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地図アプリと日常のささやかな冒険

いま、日本では、かなり多くの人が常にスマホを持ち歩いています。Googleマップなどの地図アプリを入れて、ふだんから活用している人も多いでしょう。

 

そういう人たちは、不注意でバッテリー切れにでもならない限り、どこかで道に迷っても、地図アプリさえ開けば、すぐに行きたいところや戻りたい場所まで案内してもらえるわけで、知らない街に行っても、途方に暮れるようなことはまず起きないのではないでしょうか。

 

まあ、金持ちであれば、昔も今も、いつでもタクシーを呼べば済む話なのでしょうが、そんな経済的余裕がない私たちでも、無料の地図アプリを使うだけで、同じくらいの安心感が得られるようになった、と言えるかもしれません。

 

それは、逆に考えれば、あえて道に迷うくらいの無茶をしても、いつでも簡単にリカバーできる、つまり、迷子になったり、誰かの手を煩わせたりするのを心配せずに、ささやかな街歩きの冒険にチャレンジできる、ということでもあります。

 

例えば、仕事や買い物などの用事で見知らぬ街にやってきて、30分とか1時間とか、ちょっとした時間の余裕があるとき、私たちはその気になれば、目的地など何も決めず、行き当たりばったりに好きなように散歩してみることができます。

 

後先のことを考えず、面白そうなものを探しながら気の向くままにあちこち歩き、飽きたり疲れたり、時間がなくなってきたと思ったら、その時点で初めて地図アプリを開いて、バス停や鉄道駅までナビしてもらえばいいのです。また、途中で何か気になるものを見かけたら、地図と照らし合わせてそれが何かを確認したり、必要ならさらに詳しい情報を検索することもできます。

 

昔だったら、そういう遊びを楽しめるのは、旅慣れた人とか、散歩の達人みたいな人に限られていたでしょう。

 

ごく普通の人にとっては、地図アプリなどのツールに頼らず、限られた時間の中で、知らない場所を自由に歩き回り、迷わずに出発地点に戻ったり、目的地に移動したりするのは、けっこう難易度が高いからです。

 

それをうまくやろうとすれば、とにかく道に迷わないように、そして、迷ってもきちんと元の場所に戻れるように、スタート地点からの経路を正確に頭の中に記憶していったり、道を曲がるたびに頭の中の地図と照らし合わせて自分が進んでいる方角を確認したり、目立つランドマークをつねに視野の片隅に入れておいたりと、いろいろ注意するべきことは多いし、それらのすべてを同時並行でほとんど無意識のうちに行えるくらいの慣れも必要でしょう。

 

でも、地図アプリさえあれば、そういうことは一切気にせず、ただ散歩の楽しみだけに専念すればいいのです。

 

まあ、海外の大きな街だと、かなり治安の悪いエリアがあったりして、まったく予備知識なしに歩き回るのは危険なこともありますが、日本なら、そういう心配はほとんどないでしょう。

 

つまり、誰にも迷惑をかけず、迷子になる不安も忘れて、子供のように純粋に、好奇心の赴くままに街歩きを楽しむための信頼できるサポート役として、地図アプリがかなり役に立ってくれるのではないでしょうか。

 

でも、それだけの心強い味方が常にそばにいるにもかかわらず、私たちはなかなかそういう遊びに手を出したりはしないものです。

 

これはあくまでも私の想像に過ぎず、断言はできないのですが、ほとんどの人は、目的地までの最短ルートを知るために地図アプリを使うだけだろうし、それは、旅行先でも基本的には同じなのではないかという気がします。

 

現代人はとにかく忙しいので、たとえ観光で知らない街にやってきたとしても、行きたい場所まで、最短時間で効率よくたどり着くのを優先しがちだろうし、自分が方向音痴だと思っている人なら、たとえアプリを使っていても、いつの間にかルートから外れてしまうのが怖くて、つねに画面をチェックしながら歩くことも多いのではないでしょうか。

 

私たちには別に、行きたいところまで最短ルートで直行する義務はないし、地図アプリの画面をずっと見ている義務もありません。そういう便利なアプリを使うのは、本当に切羽詰まった場合だけにしておいて、それ以外は、もっとのびのびと、好きなように街歩きを楽しんでもいいはずです。そして実際、私たちが自分でそうすることを選びさえすれば、ほとんどノーリスクで、ささやかな街歩きの冒険をいくらでも楽しめる環境がすでに実現しているのですが……。

 

もしかすると、私たちは、歳を重ねるにしたがって、自分の好奇心の赴くまま、好き勝手にあちこちを歩き回るような自由を楽しめなくなってしまっているのかもしれません。

 

自分がまだ無力な子供だったころ、道に迷ったり親からはぐれたりして、恐怖や不安でたまらない思いをしたり、親やまわりの人に心配や迷惑をかけたりするたびに、そのネガティブな経験が深く強く心に刻まれ、もうそんな思いをしなくても済むように、どこかへ出かけるときには、道草を食わずにまっすぐ目的地に向かい、引率する人がいるなら常にそういう人のそばにいて、絶対に目を離したりしないよう、自分をガッチリと習慣づけてきた、という人は、けっこう多いのではないでしょうか。

 

だから、大人になり、いくらでも好きに動ける自由を手に入れたはずなのに、いざとなると、これまでのイヤな記憶や当時の不安がよみがえってきて、なかなかその先へ進むことができなかったりするのかもしれません。

 

それに加えて、私たちがちょっとした冒険に踏み出さないのは、身近なところにいくらでも転がっている面白い体験への入り口が、それほど多くの人に知られたり、気づかれたりしていないから、という理由もあるような気がします。

 

最近では、社会全体が大きく変化し、これまでになかった便利な道具や新しいサービスがものすごい勢いで増え続けていて、すべてを把握し切れないうえに、私たちの生活も忙しすぎて、周囲に目を向けたり、新しいことを試してみる余裕がないので、身近なところにせっかく面白いものがあっても、それらをなかなか自分の生活に取り入れられない、ということなのかもしれません。

 

例えば、地図アプリにしても、目的地までのルートを表示させるみたいな、ごく基本的な使い方を知っている人は多くても、他にどんな便利な機能があるのか、実際にいろいろ試したことがないのでよく分からないし、あえて不慣れなことをして、見知らぬ土地で立ち往生するのも嫌なので、使い慣れた基本的な機能だけ使っていれば十分だと考えてしまいがちなのだと思います。

 

でも、時間のあるときに、さまざまな機能を一通り試しておけば、いざというときでも、それらを使って何ができるか、どのくらい頼りになりそうか、冷静な判断ができるだろうし、ふだんでも、ちょっとしたきっかけで、アプリの機能を生かした自分なりの遊びを思いつくかもしれません。

 

理由はともあれ、私たちは、安心安全で平穏な日常を何となく優先してしまいがちですが、ときには、そのやり方を少しだけ変えてみるのも面白いのではないでしょうか。

 

もちろん、特に理由もないのに、わざわざ危険ギリギリのところを攻めて生きる必要なんて全くありませんが、私たちが暮らしている日常の世界にも、ちょっとした未知の世界への入り口はけっこうあるし、そういう入り口からチラチラと姿を見せている向こう側の世界を、たまには覗いてみたくなるのも人情というものです。

 

少なくとも、現代のテクノロジーをもってすれば、迷子になるくらいのささやかな失敗なら、ほとんど何の問題もなくリカバーできてしまうのだから、たまには向こう側に足を踏み入れて、ちょっとした非日常を味わってみるのもいいと思います。

 

私たちには今、どれだけ無茶な要求をしても人間のように怒ったりせず、いくらでも根気よく付き合ってくれる、スマホという優しくて忠実な執事がいつも一緒にいるのですから。

 

もっとも、かりに迷子になっても、本人が不安に思わず、誰にも迷惑をかけず、しかも簡単にリカバーできるなら、それはもう、迷子とは言わないのかもしれませんが……。
 

 

JUGEMテーマ:旅行

at 19:53, 浪人, 地上の旅〜旅全般

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日常が旅に変わるとき

悲しいことに、昔も今も、テロや紛争のニュースが世界で絶えることはないし、そこに日本人が巻き込まれることもゼロではありません。

 

ただ、そうした悲惨な事件に注目するだけでなく、世界全体で起きていることを統計データなどを通して見てみると、海外への旅は少しずつ安全で快適なものになっているようです。
記事 危険なイメージと実際の危険

 

もちろん、荷物の紛失や盗難、交通機関の遅延、手続きミスなど、大小さまざまなトラブルに巻き込まれ、旅で不愉快な思いをすることはまだまだあります。

 

それでも、多くの日本人にとって、海外旅行はもはや特別な体験ではなくなったし、最近では、まるで日常生活の延長のような、ごく気楽な気持ちで出国する人も増えつつあるのではないでしょうか。

 

しかし、本人がどう感じているかはともかく、実際の旅が、やはり非日常の出来事であることに変わりはありません。

 

まず何よりも、自分がいる場所が、ふだんとは全く違います。気候や街並みや、社会ルールなどの環境も違います。まわりは見知らぬ人間ばかりで人間関係が違うし、現地では時間の流れ方が違うし、当然、頭の中を流れる思考もいつもとは全く違ってきます。

 

それは、たとえ表面的には、ありがちな観光名所を訪ね、ありがちな名物料理を食べ、ありがちなおみやげを物色するような、ごく平凡な旅だったとしても、そこで起きていることは、やはり日常とは全く異なる出来事なのです。

 

だからそれは、記憶にほとんど残らないような、どれだけ印象の薄い旅であっても、確実に何らかのインパクトを本人の心身に及ぼしているはずです。

 

ただ、そのインパクトが本人の記憶にすら残らないなら、わざわざカネや時間をかけたり、しんどい思いをしてまで旅に出る意味がないではないか、と思う人もいるはずで、それはたしかにその通りだと思います。

 

結局のところ、非日常的な体験が本人にはっきりと自覚でき、かつ、それがポジティブな経験だった場合にだけ、旅人はそれを面白いと感じ、またいつか旅に出ようと思うのでしょう。

 

それはともかく、どんな旅も非日常である、という点を突き詰めていくと、逆に、非日常感のある体験ができさえすれば、それは旅と同じようなインパクトを本人にもたらすし、その作用をうまく活用すれば、わざわざ遠くに行ったり、カネをかけてめずらしいものを見たりしなくても、まるでいい旅をしたかのような精神的な満足感を味わえるということになります。

 

それに、そうした非日常体験への入り口は、平凡な日常の中にもけっこう潜んでいるのではないでしょうか。少なくとも理屈の上では、日常生活の範囲からはみ出した物事は、すべて非日常ということになるはずなので。

 

とはいえ、いくら非日常であっても、すでに何度か経験しておなじみのこととか、まだ経験していなくても、頭の中の知識だけで簡単に想像がつきそうなことは、あまり劇的な体験はもたらさないだろうし、あるいは、全く興味のない分野のことは、何が起きてもどうでもいいだろうから、本人がそれを経験する意味もないでしょう。

 

だとすると、本人にそれなりのインパクトをもたらす非日常体験というのは、かなり限られた興味の範囲内の、しかも意外性のある出来事に絞られてしまうということになります。

 

まあ、それは当然といえば当然の話で、平凡な日常の中で、自分を揺るがすような体験をするのがそう簡単ではないからこそ、人はエンターテインメントで退屈をしのごうとしたり、ここではないどこか遠くに行けば、何かが見つかると信じて旅に出たりするのかもしれません。

 

それでも、あえて日常の範囲内で、自分にそれなりのインパクトを与えるようなことを体験したいのなら、これまでの人生で自分が築き上げてきた価値観からかけ離れたり、正反対になるようなことを、わざとやってみるという手があります。

 

例えば、今までに買って後悔し、もう絶対に着ないつもりだったのに、何となく捨てられずにいた服だけをあえて着て外出してみるとか、雰囲気が自分の趣味に全く合わず、いままで一度も入ったことのない近所の飲食店に足を踏み入れてみるとか……。

 

どれも、たいしたことのない行為なのですが、いざやってみようとすれば、心の中の抵抗を乗り越えるために相当のエネルギーが必要になるのではないでしょうか。こんなことを書いておいて何ですが、私自身もあえてやってみようとは思いません。

 

ただ、心の中の抵抗が大きければ大きいほど、もしもそれを実現すれば、ものすごい非日常感を感じるのは間違いないと思います。

 

もちろん、非日常感を味わいたいからといって、自分や他人に害を及ぼすようなことはやるべきではないし、楽しくないと分かり切っていることを、無理やり実行するのも気が進まないでしょうが、一方で、私たちがふだんの生活において、安全運転を心がけるあまり、必要以上に選択肢を限定したり、視野を狭めてしまっているのも否定できないのではないでしょうか。

 

そういう生活をずっと続けることでいつの間にか失われてしまった、子供のように柔軟な感受性を少しだけ取り戻し、日常に活気を取り戻すためにも、慣れ切ったぬるま湯の生活にあえて揺さぶりをかけてみる価値はあると思います。

 

そのためには、自分自身にはめてしまった思考と行動の枠を、一時的にでも取り外してみる必要があります。

 

ふだんなら、「バカバカしい」の一言で却下するようなアイデアが頭に浮かんでも、そのアイデアがふくらんでいくのをあえて自分に許し、そういうことを何度かやってみるうちに、心がちょっとワクワクするもの、何か新鮮で楽しいことが起きそうな期待で心が浮き立つものが見つかったら、たまにはそれを実行してみるのはどうでしょうか。

 

例えば、先ほどの例よりも、もう少し現実的な思いつきを挙げるなら、もしも自分が、会社からいつもまっすぐ家に帰るタイプの人間なら、仕事の帰りに、今まで一度も降りたことのない駅で下車して、地図を見ずに、何か面白そうなものがないか、周辺をしばらくウロウロ歩いてみるというのはどうでしょう。

 

あるいは、休日の食料や日用品の買い出しで、常に時間に追われ、脇目もふらずにいつもの品を一通り買い込んで終わり、みたいな感じになっているなら、たまには一時間くらいの余分な時間を何とか捻出して、行きつけのスーパーの中をぶらぶらと歩いて、いつもなら足早に通り過ぎるコーナーの商品をゆっくり眺めてみたり、生まれて一度も食べたことのないものを買ってみる、というのもいいかもしれません。

 

それに、自分でいろいろと頑張ってみるまでもなく、ふだんなら自分の趣味に合わず、適当な理由をつけて断ってしまうような、友人・知人からの誘いに、何回かに一回くらいはそのまま乗っかってみる、という手もあると思います。

 

そうした行為は、日常的な自分の行動パターンには反しているので、行動に移すのに多少の躊躇はあるだろうし、その割には、非日常体験としてのインパクトはそれほど大きくないかもしれませんが、カネも時間もそれほど費やすわけではないし、本人がその気にさえなれば、事前の準備なしに、すぐ実行できるのではないでしょうか。

 

こうした、いつもとはちょっと違う行動は、摩擦なく、効率よく回っている日常生活を少し乱すことになるだろうし、何だか自分がバカになったように感じることすらあるでしょう。しかし、そういう違和感こそ、それらが日常を揺さぶり、刺激と変化をもたらしている証拠だと解釈できるかもしれません。

 

もしかすると、高いカネを払ってゴージャスな旅行に出かけるよりも、近所の変な店に生まれて初めて入ってみることのほうが、ずっと勇気のいる「冒険」だったりするし、実際にそういうささやかな挑戦をしてみると、自分の日常生活を作り上げているものの多くが、単なる惰性と、根拠のない思い込みに過ぎなかったりすることに気づくこともあるのではないでしょうか。そして、ときには、自分が思いもしなかったような新しい可能性が、そこから開けていくこともあるかもしれません。

 

そうやって、自分にとっての非日常、つまり、自分にとっての未知の世界が、日常生活のどのあたりに潜んでいるかをつねに頭の片隅で意識しつつ、そういう非日常を無理なく体験し、それを楽しむ工夫ができるようになれば、その人はたとえ遠くに出かけたりしなくても、旅を楽しんでいると言えるのかもしれません。

 

 

記事 日常の非日常化と非日常の日常化

 

 

JUGEMテーマ:旅行

at 20:01, 浪人, 地上の旅〜旅全般

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道行く人を撮れない時代

先日、ネットの片隅で、ある一連のツイートが話題になっていました。

 

見知らぬ人に自分の子供をいきなり撮影され、抗議しても、自分は怪しい人じゃないから大丈夫、という意味不明の言い訳をされるばかりで埒が明かなかった、という話です。

 

娘と電車に乗っていたら全く知らない老人に突然インスタントカメラで写真を撮られた…『勝手に撮るの止めてください』→全く話が通じなかった出来事 togetter
 

もちろん、ちょっとした都会であれば、こういうトラブルは日常茶飯事なのだから、いちいちそんなことに目くじらを立てていたらキリがない、という見方もあるのかもしれません。実際、この程度のことは、迷惑行為ではあっても、犯罪とまでは言えないようです。

 

しかし、今のようなネット時代に、正体不明の人間に写真を撮られることが、最悪の場合、どんな事態を招くかを考えれば、ツイートで怒りや不安をぶちまけた人の気持ちは理解できるし、自分の行為がどれだけ相手を苦しめているか、全く自覚していない撮影者の老人にも大いに問題があると思います。まあ、本人に自覚がない以上、周りが何を言っても、たぶんどうにもならないでしょうが……。

 

ただ、一方で、知らない人に写真を撮られるのが我慢できないという人は、現時点では、それほど多くはないのかもしれない、とも思います。ほとんどの人は、多少は不愉快に感じるでしょうが、かといって、相手に注意したりして事を荒立てたくもないので、結局はこちらが我慢して済ませてしまう、という感じなのではないでしょうか。

 

それでも、自分のプライバシーをしっかり守りたい、見知らぬ人間には絶対に写真を撮らせたくない、という人が、たとえ10人に1人、あるいは100人に1人であったとしても、そういう人たちの気分を強く害したり、深刻なトラブルに発展する可能性があるのだったら、私たちは、路上で人々の写真を撮ることには及び腰にならざるを得ないし、その傾向は、今後ますます強くなっていくのだろうと思います。

 

ここで、誤解のないように補足しておくと、だからといって、プライバシーに敏感な少数の人々が、それほど敏感ではない多数派の人たちにとって迷惑な存在になっている、ということでは全然ありません。

 

敏感な人たちだけでなく、そうではない人たちも、知らない人間にカメラを向けられれば、それなりに不快を覚えるだろうし、敏感な人たちが拒絶反応を示すのも理解できるはずです。つまり、多数派と少数派の違いは、それを我慢できるかできないかという、程度の問題にすぎないのではないでしょうか。それに、撮影する側にしても、もしも自分が撮られる側なら抵抗を感じる人は少なくないはずで、撮影する際には、どこかやましい気持ちや気後れを感じつつ、それでも自分の撮りたい写真のために勇気を出して相手の承諾を得るようにしている、という人もけっこういるのではないでしょうか。

 

そう考えると、敏感な人たちというのは、私たちが何となく不愉快に感じつつも、「寛容な大人」を演じて、あえてスルーしていることを、それはやっぱり不愉快だ、時代はすでに変わっていて、今の世の中で、知らない人にカメラを向けるのは明らかなマナー違反なのだと、私たちの代わりにハッキリと抗議してくれているのかもしれません。

 

今後、路上で人を撮ることへの風当たりはどんどん強くなっていくでしょうが、それは、今まで何の気兼ねもなしに行えたことがいきなりダメになる、ということではなくて、これまでも人々の寛容さに甘える形で何となくやってこれたことが、さすがに限界に達しつつある、ということでしかないのかもしれません。

 

そして、こういうプライバシーの感覚は、日本だけでなく、いわゆる先進国ならどこでも、さらには開発途上国にもどんどん広がりつつあるだろうし、その感覚の変化自体も、かなり急速に進んでいくのではないでしょうか。

 

今は、開発途上国でなら、道行く人にカメラを向けても、あまりやましさを感じなくて済むし、外国人だからということで、いろいろ大目に見てもらえると期待して、現地で人物写真を撮りまくっているという人もいるのかもしれませんが、今後数年もすれば、無許可でそういうことをするのは基本的にNG、という不文律が世界的に確立し、相手に許可を得ることさえも、かなり難しくなることは十分に考えられます。
記事 「写真が撮れない」症候群(2)

 

きっと、これから数年の間は、その移行期で、世界各地の街角で、撮影する人とされる人との間で、けっこう深刻なトラブルが数多く発生することになりそうだし、そういう日常的な摩擦とか、全国レベルの炎上事件みたいなものを通じて、開発途上国の人たちも、だんだんプライバシーの感覚に目覚めていくのでしょう。

 

ただし、そういう不文律は、通りすがりの、全く知らない人間同士にしか当てはまりません。

 

相手がたとえ見知らぬ人間であったとしても、その後、ちょっと会話を交わしたり、しばらく一緒の時間を過ごしたりして、どちらかが相手を知人や友人だと認定してしまうと、そのルールは無効になり、お互いにまだそれほど親しくなくても、相手から撮影されるのを断りづらい雰囲気になります。そしてそのために、いろいろとやっかいな問題が生じてきます。

 

例えば、海外旅行中、ちょっと親しくなった現地の人たちが、彼らのスマホでこちらを写真に撮るようなことはごく自然に起こり得るのですが、昔と違って、今では、その写真がSNSに投稿され、世界中に公開されることも覚悟しなければなりません。もちろん、友だち限定で公開するならOK、とか、こちらからいろいろと条件をつけることはできます。しかし、ほとんど言葉も通じない異国で、そういう細かい要求を、しかも相手の気分を害することなくうまく伝えるのは困難だし、たとえ正確に伝えられたとしても、相手がそれを尊重してくれるとは限りません。

 

でもまあ、その一方で、世界中の街角に設置されている無数の監視カメラは、24時間、私たちの映像を撮りまくっているし、そこで撮影された映像がどのように利用されているのかも、私たちはまったく知らされていないわけです。そういう意味では、私たちの顔がネット上に不用意にさらされないよう、自分の個人情報を必死に管理しようとしたところで、それは、ほとんどムダな抵抗にすぎないのかもしれません……。

 

それはともかく、あと数年もしたら、世界のどこに行っても、気軽に撮れるのは風景や動物だけ、という時代がやってくる可能性はあります。

 

一方で、そうした問題をテクノロジーが解決してしまう、という可能性もあるかもしれません。

 

すでに現時点で、人工知能が、実在しない人間のリアルな顔をいくらでも描き出すことができるようになっています。例えば、そうやって生み出された架空の人物像を、実際に撮られた街角の風景とうまく合成し、群衆の顔の一つひとつを架空のものに置き換えてしまうようなアプリも、そのうちに現れるのではないでしょうか。そして、撮影された瞬間にオリジナルの画像が破棄され、データとして残らないくらいにまで徹底されれば、撮影される側のプライバシーの問題はなくなってしまいます。
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もっとも、かりにそういうテクノロジーが普及するとしても、街行く人々の本当の姿をどうしても撮って残しておきたい、という人がいなくなることはないような気もします。ただ、そういう人は、写真を撮るたびに、人々の強い抵抗に遭うことになるだろうし、そこをあえて実行していく中で、自分がなぜそれをする必要があるのか、常に自分に問いかけずにはいられなくなるでしょう。

 

それは、相手にストレスを与えてまでやるべきことなのか、そうやって記録に残した写真によって、自分はいったい何がしたいのか、何を表現したいのか、そしてそれは、自分にとってどれだけの意味がある行為なのか……。

 

そういう重い問いを積み重ね、悩み続け、それでも自分の中に残る何かを持つ、ごくわずかな者だけが、路上でカメラを構える資格を手に入れるのかもしれません……。

 

 

JUGEMテーマ:旅行

at 19:31, 浪人, 地上の旅〜旅全般

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