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地球特派員たちのレポート

先日、「Astronaut.io」という、ちょっと変わったサイトがあるのを知りました。

 

「閲覧数ゼロのYouTube動画」と「宇宙」の織りなすファンタジー WIRED

 

衛星軌道から見た地球の風景をバックに、YouTube から集められた地味な映像が、次々に切り替わりながら延々と流れ続けるというものです。

 

サイトの製作者は、あえて人目をひかないような映像を選び出す工夫をしているようで、実際に見てみると、そのほとんどは、子供の発表会や何かのセレモニーの記録とか、どこにでもいそうな普通のペットの動画とか、殺風景な部屋の中での自撮りみたいな、部外者にとっては面白みのないものばかりです。

 

それに、撮影された国も、話されている言語も千差万別で、しかも10秒もしないうちにどんどん次の映像に移っていくので、そもそも何を撮っているのかさえ分からないものもけっこうあります。

 

最初のうちは、見知らぬ人の私生活を覗いてしまったような落ち着かない気持ちになりますが、そのまま映像をボーっと眺め続けていると、そういう感覚はしだいに薄れ、そのうちに、何だか切ないような、不思議な感情がじわじわと湧いてくる感じがします。

 

そしてそれは、異国でローカルバスに乗り、窓の外を流れていく路上の風景をぼんやり眺めているときの感覚に似ています。

 

ただ、サイトの製作者は、そういう漠然とした旅情みたいなものよりも、宇宙飛行士が宇宙から地球を見渡すことで、ローカルな価値観に囚われた自分をはるかに超えて、地球全体や人類に対する強い慈しみの気持ちを抱いたり、争いの虚しさに気づき、その後の意識や行動に変化が生まれるという、いわゆる「概観効果(オーバービュー・エフェクト)」のようなものを生み出すことを狙っているようです。

 

果たして、それが成功しているかどうかは、私も宇宙に行ったことがないのでよく分かりませんが……。

 

それはともかく、「Astronaut.io」を見ているうちに、ふと、それらの映像を撮影した人たちは、いや、それらに限らず、YouTube や他の動画共有サイトにアップロードされたすべての映像を撮った人たちはみな、どこからか地球に派遣された特派員で、それぞれの映像は、業務の一環として、彼らが報告すべきと感じた出来事をまとめたレポートなのかも……という妄想が浮かんできました。

 

というか、私たち人類は全員、はるかかなたのどこかの星から送り込まれたレポーターで、何らかの理由で、自分が生まれた星のことも、仕事をする上でのさまざまな知識も、レポートを上手くまとめるテクニックもすっかり忘れてしまっているものの、なぜか、気になったことを誰かに報告しなければならないという義務感だけは、ぼんやり覚えているのかもしれません。

 

そして、自分がこの地球という星の上でなんとかサバイバルし、日々の生活の中で心を惹かれたこと、記録せずにはいられなかった出来事をまとめて、どこにいるのか、誰なのかも分からない自分たちの「ボス」に向けて、自分なりのレポートを提出しようとしているのかもしれません。

 

この地球がどんな星で、この星の上で生きるとはどんな感じなのかを……。

 

そんな妄想上の設定をふまえて、あらためてネットの世界を見てみると、YouTube とか Twitter のようなサイトには、そんなレポートが絶え間なく提出され続けているわけで、自分が今、そうした膨大な報告のごくごく一部を眺めているにすぎないと思うと、何だか気が遠くなるような感じがするし、日々せっせと何かをレポートせずにはいられない私の「同僚」の特派員たちに、温かい思いが湧いてくるような気がします。

 

もっとも、特派員たちは、自分が何のためにそれをやっているのか、本当の目的が分かっているわけではないし、中には、使命を忘れるどころか、混乱のあまり、この星のあちこちで、仲間同士で命がけのケンカをしたり、レポートの内容をめぐって炎上騒ぎを起こしたりする「同僚」たちもいるわけですが……。

 

 


ところで、話は変わりますが、2006年にこのブログを始めてから、今月で11年になりました。

 

これまで、記事を読んでくださった皆様に、心よりお礼申しあげます。

 

どうもありがとうございました。

 

これからも、このブログをどうぞよろしくお願いいたします。

 

 

JUGEMテーマ:インターネット

at 19:14, 浪人, ネットの旅

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広告という罰

今、ネット上では、基本的に無料で、課金すると便利な機能が追加されたり、広告表示が消えたりする、「フリーミアム」と呼ばれるタイプのサービスが普及しています。
ウィキペディア 「フリーミアム」

 

無料という気安さから、とりあえず試しに使ってみることができるし、実際に使い続けても、基本的な機能だけならずっとタダなので、私も、このブログを含め、いくつかのサービスを何年も使わせてもらっています。

 

とはいえ、サービスによっては、やたらと表示される広告が邪魔で、ときどきイラッとすることがあるし、そもそも、私のような貧乏人にいくら広告を見せたところでムダではないかとも思います。

 

考えてみれば、カネに余裕がある、つまり、広告主にとってはお客様になる可能性の高そうな人々の方が、むしろ、課金することによって広告を目にしなくなり、逆にカネがなく、広告を見る意味のあまりない人々ばかりが延々と広告を見せられるという、本末転倒なことになっている気がしなくもありません。

 

そして、興味も意味もない広告を浴びせかけられる多くのユーザーは、それを、無料のサービスと引き換えにガマンしなければならない苦痛みたいなものと感じているのではないでしょうか。少なくとも、私の場合はそうなってしまっています。

 

もちろん、自分がいま利用しているさまざまなサービスが、広告主が負担するコストの上に成り立っていることは理解しているし、その点ではむしろありがたいとも思っているのですが、残念ながら、そういう殊勝な気持ちというのは常に維持できるものではなく、サービスに慣れ、それが日常生活の一部として当たり前のものになればなるほど、かえって広告が目ざわりで余計なものに感じられ、それらを見続けることが、何か、自分に課せられた罰みたいにさえ思えてくるのです。

 

そして、そういうネガティブな気持ちで広告と接していると、広告元の企業や商品に対しても、自分の中でどんどんマイナスのイメージが植えつけられていくような気がします。

 

もしも、私と同じように感じてしまうユーザーが他にも大勢いるなら、広告の本来の意図からすれば、完全に逆効果になってしまっているのではないでしょうか。

 

しかし、例えば民放のテレビでは、昔も今も、番組の途中で頻繁にコマーシャルが入ります。私も、昔はそれを当たり前だと感じていたし、そういう仕組みに違和感を覚えることもほとんどありませんでした。

 

それなのに、ネットの世界では、どうして広告がこんなにも邪魔に思えてしまうのでしょうか。

 

もしかすると、ネットが普及し、そこでさまざまな人々が大量の情報を発信するようになったことで、もともと広告というものがもっているいびつな側面に気づかされるようになったからかもしれません。

 

広告は、商品を売ろうとする側の都合だけに沿った情報を一方的に植え付けようとしますが、今では、ネット上のクチコミを通じて、それが商品の一面に過ぎないことを、みんなが知っています。

 

それに、一方的な情報というものの裏には、政治的な目的にせよ、イタズラ目的にせよ、何かよからぬ意図があるケースが多いものです。ネットでも、多くの人がそうした情報に踊らされたり、痛い目に遭ったりすることでそれなりに学習し、一方的な情報を目にしても、何か不自然だ、怪しい、と反射的に感じる習慣が身についているのではないでしょうか。

 

そのせいか、広告を見ていると、同じような怪しさを感じて身構えてしまうことがあるし、そこであえて触れられていないことの方が、むしろ気になってしまうのです。

 

広告主は、もちろん、そんな反応を引き起こしたいとは思ってもいないのでしょうが……。

 

いずれにしても、ネット世界の多様な視点に慣れ、一面的な情報というものに不自然さを感じるようになった人間にとって、今の広告の多くは、何かバランスを欠いた、見ていてイラッとする存在になってしまっています。

 

バランスを欠いたものを見続けるのは苦痛なので、私たちは、広告に対して意識的・無意識的にツッコミを入れることで、心のバランスを保とうとします。広告が触れようとしない、商品のネガティブな側面を想像し、クチコミサイトの辛辣なレビュアーみたいなコメントを心の中で叫ぶことで、一方的に押しつけられるバラ色のイメージを「解毒」するのです。

 

でもまあ、そんなことを続けていると、どんどん性格が悪くなってしまいそうな気がするし、いちいちそんな面倒なことをしたくない人は、広告を非表示にするツールを使ったり、課金して広告を回避したりするのでしょう。しかし、それができない人は、自分を守るために、目の前の広告にひたすらツッコミを入れ続けなければならないのです。

 

それはまさに、無料サービスを得るための、精神的な労働なのかもしれません……。

 

 

JUGEMテーマ:インターネット

at 18:54, 浪人, ネットの旅

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最強のエンターテインメント?

ここ数年、RSSリーダーでニュースやブログを読むのが毎日の習慣になり、それにあまりにも時間を食われるので、何度も情報の「断捨離」を試みながら、すぐに元の木阿弥になるというパターンを繰り返してきました。
記事 RSSリーダーの「断捨離」

自分としては、ネット上の情報をいくら追いかけたところでキリがないことも、限られた人生の時間を、端末にかじりついて過ごすのが不健全だということもよく分かっていて、だからこそ、ネットの利用時間を少しでも減らそうと、できるだけのことはやってみたつもりです。

それがことごとく失敗したのは、要するに、私が重度のネット中毒だからなのですが……。

その一方で、ネット世界の膨大な情報には、何か人間の根源的な欲求みたいなものを刺激し、解き放ち、私たちをその虜にしてしまう、「魔力」みたいなものがあるのも否定できない気がします。

そして、RSSリーダーというツールは、少なくとも私にとっては、その「魔力」を増幅する働きをしているようです。

RSSリーダーからは、24時間休むことなく、世界の大ニュースから日常レベルのほっこりする話まで、シリアスで難解な話題から笑えるネタまで、あるいは、ロジカルで説得力のある記事から真偽不明の怪しい話まで、それぞれ異なる視点や世界観・価値観に基づく多様な情報が飛び込んできます。

記事の書き手も、プロや専門家から一般の人までさまざまです。簡潔で分かりやすい文章もあれば、クセが強かったり、乱雑で誤字脱字の多い文章もあり、中には、ほとんど意味不明だったり、強い反感を覚える記事もあります。しかし、そうしたザラザラした感じや扱いにくさもまた、リアル世界の混沌とした姿を反映しているようで、そこにかえって強いリアリティを感じます。
記事 カレイドスコープ・メディアの時代?

もちろん、新聞や雑誌も、記事の書き手や内容が多彩だという点では同じだし、本を大量に読む人なら、もっと深く、もっと正確な知の世界に接することができているかもしれません。

ただ、RSSリーダーの場合、まず何よりも、ネット環境さえあれば、膨大な情報源に無料でアクセスできるところが素晴らしいし、情報源の組み合わせ方次第では、内容の多様性も新聞・雑誌とはケタ違いになります。マスメディアでは取り上げないような、非常にマイナーな分野をカバーできるので、自分の趣味や嗜好に合わせて、どこまでも情報を深掘りしていくことができるし、世間一般の価値観には収まらない、ユニークな生き方を実践する人々の声も集めることができます。

そうして、自分が何を求めているのか常に自らに問いかけながら、情報源を取捨選択する作業を繰り返していくうちに、やがて、RSSリーダーに登録した情報源のリスト自体が、現時点での自分自身の内面、つまり、自分が世界をどのようなものだと考え、どんなことに価値を見出しているのかを、少しずつ映し出すようになるのです。

もっとも、そこに至るまでには、最初の設定作業から途中の試行錯誤まで、それなりに手間と時間をかける必要があります。実際、google がRSSリーダーのサービスを2013年に終了したことでも分かるように、それはけっして万人向きのツールではないのでしょう。ここ数年で普及しつつあるニュースキュレーションアプリのように、ユーザーの好みに合いそうな記事をアルゴリズムで自動配信してくれるようなツールの方が、手っ取り早くて、ずっと実用的だと考える人も多いと思います。

しかし、RSSリーダーには、マニュアル操作の面倒さそれ自体がもたらしてくれる楽しさがあります。さまざまなジャンルの情報源を時間をかけて探し集め、一つのトピックを立体的に描き出せるように、つねに多様な視点を確保し、それらのバランスを自分好みに調整することによって、まるで自分が編集長となって、自分だけのための小さなメディアを運営しているような気分に浸ることもできるのです。

それは、別の言い方をすれば、数えきれない人々がネット上に無料で公開してくれている色とりどりのコンテンツを拾い集め、コラージュすることによって、同時代の世界を、自分なりのやり方で自由に描き出すということでもあります。

そうやって、RSSリーダーのユーザーが自ら工夫して作り上げたフィルターを通って、毎日目の前を流れていく膨大な情報は、単なる情報の寄せ集めではありません。それは、ユーザーの価値観や意図のもとに選別され、組み合わされることで生み出されたひとつの「物語」であり、この世界に対するユーザーそれぞれのオリジナルな解釈を反映した、立派な作品と呼べるものなのではないでしょうか。

そして、そうした自分なりのフィルターがいったん出来上がってしまえば、後は、流れ込んでくる情報をほとんど受け身で楽しむことができます。それはまるで、ユニークな登場人物が次から次へと登場し、各人がさまざまな立場から世界に関わり、その結果として時代の流れが少しずつ動いていくさまを、365日リアルタイムで、さまざまなアングルから描き出す大河小説のようです。

それは、過去の小説作品のように完結していないので、もちろんネタバレの心配はないし、自分が生きている現代社会そのものが題材なので、あちこちで自分自身の利害がからみ、そのたびに強い感情が巻き起こります。そういう意味では、「物語」への没入感もハンパではありません。

また、自分が気に入った人物や話題の登場部分を増やしたり、退屈な分野の描写は削ったりと、自分好みにいくらでも微調整できます。慣れてくれば、集める情報源のバランスを変えることで、全体のトーンを悲劇風にしたり、逆にコメディタッチにしたりすることも可能でしょう。

そう考えると、これは、無料で与えられるものとしては最強のエンターテインメントの一つなのかもしれません。

もっとも、リアルな人生そのものを心の底から楽しみ、日々のイベントに忙しい、いわゆる「リア充」の人々にしてみれば、そんな娯楽のために、わざわざ手間と時間を費やそうなどとは考えないでしょう。

それに、ユーザーが情報を選別することで生み出す「物語」は、そこにどんなリアリティが感じられようと、現実の世界そのものではありません。それは、ユーザーの世界観・価値観によって、大いに歪められている可能性があるし、そもそも、「物語」の材料となっている個々のニュースやブログ記事にしても、それぞれの書き手が、彼ら自身の世界観や価値観のフィルターを通して現実をとらえ、それを主観的に表現したものです。

RSSリーダーを通して見ている世界が、あくまで、よくできたエンターテインメントだと自覚しているうちは問題ないのでしょうが、中には、「物語」に感情的に巻き込まれるあまり、そのあたりを見失ってしまうユーザーもいるかもしれません。

例えば、不快な情報に触れたくないという思いがエスカレートして、情報源を、自分が共感するごく一部の視点や政治的立場だけに限定してしまえば、ユーザーはつねに同じような情報ばかりを浴び続けることになるでしょう。そうした単調な「物語」がエンターテインメントとして楽しいかどうかはともかく、毎日それを繰り返していれば、やがて、自らの視野を狭めたり、価値観の異なる人々に対して不寛容になる人も出てくるかもしれません。

そうした点で、RSSリーダーには、強力なツールであるがゆえの、大きなリスクもあるのだと思います。

それでも、RSSリーダーは、あまりにも巨大で混沌として、そのままでは個人の手には負えない情報の海を、その多様性のエッセンスはそれなりに残しつつ、ユーザー個人が飲み込めるくらいの分量にまでコンパクト化してくれます。そして、個人的な価値観を反映したフィルターを通すことで、この世界を、それなりに秩序立った、意味のある姿として見せてくれるのです。

混沌とした現実の世界を、私たちに理解可能なものとして映し出してくれるという点で、それは、使用上の危険を超えるメリットを私たちに与えてくれているのではないでしょうか。

それにしても、私はこれまでRSSリーダーの利用時間を減らすために、何度も「断捨離」を行ってきましたが、それは、いらないと感じた情報源を思い切って捨て去っては、やがてまた、新たに面白そうな情報源を見つけてつけ加えてしまうことの繰り返しでした。

しかし、改めて考えてみると、それは、この世界の「物語」にあれこれと手を加え、それをいっそう自分好みにアレンジしていく作業そのものです。その作業を繰り返すたびに、「物語」は魅力を増していくわけで、そこからますます離れがたくなるのは当然だったのかもしれません。

私は、情報の海から抜け出すつもりで、なぜか下に向かって潜り続け、その底なしの世界へいっそう深くはまり込んでいたのでした……。


JUGEMテーマ:インターネット

at 18:59, 浪人, ネットの旅

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