このブログ内を検索
新しい記事
記事のカテゴリー
            
過去の記事
プロフィール
            
コメント
トラックバック
sponsored links
その他
無料ブログ作成サービス JUGEM

スポンサーサイト

一定期間更新がないため広告を表示しています

at , スポンサードリンク, -

-, -

旅の名言 「季節のうつりかわりに敏感なのは……」

季節のうつりかわりに敏感なのは、植物では草、動物では虫、人間では独り者、旅人、貧乏人である (後略) 。

『草と虫とそして』種田 山頭火 青空文庫 より
Kindle版もあります

漂泊の俳人、種田山頭火が、身近な秋の風物を描いた短いエッセイからの一節です。
ウィキペディア 「種田山頭火」

40代で出家し、何年にもわたる行乞の旅を続けた山頭火ならではの名言で、一人旅のバックパッカーなら、彼の言葉が心に沁みるかもしれません。

もちろん、彼の波乱万丈の人生にくらべれば、現代の貧乏旅行者の旅などずっと気楽なもので、彼がこの言葉に込めた深い思いのすべてを受け止めることはできないのかもしれませんが……。

季節の移り変わりを含め、さまざまな外界の変化に対して貧しい旅人が敏感なのは、彼らが風流人だからというより、厳しい旅の日々を生き抜くために、身の周りのささいな変化も逃さず察知するような鋭い感受性が、いやでも発達せざるを得ないからなのだと思います。

私たちのふだんの生活では、家族や友人、職場の組織や地元のコミュニティといった人間関係のネットワークに加えて、居心地のいい自宅、便利さや快適さを保証するさまざまなモノやサービスが、「変わらない日常」という安心感を支えてくれています。

しかし、旅人は、そうした「セーフティネット」をほとんど持たず、心身をつねに激しい変化にさらしつつ、旅をまっとうしなければなりません。

特に、一人旅の貧乏旅行者ということになれば、わずかな持ち物と所持金だけで、旅先の気候や食べ物や慣習に適応し、仲間の助けがない中で、未知の人々とコミュニケーションを図り、次々に巻き起こるトラブルに対処していかなければならないのです。

さまざまな潜在的リスクに満ちた異郷で、彼らは、自分自身と周囲の状況を注意深く読み取りつつ、つねに適切な判断を重ねていく必要があるし、その判断の結果がどうなろうと、それらをすべて自分の心身で引き受けなければなりません。

そして、そうした経験の積み重ねが、旅人の感覚を、いい意味でも悪い意味でも、どんどん研ぎ澄ましていくのだと思います。

つまり、変化に敏感であるとは、裏を返せば、その人が絶えずさまざまなリスクにさらされ、しかも、多くの場合、それに十分に対処できる手段も持ち合わせていない、ということを意味しているのかもしれません。

そう考えると、昔の人の多くは、生きていく上でのさまざまな苦しみと、それをそのまま受け入れるしかない弱さと引き換えに、千変万化する現実世界の豊かさを、深く感じ取ることができる鋭敏な感受性というものを持ち合わせていたのではないかという気がします。

一方、現代に生きる私たちは、安心・安全(で鈍感)な生活をしっかり確保したうえで、その気になったときだけ、「旅人」になったり「独り者」になったりして、自らの心身を変化やリスクにさらし、そうした行為を通じて、少しずつ敏感になっていく自分というものを楽しむことができます。

それは、昔の人間にくらべれば、気楽で生ぬるい人生なのかもしれませんが、昔も今も、ほとんどの人間が、「昨日と変わらない今日」という、退屈と安心の中でまどろむ自由こそを求めているのだとすれば、私たちは、敏感さを失ったことと引き換えに、昔よりも少しだけ幸せになっているのかもしれません……。


JUGEMテーマ:旅行

at 19:40, 浪人, 旅の名言〜旅人

comments(0), trackbacks(0)

旅の名言 「ひとりバスに乗り……」

 ひとりバスに乗り、窓から外の風景を見ていると、さまざまな思いが脈絡なく浮かんでは消えていく。そのひとつの思いに深く入っていくと、やがて外の風景が鏡になり、自分自身を眺めているような気分になってくる。
 バスの窓だけではない。私たちは、旅の途中で、さまざまな窓からさまざまな風景を眼にする。それは飛行機の窓からであったり、汽車の窓からであったり、ホテルの窓からであったりするが、間違いなくその向こうにはひとつの風景が広がっている。しかし、旅を続けていると、ぼんやり眼をやった風景の中に、不意に私たちの内部の風景が見えてくることがある。そのとき、それが自身を眺める窓、自身を眺める「旅の窓」になっているのだ。ひとり旅では、常にその「旅の窓」と向かい合うことになる。

『旅する力 ― 深夜特急ノート』 沢木 耕太郎 新潮社 より
この本の紹介記事

旅行記の名作『深夜特急』の著者が、その元になった1970年代のユーラシアの旅や、『深夜特急』執筆のプロセスを、自らの半生とともに振り返るエッセイ、『旅する力』からの引用です。

バスに限らず、列車や飛行機、あるいは船に乗って、窓の外を流れていく景色を眺めるのは、旅人にとって、もっとも旅を実感できる時間だといえるかもしれません。

とはいえ、ひとりで長時間の移動をするときは、地元の乗客が話しかけてでもこないかぎり、そんな時間が延々と続くことになります。

誰でも最初のうちは、エキゾチックな風景に目を奪われ、旅の実感に心を躍らせることでしょうが、さすがにそれが何時間、何日と続けば、次第に好奇心もすり減ってきて、やがて、ただぼんやりと、窓の外に目を向けるようになっていきます。

それは一見したところ、ヒマを持て余し、何か生産的なことを考えるでもなく、ボケーッとした放心状態に陥っているように見えますが、沢木氏は、そうしてぼんやり眼をやった風景の中に、自分自身の内面を見ているのだといいます。

たしかに、絶えず現れては消えていく光景、すべてが留まることなく移ろっていくさまを、ひたすら眺め続けるという体験は、旅人を、日常とは違った、別の意識状態に切り替えさせる力をもっているのかもしれません。

ちなみに、沢木氏は、ベトナム旅行記『一号線を北上せよ』でも、同じようなことを書いています。
記事 旅の名言 「窓の外の風景を……」

 窓の外の風景を眺めている私は、水田や墓や家や木々に眼をやりながら、もしかしたら自分の心の奥を覗き込んでいるのかもしれない。カジノでバカラという博奕をやりながら、伏せられたカードではなく自分の心を読んでいるのと同じように、流れていく風景の向こうにある何かに眼をやっているのかもしれない。


沢木氏にとって、車窓を流れていく風景というのは、意識のモードを切り替え、自分の心の奥に目を向けさせてくれる、一種の瞑想装置のような役目を果たしているのでしょう。

哲学者のアラン・ド・ボトン氏も、『旅する哲学』の中で、似たような体験について書いています。
記事 旅の名言 「旅は思索の……」

 何時間か列車で夢見ていたあと、わたしたちは自分自身に戻っていたと感じることがある――それはつまり、自分にとって大切な感情や考えに接触するところまで引き返していたということなのだ。わたしたちが本当の自分に出会うのに、家庭は必ずしもベストの場とは言えない。家具調度は変わらないから、わたしたちは変われないと主張するのだ。家庭的な設定は、わたしたちを普通の暮らしをしている人間であることに繋ぎ止めつづける。しかし、普通の暮らしをしているわたしたちが、わたしたちの本質的な姿ではないのかもしれないのだ。


私たちは、「本当の自分」に出会いたいとつねに切望しているにもかかわらず、日常の生活においては、それをなかなか実現することができません。

テレビやケータイを切ったり、日常の雑事をいったん棚上げにして、自分の心の奥底を覗き込もうとしても、よほど瞑想に熟練した人でもなければ、ささいな心配事やら、心の中の絶え間ないおしゃべりに翻弄されるばかりで、かえってうんざりしてしまうことも多いのではないでしょうか。

しかしなぜか、ひとり旅先で乗り物に揺られ、窓から景色を眺めていると、意図せずいつのまにか、自分の心の奥に触れているような気がします。

もしかすると、ほどほどのエキゾチックさと、適度な退屈さがバランスした景色とか、体に伝わるリズミカルな揺れといった要素が、旅人の注意や集中力をほどよい状態に保つことで、ふだんは自分が心の奥深くにしまい込んでいる、大切な「何か」に触れることを可能にしているのかもしれません。

ただ、通勤や買い物のために移動するようなときには、なかなかそういう体験を味わえないことを考えると、やはり、旅をしているという実感、つまり、日常の世界から遠く離れた解放感とか、ひとりで見知らぬ場所にいるという感覚が、日常的な心のおしゃべりを静め、そうした体験を生み出すことに大きく貢献しているように思います。

そう考えると、知らない土地でバスや列車に乗り、窓の外を眺めるという行為には、たんなる移動中の暇つぶしというだけでなく、人を日常の思考回路から解放し、意識を別のモードに切り替え、旅人自身の「大切な感情や考え」に触れさせる、ある種の儀式のような側面もあるのではないでしょうか。

もっとも、それはとても繊細なプロセスのようです。

私も、アジアでバス旅をしていたときには、オンボロのバスで朝から晩まで悪路を走るような旅にヘトヘトになりながら、それでもまたバスに乗りたくなるという、不思議な中毒性のようなものを感じていましたが、当時は、自分に何が起きているのか、沢木氏のようにうまく表現することができませんでした。

たぶん、多くの旅人にも、彼のいう「旅の窓」を通して、何か大切なものに向き合っているという感覚は、あまりないのではないかという気がします。

だからこそ、多くの人は、移動の時間はできるだけ短いほうがいいと考えるのだろうし、移動中も、誰かと話したり、何かのエンターテインメントに集中して、万が一にもぼんやり過ごすことのないように、必死で時間を埋めようとするのかもしれません……。


JUGEMテーマ:旅行

at 19:01, 浪人, 旅の名言〜旅人

comments(0), trackbacks(0)

旅の名言 「旅に出ても、……」

「旅に出ても、日本の毒が抜けるのに一年はかかる」という。が、それを超えると、こんどは社会復帰が困難になるらしい。あの、精神的無重量状態の甘美な味を知れば、それも当然かと思われた。

『ぼくは都会のロビンソン ― ある「ビンボー主義者」の生活術』 久島 弘 東海教育研究所 より
この本の紹介記事

一人のフリーライターが、ビンボー暮らしのノウハウと生活哲学を語るユニークなエッセイ、『ぼくは都会のロビンソン』からの一節です。

著者の久島氏は、かつて世界を放浪していた時期があり、このエッセイの中でも、旅先でのさまざまなエピソードや、旅についての考察が披露されています。上に挙げたのはその一つですが、これだけの短い文章の中に、彼が海外でどんな旅をしていたか、旅先でどんな人々と交流していたかが垣間見える気がします。

多くの旅行者にとって、バックパックを背負った貧乏旅行といっても、それは長くて二、三カ月の旅で、一年以上続ける人はめったにいないと思います。

一年以上となると、学生なら、退学もしくは休学をしなければならないし、会社員なら、当然会社を辞めることになります。また、住んでいる場所は引き払う必要があるし、これまでに築いた人間関係の多くを失う可能性もあります。

長い旅に出ようとすれば、私たちの日常を支える多くのモノを犠牲にしなければなりませんが、一方で、それだけのものを捨てて日本を飛び出し、放浪の日々に身を任せることで初めて、今までとは全く違う世界に身をおくことが可能になるのでしょう。

私たちには、日本で生まれ育ち、そこで長く生活することで、その心身に染みついた独自の習慣や傾向があります。あるいは、日本に限らず、いわゆる「先進国」という高度消費社会に暮らす中で刷り込まれた、強固な思い込みのようなものもありますが、「開発途上国」のような別世界を長く旅しているうちに、それがはっきりと見えてくることがあります。

そして、そうしたさまざまな傾向や思い込みをネガティブにとらえたとき、「日本の毒」という表現になるのだと思います。

「旅に出ても、日本の毒が抜けるのに一年はかかる」という旅の猛者のつぶやきには、そういう長旅を通じて、自分が常人には想像もつかない境地に達したと言わんばかりの強い自負が感じられ、それが鼻につくという方もおられるでしょうが、それはそれで、長く旅を続けた人間にしか吐けない名言でもあるのだと思います。

それはともかく、世界各地の安宿街など、放浪者の集う場所を転々としながら、シンプルで自由気ままな旅を続けていると、故郷での生活スタイルや価値観の影響が薄れていき、次第に無国籍風のバックパッカー・カルチャーみたいなものに染まっていきます。旅の計画も将来の見通しもなく、行き先は風に任せ、旅人同士の一期一会の交流を楽しみ、家財道具はバックパック一つ分だけ……。そして、周りは似たようなスタイルの旅人ばかりで、そうした生き方を批判する人間もいません。

一年、二年と旅を続けるうちに、やがて旅人は、そんな「精神的無重量状態の甘美な味」から逃れられなくなっていきます。

それはたしかに、「日本の毒が抜ける」ということなのですが、逆に言えば、日本社会との物理的・精神的な接点を少しずつ失っていくことでもあります。今までに身につけたさまざまな習慣を脱ぎ捨てれば、そのときは身軽で自由に感じられますが、一方で、そうした習慣を身につけていないと、社会でうまく立ち回れないのも事実です。

しかし、旅の日々を満喫している最中の旅人が、こういう内面の変化に自覚的であり続けることはめったにないし、その日々の先にどういう心理的衝撃が待ち構えているか、あらかじめ考えて用意をしておくことなど、なおさら難しいでしょう。旅の先輩たちから、日本を出て長くなりすぎるとヤバいらしい、という漠然としたアドバイスを聞かされることはあっても、帰国して一体どんなことになるのか、正確に予想できる人はほとんどいないのではないでしょうか。

長旅を終えた旅人は、多くの場合、帰国した瞬間に、久しぶりに目にする日本の社会に違和感を覚えます。それは確かに見慣れた懐かしい風景だし、日本語も問題なく通じるのですが、何か、自分が異邦人になったみたいに感じられるのです。

やがて、違和感は生活全体にじわじわと広がっていきます。そして、そのとき初めて、自分がいつの間にか日本の生活習慣を脱ぎ捨ててしまっていたこと、日本のパスポートを持っていながら、自分がもはや実質的に日本人ではなくなり、無国籍の放浪者と化していたことに気づいて愕然とするのです。

さらに、逆カルチャーショックですっかり醒めた旅人の目には、自分が再び「日本の毒」にどっぷりと漬かっていく様子もはっきり見えるはずです。人によっては、それは、せっかく手にした自由や身軽さの感覚が次第に失われ、何かに絡め取られていくような、まるで悪夢のような息苦しさとして感じられるかもしれません。

もっとも、こうした激しいショックは、旅人に限らず、異国で長く暮らした駐在員や留学生にも起きる可能性はあります。

ただ、周囲に日本人の知り合いもなく、日本語を話す機会もないような環境で、現地の文化に浸り切って暮らす、途上国への留学生や援助関係者ならともかく、企業の駐在員なら、ほとんどの場合、常に日本を向いて仕事をしているので、海外にいても「日本の毒」が抜けてしまう心配はないのかもしれません。

やはり、長い時間にわたって、風の向くまま、ふわふわと漂うように流れ暮らした旅人の方が、いわゆる先進国の社会的現実に戻ったときのギャップが大きく、帰国した瞬間に激しいショックを受けることになるのではないでしょうか。まあ、「社会復帰が困難になる」ほどのものかどうかは分かりませんが……。

バックパッカー向けの雑誌『旅行人』を主宰する蔵前仁一氏は、『旅ときどき沈没』という本の中で、「一年くらい旅をすることなど、暇がある人にとっては (金の問題を別にすれば) 何の問題も特別な技もないのである」と書いていますが、そして、それは確かにそうなのですが、旅を終えた後に待っている逆カルチャーショックのことも含めて考えると、やはりそこには、それなりに大きな困難があると言わざるを得ないのかもしれません……。
旅の名言 「一年くらい旅を……」


JUGEMテーマ:旅行

at 19:05, 浪人, 旅の名言〜旅人

comments(2), trackbacks(0)

旅の名言 「自分の経験則からするなら……」

 以前マルコポーロの『東方見聞録』についてある編集者と話し合っているとき、私はちょっとした冗談を言ったことがある。
「だいたいあのように何年もかけて旅する男というのは女好きに違いない」
 これはジョークではあるが、まったく根も葉もない口から出任せの言葉とも言えない。自分の経験則からするなら自らのことも含めて、長い旅のできる男は色好みである。言葉を換えれば、生物としての生命力が豊かという言い方にもなる。理に適っているのである。

『ショットガンと女』 藤原 新也 集英社インターナショナル より
この本の紹介記事

写真家の藤原新也氏の旅のエッセイ集、『ショットガンと女』からの引用です。

まあ、半分はジョークとはいえ、「何年もかけて旅する男というのは女好き」という彼の「経験則」に対して、旅の好きな人はどのように反応するでしょうか。

「少なくとも自分はちがう!」と真っ向から否定するのか、それとも、「やっぱりそうだったのか」と妙に納得してしまうのか……。

とりあえず自分のことは棚に上げたうえで、私がこれまで旅の中で出会ったバックパッカーたちの生態を思い出す限りでは、別にみんながそんなにギラギラしていたような印象はありません。長旅をしていた彼らが果たして「色好み」かと問われても、正直なところ、あんまりそういう感じはしないのです。

この感じは、藤原氏の「経験則」とは合わないのですが、そのあたりについては、旅人たちを取り巻く時代や旅のスタイルの違いが、多少は関係しているのかもしれないという気がします。

マルコポーロの時代はもちろん、つい数十年くらい前まで、世界を旅するというのは、よほど恵まれた地位にいる人間でもないかぎり、困難と危険と苦痛の伴う冒険でした。その当時の旅は、ちょっとした思いつきで始められるほど生易しくはなかっただろうし、旅人も、危険や困難をあらかじめ覚悟した上で、あえて旅に出たわけです。

そういう厳しい環境で、実際に何年も旅を続けられる人間は、いろいろな意味で確かに生命力が強かったのだろうし、その生命力の一つの表れが、「色好み」という形になっていたのかもしれません。

今でも、例えば戦場カメラマンとか、冒険的な登山家みたいな人たちは、昔の旅と同じか、それ以上に危険な命がけの旅をしているわけで、少なくとも彼らについては、生命力が強いと言えそうな気がします。もっとも、彼らが「色好み」なのかどうかについては、私には分かりませんが……。

しかし、そうした例外的な旅人を除けば、今や、ごく普通の人間が、その気になれば格安航空券で世界をまわり、安全な安宿に泊まって、見知らぬ街をガイドブック片手に気軽に歩きまわれる時代です。そこでは、旅人として特殊な能力とか、強靭な生命力みたいなものは、特に必要とされません。

それに、別に波乱万丈の旅をしなくても、いわゆる「外こもり」や「沈没系」旅行者のように、ゆったりまったりと旅を続けていれば、数カ月、数年という時間はあっという間に経ってしまうものです。長いあいだ旅をしたからといって、それが、何か常人とは違う特性みたいなものを証明するわけでもないでしょう。

たぶん、1960年代から70年代にかけて世界を放浪し、ワイルドな旅に明け暮れた筋金入りのヒッピーみたいな人々と、最近のまったり系のバックパッカーたちとでは、同じように旅をしていても、そもそも人間のタイプみたいなものが違うのだと思います。

それでもまあ、現代のお気楽な旅行者であっても、やはりみんな、もともとの動機として、好奇心というか、外の世界を見てみたいという気持ちは多少はあるわけです。そして、そのために実際に自分で旅を手配し、自分の足で歩き、見たいものは自分の目で確かめるという、行動主義的な傾向も共通して持っているはずで、そういう前向きの行動力みたいなものは、あるいは、生命力の豊かさみたいなものと、多少の関係はあるのかもしれません。

ただし、ひとくちに生命力といっても、その発現の仕方にはいろいろあるはずで、必ずしもそれがすべて「色好み」という方向に向かうわけでもないのでしょうが……。

何だか、だんだん言い訳がましくなってきました。

「そういうお前は、結局のところどうなんだ? お前も助平なのか?」とツッコミが入りそうですが、う〜ん、正直なところ、その辺は自分でもよく分かりません。

まあ、自分では、たぶん人並みくらいだと思うんですけど……。


JUGEMテーマ:旅行

at 19:19, 浪人, 旅の名言〜旅人

comments(0), trackbacks(0)

旅の名言 「旅路における作法というものが……」

 旅路における作法というものがある。あけすけな質問や立ち入った質問は禁物なのだ。単純かつ気持ちのいいマナーだし、世界じゅうどこでも通用する。
 彼は私の名前を尋ねず、私も同様だった。

『チャーリーとの旅』 ジョン スタインベック ポプラ社 より
この本の紹介記事

ノーベル賞作家のスタインベック氏によるアメリカ一周旅行記、『チャーリーとの旅』からの引用です。

「旅路における作法」なんていうと、ちょっと仰々しく聞こえますが、別に難しいことを言っているわけでもなく、旅先で知らない誰かと会ったときには、お互いのプライバシーにはあまり踏み込まないでおこうという、ただそれだけのことです。

もっとも、私の知る限りでは、旅のガイドブックにこういうことが書いてあるのは見たことがないし、旅をしているあいだに、こういうマナーに関して他の人から注意された経験もないのですが、言われてみればたしかに、そういう暗黙のルールみたいなものはあるかもしれないな、という気はします。

旅がどうして楽しいのか、その大きな理由として、旅人が窮屈な日常から一時的に離れて、自由な気分を満喫できるということがあると思います。

旅先では、仕事とか家庭のゴタゴタや人生の悩みをとりあえず棚上げにし、一人の無名の旅人として、自由にふるまい、つかの間の解放感を味わうことができるのです。

そんな自由を楽しんでいるさなかに、本人の過去とか、現在の社会的な立場とか、背負っている人生の重荷について、赤の他人からあれこれ詮索され、そのことをいちいち思い出させられるというのは、決して気分のよいものではありません。

まあ、個人的なことをいろいろ聞かれても、別に不愉快にはならないという旅人もいるだろうとは思いますが、旅を楽しもうという各人の立場を尊重して、互いに余計なおせっかいはしないのが旅人としてのマナーなのでしょう。

ただ、こういうマナーは別に旅先に限った話ではなく、都会で暮らしていれば、仕事でも日々の暮らしでも、基本的には同じことがあてはまります。

この本が書かれたのは、もう50年近く前のことなので、当時はあえてこういうことを書く意味もあったのかもしれませんが、都市化の進んだ現在の日本では、むしろふだんの日常生活においても、そういうマナーがすっかり身についている人の方が多いかもしれません。

ただし、旅先で出会った者同士が、いつでもあたりさわりのない会話をするだけで、互いに無名のまま別れてしまう、というわけではないでしょう。何かのきっかけで意気投合することもあるし、泊まっている宿などで何度か顔を合わせてそれなりに親しくなり、互いの名前を聞いたり、メールアドレスや住所を交換することもあります。

それに、いま目の前で話している相手とは、きっともう二度と会うこともないだろうと思うからこそ、むしろ、自分の身近な人にも話せないような深い胸の内を語れるという場合もあるのです。

結局のところ、「旅路における作法」を尊重してクールにふるまうか、互いのプライバシーにもう少し踏み込むかという判断は、状況次第、相手次第というところがあるのでしょう。そしてその辺りの感覚というのは、人それぞれの性格とか経験によって多少の差はあれど、誰もが、特に意識することもなく身につけているものなのだと思います。

ちなみに、これはいわゆる「先進国」の旅人たちについて言えることで、インドみたいな国に行くと、こういう作法はもはや通用しなくなります。道を歩いていても、バスや列車に乗っていても、茶店でチャイやラッシーを飲んでいても、通りすがりの人々が集まってきて、彼らに「あけすけな質問や立ち入った質問」をされまくります。

まあ、彼らのほとんどは旅人ではないので、ここで「旅路における作法」を振りかざしてみても仕方ないのかもしれません。それに、我々の内面にズカズカと踏み込んでくるといっても、多くの場合、彼らに悪気があるわけではありません。

彼らに、「単純かつ気持ちのいいマナー」の必要性を訴えても、徒労に終わるだけです。旅人としては、彼らの土地を旅させてもらっている以上、ここはそういうところなのだと納得して耐えるしかないのでしょう……。

 
JUGEMテーマ:旅行

at 18:48, 浪人, 旅の名言〜旅人

comments(1), trackbacks(0)

旅の名言 「インドに初めて行ったとき……」

 インドに初めて行ったとき、有名人とはこういうものかと感じた。路地裏を歩いていて振り向くと、二〇人くらいの子供が私のあとをつきまとい、店員は私に手を振る。乞食が手を出してくる。
 それで思い出したのだが、ある有名芸能人の話だ。時と場所をわきまえず騒がれたり、サインを求められたり、写真を撮られたりすると頭にくるが、無視されると淋しくなり、「有名人がここにいるんだぞ」と周りの人に叫びたくなるのだそうだ。このあたりの感情は、アジアやアフリカを旅行する者にもいくらか通じるような気がする。


『アジア・旅の五十音』 前川健一 講談社文庫 より
この本の紹介記事

アジアの旅にまつわる前川健一氏のエッセイ、『アジア・旅の五十音』の「無視」の項からの引用です。

インドやバングラデシュのような国を旅した人ならきっと、前川氏と同じような体験をしているはずです。外を歩けば大勢の人間に取り巻かれ、後をつけられ、お茶を飲んでいれば周囲の熱い視線にさらされ、話しかけられ、同じような質問を何度も浴びせられた経験があるのではないでしょうか。

旅人にしてみれば、どこへ行っても現地の人々に監視されているみたいで、鬱陶しいことこの上ないし、彼らのワンパターンな質問につき合っていると、何とも言えない徒労感を感じます。疲れているときなどは、お願いだからそっとしておいてくれと大声で叫びたくなります。

しかし、そんな状況を避けるうまい方法があるわけでもないので、現地にいる間は、とにかくそれに慣れるしかありません。

そんなとき、有名人というのはきっと、こういう経験を毎日繰り返しているんだろうな、と思うのです。

それでも、インドのような国をしばらく旅しているうちに、気がつけば、いつのまにか現地の人たちと、漫才のようなしょうもないやりとりを繰り返すのが日課になっていたりします。それに、街に出れば必ず誰かが相手をしてくれるので、少なくとも時間をつぶすのに困ることはありません。

そして、そんな生活にすっかり慣れてから日本に帰ると、街を歩いていても誰も話しかけてこないことや、何のハプニングも起こらない日常に、むしろ淋しさを覚えてしまったりするのです。

どこへ行っても注目され、ちょっかいをかけられるというのは、鬱陶しくて仕方がないけれど、かと言って、誰にもかまってもらえないのもやっぱり淋しい……。インドに行くと、芸能人のその複雑な気持ちがちょっとは分かるような気がします。

ただ、旅人の場合は、現地での鬱陶しさに嫌気がさしたらいつでも日本に帰れますが、芸能人の場合、そういう選択の余地はないわけで、同じような体験を、日本にいる限り、たぶん一生し続けなければならないのだと思うと、同情を禁じえません。たしかに、みんなに無視されれば淋しいかもしれませんが、やはり四六時中追っかけまわされ、必要以上の注目を浴び続けるのは、彼らとしても苦痛だろうと思います。

海外で、彼らの気持ちを少しだけ疑似体験した旅人としては、だから、街で芸能人を見かけても、無礼なことは決してしないようにしよう、そして、できれば彼らをそっとしておいてあげたいと思うのです……。


JUGEMテーマ:旅行

at 19:01, 浪人, 旅の名言〜旅人

comments(0), trackbacks(0)

旅の名言 「とことん醜態を……」

「とことん醜態を演じることのできる能力、それこそ旅人に欠かせない大切な要素である」とジャーナリストのジョン・フリンも言っている。人はそのようにしてみずからの過ちを笑い、それを大事な糧にして成長を遂げていく。

『旅に出ろ! ― ヴァガボンディング・ガイド 』 ロルフ・ポッツ ヴィレッジブックス より
この本の紹介記事

いつか放浪の旅に出てみたいと憧れる人のために、放浪(ヴァガボンディング)の心構えと実際を説いた入門書、『旅に出ろ!』からの一節です。

旅先での醜態といえば、「旅の恥はかき捨て」という有名なフレーズを思い出しますが、ここで「とことん醜態を演じる」というのは、そういう、自分のコミュニティでは許されない蛮行を、見知らぬ土地なら平気でやってしまえる、という意味合いではありません。

むしろ、言葉の通じない異国の地で、互いのコミュニケーションが行き違い、思わぬドタバタ劇を演じてしまったり、慣れない異文化の中で、現地の人には滑稽に映るふるまいを、それと気づかずにしてしまうような体験を指しているのだと思います。

例えていえば、それは、テーブルマナーをろくに身につけないまま、高級レストランのようなフォーマルな場に出て大失敗をやらかし、周囲の視線を集めてオロオロする感じと似ているかもしれません。

私も旅をしているときには、何度もそういう経験をしました。また、旅をしている時点では何も感じなかったものの、後でいろいろ事情が分かった時点で当時の自分を振り返り、知らず知らずに相当恥ずかしいことをしていたのだと気づいて、今さらながら赤面することもしばしばです。

旅人として未知の文化圏に入っていくと、現地の言葉もしゃべれず、そのコミュニティの慣習や価値観を何も知らない自分は、まるで無力な子供になってしまったような気がします。まあ、よそ者というのは、どこでも、いつの時代でもそういうものですが……。

現地の人たちも、そういう事情を理解した上で、旅人の醜態を大目に見てくれることが多いのですが、一方で、その道化のような失敗ぶりをおおいに笑い、恰好のエンターテインメントとして楽しんでいるのも確かです。

旅人としては、見知らぬ人からとはいえ、笑い物にされるというのはあまりいい気分ではないし、自分が旅先でスマートに振る舞えなかったことに、悔しい思いをする人もいるでしょう。

ただ、そういう恥ずかしい体験を恐れず、たとえハプニングに巻き込まれても、自分でそれを笑いとばせるくらいのメンタリティが、旅を続けていくうえでは欠かせないのかもしれません。

少しおおげさかもしれませんが、ロルフ・ポッツ氏の言うように、旅先でとことん醜態を演じ、その経験を一つひとつ乗り越えることで、私たちは旅人として、少しずつ「成長」していくことができるのでしょう。

もっとも、私の場合は、何度恥ずかしい経験を重ねても、正直なところ、自分が成長したという実感はないのですが……。


JUGEMテーマ:旅行 

at 18:44, 浪人, 旅の名言〜旅人

comments(0), trackbacks(0)

旅の名言 「ひとり旅が不便だとつくづく思うのは……」

 自由気ままなひとり旅に慣れてしまうと、誰かと行動をともにすることが難しくなる。ひとり旅ができる人といっしょなら、互いを頼りにしないから気分的に楽で、ウマが合う相手ならひとり旅より楽しいが、物事を深く考えるにはひとり旅のほうがいい。
 ひとり旅だから困るということはあまりない。病気になったときは同行者がいれば心細くはないが、自分の病気のせいで同行者に迷惑をかけて申し訳ないという気持ちもあるから、良し悪しである。
 ひとり旅で困ることはたいしてないが、不便なことはいくつかある。宿代、タクシー代が高くつく。食費が割高になり、料理のバラエティーが乏しい。数人で食事をすれば、つねにいくつかの料理が食べられるが、ひとりでは一品しか食べられない。食文化に興味がある者にとって、これは大きな欠点ではあるのだが、もし同行者が菜食主義者であったり好き嫌いが激しかったり、日本料理以外食べたがらないという人であったらかえって迷惑なので、これも良し悪しである。
 ひとり旅が不便だとつくづく思うのは、駅や空港や列車内でトイレに行くときだ。とくに駅や空港では大きな荷物を持っていて、そういう荷物を持ってトイレの個室に入り、床は荷物を置けるような状態にないとき、「ふー」とため息をつく。荷物を両肩と首にぶらさげてしゃがみ込むときは、「誰かが荷物を見てくれたらなあ」とつくづく思う。長い旅のなかで、ひとり旅を不便だと思うのはそんな数分間だ。

『アジア・旅の五十音』 前川健一 講談社文庫 より
この本の紹介記事

アジアの旅にまつわる短い文章をアイウエオ順に並べたユニークな作品、前川健一氏の『アジア・旅の五十音』の、「ひとり旅」の項からの引用です。

旅に出かけるとき、誰かと一緒に行くか、一人で行くか、あるいは旅の途中でほかの旅人と行動をともにするかというのは、各人の好みのほかに、状況や相手次第という面もあるので、どれが最も面白いと一概に言えるものではありません。

それでも、あくまで個人的な趣味を言わせてもらえるなら、私も前川氏のように、好きなタイミングで、好きなところへ、自由気ままに動ける一人旅が好きだし、実際に旅に出るときはほとんど一人です。

ただし、その大きな自由には、それなりの代償があります。

冒頭に引用した短い文章の中で、前川氏がほとんど言いつくしているように、それは一人当たりの旅費が余計にかかることであったり、食事が単調で少々わびしくなることであったり、旅先で病気やアクシデントに見舞われたときのサポートがないなどといった不便です。

そして、移動中のトイレでの不便。これは、実際にそれを経験したことのある人なら大いに共感できるのではないでしょうか。

一人旅では、誰かに荷物を見張ってもらうことができないので、基本的にはどんな状況でも荷物から目を離すわけにはいきません。鉄道駅や空港なら、いざとなればカウンターに手荷物を預けることもできますが、アジアの田舎のバスターミナルやドライブインにはそのようなものはありません。

そういう場所で汚いトイレに入る時など、万が一、床や便器に荷物が落ちたりすれば大惨事は免れません。そんなとき、たった数分間でいいから、誰かが外で荷物を見ていてくれたらと切実に思うのです。

もっとも、寝台車や長距離バスに乗っているときなど、周囲の状況次第では、荷物を座席に残してトイレに行くこともあります。ただしそのときには、戻って来たら荷物が消えている可能性もゼロではないので、そのリスクと数分間の快適さとを天秤にかけ、それなりの覚悟をした上でそうするわけです。

あと、似たような状況ですが、私自身の経験からもうひとつ不便だと思うのは、ビーチで一人で泳ぐときでしょうか。

セキュリティの甘いバックパッカー向けコテージに泊まっているときなどは、泳いでいる間、部屋に貴重品などをすべて残していくのには不安が残ります。かといって、現金やパスポート、トラベラーズ・チェックなどを身につけて泳ぐわけにもいきません。

このブログにもかつて書いたことがあるのですが、私は一度、ビーチで泳ぐときにツアーガイドについ貴重品を預けてしまい、目を離しているスキに現金を抜き取られた苦い経験があります。ビーチでの貴重品の管理について、過剰なまでに慎重になってしまうのは、そのせいもあるのでしょう。
記事 「お金を盗られた話」

仕方がないので、私はいつも、貴重品をバックパックや部屋の中に分散して隠し、万が一どれかを盗られてもその時点で無一文になってしまわないよう、涙ぐましい工夫をしています。まあ、そこまで頑張ったところで気休め程度の効果しかないと思いますが……。

もちろん、そういう心配が頭の片隅に残っているようでは、やはり時間を忘れて、心ゆくまで海でのんびり遊ぶ境地にはなれません。そして、そんなときはさすがに、誰か信頼できる旅仲間がいたら楽なのに……と、つくづく思うのです。

最後に、これは蛇足だとは思いますが、一人旅特有の危険について少し触れておきたいと思います。

たとえば、英語のガイドブックなどを読んでいると、旅先には悪意をもって旅人に近づいてくる人物がいて、彼らに一人旅だと悟られると、何らかの被害に遭う可能性が高まるので、(女性の場合は特に)そうならないよう、仮に一人旅をしていても、常に同行者がいるフリをしていた方がいい、なんて書いてあったりします。

私自身はこれまで、旅をしていて真剣に身の危険を感じた経験がないので、そういう警告はちょっと大げさだという気がするのですが、旅人が犠牲者となる事件が皆無ではない以上、そうした警告を全く無視することもできないのかもしれません。

たしかに一人旅の場合、重大なアクシデントに巻き込まれた場合のバックアップがないわけで、理屈としては、それが何らかの悲劇の潜在的なリスクを高めるということは考えられます。

ただ、そういうケースは非常にまれなことだし、旅人の心がけと行動次第で、意識的に危険を避けることもできます。それに、そもそもリスクのない旅など存在しない以上、安心と安全ばかりを追求していけば、旅に出られなくなってしまいます。

月並みな結論ではありますが、旅人は、旅に伴うリスクと、安全確保のために失われる自由や面白さを天秤にかけたうえで、結局のところ、それぞれが自分に最もふさわしい旅のスタイルを選ぶことになるのでしょう……。


JUGEMテーマ:旅行

at 19:05, 浪人, 旅の名言〜旅人

comments(0), trackbacks(0)

旅の名言 「旅先であんなにおもしろかった人が……」

 旅先で出会った日本人旅行者とは、日本で再会しない方がいい。その人が帰国数日後で、気分的にはまだ旅行中というなら旅の話で盛り上がることもあるが、帰国後だいぶたって完全に日本の生活に戻っている人に、旅先で抱いたイメージそのままで接するとガッカリすることがある。その人と別れてからの旅の話をしようと待ちかまえていると、就職や家族の話をされてしまい、気まずい雰囲気になることもある。
 旅先であんなにおもしろかった人が、あんなにいきいきしていた人が、日本でぬけ殻となって生きている姿を見たくない。
 しかし、ぬけ殻はじつは私自身だろう。風が吹くとコロコロ転がるぬけ殻が私で、日本で再会した人たちは大木にしっかりしがみつき、せいいっぱい鳴いているセミなのだ。

『アジア・旅の五十音』 前川健一 講談社文庫 より
この本の紹介記事

アジアの旅にまつわる文章を、「あ」から「ん」まで50音順に配列したユニークな作品、前川健一氏の『アジア・旅の五十音』の、「ぬけ殻」の項からの引用です。

「ぬけ殻」とまでは言えないにしても、「旅先であんなにおもしろかった人が、あんなにいきいきしていた人が」、日本で会ったらすっかり別人に見えたという話は、海外を何度も旅した人なら、自分でも一度か二度は体験したことがあるのではないでしょうか。

旅人同士が旅先で知り合い、意気投合して、安宿のロビーや屋台で夜遅くまで話し込んだり、気の合う仲間同士でグループをつくって遊び歩いたり、しばらく一緒に旅をしたりということは、バックパッカーの旅ならよくあることです。

ただ、せっかく仲良くなっても、そこは旅人の宿命、お互いに旅の途上ということもあって、いずれは別々の目的地をめざすことになります。

そんなとき、旅の無事を祈り合い、「また世界のどこかで会いましょう!」とさわやかに(?)別れ、それでもう再び会うこともない、というパターンが大半なのですが、メールアドレスや住所を交換した場合には、しばらく互いに近況を知らせ合うこともあるだろうし、ときには日本に帰ってからも、一度どこかで会って積もる話でもしようという展開になることもあります。

しかし、私の経験からしても、実際に日本で会ってみると、お互いにどこか微妙な違和感を感じてしまうことが多いような気がします。

筋金入りのバックパッカーで、旅に人生を賭けているような人は別にして、学校や会社の休暇を利用して旅をしているような人は、やはり生活のメインは日本にあるので、帰国すればすぐに気持ちを切り替え、日本での生活に再びリズムを合わせていかなければなりません。

旅をしているときには、日常生活のさまざまな「現実」から解放され、目先の旅のことだけ考えていればよかったし、国籍も年齢も職業も地位も関係なく、目の前にいるさまざまな人々とオープンな気持ちでつき合うこともできたでしょうが、再び味わう日常の現実は、そういう気分で居続けることを許してはくれないでしょう。

そんな状況で、旅人同士が日本で顔を合わせても、忙しい中、時間に追われてあわただしく会うような感じになりがちだし、周囲から押し寄せてくる現実の重圧の中、旅先で感じていたあのオープンな気持ちを再現しようとしても難しいのです。

結果として、「あのときとは何か違うな……」と、お互いに微妙な違和感を感じつつ、モヤモヤとした気分で別れることも多いのではないでしょうか。

逆に考えると、やはり、旅をしているときの旅人というのは、その解放感や高揚感のなかで、どんな人でも多少は別人のようになっているのでしょう。

そして、旅好きな人というのは、旅をしている瞬間こそ、自分がもっとも自分らしく、「いきいき」としているように感じるのだろうし、だからこそ、何度も旅に出ることによって、その自分らしさを取り戻そうとするのかもしれません。

まあ、だからといって、旅人が日本では「抜け殻」なのだと言ってしまうと、多少語弊があるかもしれません。前川氏も先ほどの文章の最後では、実は自分の方こそ「抜け殻」なのだというオチにしています。

よほど条件に恵まれた人でもないかぎり、永遠に旅を楽しみながら生き続けるなんてことは不可能です。日本でしっかりと現実の生活と結びつくことによって、初めて次の旅への資金やエネルギーを蓄えることが可能になるのです。セミが地上に出てくる前に、土の中で何年も力を蓄えるように……。

人は、旅をしている間、地上で与えられたわずかな生を謳歌するセミのように、限られた旅の時間を精一杯楽しみ、輝いているのかもしれません。一方で、旅人同士が日本で会うというのは、土の中でじっとガマンしているその舞台裏を見せ合うようなもので、それは現実の重さという一種の幻滅を、お互いに改めて深く感じさせてしまうのかもしれません。

やはり、旅人同士というのは、互いにもっとも「いきいき」している旅先で会うに越したことはないのでしょう……。


JUGEMテーマ:旅行

at 19:31, 浪人, 旅の名言〜旅人

comments(0), trackbacks(0)

旅の名言 「旅行者とは……」

旅行者とは、旅行される側の人たちにとっては基本的に、ジャマ者かカネを持ったカモである。


『アジア・旅の五十音』 前川健一 講談社文庫 より
この本の紹介記事

アジアの旅にまつわるさまざまな文章を、「あ」から「ん」まで50音順に配列した前川健一氏のユニークな作品、『アジア・旅の五十音』からの一節です。

「旅行者」についての、この鋭いコメントについては、長く旅をしたことのある人や、何度も旅を繰り返している人なら大いにうなずけるはずで、もうこれ以上解説する必要もないかもしれません。

私たちは、旅を続けているうちに、自分を中心とする視点で旅を楽しむだけではなく、やがて、「旅行される側の人たち」は自分のことをどう見ているのか、あるいは、旅人と現地の人々の関係が生み出している「場」の性質のようなものに、おのずと気づかざるを得なくなります。

また、自分が旅先で顔を合わせ、日々のやり取りをしている人々は、はたしてその国のごく普通の人々といえるのだろうか、それとも、自分の持っているカネを目当てに集まってくる、ある意味では特殊な人たちなのではないかという疑問も湧いてくるでしょう。

それに、バックパッカー・スタイルの旅人なら、よほど急ぎの旅をしているのでもないかぎり、自由な時間はふんだんにあるでしょうが、「旅行される側の人たち」も常にそうだというわけではありません。

欧米諸国はもちろん、開発途上国といわれる国々でも、日本よりも時間がゆったりと流れているとはいえ、やはり働きざかりの年齢の人々は、仕事や日常生活でそれなりに忙しく、いつでも見知らぬ旅行者にかまっていられるほどヒマではないでしょう。

これは自分が観光される立場だったらと想像してみれば分かると思いますが、平日の昼間から街をウロウロ歩き回っては他人の暮らしぶりを覗き込んだり、街角のどうでもいいようなものを見つけてはいちいち喜んでみたり、現地の言葉もろくにしゃべれないのに何でもかんでも知りたがる旅行者というのは、見られる側にとってはやっかいな「ジャマ者」でしかないのかもしれません。

結局のところ、旅人はどこの国に行っても、子供や老人、失業中の人、あるいは働かずにブラブラしている人など、要するにその社会の「現役」ではない人たちか、旅人を相手にすること自体が仕事の、安宿・ツーリスト向けの食堂・旅行代理店・みやげ物屋で働く人やタクシードライバーなど、いわゆる旅行業界の人ばかりとつき合うことになりがちです。

もちろん、現地の旅行業界のすべての人々が私たちをカモにしようとしているわけではないでしょうが、外国人を相手にするのは、彼らにとってもそれなりに面倒な仕事ではあるだろうし、そのサービスの対価としていくばくかの割増を要求するのは、ある程度は仕方のないことです。

そう考えると、ちょっと毒のある表現とはいえ、たしかに私たち旅行者は、「旅行される側の人たちにとっては基本的に、ジャマ者かカネを持ったカモ」だということになるのかもしれません。

旅人としては、異国の人々との言葉を超えた魂の交流とか、友人としての損得抜きのつき合いとか、国境を越えるドラマチックな恋みたいなものを内心では期待してしまうのかもしれませんが、まあ、これが悲しい現実なのでしょう。

ただ、それが大方の現実だとしても、たまには旅行者が夢見るような、奇跡のような出来事が起こることもあるだろうし、だからこそ、旅人は現実の厳しさに何度も裏切られながら、性懲りもなく旅を続けるのかもしれません……。


JUGEMテーマ:旅行

at 19:35, 浪人, 旅の名言〜旅人

comments(2), trackbacks(0)