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2012.06.15 Friday
旅の名言 「勘に従って……」
この、勘、というやつを私はかなり信用している。何気なく通りをぶらついていて、食べもの屋の前を通った瞬間、勘が体内でわめきたてることが、旅をしていると多々ある。混んでいるとかいないとか、安そうだとか高そうだとか、いっさい関係ない。実際、勘がどんなにわめき立てようと、入りにくい店というのは歴然としてある。自分は薄汚れた短パン姿なのに、真っ白いクロスがまぶしい高級店には入りづらいし、地元の酔っぱらいでぎゅうぎゅうに混んでいる店も、入るにはかなり勇気が要る。勘なんてあてにならないや、と言い訳するように、勘のいっさい働かない別の店で食事をすると、やっぱりあまりおいしくない。「ほーらごらん」と勘があざ笑う。勘に従って勇気を奮い起こし「えいやっ」と店に入る。不思議なことに、こういう店で供される料理はじつにうまい。はずれたことがない。
『いつも旅のなか』 角田光代 角川文庫 より
この本の紹介記事
人気作家、角田光代氏の旅のエッセイ 『いつも旅のなか』からの引用です。
見知らぬ国を旅していると、朝・昼・晩に、どこで何を食べるかというのはけっこう重要な問題です。
ふだんの生活なら、おいしいものがどこで手に入るか知っているので、その日の気分や予算に応じて、近所の食堂に入るなり、スーパーで食材を買うなりすればいいのですが、異国の地では往々にして、目の前の食べ物を口にするまで、それがどんな味なのかすら分からなかったりします。
それは、好奇心旺盛な旅人なら、期待とスリルに満ちた素晴らしい体験だろうし、まさにそのために旅に出る人もいるのでしょうが、逆に、そういう状況が旅の間ずっと続くことに、ストレスを感じる人もいるでしょう。
しかし、どう思うにせよ、人は誰でも腹が減るようにできています。旅人は、面倒だろうが不安だろうが、一日に何度か知らない街に繰り出して、店を選び、料理を選び、それを実際に口にしてみるしかありません。
そして、そんなときのためにこそ、ガイドブックがあります。そこには高い店から安い店まで、地元の名物からおなじみのファストフード・チェーン店まで、旅人の予算や事情に合わせたさまざまな店の情報が載っています。
また、バックパッカーでにぎわう安宿街なら、欧米風の料理を出す店がいくつもあるので、とりあえずそうした店に行けば、それほど美味くはなくても、そこそこ予想の範囲内のものを食べられるでしょう。
せっかくの旅で、嫌な思いをしたくないという人は、多少カネはかかっても、ガイドブックが勧める有名どころのレストランを選ぶことになるだろうし、疲れたバックパッカーなら、宿の近くのツーリスト・カフェとか、英語メニューのある安食堂など、他の旅行者が行きそうなところで適当に手を打ちたいと思うのではないでしょうか。
そしてもちろん、そうすることに何も問題はありません。
ただ、もしも旅人が、何か新鮮な体験を求めていて、気力・体力にもそれなりの余裕があるのなら、角田氏のように、勘、つまり自分の直感的な判断力を信頼し、それに従ってみることで、自分では予想もしなかったような、感動的な味にめぐり会えるかもしれません。
同じことは、食事だけでなく、宿の選択とか旅先での行動、旅の目的地など、他のあらゆることについても言えるのだと思います。
もっとも、すべての旅人が、最初から彼女のようにうまくいくとは限らない、ということは知っておいた方がいいかもしれません。
角田氏の勘は、「体内でわめきたてる」というくらい、はっきりと感じられるようだし、その勘が外れることもないようですが、そこに至るまでには、長年にわたる経験を通じて、自分の勘との信頼関係を築き上げてきたのだろうと思います。
子供の頃からずっと直感に従ってきた人ならともかく、他人のアドバイスとか、ガイドブックやインターネットの情報に頼ったり、安心・安全を優先することに慣れてしまった人には、自分の直感が、そもそもどんな風に感じられるかもおぼつかないだろうし、慣れないうちは、思考・妄想と直感をとり違える、文字どおりの「勘違い」をすることもあるでしょう。
それに、いくら勘に従うといっても、角田氏が書いているように、「入りにくい店」にあえて入るのには、ちょっとした勇気も必要です。
まあ、このあたりは、外国人なら多少場違いなことをしても許されると開き直り、時には大失敗などしでかしつつ、自分の勘とその結果を検証するサイクルを繰り返すことで、勘とのつき合い方のコツを、少しずつ学んでいくしかないのでしょう。
ところで、私はといえば、食事に関して、人並み以上の勘は持ち合わせていません。
それは、旅先でおいしいものを食べたい、という気持ちがそれほど強くないからではないかという気がします。
たしかに、とんでもなくマズイとか、体に悪そうなものを食べるのは嫌ですが、腹が減っていれば、そこそこの食事で満足できてしまうので、食べることに関して、勘を磨く機会がなかったということでしょうか。
食事にしても、他のどんな分野にしても、そこにどれだけ強い欲求があるかというのが、勘を研ぎ澄ますための重要なカギなのかもしれません……。
JUGEMテーマ:旅行
2011.05.20 Friday
旅の名言 「不思議なことに一文無しになってから……」
不思議なことに一文無しになってから僕の英語レベルが上がってきたんです。よく考えてみたら今まで自分の話を一生懸命したことなんてなかったんですよ。それまでもインドを旅行して、当然英語で話をしてはいたし、日本にいたときと比べたら話せるようにはなっていたけど、たいしたことはなかった。結局そういうのは切実な話じゃないんですよ。要するに雑談だったりお喋りなわけです。そういうときというのはあんまり言葉を覚えないですよね。英語が下手で恥ずかしいなとか、なるべく話したくないなとか思ったりして。逆に覚えるときは、切実なときです。水をくれとか、メシをくれとか、そういうときになると英語が下手とかいっている場合じゃないですよね。何でも言って伝えようとするでしょう。
『放っておいても明日は来る』 高野秀行 本の雑誌社 より
この本の紹介記事
東南アジアでユニークな人生を切り開いた人々と、作家の高野秀行氏が語り合うトーク集、『放っておいても明日は来る』からの一節です。
この本の最後の章で、高野氏が学生時代にインドを旅していたとき、貴重品を含めた荷物全てを盗まれた、衝撃の体験が語られています。現地で知り合った人物に騙され、一文無しになった彼は、貧しいインド人一家のアパートに居候しながら、警察や銀行、航空会社、日本大使館などを歩いて回り、何とかトラブルを克服して、無事帰国に漕ぎつけました。
突然の思いがけない事件によって、何としてでも自分の意思を伝えなければ、生き延びることさえままならない状況に追い込まれた彼は、周囲の人々と無我夢中でコミュニケーションを図ったのですが、そのおかげか、それまで全然話せなかったはずの英語が、いつの間にか上達していたというのです。
私自身は、旅でそこまでせっぱ詰まった体験がないので、かりに自分が同じ状況に置かれたら、高野氏と同じように死にもの狂いで問題解決に奔走できるか自信がないのですが、そういう体験を通じて英語力がアップするという点については、何となく分かるような気がします。
ところで、世間一般では、英語や他の外国語がしゃべれないと、海外での一人旅は難しいと思われているようですが、実際には、ガイドブックやインターネットで旅先の情報を調べ、ツーリストの立ち回るようなエリアで観光している限り、ほんのカタコトの英語程度でも、なんとか旅はできてしまうものです。
たしかに、いわゆる開発途上国では、旅行者向けのインフラがきちんと整備されているわけではないし、日本のスーパーやコンビニのような便利な店も、ちゃんとしたメニューのある食堂もないことが多いので、慣れない旅人は、買い物や食事に手間どることもあるかもしれません。しかし、そういう場合でも、欲しいものを指でさしたり、絵に描いたり、ジェスチャーをしたりと、言葉以外の方法を駆使すれば、言いたいことを相手に伝えるのはそれほど難しくありません。
そんなわけで、カタコトの英語しか話せない私も、アジアの国々を旅していて、ほとんど不自由を感じませんでした。まあ、その反面、あちこち旅したわりには、英会話がちっとも上達しなかったし、現地の言葉もちゃんと覚えないで済ませてしまったわけですが……。
ただ、旅人が重大なトラブルに巻き込まれ、絶体絶命のピンチに陥ったようなときには、自分の語学力のなさや、日頃の努力不足を痛感させられることになります。
それでも、言葉の通じない異国で病に倒れ、一刻も早く自分の病状を伝えなければならないとき、あるいは、インドで一文無しになった高野氏のように、自分の生き残りを賭けて、難しい交渉ごとを次々にこなす必要に迫られたときには、自分の英語力ではきっと通じないからと、誰かに話すのを恥ずかしがったり、聞き取れない相手の英語に、適当に相づちを打ったりしているわけにはいきません。
そういう切実なときには、文法がどうだとか、発音がみっともないとか、そんなことを気にしている余地などないし、伝わろうが伝わるまいが、とにかく自分の知っている限りの単語を並べて、言いたいことが相手に伝わるまで、あきらめずに何度でも話してみるしかないのです。
そういう、自分の能力以上のものをフル稼働させるようなギリギリのコミュニケーションをしているときには、すべての瞬間が、自分の壁を乗り越える貴重な学びにつながっているわけで、その結果として英語力がアップするのは、全然「不思議なこと」ではないのかもしれません。
そしてそれは、使いこなせる単語や言い回しが増えたというよりはむしろ、言いたいことをシンプルに誤解なく相手と伝え合うという、コミュニケーションの本質を会得することによって、英語による「会話力」がものすごく上がったということなのだろうと思います。
逆に言えば、私の英語がいつまでたっても上達しないのは、結局のところ、英語でどうしても伝えたいことがないから、つまり、英語を話す人たちと、命がけでコミュニケーションするほどの必要に迫られたことがないからなのかもしれません……。
それにしても、切実さが何かを上達させるというのは、言語の習得に限ったことではないように思います。
危機的な状況に置かれたとき、人間はものごとの優先順位をいったん白紙に戻して、本当に大事な問題だけに神経を集中し、それを解決するために全力を傾けるはずです。そして、そのとき何が重要で、何をすればよいのか、(今ここにいる自分以外にそれをやる人間はいないと自覚している)当事者の目には、迷いようのないほどにはっきりと見えてくるのではないでしょうか。
危機的な状況は、身の破滅につながりかねない危険と隣り合わせですが、それと同時に、深い学びにつながる絶好のチャンスでもあります。
もちろん、英語を身につけたいからといって、あえてインドで無一文になる必要はありませんが……。
JUGEMテーマ:旅行
2011.03.07 Monday
旅の名言 「そして、私は自力で……」
たとえば、旅をしていて、誰かと知り合う。そう、外国を旅していて外国人に「家に来ないか」と誘われたとしようか。さあ、そのときどうするか。
ひとつは、絶対にそんなことを言う奴は悪い奴に決まっている、きっと悪巧みをめぐらしているに違いないと判断してついていかない。もうひとつは、人はすごく親切なものだし、せっかくの機会なのだからと喜んでついていく。その二つとも旅行者の態度としてありうると思う。
私だったらどう考えるかというと、世の中には基本的に親切な人が多いし、そんなに悪い奴というのはいないと思う。しかし、同時に、悪い奴はきっといるとも思う。そう考える私は、どこまで行ったら自分は元の場所に戻れなくなる可能性があるかという「距離」を測ることになる。そして、私は自力でリカバリーできるギリギリのところまでついていくと思うのだ。もしかしたらそれは相手の家の庭先までかもしれないし、居間までかもしれない。もし女性だったら、ニ階の部屋まで入ったら、もう戻れないかもしれない。要するに自分の力とその状況を比較検討し、どこまで行ったなら元の所には戻れなくなるかを判断するのだ。そういうことを何度か繰り返していると、旅をしているうちにその「距離」が少しずつ長く伸びていくようになる。
『旅する力 ― 深夜特急ノート』 沢木 耕太郎 新潮社 より
この本の紹介記事
旅行記の名作『深夜特急』の著者である沢木耕太郎氏が、旅をテーマに自らの半生を振り返るエッセイ、『旅する力』からの引用です。
旅においては、未知の人々との出会いやハプニングなど、予想のつかない出来事が日常生活よりもはるかに頻繁に起こります。
そうした先の読めない新鮮な展開は、旅の大いなる魅力ではあるのですが、その反面、それは場合によっては旅人を危険にさらし、取り返しのつかない深刻な結果を招くこともないわけではありません。
旅人の中には、危険を避け、安心・安全な旅を楽しむために、知らない人間からの誘いや、旅の予定を乱しそうな物事は、とりあえず全てシャットアウトしてしまうという人もいるだろうし、反対に、考えられる危険よりも未知の展開のワクワク感を大事にして、旅先での流れやハプニングに積極的に乗っていくという人もいるでしょう。
現実には、旅人それぞれが自分なりの判断基準を設けて、その両極端の間のどこかで行動を選択しているのだと思いますが、それに関して沢木氏は、「どこまで行ったら自分は元の場所に戻れなくなる可能性があるか」という、非常に興味深い基準を示しています。
それに似た意味で、ポイント・オブ・ノー・リターン(帰還不能限界点)という言葉があります。航空機が目的地に向かって飛行するとき、あるいは、探検隊が補給のきかない極地を踏破するようなとき、これ以上進めば、燃料や食糧不足で出発地点には引き返せなくなるという限界点を意味しています。
その点の手前までは、いつでも引き返すという判断をすることができる、つまりある種の保険がかかった状態で行動することができますが、その点を越えてしまうと、引き返すという選択肢はなくなります。つまり、その先で何が起きようと、とにかく目的地に向かって進み続けるしかなくなるのです。
普通の人間の普通の旅には、そのようなリスクに満ちた行程というのはまずあり得ないと思います。ただ、沢木氏の言うように、自分の力で状況をリカバリーできるかできないかという観点から、旅先での一つひとつの行動を見てみれば、旅人の能力や状況に応じて、そういう限界点は意外に多く存在するのではないでしょうか。
例えば、冒頭の引用のように、旅先で知り合った人に家に来ないかと誘われたとき、車で送ってあげようと言われたとき、あるいは、会ってすぐに食べ物や飲み物を勧められたとき……。
たいていの場合、こうしたケースで相手の申し出をそのまま受け入れたとしても、たぶん変なことは何も起きないでしょう。むしろ、旅のいい思い出になったり、相手と意気投合して、旅がさらに面白い展開を見せたりするかもしれません。しかし、そうはならず、そのとき深く考えずに申し出を受けてしまったことを、後々まで非常に後悔することになる可能性もあります。
この場合の限界点とは、一度そこを超えてしまったら、自分の力だけではその場の状況や相手の行動をコントロールすることができなくなる、ギリギリのポイントやタイミングを意味しています。旅人本人がそれを自覚しているかいないかはともかく、その先に足を踏み入れると、相手の出方や状況がその後の出来事の主導権を握ることになり、そこで自分のできることは限られてしまいます。
主導権がなくなるからといって、必ずしも悪いことばかりが起こるわけではないのですが、重要なのは、そこでは自分は基本的に無力で、事態がどんな方向に向かおうと、自分は出来事の流れに身をゆだねるしかなくなるということです。
沢木氏は、「私は自力でリカバリーできるギリギリのところまでついていく」と言っています。その意味するところはたぶん、その限界点に達するまでの間に、あらゆる感覚を働かせて状況を見極め、引き返すべきか、そのまま進むべきかを決断するということなのでしょう。
もちろん、ときには覚悟を決めて、帰還不能限界点の向こう側へ足を踏み出すことも必要だろうし、それによって、旅に新しい展開が開けることもあるでしょう。しかし、限界点を一度越えてしまったら、どんな結果が起きようと、旅人はそれを引き受けなければならないということは自覚しておく必要があります。
旅に慣れないうちは、そうした限界点が身の周りのあちこちに出現するし、しかも、その限界点までの「距離」が短いので、その先に進むべきかという判断の最終リミットがすぐにやってきてしまいます。
その短い時間の中で、また、心にも十分な余裕のない中で、これまでの少ない経験と、旅人としてまだまだおぼつかない感覚をフル稼働させて最終的な決断をしなければならないとなると、その判断はかなり難しいでしょう。
そう考えると、最初のうちは、自分の限界点がどのあたりにあるのか、まずはその見極めをしていくことの方が大事で、あえてあちこちで限界点を踏み越えて、自分を大きなリスクにさらすべきではないのかもしれません。
沢木氏の言うように、旅をしているうちにその「距離」は少しずつ伸び、経験を積み、感覚もだんだん研ぎ澄まされてきて、最終的な判断に至るまでの心の中のプロセスも、ある程度自覚できるようになるはずです。ちょっとした冒険をするのは、それからでも遅くはありません。
これ以上進めばどんなリスクがあるか自分には見えているだろうか、そのリスクにあえて身をゆだねるだけの動機が自分にはあるだろうか、そして、限界点に達するまでの間に何か気になる兆候はなかっただろうか……。
実際には、ここまでいちいち理屈っぽく考えるわけではありませんが、半ば無意識にでも、こうした判断を自分の責任でできるようになれば、自分で思い描いた自由な旅に、ときには面白いハプニングも織り交ぜた、ワクワクするような旅が楽しめるようになるのではないでしょうか。
JUGEMテーマ:旅行
2011.01.20 Thursday
旅の名言 「そこでなんか僕の頭のチャンネルが……」
そこでなんか僕の頭のチャンネルが変わったんですね。ていうのは貴重品は命だと言われていたわけでしょう。それさえあれば生きていけるというものがないわけですよ。取られたら死ぬと思っていたわけだけど、死んでないんですよ。当たり前ですよね、パスポートも金も航空券も人間が生きていくうえで必要じゃないから。食べ物とかそういうのは必要だけど。生命活動を維持するのにはそれら貴重品は必要じゃないわけですよ。だからなくなっても死なないし、そうやって助けてくれる人もいる。そのときに「意外と生きていけるんだな」って思ったんですよね。
『放っておいても明日は来る』 高野秀行 本の雑誌社 より
この本の紹介記事
辺境作家の高野秀行氏が、東南アジアでユニークな人生を切り開いた人々と語り合うトーク集、『放っておいても明日は来る』からの一節です。
この本の最後で、高野氏が作家になるまでのさまざまなエピソードが語られているのですが、その中に、彼が学生時代に初めてのインドで遭遇した衝撃的な体験があります。
インドを一カ月ほど旅して、そろそろ帰国という頃、彼はカルカッタで部屋をシェアした人物に騙され、パスポートなどの貴重品を含めた荷物すべてを盗まれて一文無しになってしまいました。加えて、犯人とグルだと思われるホテルの従業員に監禁されそうになったため、彼は必死でそこを逃げ出します。
彼は、たまたま知り合いになっていたインドの小学生に助けを求めました。その少年の家族は、一家が暮らす三畳ほどのアパートに泊めてくれた上、貧しいにもかかわらず、高野氏にとても親切にしてくれました。
その後、彼はなんとかトラブルを克服して帰国まで漕ぎつけるですが、そうした一連の体験が、彼の「頭のチャンネル」を切り替えてしまうことになったのです。
旅行者なら誰でも、現金やパスポートを命のように大事にします。旅行中、万が一にもそれらをなくしたり奪われたりすることのないよう、貴重品袋に入れてみたり、カバンの底に隠してみたりと、涙ぐましいさまざまな努力をするはずです。
それもこれも、理由は簡単で、勝手も分からぬ異国の地で、それらの大事な品々を失うことにでもなったら、その後どんなひどいことになるか、見当もつかないと思うからです。
しかし、旅行者のごく一部とはいえ、その「万が一」が、実際にその身に起きてしまう人がいます。
高野氏もその一人でした。そして、その最悪の事態に見舞われたとき、彼は意外なことに気がついたのでした。
「取られたら死ぬと思っていた」ほどのものを奪われたにもかかわらず、それでも自分は無事に生きているばかりか、周りの人の思いがけない親切や自分自身の機転のおかげで、事態は少しずつ前向きな方向に動き始めるのです。
彼は、自らの体験を通じて、たとえ重大なトラブルに巻き込まれても、人間、「意外と生きていけるんだな」と思うようになりました。そして、結局のところ、パスポートや現金などというものは、人間の生命活動そのもののレベルとは別の、人間同士の約束事の世界に属するものに過ぎないのだということを、実感をもって認識してしまったのでした。
一時的にせよ、無一文で異国に放り出されるというのは非常にショッキングな体験ですが、それによって高野氏は、この世界で生きていくことに対して、突き抜けた認識を得たのではないでしょうか。
私の場合は、そういう経験をしたことがないので、このあたりはただ頭の中で想像することしかできないのですが、それは、自分が立っている地面がいきなり崩れたと思ったら、実はその下にも世界が広がっていて、そこから今までの世界を見上げてみたら、全く違った風景が見えてきたという感じなのかもしれません。
そしてそれは、実際にトラブルを克服して何とか帰国できたという結果以上に、彼の「頭のチャンネル」をガラリと切り替え、生き方を大きく変えるような意味とインパクトがあったのではないかと思います。
ただし、言うまでもないことかもしれませんが、旅先での大きなトラブルは、常にそうした深い体験を旅人にもたらしてくれるとは限りません。
高野氏の場合は、インドで無一文になったことが、世界と自分に対する新しい認識のきっかけをもたらしてくれましたが、似たような体験をしても、人によってはそれはまさに究極の恐怖体験であり、人間不信への引き金であり、二度と思い出したくない、大きな心の傷になるだけで終わるかもしれません。
私も、旅先での思いがけないトラブルが、何かの拍子に旅人の「頭のチャンネル」を切り替え、その世界観や人生観をポジティブに変えていくということは十分にあり得ると思っているのですが、だからといって、あえて自分もインドで一文無しになってみようとはさすがに思いません……。
JUGEMテーマ:旅行
2010.08.23 Monday
旅の名言 「旅先でちょっとしたトラブルに……」
旅先でちょっとしたトラブルに巻き込まれるなどしたとき、その国の人々が歓迎のキスをしてくれたのだと思うことにしている。トラブルはマイナス面ばかりではなくその旅を活性化する場合もあるからだ。のっぺりとした日常が続いたときなど活を入れるという意味で、逆にちょっと危ない橋を渡ってみるということもある。
たとえば韓国釜山の郊外に観光客を騙すことでその名を馳せている飲食街に一人で繰り出し、ひとつマナイタの鯉となってみるか、との趣向を凝らしたあの日も、在韓三週間を過ぎ、なにも起こらない日常の中で旅が精気を失いつつあると自覚しはじめた時期のことだった。
『ショットガンと女』 藤原 新也 集英社インターナショナル より
この本の紹介記事
インド旅行記の名作『印度放浪』をはじめ、さまざまな話題作で知られる写真家の藤原新也氏の旅のエッセイ集、『ショットガンと女』からの名言です。
旅先でトラブルに巻き込まれても、それを異国の人々からの「歓迎のキス」だと受け止めてしまえるあたり、ちょっと常人には及びもつかない感覚です。
旅をしていると、日常生活とは違って、予想もしなかったようなトラブルに遭遇することが多々あります。
それは、自分のミスや無知からくることもあれば、旅先の人々とのコミュニケーション・ギャップが原因になることもあるでしょう。もちろん、あちこちを移動したり、慣れない食べ物を口にしたり、解放感や高揚感など、ふだんと違う精神状態になることによって、さまざまなリスクが高まるのもトラブルの要因になるでしょう。
それに加えて、言葉も習慣もわからない海外を、しかも個人旅行のスタイルで旅するような場合、旅先でトラブルに遭う可能性はさらに高まります。
まあ、旅のトラブルというのは、被害がそれほどでもなければ、後日、それを旅の武勇伝として、他の人に笑って語ることもできるのですが、その一方で、深刻な事故や犯罪に巻き込まれる可能性も皆無ではありません。万が一そんな状況に陥れば、さすがに笑い話では済まなくなります。
当然、ほとんどの人は旅先でトラブルになど遭いたくないと思っているはずだし、だからこそ多くの人は、問題なく快適に旅をするためのサービスにカネを惜しまないのです。
そして逆に、たとえ一人で異国に置き去りにされても、問題なく快適に旅を続けられるような人、つまり、トラブルに遭遇しても、それをどうやって最小限の被害で切り抜けるか、その方法を熟知し、確実に実行できるような人間を、ふつう、旅の達人とか、老練な旅人と呼ぶのでしょう。
しかし、旅人の中には、トラブルをあえて求めるような人間もいるようです。
先ほどの藤原新也氏など、トラブルは異国の人々からの「歓迎のキス」なのだとうそぶいていますが、ここまで大胆に言い切れるのは、やはり豊富な旅の経験からくる余裕と、ひとりでも状況を乗り切れる自信、そして旅の本質に関する深い洞察があってのことだと思います。
そのうえ彼は、自分の旅を活性化させるために、ときには「危ない橋」さえ渡ってみるのだと言います。もっとも、そこまでいくと、人々から「歓迎のキス」をもらうというより、強引にキスを奪いにいくという感じがしなくもありませんが……。
言うまでもないことですが、私はヘタレなので、旅先でわざわざ「マナイタの鯉」になりに行く勇気などありません。というより、それ以前の問題として、何かトラブルに巻き込まれたとき、それを人々からの「歓迎のキス」だとうそぶいてみせる心の余裕もありません。
もっとも、いつの日か、もう少し旅人として経験を積んだとき、誰か旅の初心者をつかまえて、そんなことをカッコよく語ってみたいという気が全くないわけではありませんが……。
ちなみに藤原氏は、釜山郊外のそのいわくつきの飲食街に出かけ、その中の一軒で食事をして予想通りトラブルに巻き込まれ、店の主人に恫喝されます。そして藤原氏は、その場のヒラメキで危機的な状況をまんまと切り抜け、「のっぺりとした日常」だった彼の旅には、めでたく旅の精気がよみがえるという展開になるのですが、それがどんな武勇伝だったかは、ぜひ本文でお楽しみください……。
それと、蛇足ではありますが、こういう旅はもちろん藤原氏だからできることで、ふつうの旅人が軽々しくマネできるものではないし、私もオススメしません。
トラブルは、旅を活性化させることもありますが、そうならない場合も多々あります。下手をすれば、人生そのもののゲームオーバーを迎えることにもなりかねません。旅人の皆様は、どうぞ十分に気をつけてください。
とはいえ、旅先で不本意にも何らかのトラブルに巻き込まれ、そのあまりの惨めさに心が落ち込んでしまうようなときは、そしてその傷が、とりあえず致命的なものではなさそうなときには、あえて視点を変えて、藤原氏のように、その国の人々が自分に熱烈な「歓迎のキス」をしてくれたのだと考えてみるのも悪くないかもしれません……。
JUGEMテーマ:旅行
2009.03.28 Saturday
旅の名言 「人を疑うことで……」
私の周りでも、彼らの笑顔と親切を真に受けて被害に遭った人は多い。したがってインドを旅するとき、「人を見たら泥棒と思え」という諺を意識しないわけにはいかなかった。笑顔を疑い、親切を辞退することによって私は被害に遭わずにすんだが、そのかわりリスクも大きかった。人を疑うことで自分が傷ついたのである。
私は、貧しい人たちから手間賃さえ出ない値段で物を買おうとして周囲のインド人に諌められたことがあったし、心からの親切を下心のある行為にちがいないと疑って相手を邪慳に扱ったこともあった。あとで事実を知って自己嫌悪に陥ったこともあった。それらは私の悪意だけで生み出されたものであり、したがって鉛を飲んだように重苦しい慚愧の思いが澱のように残ったが、そのような体験をとおして私は、インドには高潔な人々が日本よりもたくさんおり、清らかな人生を求める文化が今なお息づいていることを知ったのである。
『21世紀のインド人 ― カーストvs世界経済』 山田 和 平凡社 より
この本の紹介記事
インドという異文化と付き合っていくことの難しさを、歯に衣着せず正面から描いた、山田和氏の著作からの一節です。
この本には、海千山千のインド商人と取引するビジネスマンや、インドで暮らす外国人駐在員、そして山田氏自身が旅先で体験した、仰天するようなエピソードが満載されていますが、それらは私たちが気軽にカルチャー・ショックと呼ぶようなレベルを超えています。
インドを旅したことがあり、インド的世界にはそれなりに慣れているつもりの私でも、この本を読んだときには何度もため息が出ました。人によっては、この本を読み進めるうちに、インドでのビジネスはおろか、旅することすら恐ろしくなってしまうかもしれません。
ただ、山田氏は決してインドを貶めるためにこの本を書いたのではありません。これまで何十年にもわたってインドと付き合ってきて、インドを心から愛する山田氏が、後に続くであろう多くの日本人に向けて、無用な誤解や苦労を少しでも減らすことができるよう、親切で得がたいアドバイスをしてくれているのだととらえるべきなのでしょう。
また、この本に書かれている内容は、仕事でインドと関わるビジネスマンだけでなく、インドを旅する人にとっても有益だと思います。
ただ、インドについて、そのネガティブな側面や、「不良インド人」の行動パターンをあらかじめ知っておくことは、旅人の危機管理上、非常に役立つことは間違いないのですが、一方で、そうした知識が頭の中にあると、インド人に対して始めから身構えてしまいがちになるし、実際に旅先で似たような事例に遭遇すれば、なおさら警戒心を強めてしまうのも確かです。
もっとも、これはインドに限った話ではなく、自分にとって見知らぬ土地を旅するときには、多かれ少なかれあてはまることなのでしょうが……。
安全に旅をすることは、旅人として何よりも優先されるべきポイントですが、その一方で、必要以上に警戒しすぎれば、思いがけない出会いや、旅の面白い展開から自分を遠ざけてしまうことにもなります。旅の無事ばかりを考えて、24時間危機管理に専念していたのでは、何のために旅をするのか分からなくなってしまいます。
旅人がどこまで自分をオープンにし、どこまで慎重になるか、そのちょうどいいバランスは、山田氏のように何度も傷つき、苦い経験をしながら、少しずつ体得していくしかないような気がします。現実問題として、すべての人を信じることなどできないし、信じて被害に遭うリスクの大きさを考えれば、見知らぬ人の笑顔と親切が、心からの親切なのか、それとも下心なのか、自信をもって判断できないときには、それを敬遠するしかないからです。
しかし、そういう判断力を磨いていく経験は、なかなか日本ではできないことだし、そうした判断力をしっかり培うことで、初めて見えてくる世界もあるのだろうと思います。そう思えば、インドのような混沌とした異世界に飛び込んで行くことにも、それなりの意味があるのではないでしょうか。
でもまあ、インドと長い付き合いを続けられるかどうかは、結局のところ、理屈を超えた好き嫌いの問題なのでしょう。インドの「何か」にとり憑かれてしまった旅人は、周りが何と言おうと、どんなにインドに苦労させられようと、嬉々としてインドに通いつめるものです……。
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2008.01.24 Thursday
旅の名言 「なんでまたひとりで……」
「なんでまたひとりで旅するの?」ともよく聞かれるけど、それはひとり旅の方が安全だと思うからだ。例えばふたりで行動していると、人に声をかけられても、つい「きっとこの人、いい人だよー」「ウン、いい人そうだもんねー」なんていうふうに、不安や恐怖をふたりで半分に分かち合ってしまうから、人を見る目や判断力が鈍る気がする。
『ガンジス河でバタフライ』 たかの てるこ 幻冬舎文庫 より
この本の紹介記事
有給休暇で世界をさすらうOL、たかのてるこ氏のハイテンションな旅行記『ガンジス河でバタフライ』からの引用です。
彼女は本の中で、自らのことを小心者と称しているのですが、実際には、彼女の旅のスタイルは非常に大胆です。女性のひとり旅というだけでなく、ガイドブックも持たず、旅のスケジュールも立てないのです。
現地の人々との出会いや出来事の流れに導かれるようにして、行き当たりばったりの「体当たり系」の旅を続けていくそのやり方は、ある意味では非常に旅らしい旅とも言えるのですが、それはまた危険と隣り合わせの行為でもあります。
しかし、彼女の旅行記を読んでいると、その一見無謀な旅のスタイルも、単に無邪気に危険な旅を楽しんでいるというわけではなく、彼女なりの冷静な計算に基づいたやり方であることが分かります。
例えば、「ひとり旅」という点に関しても、世間一般の常識では、二人以上のグループ旅行よりも危険に違いないと考えてしまいがちですが、むしろ彼女には「ひとり旅の方が安全だ」という確信があるようです。
確かに、旅に道連れがいるということは非常に心強いことではありますが、精神的に互いを頼ってしまうという側面もあります。何かあっても二人いれば何とかなるだろうとたかをくくり、不用意に危険に足を踏み入れてしまうこともないわけではありません。
その点、ひとり旅だと、頼れるのは自分の感覚と判断力だけです。自らの安全については一瞬たりとも人任せにはできないし、何かあっても、相棒などの他の人のせいにすることはできません。だから旅の間、絶えず感覚を研ぎ澄まして現実に向き合わざるをえないのですが、そうした緊張感を保ち続けることが、結果としてむしろ旅の安全にもつながるのかもしれません。
しかし、そうはいっても、これは口で言うのは簡単ですが、実際に行うのは至難の技です。
日頃の仕事のストレスから解放され、海外のリゾートでゆっくり骨休めするために旅に出るような人なら、そもそもそんな緊張に満ちた旅なんかしたくないだろうし、たかの氏のような風まかせの旅にあこがれて日本を飛び出す人でも、いきなり何もかも自分で判断しなければならないとなったら、ヒヤリとする体験や失敗の連続で、パニックに陥ってしまうかもしれません。
実際には、自分の実力をわきまえたうえで、必要なら旅の道連れやガイドを求めたり、ガイドブックを持参したりするところから始め、ある程度慣れてきたところで、徐々に旅の自由度を上げていくのが現実的なやり方なのでしょう。
それにしても、たかの氏が、行き当たりばったりの自由な旅を楽しめるのは、自分自身の「人を見る目や判断力」を心の底から信頼しているからこそなんだろうな、という気がします。逆に言えば、多くの旅人は、いざという時の自分の直感や判断力を信じきれないからこそ、旅行代理店やガイドブックのお世話になるのだとも言えるわけです。
そういう意味では、自らを信じ、世界を信じ、旅の流れに身を任せ切ることのできるたかの氏は、やっぱりスゴイ人なのだと思います。
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2007.11.08 Thursday
旅の名言 「はじめての場所に着いたら……」
ジェドはとてもがっかりした顔をした。「怠慢だな。黄金律じゃないか、はじめての場所に着いたら、なによりもまず、そこからどうやって抜けだせるかを探りだす。この三つの洞穴は、ラグーンから抜けだせる唯一の通路なんだ」
『ビーチ』 アレックス ガーランド アーティストハウス より
この本の紹介記事
バックパッカーの若者が巻き込まれる冒険と悪夢を描いた、アレックス・ガーランド氏の小説『ビーチ』からの引用です。
物語の主人公リチャードは、バンコクのカオサン通りで知り合った男から渡された地図をたよりに、サムイ島から闇ボートをチャーターし、さまざまな冒険の末に「伝説のビーチ」にたどり着きます。周囲を岩壁に囲まれ、外界から隔絶されたそのビーチでは、文明社会を逃れた欧米人バックパッカーたちが、半自給自足の共同生活を送っていました。
ビーチでの生活に慣れた頃、リチャードはある任務を実行するために、ジェドという男とペアを組むことになります。二人はビーチからいったん出るために、岩壁の中にある洞穴へと向かうのですが、リチャードはその存在を知りませんでした。
冒頭の引用は、そんなリチャードの「怠慢」をジェドがやんわりとたしなめるシーンです。
「はじめての場所に着いたら、なによりもまず、そこからどうやって抜けだせるかを探りだす」
私は、これが旅人にとっての「黄金律」なのかどうかは知りませんが、少なくとも、ある程度の危険をともなう旅をしている者にとっては、鉄則といえるのではないでしょうか。
新しい国、新しい町、新しい宿など、自分にとって見知らぬ場所にたどり着いたとき、すぐに警戒を解いてリラックスしてしまう前に、その場所の状況をすばやく観察し、できればそこからの脱出方法まで確認しておく……。
もちろん、あまり大げさにそれを実行していたら、旅が楽しくなくなるばかりか、はた目にもスパイ映画やホラー映画の見すぎかと思われてしまうでしょう。でも、旅慣れた人間なら、誰もがほとんど無意識のうちに、似たようなことを実行しているはずです。
それは、旅を続けていくうちに自然に身につく、ちょっとした危険回避のテクニックだからです。
そのポイントは、常に先を読んで、考えられるトラブルの芽を摘んでおき、いざという時でも出口のない状況に追い込まれないように、あらかじめいくつかの選択肢(出口)を用意しておくことにあります。
例えば、メニューのない食堂では、食べた後でとんでもない値段を吹っかけられないように、食べる前にさりげなく値段を聞いておくとか、新しい町にはできるだけ暗くなる前に着いて、治安の悪い地域や怪しげな宿を避け、それとなく周囲の環境もチェックしておくというのは旅人の鉄則です。
バスや鉄道の本数が限られているような地域では、町に着いた時点で、そこから出るバスや鉄道の時刻を確認し、必要ならその場で予約をしておきます。それを怠ると、何もない、居心地の悪い町で、何日も待ちぼうけをすることになりかねません。
また、どこの国でも、旅行者が滞在できる日数は限られています。空路で出国するつもりならフライトスケジュールを確認し、チケットの購入や予約のことを考えておく必要があるし、陸路で出国するなら、大使館や領事館のある大都市で次の国のビザを取るだけでなく、国境の町まで何日かかるか、そこまでどういうルートで旅をするのがよいか、あらかじめだいたいの見積もりを頭に入れておく必要があるでしょう。
風まかせの自由な旅人でも、こんなふうに、あらかじめ必要な手は打っておかなければならないし、刻々と変わる状況の中で、「次の一手」をいつも頭の片隅に入れておく必要があるのです。
自分の意志で、いつでも、どんな選択でもできるところが自由な旅の魅力ですが、それはすべてを成り行き任せにするということではありません。
いざという時を含めて、何らかの行動を迫られたときに、その時点で選択肢をどれだけ豊富に持てるかが、サバイバルにとっては決定的に重要になりますが、それは旅人の経験と注意力、情報収集能力にかかっているのです。
ちょっとオヤジの説教じみてしまいました。まあ、私自身の旅を謙虚に振り返ってみれば、人に対してこんなに偉そうなことは言えないのですが……。
2007.09.13 Thursday
旅の名言 「途方に暮れた状態から……」
しかし、さて……と小さく声に出してみると、体の奥の方から喜びに似たものが湧き起こってくるように感じられる。私は、自分が途方に暮れたことが嬉しくてならなかったのだ。途方に暮れた状態からどのように脱していくか。私にとって、異国を旅することの醍醐味のひとつがそこにある。
『一号線を北上せよ<ヴェトナム街道編>』 沢木 耕太郎 講談社文庫 より
この本の紹介記事
『深夜特急』の著者、沢木耕太郎氏の紀行エッセイ『一号線を北上せよ』からの引用です。
パリのドゴール空港に到着した沢木氏は、銀行のストのために両替ができないというトラブルに見舞われました。外国人旅行者に一方的な不便を強いる両替所のストライキなど、日本では考えられないようなケースですが、それはともかく、現地通貨を持っていなければ空港から移動することができません。
普通の旅行者ならパニックになるか、困惑して立ち往生してしまうところですが、沢木氏の場合は、こんなとき、「体の奥の方から喜びに似たものが湧き起こってくるように感じられる」のです。
これは結局、旅に対する姿勢の違いからくるのでしょう。
ビジネスのための出張やパックツアーなど、目的やスケジュールのはっきりとした旅をする人にとっては、できる限りトラブルを避け、平穏無事に予定通りの旅を続けることが重要です。両替ができずに立ち往生するなどということは、「あってはならないこと」であり、たとえそのような事態になっても滞りなく旅が続けられるように、会社の現地支店や旅行代理店などがさまざまなバックアップをすることになるでしょう。
一方、沢木氏のような旅人は、そのようなトラブルをこそ期待しているようなところがあります。ただし、両替ができないくらいのアクシデントならまだ軽い方で、旅ではもっと深刻なトラブルも起こり得るのですが。
言葉も十分に通じず、組織のバックアップもない環境で、途方に暮れるような状況に追い込まれたとき、自分はそれをどう感じ、どうリアクションしていくのか、そしてそこからどうやって自らの行動の自由を取り戻していくのか。沢木氏の言葉から感じられるのは、日常を超えた状況で見出される「何か」にこそ旅の本質を感じ、旅の試練にあえて自らを投げ込むことによって、そこに旅の「醍醐味」を味わってやろうという姿勢です。
もちろん、これをやりすぎれば命にかかわるような旅になりかねないし、『深夜特急』には、道を踏み外して旅に斃れる若者のエピソードも出てきます。しかし、沢木氏は何度も旅を繰り返す中で、その辺りの呼吸というか、バランスを見失わないコツを十分に心得ているのでしょう。
「途方に暮れた状態からどのように脱していくか。私にとって、異国を旅することの醍醐味のひとつがそこにある」とは、実にカッコイイ言葉です。カッコイイのですが、これはそれなりの経験とバランス感覚の裏づけがあってこその言葉でもあるということは知っておいた方がいいと思います。
2007.05.10 Thursday
旅の名言 「気をつけて、でも……」
いつも言うことなのですが、もし近々旅に出る人がいるとすれば気をつけて行ってきてください。気をつけて、でも恐れずに、です。
『天涯〈3〉花は揺れ闇は輝き』 沢木 耕太郎 集英社文庫 より
この本の紹介記事
沢木耕太郎氏による旅の写真集『天涯』文庫版第3巻からの引用です。
冒頭に挙げたのは、沢木氏が講演の最後で聴衆に贈った言葉ですが、「いつも言うことなのですが」とあるので、沢木氏はこれから旅立とうとしている人にはいつも同じ言葉をかけているのでしょう。
「気をつけて、でも恐れずに」
一見シンプルですが、旅について深く思いをめぐらし、旅の本質を知る沢木氏ならではの言葉であり、旅人へのアドバイスとしても、正確に的を射ていると思います。「気をつけて」だけならごく普通のあいさつですが、「でも恐れずに」というところに深い味わいを感じます。
『天涯』の同じ巻の中に、「旅の価値をなすもの、それは恐怖だ」という、アルベール・カミュの名言が引用されています。
私に、そこに込められた深い意味を説明できるだけの資格があるとは思えませんが、それを承知で自分なりの理解をあえて書けば、こんな感じになります。
私たちは、日常生活において、生まれたときから慣れ親しんだ言葉や、生活習慣や、身近な人間関係によって織り上げられた世界と深い一体感を感じており、それは空気のように自然で、そこでは自分と世界との関係を意識するような機会はほとんどありません。なじみ深い世界は、自分が「いつもの自分」であるという感覚を維持し、居心地よく感じさせてくれるものですが、時には閉塞感をもたらすこともあります。
しかし、旅、特に外国に行くということは、(もちろん旅人によって旅の目的は様々ですが、どんな旅でも共通して、)そうした居心地のいい世界から、一時的にせよ自分の身を引き剥がすことです。
旅に出た瞬間は、自分を閉じ込めていた鬱陶しいものから解き放たれ、何か広々とした世界に出たような解放感を感じる人もいるでしょう。しかし、その感覚が長続きすることはなく、自分にとって未知で異質な世界に身を置いているうちに、やがて漠然とした不安や恐怖を感じ始めるものです。
敏感な人なら、旅に出る前からそれを感じるだろうし、だから外国に行くのが嫌だという人もいるかもしれません。仕事や観光で旅に出た人でも、ずっと外国語ばかりを使っていたり、生活習慣の違う人々の間で生活していると、自分がボロボロと崩れていくような、自分という感覚が失われてしまうような恐怖を感じることがあります。また、自分を守ってくれるものが何もないように感じ、ささいな出来事に対しても非常に傷つきやすくなり、そんな時は自分が一人ぼっちで無防備であるように感じたりします。
しかし、カミュは、むしろそこに旅の価値を見出しているようです。
それはまごうかたなき旅の収穫だ。そんなときには、ぼくらは熱っぽく、だが多孔質になる。どんなに小さな衝撃にも体の奥底まで揺すられてしまう。滝のような光に遭遇すると、そこに永遠が出現する。それだから、楽しみのために旅をするなどといってはいけない。旅をすることに喜びなどありはしない。ぼくなら、むしろそこに、苦行を見出すだろう。永遠の感覚というぼくらのもっとも内奥にある感覚を研ぎ澄ますことを教養というなら、旅をするのは自分の教養を広げるためだ。パスカルの気晴らしが彼を神から遠ざけるのと同じように、喜びはぼくらを自分自身から遠ざける。一つのより大きな、より深甚な知恵としての旅は、ぼくらを自分自身に連れ戻してくれる。
『カミュの手帖』大久保敏彦訳 より (『天涯』からの再引用)
日常感覚のレベルで「いつもの自分」を作り上げていたものが失われ、自分が隙間だらけで無防備になってしまったと感じる時、同時に、今まで自分でも気がつかなかった「何か」が、自分の内奥に感じられるようになります。カミュはそれを「永遠の感覚」と呼び、旅がその感覚を研ぎ澄ますのだといいます。そしてそれが「いつもの自分」を超えて、私たちをもっと大きな「自分自身」に連れ戻してくれるのです。
そういう意味で、カミュにとって、旅とは「自分自身」に立ち戻るための「苦行」であり、そのプロセスでどうしても直面せざるを得ない「恐怖」と向き合うことこそ、旅の収穫だということになります。
そして、もし彼の考え方に従うなら、「恐怖」から逃れようとして、旅人が何らかの「気晴らし」に没頭してみたり、「いつもの自分」を取り戻そうとして、自分たちの言葉や生活習慣で身の回りを固めたりするのは、せっかくの旅の意味を薄めてしまうことになります。
一方で、だからといって、「旅の価値をなすもの、それは恐怖だ」というカミュの言葉を早合点して、とにかく恐怖を味わえばいいのだと解釈し、紛争地帯や治安の悪い場所、あるいは危険な活動にあえて飛び込んで、自らを命の危険に晒すのは間違っていると私は思います。
もちろん、そうした活動に目的と使命感をもって、自らの仕事としている人がいるのも事実だし、そうした危険を生き延びられれば、自らの深淵を垣間見る貴重な体験になるかもしれないとは思いますが、それだけの覚悟のない旅人が背伸びをして、必要のない危険を背負い込むことはないと思います。
つまり、「恐怖」と向き合うことは、旅の本質的な側面ですが、あえてそれを必要以上に求めることも、あえてそれを避けることも適切ではない、ということになります。いったん旅に出てしまったら、常識的な注意を払って自分の身は自分で守る必要がありますが、それ以外は余計なことを考えてジタバタせず、旅のプロセスで起きる自然な出来事の流れに身を任せるべきだ、ということになるのではないでしょうか。
そして、それを要約すると、「気をつけて、でも恐れずに」ということになります。
ちなみに、「恐れずに」というと、「恐怖」を無視しているようにもとれますが、私としてはそれを、「恐怖」をしっかりと感じつつも、勇気を出してそれに向き合う、という意味でとらえたいと思います。
まあ、こんな風に理屈っぽく、ややこしく考えなくても、「気をつけて、でも恐れずに」という言葉をごくシンプルに受け取れば、沢木氏の言わんとするところは十分に伝わると思いますが……。
私も、自分自身に対してはもちろん、これから旅立とうとする人に会うことがあれば、沢木氏にならって、同じ言葉を贈りたいと思います。