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インドでぼられない心得!?

もう2か月ほど前になりますが、ネット上で、作家の橘玲氏のインド旅行記を読みました。

 

北インドの観光エリアとして有名な「黄金のトライアングル」で、しつこい客引きにつきまとわれたり、きちんとした身なりの通行人に平気でウソをつかれたりして、結局は土産物屋に連れ込まれてしまうという話です。

 

インドで出会った2人の紳士と「信用の根本的な枯渇」体験について 橘玲の世界投資見聞録
他人を信用しない国インドで”ぼったくられない”ための考察 橘玲の世界投資見聞録

 

インドの観光地では、いまだに同じことが延々と繰り返されているんだなと思ったのですが、面白かったのは2番目の記事の後半でした。

 

橘氏は、自らの経験をもとに、買い物などでぼられたり、騙されたりしない心得を書いています。それは、目の前のインド人たちは信用できないという前提ですべての説明を疑ってかかり、しつこく迫られるようなら、彼らに面と向かって、「悪いけど、君のことは信用できないよ」と告げ、にっこり笑って席を立てばいい、というもので、相手はぎょっとした顔をするかもしれないが、誰も信用できないインドでは、それで相手が気分を害したりはしないのだそうです。

 

私もインドでは、したたかな客引きや商売人にずいぶん閉口させられましたが、さすがにそこまで言ったことはありません。それに、橘氏がやってみて効果があったからといって、ほかの日本人がそれをそのままマネしても、果たしてうまくいくのかは分かりません。

 

というより、特に旅慣れているわけでもない、ごく一般的な日本人が、生身の人間を前にして、それほどの強い「ノー」を言い放つことができるのだろうか、という気がします。

 

相手が信用できないと通告することは、私たちの暮らす日本社会では、強烈な拒絶を意味するからです。

 

別に日本に限ったことではありませんが、先進国と呼ばれる国々では、社会的・経済的なコミュニケーションを活発にし、取り引きにおける余計なリスクやコストを最小化するために、長い歳月を費やして、お互いを信用する方がメリットが大きくなるような社会システムを作り上げてきました。

 

そこでは基本的に、ある程度の条件を満たした人間は誰でも仲間だとみなして信用することで、すべてのプロセスがスムーズに進むようになっています。そして、そうした仲間のネットワークが国全体、さらには国際的な取引関係にまで広がっていくことで、互いに繁栄できる仕組みになっています。

 

日本の場合は、島国であることや、日本語人口が圧倒的に多いことなど、好条件もあいまって、他の国以上にそうしたシステムがうまく回っているように思います。

 

日本語を話せて、できればちゃんとした会社の従業員などの肩書があり、きちんとした服装をしていて、話の内容に筋が通っている、みたいな簡単な「テスト」にパスすれば、相手をそのまま信用してかまわないし、それで問題はほとんど起きないのではないでしょうか。実際、テストの内容は時代を追うにしたがってどんどん簡略化されてきたし、今や、日常生活においては、自分が相手をテストしていることさえ、ほとんど意識しなくて済むほどです。

 

ただ、そういう環境が当たり前になってしまったために、海外で日本と違う環境に直面すると、きちんと「信用テスト」をせずに仲間と認定してしまったり、テストにパスしない人間をどう扱えばいいか分からず、はっきりと「ノー」が言えないために、さまざまなトラブルに巻き込まれる日本人も大勢いるようです。

 

とはいえ、日本では、信用できないと相手に告げるということは、絶対的な多数派である、信頼できる人間同士のネットワークから放逐することを意味するし、それはつまり、村八分の宣告みたいなものです。日本人としては、友人にひどい裏切りを受けたので絶交するみたいな、よほどのケースでなければ、そんな経験をすることもないでしょう。

 

そして、私たちは、信頼を失うというのがどういうことか、学校や会社といった組織での体験や、マスコミの報道などを通じて、その恐ろしさを心に深く刻み込まれているし、自分だけはそんなことにならないように、仲間のネットワークから放逐されないように、強い同調圧力に耐えながら、必死で「いい人」を演じ続けています。

 

目の前の相手に、おまえは信用できないと言い放つことがどれだけ深刻なことかを知っているからこそ、私たちは、そうすることに相当な覚悟を必要とするのではないでしょうか。

 

でも、インドに行くと、橘氏が書いているように、いつどこで誰からどのようにだまされるかわからないという、「信用の根本的な枯渇」体験が次々に押し寄せてきます。そこは、お互いに信頼し合おうという考え方の通用しない、極端な言い方をすれば、隙を見せた者が容赦なくつけ込まれる弱肉強食の世界です。

 

そういう社会が暮らしやすいかどうかは別にして、いったんそういう世界に足を踏み入れたら、日本で身につけた相互信頼の美しい作法はいったん忘れて、現地でうまくサバイバルできるやり方に、素早く切り替えなければなりません。

 

そのために、最初のうちは、勇気を振り絞って、相手にきっぱりと「ノー」を言い渡すことも必要になってきます。

 

ただ、誤解のないように補足しておくと、北インドの観光地で、日本人旅行者がカルチャーショックを受けるのは確かですが、インドの客引きや商売人のやり口には一定のパターンがあるので、ガイドブックや旅仲間のアドバイスを頭に入れた上で何度か対応すれば、彼らのやり方に少しずつ慣れ、そのうちに、彼らをうまくあしらうコツも身についていきます。

 

やがて、余裕が出てきて、インド人の商売の仕方をじっくり観察できるくらいにまでなれば、それはそれで、日本ではなかなか体験できない、一種のエンターテインメントとして楽しむことさえできるようになるかもしれません。

 

それと、先ほど、隙を見せたら容赦なくつけ込まれると書きましたが、そのレベルには上から下までものすごい幅があります。

 

インドにも、本当に危険な裏の世界があるのだろうし、そういう世界に下手に入り込むと、それこそ命に関わることにもなりかねないと思いますが、北インドの観光地で旅行者からぼったくろうとしている人々のほとんどは、ごく普通の庶民であって、商売を抜きにすれば、それなりにいい奴だったりすることもあります。旅人を騙すやり口にしても、完璧とまではいえず、けっこうすぐにボロが出たりするところに、何ともいえない人間味が感じられたりもします。

 

それに、隙を見せられないのは、別にインドに限った話ではありません。現代の日本にも、お互いを信用できない弱肉強食の世界は存在するし、そういう世界の騙しのテクニックの巧妙さは、北インドの普通の商売人の比ではないかもしれません。

 

インドの場合、騙される、ぼられるといっても、ほとんどの場合、金額的にはたかが知れています。もちろん、旅先では注意するに越したことはありませんが、あまり深刻に考えすぎず、たとえぼられたとしても、面白い体験をしたとか、騙されることへの免疫がついたと考えるくらいの気持ちでいた方が、旅を楽しめるのではないでしょうか。

 

そして、たとえインドの商売人たちにイライラさせられることがあっても、彼らもまた、この地球の上に生まれ、与えられた条件の中で何とか知恵を絞って生き抜こうとしている、私たちと同じ人間だということへのリスペクトは忘れないようにしたいと思います。

 


山田和 著 『21世紀のインド人 ― カーストvs世界経済』 の紹介記事
記事 カトマンズの宝石店で
記事 旅の名言「人を疑うことで……」
記事 旅の名言「騙されることは……」

 

 

JUGEMテーマ:旅行

at 19:10, 浪人, 地上の旅〜インド・南アジア

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「インド病」の新理論!?

先日、バックパッカー向け雑誌『旅行人』元編集長の蔵前仁一氏が、ブログで面白い記事を書いていました。

インド病と腸内フローラ 旅行人編集長のーと

「インド病」とは、マラリアやデング熱のような、熱帯地方に蔓延する怖い病気ではなく、インドに行った人が経験するといわれる、奇妙で強烈な違和感のことです。
記事 インド病
記事 旅の名言 「僕は変な病気を……」

インドを旅した人や、現地で暮らした駐在員の中には、帰国後、日本の社会がすごく変に感じられたり、インドのことが頭から離れなくなったりといった「症状」を呈する人がいるのですが、インドに関わったことのある人々は、そういう激しい逆カルチャーショックのことを、多少のユーモアを込めて、昔から「インド病」と呼びならわしているのです。
ウィキペディア 「カルチャーショック」

蔵前氏は、冒頭に挙げたブログ記事の中で、この「インド病」の原因が、インド滞在中に生じた腸内フローラの変化にあるのではないかという、大胆な仮説(?)を提示しています。

腸内フローラとは、腸内の多種多様な細菌などが作り出している、一種の生態系のことで、最近では、その構成パターンが、私たち宿主の健康状態はもちろん、場合によっては性格までも左右しているのではないかといわれ、人々の注目を集めています。
ウィキペディア 「腸内細菌」

たしかに、インドに長居している人の腸内細菌が、食事や生活環境を通じて、次第に現地での暮らしに適したパターンに変わっていくことは十分に考えられるし、人によっては、性格までもが「インド化」してしまうことも、もしかしたらあり得るのかもしれません。

そして、そうやって「インド化」した状態で日本に帰れば、今度は当然、日本の食事や生活に対して、大いに違和感を感じるだろうし、そこから日本向きの腸内フローラに戻るためには、もう一度、苦労して適応のプロセスをやり直さなければならなくなる、というわけです。

もっとも、私は専門家ではないので、学術的にみて、こうした説明がどこまで妥当なのかは分かりません。それにもちろん蔵前氏も、こういう話を半分ジョークとして書いているのでしょう。

ただ、「インド病」のような、旅人が経験するさまざまな違和感を、少しだけマジメに考えてみようとするなら、人間の心と身体がつねに連動している以上、心の領域で起きるカルチャーショックだけでなく、腸内フローラの変化のような、身体の領域で起きているプロセスまでも、きちんと考慮に入れる必要があるのかもしれません。

そういえば、海外生活者の体験として、現地で暮らし始めて数か月の時点で、ひどい体調不良になったり、現地の料理を全く食べられなくなったりと、苦しさがピークに達するものの、それを何とか乗り越えると、現地の食事や生活に違和感を覚えなくなる、といったような話を何度か見聞きしたことがあります。

例えば、旅行作家の下川裕治氏も、かつて一家でバンコクに暮らしたときの体験を書いています。
 
 娘たちの病状は元旦の日に悪化した。まず長女が高熱を出し、おなかが痛いと訴えた。これは普通の風邪とは違うような気がした。その頃は、バンコクに暮らし始めて、ちょうど三カ月が経つ頃だった。僕には思いあたる病気があった。海外で暮らし始めて三カ月が経つ頃、原因不明の高熱や下痢に襲われることがあるのだ。海外で暮らすということは、今まで以上の適応を体に要求する。まず水が変わる。食べ物も変わる。気候も変わる。そんな諸々のストレスが体に溜まり、一気に噴きだすのがこの病気のようだった。僕自身、この病気は二、三回、経験していた。海外暮らしが長い日本人には、同じ体験をもつ人が多い。
「まあ、いってみれば、その国に暮らしていいという通過儀礼のようなもんですな」
 といえるのは、その病気が去ってからであって、そのときはもう大変なのである。熱にうなされ、下痢に苦しむ。大人だったらそれでも通過できるが、子どもとなると……。

下川裕治著『バンコク下町暮らし』より
この本の紹介記事

こういう身体の不調と、腸内フローラとの間に、何らかの関係があるのかどうかについては、もちろん私には分かりません。

ただ、人間の細胞の多くは、数か月のうちに、新しく生まれた細胞に入れ替わるといわれているので、異国で暮らし始めた人の身体は、数か月後には、そこで食べたモノや飲んだ水を材料として「現地生産」された身体に、ほとんど切り替わってしまうことになります。もしかすると、そうやって身体が「現地仕様」に替わるタイミングが、心身の不調と関わっているのかもしれません。
ウィキペディア 「新陳代謝」

下川氏のいう「三カ月」という数字は、そうしたタイミングについて、多くの海外生活者が、学術的な理論はともかく、自らの体験を通じて割り出した、生活の知恵のようなものなのでしょう。

いずれにしても、地球上をあちこち移動し、生活の拠点を変えるということは、たぶん、本人が自覚している以上に、心身にかなりのインパクトを与える行為であって、場合によっては、「自分とは何か」という、アイデンティティの根幹を揺るがすほどの結果をもたらすこともあるのだということを、改めて思います。

蔵前氏がインドに行ってから、体質がすっかり変わってしまったように、一度でもどこかの国で暮らしてしまうと、再び日本に戻ってきたからといって、その心身が、出発前と全く同じ状態に戻るわけではありません。

腸内フローラの例でいえば、インドや他の国々で加わった「新メンバー」の細菌たちは、おそらく、宿主である旅人が日本に帰ってきたあと、その勢力が多少は衰えるにしても、そのまま腸内に居残り続けるのだろうと思います。そして、彼ら新参の「移民」たちは、昔から腸内で暮らしている「先住者」たちと、光も差さない真っ暗な腹の中で、激しい抗争を繰り広げつつ、やがて、新しい均衡状態を生み出していくことになるのでしょう。

帰国した旅人の心が、出発前とはすっかり変わってしまっているように、旅人の腹の中も、きっと、出発前とは別の世界になっているのです……。


JUGEMテーマ:旅行

at 18:50, 浪人, 地上の旅〜インド・南アジア

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自動的な逃走

3月の大震災と原発事故の直後、さまざまな危機的状況を伝えるニュースが相次ぐ中で、外国人が慌てて日本から逃げ出しているという報道もありました。

それを読んだとき、「外国人は気楽でいいよな……」と軽い反発を覚えつつも、自分が旅をしていたときは、まさに彼らと同じように考え、行動していたことに思い至り、立場が代わると、物事というのはこんなにも違って見えるものなのだと痛感しました。

そして、もう何年も前に、インドで体験したささやかな「騒ぎ」のことを思い出しました。

仏教徒の聖地、ブッダガヤ(ボドガヤ)に滞在していたときのことです。

私はいつものように、マハボディ寺院の周辺をブラブラと歩いていました。

マハボディ寺院は、お釈迦様がさとりをひらいたとされる歴史的な場所に建っていて、その周囲には、各国からの観光客目当ての小さなみやげ物屋が軒を連ねています。

そこで日本人の旅行者を見かけ、軽く立ち話をしていると、50メートルくらい離れたところから、パン、という、何かが弾けるような音がしました。

その直後、音のした方角から、大勢のインド人が全速力で逃げてきて、目の前を次々に駆け抜けていきました。

「クモの子を散らす」という言葉がありますが、まさにそんな感じです。

同時に、周囲のみやげ物屋からも人が飛び出してきて、まるで互いに示し合わせていたかのように、一斉にシャッターを下ろし始めました。

まったく想定外の展開にあっけにとられているうちに、すでに通りからは人がいなくなり、空気は一変して、辺りには異様な緊迫感が満ちています。

このままでは取り残される、と思った私は、目の前のシャッターに手をかけていた見知らぬ店員に、「中に入れてもらえないか?」とお願いしてみました。

店員が愛想よく、「いいよ」と言ってくれたので、一緒にいた日本人を促して中に入りました。店はとても小さく、数人も入れば身動きもままならないほどですが、シャッターの下ろされたその薄暗い空間で、私たちは息をひそめ、外の動きに耳をそばだてました。店員の若者は、シャッターの隙間からじっと外の様子を伺っています。

通りは、今やすっかり静まり返り、動くものの気配もありません。

さっきのあの音は、やっぱり何かの爆発か、それとも発砲音だったのでしょうか? インド人があんなに必死で逃げていたところを見ると、何かとんでもないことが起きたのは確かです。

だとすると、次はどんな展開になるのでしょうか? まさか、暴動のようなことが起こるのでは? 私たちは、ここにずっと隠れていなければならないのでしょうか?

さまざまな不安な思いが頭のなかを駆け巡ります。単なるひなびた観光地だと思っていたブッダガヤで、まさかこんなことが起きるとは……。

それからどのくらいの時間が経ったのか、よく覚えていないのですが、たぶん、ほんの数分くらいだったと思います。

先ほど、音のした「現場」から全力疾走で逃げ去った人々の一部が、少しずつ戻ってきたようで、それを見ていた店員も、シャッターを半開きにして外に出ると、様子を見にいきました。

私もしばらく待って、大丈夫だという確信が持てたので、店を出ると、彼らにならって、とりあえず現場に向かってみました。

そこには、すでに人だかりができていました。英語の話せる人から断片的に聞いた話を総合すると、どうやらある店の主人と、その知り合いの誰かが個人的ないさかいを起こし、その誰かが火薬でかんしゃく玉のようなものを作って、腹いせに店に投げ込んだ、というのが事の真相のようでした。

政治的背景のある事件でなく、単なるケンカらしいこと、そしてケガ人もいないらしいことが分かり、少しホッとしました。とはいえ、本当にそれが事実なのかは確かめようもありません。現地の言葉で情報収集できない私は、とりあえずそこまでで納得するしかありませんでした。

数十分後には、村にはいつもの人通りが戻り、シャッターは再び開かれ、空気はすっかり日常モードに戻っていて、まるでその日、その場所には何事も起こらなかったかのようでした。

後日、ブッダガヤでは、それとはまた別の事件が起きて、このひなびた聖地も俗世間の争いごとと無縁でないことを思い知らされたのですが、それについては、いずれまた別の機会にでも書くことにします。

それはともかく、その日実際に起こったことといえば、結局のところ、軽い爆発音が一回したというだけで、それに比べて、大勢の人間が必死で逃げまどい、数分とはいえ、店のシャッターが軒並み下ろされて、聖地がゴーストタウンのようになってしまったのは、いかにも過剰な反応だったように思えます。

ただ、パニックの瞬間には、物事がこれからどうなるのか、誰にもはっきりとは分からなかったわけだし、何かのきっかけで人々が暴徒化するということも、あり得ないことではなかったのかもしれません。シャッターを閉めたみやげ物屋の人たちも、まさにそういう可能性を心配していたのでしょう。

万が一にもそんなことになったら、地元の住民だろうが、ツーリストだろうが、自分の財産と身の安全は、自分の力で守るしかありません。想定されるダメージはかなり大きく、それに自己責任で対応しなければならないとなると、甘い判断はできないし、まずは身の安全を最優先に行動せざるを得ません。

そのうえ、そのとき何が起きていたのか、実際に手に入る情報といえば、周囲の人々のとっている行動だけでした。事件現場を直接見た人はほんのわずかで、残りの人間は、目の前で逃げ惑う人々を見ただけで、自分のとるべき行動を瞬間的に選ぶしかありませんでした。

そう考えると、ほんのささいなきっかけで、人々が逃走するパニック群集と化してしまったのは、仕方ないことなのかもしれません。

それにしても、人々はパニックになっていたとはいえ、その動きには、どこか手馴れたところも感じられました。もう何度も同じ経験をしていて、やるべきことが分かっているというか、何も考えずに、とりあえずいつものように逃げておくというか……。

これはあくまで私の想像に過ぎないのですが、彼らのうちの「持たざる者」は、何かヤバそうなことが起きたら、現場から全力で逃げ出し、「持てる者」は、とにかく自分の財産を全力で守る、という行動パターンが、日々の生活を通じて体に染み込んでいて、そういうことが起きるたびに、自動的に行動のスイッチが入るようになっているのではないでしょうか。そして、いざそのスイッチが入れば、後はいちいち頭で考えるまでもなく、やるべき手順を淡々とこなしていくだけになっているのかもしれません。

その一連の行動は、ほとんど自動的で、本能的行動に近いものなので、大きな音に驚いて飛び立つ鳥の群れみたいに、ささいなことでムダに逃げ惑ったり、いちいちシャッターを閉めたりと、過剰なまでに臆病な行動をとらせてしまうのでしょう。

それでも、本人たちにとっては習慣なので、それを徒労だと思うこともないだろうし、むしろ何事もなかったときは、ああよかった、と安心して、起きたばかりの出来事がすみやかに記憶から消えていくだけのことなのかもしれません。

しかし、日本で生まれ育ったために、(テレビや映画を除けば)人々が必死で逃げ惑うシーンというものに免疫のなかった私には、それはきわめて異常な出来事として目に映ったし、ずっと記憶に残ることになりました。そして今回、日本から逃げ出す外国人のニュースをきっかけに、それを思い出したのです。

もちろん、ちょっとした「騒ぎ」に過ぎなかったインドの出来事と、今回の大震災とでは、事態のスケールも性質もまるきり違います。

それに、いま、日本人のほとんどは、あのときのインド人のように我先に逃げ出したり、店を閉めて暴動に備えたりすることもなく、冷静で落ち着いて今まで通りの生活を続けようとしており、日本から逃げ出したのは、たぶん、わずかな日本人と、一部の外国人だけです。

ただ、日本から脱出していった人々の行動を、軽率であるとか無責任だといって責めることは、少なくとも私にはできない気がします。

私がもし、海外旅行先で同じような事態に遭遇していたら、きっと彼らと同じ行動をとったはずです。

それに彼らは、私たち日本人や日本政府が何を考え、どんな情報を伝え、どんな行動をとるにしても、そうしたことから基本的には自由だし、私たちと「空気」を共有する義務もありません。

もしも、自分の身に危険を感じるようなことが起きたら、まずは自分自身の判断に従って、ひとまず安全と思える場所まで避難したいと思うのは自然なことだし、言葉の不自由な異国では、必要な情報を手に入れることもままならないことを考えると、なお一層、安全策をとっておきたいはずです。

いざというときに誰かを頼りにせず、自分の行動に自分で責任を持つことを前提にすると、最終的にどんな結論を出すにせよ、まずは自分が冷静に思考できる状態を確保しなければなりません。いま自分の置かれている状況が、それを許さないほど緊迫しているのだとしたら、まずはいったん大きく撤退して、ゆっくり判断できる避難先に落ち着き、そこで体勢を立て直す、そこまでは、とにかく自動的に逃走し続ける、というのは、それなりに合理的なことなのかもしれません。

もちろん、それは、ここ日本の中にさまざまな大切なものやしがらみを抱えていないという意味で、「持たざる者」である外国人に限った話です。

「持てる者」である私たちは、そう簡単に撤退を選ぶことなどできないし、自分にとって大切なものを何としてでも守り抜くしかありません。外国人であっても、日本国内に大切な何かを抱えている人は、私たちのように日本に踏みとどまるでしょう。

もっとも、何をどれだけ大事だと思うかは、人それぞれです。

外国人の目には、日本人は一様に沈着冷静で忍耐強く、秩序正しく見えているようですが、実際には、考えることも、言うことも、実際の行動もさまざまで、むしろこういうときこそ、日頃のタテマエの陰に隠れていた、各人の人柄や価値観が露わになっているといえるかもしれません……。


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at 20:43, 浪人, 地上の旅〜インド・南アジア

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ブッダガヤで除夜の鐘

長い旅をしていると、新年をどこの国のどんな街で、どんな風に迎えるかを考えることが、けっこう大きな楽しみになったりします。

というより、日本人にとっての正月のような、生活上の晴れやかで大きな節目を、長い放浪生活の中でどうやって作り出していくかというのは、実は、旅人にとってかなり切実な問題なのです。

気候も風土もさまざまな国々を渡り歩いているうちに、旅の日常からはどうしても季節感が失われてしまうし、旅が長くなると、初めての土地を訪れているにもかかわらず、新鮮な感動があまり感じられなくなってしまったりします。

そんなときは、メリハリのなくなった旅に刺激やアクセントを加えるために、旅のペースやルートを思い切って変えてみたり、いままでやったことのないことに挑戦してみたり、しばらく一つの街に落ち着いてみたりと、旅人はさまざまな工夫を試みるのですが、私の場合は、1月1日をどこで過ごすのかをあれこれ考え、その日に向かって自ら旅を盛り上げるように企画することが、そうした工夫の一つだったのかもしれません。

といっても、アジアでは、新暦の1月1日を盛大に祝うという習慣のない国が多いので、よほどの大都市でもなければ、現地の人と一緒にカウントダウンで盛り上がるようなことはできないでしょう。

だからこれは、自分の旅の節目をどう演出するかという、あくまで個人的な問題です。

自分としては、新年の初めをどんな土地で過ごすのがベストか、ガイドブックの情報、旅人からの情報、今までの経験などを総合し、いろいろと頭の中でシミュレーションしてみて、その土地に足を運び、実際に心に残るような一日を過ごせるかを試すという、一連のプロセス自体が楽しみだったのです。

もう何年も前、インドを旅していたときのこと、その年、私はバラナシ(ベナレス)でクリスマスを迎えました。

私はクリスチャンではないし、クリスマスに特に思い入れがあったわけではないのですが、たまたま宿泊していたゲストハウスのインド人オーナーが、宿泊客のためにささやかなクリスマスパーティーを企画してくれ、その日の夜はみんなで楽しく盛り上がりました。

バラナシは、治安の面でやや問題を感じるものの、その気になればいくらでも長居できそうな魅力的な街です。ゲストハウスも居心地がよかったし、急いでそこを出る必要はなかったのですが、私個人の気持ちとしては、新年をもっと静かで落ち着いた場所で迎えたいという思いがありました。

やっぱりブッダガヤかな……。

ブッダガヤ(ボドガヤ)は、バラナシからはそれほど遠くありません。お釈迦さまがさとりをひらいた歴史的な場所で、仏教徒にとっては最大の聖地です。

しかし、そこがどんな雰囲気の場所なのか、行ってみないことには全くわかりません。少なくともバラナシより田舎であることは確かですが、ブッダガヤも有名な観光地です。観光客の集まるところは、旅行者向けの便利な設備が整っていてそれなりに快適なのですが、街の人々がスレていることが多いので、行ってみたら「大ハズレ」という可能性もあります。

勝手知ったるバラナシに居続ければ、少なくともガッカリしながら元旦を過ごすという失敗はしなくてすみそうでしたが、新年まであと数日というところで、私は思い切って列車のチケットを買い、ブッダガヤに向かいました。

列車が6時間遅れたので、鉄道駅のあるガヤに着いたのは真夜中でした。駅前の安宿で朝まで仮眠をとり、乗り合いオートリキシャに乗ってブッダガヤを目指しました。

ガヤの街を出ると、すぐに周囲はのどかな田園風景になり、いかにもインドの田舎にやってきたという感じがします。しかし、ガタガタ道を揺られながら数十分、初めて見る聖地ブッダガヤは、想像以上ににぎやかでした。

後で知ったのですが、数日前までダライラマ法王が滞在されていたそうで、村はえんじ色の僧服をまとったチベット仏教のお坊さんたちでごった返していました。また、欧米人ツーリストやバックパッカーもかなりいるようです。

さらに、インド名物の怪しいみやげ物売りもそこらじゅうにいて、道を歩けば次々に日本語で声をかけてきます。

やはり、ここは典型的なインドの観光地でした。ちょっと考えてみれば、そんなことは始めから想像できたはずなのですが、ひなびた村で静かに元日を過ごそうなどという私の甘い期待は、早くも無残に打ち砕かれてしまったのでした。

それでも気を取り直し、村の中心にあるマハボディ寺院に参拝しました。何だかんだ言ってみても、やっぱりブッダガヤは昔から行ってみたい場所だったし、お釈迦さまがさとりをひらいたとされる場所にある菩提樹と金剛座を目にしたときには感動しました。

仏教はここから始まり、それから何百年もかけ、多くの人々の情熱によって日本にまで伝わったのかと思うと、さまざまな思いがこみ上げてきます。

境内には、数百人ものチベット僧が集まって祈願祭が行われている最中で、さらにその周囲には五体投地で祈る人々も大勢いて、壮観な眺めです。

夕方になると、参拝者が境内の至るところにロウソクを置いて、次々に火をともしていきます。暗闇に浮かび上がる大塔と無数の灯火が生み出す光景は、何とも美しく、幻想的でした。

大晦日の夜。

私は、年越しの瞬間を迎えるために、日本寺で行われる「除夜会」に向かいました。

日本寺では、ふだんは朝夕に本堂でお勤めがあり、そこで一般の人が座禅を組むこともできるのですが、その日は夜間も本堂が開放され、インド音楽の演奏会など、年越しの特別プログラムも組まれていました。

夜の11時になると、境内に集まった多くの人々に、年越しそばがふるまわれました。

といっても、大勢に少しずつ出されるものなので、腹一杯食べるというわけにはいかないし、正直なところ、「うまい!」と感激するほどの味ではありません。それでも、こうして異国の地で日本食をいただけるというのはありがたいものです。

日本を出て以来、そばなどというものは久しく食べていなかったので、日本での年越しを思い出しつつ、しみじみと味わいました。

食べ終わった頃に、除夜の鐘が鳴り始めました。集まっていた人々は、順番に鐘を撞かせてもらえます。

実は、私はブッダガヤの日本寺で、生まれて初めて除夜の鐘というものを撞きました。

100人以上にもなろうかという、国籍もさまざまな人々が、一人一回ずつ鐘を撞いていくのですが、たぶん私と同様、他の多くの人たちも、大きな鐘を撞くというのは生まれて初めてだったのではないでしょうか。

そこには、NHKの「ゆく年くる年」の映像のような、厳粛さで身の引き締まるような雰囲気はありませんでした。日本人や欧米人のバックパッカー、アジア各国からやって来た仏教徒やインド人など、大勢の人々が、遊園地のアトラクションでも楽しむようにキャッキャッと笑いながら、和気あいあいと、一人ずつ鐘撞きのパフォーマンスを演じていきます。

それは、108回ではとても収まらず、並んでいた全員が撞き終わるまで、除夜の鐘は延々と鳴り続けたのでした。

北インドの冬は、実はけっこう寒いので、みんなで境内の焚き火を囲んでいると、新年の瞬間がやってきました。

そこには、派手なカウントダウンもなければ、どんちゃん騒ぎもありません。集まった人々のあいだで、新年を祝うささやかな言葉が交わされ、和やかなムードが広がり、やがてその波が収まると、人々は静かに自分たちの宿へ帰っていきました。

私も寺を後にして、暗く静かな夜道を歩いていると、新しい一年が始まったんだという実感が、静かに湧いてきました。

考えてみれば、年越しの瞬間を他のにぎやかな場所ではなく、わざわざブッダガヤの日本寺みたいな場所で迎えようという旅人は、ある意味では私と同類で、静かにしみじみと、でも一人ではなく、みんなでどこかに集まって、一緒に新年を祝いたいと思っていたのかもしれません。

「除夜会」には、派手なアトラクションはないし、もちろん酒も入らないし、参加した人々が大いに盛り上がるという感じでもなかったのですが、さまざまな国からやってきた人々が、ただそこに一緒にいて、和やかに新年を祝う、とてもいいイベントだったように思います。

皆さんも、もしインドを旅行中に新年を迎えることになったら、いろいろな年越しプランの中に、ブッダガヤで過ごすという選択肢も加えてみてはいかがでしょうか?

もっとも、今年も日本寺で年越しそばが食べられるかどうかは分かりませんが……。


印度山日本寺ウェブサイト


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at 18:56, 浪人, 地上の旅〜インド・南アジア

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ポカラのチベット難民

ネパールの観光地ポカラは、バックパッカーの「沈没地」としても有名です。

湖水に映る美しいヒマラヤの眺めと、穏やかで過ごしやすい気候、静かでのんびりとした街の雰囲気、安いゲストハウス、おいしい各国料理など、沈没系バックパッカーには美味しすぎる条件がそろっていて、そのあまりの居心地のよさに、つい長居してしまう旅人が多いのです。

特に、暑くて騒々しいインドからやってきた旅人にとって、そこはまるで天国のように見えるようです。

それでも、あえてポカラの欠点を探してみるなら、その一つとして考えられるのは、ポカラ名物のパワフルな物売りのオバサンたちに、みやげ物を買うように迫られることかもしれません。

彼女たちはチベットからの難民で、売り歩いているのは、チベット密教テイストのアクセサリー類です。オバサンたちが背負っているデイパックの中には、そんな商品がギッシリと詰め込まれており、ホテルの中庭だろうが、食堂の中だろうが、道端だろうが、人の良さそうな旅人をつかまえては、その場で売り物がズラリと広げられ、「商談」が始まるのです。

オバサンたちは、決して買うことを強制するわけではありませんが、客がその日に何も買わなくても、また次の日に道端で会えば、同じことが繰り返されます。アクセサリーを売り歩くことは、難民キャンプに生きる彼女らとその家族の生活を支える手段であり、みんな必死なのです。

そのことを知っていて、チベタン(チベット人)に同情的な旅人はもちろん、オバサンたちの熱意に根負けした旅人も、何か一つくらいは買ってあげてもいいかな、という気持ちになるのですが、オバサンたちもなかなかしたたかで商売上手、提示する言い値は決して安くはないのです。

もっとも、それはインドやベトナムの物売りのしつこさとは比較にならないほど穏やかなものだし、値段も結局は交渉次第、場合によっては物々交換も可能です。そうした物売りのあしらいに慣れている旅人なら、何も恐れる必要などないでしょう。

ちなみにオバサンたちは、客のいないときにはみんなで木陰に座り込んで、おしゃべりをしながらミサンガや、ちょっとした小物づくりに精を出しています。

何かを買った客には、おまけ(?)としてそのミサンガをくれるのですが、それを手首につけて歩いていると、他のチベタンの物売りは声をかけてこないか、あるいはそれを見せて、もう別の人から買ったと告げれば、素直に引き下がってくれます。

つまりこれは、すでにチベット難民の誰かからおみやげを買ったという「領収書」代わりになっていて、ポカラの街をオバサンたちにつかまらずに自由に歩ける一種の通行証というか、関所手形みたいな機能を果たしているわけです。

私がかつてネパールを旅していたときには、ポカラにかなり長居したので、さすがにオバサンたちを避け続けるわけにもいきませんでした。

その中の一人からおみやげを買ったのをきっかけに、ポカラのダムサイド・エリアを巡回するチベタンの物売り全員と顔見知りになり、結局はすべてのオバサンからアクセサリーを一つずつ買う羽目になってしまいました。

しかし、私はそのことで、優良顧客として認定されたようです。その後、あるオバサンの一家に、難民キャンプまで食事に招待されたこともありました。

もっとも、食事の後には、例によってテーブルの上に商品がズラリと並べられるので、これはまあ、「お食事つき商談会」みたいなものだったのですが……。

それでも、オバサンたちと少しずつ親しくなり、バター茶をもらったり、互いにカタコトの英語で話をしたりしているうちに、彼らチベット難民の背景や、現在の暮らしぶりについて、私も少しずつ知るようになりました。

彼らは、(ポカラの難民キャンプの全員がそうなのかは分かりませんが)、西チベットから数十年前に脱出してきた人々らしく、オバサンの一人は、かつて自分たちはカイラス山(カン・リンポチェ)の近くに住んでいたのだと言っていました。

それを聞いて、彼らがポカラにいる理由がわかったような気がしました。

ポカラからはマチャプチャレを始めとするヒマラヤの山々を望むことができるし、ペワ湖という湖もあります。それが、聖地カイラス山とマナサロワール湖(マパム・ユムツォ)などの湖のある、美しい西チベットの故郷を思い出させるのではないでしょうか。

しかし、彼らはもうすでに何十年もの間、難民キャンプで暮らしているのです。

彼らは、いつになったらチベットに戻ることができるのでしょう?

私は当時、チベット問題について詳しく知っていたわけではありませんが、その問題が、近いうちに解決するような生易しいものではないことぐらいは承知していました。

チベット難民の人々は、タテマエとしては、いつか故郷へ戻れる日がくるまで諦めないと言っていましたが、実際のところ、もしかするともう故郷には帰れないのではないかと、半ば覚悟しているようにも見えました。

それに、亡命から数十年が過ぎ、当時子供だった難民も中年となり、すでに二世、三世もいます。子供たちは故郷を一度も見たことがなく、難民キャンプでの生活しか知りません。その一方で、かつて彼らが住んでいた西チベットには、漢民族の入植が進められているし、現地に踏みとどまったチベット人たちも生活の基盤をしっかりと固めています。

仮に今すぐチベット問題が解決したとしても、難民が自分たちの故郷に再び居場所を見つけるのはとても難しいだろうし、チベット高原での厳しい暮らしに適応するための能力や生活文化も、今や失われつつあるのではないでしょうか。

かといって、故郷に戻ることを断念し、新天地を求めて欧米やアジアの国々に移住することも、それが可能かどうかは別として、とても辛い選択にならざるを得ないでしょう。

彼らは、チベットに戻ることも、難民であることをやめることもできないまま、数十年ものあいだ、宙ぶらりんの状態で難民キャンプに暮らし続けています。それは、物質的な欠乏以上に、精神的にも非常に苦しいことだと思います。

彼らはこれからどうなるのでしょうか。そして、彼らの子供たちは、自分のアイデンティティをどこに求め、どう生きていくのでしょうか。私は、チベット難民の置かれた状況を思うと、とても重苦しい気持ちになりました。

それでも、オバサンたちは、毎日たくましく、したたかにみやげ物を売り歩いています。その元気な姿を見ていると、大丈夫、きっと彼らは必ずどこかに生きる道を見出していくはずだ、という気もしてくるのですが……。

今年の春、チベット各地で起きた騒乱や、北京オリンピック聖火リレーでの国際的な騒動など、チベットをめぐる問題がマスメディアで報じられるたびに、私はポカラの難民キャンプのオバサンたちや、その家族のことを思い出していました。

オリンピックが終わった今、チベットへの国際的な関心は薄らぎ、チベット人の居場所をめぐる切実な問題には何の解決ももたらされないまま、時間だけが虚しく過ぎていこうとしています。


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at 19:00, 浪人, 地上の旅〜インド・南アジア

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蚊を殺すことなかれ?

インドを旅していたときのことです。

お釈迦さまがさとりをひらいたとされる聖なる地で新年を迎えようと、12月の末にブッダガヤー入りしました。

初めてのブッダガヤーは、思ったよりもにぎやかな村という印象でした。何となく、時間の止まったような、さびれた寒村を勝手にイメージしていたのですが、えんじ色の僧衣をまとった大勢のチベット僧が村のメインストリートをそぞろ歩いているし、地元のインド人たちは私を目ざとく見つけると、次々に日本語で話しかけてきます。そして沿道に並ぶ大勢の物乞い……。

考えてみれば、ここは世界中から仏教徒の巡礼や観光客が訪れる超有名な聖地です。そこに聖俗ひっくるめてさまざまな人間が集まってくるのは当然のことなのでした。それに加え、私が到着する数日前には、ダライ・ラマもこの地を訪れていたそうです。そのために、ふだんにも増してブッダガヤーがにぎわっていたのかもしれません。

私は、せっかく仏教の聖地にやってきたので、普通のゲストハウスではなく、お寺に泊まってみたいと思っていました。ここにはアジアの国々が建造した仏教寺院がいくつもあって、場所によっては旅人も泊まることができるというのです。

まず日本寺に行ってみましたが、団体以外の宿泊は受けつけていないということで断られました。次に、ガイドブックの情報を頼りにミャンマー寺に行ってみると、個室はすでに全て埋まっているものの、ドミトリーなら泊まれるとのことでした。

案内された場所は、ふだんは駐車場か倉庫にしているような、だだっ広く窓もない地下室で、そこにベッドが無造作に並べられているだけでした。薄暗く、入口にはドアもありませんでしたが、ベッドの脇にバックパックがいくつも置かれているところを見ると、かなりの宿泊者がいるようでした。

ふだんなら、こんなところに泊まろうとは思わないのですが、お寺にこだわっていた私は、とりあえず今日一日だけでもここに泊まって様子を見てもいいかな、という気持ちになっていました。お寺の宿坊ということで、ドネーション(喜捨)を20ルピー程度払うだけでいい、というのも魅力でした。

ただ、一つだけ気がかりだったのはドアがないことでした。セキュリティー上の不安もありましたが、それ以上に蚊の被害に遭いそうでした。しかし、ドミトリーには蚊帳もなければ、蚊取り線香を焚いている気配もありません。

私は蚊取り線香をいつも持ち歩いていたので、いざとなれば自分のを使ってもよかったのですが、欧米人バックパッカーの中には、あの煙の匂いを非常に嫌がる人がいるので、ドミトリーでは使うのがためらわれます。それに、何よりもここは仏教寺院。大っぴらに蚊取り線香を使ったりしたら、「不殺生戒」に触れるのではないかという気がしました。

ミャンマーの仏教は上座部仏教と呼ばれ、厳しい戒律があります。やっぱり、お寺に泊まる以上は、そういうものを使っちゃいけないんだろうな……。別に、そういう掲示があったわけでも、お寺の誰かに言われたわけでもないのですが、一般人の私も、ここではそのくらいのルールは守るべきだろうと思ったのです。

とにかく私は、そこに泊まることに決め、荷物を置くと、ブッダガヤーの村をぶらぶら散歩したり、お釈迦さまがさとりをひらいた場所とされる「金剛座」のあるマハーボーディ寺院に参詣したりして午後を過ごしました。その間、万が一のために、近くの薬局で虫よけ用の軟膏も手に入れておきました。

夜、夕食をとっていた食堂で日本人旅行者に会い、旅の話などでしばし盛り上がったあと、宿坊に戻りました。

冬の北インドは朝晩けっこう冷え込むので、私はバックパックから寝袋を取り出して中に入りました。これなら手足は寝袋の中なので、蚊に刺される心配はなさそうです。私は顔だけに虫よけクリームを塗りました。蚊取り線香はなくても、これで何とかなるだろうという気がしました。

しかし、私はインドの蚊というものを甘く見すぎていたようです。

消灯後のドミトリーの暗闇の中、眠りが訪れるのを待っていると、蚊が飛び交うプーン、プーンという耳障りな羽音が途切れることなく聞こえてきます。そのうっとうしさ、気味の悪さに目が冴えてしまって眠ることができません。

虫よけのおかげで、あまり刺されずに済んではいるものの、それでも蚊は、虫よけを塗りそこなった部分を狙って攻撃してくるようで、時間とともに少しずつ被害が出始めました。

そのかゆさに、目はますます冴え、イライラした私は何度もクリームを取り出して入念に塗り直しました。そんなことを繰り返しているうちに、虚しく時間だけが過ぎていきます。

しかし、夜中の2時頃になると、状況が一変しました。

まるで何かのスイッチが入ったように、蚊の大群が怒涛の攻撃をしかけてきたのです。もう、虫よけクリームなど何の役にも立ちませんでした。血に飢えた蚊の群れが、ウワーンといううなりをあげて、次から次へと私の顔に殺到し、狂ったように刺しまくるのです。

私はもうパニック状態で、「不殺生戒」のことなどすっかり忘れ、顔にたかってくる蚊をつぶすのに必死でした。ドミトリーの全員が攻撃を受けているのか、部屋のあちこちから、「う〜ん、う〜ん」という、うめき声が聞こえてきます。

しかし、考えてみればこれは実に不毛な戦いでした。ドアのない地下室ということは、屋根があるというだけで、実質的に野宿をしているのと同じです。目の前の蚊をいくらつぶしてみたところで、蚊はいくらでもやってくるのです。

私は、とてもみじめな気分でした。

お寺に泊まることにこだわったりせず、あと数十ルピー余分に払って普通のゲストハウスに泊まっていれば、お寺の境内でこんな風に夜通し蚊を殺生し続けるようなことはしなくて済んだのです。

聖地だからといって敬虔な仏教徒を気どり、インドの自然を甘く見たことに、強烈なしっぺ返しを受けたような気がしました。

明け方近くなると、必死の戦いもなんとか峠を越えたようでした。蚊の襲撃が完全に終わったわけではありませんでしたが、それまでほとんど一睡もしていなかった私は、前日の移動の疲れもあり、みじめな敗北感に襲われながら、トロトロと眠りに落ちていきました。

翌日、私は寺にこれ以上泊まることを断念し、ゲストハウスの個室に移りました。そこで遠慮なく蚊取り線香を使用したのは言うまでもありません……。


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at 19:08, 浪人, 地上の旅〜インド・南アジア

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ラジャ・ヒンドゥスタニ

ネパールのポカラに滞在していたときのことです。

ポカラは、美しい湖とヒマラヤの眺望が有名な観光地で、アンナプルナ山系へのトレッキングの拠点でもあります。

世界各国からのトレッカーはもちろん、バックパッカーたちもインドの喧騒を逃れて骨休めに訪れるため、格安の宿と各国料理の店がそろっており、「沈没系」バックパッカーの私にとっても申し分のない土地でした。

私がポカラに沈没して、かなりの日数が経ったある日、親しくなった宿のスタッフが、「今夜、テレビで面白い映画をやるから、一緒に観よう!」と声をかけてきました。

特に予定もなく、のんびりとした優雅(?)な毎日を送っていた私には、それを断る理由もなかったし、彼らが面白いという映画が一体どんなものなのか興味も湧いてきて、私はその夜、宿のロビーで彼らと一緒にその映画を鑑賞することにしました。

夕食を終え、約束の時間にロビーに行くと、その若いスタッフが、「何年か前、この映画を映画館で上映していたときには、僕は何度も何度も観に行ったんだ!」と興奮気味に話してくれます。よほど彼の心に響いた作品だったのでしょう。

映画のタイトルは『ラジャ・ヒンドゥスタニ』といって、歌あり踊りありの典型的なインド映画でした。

ヒンディー語のわからない私にセリフは全く理解できませんが、映画のストーリーそのものはものすごくシンプルで、私にも十分過ぎるほど理解できます。

「ラジャ・ヒンドゥスタニ」とは、「インドの王」というような意味らしく、主人公のニックネームでもあるのですが、実際の彼は、しがないタクシードライバーに過ぎません。しかしある日のこと、彼は高貴な一族の美しい女性と出会い、激しい恋に落ちてしまいます。そして、愛し合う二人の前には次々に試練が……というお話です。

まあ、先の見えるストーリーで意外性はないし、映画自体もやたら長いし、セリフが分からないせいで細かい内容までは楽しめないこともあって、個人的には感動というところまでは至らなかったのですが、夜遅くまで映画につき合いながら、私は宿のスタッフの彼が、どうしてこの映画にそんなに惹かれたのだろうかと、ぼんやりと考えていました。

この映画はインドでもかなりの大ヒットだったらしく、彼に限らず、インド文化圏の多くの観客を魅了するだけの斬新な演出や、素晴らしい音楽などがあったのだろうということは十分に想像できます。

しかしそうした理由以上に、私はやはり、美しく高貴な女性と結ばれ、幸せや富など、庶民の憧れをすべて手にするという絵に描いたような成功物語こそ、彼の心を捉えて離さなかったのではないかという気がしました。

ネパールはとても貧しい国だと言われていますが、旅をしていて実際に出会う人々は穏やかで人当たりがよく、あまりガツガツとしているようには見えません。彼らは一見、自らの置かれた境遇を受け入れ、つつましい暮らしにそれなりに満足して生きているようにも見えます。

しかし、旅行者に見せるそうした表向きの態度とは別に、彼らも心の内ではやはり豊かさへの渇望を強烈に感じているのかもしれません。特に若い人の場合は、もっと豊かで快適な生活を味わってみたいという思いが心の中で渦巻いているのではないでしょうか。

あまりにも「ベタ」なインド映画のストーリーは、そんな彼らのストレートな願望を鏡のように映し出しているのだろうし、その展開が時に荒唐無稽にすら見えるのは、映画の中での豊かさや華やかさが、圧倒的多数の観客にとってはリアリティのない夢のようなものだからなのかもしれません。

それでも彼らは、それが絵空事だと知りながらも、豊かで幸せな暮らしという自分たちの夢をハッキリとした映像の形で確認したくて、映画館に何度も足を運んでしまうのではないでしょうか。

宿で働いている若者にも、内に秘めた大きな夢があるのかもしれません。ポカラのようなネパールの田舎町でのんびりと働いていても、それに満足しているわけでは全然なく、いつかチャンスを掴み、今以上の豊かな暮らしを手にしたい、もっと高い地位につきたいという熱い思いを胸に秘めながら、退屈な日々に耐えているのかもしれません。

そこまで考えたとき、ふと、彼が以前に宿に泊まっていた日本人女性と親しくなり、近々結婚することになったという話を聞いたのを思い出しました。

その話を最初に耳にした時には、ネパールではよくある話だと思ってそのまま聞き流してしまっていたのですが、今、この映画を観て、話がつながったような気がしました。

映画を何度も観て、その夢の世界に憧れた彼は、夢を夢のままに終わらせず、豊かさや幸せを現実のものにするために、映画のストーリーをなぞるようにして、日本人女性との結婚というチャンスを掴もうとしたのかもしれません。

多くの人は映画を観るだけで満足してしまいますが、彼は現実の世界で一歩を踏み出して、映画の主人公のような成功を収めたかったのではないでしょうか。

もちろん、これは私の単なる妄想に過ぎないし、人間の心の中は、そんなに簡単に割り切れるようなものでもないでしょう。それに、他人の心の内をあれこれ詮索するなど、余計なお世話でもあります。

ただ、正直に言うなら、私は、二人を待ち受けている未来に、何か漠然とした不安のようなものを感じてしまったのでした。

映画の場合は二人が結ばれた時点でハッピーエンドですが、現実の方はそういうわけにはいきません。

国際結婚のカップルが文化の違いを乗り越えてうまくやっていくことはそれほど簡単なことではないだろうし、そういう現実的な苦労のことなど、夢を売るための映画の中にはもちろん出てきません。

彼らは、映画にはない結婚後の生活の試練を、自分たちの力で乗り越えることができるでしょうか……。

しかしもちろん、そんなことを言えば彼のプライドを深く傷つけてしまいそうで、私はそれを口に出すことができませんでした。

あれからもう何年にもなります。

ネパールでは、ここ数年、ずっと社会的な混乱が続いてきました。彼がもしネパールで引き続き観光産業に携わっていたなら、生活はかなりの打撃を受けたかもしれません。

二人は今、どこでどんな暮らしをしているのでしょうか。

私にそれを知るすべはありませんが、困難をうまく乗り越えて、幸せを掴んでいてほしいと思います。


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at 19:44, 浪人, 地上の旅〜インド・南アジア

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ふたりの子ども

ネパールのポカラに滞在していたときのことです。

ポカラは、美しい湖とヒマラヤの眺望が楽しめるだけでなく、アンナプルナ山系へのトレッキングの拠点にもなっており、世界各地からトレッキング客やバックパッカーが集まる有名観光地です。

観光地といっても、町自体はこぢんまりとしていて居心地がいいし、乱立気味のホテルは価格競争のおかげで安く泊まれ、日本食のレストランも数軒あるという好条件がそろっており、ぐうたらな旅人には最適の「沈没」地です。

欧米人ツーリストのほとんどは、湖の東側に広がるレイク・サイドといわれるエリアに集中していて、例によって毎日騒々しく遊んでいるのですが、日本人バックパッカーは静けさを好む傾向があるのか、繁華街から少し離れた、湖の南側のダム・サイドといわれるエリアに固まっているようです。

今はどうなっているか分かりませんが、私が滞在していた時には、ダム・サイドには騒々しい音楽をかけるようなカフェは一軒もありませんでした。日が暮れると、食堂以外は全て閉店し、通りはひっそりと静まり返ってしまいます。

その日私は、友人のネパール人とダム・サイドの安食堂でささやかな夕食をとり、暗い夜道を宿に戻ろうとしていました。時間は夜の7時すぎくらいだったでしょうか。

そのとき、小学校に行くか行かないかくらいの、幼いふたりの子どもが、大声で泣きながら向こうから歩いてきました。確か、兄と妹ではなかったかと思います。

ネパール人の友だちは彼らのそばに駆け寄って、何があったのか子どもたちに尋ねました。彼は子どもたちをなだめて落ち着かせると、私にも簡単に事情を説明してくれました。

子どもたちは近所に住んでいて、彼とも顔見知りのようなのですが、最近彼らの父親が急死し、それ以来、母親は酒浸りになってしまったのだそうです。その日も母親はどこかへ出かけたまま、夜になっても家に戻らず、不安になった子どもたちは泣きながら母親を探しているというのです。

私は、その場に立ち尽くしていました。

何か、子どもたちにとって大変なことが起きているのは分かるのですが、自分がそれに対して、一体どうしたらいいのか分からなかったのです。

やがてネパール人の友人は子どもたちに、とりあえず家に帰って母親を待つように指示したようでした。ふたりは家に向かって引き返していきましたが、彼らの母親が果たして帰ってくるのか、それまでふたりがどれだけ不安な気持ちで待ち続けることになるのか、私には想像もつきませんでした。

友人と別れ、宿に戻ってからも、ふたりの子どものことが頭を離れませんでした。

母親が帰ってこないということは、彼らは食事もできないでいたはずです。親が戻らないという不安だけでも大変なことですが、彼らはひどくお腹を空かせてもいたのではないかと思い至りました。

家で母親を待つあいだ、せめて彼らが何か口にできるよう、まだ開いていたパン屋で菓子パンか何かを買ってあげればよかったのではないか、せめてそのくらいのことなら私にもできたのではないか、そんな後悔が心にまとわりついて離れませんでした。

しかしその一方で、たとえそうしたところで、それは私自身の自己満足のための行為に過ぎないのではないか、という気もしていました。

ネパールを始め、社会保障が発達していない国々では、一家を支える働き手に家族の命運がかかっています。病気や事故で一家の大黒柱を失えば、家族全員が極貧の生活に陥ることになるのです。一家の主を失った母親が将来を悲観し、絶望のあまり酒浸りになってしまったのだとしたら、それは今日一日をなんとかやり過ごせば済むという問題ではありません。

通りすがりの旅人が、ささやかなお金で今晩の子どもたちの胃袋を満たしてやることができたとして、それでどうなるというのでしょうか。明日になれば、また同じ問題が、解決されないまま再び子どもを苛むことになるだけです。

そもそも、私がネパール人の友人と一緒に通りを歩いていなかったら、ふたりの子どもがなぜ泣いているのか、その理由を知ることはなかったでしょう。たぶん彼らは喧嘩でもしているのだろうと考えて、そのままそこを通り過ぎていたはずです。

彼らが泣いている理由をたまたま知ってしまったために、私は気持ちを動かされ、ささやかな善意という自己満足のために、自分で背負うつもりもない問題に、中途半端にちょっかいを出しているだけではないのか……。

子どもたちに何かしてやるべきだったのか、それとも何もしなくてよかったのか、頭の中では思考がグルグルと回るだけで、結論が出ることはありませんでした。

後日、ネパール人の友人と会ったときも、私はあの日のふたりの子どもがその後どうなったのか、結局尋ねることができませんでした。

もしかすると、あの日の大騒ぎは子どもたちの取り越し苦労で、家に帰ったら母親が夕食の支度をしていたなんてことも、可能性としてないわけではありませんでしたが、たぶん実際には、もっと悲しいニュースを聞かされるだろうということが、何となく分かっていたからなのかもしれません。

いろいろ聞いてしまえば、気持ちの問題として、子どもたちの窮状を打ち捨ててはおけなくなるはずです。しかし、旅人という立場を省みずにそうした問題に首を突っ込めば、結局はどこかの時点で、無責任な形で手を引かざるを得なくなるでしょう。

そうやってネパールの重い現実に、中途半端な気持ちのまま巻き込まれ、旅人という立場と自分の気持ちとの間で板挟みになって悩むことになるのが、怖かったのかもしれません。

今にして思えば、泣いている子どもたちと向き合っていたあの瞬間に、サッと体が動いてパン屋に走り、パンなり何か食べるものを彼らに持たせてあげていれば、きっとそれで私の役目は充分だったし、後でグズグズと悩む必要もなかったのだろうと思います。

通りすがりの旅行者でも、通りすがりなりに何かできることがあるのだろうし、その瞬間に思いついた手当てを自然な気持ちでサッとできれば、それで充分だったのではないでしょうか。

ポカラでのあの日、そのちょっとした行動ができなかったために、後味の悪さがずっと後まで尾を引いたのではないかという気がします。

皆様は、旅先でこんなシチュエーションに出合ったら、どんな行動をとられますか?


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at 19:11, 浪人, 地上の旅〜インド・南アジア

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カトマンズの宝石店で

ネパールのカトマンズに滞在していたときのことです。

カトマンズのタメル地区は、トレッキング客やバックパッカー向けの安宿やレストラン、旅行代理店や土産物屋がひしめく一大観光拠点です。

狭いタメル地区の中に、さまざまな国の料理を扱うレストランが何軒もあるのですが、ネパール人コックの作る料理は、和食を含めてなかなかの水準で、値段も手頃です。旅人の中には、ここでしばし旅の疲れを癒しつつ、各国料理の食べ歩きを楽しむ人も少なくありません。

私も、そうした例に漏れず、居心地のいいカトマンズの雰囲気を味わいながら、ぶらぶらと長居を続けていました。

そんなある日、いつものようにおいしいパン屋に立ち寄り、優雅なティータイムを楽しんでいると、一人の少年が英語で声をかけてきました。彼は私の向かい側の席に座ると、身を乗り出すようにして自分のことを話し始めました。

南アジアの人々は、概して好奇心旺盛なのか、外国人を見つけると話しかけたり、いろいろと質問してくることがめずらしくありません。そのほとんどは「どこから来たのか?」とか、「何の仕事をしているのか?」「結婚しているのか?」といった他愛のない会話なのですが、ヒマを持て余している旅人にとっては、ちょうどいい時間つぶしになることもあります。

私は、他にすることもなかったので、少年の話に適当に付き合っていたのですが、彼のあまりに強引な話の進め方に、すぐに違和感を感じ始めました。そこには、明らかに何か特定の意図があって、シナリオ通りに話を持っていこうという作為が感じられました。

案の定、彼は座って5分もたたないうちに、兄が経営している宝石店へ遊びにこないか、と言い出しました。聞いてみると、彼らはインド系の住民で、タメル地区で商売をしているのだそうです。

客引きに誘われるまま、宝石店に遊びに行ったりしたら何が起こるか、インドを旅したことのある人ならピンと来るはずです。

[宝石及び絨毯詐欺]

 この詐欺犯罪は、殆どがアグラ、ジャイプールで発生しています。典型的な手口は以下のとおりです。

 観光中に声を掛けてきた者やオートリキシャやタクシーの運転手に、宝石店や絨毯屋に連れて行かれ、その店で、商品を日本国内の指定する店まで届けて欲しいと持ちかけられる。店員からは、「取りあえずクレジットカードで支払いをしてもらうが、商品は帰国後手元に届くように直接発送する。商品が指定された店に無事届けば、その支払いをキャンセルした上で礼金を渡すことを約束する」などと言われ、支払いを迫られる。あるいは、「日本の取引先に宝石を送りたいが、輸出許可等が面倒なので、取り敢えずあなたのクレジットカードで購入したことにして日本まで運んで欲しい。日本では取引先があなたにコンタクトするので、商品と引き換えに購入代金と礼金をもらって欲しい」等と言葉巧みにクレジットカードでの決済を迫られる。日本人旅行者がこれを断ると、脅迫まがいに支払いを強要する場合もあります。どちらの場合も商品は届かなかったり、日本で念のため鑑定してもらったら、二束三文の商品であったりという典型的な詐欺です。

外務省 海外安全ホームページ インド 【安全対策基礎データ】 より。ネパールの項にも同様の記述があります。)


要は貧乏旅行者に、金になるアルバイトだと信じ込ませて多額の金を前払いさせ、その担保となる商品を送らなかったり安物をつかませたりするのです。帰国しても取引先とのコンタクトの話などデタラメで、被害者はそこで初めて騙されたことに気づくのですが、すでに後の祭りで、泣き寝入りするしかありません。

タージマハルで有名なアグラなどの観光地でよくあるパターンなのですが、同じ手口がついにネパールにまで広がってきたのかと思いました。

少年の言うままに宝石店に行ったらどうなるか、この先の展開が読めてしまったので、彼をどうやって追い返そうかと考えていると、少年はなおも話を続け、兄の宝石店で一緒に写真を見よう、と言います。兄が世界各国を旅した写真があるので、見たらきっと面白いはずだ、というのです。

全く見知らぬ他人の写真を見せられても、楽しいだろうとはとても思えませんでしたが、ここでふと魔が差したのか、少年の誘いに乗ったふりをして、ちょっと様子を見てもいいかな、という気持ちが湧いてきました。

どうせ今日はヒマなんだし、最終的にダマされないように用心すればいいじゃないか、ヤバそうになったら早めに逃げ出せば大丈夫、などと、いつになく大胆なことを考えました。結局、彼の兄が経営するという宝石店に行ってみることにしたのです。

パン屋から宝石店までは、ほんの数分でした。宝石に興味のない私は、こんなことでもなければ足を運ぶこともなかったでしょう。その小さな店に入ると、兄だという30代くらいのインド人と、なぜか欧米人の老人がいました。

この老人は一体何者なのでしょうか。一見したところ、この店によく来るなじみの客という感じです。手許に並べられた宝石を手に取りながら、主人のインド人と親しげに会話を交わしています。

やがて少年が、写真の入った簡易アルバムを何冊か持ってきました。開いてみると、目の前にいる主人が、日本やヨーロッパの風景を背景に写真に収まっています。中には、日本人バックパッカーの自宅に招待されたのか、若い日本人男性とその家族が、宝石店の主人を家に迎えている写真もあります。

写真を眺めていると、主人と老人、そして私と少年のために、チャイが4つ運ばれてきました。一瞬、何かの薬が入っているかもしれないと躊躇しましたが、店の中には他の客の姿も見えたので、とりあえず大丈夫だろうと考え、少しずつ口に運びました。

チャイを飲んで一服すると、宝石店の主人は、すぐに本題に入りました。

こちゃこちゃと回りくどい説明だったのですが、要は、日本で宝石の見本市をやるために宝石を送らなければならないのだが、いろいろ手続きをするのが大変だ、ついては君に「運び役」をお願いしたいという、先ほど引用した典型的な詐欺のパターンです。

老人も一緒になってその話を聞いているところからして、彼は客ではなく、店の用意したサクラなのかもしれません。彼は欧米人のバックパッカーを信用させるためにこの店に雇われていて、店に有利な証言をしてみせたりする役回りを演じているのではないでしょうか。

私は、店の主人の頼みをのらりくらりとかわしながらも、心の中で怒りが込み上げてくるのを感じていました。先ほどの日本人バックパッカーの写真のことが、頭から離れません。

その日本人旅行者は、別にこの店で騙されたわけではなく、何かの理由で店の主人と仲よくなり、何も知らずに友情の証として彼を日本の家に招待したのかもしれません。しかし、彼らの写真は今こうして、他の旅人たちを騙して信用させるための道具として悪用されてしまっています。

日本人の若者は、このことを知っているのでしょうか? そして、本当のことを知ったらどう思うでしょうか?

人との友情を踏みにじる、この詐欺師のやり方が、私には許せませんでした。

しかし、この宝石店で詐欺が行なわれているという状況証拠はあっても、彼らに反撃できるだけの力は、私にはありません。

この場で彼らのことを詐欺だと言って非難するのは簡単です。しかしきっと、彼らは笑って即座にそれを否定するだろうし、彼らの商売に何のインパクトも与えないでしょう。他の人が騙されたという証拠を私は持っていないし、私もまだ、騙されたわけではありません。詐欺が行なわれているという明白な証拠は、どこにもないのです。

それに、私には宝石を鑑定する能力がないので、ここで私に運ばせようとした石が本当に安物なのかどうか判断できません。ほとんど限りなくゼロに近い確率ですが、彼らが全く詐欺をはたらいておらず、値段相応の宝石を旅人に運ばせているという可能性もないわけではないのです。

彼らが実際に詐欺をしているかどうかは、旅人が帰国してみなければ分からないし、だからこそ被害者は泣き寝入りするのです。ある意味では、考え抜かれたやり口だともいえます。

私は、しばらく日本に帰国する予定はなかったので、それを理由に主人の要求をかわし続けました。すると、主人は脈がなさそうだと分かったのでしょう、弟の少年に向かって、「こいつはダメだ、追い出せ」というように目で合図しました。

私は少年に促され、店を出ました。

カモにならないと見るや、客をさっさと放り出すというあまりに現金な扱いは、いかにも彼らの商売にふさわしいやり方に感じられました。

結局、金を払うような状況に追い込まれずに済んだという意味では、私はまあ、運がよかったのかもしれません。それに、私のような人間でも簡単に見抜ける不自然さで、しかもあまりしつこく私を追い込んでこなかったところを見ると、彼らもまだ詐欺のプロといえるほど商売に慣れていなかったのかもしれません。

しかし、社会勉強になったと言うにしては、何とも後味の悪い体験でした。

観光客の集まる街には、こんな落とし穴もあちこちにあります。皆様もどうぞお気をつけください。


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at 20:18, 浪人, 地上の旅〜インド・南アジア

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ポカラの小さな店で

ネパールのポカラに滞在していたときのことです。

ポカラは、マチャプチャレを始めとする美しいヒマラヤの山々を望む、湖畔の小さな町です。ヒマラヤへのトレッキング客や、インドの苛酷な旅に疲れたバックパッカーたちが、しばし骨休めをする場所として有名ですが、物価が安く、各国料理の店もそれなりに充実していて、ぐうたらな旅人にとっての理想的な「沈没地」でもあります。

そんなポカラの居心地のよさに、私もついズルズルと長居をしてしまい、気がついたときには冬がすぐ近くに迫っていました。

日本を出たときには暖かかったので、私は冬支度はおろか、長袖のシャツすら用意してきませんでした。これから北インドに向かおうと漠然と考えていたのですが、北インドの冬は意外と冷え込むので、それなりの準備をしておかなければなりません。

インドビザを取るために、とりあえずカトマンズに戻る必要があったので、フリースの上着などはそこで買うことにしましたが、それまでの間、Tシャツだけで過ごすのは寒いので、ポカラで長袖のシャツを買うことにしました。

ポカラで知り合ったネパール人の友人と散歩がてら、町の中心部に買い物に出かけました。といっても、ショッピングセンターみたいなものがあるわけではなく、間口の狭い小さな衣料品店がひしめく一角で、地元の人向けの服が積み上げられた中から、とりあえず自分でも着られそうな服を探すわけです。

とりあえず適当な店に入ってみると、薄暗い店内に座っていた、20代後半くらいの青年が日本語で話しかけてきました。

ネパールでは、こういうことはめずらしくありません。観光地では、ツーリストから覚えたカタコトの日本語を駆使する若者や、日本語を勉強して商売に役立てようとする人が大勢います。そんなネパール人があまりにも多いので、彼らが日本語で話しかけてくるたびに、何か下心でもあるんじゃないかと身構えてしまうくらいです。

しかし、その店員の日本語は、何となく感じが違っていました。旅行者から覚えたようなブロークンな日本語ではなく、文法的に完璧で、しかも落ち着いた礼儀正しい話し方だったのです。

彼はもしかして、日本に長く住んでいたのではないか、そんな気がして彼に尋ねてみると、東京の大学に留学してコンピュータサイエンスを勉強していたのだと言います。

どうりで日本語が達者なわけです。私は納得して、そして少し彼を信用する気になって、その店にあった長袖のシャツの山から一枚を選び、言い値から少しだけ値切って買いました。

店を出た後でネパール人の友だちに確認してみると、店員とは知り合いではないし、別に理由があってこの店に私を連れてきたわけではないようでした。もしそうだとしたら、ネパールの田舎町でたまたま入った店で、日本への留学生に出くわしたというのは、かなりの偶然だったことになります。

店員が日本語を話したために、かえって少し警戒してしまったのと、買い物のほうに注意が向いていたためか、彼とはあまり会話もしないうちに店を出てきてしまいましたが、せっかく日本語で自由に話せたのだから、もっといろいろ話をしてもよかったかな、と後で思いました。

しかしそれ以上に、私は何かモヤモヤと引っ掛かるものを感じていました。

日本に留学し、東京でコンピュータサイエンスを学んでいたというエリートとしての彼の経歴と、ポカラの薄暗くホコリっぽい小さな店の奥に座っていた彼の姿が、うまく結びつかないのです。

彼は今、たまたま日本から帰省していて、暇をもて余して実家の店の手伝いでもしていたのでしょうか。どうも、そんな感じではありませんでした。

店の片隅でじっと座っていた彼の表情は、暗く沈んでいたようにも見えました。

これは私の勝手な想像なのですが、奨学金を得るなどして日本へ留学したものの、結局彼は日本では就職できなかったか、何らかの事情があってネパールに戻ってきたのではないでしょうか。そして、これといった産業のないネパールでは、才能と経歴を活かせるような就職口もなく、失意のうちに故郷のポカラに戻って、実家か親戚の商売の手伝いをして暮らしているのではないでしょうか。

そこまで考えたとき、きっとそういう境遇の人が世界中にいっぱいいるんだろうな、と思いました。何らかの事情があったり、夢破れたりして、故郷に帰ったり、あるいは都会の片隅でささやかな居場所を見つけ、自らの不遇をかこちながら、静かに暮らしている人が大勢いるのではないでしょうか。

それは、個人の失敗や不運ということもあるかもしれませんが、場合によっては、生まれた場所や生まれた時期が悪かったとしかいいようのないような、どうにもならない、とても大きな流れに翻弄された人も、世界中に数え切れないほどいるのでしょう。そんなことを思い、何とも切なくなりました。

もっとも、ポカラの店番の青年は、自らの事情について何も語っていません。彼の見かけの印象からここまで想像の翼を広げたのは、あくまで私の妄想に過ぎません。彼は本当にたまたま実家に帰省していただけなのかもしれないし、ともかく勝手に私に同情されるような事情など何もないのかもしれません。

失礼とは分かっていても、実際にその辺の事情をもう少し聞いてみればよかったかな、とも思いましたが、仮にそこまで踏み込んで、何かが分かったところで、いったい私に何ができるというのでしょう。

結局その後、その店にもう一度足を運ぶことはありませんでした。

あれからもう何年にもなりますが、彼は今もあのポカラの小さな店で店番をしているのでしょうか。そんなことをふと思ったりします。

しかし、世界は今、激動しています。

今まで、最先端のビジネスに参加しようと思ったら、先進国で就職するとか、開発途上国の首都に進出してきた多国籍企業に採用されるくらいしか方法がありませんでした。それが、グローバリゼーションとインターネットの急速な普及によって、国や場所を選ばず、世界のどこからでも、国際的なビジネスの世界に飛び込むことが可能になりつつあります。

ネパールの隣国であるインドも、グローバル化の中で急速に台頭しつつあり、先進国から帰国した留学生たちが、自らの手で、新しいビジネスを次々に立ち上げているといいます。希望的観測かもしれませんが、ネパールにも、近いうちにそうした動きが波及する可能性はあるのではないでしょうか。

ひょっとするとポカラの青年も、既に世界の大きな流れに飛び込み、チャンスをつかんで、世界のどこかで生き生きと仕事をしているのかもしれません……。


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at 19:02, 浪人, 地上の旅〜インド・南アジア

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