつ、とにかくその面白さに、私はしばし夢中で写真を撮り続けました。

……翌朝、散歩の足は、やはり例の寺に向かってしまいます。

寺に入り、またも写真を撮っていると、ピンク色の僧衣をまとった尼僧に声をかけられました。親切にも、寺を案内してくれるようです。

カタコトの英語の説明を聞きながら境内を歩いているうちに、私は、これらのカラフルな仏像の数々が、どうやら人々の寄進によるものだということに気がつきました。小さな仏像が無数に並んでいるのは、たぶんそれぞれが、喜捨した一人ひとりを表しているのでしょう。

そして、私の中にもふと、このワンダーランド建設に少しばかり貢献したいという気持ちが芽生えてきました。それに、ここはミャンマーの田舎なので、仮に寄進するにしても、日本円にしたらわずかな金額で済みそうです。

私は尼僧に、軽い気持ちで「ドネーションをしたいんですけど」と持ちかけました。

すると彼女は、住職のところへ連れていくといいます。

私は、しまった、と思いました。

見学が終わって寺を出るときにでも、尼僧に少額のお金をサッと渡せばそれで済んだのに、変にもったいぶった言い方をしたのが裏目に出ました。住職に面会するとなると、話が大げさになり、それなりの対応をしなければならなくなりそうです。

しかし一方で、私には、このポップな寺を構想したお坊さんが一体どんな人なのか、ちょっと会ってみたいという思いもありました。

煮え切らない気持ちのまま、なんとなく成り行きにまかせて彼女の後をついていくと、別の棟の前の建築現場に、60代くらいの貫禄のあるお坊さんがいて、何やら指示を出しているところでした。一見して彼が住職だとわかります。

その姿は、何か独特のオーラというか、凄みのようなものを漂わせていて、大変失礼ながら「怪僧」という言葉が似つかわしいように思われました。もっとも、それに関しては、この寺の奇抜なデザインを眺めているうちに、住職の人柄について、私の心の中で勝手な想像をふくらませていただけなのかもしれませんが……。

外国人にもかかわらず、私は住職に大いに歓迎され、住職みずからの案内で付属の学校の授業風景などを見せてもらったあと、部屋に通されました。

私たちはカタコトの英語でしばらくの間とりとめのない話をしたのですが、ジュースがふるまわれたり、お付きの若いお坊さんがビデオやカメラで横から撮影していたりと、ミャンマーの田舎町の寺にしては何だか様子が変です。

実はこの住職、もう何回も日本に行ったことがあるそうで、在日ミャンマー人の善男善女と一緒に写った写真や、日本の観光地での記念写真など、アルバムに収められた写真をどっさりと見せられました。

ミャンマーの田舎を散歩中に何気なく足を止めた寺に、日本との意外なつながりがあったという意味では、これはこれで、なかなか面白い展開だとは思ったのですが、一方で、私は内心、次第に追いつめられていくのを感じていました。

住職が何度も国外旅行をしているということは、国外の事情や日本などの物価水準を十分承知しているであろうこと、そして自由に旅行ができるということは、かなり地位が高く有名なお坊さんなのかもしれないということを意味します。

そんな住職に、これだけの「接待」をしてもらった以上、ここは外国人として、それ相応の金額を喜捨することが期待されているのではないでしょうか?

やがて彼らは、それではこれを、という感じで、奉加帳らしきものを目の前に出してきました。

サッと目を走らせると、欧米人らしき名前もずらりとあって、しかも1人数十ドル以上は喜捨しているようです。私もドネーションしたいなどと自分から言い出した以上、最低限そのくらいは置いていかなければならない雰囲気です。

とはいえ、財布の中には、そんな大金は入っていませんでした。

ミャンマーを出国する日が近づいていたので、私は一日当たりの旅費と両替のスケジュールを慎重に計画し、現地通貨チャットやFEC(旅行した当時、空港で強制的に両替させられた兌換紙幣)を使い切るようにしていたからです。

う〜ん、どうしよう……。

無理をすれば、貴重品袋の中から、虎の子の100ドル紙幣などを出すこともできましたが、さすがにそこまではしたくありませんでした。だとしたら、ここは恥を忍ぶしかありません。

私は奉加帳の中に、バックパッカーなのか、気持ち程度の金額だけ喜捨した人もちらほらいるのをすばやく確認し、それに少しだけ勇気を得て、500チャットほどをおずおずと差し出しました。当時の現金実質レートで2ドル強といった程度の額です。

一同の間に、一瞬、少ないなあ、という失望の表情が浮かんだ気がしましたが、これはあくまでも喜捨です。彼らも、そこは何も言わずにありがたく受け取ってくれました。

……あれから、もう何年にもなります。寺はすでに完成したことでしょう。

あの非常にささやかなドネーションは、きっと、境内を埋め尽くす小さな仏像の、一体分の材料費の、そのまた一部くらいにしかならなかったはずです。

それでも、あのワンダーランドの片隅に、私の微小な貢献分が埋め込まれているかもしれないと想像すると、恥ずかしさとともに、ちょっと微笑ましい気持ちになります……。


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at 19:25, 浪人, 地上の旅〜東南アジア

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読書と冷房

かつて、バンコクに長期滞在(沈没)していた頃、ヒマを持て余して、読書三昧の日々を送ったことがあります。

バンコクには、新刊書を扱う紀伊国屋書店のほか、スクムビット通り周辺やカオサン通りに日本の古本を扱う店がいくつかあるので、あまりぜいたくなことを言わなければ、日本語の本を見つけるのにそれほど不自由はしません。

ただし、紀伊国屋書店の新刊書は日本よりずっと割高で、企業の駐在員ならともかく、タイの物価水準に慣れた貧乏旅行者にはなかなか手が出ません。もっぱら古本屋めぐりをしながら、数十バーツ程度の本を探すことになります。

読みたい本を手に入れると、私はカオサン通り周辺のファストフード店で読書を楽しんでいました。例えば民主記念塔前のマクドナルドとか、バンランプーのケンタッキーとか……。

まあ、別に難しい本を読むわけでもないので、冷房が効いてなくても、座って気兼ねなく時間を過ごせる場所ならどこでもいいのですが、現在のバンコクでは、そういう場所にエアコンがついていないことはほとんどなく、当然、その涼しさの代償として、何がしかのカネを余分に払わなければならないシステムになっています。

だからといって、安宿のベッドに寝転がって本を読むのにも限界があります。換気が悪くて湿っぽい熱気がこもっているので、たとえ扇風機を回しても、すぐに皮膚が汗ばんでベタベタしてきます。それがどうにもうっとうしいというか、気が散るというか、とにかく本の世界に没頭していられないのです。

というわけで、多少の出費は仕方ありません。とにかく、冷房のガンガン効いたファストフード店に入れば、暑さでボーッとなっていた頭がスッキリして、活字を追う細かな作業に集中できるのです。

ただ、たいていの場合、私のほかには、本を読んでいるような客を見かけることはありませんでした。

タイのファストフード店のアイスコーヒーは、日本円にすれば一杯数十円。日本人旅行者にとっては懐が痛むほどの金額ではありませんが、タイでは屋台や安食堂での食事一回分に相当します。

地元のタイ人にとっては、ファストフード店というのは友人や家族と一緒に楽しい時間を過ごす場所なのであって、一人でちょっと本を読むだけのために、わざわざカネを払う気にはならないのかもしれません。あるいは、カフェで本を読むようなタイプのタイ人は、ファストフード店の固いイスを嫌って、もっとおしゃれで居心地のいい店に出かけるのかもしれません。

ちょっと意外だったのは、読書をする外国人バックパッカーもほとんど見かけないことでした。

もちろん、カネのある旅行者なら、別にこんなところへ来なくても、冷房の効いたホテルの自室とか、階下のラウンジとか、プールサイドのデッキチェアに寝そべって優雅に本を読めばいいわけです。それに、普通のバックパッカーなら、エキゾチックなバンコクの街を探索することで忙しく、わざわざ貴重な旅の時間を費やして、おなじみのファストフード店に本を読みにくるほどヒマではないのかもしれません。

もっとも、これは私自身にも当てはまることでした。日本の文庫本を読むのなら、別にバンコクでなくてもいいわけです。

当時の自分は、バンコクで本ばかり読んでいる自らの行動について、自分なりに納得しているつもりではありました。旅が長くなれば、観光や移動ばかりの生活に疲れてくるし、ときには無性に本が読みたくなることもあるでしょう。

それでも、街歩きをするでもなく、旅人同士で話に花を咲かせるわけでもなく、一人で活字の世界に沈潜していると、俺、こんなところで何やってるんだろう?、と思うことなきにしもあらずでした。

それはともかく、日中、客のあまりいない店に居座って、ゆっくり本を読んでいると、その半端ではないエアコンの効き方がつい気になります。アジアの旅を通して貧乏性が染みついてしまった私としては、別に自分が損をするわけではないとはいえ、何だか自分だけのために冷房設備をフル稼働させているような、ちょっと申し訳ないような気持ちすらしてくるほどです。

それに、考えてみれば、そもそもタイのような高温多湿な土地で、エアコンを効かせた部屋で読書をするというのは、いかにも不自然な行為のように思えます。

もちろん、タイにも涼しい季節はあるし、一日の中でも早朝や夜間なら、本を読むのに冷房はいらないでしょう。ただ、暑い季節の、しかも午後、冷房という人工環境の下で読書をしていると、真冬にストーブの火をガンガン焚きながらアイスを食っているような、ずいぶん無駄なことをしているような気になってくるのです。

世界中のビジネスマンの多くが、それが慣習だからという理由で、気候風土を無視して背広を着つづけているように、そもそも読書という行為も、もともとは地球上のある特定の環境に適応した知的活動に過ぎないものを、エアコンの助けを借りて、無理やり世界中に広めているという側面があるのかもしれません。

思えば、欧米の人だって、全員が読書をするわけではありません。あれだけ読書に適した(?)気候風土でさえ、みんなが本を読みたいとは思わないのだから、そもそも読書という行為は、たぶん、すべての人類に適した普遍的な知的活動ではないのです。

だとしたら、熱帯地方のように、読書にあまり適さない土地に住んでいる人のためには、読書をしたりペーパーワークをしたりするためにエアコンを設置するよりも、もっとその気候風土に合った、別の知的活動の形というのが見い出されるべきなのではないでしょうか……。

ふと、そんなことを思ったりしたのですが、あくまでこれは、高い金を払って冷房の効いた部屋で優雅に読書を楽しんでいられる一外国人旅行者の、他愛のない妄想に過ぎません。

タイの子供や学生たちは、別に冷房なんかなくたって、ちゃんと勉強したり本を読んだりしているし、思い返せば、私だって子供の頃は、扇風機すらない夏の教室で、ちゃんと教科書を読んだり、授業を聴いていることができました。

だとすると、読書に適さない気候風土があるなんて言っているのは、文明社会の贅沢にすっかり慣れてしまった軟弱者の言い訳であり、あるいは、ただ単に自分が歳をとって、読書に集中する気力が続かなくなってしまったというだけなのかもしれません……。


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at 19:07, 浪人, 地上の旅〜東南アジア

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ジャングルでプチ洞窟探検

記事 「ジャングルで動物観察」

(続き)

タマンヌガラ国立公園のブンブン・ヨンというハイド(野生動物観察小屋)に泊まった翌日、そこから戻る途中で、グア・トゥリンガという洞窟に立ち寄りました。

ブンブン・ヨンからは歩いて1時間ほどですが、道標がしっかりしているので迷う心配はありません。

この洞窟は、公園内の一種のアトラクションとして地図にも載っており、公式に整備されているのですが、もちろん日本の観光地のように、電灯や見学用の通路があるわけではありません。

入口は狭く、中は真っ暗で、足元も危なっかしく見えます。それに、私が到着したときには、周りには誰もいませんでした。一瞬どうしようかと迷いましたが、一応ガイド用のロープも張ってあることだし、とりあえず行けるところまで行ってみようと思い直し、懐中電灯を持って中に入りました。

洞窟の中は相当な湿気で、足元の岩がツルツルと滑ります。また、あの洞窟特有の、カビ臭いような、鳥のフンのような何ともいえない臭いがこもっています。

こんなところで一人で転んで大ケガしたり、変なところに迷い込んだりしたら本当にシャレになりません。昨夜使用した大型の懐中電灯では、重いし、片手の動きが制約されて危険なので、予備として持ってきた小型の懐中電灯に切り替え、安全第一で、ゆっくりと進んでいきます。

やがて、天井に小さなコウモリがビッシリと張りついた小さなドームに辿りつきました。光を向けると、コウモリたちがまるで寝ぼけた子供みたいにモゾモゾと体を動かすのが何ともユーモラスです。

その先にもまだ道があるようですが、洞窟の奥はコウモリのフンでさらに滑りやすくなっており、しかも、しっかりと歩けるような足場がなくなっています。別に誰かに頼まれたわけじゃないし、ここで引き返してもよかったのですが、せっかくここまで来たのだからと、つい欲も出て、私はさらに奥へと進んでいきました。

しかし、道はさらにハードになっていきます。できれば靴や服を汚さずに行ければと思っていたのですが、そんな甘いことは言っていられなくなり、靴のままジャブジャブ水をかき分け、コウモリのフンであちこち汚れながら、かなりマジになって出口を探しました。

最後は、水の中をほとんど這うようにして狭い穴を抜けます。デイパックを背負ったままでは通れないので、いったん背中から下ろして辛くも通り抜けました。

その先は、別の出口になっていました。まぶしい熱帯の光の下に再び出ると、さすがにホッとします。全行程、ゆっくりと進んで30分ほどの短い旅でした。

振り返ってみれば、別にそれほど危険というわけでもなく、それなりの準備と覚悟さえあれば、ほどほどの冒険気分の味わえる楽しいコースだったと思いますが、ガイドもなく一人だったことと、洞窟の中がどうなっているのか、どのくらいの長さがあるのか全く分からないという不安もあり、結構必死になっていたせいか、コウモリを見る余裕しかありませんでした。

昨夜、遅くまで野生動物を待ち続けた疲れもあったのでしょう。洞窟探検を終えたときには、まだ午前中だというのにグッタリしてしまい、それからまたしばらくジャングルの中を歩き、宿に戻ったときにはすっかり消耗しきっていました。

こんなに疲れてしまったのは、動物観察の成果がはかばかしくなかったこともあるのでしょうが、もしかすると、ジャングル・トレッキングにしろ、たった一人で過ごしたジャングルでの一夜にしろ、洞窟探検にしろ、そのすべてが日本ではまず味わうことのできない体験であり、自分で意識していた以上に心身ともに、ふだん使わない部分をフル稼働させていたからなのかもしれません。

コウモリのフンの臭いがしみついた服を洗濯したあと、その日の夕方まで泥のように昼寝したのは言うまでもありません。


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at 18:50, 浪人, 地上の旅〜東南アジア

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ジャングルで動物観察

マレー半島の内陸部にある、タマンヌガラ国立公園に滞在していたときのことです。

この国立公園は、マレーシアの主要な観光ルートからは少し外れた場所にあるため、日本ではあまり知られていないようですが、熱帯雨林のジャングル・トレッキングや野生動物ウォッチングが楽しめる、なかなか面白いところです。

以前にこのブログにも書きましたが、私はタマンヌガラ到着後、アメリカ人の退役軍人D氏とジャングル・トレッキングに出かけ、ブンブン・クンバンというハイド(野生動物観察小屋)に泊まり込んで、動物の出現を夜通し待ちました。
記事 「退役軍人とジャングルトレッキング」

タマンヌガラでは、運がよければバク、ゾウ、シカなどがハイドの近くまでやって来るのを観察できるということだったのですが、その日は、小屋の中に乱入してきた大きな野ネズミ以外に、動物らしい動物を見ることはできませんでした。

まあ、そういうことはよくあるらしいのですが、せっかく野生動物の宝庫にやって来て、何も見られずに帰るというのも悔しかったので、私はこの公園での滞在を少し延長し、もう一回だけハイドでの動物観察にチャレンジしてみることにしました。

今度は場所を変え、ブンブン・ヨンという別のハイドを一人で予約しました。また、前回の教訓を踏まえ、動物がよく見えるよう、光の強力な大きな懐中電灯を用意しました。これは、宿の近くで知り合ったマレー人のオッサンから借りることができました。

それと、飲み水を多めに用意しました。これは、前回のジャングル・トレッキングで大量に汗をかいたためにのどが渇き、水が足りなくなって非常に辛い思いをしたためです。

バックパックは宿に預け、必要最小限のものだけをデイパックに詰め込むと、余裕をもって昼過ぎに出発しました。道が大変わかりやすかったので迷うこともなく、また自分のペースでゆっくりと歩けたので、前回のトレッキングよりもずっと楽でした。

2時間ほどでブンブン・ヨンに到着しましたが、とりあえず夕方まですることもないので、小屋に備えつけの動物観察ノートを読み返したり、目の前のジャングルを眺めながらボーッと過ごします。

夕方になって、軽く雨が降りましたが、すぐに上がり、しっとりとした、静かな夕べになりました。

6時半、楽しみにしていた夕食の時間です。といっても、ビスケットに缶詰、それに水だけという質素なものです。ただ、前回D氏とトレッキングしたときに、彼が持参していた缶詰を少し味見させてもらい、かなりうまかったので、今回はそのマネをして、全く同じものを用意しました。

宿の近くの商店で売っていた中では一番高価な、ツナ・カレーの缶詰なのですが、これが実にいい味つけで、ビスケットにも絶妙にマッチします。貧乏旅行のスタイルがすっかり身についてしまっていた私は、やっぱりこういうところでケチってはいけないな、お金をちょっと余分にかけるだけで、トレッキングの満足感が格段に違うものなのだなと、しみじみと実感したのでした。

食事が終わると、あとは野性動物の出現を待つだけです。

ハイドは物見やぐらのような構造をしていて、その前方に開けたスペースにやってくる動物を、観察窓から見下ろせるようになっています。観察窓に懐中電灯を置いて前方の数十メートルを照らし出し、何か動きがあればすぐに分かるようにして、暗闇の中で息を潜めてじっと待ち続けます。

夜の8時くらいになると、虫の声が大きくなってきました。周囲のジャングルには、何かが潜んでいるような濃厚な気配が漂っています。いかにも動物が現れそうな予感がして胸が高鳴りましたが、待てど暮らせど、動くものの姿は見えません。

今回は一人なので、話し相手もいないし見張りを交代することもできません。しかも、これだけの努力が報われるのかどうかも全く分かりません。そんな状況で、あてもなく、何時間もただひたすら待ち続けるというのは、相当な忍耐を要します。

もちろん、自然の中に分け入って何日でも何週間でも待ち続け、しかも一瞬のチャンスを逃さずに、すばらしい映像に収める動物カメラマンの方々の集中力にくらべれば、屋根もトイレもある観察小屋でのたった一晩の体験など、単なるお遊びに過ぎないのですが……。

眠気に耐えつつ、ビスケットをつまんだりしながら、2時半くらいまで待ち続けたのですが、結局何も見ることはできませんでした。それに、何時間もつけっ放しだった懐中電灯の電池が切れてきて、光もだんだんボンヤリしてきました。これでは、仮に何か動物が現れたとしても、光が弱すぎてよく観察することができないでしょう。

私はあきらめて寝ることにしました。

今回も、結局徒労に終わったけれど、ホタルが舞い、虫の音の響きわたる幻想的な熱帯雨林の夜を、一人静かに堪能できただけでもよしとしよう、と思いました。

ガランとした小屋の中のベッドに横になり、懐中電灯を消すと、ゴミ箱の中で、ネズミが何かをガリガリとかじる音が聞こえてきます。そして、小屋の中を飛び交うコウモリが起こす風。その風を顔の上に感じつつ、眠りにつきました。

翌朝、ものすごい湿気のために寝床がベタベタし、とても寝ていられなくなって目が覚めました。無数の鳥たちが、あちこちでさかんに鳴きたてています。

次第に明るくなっていくジャングルを眺めつつ、ビスケットの朝食をとりました。

朝8時半頃に出発し、宿に向かって、もと来た道を引き返していると、突然、ガサッと大きな音がして、藪の中へと逃げ込む大きな動物が見えました。私の目には、こちらに赤い尻を向けた姿が一瞬見えただけでしたが、あれは鹿だったのでしょうか?

それにしても、夜通し待ち構えていたときには何も現れなかったのに、帰り道、何も期待せず、ボーッと歩いているときに現れるというのが、何とも皮肉でした。まあ、それでも一応、野性動物を「見た」ことにはなったわけです。

この後、帰る途中で小さな洞窟にも立ち寄ったのですが、その話は次回に書くことにします。


記事 「ジャングルでプチ洞窟探検」


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at 18:43, 浪人, 地上の旅〜東南アジア

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旅先でダウン

インドネシアのフローレス島を旅していたときのことです。

フローレス島は、クリムトゥ山の三色カルデラ湖をはじめ、観光的な見どころの多い、とても美しい島です。有名なバリ島などとは違って開発が進んでいないため、旅をするのにはいろいろと苦労が伴いますが、見方を変えれば、それだけ旅の醍醐味を味わうことのできる土地であるといえるかもしれません。

その日、私は島の北側にあるリウンから、バスを乗り継いで西へ向かい、午後遅くルーテンに到着、町の中心に近いところに宿を見つけました。

ルーテンは標高が高いせいか肌寒く、雨も降っていたので、いつものように町をぶらつく気にもなれず、早めの夕食をとってしまうと、移動の疲れもあったので早めに寝ることにしました。

しかし、夜中になって、熱っぽい苦しさを感じて目が覚めました。

どうも気のせいではなく、本当に熱があるようです。しかも、時間がたつにつれて体温が上昇しているようで、ひどい寒気もしはじめました。

こんなに急に熱が出ることは、旅の最中はもちろん、日本で生活しているときにもほとんど体験したことがありません。

まったく予想もしていなかった突然の展開に、私は少しうろたえました。

手元にあるものといえば、気休め程度のカゼ薬だけだし、体温計など持ち合わせていないので、いまどのくらい熱があるのかも分かりません。

しかもここは、つい数時間前に着いたばかりの見知らぬ土地です。

もしかすると、医者の助けを求めることになるかもしれないのですが、病院の場所など全く知らないし、そもそも英語か何かで意思疎通のできそうな医者がいるかどうかも分かりません。

そしてもちろん、医者だけではなく、いざというときに頼りになりそうな知り合いもいません。万が一の場合には、宿の人を信じて助けを求めるしかないでしょう。

ただ、今のところ激しい痛みとか、呼吸困難とか、一刻を争うような症状はなく、とりあえず熱がやたらと出ているだけというのは、不幸中の幸いでした。これなら、何とか朝まで様子を見て、それから次の行動を考えることもできるかもしれません。

私はバックパックの中から、ありったけの衣類を取り出して着込みました。

激しい熱のせいか、のどがしきりに渇きます。

こんな異国の地で、この先自分はどうなってしまうのか……。

考え出せば、いくらでも不安が増してしまいそうな状況です。しかし、経験したことのある人なら分かると思いますが、こうして熱が出ているときというのは、だんだん頭がボーッとしてくるので、あまり余計なことを考えていられなくなります。

思考はまとまらなくなり、いろいろな心配事も頭の中から蒸発していきます。私は朦朧とした意識の中で、ただこの寒気だけは何とかならないかと考えていましたが、いつの間にかトロトロと眠りに落ちていきました。

朝方になると、熱は何とかおさまったらしく、ひどい寒気は感じなくなっていましたが、一晩の高熱で体力をすっかり使い果たしてしまったらしく、全身虚脱状態で、とてもバックパックを背負える状態ではありません。

この町には一泊するだけで次の町へ向かう予定でしたが、これではどうしようもなく、とりあえず移動せずに体力の回復を待つことにしました。

外は寒いし、どしゃ降りの雨だし、食欲もないし、部屋を出る気力さえなかったのですが、それでも飲み水だけは買わなければならなかったし、療養が長期戦になった場合に備えて、音楽を聴くための電池なども買っておこうと思いました。

それで、なんとか気力をふりしぼって宿の外に出てみたのですが、足元がふらつき、50メートルも離れていない雑貨屋まで往復するだけで脂汗が出るしまつです。

私は早々に部屋に戻り、食事もとらずにベッドに横になりました。医者に診てもらうほどではないと思ったものの、これではとにかく寝ている以外に何もできません。

横になると、昼間だというのに、いくらでも眠っていられることに気がつきました。よほど旅の疲れがたまっていたのでしょうか。私は、眠っているのか起きているのか自分でもよくわからないトロトロした状態のまま、丸一日過ごしました。

無理をせず一日寝ていたのがよかったのか、翌朝には体調がかなり回復し、なんとか動ける状態になりました。

もう一日様子を見てもよかったのですが、ルーテンの寒さは今の私には厳しかったし、もしかすると何か重大な病気になっている可能性も捨て切れません。とりあえず動けるうちに大きな町まで移動しておこうと判断し、バスで4時間かけて、フローレス島西端のラブハンバジョーに向かいました。

幸い、移動中に熱がぶり返すこともなく、暖かい(というよりは暑い)ラブハンバジョーでは日に日に体力が回復して、数日後には元のように、ふつうに旅を続けられるようになりました。

今、思い返せば、ルーテンで発熱したのは、長い旅に出てそろそろ1カ月になろうとしていた頃です。

それまで、学生時代の休みとか会社の有給休暇で、数日から数週間の旅をしたことはありましたが、その時のように、期限を決めない長い旅に出るのは初めてでした。

旅が長くなりそうだと思っていたので、あまり無理をせず、旅のペースを意識的に抑えているつもりでしたが、食事や水にしても、気候にしても、日本とはまるで違う環境に変わったのに加え、移動しながら暮らすという新しい生活のスタイルを始めたために、自分でも気がつかないうちに、体にかなりの負担がかかっていたのかもしれません。

そのときは結局、医者にかからなかったので、何が発熱の原因だったのかは分からないままですが、素人なりの勝手な想像が許されるならば、それはきっと、ウイルスや細菌によるものというよりは、定住型から移動型へ生活パターンが変化したことに伴う、体の側の調整みたいなものだったのだろうという気がします。

その後も、長い旅の中では、こういう形でダウンすることが何度かありました。

私はそのたびに、このルーテンの経験を思い出し、きっとそれは体が調整と休息を求めているサインなのだと考えて、できるだけゆっくりと休むようにし、それからしばらくの間は旅のペースにも気を配るようにしました。

その素人考えが、適切な判断だったのかどうかは全く分かりませんが、とにかく旅の間、それなりの小さなケガや病気はあったものの、入院するほどの重病や大事故には遭わなくて済みました。

しかしもちろん、症状によっては、一刻も早く医者に診てもらわなければならないこともあるはずです。私の場合は、旅の間に、たまたまそういう病気にかからなかっただけなのかもしれません。状況次第では自分で対応することをあきらめ、すぐに専門家に判断を仰ぐことも必要でしょう。

皆様も、長い旅に出るときは、できれば旅行者用の保険に入り、自らの体調には常に細心の注意を払ったうえで、旅の日々を楽しんでください。


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