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旅は自分への「おもてなし」

例えば、本当に好きな趣味に没頭しているひとときなど、誰かのためではなく、自分のしたいことだけに集中していられる時間には、自分で自分を「おもてなし」しているみたいなところがあります。

 

まあ、世間一般でおもてなしと言えば、純粋な善意からというより、相手からの見返りを期待しているケースの方が多いのかもしれませんが、自分で自分をもてなす場合には、そういう要素はありません。好きなことを自由にやって、心から楽しみたい、という思いしかないのではないでしょうか。

 

そして、旅、特に一人旅というのは、そういう自分へのおもてなしの、一つの究極の形ではないか、という気がします。

 

もちろん、楽しい時間を過ごすために、別に遠くまで出かけなくたっていいわけだし、時間やカネや手間暇をかけて、自分をハッピーにする方法など、ほかにいくらでもあります。また、何かを一人きりで楽しむよりも、みんなでワイワイ楽しんでこそ幸せな気持ちになる、という人もいるでしょう。

 

そもそも、行動の範囲を、趣味や遊びに限定する必要すらなくて、ふだんの自分の仕事が心から好きな人なら、仕事をしていることそのものが、そのまま自分をもてなすことになるのかもしれません。

 

それでも、自分を心の底から喜ばせるためなら、世界の果てまで自分を連れていってしまったり、自分にサプライズを与えるために、多少のリスクを承知で、あえて未知の環境に自分を放り込んでしまうようなところ、つまり、この地球上で、人間の行けるところ、やれることなら何でも利用してしまうところに、旅の貪欲さや凄味みたいなものがあると思います。

 

特に一人旅の場合、それは完全に自分だけのための行為なので、旅の目的や中身に関して、他人に妥協する必要はまったくありません。地球上でいちばん面白そうな舞台とかアクティビティーを、いくらでも自由に選択できます。

 

ただ、家族やごく親しい友人など、本人にとって大切な人がいるなら、できれば、そういう人たちが全力で止めにかかるような、無茶で危険な旅は止めておいたほうがいいのでしょう。それに、自分の満足を優先するあまり、旅先で傍若無人なふるまいをするのも避けるべきでしょう。言うまでもないことですが、そういうことをすれば、結局は、自分自身がその後始末をする羽目になります。

 

それはともかく、自分に対して、より良いおもてなしをしたいなら、旅行代理店やガイドなど、プロのサポートを受けるという選択肢もあります。

 

カネをとことん注ぎ込んだり、大勢のスタッフを動員できる人なら、他の人がうらやむような、豪華で希少な体験を楽しむことができるでしょう。最近、世界中の大富豪に解禁された宇宙旅行は、その最高峰の一つではないでしょうか。

 

その一方で、他者の助けは必要最小限にとどめ、自分の経済力や能力の範囲内でベストを追求する、という方向性もあります。

 

むしろ、現時点の自分が置かれた状況をベースにして、そこからどれだけ面白いことができるか、試行錯誤しながら、自分らしい旅を少しずつ創造していくプロセスそのものを、ゲーム感覚で楽しむこともできるわけで、バックパッカー的な旅は、その典型だと思います。

 

あるいは、とことん自分を追い込み、未知の世界とか、自分の心身の限界を超えた先に見えてくる何かを求める、冒険的な旅もあるでしょう。ただし、この場合は、おもてなしどころか、最悪の場合、命を落とすことだってあるかもしれません。

 

いずれにしても、一人だけの気ままな旅、というだけでも、いろいろな方向性があり得るし、その内容となると、それこそ、人それぞれで、どういうやり方が最も満足度が高いのか、誰にでも当てはまるベストなパターンなどないのでしょう。

 

ただ、どんな旅をするにせよ、自分にとって最高の旅をあまりにも追求しすぎると、それはそれで、大きな問題が発生してしまうのも確かです。

 

実際の、旅先での体験が素晴らしければ素晴らしいほど、それは、一生忘れることのできない特別な時間となり、逆に、ふだんの生活がどんどん色あせてきてしまう可能性があります。どこか遠くに出かけては、心に焼きつくような感動的な体験を重ねていくうちに、いつしか、そういう強烈な刺激なしではいられなくなってしまい、つねに旅に出ていないと、生きる喜びが感じられなくなってしまうかもしれません。

 

ある人が、ビジネスで取引先を接待するとき、あるいは、好きな人とデートをするときなど、最高のおもてなしで感動させることで、相手に自分の存在を強く印象づけ、また自分と一緒の時間を過ごしたい、と思ってもらえるようになるのは、むしろ望ましいことなのだろうと思います。

 

しかし、自分で自分をもてなす場合は、それがあまりにも素晴らしくて、いつの間にか、そうした非日常の体験に依存してしまうことになれば、相対的に、日常の生活がハッピーではなくなってしまい、長い目でみたときに、自分で自分を苦しめることになってしまうのではないでしょうか。

 

だから、旅を、自分へのおもてなしとして考えるなら、その最高のあり方というのは、刺激や非日常性みたいなものを、ひたすら突き詰めていった先にあるのではなく、今この瞬間の、何でもない日常の、誰にでもできるような、ありふれた行為の中にこそ、見つけ出すべきなのかもしれません。

 

そこでは、長距離の移動は、絶対に必要というわけではないし、たっぷりの予算も、奇抜なアイデアも、危険に身をさらすリスクも、必要ではないのだと思います。

 

ただし、いままでの日常にどっぷりと浸かって、惰性で何となく生きているような状態で、そのまま目の前に、何か素晴らしいものを見出すことはできないでしょう。

 

何気ない日常の中に、新鮮な驚きや喜びを見つけようとするなら、やはり、この世界や自分についてのさまざまな思い込みをいったん忘れ、いま、この瞬間がもたらしてくれるものに、先入観のない子供のような目を向けて、それをしっかりと味わうやり方を覚えなければならないのではないでしょうか。

 

例えば、カネをたくさん出せば、あるいは、異国の地まで足を伸ばせば、おいしいものやめずらしいものを食べることはできるでしょうが、自分がふだん食べているような、本当に何でもない、当たり前の食べ物と改めて向き合い、そこに、これまで気づかなかったおいしさを見出そうとするなら、それは不可能ではないけれど、実際には、かなり難しいのではないかと思います。もしもそれが簡単にできることなら、みんな、今までどおりにダラダラと暮らしているだけで、いくらでも新鮮な驚きや喜びを感じて、どこまでもハッピーになっているはずなので。

 

身近な生活や身近なモノの中に、驚きや喜びを感じるのが難しいのは、私たち自身の能力とか経験の問題ではなくて、たぶん、これまでの長年の生活の中で、自分の中にすっかり染みついてしまった「いつもの思考と行動のパターン」から離れて、目の前の現実を、新鮮な目で見直すことがなかなかできないからなのだと思います。

 

だから、遠い異国の地で多くの人が味わうような、心が揺さぶられるような感動を、すでに見慣れたはずの、身近な風景や物事の中にさえ見出すことができるようになれば、それは、究極の旅をマスターした、ということになるのかもしれません。

 

そして、そういう旅ができる人は、この2021年の世界のように、長距離の移動がはばかられ、これまでのような街歩きや娯楽でさえ自由に楽しめない状況でも、ごく身近なところでさまざまな喜びのタネを見つけ、自分自身や周囲の人々をもてなしつつ、日々をハッピーに過ごすことができるのだと思います。

 

 

JUGEMテーマ:旅行

at 20:15, 浪人, 地上の旅〜旅全般

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非日常性を求める散歩と、日常性を求める散歩

このネットの世界を、毎日さまよいながら感じるのは、ここは良くも悪くも、私たち人間が、何かを記録したり、表現したり、そうした成果を比べて、お互いの違いを際立たせたりすることによって、新奇さや非日常性みたいなものを極めていくところなのだ、ということです。

 

もちろん、それがインターネットのすべて、というわけではありませんが、少なくとも、そうした側面は非常に大きいのではないでしょうか。

 

これは、ネットで情報を発信する人々が、そうしたいと望んできたというより、ネットの世界で埋没することなく、多くの人の注目を集めようとするなら、そういう方向に行かざるを得ない、ということなのだと思います。

 

多くの表現者が、人の注意を引きつけ、驚かせたり夢中にさせたりするために、表現をエスカレートさせてきたし、それらを消費する私たちの側にしても、さらに新奇で刺激的なものを求めて、要求水準をつり上げてきました。

 

考えてみれば、ネット上のコンテンツの大部分が、今でもなお、常識的で穏当な内容のものだというのは、ある意味、奇跡的なことなのかもしれません。もっとも、そうした穏当なコンテンツが、他の似たような大量の情報と見分けがつかなくなって、あっという間に忘れ去られていくのも確かですが……。

 

一方、リアルな世界の日常生活には、そうしたネット世界の、終わりなき「祭り」の非日常がもたらす過度な興奮を鎮めて、心身を落ち着かせてくれるところがあります。

 

日々の仕事や勉強にしても、買い物や料理や掃除などの家事にしても、すっかり手慣れた単調な作業の繰り返しが多く、それは、人によっては、憎むべき退屈さそのものかもしれませんが、24時間興奮しっぱなしで生きていくことのできない私たちにとっては、むしろ、その退屈さこそが救いになっている面もあるのではないでしょうか。

 

ほどほどに単調な作業は、心身に、平静さや一定のリズムを与えてくれます。逆に、そうしたリアル世界の単調さがなければ、ネット世界の非日常性にさらされているうちに、私たちの生活はどんどん偏っていき、どこかでバランスを失ってしまうかもしれません。

 

そして、リアル世界の散歩もまた、その退屈なほどのシンプルさを通じて、私たちの生活を、まっとうな状態に引き留めてくれる行為の一つなのだと思います。

 

正直な話、自分の家の近所を散歩しても、新たな発見があることはまずないでしょう。人通りの激しい繁華街に暮らしているなら別でしょうが、ふつう、自宅から半径数百メートルくらいの、ごくごく身近でリアルな世界では、どれだけウロウロしてみても、事件らしい事件などまず起きないし、日々の変化は非常にスローで、刺激も少ないはずです。

 

しかし、現代のような情報過多の時代に生きている私たちにとっては、むしろそこに意味があるのであって、散歩を通じて、日常の平凡さや単調さがもたらしてくれるものこそを、じっくりと味わう必要があるのでしょう。

 

近所の何でもない風景をぼんやりと眺めつつ、頭に浮かんでは消えていく、とりとめのない思考の数々を言葉で表現すれば、本当にどうでもいいことばかりです。

 

そういえば、あの店は何年か前に開店して、特に興味もないから、一度も足が向かなかったけれど、結局、いつの間にか閉店していたんだな……とか、空き地に生える雑草って、放っておくとひと月でこんなに伸びるんだな……とか。

 

たぶん、こんなことは、日記やメモにわざわざ書きとめるまでもないだろうし、ネット上なら、Twitter ですらつぶやかれないか、誰かがつぶやいても、ほとんど反応もなくスルーされてしまうでしょう。

 

しかし、そういう、あまりにありふれていて、誰も価値を見出せないようなこととか、頭に浮かんでは、その瞬間にどんどん消えていく脈絡のない思考の数々こそ、実は、私たちの生活の大部分を占めている、現実の姿そのものなのではないでしょうか。

 

そして、散歩の道すがら、そういう現実そのものに、ゆるやかに注意を向け、自分と身のまわりの世界のありのままの姿を静かに見つめることこそ、今の私たちが、日常と非日常との健康なバランスを維持するために、切実に必要としていることなのではないかと思います。

 

ネット上をあてもなくさまよい、常に強烈な刺激にさらされることが、「非日常性を求める散歩」だとするなら、リアル世界の近所をぶらぶらと歩き、何も起こらない平凡な現実を再確認するのは、「日常性を求める散歩」といえるのかもしれません。

 

日常性を求める散歩は、たしかに退屈かもしれませんが、私たちは、そうした行為にゆっくりと時間をかけることによって、ネット世界のもたらす圧倒的な刺激の影響を中和して、心の落ち着きとか、ある程度の余裕を取り戻すことができるのではないかという気がします。

 

ただし、近所の散歩というものが、いつも必ず、退屈な日常の確認だけで終わる、とはかぎりません。

 

いつもと同じ、平凡な毎日の繰り返しだったはずが、思わぬハプニングが起きて、そこからいきなり非日常的な展開に突入する可能性はゼロではありません。

 

また、散歩の途中で突然すごいことを思いついたり、何かに気づいて目からウロコが落ちたりすれば、これまでとはまったく違う視点や価値観で現実を見られるようになり、身近な世界の見え方がガラリと変わるはずです。

 

さらに、いつもは行かないような店にあえて入ってみるとか、いつもは通らないルートを選んでみるなど、ふだんとは違う行動をしてみることで、自ら刺激をもたらすという手もあるでしょう。

 

そうやって、日常が非日常に変わる瞬間、私たちはそこに「旅」を感じることができるし、もしも、そういう状態を起こすコツみたいなものを身につけることができれば、ふだんの生活がそのまま旅になり、退屈なはずの日常が、刺激的な冒険の連続になることも、あり得ない話ではありません。

記事 日常が旅に変わるとき

 

ただ、そのためには、まずは近所に散歩に出かける必要があります。

 

実際には、私たちの好奇心は、それよりもはるかに刺激の多い、ネット世界の非日常性の方にどうしても惹かれがちだし、ネット上では、あれも見たい、これも知りたいといった「やりたいことリスト」が、未消化のまま、山のように積みあがっていく一方だ、という人も多いでしょう。

 

そして、そんな状況では、リストの消化をあえて先延ばしにしてまで、時間をかけて、自宅の周辺をのんびり歩くような行為が、ものすごく贅沢な時間の使い方になってしまうのも確かです。

 

長い目で見て冷静に考えるなら、リアル世界の散歩は、自分の心身や生活にバランスをもたらしてくれる、意味のある行動なのかもしれません。

 

しかし、すでにネット世界で、非日常の強烈な刺激に慣れ切っている感覚からすれば、それは、費やす時間や手間に見合うだけの刺激も満足感も期待できない、一部のマニア向けの地味な遊びにしか見えないのかもしれないし、残念ながら、そうした感覚は、ネット世界の存在感が私たちの中で大きくなるにつれて、ますます強まっているのかもしれません……。

 

 

記事 地味な小旅行の楽しみ
記事 「何もしない」という非日常

 

 

JUGEMテーマ:旅行

at 19:56, 浪人, 地上の旅〜旅全般

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新しい旅を見つける旅

先日、ネット上で面白い記事を読みました。

 

旅ライターの岡田悠氏が、日常を「旅」に変える、いくつかの方法を教えてくれるという内容です。

 

70カ国以上訪れた男がコロナ下で続ける「日常が旅になる3つの習慣」 ダイヤモンド・オンライン

 

まあ、どれもがクスッと笑えるような、他愛のないアイデアなのですが、とはいえ、そのいずれにも、普通の人にはなかなか思いつけないようなユニークさを感じるし、実際にそれらを行動に移してみれば、ふだんの生活に、たしかに非日常や新しい視点をもたらしてくれるのではないでしょうか。

 

新型コロナウイルスの感染拡大で、これまでのような旅ができなくなってから、すでに1年が経ちましたが、それは旅行業界全体を非常事態に追いやっただけでなく、旅を生きがいとする大勢の人たちにとっても、相当なストレスになっているはずです。

 

中には、居ても立ってもいられなくなって、この状況下でもまだ停止されていない国際線のフライトを使い、リスクを重々承知の上で、旅行者を受け入れてくれる国へ出かけてしまったという人もいるだろうし、さすがにそこまではしないけれど、あまり目立ちすぎないように配慮しつつ、国内の旅をそれなりに楽しんでいる人もいるでしょう。
記事 地味な小旅行の楽しみ

 

その一方で、長距離の移動にはこだわらず、旅の本質について考えを突き詰め、旅に出るのと同等か、それ以上の心理的インパクトをもたらしてくれるような「何か」を探求していく、という方向性もあります。

 

これまでは、国内でも海外でも自由に旅ができたので、そんなことをわざわざ考える人などほとんどいなかったと思いますが、今は、好きなように移動ができる状況ではないし、いろいろなアイデアを検討する時間もたっぷりあります。

 

それに、バックパッカー的な旅を続けてきた人なら、旅の期間や予算やビザなど、いろいろな制約の中で、自分にとって、どれだけ有意義で面白い旅ができるかを、これまでずっと追求してきたはずで、そういう旅人にとっては、今回のコロナによる厳しい制約の中でも、日常生活の範囲内で、「旅」を感じるような特別な瞬間を見つけ出す、というのが、やりがいのある新たなチャレンジになるかもしれません。

 

というか、そうやって身のまわりを改めて探索したり、平凡な日常を別の視点から見直してみたりするプロセス自体も、むしろ、新しい「旅」の一つとして楽しめるのではないでしょうか。

 

岡田氏も、「日常の中に非日常を見出し、予定不調和を愛する心があれば、いつでも、どこでも、旅はできる」と言っています。

 

日常とか非日常とか、抽象的な言葉だと、何だか難しそうな感じがするかもしれませんが、決まりきった日常のパターンを崩す方法自体は、その気になればいくらでも見つかるだろうし、そのほとんどは、思いついたらその場で実行できるものです。

 

例えば、岡田氏は、冒頭に挙げた記事の中で、ラーメン屋でも定食屋でも、新しい店を見つけたら、同じ日の昼と夜の2回行ってみる、というアイデアを提案しています。

 

そうしたからといって、別に、誰に迷惑をかけるわけでもないし、やってみるのに特別な能力とか手間がいるわけでもありません。

 

ただ、そういうことをしようとはなかなか思いつかないものだし、思いついたとしても、恥ずかしかったり意味がないと思ってしまって、結局やらないままで終わってしまうことの方が多いのではないでしょうか。

 

でも、まるで小学生が学校帰りに道草を楽しむみたいに、無意味で、時間のムダにしか見えないようなことを、あえてやってみることによって、いつもの退屈な日常生活に、ほんの小さな裂け目が生まれます。

 

もちろん、それで何か劇的な体験ができると思うのは、ちょっと期待しすぎだろうし、実際、何となく居心地の悪い思いをするだけで終わってしまうことの方が多いかもしれません。

 

しかし、非日常の瞬間に何が起きるかは、自分で思い通りに計画できるものではないし、そうやって思い通りにならないところこそが、旅らしくて面白い、ともいえます。

 

いずれにしても、ふだんならやらないようなことを、少しだけ勇気を出して実行してみれば、もしかすると、異国の旅先で味わったような、新鮮でワクワクする感じがよみがえってくるかもしれないし、日々の生活の中で、そんな試行錯誤を繰り返しているうちに、自分の見方や考え方次第で、いろいろなところに「旅」が見つかることを実感できるのではないかと思います。

 

そうなれば、やがて、移動の自由が制限されている状況でも、あるいは、政府の主導するキャンペーンにわざわざ乗っからなくても、いつでも、どこでも、自分らしい旅を楽しむことができるようになるかもしれません。

 

 

記事 日常が旅に変わるとき
記事 地図アプリと日常のささやかな冒険

 

 

JUGEMテーマ:旅行

 

 

at 19:56, 浪人, 地上の旅〜旅全般

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それほど親しくないからこそ

それほど親しくなく、年に一度、年賀状で近況を知らせ合うくらいの間柄の人というのは、家族や身近な友人のように、いつも一緒にいる人たちと、見知らぬ赤の他人との、ちょうど中間あたりに位置する存在なのだと思います。


しかし、そういう知り合いとやり取りした手紙などは、物理的なモノの形をとるので、意外としっかり残ったりします。そして、何十年もそのまま押し入れの奥に眠っていて、何かのきっかけで再び目にしたときに、まるでタイムカプセルのような効果をもたらすことがあるのです。


そんなとき、私たちは、何ともいえない懐かしさで心が満たされ、当時の自分に向けて、その人たちがそれなりに手間暇をかけてメッセージを送ってくれていたことに、ありがたさや温かさをしみじみと感じたりします。


ちなみに、こうした感動の大きさは、彼らとの親しさの度合いとは、あまり関係がないようです。それはきっと、手紙の中身とか差出人のことよりも、手紙をきっかけに次々にあふれ出す、当時の膨大な思い出の方に、ずっと大きな意味があるからなのでしょう。


それはともかく、面白いのは、お互いにそれほど親しい相手ではないからこそ、ちょっと改まった、手紙みたいな形式のメッセージが送られ、受け取った側でも、さすがにそれをすぐに捨てるわけにもいかないので、しばらく保管することになり、それほど大事なメッセージではないからこそ、そのまま忘れ去られて、結果的に、タイムカプセルに保存したような形になる、というところです。


そして、こういうことは、非常に親しい人との間では、むしろあまり起こらないのではないでしょうか。


そういう人たちとは、手紙を書くような堅苦しいやり取りはせず、直接会って話をする方が圧倒的に多いはずで、だからこそ逆に、相手への言葉はそのつど消えてしまって、昔のことは、お互いのおぼろげな記憶の中にしか残っていなかったりします。


もっとも、最近は、メールやSNSのおかげで、ごく親しい人との日常的なやりとりが、まったく形に残らない、ということはなくなったのかもしれません。


ただ、SNSなどで毎日やり取りしたデータは、逆に膨大すぎて、どこにどんなメッセージがあるのか、もはや分からなくなっているだろうし、日々新たなメッセージも次々に飛び込んできて、そちらに対応する方がずっと大事なので、そうした過去の書き込みとか写真の山を定期的に見返すという人は、ほとんどいないのではないでしょうか。


それに、ネット上のサービスの栄枯盛衰に合わせて、あるいは、家族や友人たちの意向に従う形で、さまざまなサービスを数年ごとに渡り歩いていくと、過去の書き込みがネット上のあちこちに分散し、データの形式もサービス毎にバラバラなので、どんどん収拾がつかなくなっていきます。


近い将来には、そうしたデータを自動的に整理したり、大事そうな部分だけを抽出してくれる、秘書みたいなAIが大活躍するようになるのでしょうが、それまでの間は、あまり使い道もない、過去の膨大なデータをわざわざ自分で整理するのは、ごく一部の几帳面な人だけなのかもしれません。


さらに言えば、メールにせよ、SNSにせよ、電話や直接の会話にせよ、親しい友人たちとの日常的で頻繁なやり取りのなかで、言いたいことや本当の気持ちを、お互いに正直にぶつけ合えているかというと、実はそうでもなかったりします。


相手との関係を大切に思えば思うほど、相手を傷つけたり、関係が険悪になるリスクを恐れて、当たり障りのないことしか言えない、という人は、けっこう多いのではないでしょうか。


あるいは、長年にわたって、お互いに一定のキャラとか役割を演じ続けているうちに、それが固定化してしまい、それ以外の姿を相手に見せられなくなっている、というケースも多いかもしれません。


その点、それほど親しくなく、いざとなれば切ってしまえる程度の淡い人間関係だからこそ、その気になれば、遠慮なくホンネをぶつけ合い、結果的に、思いがけず深い話ができたりする、ということもあるのではないかと思います。


そして、旅先での出会いには、そういうパターンがけっこうあるのではないでしょうか。


列車やバスで、あるいは食堂のテーブルで、たまたま隣り合わせた見知らぬ人と、なぜか話し込んでしまったり、安宿のドミトリーで相部屋になった人と意気投合して、そのまましばらく一緒に旅を続けたりするのは、それほど珍しいことではありません。


旅という非日常の状況では、いつもと違う行動をとることに、それほど抵抗感がなくなっているのに加えて、目の前にいる相手とは、きっともう二度と会うこともないだろうと思うからこそ、後先のことを考えず、今この瞬間の、自分のありのままの気持ちをさらけ出す勇気が出たりします。


そして、相手の旅人もまた、同じように考えているとき、両者は一時的に心のよろいを脱ぎ捨てて、その結果、ふだんの生活ではあり得ないような、不思議で鮮烈な時間を体験することができたりするのだと思います。


もちろん、それが悪い方に作用して、世間の常識やルールをどんどん無視する方向に走ると、単なる恥知らずな旅人になってしまう危険もあるわけですが……。


しかし、相手へのリスペクトを忘れず、旅先での新しい出会いに、一期一会の大切な機会として臨むなら、そのいくつかは、後々まで記憶に残るような、印象深いものになるかもしれません。


でもまあ、実際には、旅先での出会いのほとんどは、それなりに面白いものではあっても、数年もしないうちに、そんなことがあったということすら忘れてしまうでしょう。


そして、よほどのことでもないかぎり、そのときの相手と、再び顔を合わせることもないと思います。


しかし、取り立てて親しいわけでもない人と、旅先で共に過ごした不思議な時間の記憶は、無造作にしまい込まれた手紙の束と同様、どこかでしばしの眠りについているだけで、決して失われてしまったわけではありません。


数年後、あるいは数十年後に、それは思いがけない形でよみがえり、未来の自分に、何ともいえない懐かしさとか、ありがたさとか、温かさとかをもたらしてくれるかもしれません。

 

 

JUGEMテーマ:旅行

at 20:22, 浪人, 地上の旅〜旅全般

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地味な小旅行の楽しみ

◆ 外出の自粛は終わったけれど……

 

5月25日に国内の緊急事態宣言がすべて解除されてから、約1か月が経ちました。6月19日には、県境を越える移動も解禁され、海外はともかく、国内については、かなり自由に旅行できる状態に戻りつつあります。

 

ただ、旅行をする側としては、感染のリスクが消えたわけではないので、見知らぬ土地に出かけることに不安を感じるだろうし、現地の宿や飲食店がどの程度まで感染防止対策をとってくれているのか、気になる人も多いでしょう。

 

そもそも、仕事や冠婚葬祭以外で旅行する人のほとんどは、娯楽や気晴らしのためにそうするのであって、旅先での冒険やリスクを求めているわけではありません。事あるごとに感染への不安を覚えるようでは、旅をしていてもちっとも楽しくないだろうし、むしろ道中では心配ごとが多すぎて、かえって疲れ果ててしまうのではないでしょうか。

 

それに、受け入れ側としても、観光業に携わる人々はともかく、一般の住民にしてみれば、感染しているかもしれない外部の人間が入り込んでくることに、あまりいい気はしないだろうと思います。

 

このあたりの感情は、きれいごとやタテマエでは済まないところがあるし、地元経済の復興が大事とはいえ、そのための施策を急ぎすぎると、地元内での感情的な対立を生んでしまうかもしれません。

 

旅人としては、この時期に旅行を再開するにしても、心の中の不安は払拭しきれず、あまり浮かれた気分にはなれないだろうし、地元の人々の複雑な心情を考えると、いかにも観光客といった格好でウロウロするのは、何となくはばかられる気がするのではないでしょうか。

 

 

◆ 地味な小旅行の楽しみ

 

そんなことをボンヤリ考えていたら、何か月か前に、ネット上で話題になっていたマンガを思い出しました。

 

地味な小旅行の面白さを、とても簡潔に紹介したものです。

 

ジミタノ!ひとり散歩 ナンセンスダンス

 

非常に短くて、すぐに読み終わるので、あえて内容を要約するまでもないでしょう。興味のある方は、ぜひ目を通してみてください。

 

個人的には、このマンガに描かれているような地味な小旅行こそ、旅のおいしいところを手軽にマイペースで味わえる、すばらしいやり方だと思うし、作者の Sipla さんも、その楽しみ方を過不足なく表現されていると思います。

 

しかも、こういう小さな旅なら、旅への不安をそれほど感じなくてすむだろうし、観光地に人が押し寄せたり、地元の人に感染への恐怖を感じさせたりという、ネガティブなインパクトを与えることもないでしょう。そういう意味では、旅人側にも受け入れ側にも負担にならない、今のような時期にこそふさわしいタイプの旅だといえるかもしれません。

 

いずれにせよ、上記のマンガを一度読んでみれば、必要なことは十分に伝わるはずだし、そこにつけ加えるべきことも何もないのですが、蛇足だと分かっていながら、あえていろいろと説明を加えたくなってしまいました。

 

そういう余計なお世話をしたくなるとは、自分もずいぶん歳をとったのかなあ、と思います。以下の文章は、本当に蛇足なので、気が向いたらお読みください。

 

 

◆ 非日常を体験できる、コスパの高いやり方

 

マンガに描かれたわずかな情報から判断するかぎり、作者の Sipla さんは、まずは電車などを使って、たぶんそれほど遠くはない、自分にとって「できるだけ 縁のない場所」に向かうようです。「用もなく うろついて いるのは 自分だけと 思われる場所」ともあるので、観光客がそぞろ歩いているような有名な街ではなく、本当にどこにでもありそうな、それでいて、自分がこれまで行ったことも、関わったこともないような、未知の街に出かけるのでしょう。

 

ただ、そこは観光地ではないので、きっと、SNSでみんなに自慢したくなるような、見映えのいい写真は撮れないだろうし、とりあえず観光客向けの名所とか娯楽施設に行ってみる、という選択肢もありません。人によっては、現地に着いても、いったいそこで何をしたらいいのか分からず、途方に暮れてしまうかもしれません。

 

しかし、何をしたらいいのか分からないというのは、頭の中のプランがまったくの白紙ということであり、それはつまり、今から何をするか、いくらでも自由に決めていいし、決められないなら、とりあえず何も考えずに歩き出したっていい、ということでもあります。

 

観光地だと、つい、ガイドブックに載っているようなおすすめのプランに従ってしまい、非日常のはずの旅が、かえってありきたりな観光旅行のパターンに陥ってしまうことが多いのですが、まったく見知らぬ土地に、しかもノープランで乗り込んでいけば、その場の展開しだいでどうなるか分からない、ワクワクするような非日常を楽しむことができるのではないでしょうか。

 

わざわざ地球の反対側まで出かけて、エキゾチックな異文化を体験したり、観光地で高いカネを払って名所や娯楽施設に入ってみなくても、身近なところに非日常はいくらでも存在しているのですが、私たちは、旅というのは、遠くに行って、名所をめぐって、美味しいものを食べて、おみやげを山のように買って帰るものだ、みたいなイメージをずっと刷り込まれてきたために、身のまわりの非日常みたいなものに目がいかなくなっている面があります。しかし、例えば、ちょっと電車に乗って、これまで一度も降りたことのない駅で下車し、その辺をただぶらぶらと歩いてみるだけで、そこには予想以上の非日常があるはずです。

 

かといって、有名な『孤独のグルメ』みたいに、現地でうまそうな店を嗅ぎ分けて楽しむ、みたいな方向に向かい出すと、それはそれで、旅のハードルが上がってしまうかもしれません。

 

Sipla さんの描く「ひとり散歩」の場合は、グルメとか、何らかのテーマをとことん追求していくわけではないし、おしゃれな感じの店をチェックしていくわけでもありません。昼食は、中華料理店のラーメンとビールで十分、みたいな、実質本位というか、「意識低い系」というか、肩からかなり力が抜けた感じがあります。

 

でも、ただ肩の力を抜いているだけでは、それは結局、日常生活とほとんど同じになってしまいます。そこで、現地では、ちょっと勇気を出して、普段は行かないタイプの店に入ろうとしてみたり、「普段は聞かない 音楽を聴いてみたり」、その街に自分が住んでいたら「あったかもしれない 生活を想像する」ことによって、Sipla さんは、自分の中の非日常感をそれとなく盛り上げているようです。

 

極端な非日常を目指して、どこか遠くに行ったり、刺激的な体験を求めたり、何かのテーマを深く追求していくわけではなく、かといって、いつもと同じ安易さを求めるわけでもなく、日常にかなり近い非日常、別の言い方をすれば、日常と非日常との境界線上を歩くようなところに、むしろ、とても味わい深い世界が広がっているし、そういう非日常は、身近なところで簡単に体験できるという点で、とてもコスパが高いのではないでしょうか。

 

そして、そういう散歩や小旅行に面白さが感じられるようになれば、わざわざ遠出をする必要はなくなっていくのかもしれません。近所でさえ、まだ歩いたことのない道が必ずあるはずだし、入ったことのない店もあるはずです。行きつけのショッピングモールやスーパーの中にだって、いつも素通りしている一角があるのではないでしょうか。
記事 日常が旅に変わるとき

 

 

◆ 目的地を決めない

 

ほとんどの人は、あらかじめ目的地を決めてから旅に出かけるので、それがもたらすマイナス面を意識することはまずないと思いますが、実際には、目的地や旅の目的をハッキリと決めることによって、それが旅の中心、またはすべてになり、旅人がそれ以外のことに注意を払わなくなってしまいがちになるという、けっこう大きな問題があります。

 

同じような理由で、出発前にあまり下調べをしすぎるのも、現地での体験が、事前に仕入れた知識に引きずられがちになるというデメリットがあります。せっかく初めての土地に行くのだから、街の見どころとか、美味しい店のこととか、名産品とか、いろいろ知っておきたいのは山々だし、実際、そうすることで、ちゃんとした旅行をしたという満足感も得られるのですが、逆に、そのことによって失われてしまうものもあるのです。

 

特に、私たちは、日々の仕事を効率よく進めていくために、目的や優先順位を明確にし、余計なことを意識からバッサリと切り捨てる習慣を身につけているので、旅先でも、ついその習慣が出てしまい、目的地を効率よくまわったり、短い時間でできるだけ満足度の高い体験をしようと頑張りがちです。そして、そのために厳選した事前の計画に含まれないものは、なかなか目に入らなくなってしまいます。

 

しかし、逆に、目的地も旅の目的もはっきりと定めずにいれば、現地では常にフリーな気分でいられるので、目の前に現れるさまざまなことが鮮やかに目に入ってくるし、その場の成り行きにまかせることで、面白い展開を呼び込む可能性も開けてきます。

 

Sipla さんは「目的地は ないので いい感じが する方へ行く」と書いていますが、直感に従って、自分の気持ちに正直に、自由に動けるのは、目的地のない、散歩のような気楽な旅だからこそだと思います。

 

 

◆ 自分もまた、現地の人々から見られているという意識

 

一方で、Sipla さんは、観光地ではない街を歩き回るときの注意点もしっかりと示しています。

 

例えば、他人の家は、「あまりジロジロ 見ないようにする」必要があるし、どうしても見たいなら、「自然にどれだけ見れるか… チラ見のスキルが 問われてくる」のです。

 

また、不審者だと誤解されるリスクを減らすため、「散歩に行く時は 小奇麗にしてから 行くようにしてる」とも書いています。

 

私たちは、旅行先で、街並みや道行く人々を、けっこう無遠慮に眺めることに慣れていますが、それは観光地だから、現地の人も、ジロジロ見られることに多少は慣れていて、変なトラブルになることがめったにないからだと思います。ただ、それは、観光客から一方的に見られるのを、地元の人たちが完全に受け入れていることを意味するわけではないし、彼らもまた、旅行者をさりげなく、ときには批判的に観察していたりするものです。

 

だから、どこを旅しているにせよ、私たちは単なる見物人でいられるわけではないし、相手からもしっかりと見られているのだということを、常に頭の片隅に入れておかなければなりません。

 

特に、観光地ではないところで散歩を楽しむということは、地元の人たちが観光客向けの寛容な顔をまったく用意していない、彼らの日常生活の領域に踏み込んでいくということでもあり、そこでは、むしろ観光地以上に、自分が「よそ者」だという強い自覚をもち、相手を不必要に刺激しないようにする必要があります。

 

 

◆ 神様が隠したユーモアを発見する楽しみ

 

ほかに、マンガの中では、面白い建物や変わった店、街角の変なモノを見つける楽しさも描かれています。

 

そういうものは、毎日見ている地元の人は、あまりにも慣れてしまって、かえってその面白さに気づけなかったりするし、何か目的があって先を急いでいる旅行者も、なかなかそこまでは気がつかないでしょう。その結果、とくに予定もなく、ブラブラと街を歩いているような暇人だけが、それらを発見できたりするのかもしれません。

 

まあ、そういうものを見つけたからといって、何か具体的な利益があるというわけではありませんが……。

 

ただ、それらの中には、誰かが意図的に面白いことをしようとしたわけでもないのに、さまざまな自然の力とか、いろいろな人たちの長年にわたる無意識の行為とかが複雑にからみあって、いつの間にか珍風景や珍現象を生み出していて、たまたま気がついた人の笑いのツボを刺激するようなものもあります。まるで、宇宙がこっそりとつぶやいたジョークみたいに。

 

ネット上には、そういうものを集めて世界中に公開しているサイトもあるし、それらを見て気軽にほっこりすることもできますが、見知らぬ街をあてもなく歩き回っているうちに、その片隅でユーモラスなモノや出来事を見つけて、それらをそっと愛でるという面白さもあるのではないでしょうか。

 

それに気がついたのは、もしかしたら自分だけかも、と思うような地味な可笑しさに出合うことには、神様が内緒でウインクしてくれたような、心がじんわり温かくなるような楽しさがあります。

 

 

◆ でも、やっぱり、地味で伝わりにくい楽しみなのかも

 

とはいえ、こういう小旅行の楽しさは、かなりディープな旅好きというか、散歩の達人みたいな人しか感じないのかも、という気がしなくもありません。

 

Sipla さんは、「特別なことは起きないし、とにかく地味だけどなんだか楽しい」と書いていますが、世の中の多数派は、やはり旅先では何か特別なイベントが起きてほしいと思うものだし、せっかくの休日は、後々まで記憶に残りそうな、派手な非日常であってほしいと考えるのではないでしょうか。

 

また、もともと性格的に、地味でささやかな一人旅が向いている人や、向いていない人がいるのかもしれません。

 

いずれにしても、「ひとり散歩」みたいな旅は、個人的には、今のような時期にこそふさわしい旅のスタイルだと思うのですが、経済的な面では、旅行産業の復興にはほとんどまったく貢献しないので、メディアを通じて、それが積極的に勧められるようなことも、こういう旅がブームになることもまずないでしょう。

 

日常と非日常の境界をウロウロする地味な旅は、これからもずっと、分かる人にしか分からない、マニアックな趣味であり続けるのかもしれません。

 

 

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海外旅行をめぐる暗い見通し

先日、日本政府が、緊急事態宣言の対象をすべての都道府県に拡大しました。

 

すでに、海外への旅行はほとんど不可能になっていましたが、これで国内の旅行も難しくなりました。外出自粛要請に罰則規定はないので、この状況でも旅に出る人はゼロにはならないでしょうが、そういう人々に対する周囲の目は確実に厳しくなると思います。

 

先月、このブログで、もしも自分が海外旅行中だったら、旅を続けるだろうか、それともやめるだろうかと、その時点でのニュースをもとに、自分なりに考えてみたりしたのですが、その後、事態はものすごいスピードで悪化して、国内でも、海外でも、旅を続けるという選択肢がなくなってしまいました。
記事 もしも今、自分が旅に出ていたら

 

ほんの1か月前の自分の見通しが、いかに甘かったか、痛感せざるを得ません。

 

しかし、私の場合は、机上の空論が吹き飛ばされただけで済みましたが、実際に海外を旅していたり、海外で暮らしている人にとって、現実はずっと厳しいことになっています。現地で足止めされ、今なお帰国できずにいる留学生や旅行者があちこちにいるし、海外で長年暮らしている日本人の中には、リスクを十分に承知の上で、あえて帰国せず、現地に踏みとどまる覚悟をしている人も多いと思います。

 

今は、驚くようなニュースがあまりにも多くて、そうした一人ひとりの苦境や覚悟には、なかなかスポットライトが当たりませんが、多くの人が、数週間前にはまったく想像できなかった状況に投げ込まれ、先が全く見えない不安の中で、自分たちにとって最善の選択をするべく、手探りの日々を続けているのではないでしょうか。

 

もっとも、先が見えないという点に関しては、日本で暮らしている私たちも同じなのかもしれませんが……。

 

いずれにしても、この先、かなり長い期間、下手をすると数年にわたって、これまでのような海外旅行ができなくなるだろうということが、ほぼ確実になってしまいました。新型コロナウイルスのワクチンが完成するか、集団免疫が成立するまでの間、旅行者には、異国の地で感染し、そこで重症化する可能性がつきまとうことになります。

 

もちろん、冷静に考えれば、旅がそれほど長くない場合、海外でウイルスに感染する確率はかなり低いだろうし、他にも、例えばデング熱など、ワクチンも効果的な治療法もない危険でやっかいな病気はいくつもあるので、新型コロナウイルスばかりを特別扱いしたり、心配しすぎるのはおかしい、という見方もできないわけではありません。

 

ただ、実際には、そこまで割り切れない人の方がずっと多いのではないでしょうか。今回、マスメディアによる大量報道を通じて徹底的に植えつけられた「恐ろしいウイルス」というイメージは、この先もずっと、私たちの判断に大きく影響することになるような気がします。

 

それに、今後数年の間は、世界のどこで局地的な感染拡大が起きるか分からないし、それに旅人が巻き込まれると、かなりやっかいなことになるのも確かです。せっかく開いた国境が再び閉じたり、移動や外出がいきなり制限されて立ち往生する可能性は常に存在するし、慣れない異国での闘病生活とか、国によっては非常に心もとない医療体制を想像してしまうと、実際のリスクがそれほど高くはなくても、多くの人はわざわざ遠くまで出かけたいとは思わないのではないでしょうか。

 

さらに、私たち自身が旅のリスクをどう考えるかだけではなく、現地の人が、旅人を迎え入れるリスクをどのように考えるかも、これからは、無視できない大きな問題になってくるでしょう。

 

もしも、旅人がウイルスに感染して重症化した場合、かりに現地できちんとした病院に入院できたとしても、貴重なベッドや医療機器やスタッフの対応能力を外国人が占有することで、地元の誰かが生き延びるチャンスを奪うことになってしまうかもしれません。もちろん、その逆に、旅人の方が後回しになって、入院できないこともあり得ると思います。そしてその場合、宿のスタッフなど、現地の見知らぬ人たちが、感染のリスクを冒してまで旅人の面倒を見てくれるのだろうかという、さらに難しい問題に直面することになります。

 

そういったことを考えると、今後しばらくの間は、世界のどこであれ、医療インフラに余計な負担をかける可能性のある外国人旅行者は、現地の人たちにとっては、迷惑な存在でしかないのかもしれません。最悪の場合、旅行者が、自分でも気がつかないうちに、感染を広める原因になってしまうことだってあり得るのですから。

 

もっとも、今回のパンデミックとは関係なく、昔も今も、旅にはそれなりのリスクがつきものだし、旅行者も、それを受け入れる側の現地の人たちも、ある程度、そのことは認識しているはずです。

 

しかし今回は、ウイルスがもたらす病気だけでなく、それが社会や経済に与えたインパクトが大きすぎます。多くのビジネスが壊滅的な打撃を受け、真偽不明の情報が大量に飛び交い、世界中の人々が先行きへの不安や恐怖を感じています。それらが社会的な争いや少数者への差別など、ネガティブな行動に結びつきかねないことを考えると、国際的な人間の移動のリスクがとても高くなっていると言わざるを得ません。

 

例えば、新型コロナウイルスが中国から広がったということで、たぶんこの先何年も、ひょっとしたらもっと長期間にわたって、世界中の非常に多くの人々が、中国や中国人に対して厳しい目を向けることになるかもしれません。中国政府の高官はともかく、市井の人々には何の罪もなく、むしろ被害者という意味では、世界中の人々と全く同じ立場なのですが、みんながそのように考えるわけではなく、自分が「敵」と認定した誰かに、怒りや不満をぶつけようとする人は少なくないと思います。

 

そうなると、中国人と日本人を外見だけで見分けるのは難しいので、私たち日本人旅行者も、世界のあちこちで中国人と誤解され、敵意のまなざしや心ない言葉を浴びせられることになるだろうし、場合によっては、それだけでは済まないかもしれません。常に大勢で固まっていられるグループツアーならともかく、個人旅行で何度もイヤな体験をすれば、かなり心が削られることになるでしょう。

 

結局のところ、旅をする側がいくら前向きになっていても、移動手段や現地での受け入れ態勢など、旅行が再開できる環境がそれなりに整わなければ、どうすることもできません。特に、現地で旅行者が発症した場合に起きるやっかいな事態を考えると、たとえ旅行産業に依存しているような観光地でも、当面のあいだは、地元から強い懸念の声が出てくるだろうし、そうなれば、ホテルやゲストハウス、旅行者向けのレストランなども、しばらくの間は、大っぴらに旅行者を受け入れることはできないでしょう。

 

ウイルスの感染拡大がおさまり、治療法や予防法にめどがつき、旅人側と受け入れ側の心理的な恐怖が薄れ、以前のような状況に戻るまでには、繰り返しになりますが、数年以上はかかると考えざるを得ないと思います。

 

この暗い見通しを受け入れるのは、旅行業界にとっても、旅好きの人にとっても、非常に苦しいことです。こうした苦境は、もちろん、いつかは必ず終わるのですが、その日までの長い間、世界中の膨大な関係者が、どうやったら経済的・心理的に耐え忍ぶことができるのか、私には、いい方法が思い浮かびません。

 

ただ、旅をする方の側に限っていえば、海外や国内の旅ができない、という事実ばかりに意識を向けてフラストレーションをため込むよりは、早めに意識を切り替え、現時点で自分にできることに目を向けることで、この状況を乗り切っていくしかないのかもしれません。

 

今は、日本全国で不要不急の外出の自粛が求められているので、個人的な楽しみのための外出や旅行が許される雰囲気ではありませんが、そうした状況でも、食料品の買い出しとか、運動不足解消のための散歩やジョギングの途中で、街のわずかな変化を注意深く観察したり、道端の花に季節の変化を感じたりすることならできます。

 

世界の果てまで行ったり、息が止まるような絶景を見たり、エキゾチックな文化をまるごと体験したりすることはできませんが、そのかわりに、心の感度を上げ、ごくごく身近な世界にしっかりと焦点を合わせることによって、自分の近所でこれまでずっと見逃していたことや、身のまわりで起きている微妙な変化に気づくことができるようになるし、そこに驚きや面白さを感じとることができるなら、どんなに小さな体験であっても、それを旅と呼んでいいのではないかと思います。
記事 日常が旅に変わるとき

 

あるいは、緊急事態という今の状況そのものが、まさに非日常なのだから、逆にその異常さの中で、どうやって自分にとってのプラスを見つけ、精神的に乗り切っていくかという試行錯誤のプロセスそのものに、旅のような手応えを感じることができるかもしれません。

 

例えば、かつて自分が旅先で理不尽な状況に陥ったときのことを思い出したりしつつ、こういう状況の中で、どうしたら冷静さを保てるか、厳しい制約だらけの生活の中で、どうしたらささやかな楽しさや面白さを見つけることができるかを、いろいろと考え、実行に移してみることもできるでしょう。

 

そうやって、いろいろと工夫をしながら、毎日の出来事を、せめて前向きに受け止めようと奮闘し続けているうちに、やがていつかは外出自粛が終わり、近所を自由に歩き回れる日が来るだろうし、その先には、国内旅行を楽しめるようになる日が、さらにその先には、いくつかの国への渡航が可能になる日が、というように、少しずつ段階を踏みながら、私たちの行動範囲は再び広がり、旅の自由も復活していくでしょう。

 

そしてその間、身近な世界に向き合うことで鍛えに鍛えた感受性は、次に遠くに出かけるとき、旅人に大きな驚きや満足感を与えてくれるに違いありません。

 

 

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もしも今、自分が旅に出ていたら

昨年末に中国で見つかった新型コロナウイルスが世界各国に広がり、先日、ついにWHOがパンデミックを宣言しました。

 

日本でも、全国レベルの学校閉鎖や大規模イベントの自粛など、次々に対応策が打ち出され、中国や韓国からの入国にも大きな制限がかけられました。

 

しかし、そうした制限が、海外からの観光客の減少に拍車をかけることになり、旅行業界は、今、「激震」どころでは済まない状況になっています。

 

一方で、日本から海外への旅行についても、かなりの国々が日本人の入国を拒否したり、入国後の行動を制限したりしており、さまざまな国を自由に行き来することが難しくなっていますが、旅をすること自体は、まだ不可能にはなっていません。

 

最近では、オーストラリアなど、自国民に海外渡航を禁止する国も出てきているようだし、日本政府が近い将来、そうした措置に踏み切る可能性もないとは言えませんが、さすがに、すでに国外に出てしまった旅行者が、帰国を強制されることまではないだろうと思います。

 

とはいえ、海外旅行を間近に控えていて、まだ出発を断念はしていないという人や、すでに旅を始めて、どこかの国に滞在中の人にとっては、ここ数日、各国が国境を閉じる動きを加速している状況を見て、日に日に外堀が埋められ、追い詰められていくような気分になっているのではないでしょうか。

 

まあ、グループツアーの場合だと、悩むまでもなく、すでにツアーが延期または中止になっているケースが多いだろうし、もしもツアー中で、現地の状況が悪化していても、添乗員や現地スタッフができる限りのサポートをしてくれるだろうから、何とか無事に旅を終えられると思います。

 

しかし、個人旅行の場合は、基本的に、何もかも自分で決断し、対処しなければなりません。

 

用意していたビザが、ある日突然無効になったり、入国拒否や長期間の隔離をされたり、フライトが一気に減らされて、変なところで身動きがとれなくなるかもしれません。また、目的の国に何とか入国できても、現地では外出禁止令が出されていたり、観光施設や食堂、商店などが軒並み休業していて、観光どころか、まともな食事さえままならなくなってしまうかもしれません。地元の人々のストレスのはけ口として、差別の標的にされる可能性だってあります。

 

それに、万が一、自分がウイルスに感染し、重症化してしまった場合に、外国人はどこに相談すればいいのか、そもそも現地の病院に受け入れる余裕があるのか、治療や入院の費用をどうするのかなど、薄れる意識の中で、いくつもの難しい問題に迫られることにもなりかねません。

 

そうしたことを考えると、現在、こういう状況で、バックパッカーたちが、旅に出るか、あるいは旅を続けるかについて、それぞれどういう判断をしているのか、他人事ながら、かなり気になります。

 

もちろん、その答えは人それぞれなのでしょうが、もしも今、自分が長い旅をしていたなら、何とか旅を続けようとするのでしょうか。それとも、さすがに今回は、旅を切り上げて帰国する決断をすることになるのでしょうか。

 

先ほども書いたように、今、先がまったく見えない状況で、旅を強行することのデメリットはいくらでも挙げられますが、一方で、世界中で観光客が激減しているこの時期だからこそ、割安な料金で、混雑とは無縁のゆったりとした旅を楽しめるという、見逃せないメリットもあるでしょう。それに、現地で観光業に携わる人々からも、貴重なゲストとして歓迎されるかもしれません。

 

言うまでもなく、それは、ネットでリアルタイムの情報収集を怠らず、万が一のときには、完全に身動きがとれなくなる前にそこから脱出できるよう、具体的な「プランB」をつねに検討しておくことが大前提ですが、うまく立ち回ることができれば、何とか旅を続けられるはずだし、激動の2020年の出来事とともに、生涯忘れられない、印象深い旅になるのではないでしょうか。

 

ただし、それは、かなりの上級者向けの旅だと思います。もしも旅先で感染し、入院せざるを得ないような病状になれば、その後の隔離を含めて面倒な事態に巻き込まれるだけでなく、たとえ自分に非はなくても、現地の人々からは、諸悪の根源みたいに扱われ、白い目で見られる可能性さえあります。

 

さらに、そのことが日本国内で報道されれば、こんなときに不要不急の旅行をするなんて「不謹慎だ!」ということで、派手に炎上するかもしれません。まあ、今は、それ以外にも驚くようなニュースには事欠かないので、一人のバックパッカーが海外で感染した程度のことは、ほとんど話題にもならないでしょうが……。

 

そうやって、メリットとデメリットをいろいろと考えてみると、トラブルに遭遇する可能性がかなり高く、そのダメージも大きそうなので、もしも私が旅行中だったら、やはり、旅を途中でやめて帰国するだろうな、と思います。若いころならともかく、今はずっと慎重というか、ヘタレになっているので……。

 

もっと若かったら、現地で隔離されたり足止めされたりする体験さえ、貴重な機会だと面白がれたかもしれません。さすがに、自分が感染するような事態まで面白がれたかどうかは分かりませんが、若いころは、そういうトラブルに遭ったらどうなるかという知識も経験も想像力もなかったから、その怖さに気づかなかったかもしれません……。

 

いずれにしても、ここで書いたことは、あくまでも現時点の私が、いろいろなニュースを聞きかじった上で漠然と想像してみただけの話だし、もちろん、その判断が、一般論として、すべてのバックパッカーに当てはまるものではないでしょう。

 

旅人自身の年齢とか、旅の目的とか、今どこにいて、それまでにどんな旅を、どのくらい続けてきたかによっても、判断は大きく違ってくると思います。まだ若かったり、旅を始めたばかりだったり、どうしても行きたい場所がいくつもあったり、旅の資金や心身のエネルギーが満ち足りていれば、多少無理をしてでも旅を続けたいと思うだろうし、身体の無理がきかない年齢になっていたり、すでに旅に飽きていたり、資金が底を尽きかけていたりすれば、今回のパンデミックを格好の口実にして、旅を終わらせたいと思うかもしれません。

 

そして、それに加えて、旅人自身の性格とか、価値観とか、ふだんの行動パターンによって、判断の基準とか結論には、さらにさまざまな違いが出てくるだろうと思います。

 

例えば、人によっては、性格的に、常にあちこちを動き回らずにはいられず、もしも、どこかの国の当局から、2週間ほどの隔離生活を強制されたり、移動制限でどこかの小さな街に閉じ込められたりしたら、まさに地獄だと思うかもしれません。そういう人は、自由に動ける場所を求め、安全な国を探して必死で旅を続けるかもしれないし、あるいは逆に、それではかえってリスクが高いと冷静に判断し、どこかで全く動けなくなるよりはずっとマシだと、ある程度の不自由は覚悟で、日本に帰国することを選ぶかもしれません。

 

でも、考えてみれば、新型コロナウイルスのことで、これだけ世界中が大騒ぎをしている最中でも、日本に観光に来ている外国人はそれなりにいるようだし、逆に、入国制限をしていない国に出かけていく日本人もそれなりにいるようです。

 

そういう人たちは、いろいろなことを慎重に考えた結果として、薄氷を踏む思いで旅に出ているのかもしれないし、どうしても会いたい人がいるなど、やむを得ない理由があって、強い覚悟で旅をしているのかもしれません。あるいは、よほどの高齢で持病を抱えたりしていなければ、たとえウイルスに感染しても、重症化する可能性は低いとされているので、現地でもっと深刻な他の感染症にかかったり、交通事故に遭ったりすることにくらべれば、それほど脅威だとは感じていないのかもしれません。

 

もっとも、ただ単に、何も考えていないだけかもしれませんが……。

 

実際、何も考えずに、いつも通りの行動を続けていても、何の災難にも遭わずに旅をまっとうし、無事に帰国できる人の方が、そうならない人よりも圧倒的に多いはずです。

 

いずれにしても、感染拡大防止のために、各国が次々に打ち出してくる移動や行動の制限、店舗や施設の閉鎖、それらの結果としてのさまざまな不便や混乱、そして、人々のパニックやイライラが引き起こす差別や嫌がらせの標的になることなど、今はむしろ、新型コロナウイルスそのものよりも、ウイルスに対する社会的なリアクションの激しさによって、旅人が不便や不快感に苛まれることが多々あると思います。

 

そして、そういう一時的な不便や不快の数々を覚悟し、あえてそれらを体験し、潜入ルポでも書くつもりで、今、この時期にしかできない旅をする、という考え方もアリだとは思います。

 

それは、決して楽しい旅にはならないだろうし、今の私も、わざわざそういう旅をしたいとは思いませんが、旅先での風景や出来事が、想像をはるかに超える非日常さを見せるという意味で、そうした旅が、ふだんなら絶対にできない体験になることは間違いないでしょう。

 

旅先での隔離だって、突然の入院生活だって、何もかもが旅のうちだと思える人なら、旅を中止する必要はないのかもしれません。

 

決しておすすめはしませんが……。

 

 

記事 海外旅行をめぐる暗い見通し

 

 

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旅してみたら分かる……かも

ずっと昔、長い旅をしていたころ、面白い旅人や、すごい旅人たちに何度も出会いました。

 

すでに数え切れないほどの国々を旅した人、自転車を漕いで、地を這うような旅を続けている人、ほとんど休むことなく、ひたすら移動を繰り返している人、現地に長期滞在して、ほとんど根を下ろしてしまったような人、旅先で身ぐるみ剥がされるなど、大変な経験を生き延びてきた人、などなど……。

 

そういう人たちから旅の話を聞くのは刺激的だったし、たとえとりとめのない会話であっても、その端々に、その人ならではのユニークな視点や考え方が垣間見えて、とても興味深いものがありました。

 

今思えば、そういう貴重な機会をムダにせず、もっといろいろなことを突っ込んで聞いておけばよかったな、という気がしないでもありません。彼らの「武勇伝」はもちろんですが、それ以外にも、旅先でのさまざまな試練によって自分の限界に突き当たり、それを乗り越えていく中で学び取ってきたことなど、体験者にしか分からないことが、たくさんあったはずです。

 

そしてそれらは、私たちのような、ごく普通の生活をしている人間にとっても、耳を傾けるに値するものだったのではないでしょうか。

 

でもまあ、そういうことに関しては、旅先で出会う旅人一人ひとりから地道に聞き取っていくよりも、むしろ、これまでの長い歴史の中で人類が残した膨大な探検記や旅行記の名作から読み取っていく方が、ずっと効率的ではあるのかもしれません。

 

それに、紛争地を駆け回るジャーナリストや、辺境で国際的な援助活動に携わる人たちや、極地への探検家、あるいは、さまざまな分野の第一人者として、世界を駆け回る有名人など、普通の旅先ではほとんど会えないような人々の活動や、彼らの内面も、やはり本とかドキュメンタリー映像などを通じてでないと、なかなか知ることができなかったりします。

 

実際、私自身も、旅に出るずっと前から、そうした旅行記を読むのを楽しみにしてきました。

 

しかし、過去の偉大な旅人たちにどれだけ文才があり、自分の体験や学びの数々を、いかにうまく言葉で表現できたとしても、やはり、彼らの経験したことのすべてを伝えることなど不可能です。

 

それに、それらを受け止める側の私たちも、未知の世界への興味や理解力には限りがあるので、彼らの語るすべての話につき合い、それを隅々まで理解することはできないでしょう。

 

というか、そういう問題よりも、もっと本質的なものとして、そこには、実際に何かを体験した者と、それらを言葉という不完全なものを通して伝えられる者とのあいだの、どうしても越えることのできない、大きくて深い溝があります。

 

偉大な旅人たちが、旅の中で何を目にし、何を感じてきたのか、それによって彼らがどう変わっていったのか、言葉の表面的な意味だけではなく、もっと深いレベルでしっかりと理解したいのなら、結局のところ、彼らと同じようなことをやってみるしかないのかもしれません。

 

だから、もしも、これまですごい旅を重ねてきた旅のマスターみたいな人物が、旅の話を聞きたがる人たちに、「旅してみたら分かるよ」みたいな、一見突き放すような言い方をすることがあったとしても、それは、自分の経験を鼻にかける傲慢さとか、言葉で伝えるのを面倒くさがる怠慢からではなく、きっと、純粋な親切心からなのだと思います。

 

そしてそれは、本を読んだり、テレビやネットで映像を見たり、人から話を聞いたりして、私たちが表面的に理解できる範囲の物事だけで何かが分かったつもりになってしまうと、むしろ、その向こうにある、もっと素晴らしいものや、もっと大事なものを見逃したままで終わってしまうかもしれない、ということを、できるだけシンプルに伝えようとしているのかもしれません。

 

もちろんそれは、旅に限らず、ほかのすべての分野についてもいえることだと思いますが……。

 

しかし、残念ながら、私たちのすべてが、彼らのそういうアドバイスに素直に従って、過酷だけれど実りも多い旅の世界に飛び込み、その世界にどっぷり浸かろうとするわけではありません。

 

ただ、それは、旅の先達者たちの親切心が伝わらなかった、ということではないと思います。メッセージというものがうまく伝わり、それが相手の心境や行動の変化につながるためには、さまざまな条件がピタッとかみ合う必要があるし、そういう適切なタイミングというのは、いつでもどこでも転がっているわけではないし、誰にでも同じようにやってくるわけでもありません。

 

そして、それはそれで仕方ないというか、この世界というのは、そういうふうにできているのでしょう。

 

それに、旅の達人たちだって、別に、すべての人たちが彼らと同じように旅にのめり込むことなんて期待していないと思います。

 

彼らはただ、旅というものには、人生を賭けるに値する何かがあるかもしれないよ、というヒントを、言葉以上に、自分たちの行動それ自体で雄弁に示してくれているだけだし、それは、他の分野のマスターたちにしても同じことなのだと思います。

 

この世界では、そうしたヒントやさりげない誘いが、あちこちにバラ撒かれたり、仕掛けられたりしているわけですが、それらにどう反応するかは、あくまでも私たち自身に任されているし、その自由さこそが、この世の面白さの一つの理由でもあるのでしょう。

 

 

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地図アプリと日常のささやかな冒険

いま、日本では、かなり多くの人が常にスマホを持ち歩いています。Googleマップなどの地図アプリを入れて、ふだんから活用している人も多いでしょう。

 

そういう人たちは、不注意でバッテリー切れにでもならない限り、どこかで道に迷っても、地図アプリさえ開けば、すぐに行きたいところや戻りたい場所まで案内してもらえるわけで、知らない街に行っても、途方に暮れるようなことはまず起きないのではないでしょうか。

 

まあ、金持ちであれば、昔も今も、いつでもタクシーを呼べば済む話なのでしょうが、そんな経済的余裕がない私たちでも、無料の地図アプリを使うだけで、同じくらいの安心感が得られるようになった、と言えるかもしれません。

 

それは、逆に考えれば、あえて道に迷うくらいの無茶をしても、いつでも簡単にリカバーできる、つまり、迷子になったり、誰かの手を煩わせたりするのを心配せずに、ささやかな街歩きの冒険にチャレンジできる、ということでもあります。

 

例えば、仕事や買い物などの用事で見知らぬ街にやってきて、30分とか1時間とか、ちょっとした時間の余裕があるとき、私たちはその気になれば、目的地など何も決めず、行き当たりばったりに好きなように散歩してみることができます。

 

後先のことを考えず、面白そうなものを探しながら気の向くままにあちこち歩き、飽きたり疲れたり、時間がなくなってきたと思ったら、その時点で初めて地図アプリを開いて、バス停や鉄道駅までナビしてもらえばいいのです。また、途中で何か気になるものを見かけたら、地図と照らし合わせてそれが何かを確認したり、必要ならさらに詳しい情報を検索することもできます。

 

昔だったら、そういう遊びを楽しめるのは、旅慣れた人とか、散歩の達人みたいな人に限られていたでしょう。

 

ごく普通の人にとっては、地図アプリなどのツールに頼らず、限られた時間の中で、知らない場所を自由に歩き回り、迷わずに出発地点に戻ったり、目的地に移動したりするのは、けっこう難易度が高いからです。

 

それをうまくやろうとすれば、とにかく道に迷わないように、そして、迷ってもきちんと元の場所に戻れるように、スタート地点からの経路を正確に頭の中に記憶していったり、道を曲がるたびに頭の中の地図と照らし合わせて自分が進んでいる方角を確認したり、目立つランドマークをつねに視野の片隅に入れておいたりと、いろいろ注意するべきことは多いし、それらのすべてを同時並行でほとんど無意識のうちに行えるくらいの慣れも必要でしょう。

 

でも、地図アプリさえあれば、そういうことは一切気にせず、ただ散歩の楽しみだけに専念すればいいのです。

 

まあ、海外の大きな街だと、かなり治安の悪いエリアがあったりして、まったく予備知識なしに歩き回るのは危険なこともありますが、日本なら、そういう心配はほとんどないでしょう。

 

つまり、誰にも迷惑をかけず、迷子になる不安も忘れて、子供のように純粋に、好奇心の赴くままに街歩きを楽しむための信頼できるサポート役として、地図アプリがかなり役に立ってくれるのではないでしょうか。

 

でも、それだけの心強い味方が常にそばにいるにもかかわらず、私たちはなかなかそういう遊びに手を出したりはしないものです。

 

これはあくまでも私の想像に過ぎず、断言はできないのですが、ほとんどの人は、目的地までの最短ルートを知るために地図アプリを使うだけだろうし、それは、旅行先でも基本的には同じなのではないかという気がします。

 

現代人はとにかく忙しいので、たとえ観光で知らない街にやってきたとしても、行きたい場所まで、最短時間で効率よくたどり着くのを優先しがちだろうし、自分が方向音痴だと思っている人なら、たとえアプリを使っていても、いつの間にかルートから外れてしまうのが怖くて、つねに画面をチェックしながら歩くことも多いのではないでしょうか。

 

私たちには別に、行きたいところまで最短ルートで直行する義務はないし、地図アプリの画面をずっと見ている義務もありません。そういう便利なアプリを使うのは、本当に切羽詰まった場合だけにしておいて、それ以外は、もっとのびのびと、好きなように街歩きを楽しんでもいいはずです。そして実際、私たちが自分でそうすることを選びさえすれば、ほとんどノーリスクで、ささやかな街歩きの冒険をいくらでも楽しめる環境がすでに実現しているのですが……。

 

もしかすると、私たちは、歳を重ねるにしたがって、自分の好奇心の赴くまま、好き勝手にあちこちを歩き回るような自由を楽しめなくなってしまっているのかもしれません。

 

自分がまだ無力な子供だったころ、道に迷ったり親からはぐれたりして、恐怖や不安でたまらない思いをしたり、親やまわりの人に心配や迷惑をかけたりするたびに、そのネガティブな経験が深く強く心に刻まれ、もうそんな思いをしなくても済むように、どこかへ出かけるときには、道草を食わずにまっすぐ目的地に向かい、引率する人がいるなら常にそういう人のそばにいて、絶対に目を離したりしないよう、自分をガッチリと習慣づけてきた、という人は、けっこう多いのではないでしょうか。

 

だから、大人になり、いくらでも好きに動ける自由を手に入れたはずなのに、いざとなると、これまでのイヤな記憶や当時の不安がよみがえってきて、なかなかその先へ進むことができなかったりするのかもしれません。

 

それに加えて、私たちがちょっとした冒険に踏み出さないのは、身近なところにいくらでも転がっている面白い体験への入り口が、それほど多くの人に知られたり、気づかれたりしていないから、という理由もあるような気がします。

 

最近では、社会全体が大きく変化し、これまでになかった便利な道具や新しいサービスがものすごい勢いで増え続けていて、すべてを把握し切れないうえに、私たちの生活も忙しすぎて、周囲に目を向けたり、新しいことを試してみる余裕がないので、身近なところにせっかく面白いものがあっても、それらをなかなか自分の生活に取り入れられない、ということなのかもしれません。

 

例えば、地図アプリにしても、目的地までのルートを表示させるみたいな、ごく基本的な使い方を知っている人は多くても、他にどんな便利な機能があるのか、実際にいろいろ試したことがないのでよく分からないし、あえて不慣れなことをして、見知らぬ土地で立ち往生するのも嫌なので、使い慣れた基本的な機能だけ使っていれば十分だと考えてしまいがちなのだと思います。

 

でも、時間のあるときに、さまざまな機能を一通り試しておけば、いざというときでも、それらを使って何ができるか、どのくらい頼りになりそうか、冷静な判断ができるだろうし、ふだんでも、ちょっとしたきっかけで、アプリの機能を生かした自分なりの遊びを思いつくかもしれません。

 

理由はともあれ、私たちは、安心安全で平穏な日常を何となく優先してしまいがちですが、ときには、そのやり方を少しだけ変えてみるのも面白いのではないでしょうか。

 

もちろん、特に理由もないのに、わざわざ危険ギリギリのところを攻めて生きる必要なんて全くありませんが、私たちが暮らしている日常の世界にも、ちょっとした未知の世界への入り口はけっこうあるし、そういう入り口からチラチラと姿を見せている向こう側の世界を、たまには覗いてみたくなるのも人情というものです。

 

少なくとも、現代のテクノロジーをもってすれば、迷子になるくらいのささやかな失敗なら、ほとんど何の問題もなくリカバーできてしまうのだから、たまには向こう側に足を踏み入れて、ちょっとした非日常を味わってみるのもいいと思います。

 

私たちには今、どれだけ無茶な要求をしても人間のように怒ったりせず、いくらでも根気よく付き合ってくれる、スマホという優しくて忠実な執事がいつも一緒にいるのですから。

 

もっとも、かりに迷子になっても、本人が不安に思わず、誰にも迷惑をかけず、しかも簡単にリカバーできるなら、それはもう、迷子とは言わないのかもしれませんが……。
 

 

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日常が旅に変わるとき

悲しいことに、昔も今も、テロや紛争のニュースが世界で絶えることはないし、そこに日本人が巻き込まれることもゼロではありません。

 

ただ、そうした悲惨な事件に注目するだけでなく、世界全体で起きていることを統計データなどを通して見てみると、海外への旅は少しずつ安全で快適なものになっているようです。
記事 危険なイメージと実際の危険

 

もちろん、荷物の紛失や盗難、交通機関の遅延、手続きミスなど、大小さまざまなトラブルに巻き込まれ、旅で不愉快な思いをすることはまだまだあります。

 

それでも、多くの日本人にとって、海外旅行はもはや特別な体験ではなくなったし、最近では、まるで日常生活の延長のような、ごく気楽な気持ちで出国する人も増えつつあるのではないでしょうか。

 

しかし、本人がどう感じているかはともかく、実際の旅が、やはり非日常の出来事であることに変わりはありません。

 

まず何よりも、自分がいる場所が、ふだんとは全く違います。気候や街並みや、社会ルールなどの環境も違います。まわりは見知らぬ人間ばかりで人間関係が違うし、現地では時間の流れ方が違うし、当然、頭の中を流れる思考もいつもとは全く違ってきます。

 

それは、たとえ表面的には、ありがちな観光名所を訪ね、ありがちな名物料理を食べ、ありがちなおみやげを物色するような、ごく平凡な旅だったとしても、そこで起きていることは、やはり日常とは全く異なる出来事なのです。

 

だからそれは、記憶にほとんど残らないような、どれだけ印象の薄い旅であっても、確実に何らかのインパクトを本人の心身に及ぼしているはずです。

 

ただ、そのインパクトが本人の記憶にすら残らないなら、わざわざカネや時間をかけたり、しんどい思いをしてまで旅に出る意味がないではないか、と思う人もいるはずで、それはたしかにその通りだと思います。

 

結局のところ、非日常的な体験が本人にはっきりと自覚でき、かつ、それがポジティブな経験だった場合にだけ、旅人はそれを面白いと感じ、またいつか旅に出ようと思うのでしょう。

 

それはともかく、どんな旅も非日常である、という点を突き詰めていくと、逆に、非日常感のある体験ができさえすれば、それは旅と同じようなインパクトを本人にもたらすし、その作用をうまく活用すれば、わざわざ遠くに行ったり、カネをかけてめずらしいものを見たりしなくても、まるでいい旅をしたかのような精神的な満足感を味わえるということになります。

 

それに、そうした非日常体験への入り口は、平凡な日常の中にもけっこう潜んでいるのではないでしょうか。少なくとも理屈の上では、日常生活の範囲からはみ出した物事は、すべて非日常ということになるはずなので。

 

とはいえ、いくら非日常であっても、すでに何度か経験しておなじみのこととか、まだ経験していなくても、頭の中の知識だけで簡単に想像がつきそうなことは、あまり劇的な体験はもたらさないだろうし、あるいは、全く興味のない分野のことは、何が起きてもどうでもいいだろうから、本人がそれを経験する意味もないでしょう。

 

だとすると、本人にそれなりのインパクトをもたらす非日常体験というのは、かなり限られた興味の範囲内の、しかも意外性のある出来事に絞られてしまうということになります。

 

まあ、それは当然といえば当然の話で、平凡な日常の中で、自分を揺るがすような体験をするのがそう簡単ではないからこそ、人はエンターテインメントで退屈をしのごうとしたり、ここではないどこか遠くに行けば、何かが見つかると信じて旅に出たりするのかもしれません。

 

それでも、あえて日常の範囲内で、自分にそれなりのインパクトを与えるようなことを体験したいのなら、これまでの人生で自分が築き上げてきた価値観からかけ離れたり、正反対になるようなことを、わざとやってみるという手があります。

 

例えば、今までに買って後悔し、もう絶対に着ないつもりだったのに、何となく捨てられずにいた服だけをあえて着て外出してみるとか、雰囲気が自分の趣味に全く合わず、いままで一度も入ったことのない近所の飲食店に足を踏み入れてみるとか……。

 

どれも、たいしたことのない行為なのですが、いざやってみようとすれば、心の中の抵抗を乗り越えるために相当のエネルギーが必要になるのではないでしょうか。こんなことを書いておいて何ですが、私自身もあえてやってみようとは思いません。

 

ただ、心の中の抵抗が大きければ大きいほど、もしもそれを実現すれば、ものすごい非日常感を感じるのは間違いないと思います。

 

もちろん、非日常感を味わいたいからといって、自分や他人に害を及ぼすようなことはやるべきではないし、楽しくないと分かり切っていることを、無理やり実行するのも気が進まないでしょうが、一方で、私たちがふだんの生活において、安全運転を心がけるあまり、必要以上に選択肢を限定したり、視野を狭めてしまっているのも否定できないのではないでしょうか。

 

そういう生活をずっと続けることでいつの間にか失われてしまった、子供のように柔軟な感受性を少しだけ取り戻し、日常に活気を取り戻すためにも、慣れ切ったぬるま湯の生活にあえて揺さぶりをかけてみる価値はあると思います。

 

そのためには、自分自身にはめてしまった思考と行動の枠を、一時的にでも取り外してみる必要があります。

 

ふだんなら、「バカバカしい」の一言で却下するようなアイデアが頭に浮かんでも、そのアイデアがふくらんでいくのをあえて自分に許し、そういうことを何度かやってみるうちに、心がちょっとワクワクするもの、何か新鮮で楽しいことが起きそうな期待で心が浮き立つものが見つかったら、たまにはそれを実行してみるのはどうでしょうか。

 

例えば、先ほどの例よりも、もう少し現実的な思いつきを挙げるなら、もしも自分が、会社からいつもまっすぐ家に帰るタイプの人間なら、仕事の帰りに、今まで一度も降りたことのない駅で下車して、地図を見ずに、何か面白そうなものがないか、周辺をしばらくウロウロ歩いてみるというのはどうでしょう。

 

あるいは、休日の食料や日用品の買い出しで、常に時間に追われ、脇目もふらずにいつもの品を一通り買い込んで終わり、みたいな感じになっているなら、たまには一時間くらいの余分な時間を何とか捻出して、行きつけのスーパーの中をぶらぶらと歩いて、いつもなら足早に通り過ぎるコーナーの商品をゆっくり眺めてみたり、生まれて一度も食べたことのないものを買ってみる、というのもいいかもしれません。

 

それに、自分でいろいろと頑張ってみるまでもなく、ふだんなら自分の趣味に合わず、適当な理由をつけて断ってしまうような、友人・知人からの誘いに、何回かに一回くらいはそのまま乗っかってみる、という手もあると思います。

 

そうした行為は、日常的な自分の行動パターンには反しているので、行動に移すのに多少の躊躇はあるだろうし、その割には、非日常体験としてのインパクトはそれほど大きくないかもしれませんが、カネも時間もそれほど費やすわけではないし、本人がその気にさえなれば、事前の準備なしに、すぐ実行できるのではないでしょうか。

 

こうした、いつもとはちょっと違う行動は、摩擦なく、効率よく回っている日常生活を少し乱すことになるだろうし、何だか自分がバカになったように感じることすらあるでしょう。しかし、そういう違和感こそ、それらが日常を揺さぶり、刺激と変化をもたらしている証拠だと解釈できるかもしれません。

 

もしかすると、高いカネを払ってゴージャスな旅行に出かけるよりも、近所の変な店に生まれて初めて入ってみることのほうが、ずっと勇気のいる「冒険」だったりするし、実際にそういうささやかな挑戦をしてみると、自分の日常生活を作り上げているものの多くが、単なる惰性と、根拠のない思い込みに過ぎなかったりすることに気づくこともあるのではないでしょうか。そして、ときには、自分が思いもしなかったような新しい可能性が、そこから開けていくこともあるかもしれません。

 

そうやって、自分にとっての非日常、つまり、自分にとっての未知の世界が、日常生活のどのあたりに潜んでいるかをつねに頭の片隅で意識しつつ、そういう非日常を無理なく体験し、それを楽しむ工夫ができるようになれば、その人はたとえ遠くに出かけたりしなくても、旅を楽しんでいると言えるのかもしれません。

 

 

記事 日常の非日常化と非日常の日常化

 

 

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at 20:01, 浪人, 地上の旅〜旅全般

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