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旅の名言 「勘に従って……」

 この、勘、というやつを私はかなり信用している。何気なく通りをぶらついていて、食べもの屋の前を通った瞬間、勘が体内でわめきたてることが、旅をしていると多々ある。混んでいるとかいないとか、安そうだとか高そうだとか、いっさい関係ない。実際、勘がどんなにわめき立てようと、入りにくい店というのは歴然としてある。自分は薄汚れた短パン姿なのに、真っ白いクロスがまぶしい高級店には入りづらいし、地元の酔っぱらいでぎゅうぎゅうに混んでいる店も、入るにはかなり勇気が要る。勘なんてあてにならないや、と言い訳するように、勘のいっさい働かない別の店で食事をすると、やっぱりあまりおいしくない。「ほーらごらん」と勘があざ笑う。勘に従って勇気を奮い起こし「えいやっ」と店に入る。不思議なことに、こういう店で供される料理はじつにうまい。はずれたことがない。

『いつも旅のなか』 角田光代 角川文庫 より
この本の紹介記事

人気作家、角田光代氏の旅のエッセイ 『いつも旅のなか』からの引用です。

見知らぬ国を旅していると、朝・昼・晩に、どこで何を食べるかというのはけっこう重要な問題です。

ふだんの生活なら、おいしいものがどこで手に入るか知っているので、その日の気分や予算に応じて、近所の食堂に入るなり、スーパーで食材を買うなりすればいいのですが、異国の地では往々にして、目の前の食べ物を口にするまで、それがどんな味なのかすら分からなかったりします。

それは、好奇心旺盛な旅人なら、期待とスリルに満ちた素晴らしい体験だろうし、まさにそのために旅に出る人もいるのでしょうが、逆に、そういう状況が旅の間ずっと続くことに、ストレスを感じる人もいるでしょう。

しかし、どう思うにせよ、人は誰でも腹が減るようにできています。旅人は、面倒だろうが不安だろうが、一日に何度か知らない街に繰り出して、店を選び、料理を選び、それを実際に口にしてみるしかありません。

そして、そんなときのためにこそ、ガイドブックがあります。そこには高い店から安い店まで、地元の名物からおなじみのファストフード・チェーン店まで、旅人の予算や事情に合わせたさまざまな店の情報が載っています。

また、バックパッカーでにぎわう安宿街なら、欧米風の料理を出す店がいくつもあるので、とりあえずそうした店に行けば、それほど美味くはなくても、そこそこ予想の範囲内のものを食べられるでしょう。

せっかくの旅で、嫌な思いをしたくないという人は、多少カネはかかっても、ガイドブックが勧める有名どころのレストランを選ぶことになるだろうし、疲れたバックパッカーなら、宿の近くのツーリスト・カフェとか、英語メニューのある安食堂など、他の旅行者が行きそうなところで適当に手を打ちたいと思うのではないでしょうか。

そしてもちろん、そうすることに何も問題はありません。

ただ、もしも旅人が、何か新鮮な体験を求めていて、気力・体力にもそれなりの余裕があるのなら、角田氏のように、勘、つまり自分の直感的な判断力を信頼し、それに従ってみることで、自分では予想もしなかったような、感動的な味にめぐり会えるかもしれません。

同じことは、食事だけでなく、宿の選択とか旅先での行動、旅の目的地など、他のあらゆることについても言えるのだと思います。

もっとも、すべての旅人が、最初から彼女のようにうまくいくとは限らない、ということは知っておいた方がいいかもしれません。

角田氏の勘は、「体内でわめきたてる」というくらい、はっきりと感じられるようだし、その勘が外れることもないようですが、そこに至るまでには、長年にわたる経験を通じて、自分の勘との信頼関係を築き上げてきたのだろうと思います。

子供の頃からずっと直感に従ってきた人ならともかく、他人のアドバイスとか、ガイドブックやインターネットの情報に頼ったり、安心・安全を優先することに慣れてしまった人には、自分の直感が、そもそもどんな風に感じられるかもおぼつかないだろうし、慣れないうちは、思考・妄想と直感をとり違える、文字どおりの「勘違い」をすることもあるでしょう。

それに、いくら勘に従うといっても、角田氏が書いているように、「入りにくい店」にあえて入るのには、ちょっとした勇気も必要です。

まあ、このあたりは、外国人なら多少場違いなことをしても許されると開き直り、時には大失敗などしでかしつつ、自分の勘とその結果を検証するサイクルを繰り返すことで、勘とのつき合い方のコツを、少しずつ学んでいくしかないのでしょう。

ところで、私はといえば、食事に関して、人並み以上の勘は持ち合わせていません。

それは、旅先でおいしいものを食べたい、という気持ちがそれほど強くないからではないかという気がします。

たしかに、とんでもなくマズイとか、体に悪そうなものを食べるのは嫌ですが、腹が減っていれば、そこそこの食事で満足できてしまうので、食べることに関して、勘を磨く機会がなかったということでしょうか。

食事にしても、他のどんな分野にしても、そこにどれだけ強い欲求があるかというのが、勘を研ぎ澄ますための重要なカギなのかもしれません……。


JUGEMテーマ:旅行

at 18:36, 浪人, 旅の名言〜危機と直感

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旅の名言 「不思議なことに一文無しになってから……」

 不思議なことに一文無しになってから僕の英語レベルが上がってきたんです。よく考えてみたら今まで自分の話を一生懸命したことなんてなかったんですよ。それまでもインドを旅行して、当然英語で話をしてはいたし、日本にいたときと比べたら話せるようにはなっていたけど、たいしたことはなかった。結局そういうのは切実な話じゃないんですよ。要するに雑談だったりお喋りなわけです。そういうときというのはあんまり言葉を覚えないですよね。英語が下手で恥ずかしいなとか、なるべく話したくないなとか思ったりして。逆に覚えるときは、切実なときです。水をくれとか、メシをくれとか、そういうときになると英語が下手とかいっている場合じゃないですよね。何でも言って伝えようとするでしょう。

『放っておいても明日は来る』 高野秀行 本の雑誌社 より
この本の紹介記事

東南アジアでユニークな人生を切り開いた人々と、作家の高野秀行氏が語り合うトーク集、『放っておいても明日は来る』からの一節です。

この本の最後の章で、高野氏が学生時代にインドを旅していたとき、貴重品を含めた荷物全てを盗まれた、衝撃の体験が語られています。現地で知り合った人物に騙され、一文無しになった彼は、貧しいインド人一家のアパートに居候しながら、警察や銀行、航空会社、日本大使館などを歩いて回り、何とかトラブルを克服して、無事帰国に漕ぎつけました。

突然の思いがけない事件によって、何としてでも自分の意思を伝えなければ、生き延びることさえままならない状況に追い込まれた彼は、周囲の人々と無我夢中でコミュニケーションを図ったのですが、そのおかげか、それまで全然話せなかったはずの英語が、いつの間にか上達していたというのです。

私自身は、旅でそこまでせっぱ詰まった体験がないので、かりに自分が同じ状況に置かれたら、高野氏と同じように死にもの狂いで問題解決に奔走できるか自信がないのですが、そういう体験を通じて英語力がアップするという点については、何となく分かるような気がします。

ところで、世間一般では、英語や他の外国語がしゃべれないと、海外での一人旅は難しいと思われているようですが、実際には、ガイドブックやインターネットで旅先の情報を調べ、ツーリストの立ち回るようなエリアで観光している限り、ほんのカタコトの英語程度でも、なんとか旅はできてしまうものです。

たしかに、いわゆる開発途上国では、旅行者向けのインフラがきちんと整備されているわけではないし、日本のスーパーやコンビニのような便利な店も、ちゃんとしたメニューのある食堂もないことが多いので、慣れない旅人は、買い物や食事に手間どることもあるかもしれません。しかし、そういう場合でも、欲しいものを指でさしたり、絵に描いたり、ジェスチャーをしたりと、言葉以外の方法を駆使すれば、言いたいことを相手に伝えるのはそれほど難しくありません。

そんなわけで、カタコトの英語しか話せない私も、アジアの国々を旅していて、ほとんど不自由を感じませんでした。まあ、その反面、あちこち旅したわりには、英会話がちっとも上達しなかったし、現地の言葉もちゃんと覚えないで済ませてしまったわけですが……。

ただ、旅人が重大なトラブルに巻き込まれ、絶体絶命のピンチに陥ったようなときには、自分の語学力のなさや、日頃の努力不足を痛感させられることになります。

それでも、言葉の通じない異国で病に倒れ、一刻も早く自分の病状を伝えなければならないとき、あるいは、インドで一文無しになった高野氏のように、自分の生き残りを賭けて、難しい交渉ごとを次々にこなす必要に迫られたときには、自分の英語力ではきっと通じないからと、誰かに話すのを恥ずかしがったり、聞き取れない相手の英語に、適当に相づちを打ったりしているわけにはいきません。

そういう切実なときには、文法がどうだとか、発音がみっともないとか、そんなことを気にしている余地などないし、伝わろうが伝わるまいが、とにかく自分の知っている限りの単語を並べて、言いたいことが相手に伝わるまで、あきらめずに何度でも話してみるしかないのです。

そういう、自分の能力以上のものをフル稼働させるようなギリギリのコミュニケーションをしているときには、すべての瞬間が、自分の壁を乗り越える貴重な学びにつながっているわけで、その結果として英語力がアップするのは、全然「不思議なこと」ではないのかもしれません。

そしてそれは、使いこなせる単語や言い回しが増えたというよりはむしろ、言いたいことをシンプルに誤解なく相手と伝え合うという、コミュニケーションの本質を会得することによって、英語による「会話力」がものすごく上がったということなのだろうと思います。

逆に言えば、私の英語がいつまでたっても上達しないのは、結局のところ、英語でどうしても伝えたいことがないから、つまり、英語を話す人たちと、命がけでコミュニケーションするほどの必要に迫られたことがないからなのかもしれません……。

それにしても、切実さが何かを上達させるというのは、言語の習得に限ったことではないように思います。

危機的な状況に置かれたとき、人間はものごとの優先順位をいったん白紙に戻して、本当に大事な問題だけに神経を集中し、それを解決するために全力を傾けるはずです。そして、そのとき何が重要で、何をすればよいのか、(今ここにいる自分以外にそれをやる人間はいないと自覚している)当事者の目には、迷いようのないほどにはっきりと見えてくるのではないでしょうか。

危機的な状況は、身の破滅につながりかねない危険と隣り合わせですが、それと同時に、深い学びにつながる絶好のチャンスでもあります。

もちろん、英語を身につけたいからといって、あえてインドで無一文になる必要はありませんが……。


JUGEMテーマ:旅行

at 19:00, 浪人, 旅の名言〜危機と直感

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旅の名言 「そして、私は自力で……」

 たとえば、旅をしていて、誰かと知り合う。そう、外国を旅していて外国人に「家に来ないか」と誘われたとしようか。さあ、そのときどうするか。
 ひとつは、絶対にそんなことを言う奴は悪い奴に決まっている、きっと悪巧みをめぐらしているに違いないと判断してついていかない。もうひとつは、人はすごく親切なものだし、せっかくの機会なのだからと喜んでついていく。その二つとも旅行者の態度としてありうると思う。
 私だったらどう考えるかというと、世の中には基本的に親切な人が多いし、そんなに悪い奴というのはいないと思う。しかし、同時に、悪い奴はきっといるとも思う。そう考える私は、どこまで行ったら自分は元の場所に戻れなくなる可能性があるかという「距離」を測ることになる。そして、私は自力でリカバリーできるギリギリのところまでついていくと思うのだ。もしかしたらそれは相手の家の庭先までかもしれないし、居間までかもしれない。もし女性だったら、ニ階の部屋まで入ったら、もう戻れないかもしれない。要するに自分の力とその状況を比較検討し、どこまで行ったなら元の所には戻れなくなるかを判断するのだ。そういうことを何度か繰り返していると、旅をしているうちにその「距離」が少しずつ長く伸びていくようになる。

『旅する力 ― 深夜特急ノート』 沢木 耕太郎 新潮社 より
この本の紹介記事

旅行記の名作『深夜特急』の著者である沢木耕太郎氏が、旅をテーマに自らの半生を振り返るエッセイ、『旅する力』からの引用です。

旅においては、未知の人々との出会いやハプニングなど、予想のつかない出来事が日常生活よりもはるかに頻繁に起こります。

そうした先の読めない新鮮な展開は、旅の大いなる魅力ではあるのですが、その反面、それは場合によっては旅人を危険にさらし、取り返しのつかない深刻な結果を招くこともないわけではありません。

旅人の中には、危険を避け、安心・安全な旅を楽しむために、知らない人間からの誘いや、旅の予定を乱しそうな物事は、とりあえず全てシャットアウトしてしまうという人もいるだろうし、反対に、考えられる危険よりも未知の展開のワクワク感を大事にして、旅先での流れやハプニングに積極的に乗っていくという人もいるでしょう。

現実には、旅人それぞれが自分なりの判断基準を設けて、その両極端の間のどこかで行動を選択しているのだと思いますが、それに関して沢木氏は、「どこまで行ったら自分は元の場所に戻れなくなる可能性があるか」という、非常に興味深い基準を示しています。

それに似た意味で、ポイント・オブ・ノー・リターン(帰還不能限界点)という言葉があります。航空機が目的地に向かって飛行するとき、あるいは、探検隊が補給のきかない極地を踏破するようなとき、これ以上進めば、燃料や食糧不足で出発地点には引き返せなくなるという限界点を意味しています。

その点の手前までは、いつでも引き返すという判断をすることができる、つまりある種の保険がかかった状態で行動することができますが、その点を越えてしまうと、引き返すという選択肢はなくなります。つまり、その先で何が起きようと、とにかく目的地に向かって進み続けるしかなくなるのです。

普通の人間の普通の旅には、そのようなリスクに満ちた行程というのはまずあり得ないと思います。ただ、沢木氏の言うように、自分の力で状況をリカバリーできるかできないかという観点から、旅先での一つひとつの行動を見てみれば、旅人の能力や状況に応じて、そういう限界点は意外に多く存在するのではないでしょうか。

例えば、冒頭の引用のように、旅先で知り合った人に家に来ないかと誘われたとき、車で送ってあげようと言われたとき、あるいは、会ってすぐに食べ物や飲み物を勧められたとき……。

たいていの場合、こうしたケースで相手の申し出をそのまま受け入れたとしても、たぶん変なことは何も起きないでしょう。むしろ、旅のいい思い出になったり、相手と意気投合して、旅がさらに面白い展開を見せたりするかもしれません。しかし、そうはならず、そのとき深く考えずに申し出を受けてしまったことを、後々まで非常に後悔することになる可能性もあります。

この場合の限界点とは、一度そこを超えてしまったら、自分の力だけではその場の状況や相手の行動をコントロールすることができなくなる、ギリギリのポイントやタイミングを意味しています。旅人本人がそれを自覚しているかいないかはともかく、その先に足を踏み入れると、相手の出方や状況がその後の出来事の主導権を握ることになり、そこで自分のできることは限られてしまいます。

主導権がなくなるからといって、必ずしも悪いことばかりが起こるわけではないのですが、重要なのは、そこでは自分は基本的に無力で、事態がどんな方向に向かおうと、自分は出来事の流れに身をゆだねるしかなくなるということです。

沢木氏は、「私は自力でリカバリーできるギリギリのところまでついていく」と言っています。その意味するところはたぶん、その限界点に達するまでの間に、あらゆる感覚を働かせて状況を見極め、引き返すべきか、そのまま進むべきかを決断するということなのでしょう。

もちろん、ときには覚悟を決めて、帰還不能限界点の向こう側へ足を踏み出すことも必要だろうし、それによって、旅に新しい展開が開けることもあるでしょう。しかし、限界点を一度越えてしまったら、どんな結果が起きようと、旅人はそれを引き受けなければならないということは自覚しておく必要があります。

旅に慣れないうちは、そうした限界点が身の周りのあちこちに出現するし、しかも、その限界点までの「距離」が短いので、その先に進むべきかという判断の最終リミットがすぐにやってきてしまいます。

その短い時間の中で、また、心にも十分な余裕のない中で、これまでの少ない経験と、旅人としてまだまだおぼつかない感覚をフル稼働させて最終的な決断をしなければならないとなると、その判断はかなり難しいでしょう。

そう考えると、最初のうちは、自分の限界点がどのあたりにあるのか、まずはその見極めをしていくことの方が大事で、あえてあちこちで限界点を踏み越えて、自分を大きなリスクにさらすべきではないのかもしれません。

沢木氏の言うように、旅をしているうちにその「距離」は少しずつ伸び、経験を積み、感覚もだんだん研ぎ澄まされてきて、最終的な判断に至るまでの心の中のプロセスも、ある程度自覚できるようになるはずです。ちょっとした冒険をするのは、それからでも遅くはありません。

これ以上進めばどんなリスクがあるか自分には見えているだろうか、そのリスクにあえて身をゆだねるだけの動機が自分にはあるだろうか、そして、限界点に達するまでの間に何か気になる兆候はなかっただろうか……。

実際には、ここまでいちいち理屈っぽく考えるわけではありませんが、半ば無意識にでも、こうした判断を自分の責任でできるようになれば、自分で思い描いた自由な旅に、ときには面白いハプニングも織り交ぜた、ワクワクするような旅が楽しめるようになるのではないでしょうか。


JUGEMテーマ:旅行

at 18:50, 浪人, 旅の名言〜危機と直感

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