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まさかの戦争

東ヨーロッパで、大きな戦争が始まってしまいました。

 

国連安保理の常任理事国が、人口4000万人の隣国の首都に侵攻したというニュースを見て、かなり動揺しています。

 

私は、国際政治や東欧情勢に詳しいわけでもない、ただの素人ですが、さすがに、ロシアは戦争まではしないだろう、と思っていました。

 

ウクライナとの国境に大軍を展開していたのは、あくまで威嚇によって政治的な目的を達成するためで、たとえそれが果たせなくても、頃合いを見て軍を引くのではないかと思い込んでいたのです。

 

だから、ロシアが開戦の準備をしていると米政府が発表したときも、「また人騒がせなことを言ってる」くらいにしか思わなかったし、実際に、ウクライナ侵攻のニュースが飛び込んできたときでさえ、半信半疑でした。

 

もうかなり前になりますが、ジャーナリストのトーマス・フリードマン氏が、『レクサスとオリーブの木』の中で、冗談交じりに、「マクドナルドが進出している国同士は戦争しない」みたいなことを書いているのを読んで、なるほど、そうかもしれない、と思ったことがあります。
ウィキペディア 「トーマス・フリードマン」(「マクドナルド理論」の簡単な説明もあります)

 

マクドナルドを利用するような中流層は、経済発展による豊かな生活の素晴らしさを知っているので、それを犠牲にしてまで戦争したり、自分や家族や友人を命の危険にさらしたいとは思わないでしょう。そして、現在、ロシアにも、ウクライナにも、マクドナルドの店舗があって、大勢の人々でにぎわっています。

 

もちろん、フリードマン氏も、これが絶対の法則だと言っていたわけではないし、私も、この世界はそんなに簡単に説明できるようなものではない、と考えていたつもりでした。

 

しかし、実際には、経済的な豊かさのうまみを一度でも知った国は、もはや決して後戻りすることはなく、国家間の緊密な経済ネットワークの中に何とか留まろうとするに違いないと、ものすごく楽観的に考えていたわけで、それは、結局のところ、「マクドナルド理論」とほとんど同じレベルの、非常に単純な見方でしかありませんでした。

 

つまり、私は、これまでに自分が身につけた、過去の知識や価値観にしばられていて、激しく変化しつつある現実の世界が、ぜんぜん見えていなかったのだと思います。

 

ただ、私みたいに、世界を甘く見ていた人は、決して少なくないのではないでしょうか。もしかすると、各国政府の関係者や専門家にも、同じように、楽観的に考えすぎて、見通しを大きく誤ってしまった人がかなりいるのではないかと思います。

 

とにかく、激しい暴力の応酬が、いったん始まってしまったからには、もう、それを簡単に止めることはできないし、簡単に止められないからこそ、両国の歴史に深い傷跡を残し、その遺恨は、この先、何十年、何百年も続くことになります。

 

そうした苦しみの連鎖に巻き込まれる人が、せめて少しでも減るよう、ただ祈ることしかできません。

 

 

JUGEMテーマ:ニュース

at 22:16, 浪人, ニュースの旅

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ささやかで重い決断

先日、新型コロナウイルスのワクチンを2回接種した人が、日本の全人口の5割を超えた、というニュースを目にしました。

 

日本の場合、ワクチン接種のスタートが欧米諸国よりもかなり遅れ、一気に挽回を図る中で、現場では多くの混乱があったようだし、ワクチンの供給も不足気味で、若い世代までなかなか順番がまわらず、今も大勢の人が接種の機会を待っています。

 

また、ワクチンに関しては、まったくのガセネタを含めて膨大な情報が世界中を飛び交い、接種に賛成・反対の立場から、いろいろなことが言われ続けてきました。

 

それでも、犠牲者を少しでも減らし、私たちの生活をできるだけ早く通常の状態に戻していくために、行政や医療に携わる多くの方々が、ワクチン接種の大プロジェクトを全力で進めてくれたおかげで、そして、日本人の半分以上が、「自分は接種する」という決断をして、それを速やかに実行に移したことが、数か月という短期間での、これだけの実績につながったのだと思います。

 

私は、あまり深く考えることもなく、予約可能になった時点ですぐに手続きをし、接種を終えましたが、人によっては、そんなに単純に決断できるものではなかったかもしれません。

 

もちろん、新型コロナウイルスを恐ろしい脅威と感じ、ワクチンの到着を待ち焦がれていた人なら、接種という選択しかあり得なかっただろうし、逆に、ワクチンに関する陰謀論などを心から信じている人なら、きっと、ワクチンを拒否するという判断以外はあり得ないのでしょう。

 

でも、それ以外の大多数の人にとっては、ワクチンを接種するか、しないかというのは、それなりに微妙な選択だったのではないでしょうか。

 

公表されているデータによれば、これまでの1年半に、新型コロナウイルスで亡くなった人は1万7000人を超えています。これは、国内の交通事故の死者よりはずっと多いのですが、かといって、パニック映画でよく描かれているような、あっという間に人々がバタバタと倒れ、社会が極度の混乱状態に陥っていく、というほどのレベルではありません。
新型コロナウイルス感染症について 厚生労働省
 

これまでに、何人もの有名人が亡くなったり、闘病生活をしたのを見聞きして、コロナが怖い伝染病だというイメージは持っていても、実際に、身近な知り合いが重症化したり亡くなったりした経験がある、という人は、それほど多くないのではないでしょうか。

 

ほとんどの人は、コロナ対策で制限だらけの生活へのウンザリ感や、将来への漠然とした不安みたいなものは感じていても、自分が呼吸困難に陥って入院するとか、逆に入院できないまま、自宅で動けなくなるのではないか、みたいなことを、常日頃から具体的にイメージしたり、それに備えて準備までしているという人は、非常に少ないだろうと思います。

 

それに、ワクチンを2回接種するためには、それなりの時間や手間もかかるし、若い人の場合は、かなり強い副反応が起きるケースもあると言われています。若い人でなくても、接種翌日にはそれなりに腕が痛んだり、体がだるく感じられたりしますが、たとえそれが軽めでありふれた副反応にすぎなくても、自分がどうなるか、不安に思いながら接種後の数日を過ごすというのは、繊細な人にとっては、けっこうなストレスになるのではないでしょうか。

 

今回のワクチン接種については、たぶん、コロナの恐怖が身に迫るというほどではないけれど、冷静に考えた場合に、ここでワクチンを打っておくことで得られるさまざまなメリット(感染防止や、感染時の症状の軽減)と、予想されるデメリット(時間や手間、副反応のリスク)を比較考慮すれば、自分や家族は接種したほうがいいだろうという結論に達した、という人が多数派で、現時点で少なくとも過半数を超え、さらに増加中、ということなのでしょう。

 

それは、各自にとって、一見、ささやかなようで、でも実際には、自分や家族の命にも関わってくる、それなりに重い決断だったと思います。

 

そして、その判断が適切だったかどうかについては、数か月から数年という、比較的短い時間のうちに、かなりハッキリとした結果が見えてくるような気がします。

 

まあ、ワクチンのおかげで何事もなく済んだ人は、何事も起きない以上、改めてホッとする機会もないかもしれませんが、接種しない決断をして、その後に感染して重症化した人は、そのとき、本気で後悔することになるかもしれません。

 

今のように変化の激しい時代には、ワクチン接種の問題にかぎらず、こういう、ささやかなようでいて、実はけっこう重い決断に、私たち全員が、これからも、次から次へと迫られることになりそうな気がします。

 

例えば、近い将来、遺伝子を解析する技術がさらに進み、各個人の将来の病気のリスクや予防措置について、かなり正確な情報が提示できるようになったときに、それなりの手間や費用をかけて、そうした解析を受けたり、予防措置をとったりするべきか、という選択を迫られる可能性があります。

 

同様に、病気以外にも、防災関係とか、ほかにも日常生活のありとあらゆる面で、そうしたリスク解析のテクノロジーが発展していけば、かなり科学的で信頼できそうな情報が明確に提示され、各自が実際にどういう行動をとればいいか、分かりやすい選択肢も示され、私たちは、自分や家族のために、どれが最良の選択なのか、じっくり考えた上で結論を出していくことになるのではないでしょうか。

 

今回のワクチンのケースは、どの選択肢を選ぶべきか、かなり分かりやすい方だと思うし、今後も、どういう選択肢があって、どれを選ぶのがもっとも良いか、政府当局とか、リスク解析サービスを提供する企業などが、かなりハッキリと「オススメ」の選択を教えてくれることになるでしょう。

 

しかし、どの選択肢を選び、実行していくのか、最終的に決めるのは各個人なので、結果がどうなろうと、その責任は各人が負うことになります。

 

そして、この先、各自がそういう選択を重ねて生きていくことになりそうですが、そうした状況は、これまでにはなかったことだと思います。

 

人類の長い歴史において、ほんの百年くらい前までは、病気や死のリスクを回避するための有効な手段など、ほとんど何もないようなものだったので、ほとんどの人々は、ただ運を天に任せるしかなかったし、その後、テクノロジーが発達して、人類がそれなりの手段を手にするようになっても、それらはまだまだ貧弱で、個々人の自由な選択を許すほどの余裕もなく、国やコミュニティから一律の行動を強制されたりしてきました。

 

ただ、そういう時代には、何があっても、私たちはそれを、運命のせいにしたり、国やコミュニティのせいにすることができました。

 

今は、各個人がどの選択肢を選ぶか、いちおう自由に決められるようになりつつあるし、用意される選択肢も、これからますます増えていくことになるでしょう。

 

今回のワクチン接種のように、それぞれの選択には、メリットもデメリットもあるし、長い目で見たときに、どれが適切な選択なのか、絶対に確かな答えは事前には知りようがないので、完璧な安心感を手に入れることは誰にもできません。むしろ、今後は、情報や選択肢があまりにも増えすぎ、「オススメ」の選択でさえ多すぎて、どれが自分にとって最も重要なのか、見極めるのがかえって難しくなることさえあるかもしれません。

 

それでも、私たちは各自で決断を下し、行動に移していくしかないし、それは当然、将来の自分や身近な人々の生活に、大きな影響を及ぼしていくことになります。もしも、その結果に後悔するようなことになっても、自分の責任として、それを引き受けなければなりません。

 

この先、それを重荷と感じる人も出てくるでしょう。昔のように、運命や社会のせいにできない、そういう逃げ道がないというのは、実は、けっこうつらいことなのかもしれません。

 

もっとも、テクノロジーの進歩がさらに加速していけば、やがて、膨大な情報や選択肢を、AIが分かりやすく整理してくれて、いちばん安全で平穏な暮らしを約束してくれそうな「正解」を、つねに教えてくれるようになり、昔の人々の多くが、親や身近な人の行動をマネして無難に生きようとしたように、未来の人々も、やはり、人生の責任という重荷から解放されるために、あえて何も考えず、そうした「正解」に黙って従うようになっていく可能性はあります。

 

それでも、ごく一部の人間は、リスクがかなり高い、でもすごく面白そうな選択肢を、あえて「自己責任」で選ぶことで、人生を思いのままにデザインしようと試みたり、AIによるお仕着せの「正解」をすべて拒否して、わざと不適切な選択肢を選んで反抗してみたり、あるいは、選択すること自体をやめて、ただひたすら無為な生活を続けるようになったりするのかもしれません。

 

そして、未来の社会は、たぶんとても豊かで、そういうワガママな人々の存在をも、おおらかに受け入れてくれそうな気がします。

 

 

JUGEMテーマ:ニュース

 

 

at 20:38, 浪人, ニュースの旅

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寝耳に水

先月、ヨーロッパの大手旅行代理店トーマス・クックが経営破綻し、傘下の航空会社も運航を停止、イギリスを出発した15万人もの利用客が世界各地で立ち往生し、彼らが無事に帰国できるよう、イギリス政府がチャーター機を大量に飛ばすという出来事がありました。
英旅行大手トーマス・クック、破産申請 旅行者15万人の帰国作戦が開始 BBC NEWS JAPAN

 

トーマス・クックといえば、19世紀に世界初の近代的な旅行代理業を始めたとされる、業界の老舗中の老舗ですが、今や、そういうブランドでさえ経営が立ち行かない時代になっているんだな……と、しみじみ思います。
ウィキペディア 「トーマス・クック・グループ」

 

たしかに、今では、ネットで無料の旅行情報がいくらでも手に入るし、航空券や宿の予約も、ネット経由で簡単に手続きができるので、そういう作業を自分でやってしまう人がどんどん増えているのでしょう。

 

もちろん、世の中にはいろいろなタイプの人がいます。自分であれこれ手配するのが苦手な人もいるだろうし、せっかくの休暇なのだから、面倒ごとは誰かに任せて、自分は気楽に旅を楽しみたいという人もいるはずです。そういう人たちがいるかぎり、世の中から旅行代理店というものが消えてしまうことはないでしょう。

 

とはいえ、世界中の旅行代理店は、個人旅行者の増加や、LCC(格安航空会社)やスマホの普及など、旅行をめぐる環境が激変する中で、新たなサービスを必死で模索し、生き残りを図ろうとしています。そうやって、業界全体が激烈な競争を続けている状況では、老舗であることが、むしろ、組織の変化を妨げる重荷になっていたのかもしれません。

 

そういえば、2017年に、日本でも同様の事件がありました。旅行代理店のてるみくらぶの経営破綻で、当時、海外旅行中だった約2500人と、出発前の数万人が被害を受けました。
ウィキペディア 「てるみくらぶ」
 

実際に世界各地で、滞在先のホテルから部屋代の支払いを要求されたり、帰国便がキャンセルされたりと、さまざまなトラブルが起きたようですが、このときは日本政府がチャーター機を飛ばすまでには至りませんでした。添乗員つきのツアーの場合には、現地でそれなりのフォローが受けられたでしょうが、それ以外の場合は、それぞれの旅行者が自力と自腹で問題を解決し、日本に帰ってくるしかありませんでした。

 

ちなみに、海外旅行保険では、このような場合に現地で追加請求されたホテル代や航空券代までは補償されないようです。

 

ただ、そのとき海外にいた2500人全員が、重大なトラブルに巻き込まれたわけではありません。当時の話をネットで探して読んでみると、てるみくらぶのツアーの添乗員をしていたが、大きな問題もなく無事帰国できた、という体験談があるし、ホテル側から宿泊費を要求されたが、うまく交渉して支払いを免れた人もいるようです。

 

むしろ、本当に理不尽な目に遭ったのは、代金を全額払い込み、出発を目前にしていた客で、結局、彼らは出発することもできず、大切な休日や、人生の記念すべきイベントを台無しにされたうえに、ほとんど返金もされないという、大きな被害を受けました。

 

今回、イギリス政府がチャーター機を飛ばしたのは、さすが元大英帝国、という感じですが、実際には、てるみくらぶの事件とはケタが二つ違う、膨大な利用客が影響を受けており、国としても何らかの対策を取らざるを得なかった、という面もあったのでしょう。また、今回のケースでは、宿泊費や帰国費用は、業界の弁済保証金からカバーされるようです。

 

とはいえ、利用客の多くは、旅先でいきなり旅行代理店の破綻を聞かされて、足元が崩れるようなものすごい不安に襲われたことでしょう。

 

トーマス・クックの経営に不安があり、万が一のこともあり得るとあらかじめ知っていたら、ほとんどの人はわざわざ利用しなかったと思うので、今回の被害者は、みな、まさかこんなことになるとは夢にも思わず、旅先で事態を知らされたときには、それこそ「寝耳に水」だったのではないでしょうか。

 

しかも、自分で旅行の手配をする知識や気力がないからこそ、それなりのカネを払って専門家に任せていたはずなのに、結果的にその専門家に裏切られ、見知らぬ土地でいきなり放り出されることになるとは……。

 

まあ、被害に遭ったとはいっても、チャーター機に乗せてもらえたり、さらなる費用負担は回避できたりと、経済的にはそれほどのダメージにはならないのかもしれませんが、それでも、旅先でいったんどん底に落とされたショックは取り消せません。浮かれた旅行気分を台無しにされたことについては、運が悪かったとあきらめるしかないのでしょう。

 

すべてを旅行代理店にお膳立てしてもらい、安心・安全な旅行をしていたはずの人々が、企業の経営破綻という、自分たちのあずかり知らないところで起きた出来事によって翻弄されてしまうというのは、実に気の毒な話です。

 

しかし、この世界には、絶対の安全とか、絶対の安心というものは存在しません。

 

この世では、より多くのカネを積むことによって、他の人よりも快適で楽な思いができるし、安心・安全の度合いを高めていくこともできますが、どこまで安全を追求しても、想定外の出来事が起きる可能性はなくなりません。

 

そしてむしろ、私たちが楽をしていればいるほど、安心だと信じ切っていればいるほど、万が一のことが起きたときには、現実とのギャップが非常に大きくなり、それこそ、「青天の霹靂」のようなことになってしまうのです。

 

ただ、今回のようなトラブルで、いきなり旅先で放り出されたり、帰国のために必死な思いをする羽目になるのは、大きなストレスにはなるでしょうが、現地で天災や事故や政変に巻き込まれ、命に関わる危険にさらされる事態にくらべれば、はるかにマシだと言えなくもないのかもしれません。

 

逆に、今回の事件の被害者の場合、命に関わるほどの危険はないが、めったに起きないめずらしい出来事、見方によっては歴史的な出来事の当事者になることで、普通のツアーだったらあり得ないような、非常に貴重な体験をした、と考えることもできるのではないでしょうか。

 

もっとも、そんなことは、当事者ではないからこそ気軽に言えるのかもしれません。いくらめずらしい出来事に遭遇したといっても、それは本人が期待していた種類の体験とは全く違うでしょう。彼らの多くは、トラブルや面倒な手続きを自分で処理するのがイヤだからこそ旅行代理店を利用していたわけで、自分が巻き込まれたトラブルを、貴重な体験だと解釈して面白がるような心境には、とてもなれないかもしれません。

 

それでも、旅先でのドタバタ劇も、そこで感じていた不安や怒りも、その最中はともかく、帰国後は、いい話のネタにはなるだろうし、数年も経てば、当時のことをあれこれ思い出し、自分が困難な状況をくぐり抜ける中で、いろいろと感じることや学ぶことも確かにあったな……と気づいたりすることもあるのではないでしょうか。

 

ただ、それも、旅に出ていればの話です。

 

てるみくらぶの事件でも、トーマス・クックの事件でも、出発そのものがキャンセルされ、旅立つことすらできなかった数多くの人々にとっては、旅でリフレッシュされる機会を失った、これまで通りの日常が延々と続くだけでなく、そこにさまざまな金銭的損失とか、自分には何の責任もないトラブルの後始末がのしかかってくるわけです。

 

どれだけ屁理屈をこねまわしてみても、それを貴重な体験だと、ポジティブに受け止めるのは非常に難しいのかもしれません。

 

 

JUGEMテーマ:ニュース

at 19:57, 浪人, ニュースの旅

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冷静な激怒

数か月前、いわゆる「逃亡犯条例改正案」をめぐって始まった香港の大規模な抗議活動は、先日、行政長官が改正案の撤回を表明するまでに至りましたが、その後も抗議は衰えを見せていません。
ウィキペディア 「2019年逃亡犯条例改正案」

 

抗議活動が大規模かつ長期間に及んでいる大きな理由として、よく言われているように、改正案が成立したら、自分たちの身の安全が北京の当局に左右されてしまう、という恐怖感が香港市民の間にあったのだとすれば、それはつまり、彼らは以前から、香港・北京いずれの当局も、まったく信頼などしていなかったということです。

 

そして、今回、当局が条例改正を強引に進めようとしたことが、そうした不信感を人々にはっきりと自覚させ、さらに、デモ隊に対する警察の強硬な姿勢が、市民の怒りに火をつけてしまったのでしょう。

 

抗議活動は、もはや条例に反対するというレベルをすっかり超えて、今では、そうした不信や怒りそのものを、世界中に向けて、さまざまな手段で激しくアピールする形になりつつあるように見えます。

 

私は香港人ではないし、現地で暮らしたこともないので、彼らが今、どんな気持ちで日々を送っているのか、頭で想像してみることしかできません。それにもちろん、一口に香港人といっても、それぞれの政治的立場も経済状況も、ライフスタイルや考え方も多様なので、彼らをひとつの集団として単純なイメージでとらえようとすれば、現状を大いに見誤ることになるかもしれません。

 

それでも、彼らの多くは、もう何か月ものあいだ、ふだんと同じ日常の生活を送っている瞬間でさえ、心の中に、激しい怒りを抱え続けているのではないでしょうか。自分たち市民の気持ちに寄り添おうとしないどころか、何かまったく違う目的をもって動いているとしか思えない当局に対し、心の底から気味の悪さや嫌悪感を感じているのだろうと思います。

 

そして、一度それをはっきり自覚してしまうと、ニュースで香港政府に関する話題が出るたびに、いちいち腹を立てずにはいられないだろうし、その背後で様子を窺っている北京の当局にも、心からノーを突きつけたい、そういう非常に強い拒絶反応が、ひたすら繰り返されるデモ行進や、荒っぽい抗議活動さえ容認する市民の姿勢に現れている気がします。

 

とはいえ、そうした激しい怒りに基づいた抗議は、同時に、つねにギリギリのところで踏みとどまっているようにも見えます。

 

警察とデモ隊との暴力的な衝突は、もはや日常茶飯事で、これまでにケガ人も数えきれないほど出ていますが、双方とも、相手を死なせるほどの行き過ぎた暴力は抑制できるだけの、最低限の冷静さは保っているようだし、繁華街に催涙弾が転がり、火炎瓶が燃え上がる非日常の光景が広がることはあっても、街が無法地帯と化し、略奪などが頻繁に起きる、ということにはなっていないようです。

 

それに関して、先日、とても興味深い記事を読みました。著書の『八九六四』で大宅壮一ノンフィクション賞を受賞した、中国ルポライターの安田峰俊氏による現地からのレポートです。

 

逃亡犯条例撤回 「こいつら暴徒だわ」香港デモ隊の“醜い真実”をあえて書く 文春オンライン

香港デモは「オタク戦争」? 最前線のガチ勢“覆面部隊”の意外な正体とは 文春オンライン
 

安田氏は、抗議活動に立ち上がった香港の人々には共感を覚えるとしながらも、彼らの一部が行き過ぎて、街を破壊する「暴徒」と化していることを指摘しています。

 

しかし、その一方で、警察との衝突の最前線では、その場にたまたま居合わせただけの、明確な指揮命令系統も持たない群衆が、まるで統率のとれた軍隊のように組織的な動きを見せているとも書いています。

 

また、警官隊とデモ隊との中間地帯に陣取り、すべてをカメラに収めている各国の報道関係者の存在が、当局の過剰な暴力を抑止し、デモ隊の安全をある程度保障しているだけでなく、一見すると過激なデモ隊の行動に、そうしたカメラを多分に意識したパフォーマンスの側面があることも否定できないようです。

 

安田氏によれば、事態はもはや、欧米の自由主義陣営と中国政府とが、互いにとって都合のいい映像を世界にばら撒いて印象操作を図る、熾烈なプロパガンダ戦争と化しており、香港のデモ参加者たちもまた、誰に指示されるともなく、そうした情報戦に積極的に加わり、抗議活動のポジティブな側面だけを世界中に印象づけるべく、したたかに立ち回っているというのです。

 

警察とデモ隊が互いに最後の一線を越えずに済んでいるのは、先に越えた側がプロパガンダ戦に敗北するという、はっきりとした危機感が双方にあるだけでなく、それぞれに立場は違えど、目の前にいるのは同じ香港市民であって、両者が必要以上に傷つけあう理由などないということが、しっかりと自覚されているからなのかもしれません。

 

そして、互いに最後の一線は越えないという不文律が守られている限りは、激しい衝突の現場でさえ、双方にある程度の冷静さが保たれ、世界中のカメラの前で、自分たちの正当さをアピールする余裕が生まれるのでしょう。

 

それに、少なくともデモ参加者に関しては、次に向かうべき別の抗議活動の予定とか、実行すべき新しい活動のアイデア、そして、世界中からの共感の声や仲間同士の励ましのメッセージなど、スマホ経由で絶え間なく流れ込んでくる膨大な情報をさばき、息つく間もないスケジュールをこなしていくのに精一杯で、ある意味では、健全な疲労と高揚感に常に満たされていて、鬱屈した感情を間違った方向に爆発させてしまう余地がないのかもしれません。

 

とはいえ、当局とデモ隊とのそうした不文律は、あくまで現時点では成り立っている、というだけで、同じ状況が今後もそのまま続くと約束されているわけではないと思います。

 

抗議活動が今後も盛り上がり、効果を上げれば上げるほど、それが香港や北京の当局を追い詰め、思いがけないリアクションを招くおそれがあるし、逆に、これ以上のめぼしい成果がないまま、ズルズルと抗議活動が続くようなら、一触即発の危険はなくても、観光をはじめ、経済全般にマイナスの影響が出てくるし、長い目で見れば、人やカネが香港から逃げ出していく原因にもなるでしょう。

 

それに、警察とデモ隊がたとえ最後の一線を越えなくても、実際に現場でぶつかり合いを続けているかぎり、双方の心も身体も無傷ではいられません。

 

互いに衝突を重ね、血を流し合うたびに、怒りや憎しみをかきたてるネガティブな記憶が、それぞれに植えつけられていきます。そうやって蓄積するマイナスの感情が臨界を超え、これまで何とかそれを抑え込んできた冷静さを上回ったとき、誰かが思いがけず一線を越えてしまう可能性がないとはいえません。

 

また、香港当局と市民との対立にとどまらず、政治的・経済的な利害に基づいて各国から新たなプレイヤーが介入してくれば、事態はどんどんややこしくなり、若者たちの純粋な理想だけでは到底前に進むことのできない、複雑で出口の見えない泥沼のような状況が生み出されてしまうでしょう。

 

香港の人々の怒りは、当事者ではない私でさえ十分に共感できるものですが、上記のレポートで安田氏も述べているように、何とか早めに抗議活動の落としどころを見つけてほしいです。

 

時間とともに積み重なっていく怒りや憎しみによって、多くの人々が、はっきりと自覚しないうちに心のダークサイドに堕ちてしまい、それが、やっかいな状況を生んだりしなければいいのですが。

 

 

JUGEMテーマ:ニュース

at 21:53, 浪人, ニュースの旅

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旅行者への拒絶反応?

先日、ベネチアで、旅行者をめぐるちょっとした「事件」がありました。

 

観光名所の橋のたもとで、携帯用のコンロを使ってコーヒーを淹れていた二人組のバックパッカーが、条例に反したという理由で通報され、日本円で11万円にものぼる罰金を徴収された上、市外に追い出されたというものです。

 

ベネチアの新「迷惑防止条例」に要注意、外でコーヒーを淹れたら市外追放? ニューズウィーク日本版
 

この出来事がニュースとして世界中に報じられたということは、記者の人たちも、道端でお湯を沸かした程度の行為への罰として、これは重すぎなのではないか、少なくとも、読者の多くはそう感じるだろうし、そのことで大いに議論を呼ぶはずだと考えたのではないでしょうか。

 

私も、個人的には、バックパッカーたちにかなり同情的です。全く知らない他人のことではあるし、ニュースだけでは詳しい現場の状況が分からないので、あまり一方的に肩入れするのはまずいのでしょうが、それでも、当局の処分は行きすぎのような気がします。

 

ただ、街の側にも言い分は大いにあるでしょう。ベネチアや京都みたいに、世界中から観光客が押し寄せる超有名観光地は、現在、いわゆる「オーバーツーリズム」のネガティブな影響を受け続けていて、住民たちも多大な迷惑を被っています。
ウィキペディア 「観光公害」

 

現地は観光業で大いに儲けているのだから、そのくらいは我慢すべきだ、という意見もあるでしょうが、実際に観光産業の恩恵を直接受けているのは、ごく一部の関係者に限られるのではないでしょうか。もちろん、多くの旅行者がカネを落としていくので、現地の雇用などにもプラスの効果は出ているはずですが、結局、家賃や生活費も高騰するので、その効果は帳消しになってしまうし、街の混雑や旅行者のマナー違反など、観光公害によるさまざまな被害は、観光業の恩恵にあずからない住人にも同じように降りかかってきます。

 

それに、旅行者一人一人から受けるストレスが、どれほどささいなものであっても、それが毎日、朝から晩まで何回、何十回と繰り返され、そんな日々が延々と続いていくならば、いくら寛容な心を持っている人でも、心がささくれ立っていくでしょう。

 

今回の件にしても、観光名所でコーヒーを淹れた程度のことで、短気な住民が怒り狂った、というよりも、これまで住民側は旅行者の行為にひたすら我慢を重ねてきて、それが限界に達し、ついに先日、条例という形でかなり厳しいルールを定めたのに、それでもまだ挑発するかのようにルール違反をする者が現れたので、住民は、まるでケンカを売られた気分になって思わず通報し、当局も見過ごすことができなかった、という感じなのかもしれません。

 

そして、バックパッカーの側もまた、ベネチアの条例や、現地のピリピリとしたムードについて、あまりにも無知だったのでしょう。

 

もしかすると、道端でコーヒーを淹れる行為が、何らかのルール違反になることは薄々知っていて、これくらいなら大丈夫、と思ったのかもしれませんが、もしそうだとしても、住民や当局から、どれほど厳しい反発を受けるかを全く読めていなかったわけで、その甘すぎる見通しは、やはり、異国を旅する人間としてかなり不注意だったと言わざるを得ないのかもしれません。

 

それでも私は、二人のバックパッカーに同情してしまいます。

 

今回の彼らの不幸は、彼ら自身の落ち度によるところもあるとはいえ、もしかするとそれ以上に、世界中の人々が超有名観光地に殺到するという、地球規模の大きな人間の流れと、その動きが必然的にもたらす強烈な反作用の連鎖みたいなものに、彼らが否応なく巻き込まれてしまった、という側面があり、それに関しては、彼らもまた、時代の大きなうねりの犠牲者だと考えられるからです。

 

ベネチアは、今では観光客があまりにも多すぎる状態なのですが、世界中からやってくる観光客の流れを直接コントロールすることは誰にもできないので、その人間の大波をかぶり続ける住民としては、せめて自分たちにできる範囲での対症療法的な処置をとらざるを得なくなっています。しかし、対症療法なので劇的な改善効果は見込めず、それでも何かをせずにはいられない住民側としては、その処置をどんどんエスカレートさせていくしかありません。

 

その結果、住人たちがかなり厳しいルールを旅行者に突きつける、まるで超売り手市場のような状態になっているのでしょう。というか、実際には、超売り手市場よりもさらにバランスの崩れた状況になっていて、もはや、旅行者への拒絶反応さえ出始めているのかもしれません。

 

今回、処罰を受けたバックパッカーの側からすれば、本来なら、いちおうは客人であるはずの自分たちが、想像もしていなかったような激しい敵意を向けられ、住人と当局に言いがかりをつけられた挙句、大金をむしりとられて放り出された、みたいに感じられたのではないでしょうか。

 

それでも、ベネチアへの観光客は、今後も減るどころか、むしろしばらくは増えていくでしょう。だから、オーバーツーリズムがもたらすネガティブな流れも、きっと、当分の間は止めることができないと思います。

 

そうなると、住民からの要望に基づいて定められるルールは、ますます過激なものになり、当局としても、ルール違反をますます厳格に取り締まるようになるのではないでしょうか。住民の多数派が我慢の限界に達して、常にピリピリしている状況では、誰かが寛容の精神を説いたところで、「何言ってんだコイツ……」みたいな反応になるだけでしょう。

 

このように、一度大きな流れができてしまうと、人々の感情も、日常の行動パターンも、街のルールや行政のシステムも、その流れを前提としたものに組み替えられ、固定化されていくので、現場の当事者は、流れに抵抗することがますます難しくなっていきます。そしてやがて、流れに深く巻き込まれ、かなり偏った判断や行動をしていることにすら気づけなくなってしまいます。

 

もともと、オーバーツーリズムがもたらしている、かなり異常でストレスの多い状態が日常になっているので、住人側としては、その異常さを解消するために、かなり過激な対処を求めざるを得ない気分になっているだろうし、それが、生々しい現場の状況を知らず、世界のどこかで冷静にニュースを見ているだけの第三者の目にどう映るかまでは、さすがに構っていられないのではないでしょうか。

 

いちおう誤解のないようにつけ加えておくと、私は別に、ベネチアの住人の方々に対して、悪意とか嫌悪感をもっているわけではありません。

 

彼らは、観光公害で暮らしが悪影響を受けている中で、自分たちの平穏な生活を守るため、できる範囲のことを精一杯やっているだけだし、現在、旅行者に対してかなりネガティブな感情をもっているとしても、それは住人の生まれ持った性質とはほとんど関係なく、単純に、これまで彼らが体験してきた辛い出来事の数々を反映しているだけだと思うからです。

 

私たちを含めて、すべての人間には、個人的に努力することで前向きに変えていける部分と、生まれついた国や地域や時代状況などに大きく影響を受け、運命的にどうしようもなく動かされていく部分とがあり、後者に関しては、個人的な責任を簡単に追及できるようなものではないと思います。

 

それはともかく、これから先、何十年も経って、世界中の人々の価値観や行動パターンが大きく変わっていけば、やがて、ベネチアを訪れる観光客の数が、目に見えて減っていくような時代がやって来るかもしれません。

 

しかしそのときになっても、もしかすると、今、次々に定められている厳しいルールは、そのままになっているのではないかという気がします。ルールというものは、一度決まってしまうと、日本の中学校の意味不明な校則みたいに、長年の伝統として残り続けてしまいがちだからです。

 

だとすると、未来のベネチアの住民たちも、その「伝統的」なルールに基づいて、旅人を厳しく取り締まり続けることになるのかもしれません。

 

もちろん、ネット上では、ベネチアはなぜかよそ者には非常に厳しい街だ、という評価が固まり、多くの旅人が敬遠するようになるでしょうが、それでもごく少数の勇気ある旅人が現地を訪れてみては、やはり邪険な扱いを受けたりして、いつしか、ほとんど人が寄りつかない、伝説的な街になっていくのかもしれません。しかしそれによって、結果的に、ベネチアは昔の静けさを取り戻し、歴史的な街並みも美しいままに残される、という可能性もあります。

 

まあ、こういう未来の話は、すべて、私の単なる妄想に過ぎませんが……。

 

 

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マツタケ食べ放題の時代がやってくる!?

先日、ネット上で、とても興味深い記事を読みました。

 

多木化学という肥料メーカーが、マツタケに味や香りでひけをとらない「バカマツタケ」の完全人工栽培に成功した、というニュースについての、非常に分かりやすい解説です。

 

株価を急騰させたバカマツタケ栽培成功は、常識破りの大発明だ Yahoo!ニュース

 

いま、スーパーで簡単に手に入るブナシメジやエノキタケなどは、朽ちた木に生えるタイプのキノコで、もともと人工栽培がしやすかったのに対して、マツタケ類は生きた植物と共生するタイプで、人工的な栽培は難しいとされていたし、実際、これまでそれに成功した者はいませんでした。

 

ところが、そのメーカーは、不可能に見えたことを可能にしてしまい、それはつまり、バカマツタケだけでなく、マツタケやトリュフなど、生きた植物と共生するタイプの高級キノコの大量生産への道が開けたことを意味するのではないかと、関係者を大いに興奮させているというわけです。

 

おいしいキノコに目がないのは日本人に限った話ではないので、これはたしかに、世界中の人にとって朗報であるのかもしれません。

 

このままうまく開発が進めば、今後何年かのうちに、バカマツタケが安く手に入るようになりそうですが、仮にそうなっても、今度は、バカマツタケという種名がネックになるような気がします。
ウィキペディア 「バカマツタケ」

 

これは別にバカマツタケのせいではなく、ずっと昔にその名前をつけた人間が悪いのですが、この名前だと、食べているうちに頭が悪くなりそうな感じがします。まあ、このあたりはメーカーの人たちも考えているはずで、たぶん、人工栽培されたバカマツタケには、マツタケの高級感はそのままに、「バカ」感を薄めた、もっとチャーミングな新しい商品名が与えられるのではないでしょうか。

 

それにしても、この地球上でなかなか手に入らない貴重なものを、知恵と工夫によって、多くの人の元に届けようとする人間の努力には、いつも感動させられます。もちろん、貴重なものを大量に生み出し、人々の切実な欲求に応えることができれば、それを実現した個人や企業に莫大な富が転がり込んでくるのもまた事実ですが……。

 

一方で、マツタケのような高級キノコに関しては、おいしいから、というだけでなく、現時点で貴重で高価だからこそ、みんな喜んで食べたがるという側面もあるのではないかと思います。近い将来、高級キノコの人工栽培が実現して、マツタケがスーパーで山積みにされ、一袋100円で売られるようになったら、それなりにうれしいとは思いますが、かといって、それを毎日のように食べたいかといえば、けっこう微妙かもしれません。
記事 古酒促成
記事 美しいから欲しいのか、高価だから欲しいのか

 

マツタケは、中国や北欧など、世界のあちこちでも自生していて、日本人が大量に輸入しているのですが、それは裏を返せば、現地の人はそれほど珍重しておらず、自分たちで食べるよりも、誰かに売ってしまう方がずっといい商売になると考えている、ということでもあります。マツタケがおいしいと私たちが思うのは、世界中の誰もが魅了されるような味や香りがあるからというより、日本でずっと受け継がれてきた食文化によるところが大きいのではないでしょうか。
ウィキペディア 「マツタケ」

 

面白いことに、西洋の珍味トリュフも日本に自生していて、実際にネット上には、それを採って食べてみたというレポートもあるのですが、もともと日本には、トリュフをおいしいキノコとしてありがたがる食習慣はなかったようです。近い将来、仮にトリュフの人工栽培が可能になり、食材としてありふれた存在になるとしたら、日本人はそれを喜んで食べるようになるのでしょうか。
国産トリュフを採ってきた デイリーポータルZ
記事 日本列島に眠る「珍味」

 

もしかすると、マツタケにしても、トリュフにしても、大量生産で誰でもいくらでも食べられる状況になり、みんながひととおり手を出してみたところで、実はそれらが万人受けするものではない、少々マニア向けの味であることがはっきりして、結局は、一部の人々だけが熱愛する、ローカルな食材として落ち着くことになるのかもしれません……。

 

 

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at 19:28, 浪人, ニュースの旅

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暗闇からの生還

タイ北部の洞窟の奥に閉じ込められていた少年ら13人が、先日、無事救出されました。
ウィキペディア  「タムルアン洞窟の遭難事故」
 

救出活動の最中に、一人のダイバーが亡くなるという不幸な出来事がありましたが、それでも、最後には少年たちが全員そろって助け出されたことで、事態を見守っていた世界中の人々が安堵したのではないでしょうか。

 

この遭難事故は、大勢の子供たちが一度に行方不明になったということで、事件の発端から衝撃的だっただけでなく、救出の過程で少しずつ明らかになった事実も、そして、大詰めの大掛かりで緻密な救出作戦も、とても興味深いものでした。

 

同じサッカーチームの少年たちと若いコーチが洞窟に入った理由は、ある少年の誕生日を祝うためだった、とされていますが、そのイベントを誰が思いついて、誰が主導したのか、ニュース記事によって情報がバラバラなので、はっきりとしたことは分かりません。

 

ただ、地元の子供たちにとっては、洞窟の奥まで行って帰ってくるというのは、日本の若者が肝だめしに夜の廃墟を探検するみたいな、おなじみの冒険行為だったのでしょう。コーチや少年たちも、これまでに何度か同じことをしていたようで、今回、まさか自分たちが閉じ込められるとは夢にも思っていなかっただろうし、当然、食料や装備もきちんと用意してはいませんでした。それが、思いがけない増水によって出口を塞がれ、洞窟の奥から動けなくなってしまったわけですが、もしも少年だけのグループだったら、パニックになり、無茶な行動をとったりして、最悪の結果になっていたかもしれません。

 

しかし、一緒にいたコーチは、少年時代に両親を失い、お寺に預けられて長い間お坊さんをしていた人物で、そのときに覚えた瞑想の仕方を子供たちに教えることで、全員がずっと冷静さを保ち続けることができたようです。これは実にタイらしい展開といえるし、人それぞれの人生経験が、どこでどんな形で役に立つか分からないということを、深く印象づける話にもなっています。
タイ洞窟のサッカー少年たち、心身を支える瞑想で耐えた9日間 ニューズウィーク日本版

 

洞窟の外では、ポンプを並べてひたすら水を抜く一方で、遭難事故を知った優秀なケイブ・ダイバーたちが世界各地から結集し、危険な捜索活動を重ねてついに少年たちを発見します。しかし、子供たちの無事は確認できても、彼らを安全に洞窟から救出するのは非常に困難でした。

 

当初は、雨季が終わって水が引くまで数か月間ひたすら待つ、という案も選択肢のひとつだったようです。一人のダイバーの事故死もあって、専門家たちも、泳げない少年を含む完全な素人に洞窟潜水をさせるのはさすがにリスクが大きいと考えたのではないでしょうか。また、洞窟の上から穴を掘るとか、未知の出口を探すとか、その他のいろいろな可能性も試したようですが、いずれも有力な選択肢となるまでには至りませんでした。

 

結局、雨によるさらなる増水の恐れや、洞窟内の酸素濃度の低下、そして少年たちの体調などを考えて、残された時間は限られているという判断になり、13人にダイビングをさせるという、リスクの高い方法をとることになったようです。

 

しかし、目の前の状況について、もっとも正確な情報を把握していた専門家たちがそう判断したということは、その時点で実行可能な選択肢の中では、それが最も安全で確実な方法だったということなのでしょう。だとすれば、少年たちは相当危険な状況に置かれていたということです。ダイビングによる救出作戦がどれほど複雑で神経を使うものだったのか、その詳細なプロセスまではまだ明かされていないようですが、結果的に13人全員が無事に救出されたわけで、何はともあれ、私たちはそのことを素直に喜んでいいのかもしれません。

 

2010年に、チリの鉱山の落盤事故から33人が生還したときにも思ったのですが、こういう事故が起きるたびに、この地球上で、私たち人間がどれだけちっぽけな存在か、圧倒的な自然のパワーの前に、自分たちがいかに無力かを痛感させられます。
ウィキペディア 「コピアポ鉱山落盤事故」
記事 地中からの生還

 

それでも、世界中から優秀な専門家が集まり、人間の力で可能な方法を必死で考え、大きなリスクにもひるむことなく、みんなで力を合わせて活路を切り開いていこうとする姿に、そして、その一方で、誰かがきっとそうしてくれると信じて、暗闇の中で希望を失わずいつまでも待ち続ける姿に、私たち人類の美しさとけなげさが、純粋な形で映し出されているような気がするのです。

 

ただ、それと同時に、恐ろしい暗闇の世界に長いあいだ閉じ込められ、お互いに助け合いながら苦しみに耐え抜いた13人が、明るい太陽の下でこの世界を再び目にしたいと、親しい人たちと再会したいと、どれだけ強く思っていたのか、その切実さを想像すると、いまの自分が、この世界でのかけがえのない時間を中途半端な気持ちで過ごしてしまっていることに、何ともいえない居心地の悪さを感じないではいられません。

 

もちろん、そういう反省を強く迫ってくる機会は、今回の遭難事件にかぎらないのですが……。

 

 

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怒りに呑み込まれたアメリカ

アメリカの大統領選挙で、共和党のドナルド・トランプ候補が勝利しました。


選挙の直前まで、さまざまなメディアでは民主党のヒラリー・クリントン候補が優勢だと伝えられていたので、想定外の結果に本当に驚き、同時に、これから世界がどうなってしまうのか、先の見えない不安を感じています。


これはあくまで素人の想像でしかないのですが、今回のトランプ氏の躍進は、冷戦終了後に加速したグローバル化による大きな社会変化や、テクノロジーの急速な進化の波に乗ることができなかった多くの人々の怒りや、その裏にある恐怖が、はっきりと目に見える形をとって現れたものだという気がします。


しかし、トランプ氏が大統領になったからといって、そうした怒りの原因が根本的に解消されるとは思えません。グローバル化も技術の進歩も、誰かの手で無理やり止められるものではないし、壁を作って内側に閉じこもろうとしても、長い目でみれば、それは自分たちをさらに苦しい立場に追い込むだけではないでしょうか。


それにしても、アメリカのマスメディア関係者は、今回の事態に、何重もの意味で衝撃を受けていると思います。


まず、トランプ氏の勝利を予想できなかったこと、つまり、今、アメリカ国内で暮らす多くの人々の目に、世の中がどのように見えているのか、それを知り、伝える専門家であるはずの彼らが全然把握できていなかったということに。


そして、マスメディアが束になってトランプ氏へのネガティブ・キャンペーンを行っても、結果として世論を動かすことができなかった、つまり、彼らがこういう重大な場面での影響力を失っていることがハッキリしてしまったことに。


でも、定期的な選挙という機会がなければ、こうしたさまざまな事実が平和的に示されることもなかったわけで、どれだけ衝撃的な結果であれ、それをきちんと受け止め、何かもっと生産的な形で人々の怒りを鎮める方法を探るきっかけになるのなら、民主主義という制度にもまだまだ希望は残されているのかもしれません。

 

 

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宇宙で建国!?

先日、ネット上に面白いニュースが流れ、世界中の好事家の間でさまざまな反応が巻き起こっているようです。

 

宇宙国家「アスガルディア」構想が始動:軌道上から地球を防衛、国民も募集中 ニューズウィーク日本版

 

上の記事によれば、ロシアや米国の宇宙開発の専門家たちが、衛星軌道上に独立国家「アスガルディア」を建設する壮大な構想を発表、国連への加盟をめざして、さっそく「国民」も募集しており、すでに多数の人が応募しているようです。

 

まずは来年以降に人工衛星を打ち上げ、将来的には宇宙空間を拠点に、小惑星の資源開発や、さまざまな危険から地球を守る活動を行うとのことですが、素人目に見てもツッコミどころがいろいろあって、本気で受け止めていい話なのか、判断に迷うところです。

 

例えば、宇宙空間に独立国を作るというのは、そもそも、天体を含む宇宙空間の領有を禁じた宇宙条約の第2条に完全に抵触しそうだし、宇宙での資源開発や地球防衛というのも、SF映画の設定ならともかく、近い将来の地球人に、そうした分野への切実なニーズがあるとはとても思えず、そうであれば、アスガルディアの基幹産業はいつまでたっても立ち上がらないということになります。
ウィキペディア 「宇宙条約」

 

それに、アスガルディアが一般的な国家の要件を満たせるのかという問題もあります。国家の三要素とされている、領域・人民・権力のうち、現時点では「領域」が存在していないし、ある程度の「人民」が暮らせる大きさの宇宙ステーションをこれから作るにしても、長い時間と途方もない費用がかかります。さらに、その費用を誰が負担するのかという問題もあります。
ウィキペディア 「国家」

 

まさか、今回ネット上で募集した「国民」に、そのための税金が課せられるなんてことにはならないと思いますが、ちょっと皮肉な言い方をすれば、そういう話が出たとたんに逃げ出すような人々なら、国家を支える「人民」とは言えないのだろうし、彼らに税金を払わせることができないのなら、「権力」も存在していない、ということになります。

 

また、かりにアスガルディアが国家としての体裁をなんとか整えることができたとしても、宇宙空間に住む人々のグループを、国連の一加盟国みたいな形で扱うのが適切なのかという問題もあるでしょう。彼らが暮らす環境は地球上とは全く違うわけだし、彼らが携わる事業も、地球環境や、地上で暮らす人々に大きなリスクを与えうるものです。そういう、ちょっと特別な存在を、地上の国々とまったく同列のものとみなしていいのでしょうか。

 

こういったことを考えていくと、あくまで素人の個人的な感覚にすぎないのですが、宇宙国家の立ち上げというのは、いろいろな意味で、まだ時期尚早という感じがします。

 

宇宙を人類の新しいフロンティアとみなして、そこに新しい発想や組織で乗り出していきたいという関係者の気持ちも想像できなくはないのですが、先走って独立を云々するよりも、まずは人類の共同作業として宇宙空間での活動実績を積み上げていくのが先だと思うし、現時点で国旗とか国歌を決めたところで、当面、国家としての承認が得られる見込みがない以上、それは個人が勝手に独立を宣言して、独自の切手やらコインやらを土産物として売っている、いわゆるミクロネーションと変わらないことになってしまいます。
ウィキペディア 「ミクロネーション」

 

でもまあ、こういう素朴な疑問については、発起人である専門家の方々も当然想定しているはずで、彼らとしては、どれだけ空想めいた話に聞こえようとも、今、宇宙国家の構想を語り、世界の注目を集めることに、それなりの意義があると考えているのでしょう。それに、今の世の中の変化の速さを考えれば、数年後、数十年後には、こうした構想がごく当たり前に受け取られるような世界になっているかもしれません。

 

……と、あれこれ考えているうちに、アスガルディアみたいに、ストレートに宇宙国家建設の夢を語る人々よりも、google とか facebook のような新興巨大IT企業の方が、条件的には、よほど宇宙国家の実現に近いところにいるのではないかという気がしてきました。

 

そうしたIT企業も、もちろん、現時点では国家の三要素を満たしているわけではありませんが、彼らは生活に密着した便利なサービスを提供することによって、億単位のユーザー(人民)の心をがっちりとつかんでいるし、「利用規約」を独断で決定し、それに従わないユーザーを締め出すことのできる力(権力)ももっています。

 

そして、さまざまなサービスによる売り上げや、企業の将来性と引き換えに集めた巨額の資金を、新たな分野への投資や研究開発に充てることができています。彼らの多くは、今のところ、宇宙開発にのめり込んだりするようなことはありませんが、ビジネスとして有望であると判断すれば、可能なところから着実に手をのばしていくだろうし、その結果として、将来的に、いくつかのIT企業が宇宙開発の分野に大きな影響力をもつようになる可能性もあるのではないでしょうか。

 

ただ、それは宇宙への夢やロマンを感じさせるものというよりは、冷徹なソロバン勘定に基づいて、さまざまな企業が主導権を争い合う、殺伐としたものになりそうな気がします。とはいえ、人類のこれまでの歴史と同様、そうしたドロドロした欲望こそが、時代を先へ先へと動かしていくのかもしれません。

 

もっとも、そうした企業は、さらなる利益の追求を可能にする自由なフロンティアとして宇宙を目指すことはあっても、そこにわざわざ国家を建設し、多数の国民を食わせていく義務や不自由を抱え込もうなどとは考えないだろうという気はしますが……。

 

 

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「裸のおじさん」の危機

先日、気になる記事を目にしました。

沖縄の無人島(外離島)で一人暮らしをしていた「裸のおじさん」が、島を追放されてしまったというのです。

めちゃイケ出演がアダ 無人島の全裸おじさん追放  東スポWeb

おじさん、というより、おじいさんのことは、数年前にテレビで見て初めて知りました。無人島で一人暮らしといっても、実際には近くの町に買い出しに行ったりしていたのですが、それでも自給自足に近い生活を何十年も続けるのは並大抵のことではないし、あえてそういう生き方を選び、実行してしまう意志力がすごいと思いました。

無人島で孤独に暮らす全裸の男 - In Subtropical Solitude  VICE Japan


その後、彼に関する記事をネットで何度か見かけ、彼も有名人になりつつあるのかな、なんて思っていたのですが、冒頭の記事によれば、昨年、人気テレビ番組で取り上げられてから、彼を目当てに現地を訪れる観光客が急増したようで、それを見かねた土地の所有者から退去を求められ、次に移り住んだ西表島の無人の浜からも、国有地ということで立ち退きを迫られているのだそうです。

20年以上にもわたって、確固とした生活を築き上げてきた本人にとってみれば、これは大変な事態だと思います。

今回の「追放」について、何とも言えない気持ちになるのは、無人島に押し寄せた観光客にしても、彼に退去を求めた関係者にしても、たぶん彼に対する悪意があるわけではなく、ただ単に、自分の好奇心やワクワク感に従っただけだったり、あるいは自分の置かれた立場に従って、言わざるを得ないことを言っただけだったりするのだろう、ということです。

みんな、おじさんを追い詰めるつもりはなかったけれど、多くの人のさまざまな行為が積み重なった結果、誰も望まない方向に状況が動き、おじさんは今までのようには暮らせなくなり、大事な居場所を失ってしまったということなのでしょう。

すでに起きてしまったことについて、関係者でもない私が、今さら何を言っても仕方ないのですが、ただ、こうなるのを防ぐ方法は、いくつもあっただろうにと思います。

まず何より、もしもおじさんが、ふだんから海パン一枚でもはいていれば、せめて、誰かが島にやって来たときだけでもそうしていれば、これほど人々の注目を集めることはなく、彼の暮らしが乱されることもなかったでしょう。

あるいは、メディアの取材、少なくともテレビの取材だけでも断っていれば、もっと穏やかな展開になっていたはずです。

おじさんのように、一日中素っ裸で暮らすというのは、今の日本では基本的に許されませんが、無人島で勝手にやっている限りは誰にも迷惑をかけないし、実際、誰の迷惑にもならなかったからこそ、彼は何十年もそれを続けてこられたといえます。

ただ、そうやって誰の制約も受けない暮らしを通じて突き詰められたライフスタイルが、多くの人にとってはあまりにもユニークなものになってしまったことで、結果的にそれは、大いに人目をひくネタとして、マスメディアの格好のターゲットになってしまいました。

しかも、彼はその生き方を隠そうとしなかったし、来る人を拒もうともしませんでした。

彼のライフスタイルが人々の話題になればなるほど、ネットの「炎上」と同様、彼の生き方を批判したり、干渉したりする人が増えていくのは必然だし、いったんそうなってしまえば、それまで彼の存在を黙認してきた地元の関係者も、自分に火の粉がふりかからないよう、タテマエを持ち出して対応せざるを得なくなっていきます。

そう考えると、私がこうやって記事を書くことも、騒動を大きくすることに加担しているだけなのかもしれません。

これから、おじさんがどうなってしまうのか、私には全く分かりませんが、彼のように、この社会から距離を置いて、独自の生き方を貫き通したいと願う人がいるなら、今回の事例を苦い教訓として、世間から余計な注目を集めて生活を翻弄されないよう、できる限りひっそりと隠れ住むしかないのかもしれません……。

ただ、一方で、もしかすると、彼にとっても、これが「潮時」だったのかもしれない、という気もしなくはありません。

おじさんは、何十年も一人暮らしを続けてきて、口ではともかく、内心では寂しさを感じることも多かったのではないでしょうか。だからこそ、観光客の来訪やメディアの取材を、それなりに受け入れてしまったのではないかという気がします。

もう、おじさんが素っ裸で暮らせる場所はないかもしれないけれど、とりあえず服さえ着ていれば、彼は波乱万丈の人生をくぐり抜けてきた「名物おじいさん」として社会に受け入れられ、培ってきたサバイバル能力を生かして、どこかで十分幸せな余生を送れるのではないでしょうか。


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