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旅の名言 「私が未知の外国を……」

 素のままの自分を山に放ちたい。なぜなら、その方が面白いからだ。すべてがわかり、完璧に安全だとわかっているならクライミングなどしなくてもいい。わからない中で、自分の力を全開にして立ち向かうところに面白さがあるのだ。
 その山野井氏の意見はよく理解できた。そして思ったのだ。私が未知の外国を旅行するときにほとんどガイドブックを持っていこうとしないのも、できるだけ素のままの自分を異国に放ちたいからなのだ、と。放たれた素のままの自分を、自由に動かしてみたい。実際はどこまで自由にふるまえるかわからないが、ぎりぎりまで何の助けも借りないで動かしてみたい。
 もちろん、うまくいかないこともある。日本に帰ってきて、あんな苦労をしなくても、こうやればよかったのかとわかることも少なくない。しかし、だからといってあらかじめ知っていた方がいいとも思えない。知らないことによる悪戦苦闘によって、よりよく知ることができることもあるからだ。その土地を、そして自分自身を。

『旅する力 ― 深夜特急ノート』 沢木 耕太郎 新潮社 より
この本の紹介記事

『深夜特急』の著者、沢木耕太郎氏による旅のエッセイ、『旅する力』からの名言です。

冒頭の、「素のままの自分を山に放ちたい」というのは、クライマーの山野井泰史氏の言葉です。

山野井氏は、できるだけ軽量化した装備で頂上を目指す自分の登山スタイルを説明するさいに、そのような表現をしたのですが、沢木氏はこの言葉を受けて、ガイドブックなどを持たずに異郷に飛び込んでいく自分の旅のスタイルも、同じような動機に基づいているのだと語っています。

「素のままの自分を異国に放ち」、ぎりぎりまで何の助けも借りずに、自分を自由に動かしてみたい……。

それは、未知の環境にあえて自分を投げ込み、何も分からない状況から、自分がどれだけ一人で動けるか、そして、何も仕込んでいない新鮮な目に何が映るかを試してみるような旅です。多少のリスクやトラブルは覚悟の上で、「わからない中で、自分の力を全開にして立ち向かうところ」に面白さを見いだし、旅が与えてくれる自由の感覚を最大限に引き出そうとする旅のスタイルだといえます。

もちろん、沢木氏も書いているように、そういう旅のやり方にはメリットもあればデメリットもあります。ちょっとした情報を知らなかったばかりに、ムダと思えるような苦労をしたり、知っていれば防げたトラブルに巻き込まれる可能性もあるでしょう。

それに、自分以外に頼れるものが何もない状況では、未知の土地で臨む一瞬一瞬に、真剣勝負で向き合わざるを得ません。

だからやはり、それなりに旅慣れていない人は、こういう旅には不安を覚えるだろうし、安心・安全で快適な旅を求める人なら受け入れがたいスタイルでしょう。

最近では、携帯情報端末を使いこなし、目的地に効率的にアクセスしたり、旅先でのエンターテインメントを最大限に楽しむような、スマートな旅のスタイルが普及しつつあるようですが、沢木氏の旅は、ある意味では、最近のそういうトレンドとは正反対の方向性を目指しているといえるかもしれません。

しかし、異郷であえて悪戦苦闘し、混沌とした状況から少しずつ自分なりの旅を作り上げていく体験は、旅人に、濃密で自由な時間を約束してくれるだろうし、それはまた、自分がどういう人間で、何ができるかを、これ以上ないくらいにはっきりと見せてくれるのではないでしょうか。

……とはいうものの、私はといえば、未知の土地をガイドブックなしで旅することはあまりありません。

ガイドブックなしで旅をしたことも、あるにはあるのですが、情報収集にかなりの手間がかかったり、知らないがために不便で割高なルートをとってしまったり、移動時間や旅のスケジュールの目処が立たずに余計な心配をしたりと、いろいろあって、やはりある程度の情報は必要だと思うようになりました。

もちろん、ガイドブックや旅行代理店に頼ることのデメリットも承知してはいるのですが、それ以上に、自分の問題解決能力というものを、あまり信用していないのかもしれません……。

まあ、旅のスタイルは人それぞれだし、周囲の助けを利用するかしないかについては、どちらが正しいという問題ではないのでしょう。旅する土地の状況や、旅の目的、あるいは本人の年齢や体調を考慮しつつ、各自が最適だと思うバランスを見出していけばそれでいいのだと思います。

それと、若いうちは、一般的に人生経験や知識があまりないという意味で、本人の意思とは関係なく、旅するときはいつでも、現地に素のままで放り込まれているようなものかもしれません。一方で、若いうちなら、現地で大変な目にあっても、気力と体力で何とか対応できる余地もあります。

もちろん、チャレンジ精神が心の奥底でふつふつと湧いている人なら、年齢に関係なく、沢木氏のような旅をやってみる価値はあるのではないでしょうか。

もっとも、やはり歳をとると、混沌とした状況の中で自分を自由に動かしてみる楽しさとか、悪戦苦闘の面白さよりは、肉体的、精神的に少しでも楽をしたいという気持ちが忍び込んでくるのは避けられませんが……。


JUGEMテーマ:旅行 

at 19:04, 浪人, 旅の名言〜旅について

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旅の名言 「つまり、旅は……」

旅は、自分が人間としていかに小さいかを教えてくれる場であるとともに、大きくなるための力をつけてくれる場でもあるのです。つまり、旅はもうひとつの学校でもあるのです。
 入るのも自由なら出るのも自由な学校。大きなものを得ることもできるが失うこともある学校。教師は世界中の人々であり、教室は世界そのものであるという学校。
 もし、いま、あなたがそうした学校としての旅に出ようとしているのなら、もうひとつ言葉を贈りたいと思います。
「旅に教科書はない。教科書を作るのはあなたなのだ」
 と。

『旅する力 ― 深夜特急ノート』 沢木 耕太郎 新潮社 より
この本の紹介記事

旅行記の名作『深夜特急』の著者である沢木耕太郎氏が、青年時代のユーラシアの旅と『深夜特急』執筆のプロセスを、自らの半生とともに振り返るエッセイ、『旅する力』からの名言です。

冒頭の引用は、『深夜特急』の韓国語版に書かれたあとがきの一部で、沢木氏は、旅を「入るのも自由なら出るのも自由な学校」に喩えて説明しています。

「学校」という言葉には、決められたカリキュラムに従って知識を詰め込まれる場所、というイメージが強いのですが、彼のいう「もうひとつの学校」は、そうしたイメージとはむしろ対照的な意味合いをもっているようです。

「教師は世界中の人々であり、教室は世界そのもの」だとしたら、そこは、予定調和などなく、偶然と変化の波が激しく打ち寄せる、油断のならない場所です。しかし、沢木氏によれば、それこそが、人間として「大きくなるための力をつけてくれる場」なのです。

沢木氏は、『旅する力』の中で、旅は「思いもよらないことが起きる可能性のある場のひとつ」であり、そこに身を晒すことで、旅人は「偶然に対して柔らかく対応できる力」、つまりは「自分の身の丈」を伸ばしていくことができる、といった趣旨のことを書いています。
旅の名言 「旅もまた……」

ただ、この広い世界そのものを学校とみなすとしたら、当然、そこには役所の定めた公式の教科書みたいなものは存在しないわけで、それは全くの自由を意味する反面、人によっては、どこから何に手をつけたらいいか、あまりにも漠然としすぎているように感じられるかもしれません。これまでの学校教育で、教科書に書かれたことを正確に記憶するという学習パターンにすっかりなじんでしまった人は、教科書などないといきなり言われても、途方に暮れてしまうでしょう。

こうして偉そうなことを書いている私も、一人旅を始めたばかりのころは、ガイドブックを教科書がわりに、そこに載っているおすすめの観光地を片っ端から周るような旅をしていました。もちろん今でも、ガイドブックに頼らず、自分の力だけで自由自在に世界を飛びまわれるなどとは思っていません。

たぶん私にかぎらず、どんな旅人でも最初のうちは、ガイドブックなり、旅行代理店なり、旅の仲間なり、いろいろなモノや人々の助けに頼らざるを得ないし、そうして旅をある程度続けていくうちに、少しずつ、自分のやりたいこと、自分の作りたい旅のイメージができてくるのでしょう。

もっとも、ガイドブックに全面的に頼った旅をするにしても、そこは言葉も通じない見知らぬ土地であり、何かと勝手の違う世界です。いくら計画通りにすすめようとしても、いやむしろ、計画通りにすすめようとすることでかえって、旅人はさまざまなアクシデントやハプニングに見舞われるはずです。

それらにどう対処するか、そのつど自分の力を試されるという意味では、どんなささやかな旅であっても、ガイドブックをなぞるだけのような旅であっても、大いなる学びの場としての旅のプロセスは、すでに始まっているのかもしれません。

とはいえ、旅を通じて自分が何を学びつつあるのかということは、実際に旅をしている時点ではピンとこないことの方が多く、旅を終えてさらに時間が経って、昔の旅を自分の人生とともに振り返るような機会に、ああ、そういうことだったかと、初めて見えてくることも多いのだろうと思います。

それに、「学び」とか、自分の身の丈を伸ばすというようなイメージにこだわりすぎると、旅が堅苦しくなり、苦しい修行のようになってしまうかもしれません。

それでも、旅を単なる気晴らしや現実逃避とみなすよりは、そこに何らかの学びがあるはずだと考えたり、自分がやっていることには、(今は漠然としているけれど)長い目で見れば深い意味があるかもしれないと思うほうが、少なくとも、今まさに自分が続けている旅について、前向きな気持ちでいられるような気がします。


JUGEMテーマ:旅行

at 18:31, 浪人, 旅の名言〜旅について

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旅の名言 「だから、旅を……」

 いまは旅にとって幸福な時代ではないかもしれない。辺境も秘境も失われ、どこかにユートピアがあるはずだという素朴な楽園幻想も持てない。グローバリズムの浸透によって、どこへ出かけようと、ここでないどこかを見出すのはとても困難だ。どこまでいっても、結局自分の脳内をぐるぐるまわっているような閉塞感もますます深まるだろう。旅になど出なくても、かんたんに世界の情報も得られるし、長い旅から戻ったものの、仕事が見つからなかったり、着地点を見出せずに苦しんでいる人たちもいる。
 でも、だとしても、旅をあきらめてはいけないと思う。きっと、まだ見えていないものがある。いまは見えていなくても、時をおけば、きっとなにかが見えてくる。ほんのささやかな旅であっても、そこには情報に還元しつくせない無数の経験が存在している。そうした経験は心の中でゆるやかに熟成し、日々の生活をべつの文脈から見ることを可能にしたり、ものごとの意味を新しく捉え直す力になったりすることがある。だから、旅をあきらめてはいけない。


『孤独な鳥はやさしくうたう』 田中 真知 旅行人 より
この本の紹介記事

作家・翻訳家の田中真知氏による旅のエッセイ『孤独な鳥はやさしくうたう』の「あとがき」からの引用です。

引用前半の一段落で、田中氏は、現代の旅につきまとう閉塞感について、簡潔に、的確にまとめています。

「いまは旅にとって幸福な時代ではないかもしれない」という彼の言葉に同意するかどうかは人それぞれかもしれませんが、国内・海外を問わず、旅が好きで、すでにあちこちを見てまわったことのある人なら、旅の現状をめぐって彼の言わんとするところはだいたい理解できるのではないでしょうか。

ほんの数十年前までは、この地球上にも、人類未踏の場所がいくつも残されていたし、探検家ならともかく、普通の旅人には簡単に近づけないような秘境の地というものも数多く存在しました。

この地上に、ほとんど誰も知らない、あるいは、普通の人間には決してたどり着けない場所があるという事実は、秘められた土地についての人々の想像をかきたてずにはおかなかっただろうし、それはまた、「どこかにユートピアがあるはずだという素朴な楽園幻想」にもつながっていたのだろうと思います。

しかし今や、普通の旅人にとってさえ、手の届かない場所というものはほとんどありません。さすがに紛争地帯へは行けませんが、かつての秘境でも、多少の出費さえ覚悟すれば、ツアーで簡単に訪れることができます。未知の土地が失われたことで、そこに私たちの幻想を重ねる余地もなくなりました。

それでも、人類全体ではなく、私たち一人ひとりの視点に立つならば、世界的に有名で、すでに多くの観光客が足を踏み入れた場所であっても、自分がまだそこに行ったことがないのなら、それは未知の土地だと言えないこともないのかもしれません。

実際、毎年数多くの人々が、国内・海外のありとあらゆる土地を旅し、それぞれの人にとって見慣れぬ風景や異なる文化に出会うたびに、新鮮な感動を味わっているはずです。

また、ガイドブックを片手に、自分で飛行機・鉄道・バスやタクシーを乗り継ぎ、世界を自由に、格安で旅するというスタイルも、ここ数十年間のあいだに若者を中心に広まった新しい旅の楽しみ方で、そうした新しい旅の可能性も、まだまだ完全に追求され尽くしたとは言えないのかもしれません。

ただ、一方で、そうした自由旅行の広がりは、世界各地にゲストハウスや旅行代理店、観光客向けのカフェやレストランなどを次々に生み出すことになり、その現象は、有名観光地の周辺ばかりではなく、辺境と呼ばれるような地域にまで及びつつあります。

同時に、グローバル化の進展にともなって、どこの国でも、ある一定水準以上の収入のある人々は、世界的なブランドの同じようなモノを買い、同じような音楽や同じような映画を楽しみ、同じようなニュースに興味をもち、同じようなことを考え、結果として、同じような暮らしをするようになりつつあります。

観光インフラの普及は、旅を便利で快適なものにしてくれたし、グローバル化のおかげで、私たちは異国の人々とも共通のバックグラウンドをもつことになり、それが旅先でのコミュニケーションを容易にしてくれるのですが、一方で、それらは、世界の金太郎飴化ともいうべき状況をもたらしているのかもしれません。

旅そのものは、年を追うごとに安全で快適なものになっているし、それは良いことであると私も思うのですが、ふと気がつくと、世界のどこへ行っても、似たような宿に泊まり、似たような食事をし、似たような体験をして、似たような人々と出会い、似たようなお土産を買って帰っているように思えてきます。

自分にとって本当に未知の何か、エキゾチックで新鮮な体験を求めて旅に出たはずが、旅をすればするほど、「どこへ出かけようと、ここでないどこかを見出すのはとても困難」になっているような気がするのです。

また、テレビや新聞・雑誌、旅行記やガイドブック、そしてネット上の旅行情報など、旅先に関する情報は有り余るほどで、私たちは、旅を始める前から、もうお腹いっぱいの状態です。

せっかく現地まで足を運んでも、事前に見聞きした膨大な情報のために驚きや感動が薄れてしまい、初めて実際に目にする風景に強い既視感を覚えたり、新しいことを体験しているはずなのに、何となく先が読めてしまう気がする人も多いのではないでしょうか。

異国の街角でも、どこかで見たような店に入り、自分と似たような人々に出会い、知らない国にいるはずなのに、意外性や驚きのない旅。それは、先が見通せて不安がないという意味で、安全で快適な旅ではあるのですが、そこには同時に、世界中に広がる巨大なシステムの内側に閉じ込められたまま、どうやっても外に出られないフラストレーションや、「どこまでいっても、結局自分の脳内をぐるぐるまわっているような閉塞感」があります。

さらに、これは日本特有の問題かもしれませんが、海外を数年間放浪して帰国したような旅人の中には、日本社会に激しい逆カルチャーショックを感じ、不適応の症状が出てしまう人がいるし、再び就職して日本社会になじもうとしても、職歴上のギャップを嫌う日本企業に敬遠されて、思うように職を見つけられない人もいるようです。

こういうことはすべて、実際に旅を続けてみて、始めて実感として分かってくるという面も大きいので、むしろ何度も旅を重ねたり、長い旅を続けている人のほうが、こうした旅の閉塞感にとらわれたり、旅に深い幻滅を感じる傾向があるのかもしれません。

その一方で、最近は若い世代の海外旅行離れが進んでいるという話もあります。ひと昔前のような、海外への素朴な憧れみたいなものも、今はもうなくなってしまったのかもしれないし、カネや手間暇をかけてまで旅に出ようと思わなかったり、旅に全く意味を見出せないという人も、けっこう多くなっているのでしょうか。
記事 「若者の海外旅行離れ?」

しかし、それでも、田中氏は、「旅をあきらめてはいけない」と言います。

どんなにささやかな旅であろうと、自分にとって未知の土地を訪れるという行為は、言葉や情報という形に還元することのできない、無数の経験のかたまりであり、今はそこに深い意味を見出せないとしても、旅の経験は心の中で熟成を続け、いつか、私たちの生活を別の新しい視点から見つめるための力になってくれるかもしれないというのです。

私も、きっとそうなのだろう、そうであってほしいと思います。

かつて、私が長い旅に出る決意をしたときも、これから自分が体験することは、世間的な意味ではほとんど役に立たないだろうし、旅に伴う危険もいろいろあるけれど、長い目でみたときに、自分に返ってくる何かがあるのではないか、今はそれについて何のあてもないけれど……といったようなことを、ぼんやり考えていた気がします。

でもまあ、私の場合は、旅を何年続けても、何かがはっきりと見えてきたわけではないし、旅のおかげで、自分が何かの能力に目覚めたという実感もありません。むしろ、周りの人からすれば、海外をフラフラ旅しているうちに、人生をドロップアウトしたようにしか見えないでしょう……。

それはともかく、現代の旅と閉塞感が分かちがたく結びついていて、人によっては、そのネガティブな感覚と必死で闘いつつ、自分なりの意味を求めて旅を続けているのかと思うと、なんだか切なくなってきます。

しかし、現在、世界を覆い尽くしているグローバル化や情報化の流れが続くかぎり、その閉塞感から簡単に逃れることはできないだろうし、個々人が実際に旅をする意味も、これからますます失われていくのかもしれません。

そういう状況の中では、結局のところ、自分の中に旅への強い衝動を持ち続けている人間だけが、旅を続けられるのでしょう。

今、ここで意味を見いだせなくても、旅を続けさえすれば、いつか何かが見えてくるかもしれないという田中氏の言葉は、自分の中のネガティブな思いに打ち勝ち、さらに一歩を踏み出そうとする旅人にとって、ひとつの希望だと思います。

ただ、「旅をあきらめてはいけない」というひとことに素直に励まされ、何の担保もなしに、不確かな未来の可能性に賭けることのできる旅人がいるとしたら、それはその人の中に、どんなことがあっても消えない、旅への強い衝動があるということなのかもしれません……。


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at 19:04, 浪人, 旅の名言〜旅について

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旅の名言 「旅もまた……」

大震災から3週間が過ぎました。

テレビや新聞は次第に通常の編成に戻り、被災地から遠く離れた私の周辺は、少なくとも表面的には、以前の日常を取り戻しました。

個人的には、いまだに心が非日常モードに入ったままで、何か生産的な作業をしようという意欲が湧いてこないのですが、いつまでも呆然としているわけにもいきません。

地震の前に書きかけていた記事を仕上げたりしながら、徐々に日常モードに復帰していきたいと思います。

というわけで、「旅の名言」です。

 実際、旅は偶然に満ちている。さまざまな種類の偶然が旅を変容させていこうとする。たとえば、いくら厳密な予定を組んでいたとしても、予期しなかった事態に遭遇して変化を余儀なくされそうになる。まるで砂の城を洗う波のように、偶然が幾重にも押し寄せ予定を崩していこうとする。そのとき、大事なのは、あくまでも予定を守り抜くことと、変化の中に活路を見出すことのどちらがいいか、とっさに判断できる能力を身につけていることだ。それは、言葉を換えれば、偶然に対して柔らかく対応できる力を身につけているかどうかということでもある。
 そうした力は、経験や知識を含めたその人の力量が増すことによって変化していくものだろうが、それはまた、思いもよらないことが起きるという局面に自分を晒さなければ増えてこないものでもある。だからこそ、若いうちから意識的に、思いもよらないことが起きうる可能性のある場というものに自分を晒すことが重要になってくるような気がするのだ。
 そのためには、スポーツをするのもいい訓練になるだろう。スポーツは、自分だけではコントロールできない、思いもよらないことが起きるという中で、瞬間的にどう対処するのかということを判断していかなければならないものとしてあるからだ。もちろんスポーツマンにもつまらない人間はたくさんいるが、魅力的なスポーツマンというのは、たぶんそういう経験を多く積むことによって、自分の身の丈を高くしていった人なのだろうと思う。
 そして、それは旅についても言えるような気がする。旅もまた思いもよらないことが起きる可能性のある場のひとつなのだ。それに対処していくことによって、少しずつその人の背丈が高くなっていき、旅する力が増していくように思われる。

『旅する力 ― 深夜特急ノート』 沢木 耕太郎 新潮社 より
この本の紹介記事

前回の「旅の名言」に引き続き、沢木耕太郎氏のエッセイ『旅する力』からの引用です。

彼は、このエッセイの中で、旅の効用として「自分の背丈を知る」ことを挙げているのですが、ここでいう「自分の背丈」とは何か、それはどのようにして伸ばしていくことができるのか、若い人たちに向けて丁寧に説明しています。

旅は数々の偶然に満ちており、旅人は、ときには予想もつかないような事態に遭遇します。

それを乗り切るためには、変化に柔軟に対処できる力が必要ですが、その力は、実際に先の読めない状況、「思いもよらないことが起きる可能性のある場」に何度も身を晒すことによってしか体得できません。

だから、若いうちから意識的にそうした経験を積んでいくことで、人は「旅する力」、つまり自分の身の丈を伸ばしていくことができるというのです。

旅において大事なことは、自分だけではコントロールできない未知の体験や状況の大きな変化に対して、どのように対処すべきか、とっさに判断できる能力であるという沢木氏の指摘には、長年の旅の経験を通じた、旅への深い理解を感じます。

そして、それはそのまま、私たちの人生そのものに対しても当てはまることなのだと思います。

沢木氏の言うように、旅は「思いもよらないことが起きる可能性のある場」ですが、人生もまた同じだからです。

そう考えると、旅とは、人生において起こり得るさまざまな事態に対処する能力を高め、「自分の背丈」を伸ばすための、とてもいい訓練の場でもあるのかもしれません。

でもまあ、そうは言っても、訓練とか学びということをあまり気にしすぎると、今度は旅そのものを楽しめなくなってしまいそうな気もします。

実際、旅の効用とか意義みたいなものは、旅をしている最中にはなかなか自覚できないもので、旅を終えて長い時間が経って、はじめて何かに気づくということもあります。それに、近頃は、人生修行としての旅みたいな考え方も、あまり人気がないのかもしれません。

個人的には、そういう考え方にはけっこう惹かれるものがあるのですが……。

それはともかく、旅先で時間を持て余しているときなど、旅や人生について、あるいは「自分の身の丈」について、いろいろと思いをめぐらしてみるのは楽しいことですが、一方で、そういうことを考えすぎるのも禁物だと思います。特に一人旅をしているときなど、何かのきっかけで余計なことを考え始めて、いつしか結論のない堂々巡りに陥ってしまいがちです。

旅をしているあいだは、やはり何より、新鮮な感動に満ちた旅の日々を思い切り味わうのが一番です……。


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at 18:52, 浪人, 旅の名言〜旅について

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旅の名言 「旅ってつまんないのかも、とか……」

 旅にも年齢がある。その年齢にふさわしい旅があり、その年齢でしかできない旅がある。そのことに気づかないと、どことなく手触りの遠い旅しかできない。旅ってつまんないのかも、とか、旅するのに飽きちゃった、と思うとき、それは旅の仕方と年齢が噛み合っていないのだ。

『いつも旅のなか』 角田光代 角川文庫 より
この本の紹介記事

作家・角田光代氏の旅のエッセイ集、『いつも旅のなか』からの一節です。

角田氏は、20代の前半でバックパッカー・スタイルの旅を覚えて以来、10年ほど同じようなやり方で旅を繰り返していました。

しかし、33歳でラオスに行ったとき、ふと、「なんかつまんない」と思い始めます。

そして、古都ルアンプラバンで若い日本人バックパッカーのカップルに出会い、屋台で夕食を買ったり、部屋をシェアしたり、いきあたりばったりの恋をしたりと、彼らがその年齢にふさわしい、先の見えない貧乏旅行を満喫しているのを目にしたとき、角田氏は、彼らと同じような旅のスタイルが、自分にはもう釣り合わなくなっていることに気づくのです。

それは、自分がもう若くはないことを痛感させられる、ほろ苦い自覚であり、同時に、自分が旅とともに成長して、昔と同じような旅を続けるだけでは満足できなくなったということでもあるのでしょう。

「その年齢にふさわしい旅があり、その年齢でしかできない旅がある」というのは、たしかにその通りだと思います。

若い人は、人生の初心者であるとともに、多くの場合、旅の初心者でもあります。当然、旅先では恥ずかしい失敗をすることもありますが、若いということで周りからは大目に見てもらえるし、仮に肉体的・精神的なダメージを受けることがあっても、立ち直りの早いのがせめてもの救いです。

その一方で、余計な知識や思い込みがない分、身のまわりで起きるどんなことも新鮮に感じられ、大いに感動できるだろうし、ときには何も知らないがゆえの大胆さが功を奏して、思いもかけない貴重な体験ができることもあります。

しかし、旅を続け、人生の経験もそれなりに重ねていけば、旅で得られる体験の質は徐々に変わっていくし、同じような旅を繰り返すうちに倦怠に陥ることもあるでしょう。それにもちろん、歳をとれば体力的にも、若い頃のようなハードな旅はできなくなります。

こういうことは、誰もがいずれ気がつくことだし、みんな年齢に応じて、旅のスタイルを少しずつ変えていくのでしょう。ただ、ときには、そうした自覚があまりないままに歳を重ね、旅の仕方と年齢が噛み合わなくなることもあるでしょう。

そんなときは、そのぎくしゃくとした感覚が、「旅ってつまんないのかも」とか、「旅するのに飽きちゃった」といった自覚症状の形で表れるのかもしれません。

ちなみに、角田氏は新たな旅のスタイルを模索する一つのステップとして、まずは貧乏性を克服することにしたようです。

 あいかわらずデイパックを背負って出かけていくが、「タクシーに乗ってもいいんだ、星つきホテルに泊まってもいいんだ、膝にナプキンを広げるレストランで食事してもいいんだ、なんならブランド屋に入ったってだれも咎めないんだ」と、現在、私は身についた貧乏根性を懸命にそぎ落としている。自分の年齢の重ね具合と、最大限に楽しめる旅具合を、目下調整中、といったところか。


実際、年齢とともに経済的に豊かになっているなら、そもそも若い頃のような貧乏旅行を続ける必然性もないわけです。

旅にカネをかけられるということは、旅における選択肢が飛躍的に広がるということです。カネを惜しむあまりに危ない橋を渡ったり、意味のない苦痛を耐え忍ぶ必要がなくなるわけで、それは基本的に素晴らしいことです。

ただ、その一方で、いいホテルに泊まったり、おいしいものを食べたり、タクシーに乗ったりと、旅行にカネをかけて楽をすることを覚えても、それがそのまま旅の魅力を回復することにつながるのかどうかは、正直言って疑問です。

特に、バックパッカー・スタイルの、シンプルで自由気ままな旅の解放感に魅力を感じている人なら、カネをかけてそこに快適さを付け加えようとしても、やり方次第では、窮屈な退屈さを背負い込むだけになってしまうような気もします。

まあ、このあたりに関しては、あくまで、貧乏性がすっかり染みついてしまった私の負け惜しみに過ぎないのかもしれませんが……。

いずれにしても、経験豊富な旅人は、自分に合った旅のスタイルや、本当に満足のいく旅を求めて、終わりのない試行錯誤を続けていくことになるのでしょう。


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at 18:51, 浪人, 旅の名言〜旅について

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旅の名言 「だから、旅は……」

 旅に出ると「人生を学び、人間的に豊かになる」と考えるのは、「スポーツが好きな人に悪い人はいない」という話と同じくらいに根拠がない。旅が人を鍛え育て、豊かな心を持った人に変えるとしたら、外国に行く人だけで年間一七〇〇万人もいる日本は、心豊かな人たちだらけになっているはずだ。
 「どこか遠くに行けば、『本当の私』が見えてくるはず」というのも、旅を過大評価する幻想にすぎない。野球を何年かやると、野球を通してなにかを学ぶ人がいるかもしれない。それはそれでいいのだが、最初から野球を教育と結びつけるとロクなことはない。それと同じように、旅に教育的効果を期待しても、あまり意味がない。
 基本は、そういうことだ。ただ、人によっては、あるいは旅行のしかたによっては、旅が人を鍛えるということはたしかにある。
 今まで洗濯さえしたことがなく、親にすべて頼っていた者が、英語さえも通じない土地を、日本人旅行者とは離れてたったひとりで旅を続ければ、もしかして旅に出る前とは少し違う人間になっているかもしれない。しかし、だからといって、心豊かになるとか見聞が広まり異文化を理解する力がつくというわけではかならずしもない。「なんでも日本が一番」と言うだけの国粋主義者になって帰国することもある。
 だから、旅は道楽のひとつと考えたほうがいいのである。

『アジア・旅の五十音』 前川健一 講談社文庫 より
この本の紹介記事

前川健一氏の、『アジア・旅の五十音』からの引用です。

旅をすれば、視野が広がるとか、人間的に豊かになるとか、本当の自分が見つかるかもしれないとは、世間でよく言われることです。実際、そういうことを期待して旅に出る人もけっこう多いのではないかと思います。

しかし、前川氏は、そうした言葉に根拠などなく、「旅を過大評価する幻想にすぎない」と言い切ります。

これを、ずいぶん乱暴な発言だと思う人もいるでしょうが、私個人としては、たしかに言われてみればその通りかもしれない、という気がします。

彼の言うように、旅人の中には、旅を通じて、たまたま何らかのポジティブな変化を経験する人がいるかもしれません。しかしそれはきっと、あらかじめそうしようと思って、思惑通りにコトが運んだわけではないでしょう。

逆に、旅に出たらどれだけ立派な人間になれるか、どれだけの能力を身につけられるか、大いに期待して旅に出るとしたら、それはかなり裏切られることになると思います。

旅は、単位を揃えて卒業できるような、学校のカリキュラムとは違います。旅の途上で、旅人に何が起こるか、人間的にどう変わっていくのか、予測したり、結果を保証したりすることは誰にもできないのではないでしょうか。

しかし、消費社会に生きる私たちは、カネの支払いと引き換えに、それ相応のモノやサービスを受け取るという発想に慣れ親しんでいます。そのために、その思考パターンを旅にもそのまま当てはめて、つい、旅という行為や苦労と引き換えに何らかのポジティブな成果が得られると思ってしまうのかもしれません。

それに、旅人がどんな旅をし、その結果をどう意味づけるかは、すべて個々の旅人の自由に任されていることです。人によっては、旅に意味なんて求めないという人もいるでしょう。また、旅の体験が、成果とか評価といった世知辛い世界から遠く離れているからこそ、旅を愛するという人もいるでしょう。

それなのに、そこにあえて「教育的効果」という世間的な尺度を持ち込んで、それをうんぬんしようとするのは、余計なお世話なのかもしれません。

そう考えていくと、「旅は道楽のひとつと考えたほうがいい」という前川氏の言葉にもうなずける気がするのです。

そもそも、あらかじめ予測が立たないプロセスだからこそ、旅は面白いといえます。

旅を前にして変な皮算用をしたり、旅を自分の思惑でコントロールしようとするのはやめて、ただその成り行きに任せ、旅が差し出してくれるものを素直に受けとめることが、旅の魅力を味わうコツなのかもしれません。

……なんてことをいちいち考えるのも、また余計なのでしょうが……。


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at 18:58, 浪人, 旅の名言〜旅について

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旅の名言 「バックパック旅は……」

 バックパック旅は、人工衛星の打ち上げに似ている。旅立ちには、重力を振り切って飛び出す巨大な推力が要るが、ひとたび軌道に乗ってしまえば、あとは慣性に身を委ね、のんびりと世界を漂い続けることができる。

『ぼくは都会のロビンソン ― ある「ビンボー主義者」の生活術』 久島 弘 東海教育研究所 より
この本の紹介記事

一人のフリーライターが長年にわたる「ビンボー暮らし」の中で編み出した、衣食住にわたるさまざまなノウハウと生活哲学を語るユニークなエッセイ、『ぼくは都会のロビンソン』からの一節です。

著者の久島氏は、若い頃にアジアや南米を放浪したことがあり、そうした旅暮らしの中で身につけた知恵の多くが、彼の生活術の中に今でも生かされているようです。

そのためもあってか、本文中では、彼が放浪の旅で経験したさまざまなエピソードや、旅に関する考察も披露されています。冒頭の一節はその一部ですが、長い旅を経験した人物ならではの実感がこもっているように思われます。

短い休暇旅行ならともかく、数カ月、あるいは数年にもなるような長い旅に出ようとするとき、人は日常の雑事はもちろん、仕事や住居、これまでに築いた人間関係など、さまざまなものから身を切り離し、それらを振り切るようにして旅に出ることになります。

しかし、それは言葉にするのは簡単でも、いざ実行に移すとなると、それなりの勇気や思い切りが必要になってきます。旅への期待に胸を膨らませながらも、一方で、慣れ親しんできたものを一気に捨てるのには苦痛が伴います。

これまでの生活への執着を振り切って旅立つさまは、まさに、重力圏を脱出する宇宙船の打ち上げに似ています。そして、それには「重力を振り切って飛び出す巨大な推力」が必要になるでしょう。

日々の暮らしに疲れ、あるいは倦怠を感じ、見知らぬ土地への放浪にあこがれる人は多くても、実際に一歩を踏み出す人があまりいないのは、この「重力」を振り切るのに十分なパワーを集められなかったり、打ち上げに失敗して悲惨な結果になることを恐れてしまうからなのかもしれません。

しかし、一度打ち上げに成功し、日常生活という重力圏を抜けてしまうと、旅を続けることそれ自体は、それほど難しいものではありません。

もちろん、旅にはそれ特有の困難や危険があるし、それは決して侮れないのですが、旅の日々に慣れ、ある程度の経験を積んだ旅人は、起こり得るトラブルをかなり回避できるようになるし、その心身も少しずつ旅暮らしに適応し、やがて、自分のペースで自由に旅を楽しめるようになっていきます。

また、バックパッカー・スタイルの旅の場合、持ち運びできる荷物に限度があるために、生活はおのずとシンプルなものにならざるを得ませんが、これが逆に、生活に一種の軽やかさをもたらしてくれます。

旅人は、日常のしがらみという重力から自由になり、(ビザやカネの制約を除けば)自分の意志で、好きな場所に好きなだけ滞在することができます。いったん旅のコツを飲み込んでしまえば、自分のペースで「のんびりと世界を漂い続ける」ことができるようになるのです。

こう書くと、放浪の旅というのは、まるでいいことずくめのように見えるかもしれませんが、この世界に永遠に続くものなどないように、長い旅もいつかは終わるのであり、どこか別の国に移住するのでもない限り、旅人には、いずれ日本に帰らねばならないときがやってきます。

宇宙船が大気圏に突入するプロセスが非常に危険なものであるように、シンプルで、自由で、軽やかな旅を楽しんでいた旅人は、帰国した瞬間、心身ともに激しいショックを受ける可能性があります。

旅人は、それまでのふわふわと漂うような生活を失い、一気に日本的な現実に引き戻され、さまざまなしがらみに再びからめとられていくのですが、一方で、そうした事態を眺める旅人のまなざしは、もはや、かつてそこに生活していた頃と同じではなくなっているのです。

以前なら、当たり前すぎて何の疑問も抱かなかった日本での生活に、いちいち違和感を覚え、ときに、それは耐えがたいまでにグロテスクに感じられることさえあります。いわゆる「逆カルチャーショック」です。

久島氏は、バックパッカーの帰国について、次のように述べています。

 たとえ予定どおりの帰国であっても、宇宙船同様、帰還は最大の難関となる。ゆっくり逆噴射をかけたつもりでも、日常社会という地表に叩きつけられる。どっぷり旅の無重量状態に漬かってきた精神は、“現実”という重力を前に、なす術もない。
「帰国したときのカルチャーショックが一番大きかった」
 そう振り返る旅行者のなんと多いことだろう。

そういう意味では、帰国した瞬間に旅が終わると思うのは甘い考えで、人によっては、帰国したあとに、より大きな旅の試練が待っているのです。

そういえば、宇宙ステーションの無重力状態に慣れてしまった宇宙飛行士も、地上に戻ったあと、衰えた骨や筋肉が元通りになるまで、長いリハビリが必要になるという話を読んだことがあります。

このように考えていくと、バックパッカー的な長旅というのは、たしかに宇宙飛行に似ているのかもしれないな、という気がします。出発と帰還の難しさと、そこにある危機、そして、その間の(比較的)のんびりとした気楽な慣性飛行によって成り立っているという意味で。

もちろん、私には宇宙飛行の経験などないので、あくまで想像でものを言っているだけですが……。


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at 19:21, 浪人, 旅の名言〜旅について

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旅の名言 「旅行は疲れるものであり……」

 十日間、理不尽な食中毒やら、絶え間のないメキシコ歌謡曲やら、自動小銃を抱えた真剣な人々やら、冷房の故障したバスやら、いくら蹴飛ばしても(僕は本当に真剣に蹴飛ばしたのだ)うんともすんとも感じない象のようにあつかましい割り込みおばさんに耐えながら一人でメキシコを旅行してみてあらためてつくづく感じたことは、旅行というのは根本的に疲れるものなんだということだった。これは僕が数多くの旅行をしたのちに体得した絶対的真理である。旅行は疲れるものであり、疲れない旅行は旅行ではない。延々とつづくアンチ・クライマックス、予想はずれ、見込み違いの数々。シャワーの生ぬるい湯(あるいは生ぬるくさえない湯)、軋むベッド、絶対に軋まない死後硬直的ベッド、どこからともなく次々に湧きだしてくる飢えた蚊、水の流れないトイレ、水の止まらないトイレ、不快なウェイトレス。日を重ねるごとにうずたかく積もっていく疲労感。そして次々に紛失していく持ち物。それが旅行なのだ。


『辺境・近境』 村上春樹 新潮文庫 より
この本の紹介記事

瀬戸内海の無人島からノモンハンの戦場跡まで、日本国内と世界各地へのさまざまな旅の記録を収めた村上春樹氏の『辺境・近境』からの一節です。

上の引用は、メキシコ南部への一カ月の旅を描いた「メキシコ大旅行」の章からで、その旅の前半の十日間、彼はバックパッカー・スタイルの一人旅をしています。

その最中に起きた数多くのアクシデントを具体的に挙げつつ、彼はいわゆる開発途上国の田舎を旅する苦労について語っているのですが、ユーモアを交えながらも、さりげなく旅の本質に踏み込んでいるのはさすがです。

「旅行は疲れるものであり、疲れない旅行は旅行ではない」

現代社会に生きる私たちは、好奇心を満たす珍しい風景や異国情緒など、旅のおいしいところは十分に味わいつつも、トラブルやアクシデントといった旅のマイナス面はできるだけ避けようとします。

特に、日頃、仕事で疲れ果てている人にとって、旅とは、快適なリゾートで骨休めをすることであり、溜め込んだストレスを発散できる貴重な機会であり、万が一にもさらなる疲労を溜め込むようなことがあってはならないのかもしれません。

しかし、世界の観光地で旅人が快適に過ごせるようになったのはごく最近のことだし、もちろんそれは、それ相応のカネと引き換えにして初めて実現できるものです。

カネで便利さや快適さを買えない人にとって、旅とは今でもやはり疲れるものであるし、場所によっては、旅人がいくらカネを積もうと、誰もが疲労やストレスや恐怖にまみれるしかない土地というのも存在します。

それに、いくらカネで快適さを買ってみたところで、正直な話、旅人がTVドラマや映画のように劇的でロマンチックな体験をするということはまずないし、実際に目的地に着いてみれば、事前に抱いていた期待を裏切られるような「不都合な真実」の数々にも直面するでしょう。

やはり基本的に、旅とは疲れるものであり、「アンチ・クライマックス」の連続や、さまざまな幻滅に直面することでもあるのです。

「快適な旅」「感動の旅」という旅行代理店のキャッチフレーズは、確かにまったくのウソではないにしても、「旅行は疲れるもの」というその本来の姿を、せめて少しでもあいまいにして、お客さんにもっと旅をする気になってもらおうという、業界としての苦肉の策なのかもしれません。

ただし村上氏は、旅は疲れるからイヤだと言っているわけではありません。

それに、私は思うのですが、きっと大多数の旅行者も、こんなことをしたってきっと疲れるだけだと内心では薄々感じながら、やっぱりみんな旅に出ていくのだと思います。

そして、そこが人間の面白いところなのかもしれません。

村上氏は、さらにこんな風に書いています。

 そのようにして僕は果てしなき事物の紛失を自然の摂理として宿命として受け入れ、ただただうるさいだけのメキシコ歌謡曲を受け入れ、八月の午後のとめどもない暑さを受け入れ、ロシアン・ルーレット的な嘔吐と下痢を受け入れていった。それらは僕を疲弊させ、うんざりさせた。でも考えてみれば――と僕はそのうちにふと思った――僕をしてそういう諦観にいたらしめるプロセスこそが、僕という人間を疲弊させるさまざまなものごとを、自然なるものとして黙々と受容していくようになる段階こそが、僕にとっての旅行の本質なのではあるまいか、と。


旅とは、村上氏の言うように、「日を重ねるごとにうずたかく積もっていく疲労感」の中で、それこそがこの世界の現実であると改めて気づかされることであり、行く先々の土地によって疲弊の仕方に違いはあれど、この世界で生きる以上、結局、どこへ行っても何らかの疲弊を受け入れざるを得ないのだという「諦観」に至るプロセスなのかもしれません……。


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at 18:52, 浪人, 旅の名言〜旅について

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旅の名言 「現地のことばで……」

 私がタイで定点観測をやり始めた理由のひとつは、旅に飽きてしまったからである。日々転々と移動している旅の生活に飽きた。毎日さまざまなものを見ているものの、なにもわからない。博物館に行っても、その国の歴史や文化がわかっていないから、おもしろさがあまり伝わってこない。市場に行っても、知らないものばかりだ。農村に行っても、木の名前も作物もわからない。英語を話せる人と出会って世間話をしても、その国の現代史や宗教や民族問題がわかっていないと、いつも薄っぺらな話しかできない。現地のことばで、あいさつと数字の言い方を覚えたところで次の土地に行き、またあいさつと数字を覚えるところから始まり、いつまでたってもそれ以上のことばを覚えない。こんな中途半端な旅に飽きてしまった。ジェスチャーまじりの英語でばかり話しているのがいやになった。
 旅が好きなのに、旅に飽きてしまった。いつもどこかに行きたいと思っているが、「よし、行くぞ!」という衝動が湧いてこない。私を日本から引き離す強力な磁力がなくなった。そう感じたのは、旅を始めて一〇年ほどたったころだった。

『アジア・旅の五十音』 前川健一 講談社文庫 より
この本の紹介記事

アジアの旅にまつわるさまざまな文章を、「あ」から「ん」まで50音順に配列したユニークな作品、『アジア・旅の五十音』の「飽きる」の項からの引用です。

そこには、著者の前川健一氏が、旅に飽き、やがてタイのバンコクで「定点観測」を始めるに至った経緯が綴られているのですが、彼が旅に飽きた理由として、「日々転々と移動している旅の生活」の短所をいくつかあげているのには、私も実感をもって同意することができます。

たしかに、誰でも旅の当初は、外国に行って見るもの・聞くもの・味わうものすべてが新鮮に感じられ、また、思いのままに行動し、好奇心を満たせる旅の生活にも充実感を覚えるでしょう。

しかしそんな日々が何か月も続けば、あるいはそんな旅が何回も、何十回も繰り返されれば、さすがに飽きてきます。

それに、旅の生活に慣れ、そのメリットとデメリットを冷静に観察できるようになると、旅人という立場に居続けることの限界というものもはっきりと見えてきます。

旅人は、一つの土地に滞在できる時間が限られていますが、だからこそ現地の風土や人々の際立った特徴を、一瞬の印象という形で大づかみに把握することができるし、それは余計な知識や固定観念に縛られていない分、けっこう正確だったりします。

しかしその反面、その土地固有の複雑な歴史や生活のディテールに関する知識や生活経験がほとんどなく、現地の言葉も話せないために、人々の日常的で細かな関心事や利害関係、彼らの心の微妙なニュアンスまでは理解できません。

結局のところ、通りすがりの旅人では、どれだけ頑張ってもカタコトの幼児みたいな立場でしか現地の人々と関われないことが多いし、人々もまた、旅人に対し、そのような存在として接している部分もあるのです。

しかも、一つの国を出れば、次の国で、また同じ状況が最初から繰り返されるのです。まるで全てがリセットされるかのように……。

「現地のことばで、あいさつと数字の言い方を覚えたところで次の土地に行き、またあいさつと数字を覚えるところから始まり、いつまでたってもそれ以上のことばを覚えない」という前川氏の言葉は、そのあたりの、ときに旅人が感じる徒労感みたいなものを、うまく表現しています。

ただ、旅人が「定点観測」、あるいは現地への一時的な定住に踏み切ったとしても、そこには当然メリットとデメリットがあります。

ひとつの場所に数か月以上滞在し、現地の言葉も覚えるということになれば、それは、旅が日常生活に限りなく近づいていくことをも意味します。言葉を覚え、人間関係が濃密になり、その社会のこまごまとした事情に通じることは、その国の懐深く入り込むことを可能にしてくれますが、それは同時に、旅本来の自由さや新鮮な好奇心を少しずつ失い、日常生活のしがらみや倦怠に近づいていくことでもあります。

結局のところ、地球上のどんな場所でのどんな生活も、それなりに魅力的ではありますが、永遠に続けるに値するほど魅力的な日常生活というものは、どこにもないのかもしれません。

それにそもそも、飽きっぽさというのは、旅人の宿命みたいなものです。

旅から旅へという、変化に満ちた生活に最大の魅力を感じてしまった人間は、一般の人以上に、その生活に変化や新鮮さというものがなければ耐えられないのではないでしょうか。

旅人は、移動と定住という生活の両極の間を常に揺れ動きながら、自らの好奇心や自由の感覚を維持できるベストの場所とか条件というものを、必死で模索し続けるように運命づけられている存在なのかもしれません……。


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at 18:52, 浪人, 旅の名言〜旅について

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旅の名言 「ここではないどこかに行きたいという……」

 人類史全体から見ればそう遠い昔のことではないが、農耕が始まってようやく土地に意味や価値が生まれ、それがずっと続くことになった。しかし土地は有形資産であり、持てる人間は限られている。それで土地を独占したがる者が現れ、それを誰かが耕さねばならないということで奴隷を使うことになる。土地を所有すること、動かせないが実体はあるものを所有するというところから、根が生まれるのだ。
 こうした歴史観からすれば、我々は移動する種族であり、根を張った歴史は短い。張った根にしてもそれほど広くは行き渡っていないのだ。おそらく精神的なよりどころとして根というものを過大評価してきたのだろう。ここではないどこかに行きたいという衝動の方がより大きくて古くて深いものだから、現代人の中でもそれが必要となり、意思となり、渇望となっているのではないだろうか。

『チャーリーとの旅』 ジョン スタインベック ポプラ社 より
この本の紹介記事

作家のスタインベック氏が、愛犬とともにキャンピングカーでアメリカを一周した旅の記録、『チャーリーとの旅』からの一節です。

彼は、その旅のあり余る時間と孤独の中で、アメリカという国について、そして人間社会全般について深く思いをめぐらしているのですが、旅そのものについても、上のような名言を残しています。

たしかに、農耕を始める以前の私たち人類は、常に「移動する種族」でした。土地が安定した生活や富を生み出すことを発見し、土地に根を張り、そうすることに高い価値を置くようになったのは、人間の長い歴史の中では、ついこの間のできごとに過ぎません。

土地という、動かすことのできないものに執着したことで、人間はそこに縛られ、自由に動き回ることができなくなりました。しかしその一方で、人間には、かつての「移動する種族」としての血が今なお流れ続けています。

何世代、何十世代にもわたって土地に縛られてきた人々は、意識の表面ではその状態を受け入れているように見えるかもしれませんが、心の奥底では、そうとは限らないのかもしれません。実際のところ、人間の「より大きくて古くて深い」衝動は、「ここではないどこかに行きたい」という思いとなって、常に表に現れるきっかけをうかがっているのではないでしょうか。

考えてみれば、かつての伝統的な社会においても、守るべき土地をもたない一部の人々が流浪したように、土地にせよ、大切な人にせよ、仕事にせよ、それが何であれ、何か自分を一つの場所に強力につなぎとめておくものがなければ、人間というものは、その本来の習性として、「ここではないどこか」を求めて常に動きまわるようにできているのかもしれません。

日本には、「一所懸命」という言葉があるように、一つの場所に根を張ったり、土地に深い愛着を抱くことをよしとする風潮がありますが、そうした言葉や価値観も、もともとは歴史的に生み出されたものです。

これから先、何らかの価値を生み出す源泉として、人々が土地というものを重視し続けるのかどうかは分かりませんが、社会的にせよ個人的にせよ、土地へのそうした執着が薄れたり、あるいは移動する行為により高い価値が見出されるようになれば、人はかつてずっと「移動する種族」であったことを思い出し、再びこの地球上を活発に動き回ることになるのかもしれません。

もっともそれは、国内・海外への頻繁な旅行、グローバルなビジネスの展開、世界を舞台にした戦争、マスメディアやインターネットを利用したバーチャルな旅として、ある意味、すでに実現してしまっているのかもしれませんが……。


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at 19:34, 浪人, 旅の名言〜旅について

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