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進化するテクノロジーと変われない人間

今年の1月から5回にわたって放映された、『NHKスペシャル NEXT WORLD』を見ました。
NHKスペシャル NEXT WORLD 私たちの未来

番組は、コンピュータによる未来予測、寿命の延長、人体のサイボーグ化、バーチャル・リアリティ、宇宙開発など、さまざまな分野の最新テクノロジーを紹介しつつ、そうした技術がさらに進んだ30年後の未来社会を描き出そうというものです。

紹介されていたテクノロジーに関しては、ネット上のニュースなどで、すでに何度か見聞きしていたものが多く、それほどの驚きはありませんでした。ただ、冷静に考えてみると、それらの技術は、数年前なら夢物語にしか聞こえなかったようなものばかりです。このところ、すごいニュースに接するのが当たり前みたいになっていて、私の感覚がマヒしているのかもしれません。

それはともかく、人工知能にせよ、サイボーグ技術やバーチャル・リアリティにせよ、それらはみな、人間の欲望を刺激し、新たなビッグ・ビジネスに育つ可能性を秘めているだけに、今後ますます多くの人々とカネを巻き込み、その結果、技術の進化はさらに加速していくことでしょう。

一方、番組では、2045年の未来社会の暮らしがミニ・ドラマ(というよりミニ・コント?)で描かれるのですが、そちらには大いに違和感を覚えました。未来世界のはずなのに、みんなぞろぞろ揃って職場に「通勤」するなど、人々の思考や行動のパターンが、妙に古くさいのです。

まあ、これについては、びっくりするようなテクノロジーを続けざまに見せられ、頭がパンクしそうな私たち視聴者に、少しはホッとできるような、ベタな人情ドラマを見せてバランスをとろうという趣向なのかもしれません。

あるいはそれは、今後30年でどれだけ技術が進歩しようと、それを使う人間の側は変わらない、というか、変わりたくてもなかなか変われない、ということなのかもしれません。

例えば、30年前の1985年あたりを振り返って、そのころを基準に現在を見れば、たしかに世界は大きく変わったし、技術革新も進みました。私たちは、インターネットという新しい世界を手に入れ、ケータイやスマホを肌身離さず持ち歩くようになったし、それによって、日常生活のパターンにもかなりの変化がありました。ただ、私たちの世界観や価値観、つまり、この世界をどんな風にとらえ、人生において、どんなことを大事だと考え、何に幸せや喜びを感じるのかという基本的な部分では、ほとんど何も変わっていないような気がします。

そう考えると、これから先の未来に関しても、ある程度は、同じようなことが言えるのではないでしょうか。

今後も、人類の中の非常に優秀な人々が、驚くような発明をし続けるだろうし、それらを新しいビジネスに育てていく人もいるでしょう。また、急速に発展しつつある人工知能やロボット技術などが、そうした動きをさらに加速していくことになるのでしょう。

しかし一方で、世の中の大多数を占めるごく普通の人々は、子供の頃に育った環境とか、学校で学んだことなど、若いころにどんな体験をしてきたかによって、世界観や価値観の大枠が固まってしまっていることが多いし、その枠を自ら乗り越えて変わっていけるような人は、とても少ないのではないかと思います。

30年後の2045年になっても、きっと、昭和生まれの人々が、まだ元気に暮らしているはずです。もしかすると、若返りのテクノロジーによって、現役バリバリで働いているかもしれません。そして、その多くは、自分が若いころに身につけた昭和的な価値観を、しっかりと守り続けているかもしれません。

もちろん、それは決して悪いことではないと思います。伝統的な価値観は、それが古いという理由だけで否定されるべきではないでしょう。

ただ、新しいテクノロジーに幼少の頃から親しみ、それがもたらす新しい可能性につねに心を開き、自らを変えていくことを厭わないような「新しい世代」の人々、その中でも特に、人類のフロンティアをどんどん押し広げ、遺伝子操作やサイボーグ化によって、生命としての人間のかたちそのものすら、どんどん変えていこうとする先鋭的な人々と、「古い世代」の人たちとの意識の断絶は、そのころになると、絶望的なまでに大きくなってしまうのではないでしょうか。

これまでの人間のあり方を、人類全体として守り続けるべきなのか、それとも、個々の人間が、自らの欲望に忠実に、多様な可能性を極限まで追い求めていくべきなのかについては、どちらがいいとか悪いとか、単純に答えを出せる問題ではないし、できることなら、さまざまな世代のあらゆる立場の人々が慎重に考え、議論すべきことなのでしょうが、すでに現時点でも、社会的な合意形成やルールの制定が現状に追いつかなくなりつつあり、いずれは、「新しい世代」の人々をコントロールし切れなくなる気がします。

世の中の多数派である、なかなか「変われない」人々と、ごく少数だけれど、非常に高い能力をもった、「変われる」、もしくは「変えてしまう」人々。その価値観の根本的な相違は、やがて、私たちの「人類」としての一体感すら失わせ、SFやアニメの世界でおなじみの「独立戦争」みたいに、立場や考え方が異なる人々の生活圏を分断して、別々の世界を生み出していくことになるのかもしれません。もしかすると、新たなテクノロジーがこの地球上のどこか、あるいは宇宙のどこかに、人間の住める新しい土地を用意し、かつてのように、狭い土地をめぐって壮絶な殺し合いをすることなく、そうした住み分けを可能にするかもしれません。

いずれにしても、「変われる」人々なら、どんな未来がやってこようと、そこに可能性や面白さを見つけ出し、それなりに楽しくやっていけるのでしょう。しかし、それが難しい人間にとっては、社会のめまぐるしい変化自体がストレスになって、せっかく長生きできても、人生をあまり楽しめないのではないかという気がします。

私も昭和生まれの一人ですが、もし30年後に生き残っていたら、未来社会を心から受け入れることができるでしょうか……。

ただ、第2回の放送で紹介されていた、「脳を柔らかくする」薬(バルプロ酸)のような研究がもっと進んで、年齢を重ねた人でも、学習能力や環境への適応力を高められる方法が見つかれば、テクノロジーの力を借りて、多くの人間が「変われる」ようになるかもしれません。

でもまあ、そのころには、映画の『三丁目の夕日』みたいな古きよき昭和の世界が、バーチャル・リアリティで完璧に再現できるようになっているはずです。時代の流れについていけず、かといって、薬を飲んでまで世の中に適応したくない「古い世代」の人々も、バーチャルな昭和時代に引きこもり、その中で昭和っぽいキャラクターの人工知能と「交流」すれば、それなりにストレスなく生きていけるようになるかもしれません……。


JUGEMテーマ:今日見たテレビの話

at 18:50, 浪人, テレビの旅

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「非対称戦争」

10月18日深夜のNHKスペシャル「貧者の兵器とロボット兵器〜自爆将軍ハッカーニの戦争〜」(再放送)を見ました。

この番組は、現在アフガニスタンで続いている戦争について、それぞれの陣営の持つ兵器の物量とテクノロジーの圧倒的な差に着目して、その戦争の一面を描こうとするものですが、それは一般向けのTV番組とは思えないほどの、戦慄するような内容でした。

かつて、アフガニスタンに侵攻したソ連軍に対抗する勢力として、アメリカ自身が育成したゲリラ部隊が、皮肉なことに、今はタリバン側の武装勢力に加わり、アメリカを中心とする多国籍軍にとっての脅威になっています。

相次ぐゲリラ攻撃による兵士の犠牲を防ごうと、米軍はロボット兵器を次々に戦場に投入してきました。番組ではその一つの例として、アメリカ本土から操作する無人攻撃機が、タリバンの拠点や車両などをピンポイントで攻撃する様子が示されます。

映像を見るかぎり、無人機の操作は、まるで精巧なテレビゲームでもやっているような感じです。操作訓練中の兵士たちのあっけらかんとしたコメントからも、それが生きた人間をリアルタイムで標的にしているという緊迫感や重々しさは感じられません。

理屈の上では、そこはまさに戦場であるはずなのですが、「敵」は地球の裏側にいて、無人機の操作という「戦闘」を行う兵士たちに命の危険がない以上、そうなるのは当然なのかもしれません。

旧式の銃や手製爆弾など「貧者の兵器」しかもたない武装勢力に、無人のハイテク兵器を含めた強力な正規軍で対峙するアメリカ軍。客観的に見て、その圧倒的な兵力差も、戦略・戦術の違いも、明らかに「非対称」です。
ウィキペディア 「非対称戦争」

ただ、考えてみれば、数千年前に国家というものが生まれて以来、多くの戦争は、やはり一方的な力の差のもとに行われた「非対称戦争」だったのではないかという気がします。戦争の多くは侵略であり、戦争する者は、その大義名分はともかく、自分たちが一方的に勝てると思うからこそ戦争を始めるはずだからです。

それはともかく、この番組を見ていて戦慄したのは、両者の物理的な兵力差に対してではありません。アメリカ軍が、敵を掃討するのに、生身の人間ではないロボット兵器を使っていることに対してでした。

もちろん、アフガン戦争では実際にアメリカ人兵士も血を流しています。ロボット兵器だけで戦争が行われているわけではありません。しかし、一部の兵士がテクノロジーの恩恵で安全な場所に身を置きながら、一方的に敵を攻撃している映像を見ていると、私の胸の中に、何ともいえないモヤモヤとした嫌な気分が、止めようもなく湧き上がってきました。

いくら味方の犠牲を防ぐためと称しても、無人のロボット兵器で敵に向き合うことは、卑怯な感じがしてならないのです。いや、卑怯である以上に、それは敵に対するこれ以上ないほどの差別と侮蔑の表現であり、敵が、自分にとって命を懸けて真剣に向き合うには到底値しない相手だと見做すことになるのではないでしょうか。

それに対して、タリバン側はやり場のない屈辱と無力感、その裏返しとしての激しい怒りを感じるだろうし、だからこそ、あらゆる手段を使ってでも、その侮辱に対する仕返しをしようとするのではないかという気がするのです。

番組の最後は、「自爆将軍」ハッカーニの率いる武装勢力が、無人機攻撃への報復として、自爆攻撃をさらにエスカレートさせているというナレーションで終わっています。

ロボット兵器を使ったアメリカ軍の攻撃がタリバンへの侮辱だとするなら、タリバンも相手かまわぬ悲惨な自爆テロで応酬しているわけで、それはもう、どちらが正しいとか、どちらが善だとか言っていられるレベルではなくなっています。互いへの憎悪と軽蔑が際限なくエスカレートし、それは、事態の収拾をより一層困難にしています。

ただ、こうした戦争の実態を垣間見て、それが卑怯だとか侮辱だとか、感情的な言葉で語ってしまうのは、私が単に、戦争に対して無知だからなのかもしれません。私は、現代の戦争という壮絶な殺し合いの中に、中世の騎士道とか武士道みたいなものを期待している、時代錯誤な人間に過ぎないのでしょうか。

あるいは、おどろおどろしいナレーターの声も含め、見る人の感情を必要以上に煽ろうとする、少々悪趣味な番組の演出に、私も乗せられてしまったのでしょうか。

いずれにせよ、アフガニスタンで起きている戦争について、その全体像を把握し、ましてやその本質を理解することなど、ジャーナリストでも研究者でもなく、戦争体験すらない私には到底不可能なことだし、だからこそ、この50分弱のTV番組を1本見ただけで、何か分かったような気になってしまうのは、大変危険で、傲慢なことでもあると思います。

そういった点は自覚しているつもりですが、それでもこの番組は、アフガン戦争が垣間見せる、寒気のするような一面を、ロボット兵器と自爆テロとの「非対称戦争」という切り口で、生々しく描き出しているように思うのです。

それにしても、言葉ではうまく表現しきれない、このやり場のない感じは、番組を見終わったあとも、行き場のないまま残っています。

アフガン戦争については、私も日本人の一人として、すでに微妙な立場で関わりをもっていることになるわけで、このモヤモヤした感情を、都合よく忘れてしまうわけにはいかないのですが、では、実際問題として私自身に何ができるのか、考え始めれば出口のないドロ沼にはまり込んでいきそうな気もします。

見ないわけにはいかないけれど、かといって、見れば非常に後味の悪い思いにさいなまれる、恐ろしい番組でした。


JUGEMテーマ:今日見たテレビの話

at 19:02, 浪人, テレビの旅

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地上デジタルに感動しないのはなぜ?

2011年7月のテレビの地上アナログ放送終了まで2年弱となり、最近では、地上デジタル放送への移行を促す告知やコマーシャルを頻繁に目にするようになりました。
ウィキペディア 「日本の地上デジタルテレビ放送」

その移行についてはさまざまな問題も出ているようですが、日本全体としてはともかく、私たち個々の視聴者としては、今まで通りアナログ放送を見続けるか、それとも地上デジタル対応の機器をそろえ、必要なら工事をして新しい放送を受信するか、どちらかの選択肢しかありません。すでに、オリンピックなどのイベントやテレビ買い替えのタイミングで、デジタル放送に切り替えた方も多いと思います。

私も地上デジタルを見るようになったのですが、やはり当初は、これまでのアナログ放送よりはるかにシャープでゴーストのない画面に新鮮な驚きがありました。

しかしまあ、人間というものは、どんな環境にもすぐに慣れてしまうものです。特に贅沢さというものには、貧しさよりもずっと慣れやすいもののようです。2、3日もしないうちに、その美しい画面が当たり前になり、何も感じなくなってしまいました。

それどころか、逆に、何か微妙な物足りなさみたいなものさえ感じます。

デジタル化で、画質も音質もはるかに良くなっているはずなのに、テレビ番組を見ていても、その世界に引き込まれるどころか、むしろ何となく白けたような、醒めたような感じがしてしまうのです。

もちろん、これはかなり微妙な感覚で、気のせいだといえばそう言えなくもない程度なのですが、デジタル放送を見始めたころから、ちょっと気になっていました。

これは、なぜなのでしょう?

こんなことは、あまり考えても意味はないのかもしれないし、何か思いついたところで、素人のこじつけ以上のものにはならないのでしょうが、ヒマだったので、勝手にいろいろと理由を考えてみました。


 _萍未良措未細かすぎて、余計なディテールに注意がそらされるから?

画面があまりにも高精細で、細部まですべて映り込んでしまうため、余計で瑣末なところばかりに目が行ってしまい、たぶん制作者側が伝えたいメッセージに、こちらが集中できないということがあるかもしれません。

例えば、アナウンサーの眼が充血してるなあ、とか、タレントは料理をおいしそうに食べてるけど、湯気が立ってないからきっと冷めてるんだろうなあ、とか、変なところに気がついてしまう頻度が以前より高くなった気がします。


◆|韻貿型テレビの特性によるもの?

かつての、どっしりとして奥行きもあるブラウン管式の巨大テレビと、軽々とした液晶の薄型テレビとでは、画面の質が違うのはもちろんのこと、受像機自体の存在感みたいなものから受ける印象も、やはり違ってくるのではないかと思います。

それが、テレビを見ている私の心理に微妙な影響を与えているのでしょうか?

私には技術的なことは分からないので、あくまで素人の印象にすぎませんが……。


 リアルすぎて、かえって違和感があるから?

いくらテレビ画面が高精細といっても、現実の世界と同じように立体で見えるわけではないし、匂いや味、触覚などの、他の感覚も伴っていません。

画面だけがリアルだと、かえってその他の感覚の欠如とか、感覚同士のアンバランスさが際立ってしまい、それに違和感を感じるのかもしれません。

これは、あるいは、ロボット開発の世界でよく言われる「不気味の谷現象」、つまり、リアルに近づけようとすればするほど、むしろニセモノっぽさが際立ったり、不気味に感じられたりしてしまう現象に近いのかもしれません。


ぁ“崛箸瞭睛討旧態依然だから? 

アナログからデジタルに切り替えるのは、新しいテレビを買ったり、工事を頼んだりと、視聴者側にとっては生活上の大きな変化を伴うのに、地上デジタルの番組自体は、今まで見ていたものと全く変わりません。

視聴者側はそれなりの投資をする以上、デジタル化によって生活が大きく改善されることを内心では期待しているはずですが、実際には画質や音質がちょっと良くなったという程度の変化しか感じられず、ガッカリした人もいるのではないでしょうか。少なくとも、初めてテレビを買ったり、ビデオを使い始めた頃のようなワクワク感はなかったのではないでしょうか。

私のようなひねくれた人間は、変化に満足できないと、むしろ変わっていないところに目がいってしまいます。器が変わっても、中身の番組が旧態依然としている印象が際立ってしまい、それがどこか白けたような、醒めた感じを与えてしまうのかもしれません。


ァ〔犠錣魘く意識させるから?


以前に読んだ藤原新也氏の『黄泉の犬』という本に、あるチベット僧が日本のテレビを見て、これはマンダラだと言ったというエピソードが出てきます。

そのチベット僧は、さまざまな幻影を次から次へとめまぐるしく映し出すテレビという奇妙な箱に、チベットの砂マンダラと同じ性質を見出し、それを、現実の無常について学ばせる一種の修行の道具だと捉えたのでした。

テレビというテクノロジーのおかげで、私たちは、この世界のすべてがとどまることなく移ろいゆくものであるという現実を、さらに凝縮した形で見せられるようになりました。これは、地上デジタルに限らず、アナログ時代からそうだったわけですが、デジタル化によって情報量はさらに増え、プロセスも進化・加速しつつあるように思えます。

私たち現代人の多くは、テレビを見ることによって、そうとはほとんど自覚しないまま、この世が無常であることを骨の髄まで叩きこむ、一種の「修行」を続けていて、その結果として、現実に対して何か諦念のようなものを抱きつつあるのかもしれません。

最近のテレビに何か醒めた印象をもってしまうのは、そのプロセスがますます圧倒的なものとなり、養われた無常観がはっきりと自覚できるレベルにまで達しつつあるせいなのかもしれません……。

ただし、先ほどのチベット僧は、テレビを使ったマンダラ修行のあとには、画面の中だけでなく、「実際の世界で学ぶこと」も必要であると言っていますが……。


Α々眄査戮焚萍未、明晰夢のハイパーリアルな世界を連想させるから?


明晰夢とは、夢を見ているさなかに、自分が夢を見ていることに気づいている状態をいいます。

明晰夢の実践者であり、その科学的な研究者でもあるスティーヴン・ラバージ氏の著書『明晰夢 ― 夢見の技法』によれば、夢の中でそれが夢であると自覚した瞬間、目の前の世界が急にくっきりと鮮やかに見え出すといいます。

つまり、目の前のハイパーリアルな夢の細部を楽しみながらも、自分が見ているのは夢にすぎないという、醒めた意識も失わずにいることが可能だというのです。

その逆が成り立つのかどうかは分かりませんが、もしかすると、非常に高精細で美しい画面を見ていると、今、自分が見ている画面に引き込まれていくよりは、かえって明晰夢を見ているような、一種の醒めた感覚が呼び覚まされてしまうのかもしれません。

まあ、ここまでくると、ほとんどこじつけですが……。


以上、いろいろと考えてみましたが、いずれも素人の思いつき以上のものではありません。ほかに、より説得力のある、科学的な理由があるのでしょうか?

あるいは、地上デジタル放送を見ていて醒めた感じを抱いてしまうという、そもそもの話の前提自体、単に私の錯覚にすぎないのかもしれません……。


JUGEMテーマ:日記・一般

at 18:16, 浪人, テレビの旅

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