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『スローな旅にしてくれ』
この本は、バックパッカー向けの専門誌『旅行人』の主宰者で、作家・グラフィックデザイナーの蔵前仁一氏による旅のエッセイです。
アジアやアフリカでの旅のエピソードをはじめ、旅先で出会ったユニークな旅行者や冒険家のこと、蔵前氏の旅の師匠「ウチュージン」との出会い、安宿でなぜか感じる解放感について、旅先での言葉の問題や持ち物の話、ガイドブック作りの難しさ、などなど、バックパッカーの旅をめぐるさまざまなテーマが取り上げられています。
この作品は、もともと単行本として出版された『沈没日記』(1996年)が、2003年に改題・加筆のうえ文庫化されたもので、そこに描かれているのは15年以上前の旅です。最近のグローバル化やアジアの経済発展、旅のスタイルの急激な変化などを考えると、もはや昔話になってしまった話題も多いのですが、逆に、1990年代前半の、東西冷戦が終わって間もない頃のバックパッカーの旅の雰囲気がよくわかります。
その頃は、旅先にネットカフェなどなく、安宿に集った旅人同士が、情報ノートなどで貴重な情報を共有しながら旅を続けていました。写真をよく撮る旅行者なら、(デジカメ普及前なので)重いフィルムの山を背負っていたし、旅人への連絡手段といえば郵便局留の手紙くらいで、開発途上国では、国際電話がつながったというだけで喜んでいた時代です。
私も、その頃の旅の雰囲気を知っているので、読んでいるととても懐かしいのですが、考えてみれば、このブログに私が書いた旅の体験も、同じようにどんどん昔話になりつつあるわけで、時の流れの速さ、特にここ十年ほどの変化の激しさを痛感します。
ただ、旅先の国々が大きく変貌し、旅のスタイルが急速に変わっていくとしても、旅を通じて一人ひとりの旅人が感じることや、その悩みといったものは、昔も今も、ほとんど変わっていないのかもしれません。
そういう意味では、こうしたちょっと昔の旅の本にも、表面的な情報の鮮度とは別の価値があるのではないでしょうか。
それにしても、この本を読んで改めて感じたのは、バックパッカーというのは、やっぱり、社会においては一種の少数民族みたいな存在なんだな、ということでした。
例えば、この作品の中でも、マスメディアを通じて繰り返される、アジアやアフリカに対するステレオタイプなイメージに疑問が投げかけられているのですが、そうしたメッセージが多くの人に伝わるかといえば、微妙なところかもしれません。
個人旅行者やバックパッカーは、別にマスコミの報道を検証するために海外を旅しているわけではないのですが、旅を続けていれば、いやでも現実とイメージとの差に気づくものです。
ただ、日本人全体に占めるバックパッカーの比率は、たぶん、ものすごく低いと思うので、彼らのあいだでは常識になっているようなことでも、世間の多くの人にはなかなか共有されないのかもしれません。
自分で現地を訪れ、実際の世界はマスメディアが伝えるイメージとは違うことを痛感するまでは、そもそも、それがステレオタイプだということ自体に気がつかないかもしれないし、気がつかなければ当然、それを問題だと思うこともないでしょう。
旅人たちが世界の片隅で日々目にし、体験していることは、私にはとても価値のあるものに思えるのですが、日本で忙しく働いている人々、あるいは年長者世代の多くに、そうした体験を伝える機会はなかなかないだろうし、むしろ、(この本にも実例が出てきますが)旅を続けていることがマイナスに評価され、いつまでもフラフラしているダメ人間だと説教されてしまったりします。
それもこれも、バックパッカーが社会における圧倒的少数派であるからなのかもしれません。しかも、昨今の若者の海外旅行離れによって、バックパッカーはますます日陰の存在になってしまいそうな感じです。
それでも、この本を読んでいると、蔵前氏が、そんな肩身の狭いバックパッカーの気持ちを代弁し、同じような問題に直面してきた一人の先輩として、それでも何とかなるもんだよと、優しく励ましてくれているような気がします。
本の評価基準
以下の基準を目安に、私の主観で判断しています。
★★★★★ 座右の書として、何度も読み返したい本です
★★★★☆ 一度は読んでおきたい、素晴らしい本です
★★★☆☆ 読むだけの価値はあります
★★☆☆☆ よかったら暇な時に読んでみてください
★☆☆☆☆ 人によっては得るところがあるかも?
☆☆☆☆☆ ここでは紹介しないことにします
JUGEMテーマ:読書
『サバイバル時代の海外旅行術』
一時期、マスコミの芸能ネタで世間をにぎわせた映像作家・DJの高城剛氏が、旅行術の本を書いていたことを知って、興味が湧き、ちょっと読んでみました。
高城氏がこれまでどんな仕事をしてきて、今は何をしているのか、ウィキペディアなどを見てもいまひとつよく分からないのですが、この本自体は、具体的な旅のアイデアやヒントに満ちた面白いものでした。
彼によれば、世界はいま、格安航空会社(LCC)の台頭などによって、世界の流動人口が爆発的に増え、遊びや仕事の場所や機会が大きく変容を遂げる、「ハイパーモビリティ」と呼ばれる状況を迎えつつあり、海外旅行のあり方も、ここ数年のあいだに大きく変わりつつあるようです。
高城氏はこの本の中で、欧米を中心に広がる新しい旅行スタイルを紹介しながら、日本で出版されている、旧態依然で「使えない」旅行ガイドブックに頼らず、インターネットを中心に自ら欲しい情報を集め、自分なりの旅行ガイドを組み立てることを提案し、また、最先端の情報端末を旅先で役立てるためのノウハウや、便利な旅行グッズやパッキング術など、具体的なアイデアを披露しています。
バックパック一つで世界のどこにでも気軽に出かけていくフットワークの良さに加えて、ネットと情報端末を駆使して、自分のしたい旅をスマートに実現し、ときには人気のレストランで美食も楽しむなど、バックパッカーの自由さと、旅先でクオリティの高い体験を楽しむ優雅さがミックスした、いわゆる「フラッシュパッカー」の具体的な姿がここにあります。
ウィキペディア 「バックパッカー」の「フラッシュパッキング」の項
また、彼は、機内持ち込み手荷物の制限内に収まるモノだけを厳選してパッキングし、世界を自由に移動しながら、同時にその手荷物の制約の中で、移動先のどこでも仕事ができる環境を構築する「トラベルオフィス」を実現し、普通の人にとっては非日常である旅を、日常と融合させることにも成功しているようです。
高城氏は、IT革命とグローバル化が生み出した果実、特に、場所の制約から解放された軽快な暮らしを、人に先んじて十分に味わっているといえるかもしれません。
フラッシュパッカーが用いる情報端末や周辺機器の進化は日進月歩なので、2009年の夏に出たこの本の情報はもう古くなりかけているのでしょうが、細かな最新情報はともかく、持ち物やパッキングのアイデア、トラブルを最小化するための「ダブルバックアップ」の考え方や、スマートフォンによる海外でのネット接続法など、ベースとなる部分についてはそのまま有効で、興味のある方ならかなり参考になるでしょう。
ただ、自分で情報を集め、自由な発想で旅を組み立てていくのは素晴らしい体験になるはずですが、そこに至るまでには、ある程度の旅の経験や、知識の蓄積、最新の情報を伝え合う仲間同士のネットワークも必要になるでしょう。
この本を読んで、彼のパッキング術や持ち物リストなど、「形」をマネすることならすぐにできても、その先の、ガイドブックに頼らない旅、自分らしい旅を常に創造していくプロセスを本当に楽しむためには、たぶん彼自身がそうであったように、長年にわたる試行錯誤が必要だと思います。
あと、これは個人的な趣味の問題になりますが、この本で紹介されているような、フラッシュパッカー的でスマートな旅のスタイルについては、ユニークだし、これからの旅の主流になる可能性が高いとも思うのですが、今の私は、世界のどこで最先端のおいしいディナーが食べられるか、とか、情報端末のGPSで見知らぬ都市を効率よく探索、みたいなことにはあまり興味をひかれません。
むしろ、高城氏の実現している「トラベルオフィス」の考え方、旅と生活を融合させ、これまでのような定住型ではない、新しいライフスタイルを実践する試みの方に、より一層の興味を覚えます。
ところで、彼は、マスコミからはあまりいい扱いを受けていない印象があるのですが、そこには、移動型のライフスタイルを打ち立てた人間を、定住型の人間が見たときの思い込みとか理解不能なところが、多分に影響しているのではないかという気がします。
日本人の多くは、今でも地域のコミュニティや会社などの共同体に属し、同じところに何年、何十年も住んで、なじみ深い人々との濃密な人間関係を保って暮らしていると思いますが、そうした定住型の人間から見た場合、高城氏は、ふだんはどこにいるのか分からないのに、あるときふっと視界に入り、すぐにまたどこかへ消えていく、まるで彗星みたいな存在だろうし、世界各地を転々としつつ、あれこれと何かよく分からない仕事をして、なぜかそれなりに食っているという、かなり怪しげな人物として目に映るのかもしれません。
まあ、移動型の生活に憧れ、彼の実現した「トラベルオフィス」をうらやましく思う私でさえ、彼がいったい何をしている人なのか、いまだによく分からないわけですが……。
高城氏のようなタイプの人間は、現在も、そして近い将来も、やはり社会の中の圧倒的な少数派で、あのフーテンの寅さんがそうだったように、定住型の人間の世界にときどきふらりと現れては、そこに波乱を巻き起こし、彼らの生活を活性化するものの、その役目が終われば、すぐに放り出されてしまうような存在なのかもしれません……。
本の評価基準
以下の基準を目安に、私の主観で判断しています。
★★★★★ 座右の書として、何度も読み返したい本です
★★★★☆ 一度は読んでおきたい、素晴らしい本です
★★★☆☆ 読むだけの価値はあります
★★☆☆☆ よかったら暇な時に読んでみてください
★☆☆☆☆ 人によっては得るところがあるかも?
☆☆☆☆☆ ここでは紹介しないことにします
JUGEMテーマ:読書
『奇跡の生還へ導く人 ― 極限状況の「サードマン現象」』
評価 ★★★☆☆ 読むだけの価値はあります
サードマン現象とは、極地や高山などの過酷な環境で、しかも生還を期しがたいような絶望的な状況に追い込まれた人間が、(多くの場合目に見えない)何者かが自分のそばにいる気配を強烈に感じるという現象です。体験者は、その「存在」に守られ導かれているような安心や希望を感じ、それが彼らに状況を切り抜けるための努力を続けさせ、結果的に、奇跡的な生還を果たすことがあるのです。
もちろん、その現象は誰にでも起きるわけではなく、また、それを体験したからといって、必ず生還できるというわけでもないようですが……。
ちなみに、サードマンという言葉そのものは、T・S・エリオットの有名な『荒地』という詩の中の、
いつもきみのそばを歩いている第三の人は誰だ?
数えてみると、きみとぼくしかいない
けれど白い道の先を見ると
いつもきみのそばを歩くもう一人がいる
という一節からきています。そして、この詩は、1916年、探検家シャクルトンの一行が南極周辺の海域で遭難し、残された小舟でサウスジョージア島へと脱出する壮絶な旅の途中、目に見えない何者かが一緒にいたという有名な体験談にインスピレーションを得たとされています。
この本には、登山家、極地探検家を始め、単独航海家や海難事故の生存者、戦争捕虜やテロ事件の生還者、ダイバー、パイロット、さらには宇宙飛行士まで、さまざまな状況でサードマン現象を体験した人々の事例が収められています。
どれも悲惨で壮絶な話で、事例を読むだけで圧倒されます。そして、どんな状況でも希望を失わず、ひたすら生き続けようとする彼らの姿と、その強い意志が可能にした奇跡の生還劇を読んでいると、心が熱くなってきます。
著者のジョン・ガイガー氏は、こうした事例をまとめる一方で、サードマン現象の要因についてさまざまな側面から考察し、それがどうして起きるのか、その謎を解き明かそうとしています。この本を、その謎解きのプロセスとして楽しもうという方にとっては、以下の記述はネタバレになりますのでご注意ください。
サードマン現象は、かつては、神や守護天使がさしのべる救いとして受け止められることも多かったのですが、現在では逆に、それを人間の生理的・心理的機構が生み出した幻だと見なしがちな傾向があります。
例えば、多くの科学者はそれを、激しい体力消耗や環境の単調さによって引き起こされる感覚上の幻影や幻覚、あるいは、食糧不足による血中グルコース濃度の低下や、高所脳浮腫、低温ストレスなどの症状として説明しようとします。
しかし、ガイガー氏は、サードマン現象にはそれ以上のものがあるとして、さらなる探求を続けます。科学者の言うように、それが単に心身の不調による幻覚だとするなら、それが体験者の心の支えとなり、冷静で的確な努力を続けさせる理由を説明できないからです。
実は、サードマンに似た「存在」の現象は、アメリカ先住民やアジア・アフリカの伝統的な通過儀礼の中に、また、孤独やストレスにさらされた子供の多くが体験する見えない遊び相手、あるいは、愛する人を失った直後に遺族が感じる死者の強い気配など、雪山や極地にかぎらず、私たちの日常生活の中にも見られるのです。
そのように、この現象をもっと広い視野でとらえたとき、それは、極端な環境や特殊な人々だけに特有なものであるというよりはむしろ、個人では対処しきれないほどの激しいストレスにさらされた人間が、ある程度共通して経験するプロセスの、一つの表れなのではないかという感じがしてきます。
ガイガー氏は、サードマン現象が起きるカギとなり、その体験者に意味を与える基本原則として、
1.退屈の病理(雪山・海上・砂漠・空など、周囲が単調で感覚入力がほとんどないことによって引き起こされる状態)
2.複数誘因の法則(本人にストレスを与えるさまざまな要因が重なっている)
3.喪失効果(極限の状況で同行者を失ったり、愛する者が死んだりしたとき、「存在」の感覚が孤独感を抑えるための心理的な力になる)
4.ムーサ・ファクター(本人のパーソナリティが、なじみのない新しい経験などを受け入れられるか)
5.救済者の力(自分が最後まで生き延びることを信じる姿勢)
の五つを挙げています。
これらは、体験者の心身の両側面の要因によってサードマン現象を説明するという点で、より総合的になっていて、単純な幻覚説みたいな説明よりは納得できるものですが、サードマン現象の本質に迫り切ったというよりは、多くの事例からとりあえずその共通項を取り出してみたという感じです。
それでもガイガー氏は、最終的にはもっと踏み込んで、サードマン現象は、生き延びようとする本人の強い意志、つまり自分の一部が外部の存在として知覚されるものであり、脳の側頭頭頂接合部にそうした「存在」の感覚を生みだす仕組みがあって、人間が仲間から隔絶された場所で極限状況に追い込まれたりすると、その「天使のスイッチ」が入るのではないか、という結論を示唆しています。
しかし、彼自身も触れているように、それは、現象が「どのように」起きるかを説明することはできても、「なぜ」そうなのかを説明してくれるわけではありません。
刀折れ、矢尽き果てた絶体絶命の局面で、生きるための最後の力を人間に与えてくれるのが、仮に自分の幻影であるとしても、本人の心の中で、それが自分以外の仲間の「存在」として映るのはなぜなのでしょう?
また、親密な他者として体験されるその「何か」が、自分に究極の力を与えてくれるという仕掛けを人間の心身に植えつけたのは、単なる進化の偶然なのでしょうか? それとも、そのような仕組みになっていること自体が、人類に対する、何か深い意味をもつメッセージなのでしょうか?
「サードマンは希望の媒介者である」とガイガー氏が言うとおり、誰かがそばにいるという実感、「私たちは一人ではないという信念と理解」が、極限状態の人間に最後の希望と力を与えます。そうした仕組みが、人間が口先で語るきれいごとではなく、私たちの心身の深い部分にあらかじめセットされていることに、私は暖かな希望を感じました。
ところで、私自身は、この本で初めてサードマン現象という用語を知ったのですが、これと似たパターンの話自体には、これまで何度も出会ってきました。例えば、いわゆるスピリチュアル系の世界では、変性意識状態において、自分を見守り導く「存在」に出会うのはおなじみの話です。
また、お大師さん(弘法大師)がいつもお遍路さんと一緒に足を運んでくださっているという、四国八十八カ所巡礼のあの有名な言葉、「同行二人」も頭に浮かびます。
何らかのきっかけで日常的な意識の世界を超え、ふつうの言葉では説明できないような体験をするという点で、サードマン現象には、スピリチュアルな世界と共通するものがあるといえるかもしれません。
一冊の本に、多数の事例とさまざまなトピックが詰め込まれているせいか、この本には少し読みにくいところもあります。それでも、壮絶な旅の記録として、また、人間の本質に対するユニークなアプローチとして、読むに値する素晴らしい本だと思いました。
本の評価基準
以下の基準を目安に、私の主観で判断しています。
★★★★★ 座右の書として、何度も読み返したい本です
★★★★☆ 一度は読んでおきたい、素晴らしい本です
★★★☆☆ 読むだけの価値はあります
★★☆☆☆ よかったら暇な時に読んでみてください
★☆☆☆☆ 人によっては得るところがあるかも?
☆☆☆☆☆ ここでは紹介しないことにします
JUGEMテーマ:読書
『無人島に生きる十六人』
評価 ★★★☆☆ 読むだけの価値はあります
この本は、明治時代に太平洋の小さな無人島に漂着した16人の日本人船員たちが、みんなで力を合わせて危機と困難を乗り越え、無事日本への帰還を果たすまでの波乱に満ちた体験を語った実話です。
明治31年(1898年)、南方の漁業調査のために太平洋に向かった16人乗りの帆船龍睡丸は、翌年5月20日の未明、ミッドウェー島近くのパール・エンド・ハーミーズ礁で暗礁に乗り上げて遭難、小船に乗り移った16人は、小さな無人島を見つけてそこに上陸します。
ウィキペディア 「パールアンドハーミーズ環礁」
いつか助けがやってくることを信じ、それまでその島で生き抜こうと心に決めた彼らは、中川船長のリーダーシップのもと、必死で水を確保し、食べられるものを探し、みんなで無人島での生活を築き上げていきます。また、通りがかった船を絶対に見逃さないために、砂山を築いて島の標高を上げ、やぐらを建てて見張りを配置するなど、島を脱出するための布石も次々に打っていきます。
船が遭難する場面から、彼らが無人島でのサバイバル生活を確立していくあたりまでは、描写に緊迫感があふれていて、思わず話に引き込まれてしまいます。また、試行錯誤とみんなのアイデアによって手近な素材が便利な道具に化けていくところなどは、読んでいてワクワクします。
彼らが無人島でどんな生活を送ったのか、具体的に紹介したいのは山々なのですが、あまり書いてしまうと、これからこの本を読まれる方の楽しみを奪ってしまうので、その後の話の展開を含め、内容の紹介はこれくらいにしておきます。
この本は、もともと子ども向けに書かれたので、楽しく読みやすい本にするために、実際に起きた出来事をベースにしながらも、そこに多少の誇張や脚色がなされている可能性があります。また、16人もの人間がサバイバル生活をする以上、そこに多少の確執などもあったと思いますが、そうした、読者がネガティブに受け止めそうな出来事も、話の中からは注意深く排除されている気がします。
そして、そういう目で見てみると、全体的に話の展開がうますぎると感じられるところもないわけではないのですが、別の見方をすれば、読者がそんな風に感じるくらいのすごい幸運が続いたからこそ、彼らは生き延びられたということなのかもしれません。ギリギリの状況でサバイバルしていた彼らにとって、命を支える条件の一つでも欠けるようなアクシデントがあれば、彼らは生きて無人島を出ることはできなかったでしょう。
それと、この本を読んでいて感じたのは、非常事態に置かれた人間集団がどれだけ適切な対応をとれるかは、個々のメンバーの経験や能力はもちろん、やはりリーダーシップの質というものに大きく左右されるのだな、ということでした。
この本は、船長の体験談という形をとっているので、船長がメンバーに、どのようなタイミングでどのような指示を与えたか、また、細かな気遣いも含めて、彼らをどのように精神的に掌握していたかもわかりやすく描かれています。
ただ、一読者として欲をいえば、この本に登場する16人の船乗りそれぞれのキャラクターや役割があまり詳しく描き分けられていないのは、小説ではないので止むを得ないとはいえ、やや物足りない感じがしました。
また、さらに無責任なことを言わせてもらえるなら、彼らが漂着した無人島が、探検の余地もないほど小さかったのも読者としてはちょっと残念でした。でも、ひょっとして、そう感じていたのは遭難した16人も同じで、彼らが休むことなく自分たちの生活を改善し続けたのも、あるいは、探検できるような場所のない狭すぎる島で、みんなのエネルギーを鬱屈させないための必死の工夫だったのかもしれません。
それはともかく、この本のシンプルで生き生きとした文章には、冒険小説を読んでいるようなワクワク感を覚えるし、明治の頃の海の男のたくましさや心意気も伝わってきます。
なお、この本は青空文庫にも登録されていて、無料で読むこともできます。
青空文庫 『無人島に生きる十六人』
本の評価基準
以下の基準を目安に、私の主観で判断しています。
★★★★★ 座右の書として、何度も読み返したい本です
★★★★☆ 一度は読んでおきたい、素晴らしい本です
★★★☆☆ 読むだけの価値はあります
★★☆☆☆ よかったら暇な時に読んでみてください
★☆☆☆☆ 人によっては得るところがあるかも?
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『漂流記の魅力』
評価 ★★☆☆☆ よかったら暇な時に読んでみてください
この本を読む前には、そのタイトルから、これまでに世界中で書かれた漂流記の主なものを取り上げて、その魅力を語るといった内容なのかと想像していました。
実際には、この本でいう「漂流記」とは、江戸時代の日本における、漂流民への聞き書きを意味しています。
当時の日本では、海外への渡航は禁じられていましたが、ごくわずかの船乗りたちは、乗り組んだ船が漂流して他国へ流れ着いたり、外国船に救助されたりすることで、異国の人々やその暮らしぶりを自分の目で見る機会がありました。
幸運にも日本へ帰ることができたのは、彼らのうちの、さらにごく一部だけなのですが、幕府は、帰還した人々がキリシタンでないかどうか取り調べるとともに、学者に命じて、彼らの遭難の状況や異国での見聞、送還までの経緯などを精密に記録させました。
そうした記録が、数々の漂流記として今に残されているのですが、吉村昭氏はその一例として、18世紀末に若宮丸の船乗り(水主)たちがロシアに漂着し、やがて世界を一周して日本に帰還するという波乱に満ちたエピソードを、この本の紙面の大半を割いて紹介しています。
1793年11月、江戸へ送る藩米などを積んで石巻を出帆した16人乗りの若宮丸は、12月に遭難、舵も帆柱も失った船は黒潮に流されて、翌年5月にアリューシャン列島の島に漂着します。
水主の津太夫ら15人がロシア人に保護され、やがて彼らはイルクーツクまで移送されて、そこで別の船の漂流民である日本人2名に出会います。2人は、ギリシャ正教の洗礼を受けたためにキリシタン禁制の日本に帰れず、ロシアで暮らしていました。
若宮丸の漂流民たちは、2人のように帰国を断念して洗礼を受けるかわりに日本語教師などの職を得て豊かな暮らしをしようとする者と、貧しい境遇に耐えながらあくまで帰国を望み続ける者との二派に分裂し、互いに険悪な関係になっていきます。
それから何年もの時を経て、若宮丸の一行は皇帝の命で都のペテルブルグに呼び出され、そこに到着できた10人だけが皇帝に拝謁します。帰国を希望する者は4名(津太夫、儀兵衛、左平、太十郎)にまで減っていましたが、彼らは日本との通商を求める使節レザノフの乗り込む使節船ナジェジダ号で日本に帰還できることになりました。
その後のナジェジダ号の航海や、日本到着後の彼らの運命などについては、この本を楽しまれる方のために、これ以上は触れないでおくことにします。
ウィキペディア 「津太夫」
蘭学者の大槻玄沢は、遭難から帰還までのいきさつを若宮丸の水主たちから聞き取り、その内容を『環海異聞』としてまとめたのですが、吉村氏は、こうした漂流民たちの記録は、「史実をもとにした秀れた記録文学の遺産」であり、「生と死の切実な問題を常にはらみ、広大な海洋を舞台にし、さらに異国の人との接触と驚きにみちた見聞」が盛り込まれていて、すぐれた海洋文学の内容と質を十分にそなえているとしています。
それにしても、若宮丸の人々は、思いもかけない運命の導きによって、日本人として初めて世界を一周することになったわけですが、それは想像を絶する苦難と引き換えのものでした。彼らは、当時の日本人のほとんどが知らない世界を見、貴重な経験をしたとはいえ、それは自ら望んでのものではなかったし、彼らにとって、それが幸せな体験だったかといえば微妙なところです。
また、吉村氏もこの本の中で書いているように、彼らの奇跡的な帰還の背後には、膨大な犠牲者の存在があります。
当時、暴風雨で遭難した船の多くは、そもそも漂流する以前に沈没してしまっただろうし、船が沈まなくても、長い漂流中には全員が飢えと渇きに苦しみ、弱った者は次々に死んでいきました。ごくわずかな船だけが島や海岸に漂着するのですが、それが無人島なら船乗りたちはそのまま島で死を迎える以外になく、人の住む海岸でも、異国の住民に略奪されたり、殺される可能性があります。そしてたとえ保護されることがあったとしても、ほとんどの場合、言葉も通じず、食事にも風土にもなじめない異国の地で余生を送るしかなかったのです。
そうした背景を考えると、若宮丸の一部の水主たちが、再び故郷の土を踏むことができたのは、本当に奇跡としかいいようがありません。
こうした本を読んでいると、日本に限らず、これまで世界中で数え切れないほどの船乗りたちが、危険な航海から無事に戻ることができず、自らの苦しみや無念を誰にも伝えられないまま、むなしく海に消えていったことを思わずにはいられません。
もちろん、残された彼らの家族も含めて、多くの人々の苦しみや悲しみが、もっと安全な船や航海術を求める力となって、技術を一歩ずつ前進させてきたのだろうし、また、ひと握りの幸運な漂流者がもたらした異国の情報が、言葉や文化の異なる国々を理解する上で、大きな貢献をしてきたことも確かなのですが……。
本の評価基準
以下の基準を目安に、私の主観で判断しています。
★★★★★ 座右の書として、何度も読み返したい本です
★★★★☆ 一度は読んでおきたい、素晴らしい本です
★★★☆☆ 読むだけの価値はあります
★★☆☆☆ よかったら暇な時に読んでみてください
★☆☆☆☆ 人によっては得るところがあるかも?
☆☆☆☆☆ ここでは紹介しないことにします
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『いつも旅のなか』
評価 ★★★☆☆ 読むだけの価値はあります
作家の角田光代氏は、これまで仕事を含めて数十回も海外を旅しているそうですが、個人的な旅の多くは、バックパックやデイパックを背負い、安宿に泊まったり安食堂や屋台で食事をしながら、ひとりで数週間から数カ月異国を旅する、いわゆるバックパッカー・スタイルです。
そこには、個人旅行ならではの、未知の人々との出会いがあり、思わぬハプニングがあり、ゆったりと流れる旅の時間があります。
この本には、アジアの国々をはじめ、世界各地で角田氏が体験した旅のエピソードがユーモラスに描かれているのですが、読んでいると、彼女の豊かな旅の日々が垣間見えるような気がします。
角田氏は本文中で、自分は致命的な方向音痴のうえに、何度旅を繰り返しても旅慣れるということができず、いまだに異国や旅がこわいと書いているのですが、そう言いつつも、いったん日本を飛び出せば、安食堂で地元の人に混じって地酒を飲んだり、知り合った現地の人たちと思う存分遊んだり、ときには正体不明の「合法」ドラッグでバッドトリップしてみたりと、結構やんちゃな旅も楽しんでいるようです。
また、国境というものが好きで、茶店でひがな一日茶をすすりながら、国境付近を行き来する人を眺めていたりするなど、なかなかディープな旅の楽しみを知っている方とお見受けしました。
彼女は旅に関しては「超ダウナー系」なのだそうで、行き先の国や街についてあまり予備知識を詰め込まず、着いた先では自分のペースでゆったりと過ごしながら、そこで誰か面白い人物と出会うのを待つなど、基本的には受け身の姿勢で旅をしているのですが、その代わり、五感や思考、さらには勘にいたるまで、自らの感受性はフルに働かせているようです。
この本に描かれている旅のルートや内容は、実は、決して冒険的でも、めずらしいものでもありません。ある程度個人でいろいろな国を旅した人なら、実際に足を運んだことのありそうな地名がいくつも並んでいます。
それでも、角田氏のエッセイがとても味わい深く、その描写にハッとさせられるようなオリジナリティを感じるのは、旅先で出会う風景や人々や、ちょっとしたハプニングや印象深いできごとのなかに、彼女の人柄や生き方の姿勢みたいなものが、率直に、的確なことばで表現されているからなのでしょう。
そこには、きれいなものも汚いものも、楽しいことも苦い経験も、この世界が差し出してくれるすべてのものを見て、味わってみたいという好奇心や、それらをこの世の現実として肯定し、受け入れようという姿勢、そして、旅先で出会うすべての人々への温かいまなざしが感じられます。
また、ゆったりとした旅の時間は、人をおのずと思索に誘うものですが、このエッセイでも、旅のスタイルと年齢の問題とか、旅立ちの不安、自分のお気に入りの国、あるいは旅の展開の仕方が象徴する自分の人生のパターンなど、さまざまな興味深いテーマに触れています。
こういうテーマは、旅の好きな人なら特に面白く感じるはずです。彼女のことばに共感できる旅人も多いだろうし、あるいは逆に、旅に関して自分とは少し違う視点や考え方に、新鮮さを覚える人もいるのではないでしょうか。
本の評価基準
以下の基準を目安に、私の主観で判断しています。
★★★★★ 座右の書として、何度も読み返したい本です
★★★★☆ 一度は読んでおきたい、素晴らしい本です
★★★☆☆ 読むだけの価値はあります
★★☆☆☆ よかったら暇な時に読んでみてください
★☆☆☆☆ 人によっては得るところがあるかも?
☆☆☆☆☆ ここでは紹介しないことにします
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『ショットガンと女』
この本は、インド旅行記の名作『印度放浪』などで知られる写真家の藤原新也氏による旅のエッセイ集です。
今回の作品は、藤原氏の他の旅行記とは趣向が異なり、彼がこれまでの旅の中で体験してきた「実に単純で即物的な」エピソードのいくつかを、モノクロの写真とともに語るというものです。
たとえば、ショットガンを携えてインドの女郎屋に乗り込んだ話とか、バリ島で花を餌にして魚を釣った話とか、アテネでしつこくつきまとう詐欺師をやりこめた話とか、あるいは、アメリカで奇妙な墓参りに同行した話など、少々荒っぽい話から、しみじみと心に残るような話まで、全部で32の多彩なエピソードが収められています。
ショットガンの話などは、本当なのかどうか、にわかには信じがたいところがあるし、トルコで手に入れたというその銃をどうやってインドまで持ち込んだのかなど、具体的にいろいろと疑念も湧くのですが、まあ、何十年も昔のことではあるし、他の人にはともかく、藤原氏ならそういうことができてもおかしくないかな、という気はします。
それにしても、多くは若い頃のエピソードとはいえ、藤原氏もずいぶん荒っぽい旅をしてきたんだな、と思います。トラブルが旅を活性化するという彼の主張は、それなりに理解できるのですが、それは当然かなりのリスクを伴うものだし、あまり人にオススメできる旅のスタイルではありません。
それに、今はそういう危なっかしい旅というのは、あまり流行らないような気がします。
もっともそれは、ひとむかし前よりも私たちが賢くなったからというより、現地の情報が簡単に手に入るようになり、旅先で未知の危険や異質な出来事に遭遇する機会が減ったために、旅人がささやかな武勇伝を打ち立てるチャンスが減ってしまったということなのかもしれません。
あるいはまた、それは、私たちが安心・安全と引き換えに、退屈な管理社会の内側で生きることに慣れ切ってしまい、あえて旅の苦労やトラブルを覚悟してまで、その外部に躍り出ようとする意欲を失ってしまったせいなのかもしれません……。
本の評価基準
以下の基準を目安に、私の主観で判断しています。
★★★★★ 座右の書として、何度も読み返したい本です
★★★★☆ 一度は読んでおきたい、素晴らしい本です
★★★☆☆ 読むだけの価値はあります
★★☆☆☆ よかったら暇な時に読んでみてください
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『全東洋写真』
この写真集は、写真家・作家の藤原新也氏が、主に青年時代にアジアで撮り続けてきた膨大な写真の中から、264点を選んで一冊にまとめたものです。
ひとくちに「東洋」といっても、西はトルコから東は日本まで、地域ごとに異なるさまざまな民族や文化や暮らしがあるわけですが、藤原氏はあえてその「多様なものを全一冊の中に混沌のまま封じ込める」ことによって、「全アジアに共通して流れる空気や時間のようなもの」を浮かび上がらせようとしています。
言葉ではなかなか伝わらない、というか、ほとんど不可能だと思えるような「空気」や時間感覚のような微妙なものが、この写真集からは確かに感じられます。写真のもつ圧倒的な力というしかありません。
ところで、藤原氏自身があとがきで触れているように、この写真集には夕暮れの薄闇をとらえたシーンが数多くあります。
「光と闇の中間のたゆたうような薄明の一時」、それは昼から夜へと移り変わる一瞬というだけでなく、対照的な二つのものがその明確な境界を失い、互いに溶け合うトワイライト・ゾーンでもあります。
この写真集を見ていると、アジア各地の風景を眺めているつもりが、いつの間にか、自分の心の奥を覗き込んでいるような感じがしてくるのですが、それは、内面と外面、現実と非現実といったような区別さえ曖昧にしてしまう、この薄明の力が大いに働いているからではないでしょうか。
そしてそれは、藤原氏自身の内面を映し出しているだけでなく、旅人の心というか、長く旅を続けるうちに自分の輪郭みたいなものが希薄になっていく、放浪者に特有の感覚を、実に巧みに表現しているようにも思います。
でもまあ、こんな風に理屈っぽく理解しようとするよりも、とにかく実際に写真を見て、そこに何かを感じることに意味があるのでしょう。
写真集の常として、購入するとなるとどうしても値段が気になってしまいますが、たとえこの本を手元に置くことができなくても、書店や図書館で見かけることがあったら、ぜひ手にとって、書棚の片隅で静かにページを繰りながら、しばしの間、アジアを感じてみてください。
本の評価基準
以下の基準を目安に、私の主観で判断しています。
★★★★★ 座右の書として、何度も読み返したい本です
★★★★☆ 一度は読んでおきたい、素晴らしい本です
★★★☆☆ 読むだけの価値はあります
★★☆☆☆ よかったら暇な時に読んでみてください
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『メメント・モリ』
評価 ★★★☆☆ 読むだけの価値はあります
「メメント・モリ」とは、「死を想え」という意味のラテン語で、自分がいつか必ず死ぬ定めにあることを、常に思い起こさせるための警句として、欧米の人々の間で広く用いられてきました。
ウィキペディア 「メメント・モリ」
写真家・作家の藤原新也氏は、この写真集を通じて、「死」という重いテーマに真正面から取り組んでいます。本の冒頭でも触れられているように、そこには、人間が生きて死んでいくという当たり前の現実に対する実感が薄れ、「生きていることの中心」が見えなくなりつつある昨今の世の中に対する、深い危機感があります。
とはいっても、この作品には、こういうテーマにありがちな難解さや、敷居の高さみたいなものはありません。彼自身がインドやチベットなど、アジア各地で撮り続けてきた写真の数々に、ぶっきらぼうにも思えるような、ごく短い言葉が添えられているだけなので、誰でも簡単に読み通すことができるのではないでしょうか。
ただ、この写真集の内容に、感情的な抵抗を覚える人がいるだろうことは想像できます。
例えば、インドの河岸で死体が焼かれていたり、水に流された死体が犬に喰われている光景、あるいは野ざらしの白骨などを見て、人によっては刺激が強すぎると感じたり、心がざわついたりするかもしれません。また、写真に添えられた藤原氏の言葉が、あまりにもストレートで過激に感じられるかもしれません。
あるいは逆に、一見無造作に撮っただけのような、農村や自然の地味な風景に、むしろ刺激のなさや退屈さを覚えてしまう人もいるかもしれません。
言い方を変えれば、藤原氏の写真は、ほとんどの人が目をそむけたり、見なかったことにしたいと思うようなものとか、常に私たちの身近にありながら、カメラを向ける価値などないと思い込んでいるものを、あえて映し出しているように見えます。
しかし、この本を何度か見返し、その写真や言葉を反芻しているうちに、藤原氏がただ奇をてらってそうしたというよりは、人間にとって当たり前の現実をシンプルに写し取ったに過ぎず、むしろ、そういうものに目を向けないように仕向けている世の中の方が、どこか変なのではないかと思えてくるのではないでしょうか。
この本に衝撃を受けることがあるとすれば、それは、「生も死もそれが本物であればあるだけ、人々の目の前から連れ去られ、消え」てしまう「今のあべこべ社会」に生きている私たちが、これまでどこかに隠され、避けられ、無視され続けてきたものを改めて目にするからであり、私たちがその体験に慣れていないからなのかもしれません。
そういう意味では、この写真集は、今私たちが生きているこの「あべこべ社会」で見失いがちな現実に気づくための、ささやかな窓なのだと思います。
この本を開いているあいだ、私たちは藤原氏の目と、彼の「等身大の実物の生死を感じる意識」を借りることができます。
そして、本を閉じたあとも、その目と意識を保って自分の周囲を見回すことができるようになれば、わざわざインドやチベットまで行かなくても、「現実」はどこにでも見出せること、それはいつもそこにあるのに、私たちのこれまでの習慣が、それをシャットアウトしていただけなのだと気づくのではないでしょうか。
何だか理屈っぽいことを偉そうに書いてしまいました。すみません。
この本の感じ方は人それぞれだと思います。もちろん、こんな風に頭で余計なことを考える必要もありません。とにかくこの写真集をひととおり眺めてみるだけでも意味があると思います。
本の評価基準
以下の基準を目安に、私の主観で判断しています。
★★★★★ 座右の書として、何度も読み返したい本です
★★★★☆ 一度は読んでおきたい、素晴らしい本です
★★★☆☆ 読むだけの価値はあります
★★☆☆☆ よかったら暇な時に読んでみてください
★☆☆☆☆ 人によっては得るところがあるかも?
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『ロビンソン・クルーソーを探して』
『ロビンソン・クルーソー』といえば、超有名な冒険小説の古典ですが、実はこの小説のモデルだといわれる実在の人物がいたことは、あまり知られていないようです。
1704年9月、イギリス海賊船の航海長だったアレクサンダー・セルカークは、航海中に船長といさかいを起こし、南太平洋に浮かぶ無人島、マス・ア・ティエラ島(現在はロビンソン・クルーソー島と改名)にひとり置き去りにされてしまいました。
しかし彼は、想像を絶する孤独と困難を乗り越え、1709年2月に別のイギリス船によって救出されるまで、そこで4年4カ月もの歳月を生き延びたのです。
この本の著者、高橋大輔氏は、ふとしたきっかけでそのエピソードを知り、セルカークが「陥った境遇、そして決断や行動、感情、夢や希望、または絶望や心の葛藤、その全てを埃をかぶった歴史の中から掘り起こそう」という強い思いに駆られました。
彼は仕事のかたわら、セルカークにまつわるさまざまな文献を渉猟し、彼の生地スコットランドを訪ねて彼の一族の末裔に会い、彼が無人島から持ち帰った遺品の行方を追い、果てはロビンソン・クルーソー島まで出かけて、300年前に彼がそこに生きた痕跡を求めて、島内の探索までするのです。
また、探求を続けるうちに、セルカークが無人島生活を綴った手記を残したという伝説や、『ロビンソン・クルーソー』の作者ダニエル・デフォーに実際に会っていたという伝説など、歴史の薄闇の向こうから、彼をめぐる興味深い謎も次々に浮かび上がってきます。
セルカークは無人島でどんな暮らしをしていたのか、彼はどんな人物で、無事に故郷に戻った後どんな人生を歩んだのか、そして、彼をめぐるさまざまな伝説の真相は……。
この本には、高橋氏のそうした探索・研究のプロセスが詳しく描かれているだけでなく、それが同時に、非常にユニークな旅行記にもなっています。
その探求の結末がどのようなものであったのか、ここで触れることはできませんが、子供の頃『ロビンソン・クルーソー』の冒険に心を躍らせた経験のある人なら、この本も楽しんで読めるのではないでしょうか。
もっとも、300年前に無人島で暮らした男の話など、そうした分野に興味のない人にとってはどうでもいいことなのかもしれないし、仮にその男について詳しく知ったところで、私たちの日常生活に何か役立つわけでもありません。
ただ、何かを本当に知りたいと思い、そのために労をいとわず地球の果てまで出かけていく高橋氏の姿勢は、探求のプロセスとしての旅という可能性を、私たちに示してくれているように思います。
地球上に地理的な空白がなくなり、その気になれば誰でもどこにでも行けるようになってしまった今、どこへ何のために旅をするのか、それは自分にとってどんな意味があるのかということが、それぞれの旅人にとって、非常に重要な問題になってきていると思うからです。
探求の方向は人それぞれでしょうが、それが万人受けするかどうかよりも、自分が本気になれるテーマを見出すことが大切なのでしょう。熱中できるテーマを抱いて世界中を駆け回る旅人の幸せが、この本からは伝わってきます。
ダニエル・デフォー 『ロビンソン・クルーソー』の紹介記事
本の評価基準
以下の基準を目安に、私の主観で判断しています。
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