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旅の名言 「ヒマでヒマでしょうがなくて……」

 僕は旅はスピードが大切なのだと思っている。乗り物には様々なスピードがあるが、僕にとって飛行機はあまりにも速すぎるのだ。バスは遅いので退屈することが多いのだが、退屈さを僕はそれほど嫌ってはいない。ヒマでヒマでしょうがなくて、あくびを千回ぐらいすると、やっと旅の進行時間になじんでくる。そんなとき初めて、自分は旅をしているのだなあと実感するのだ。
 例えば北京から上海まで千五百キロの道のりがある。飛行機で飛べばわずか三時間の距離だが、列車で行くと二泊三日の旅である。千五百キロの移動時間が三時間では、僕にとっていかにも短すぎるのである。しかし三日ならピンとくる。確かに三時間で行くのは便利には違いないが、千五百キロの距離を実感できない。ということは、そこを旅行したことにならない。
 三日間の旅行中、僕は次々に通りすぎる様々な生活の風景を眺めるだろう。気候が変化すること、言葉が変わっていくこと、いろいろなことを感じながら、充分に納得して上海に到達できるのである。それが僕にとっての旅そのものなのだ。
 さっきも書いたように、それが必ずしも面白いとは限らない。逆につまらないことも多い。しかし、それは仕方がないのだ。何をやったって面白いこともあれば、そうでないこともある。全部ひっくるめて、ああ面白かったなあと思えるのが陸路の旅なのである。


『スローな旅にしてくれ』 蔵前 仁一 幻冬舎文庫 より
この本の紹介記事

バックパッカー向けの旅行専門誌『旅行人』を主宰する蔵前仁一氏の旅のエッセイ、『スローな旅にしてくれ』からの引用です。

蔵前氏は、「僕が飛行機を嫌いな理由」という文章の中で、いろいろ大変だし退屈なことも多いと知りつつ、あえて陸路の旅を選ぶ理由のひとつとして、「旅のスピード」を挙げています。

たぶん多くの旅行者は、自分の住んでいる街から旅の目的地まで一気に飛ぶことができれば、時間の節約になるばかりか、道中の余計な手間もトラブルも避けられるし、旅のおいしいところだけを存分に楽しんで帰ってこられるのではないかと思うはずです。

つまり、旅をスピード・アップし、面倒なプロセスはできる限り省略し、旅のハイライトだけに時間と注意力を集中することが、旅を有意義なものにしてくれるはずだと考えるのではないでしょうか。

実際、人間は長年にわたって、速くて安全で、しかも安価な移動手段を追い求めてきたし、仕事にせよ娯楽にせよ、どこか遠く離れた場所に移動しなければならないときには、道中の面倒や苦痛や退屈をいかに減らすかということにいつも心を砕いてきました。

しかし、蔵前氏や、陸路の旅にこだわる多くのバックパッカーの場合は、必ずしもそうは考えないようです。

彼らが街から街へと移動するとき、列車やバスの車窓を流れていく異国の風景を眺め、気候や言葉の変化を感じとり、移動した距離を自分なりに「実感」することができなければ、「そこを旅行したことにはならない」というのです。

もちろん、旅には人それぞれの楽しみ方というものがあるので、どちらが優れているとか、どちらが正しいという話ではありません。

むしろこれは、旅に何を求め、何を優先するかという、人それぞれの価値観の反映なのだと思います。

ある旅人は、鉄道やバスで移動する間の、ヒマでヒマでしょうがない、何とも手持ち無沙汰な時間みたいなものは、意味のない時間の浪費であり、苦痛だと感じるでしょう。そういう人は、何とかして旅からそういう空白をなくし、自分の持ち時間のすべてを何らかのエンターテインメントや意味のある行為で埋めたいと思うかもしれません。

一方で、そうした空白に思えるような時間こそ、むしろ、「旅の進行時間」になじんでいく大切なプロセスであり、退屈したりつまらなかったりとネガティブに感じることも含めて、それをそのまま受け止めることが、「自分は旅をしているのだなあ」という実感、ひいては、それら「全部ひっくるめて、ああ面白かったなあ」という、旅への深い満足感へとつながるのだと考える人もいるのです。

それにしても、「ヒマでヒマでしょうがなくて、あくびを千回ぐらいすると、やっと旅の進行時間になじんでくる」というのは、旅の時間を心から愛する、旅の達人ならではの名言だと思います。

ところで、格安航空券が普及した現在、鉄道やバスだけで旅することは、交通費や宿泊費のトータルで比べると、飛行機で目的地まで一気に飛ぶよりもはるかに高額になるし、肉体的にしんどいし、トラブルで旅が停滞するリスクもあります。また、蔵前氏が書いているように、いつも面白いことばかり起きるわけでもありません。

私もかなり長いあいだ、陸路にこだわった旅を続けていましたが、今になって思えば、軽快でスマートな旅を楽しむ人々を横目に見ながら、バックパッカーはこうあるべきという変なプライドで、ほとんど意地でやっていた部分もあるような気がします。

それでも、異国の見知らぬ人々とボロボロのバスにすし詰めになり、最大ボリュームで流される現地の流行歌を繰り返し聞かされ、ガタガタ揺られ、埃や雨風を浴び、ときには故障で立ち往生しながら、いつたどり着くのかも、どんな場所かもわからない目的地へじりじりと進んでいくとき、やはり私も、「自分は旅をしているのだなあ」という強烈な実感を、体全体で味わっていたのでしょう。

まあ、私の場合、バスの旅にこだわっていたのは、根が貧乏性で、たんにスマートな旅が似合わないだけだからなのかもしれませんが……。


記事 「アジアのバス旅(1)」


JUGEMテーマ:旅行

at 19:04, 浪人, 旅の名言〜旅の時間

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旅の名言 「その町に流れる時間軸に……」

 その町に流れる時間軸に、すっと入りこめるときがある。どんな町でもだいたい、滞在三日か四日目でそういうときがやってくる。そこでくりかえしおこなわれている日常が、肌で理解でき、自分がそこにくみこまれているのだと理解する瞬間。
 隣のホテル前のパン屋では、小太りのアルバイト青年が店を開ける。昼すぎには、彼はおしゃべりな女の子二名と交代する。ダウンタウンの裏手にあるファストフード屋は、どうやら若い子たちの秘密のデート場らしい。私の宿泊してるホテルのホールでは、小規模なフラ大会や、小学生のパーティが開催されていたりする。時間はゆっくり流れ、私の日々が町に溶けこんでいく。なんでもない夕焼けや、雨上がりの濡れた車道が、ああ本当にうつくしいなあと気づくのはそういうときだ。

『いつも旅のなか』 角田光代 角川文庫 より
この本の紹介記事

作家・角田光代氏の旅のエッセイ集、『いつも旅のなか』からの引用です。

角田氏は、あるとき、一度ボツになった小説を書きなおすという、急で気のすすまない仕事を仕上げる必要に迫られました。彼女は自分を追い込むために、自主的に「カンヅメ」になることを思い立ち、 ハワイに飛んで、ハワイ島のヒロにしばらく滞在します。

そこで執筆を始めた彼女は、食事をとったりするために、ホテルのあるバニヤン・ドライブ地区を出て、ダウンタウン地区まで歩くのが日課になりました。

同じような日課を繰り返す中で、角田氏は少しずつヒロの町になじんでいき、やがて、美しい瞬間が訪れます。

ヒロで静かに繰り返されている日常を、彼女が肌で理解した瞬間、「その町に流れる時間軸に、すっと入りこ」んだ瞬間。そのとき、目の前の世界が、親密でありながら、新鮮で美しい光景として立ち上がります。

こういう瞬間を味わうことができるのは、スケジュールに追われることなく、居たいと思った場所に好きなだけ滞在できる、自由な個人旅行者ならではの特権です。

スローペースで旅する人なら、こういう瞬間をよく知っているはずだし、角田氏の文章に、大いに共感できるのではないでしょうか。

それにしても、その瞬間が訪れるのが、どんな町でも滞在3日か4日目、というのはとても面白いポイントです。

以前に、このブログに「滞在3日以上」の法則というのを書いたことがあります。

大都会を除けば、どんな町や村でも3泊以上していると、特にそのつもりはなくても、地元の人か旅人の誰かと出会い、親しくなるという個人的「法則」です。

もちろん、そこには別に神秘的な理由があるわけではありません。

1日や2日しか滞在しない町では、移動や観光でバタバタしていて、ゆったりと過ごせる時間があまりないからで、3泊以上すると、時間的にも気持ちにも余裕が生まれ、顔見知りになった人と時間を気にせず話をしたり、道端で話しかけてくる現地の人にも、オープンな気持ちで対応できるので、結果として誰かと親しくなる、ということなのだと思います。

別の言い方をすれば、私の場合、同じ町に何日か滞在していると、非日常の「移動モード」だった心の状態が、3泊目あたりを境に、日常の「生活者モード」へと徐々に切り替わっていく、ということなのかもしれません。

自分にとって未知の町でも、何度も街を歩き回り、少しずつ馴染んでいくうちに、行きつけの食堂とか茶店とか、お気に入りの散歩ルートや日課など、生活のリズムやパターンが生まれてきます。それに伴って、心の緊張が解け、町の人々の暮らしの細部に注意を向ける余裕も生まれてくるということなのでしょう。

そしてそれは、旅人の心の中で流れる時間が、少しずつ滞在先の時間の流れとシンクロし始める、つまり、角田氏の言うように、「その町に流れる時間軸に、すっと入りこ」んでいくということなのだと思います。

短い時間であちこちを見て回るような旅だと、どの町も慌しく通り過ぎることになり、結果として、現地の人々の日常を肌で理解することは難しくなりますが、旅人がその歩みをゆるめ、それぞれの町の時間の流れに寄り添い、身の周りのこまごまとしたできごとを静かに見つめるとき、「時間はゆっくり流れ、私の日々が町に溶けこんでいく」のです。

ただし、そんな幸福な瞬間も、永遠には続きません。一つの町に長居をし過ぎれば、それはやがて、感動のない、当たり前の日常へと変わっていきます。

旅人の心が、移動のもたらす気ぜわしさや、疲れや不安から離れ、また一方で、生活の繰り返しがもたらす倦怠や粘着性にも捕らえられていない、一種の無重力状態にあるとき、その好奇心はあらゆる方向に広がり、心に触れるすべてが、みずみずしい美しさに満ちて感じられます。

旅人は、そんな微妙で幸福な瞬間を求めて、何度も旅を繰り返すのかもしれません。


JUGEMテーマ:旅行

at 18:30, 浪人, 旅の名言〜旅の時間

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旅の名言 「旅先では……」

 放浪の旅はたんに人生の一部を長期間の旅に当てることではなく、時間という概念そのものを再発見することなのだ。日常の生活においては、われわれはつねに要点を把握して物事を片づけるよう習慣づけられている。目的を念頭に置きつつ効率を重んじ、瞬時に判断を下していかなければならない。でも旅先では、先々のスケジュールを気にすることなく、目にするものすべてにまた新しい目を向け、一日、一日を自由に過ごすことを学ぶことになる。

『旅に出ろ! ― ヴァガボンディング・ガイド 』 ロルフ・ポッツ ヴィレッジブックス より
この本の紹介記事

またまた、放浪の旅へのガイドブック、『旅に出ろ!』からの名言です。

やや抽象的な表現なので、この文章にピンとこない方もおられるかもしれませんが、ある程度長い旅をして、旅の中でいろいろと思索したことのある人なら、ポッツ氏の言わんとするところが何となく理解できるのではないでしょうか。

ポッツ氏によれば、私たちの日常生活と放浪の旅とでは、時間の使い方、というよりも時間のとらえ方が根本的に違うのです。もっとも、これは放浪の旅すべてがそのようなものであるというよりは、彼にとっての真の放浪とは、そのようなものを意味するということなのですが……。

いわゆる先進国の、特に大都会での日常というのは、明確な目的意識・瞬時の判断・効率的な行動の積み重ねによって成り立っています。

都会で暮らしていくには、住むところを始めとして多大なコストがかかるし、さまざまな欲望をかきたて、誘惑する機会も数え切れません。そんな中で、自分がやるべきことを見失ったり、ムダなことに首を突っ込んだりしていては、人生に成功するどころか、都会でまともな生活を続けていくことも難しいでしょう。

私たちは、都会的な生活の中で揉まれるうちに、目的という未来の一点に向けて注意を集中し、システマティックな行動を計画し、目標に至る最短ルートを駆け抜けるような生き方を身につけていきます。そのルートの途中では、私たちの気を引くさまざまなものを目にするかもしれませんが、自分の目的に関係のないものや、目標達成の障害になりそうなものは無視し、排除するコツを覚えていくのです。

それは現代人にとって、どうしても必要な生活技術なのですが、そうした生き方にどうしても違和感を感じ、なじめないという人もいるはずです。それに、人生の目標がいまだに見つかっていない人や、ハッキリと定まっていない人は、そもそも目標に向かって走り出すことができません。

また、目的を効率的に追求するといっても、あまりにもそれを突き詰めすぎれば、未来の何かのために現在をひたすら犠牲にするような毎日となり、生活そのものが、味もそっけもない、砂を噛むようなものになってしまうこともあるのではないでしょうか。

そんなときは、一つの方法として、ポッツ氏の言うような意味での放浪の旅が、私たちにもう一度、新鮮な気持ちでこの世界と向き合うようになるきっかけを与えてくれるかもしれません。

目標や計画、効率といったものをいったん棚上げにして、まっさらな気持ちで旅先のリアリティに向き合うこと。幼い子供のように、目にするものすべてに新鮮な驚きを感じ、将来の目標のためではなく、今現在の一瞬を深く味わうこと。

目的や将来の計画に縛られず、今ここでやりたいと思うことを見出し、それに素直に従うような日々を旅先で過ごすことで、私たちは、都会の忙しい日常の中でいつの間にか忘れてしまっていた感覚を取り戻すことができるかもしれません。

異国の見知らぬ環境に飛び込み、風の向くままぶらぶらと旅するという行為は、とにかく理屈ぬきに新鮮な驚きの連続を味わえるという意味でも、一日一日を大切にし、自由な気持ちで過ごすコツを学ぶという意味でも、私たちの時間に対するとらえ方を見直す、またとない機会なのかもしれません。

もちろんそれは、言葉の通じない不安、慣れない生活の不便、さまざまな失敗やトラブル、移動生活に伴う肉体的・精神的疲労など、さまざまの苦労と引き換えにようやく得られるものなのですが……。


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at 18:44, 浪人, 旅の名言〜旅の時間

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旅の名言 「小学生の頃の夏休みが……」

旅には、目くるめくときめきが待っていた。
 小学生の頃の夏休みが、ずーっとつづいている。
 まぶしい太陽があって、あまいにおいのする森があって、土が濃くにおって、カブトムシがいて、深い闇があって、妖怪がいて、村祭のおはやしに胸をさわがせ、自由で、いくら遊んでも遊びたりない夏休み……
 南の国を長く旅していると、そんな気がする。


『竜(ナーガ)の眠る都』 伊藤 武 大栄出版 より
この本の紹介記事

タイとカンボジアを舞台にした異色の冒険ファンタジー、『竜(ナーガ)の眠る都』からの一節です。

主人公のガンテツは、日本社会をドロップアウトした放浪の旅人です。アルバイトで食いつなぎながら文化人類学を研究し、世界各地を渡り歩くガンテツの姿は、著者の伊藤武氏の分身でもあるようです。

冒頭の引用は、主人公が南の国への旅について語った部分なのですが、その旅の「目くるめくときめき」が、「小学生の頃の夏休み」に喩えられています。

インドや東南アジアを旅するバックパッカーなら、「夏休みが、ずーっとつづいている」というその表現に、大いに共感できるのではないでしょうか。

まぶしい太陽と色彩の洪水、街の喧騒や動物たちのにぎやかな声、花々や香辛料のむせかえるような匂い、辛くてエキゾチックな味覚の世界、そして皮膚にまとわりつく湿った空気……。

南の国では、すべてが五感に強烈に訴えかけてきます。

そしてそこには、なぜか奇妙な懐かしさがあります。

南の国への長い旅は、日常生活に疲れていた大人に、解放感や自由な感覚、子どもの頃のような伸び伸びとした気持ちを思い出させるだけでなく、その頃の生き生きとした五感を鮮やかに甦らせるからなのかもしれません。

まさに、「自由で、いくら遊んでも遊びたりない夏休み」の再現です。

人によっては、その幸福感にいつまでも浸っていたいと思うだろうし、実際、南の国にすっかり腰を落ち着けてしまい、もう日本には戻りたくないと感じる旅人もいるのではないでしょうか。

しかし、永遠に続く夏休みというものが存在しないように、そんな幸福な旅にも、やがて終わりがやってきます。

金がなくなれば、日本で金を稼ぐためにいったん帰国しなければならないし、あるいは将来への不安が頭をもたげてきて、旅を切り上げて日本社会に復帰することを考えざるを得なくなるかもしれません。

南の国での長い「夏休み」を終え、明日は日本に帰らなければならないという日。

その心境は、主人公のガンテツに言わせれば、「目のまえに白紙の夏休み帖をつみあげた八月三一日の気分」なのです……。


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at 18:42, 浪人, 旅の名言〜旅の時間

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旅の名言 「毎日のかけがえのなさを……」

 人は、すべては永遠に続くものだと、心のどこかで思っています。昨日に変わらない今日があって、今日に変わらない明日があって、そうやって毎日がずっと続いていくような気がしています。
 でも本当は、永遠なんてこの世にありません。人も自分自身も、変わり続けています。親や恋人や友だちとの関係だって、時を経て、少しずつ形を変えていくように、すべてはちょっとずつちょっとずつ、その変化に気づかないぐらいの速さで、変わり続けています。毎日は当然のようにやって来るから、ほっといても朝が来てほっといても夜になるから、日常の重みを時に忘れてしまいそうになるけど、本当はいつだってかけがえのない時間が絶え間なく流れていて、そんな中で私たちは生きています。胸が痛いほど、切ない時を。噛みしめる間もないほど、生き急ぎながら。
 私は、そのことを忘れずにいる人が好きです。実際に旅に出る出ないは関係なく、毎日のかけがえのなさを知っている人はみな、私と同じ「旅人」だと思っています。そして、私は精神が「旅人」の人としか、本当の友だちにはなれないような気さえしています。


『ガンジス河でバタフライ』 たかの てるこ 幻冬舎文庫 より
この本の紹介記事

たかのてるこ氏のインド旅行記、『ガンジス河でバタフライ』からの一節です。

ちょっと感傷的すぎる文章かもしれませんが、その言わんとするところには、共感できる旅人も多いのではないでしょうか。

人は旅に出るとなぜか、これまでの自分の人生について振り返ってみたり、世界のさまざまな問題のことなど、大きなテーマについて考えをめぐらしてみたくなるものです。

これは、それまでの日常生活から心が解放され、自由な視点から自分と周りの世界について考えられるようになるからだと思いますが、それと同時に、旅そのものがもたらす独特の時間感覚も、そういう内省を促しているような気がします。

飛行機や汽車に乗って移動していくあのスピード感や、車窓を流れていく風景は、まるで時間を早回しにしているような感覚を旅人に与えます。

また、旅の始まりの鮮烈さ、さまざまな旅の出来事やトラブル、見知らぬ人々との出会いと別れ、そしていつかやってくる旅の終わりという一連の旅の展開は、まるで人生をダイジェスト版で体験しているかのように感じられることもあります。

時間が、ふだんよりも早く流れていくようなこの独特の感覚は、旅人に新鮮で痛快な感覚を与えてくれるのですが、その一方で、旅人は、私たちの人生の時間には限りがあること、その限られた時間はいまこの瞬間にも刻々と過ぎ去り、それを止めることは誰にもできないのだという厳然たる事実を、改めて突きつけられるのではないでしょうか。

旅人は、旅を重ねれば重ねるほど、その実感を深めていくのだろうし、それはいつか、旅をしている最中だけでなく、旅から戻っても常につきまとう消しがたい無常の感覚となって、旅人の生き方に強く影響していくのかもしれません。

そしてそれは、たかの氏のように、「毎日のかけがえのなさ」にしっかりと目覚め、限りある人生の時間を大切に過ごす姿勢へとつながっていくものなのだと思います。

実際に旅に出る出ないは関係なく、毎日のかけがえのなさを知っている人はみな、私と同じ「旅人」だと思っています。


ただ、この「旅人」たちは、その日常生活において、他の人々と違った何か特別な行動をしているわけではありません。

「すべては永遠に続くものだ」という幻想の中で毎日を漫然と生きている人も、「毎日のかけがえのなさ」に目覚めている人も、一見しただけではその生活に大きな違いは見られないでしょう。

それでも、たかの氏のような「旅人」は、そこにある微妙な、しかし実は大きな違いのようなものを、しっかりと嗅ぎ分けてしまうのだと思います。

それは、旅に出る・出ないとか、旅に何回出たか、という表面的な違いではなく、生きる姿勢の違いというか、今この瞬間の大切さにどれだけ気がついているかということが、物事への対応の仕方に微妙な形で現れてくるということなのだと思います。

そして、その基本的な姿勢を共有している人同士なら、いちいち余計なことを説明しなくても、互いに信頼し、深く分かり合えるような気がするということなのだろうし、そういう人たちと一緒だからこそ、旅先の安宿で盛り上がる旅人同士のように、つかの間の時を味わい、心から楽しむことができるのではないでしょうか。

もっとも、何回か旅をしたくらいで、誰もがそういう境地に簡単にたどり着けるほど、この世界は甘くはないのでしょうが……。


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at 18:35, 浪人, 旅の名言〜旅の時間

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旅の名言 「インドに一週間くらいいると……」

インドに一週間くらいいると、もう一年もインドを旅しているような気になる。三週間もいると、一〇年くらいここにいるというか、日本にいたころが「前世」のような、少なくとも「前半生」であったような気になる。これは最初の時だけでなく、二回目も三回目も、いつもそうでした。ヨーロッパとかアメリカでは、決してそのような気分にならない。日本と同じように時間が流れる。このことはとても奇妙なことで、インドはものすごく非能率です。チケットを一枚買うのに半日も並んだりする。午前中にこれとこれ、午後にはあそことあそこに行こうと決めていても、そのうちの一つか二つで日が暮れてしまう。やれることはとても少ないのに、長くいたという気がする。数学的にいって矛盾です。


『社会学入門 ― 人間と社会の未来』 見田 宗介 岩波新書 より
この本の紹介記事

冒頭の引用は、インドやラテンアメリカなど、いわゆる開発途上国、あるいは近代化が進んでいないとされている地域を旅したときに、私たちが感じる時間感覚の違いについて、社会学者の見田宗介氏が触れている部分から抜き出したものです。

インドを旅した人ならご存知でしょうが、パックツアーではなく、現地を自由に旅しようとすると、とにかく大変な手間と時間がかかります。

ビザにしても、列車のチケットにしても、長時間並ばなければ手に入らないことが多いし、列車やバスはもちろん、飛行機でさえ当然のように遅れます。

道を歩けば怪しげな人物がやたらと声をかけてくるし、買い物で油断をすればボッタクリに遭い、時には旅行者自身がひどい下痢や病気に襲われて、旅の予定が大幅に狂ってしまうこともあります。

とにかく、何をするにも時間がかかるだけでなく、トラブルの頻度も多いので、知恵を絞ってそれらを乗り越えていかないと、目的地にたどり着くことはおろか、その日一日を平穏無事に過ごすことすら難しくなってしまうのです。

しかし、見田氏が言うように、インドにいるとなぜか濃密な時間を過ごしているような気がします。時間の進み方が遅いというか、「やれることはとても少ないのに、長くいたという気がする」のです。これは、本当に奇妙なことです。

もちろん、インドに限らず、見知らぬ場所を旅すれば、誰もが多かれ少なかれ時間の感覚が変わるのを感じるはずです。

新しい場所に行って、そこに慣れるまでの間は、どんな体験でも新鮮に感じられるし、強く印象に残るものです。そして、そうした時間というのは、慣れ親しんだ日本での日常生活にくらべれば、相対的に長く感じられるはずです。

しかしインドのような土地では、それがかなり強烈に感じられるのです。そこには、もっと別の要因も働いているのではないでしょうか。

見田氏はこの現象について、近代化の進んだ欧米や日本の人々の時間感覚と、インドやラテンアメリカに生きる人々の時間感覚が違うことを指摘し、私たちが時間を「使う」とか「費やす」というふうに考えるのに対し、近代「以前」の社会に生きる人々にとって、時間とは「使われる」のではなく「生きられる」ものなのだと言います。

だから、旅をすることで、時間を「使う」社会から、時間を「生きる」社会に移動するとき、私たちの感覚には、大きなズレというか、ギャップが生じているはずです。私たちのほとんどはその違いを頭で理解しているわけではありませんが、奇妙な時間感覚の違いとして、それを実感しているというわけです。

私たち現代社会の人間は、仕事の生産性を高めなければならないというプレッシャーから、あるいは、限られた人生の時間を楽しく有意義に過ごしたいと真剣に思うあまり、時間をいかに効率的に使うかという問題に日夜悩まされているし、時間を何かのために使うという発想も、まるで当然のことのように感じています。

私たちがインドのような土地で感じる奇妙な時間感覚は、時間を「使う」という考え方にとり憑かれてしまった私たちが、時間を「生きる」という、まったく別のあり方について、意識や理性のレベルでは気づかなくても、無意識や感覚のレベルではそれをしっかりと受けとめ、その違いを強烈に感じとっているということなのかもしれません。

見田氏は同じ本の中で、次のようにも書いています。

そういえばぼくたちでさえ、旅で不思議に印象に残る時間は、都市の広場に面したカフェテラスで何もしないで行き交う人たちを眺めてすごした朝だとか、海岸線を陽が暮れるまでただ歩きつづけた一日とか、要するに何かに有効に「使われた」時間ではなく、ただ「生きられた」時間です。


そう考えると、近代化の極のような社会に生きる私たちにとって、旅の醍醐味とは、いかに多く、効率的に見どころを見物して回るか、ということにあるのではなく、異質な社会に触れることをきっかけに、私たちが自明としている考え方から解き放たれ、ふだんは感じることのない別の感覚に目覚めること、あるいは、久しく忘れてしまっていた、遠い昔の感覚を思い出すことにあるのかもしれません……。


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at 19:20, 浪人, 旅の名言〜旅の時間

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旅の名言 「おそらく時間の重さを……」

 ――次は日本、か。
 そのことが、不思議でならなかった。ぼくたちは、いつの間に、そんなところまで走って来たのだろうか……。
 彼はいつものように握手して、笑った。最初に会ったころと比べて、彼の目じりのシワがずいぶんと増えている。ぼくも同じようなものだろう。
 旅に出て6年。意外なものだが、自分ではその長さをまるで感じない。おそらく時間の重さを感じられるのは1年までで、それを過ぎると、感覚は麻痺するのだ。2年旅しても10年旅しても、「長い」と本人が感じる度合いはあまり変わらないんじゃないだろうか。いつでも振り返ると「あっという間」なのである。
 しかし、彼の目じりのシワを見て、ぼくは自分の過ごしてきた時間を「長かった」と初めて実感した。そして、これまでにない寂しさに包まれて、ぼくたちは別れたのである。


『行かずに死ねるか!―世界9万5000km自転車ひとり旅』 石田 ゆうすけ 実業之日本社 より
この本の紹介記事

一度も帰国することなく、7年半かけて自転車で世界を一周した石田ゆうすけ氏の痛快な旅行記、『行かずに死ねるか!』からの引用です。

冒頭のシーンは、石田氏が南北アメリカ、アフリカ大陸の縦断を終え、日本に向かってユーラシア大陸を横断している時のエピソードです。彼はパキスタンのフンザで、旅を始めたばかりの頃に出会ったチャリダー(チャリ=自転車で旅をする人)のキヨタ君と何度目かの再会を果たし、しばらく共に旅したのち、ラホールで別れることになりました。

二人は、「じゃ、次は日本でな。生きて帰れよ」と互いに言葉をかけ合って別れるのですが、その瞬間に石田氏は、自分の旅もいよいよ終盤にさしかかっていることに気づき、キヨタ君の目じりのシワに、それまでの6年の歳月の重みを実感します。

これほどの長い旅をしたことのない私には、6年とか7年といった旅の歳月がどのように感じられるものなのか想像もつきませんが、石田氏の言うように、1年を超えてしまうと時間の長さの感覚は麻痺してしまい、2年だろうが10年だろうが、本人としては実感ができなくなってしまうものなのかもしれません。

しかし、あるときふと、こうして時の長さを思い知らされる瞬間があって、旅人はまるで浦島太郎のように、いきなり「現実」の世界に引き戻されるのです。

長い旅も、いつかは終わりを迎えます。その予感が心の中に芽生え始めたとき、時間の経過を忘れるほどにのめり込み、満ち足りていた日々も終わりに近づいているという寂しさが、心に忍び込んできます。

その旅が、長く充実したものであればあるほど、その喪失の予感も、やがて心に重くのしかかってくるのかもしれません……。

at 19:05, 浪人, 旅の名言〜旅の時間

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旅の名言 「一年くらい旅を……」

 僕はこれまで一年とか二年とかの長い旅を行ってきたが、その長さについては、別にどうということはないと思っている。これは幾度も言ったり書いたりしてきたことだが、一年くらい旅をすることなど、暇がある人にとっては (金の問題を別にすれば) 何の問題も特別な技もないのである。日本で、一年旅してましたと言うと、ただそれだけで目を丸くして「大冒険ですね!」と驚く人もいるが、一年旅行しても十年旅行しても、ただ長く旅するだけなら、それは冒険ではなくて、ただの長い旅であるにすぎない。本当はやってみればわかることなんだけどなあ。


『旅ときどき沈没』 蔵前 仁一 講談社文庫 より
この本の紹介記事

蔵前仁一氏は現在、バックパッカー向けの雑誌『旅行人』を主宰されていて、バックパッカーにとっては「旅の先達」とも言えるような人物です。

今までに何度も長い旅に出かけ、貧乏旅行者たちの「生態」や、現地の人々との出会いを、イラスト付きの軽妙なエッセイにまとめていて、どれも読んでも楽しめます。

冒頭の引用は、蔵前氏が長い旅について語った一節で、旅の長さそのものは、実際に身をもって経験するならば、一年であろうと十年であろうと、とりたてて問題にするほどのことでもないことが分かる、というのです。

また、金の問題を別にすれば、長く旅をするために特別なテクニックはいらないし、特別に乗り越えなければならないような問題もないというのです。私もそれなりに長い旅を体験して、本当にその通りだと思っています。

旅立つ前の段階で、「これから一年旅をするぞ!」と考えるなら、何か凄いことでもするような気負いを感じるかもしれませんが、実際に旅に出てしまえば、長い旅といっても、一泊二日の旅でやっているのと同じことを何回も繰り返しているだけの話で、そこに何ら特別なものはありません。

もちろん、旅を続ける中で次第に覚えていく「旅のコツ」みたいなものはあるでしょう。しかし、それは勉強したり教わったりしなくても時間と共に自然に身につくもので、ことさら特別なものではありません。

また、長旅ならではの活動パターンのようなものもあるでしょう。何週間もハードな移動や観光を続ければ疲労が蓄積し、いずれどこかでダウンするか、居心地のいい街でしばらく「沈没」することになるかもしれません。その結果、人によっては、ONとOFFのスイッチを切り換えるように、「動」と「静」のパターンが浮かび上がってくるかもしれません。

あるいは、沢木耕太郎氏が『深夜特急』の中で書いているように、旅そのものに幼年期や青年期のような初々しい時期や、壮年期のような成熟と倦怠を覚える時期、老年期のように「旅の終わり」を意識する時期などを見い出す人もいるかもしれません。

しかし、そのために何か特別な知識やテクニックが必要になるわけではありません。常識的な判断を積み重ね、毎日の旅を続けていれば、後になって、結果として何かパターンのようなものが見えてくるというだけなのです。

長旅に問題があるとしたら、むしろ旅そのものの困難ではなく、長い旅をしていることで他の人に無用な誤解を受け、理解してもらうのに困難を覚えるということなのかもしれません。当事者にとっては当たり前のようなことでも、経験のない人には誤解の原因になってしまうのです。

蔵前氏の『旅ときどき沈没』の中には、五年間旅を続けている人が、日本人に「人生を投げてますね」と言われたというエピソードが出てきます。また、蔵前氏自身も、旅先で会った日本人女性に一年間旅していると話したら、あきれた口調で「もうヤケクソね」と言われたそうです。

蔵前氏は立腹して、「ヤケクソで長い旅なんかできはしない」と書いています。そして私もその通りだと思います。よくぞ言ってくれた、とも思います。

しかし現実的に考えてみると、「もうヤケクソね」という人の方が、たぶん日本では圧倒的な多数派だという気がします。この言葉には、長旅をする人は日本でのまっとうな生活を放棄している、つまり「ドロップ・アウト」しているのだ、というニュアンスを感じますが、旅そのものではなく、旅を終えた後のことまで考えるなら、確かにそういう一面があるかもしれません。

海外を長く旅した人が帰国した直後の逆カルチャーショックや、日本人と同じ時間を共有していなかったことによる「浦島太郎」状態はよく知られているし、日本での仕事を長く離れていた人にとって、新たに仕事を始めたり再就職することには大きな困難がつきまといます。

しかし、たとえそうであっても、長旅を終えてどうするかは、その時になってから、各自がそれぞれの道を切り開くだけの話です。通りすがりの人物から将来のことまであれこれ心配される筋合もないでしょう。

長旅に出た人は、それに伴う様々な苦労に見合うだけのものを、旅から得ているのです。無意味な危険を冒すためや、苦労を背負い込むために出かけているわけではありません。しかし、それも「やってみればわかること」で、同じような経験をしてみないと、なかなか理解しづらいものなのかもしれません……。

at 20:23, 浪人, 旅の名言〜旅の時間

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