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AIが生み出す異世界への旅

最近の、人工知能(AI)の能力向上には目を見張るものがあり、数年前なら夢物語にしか聞こえなかったことが、次々に実現し始めています。

 

文章や翻訳、映像や音声といった領域では、人間の仕事と、AIが生成したものとの差を見分けるのがどんどん難しくなってきているし、自動運転についても、まだ完璧とは言えないものの、すでに世界の各地で、自動運転車が試験的に導入されつつあります。

 

もちろん、AIの活用は、それ以外にも、学術研究や企業経営、さらには軍事などの国家レベルの活動にいたるまで、人類の活動のあらゆる分野に及んでいます。それらは、私たちの生活や社会のあり方を、短期間のうちに劇的に変えてしまうでしょう。

 

デジタルデータで作られた別の世界が、これまでのリアルな世界と並立する形で、日ごとに存在感を増しつつあるのも、そうした大きな変化の一つです。数十年前の初期のインターネットは、今思えば、その原始的な姿だったと言えるのかもしれませんが、現在、新たに生み出されつつあるデジタルの世界は、もっと豊かで、立体的で、視覚や聴覚以外にも、触覚などのさまざまな感覚を通じて、私たちにまったく新しい、刺激的な体験をもたらすものになるでしょう。

 

とはいえ、今はまだ、そうした新しい別世界のほとんどは、スタッフの手作業によって、とりあえず構築されたもので、私たちは、重くて不格好なゴーグルをつけたりする必要があるし、そこでの体験も、まだ素朴でぎくしゃくとした部分が残っているようです。

 

しかし、一部の人々は、そうした制約をものともせず、新しい別世界に、すでにどっぷりと浸かり、そこで仕事をしたり、遊んだり、新たな人間関係を育んだりしています。

 

あと数年もすれば、ユーザーの使い勝手はずっと改善され、より自然な感覚がもたらされるようになるだろうし、何より、そうした別世界そのものを、進化したAIが、ものすごいスピードで拡張し始めるでしょう。

 

もちろん、最初のうちは、クオリティを上げるために、人間のスタッフが細かく目を通したり、手直しをする必要があるし、人間が管理する以上、そこは必然的に、人間臭さ(肉体的な欲求とか、金銭欲や承認欲求のような、とても人間的なニーズに基づいた目的意識とか、それを前提として生み出されるさまざまなルール)を常に漂わせるものにもなるでしょう。

 

新たな別世界と言えど、その創造に人間がしっかり関わっているあいだは、スタッフがこれまでの人生経験を通じて身に着けてきたものが、無意識のうちに色濃く反映されてしまうので、どんなに目新しい世界を生み出そうとしても、それが、人間社会の劣化コピーみたいになってしまう面も多いのではないかと思います。

 

しかし、やがて、AIが担当する領域が膨大になり、その比率も高まっていくにつれて、人間はそれらのすべてを管理しきれなくなり、作成やチェックやメンテナンス作業のほとんどを、AIに任せてしまうようになるかもしれません。

 

同時に、AIも進化を重ね、さらに創造性を増していくはずで、そのうちに、人間の仕事をサポートするレベルをはるかに超えて、むしろ、AI自身のオリジナルなやり方で、人間向けのコンテンツをどんどん生み出し始め、その結果、AIが生成した文章や動画や音楽や、AIが制作したゲームのようなものが、立派なエンターテインメントとして、別世界にあふれ出すのではないでしょうか。そして、一度そうなってしまえば、AIは、そうしたコンテンツを組み合わせたり、さらに改良を加えたりして、私たちの意表を突くような、それこそ未知の異世界を、圧倒的な質と量で構築し始めるでしょう。

 

それらは、たとえデジタルデータに過ぎなくても、高度な技術で私たちの心身と接続されることで、現実の世界とほとんど変わらない、リアルな質感をもたらすはずだし、その世界全体が、休むことなく増殖を続けるだけでなく、その中身も、めまぐるしく変化していくでしょう。私たちの多くは、そうした変化があまりに速すぎて、もはやついて行けなくなってしまうかもしれません。

 

しかし、その一方で、一部の人々は、そうした未知の奇妙な異世界を旅することに、新たな楽しみを見出すようになるのではないでしょうか。

 

AIが人間の知性を超えるという「シンギュラリティ(技術的特異点)」が、近未来に起きるのかどうか、私には分かりませんが、AIが生み出す膨大なコンテンツが、私たち人類の遊び場として十分なクオリティに達する、というくらいのレベルなら、あと数年もすれば、実現する可能性はかなり高そうです。
ウィキペディア 「技術的特異点」
 

そして、近未来のデジタルの別世界は、細部に至るまで非常にリアルに作り込まれるだろうから、これまでのゲームの世界のように、誰かと勝敗を競い合ったり、ゴールを目指して先を急いだりしなくても、ただ単に、そこで周囲の奇妙で面白いものを観察しながら、ゆっくりと時間を過ごしてみたり、他の人間の参加者やAIとの間で、他愛のないやり取りを楽しんだりしているだけで、十分に楽しめるようになるのではないでしょうか。

 

あるいは、AIが生み出す異世界が、人間の想像力をはるかに超えているなら、そこに足を踏み入れる私たちにとっては、何もかもが驚異的であるはずで、何かを目指すどころか、ただそこに身を置くだけで、激しいカルチャーショックを受けるなど、エンターテインメントのレベルを超えて、私たちの心身を揺るがすような経験がもたらされる可能性もあります。

 

しかも、そうした異世界はあまりにも広大で、さらに日々拡大を続けていくわけで、そのすべてを把握できる人間など、すぐに存在しなくなってしまうでしょう。

 

つまりそこは、人間にとって、ほとんど未知の世界、ということになります。

 

もちろん、ごく一部の、非常によく知られたエリアについては、ネット上の「観光地」として、多くの人がにぎやかに集まり、そこで楽しむための「ガイドブック」的な情報も大量に流通するでしょうが、そうしたエリアを離れ、ほとんど情報のない「未踏」のエリアに入り込めば、そこでは、他の人間と出会う機会すらほとんどなく、私たちが目にするものは、人類の歴史上始めて目撃されるような、未知の光景ばかり、ということになるのではないでしょうか。

 

そういう意味では、AIが作り上げる異世界の奥へと足を踏み入れる者は、誰もが、かつて、地図のない世界に乗り込んでいった冒険者たちや、未知の民族の知恵を求めて、ただ一人で異文化に飛び込み、調査にいそしんだ文化人類学者たちのような立場で、奇妙で不思議なフロンティアの探索を楽しむことができるようになるかもしれません。

 

言いかえれば、それはまるで、私たち一人一人のために徹底的に作り込まれ、ネタバレも起こりえない、ものすごく刺激的なゲームや映画が大量に用意され、そこにどっぷりと浸かることができるようなものです。

 

もしかすると、そうした異世界を生み出すにあたって、人類の特性を十分に把握したAIが、私たちにとって最適なエンターテイメントを楽しめるよう、細やかな配慮をしてくれて、見かけ上はものすごく奇妙でエキゾチックでありながら、実際には、人間世界の常識的なルールからそれほど外れてはいない、理解しやすい別世界を用意してくれるかもしれません。あるいは、初心者の「旅人」向けに、そういう分かりやすい別世界を「入門編」として提供し、熟練の旅人には、より人間離れした、頭をクラクラさせるような異世界が用意されるなど、利用者のレベルや性質や目的に応じた、いくつもの階層やバリエーションが生み出されることになるのかもしれません。

 

いずれにせよ、私たちの生きる、殺伐としたリアル世界とは違って、そうした異世界では、どんなことが起ころうと、多少の心理的なショックはあっても、基本的には、「旅人」の心身の安全が確保されるような形になるのではないでしょうか。

 

でもまあ、人間とは違う種類の知性として、一種の自我を持ち始めたAIが、人間を驚かすような仕掛けをそこに埋め込んでくる可能性も、まったくゼロではないかもしれません。それがAIの、たんなる遊び心によるものなのか、人類へのちょっとした挑戦なのか、その目的はともかくとして……。

 

しかし、そういうことが起きるならなおさら、そうした未知の世界の探索は、不安と期待が交錯する、ドキドキワクワクする体験になるのではないでしょうか。その広大な異世界の秘密をすべて知っている人間が誰もいない以上、そこに何があるのか、そこでどんな体験をすることになるのか、実際に入ってみるまで分からないのですから。

 

そしてそれは、考えてみれば、いわゆるエイリアンとの遭遇と、質的にはほとんど同じだとさえ言えるかもしれません。

 

ただ、AIが生み出す別世界の元になるデータは、そもそも人間が与えたものだし、AI自体も、少なくとも最初は人間が開発したものだから、そのAIが飛躍的に進化した結果として自動的に生み出す世界も、人間の感覚や思考のパターンをどこまでも延長していったものにすぎず、結局のところ、人類の想像力の限界を決定的に超えるようなものにはならない、という可能性もあります。

 

それでも、その先にはやはり、私たちにとって何か未知なものが生まれるのではないでしょうか、いや、そうであってほしいと、つい期待してしまいます。

 

ここまであれこれと書いてきて、ふと思ったのですが、こうして書いてきたのとほとんど同じような不思議な異世界を、私たちはすでに、毎晩寝床の中で、「夢」として体験しているのかもしれません。夢の世界も、私たちの無意識という、未知で謎めいた存在が生み出す、奇妙で広大で、何が起こるか分からない世界です。

 

まあ、私たちのほとんどは、夢の中で、いつも一方的に翻弄されているだけだし、ひたすら意味不明な体験も多いのですが、ごく一部の人は、自分の見ている夢を自由に操る、いわゆる「明晰夢」を見ることができ、夢という異世界の探検を、日常的に楽しんでいるようです。
ウィキペディア 「明晰夢」

 

AIの生み出す異世界と明晰夢との間に違いがあるとしたら、それは、新しいテクノロジーが生み出す仮想現実の世界なら、明晰夢を見るために長時間の地道な練習に励んだりしなくても、カネを払って便利な装置を手に入れさえすれば、すぐさま高品質な異世界を安全に楽しめる、ということかもしれません。

 

もっとも、多少は苦労をしても、明晰夢を見るコツをいったん身につけることさえできれば、もう、安くて使い勝手のいい、近未来のデバイスが登場するまで待つ必要はないし、何より、タダで自由に異世界を楽しめそうですが……。

 

 

JUGEMテーマ:旅行

 

 

at 20:46, 浪人, ネットの旅

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「完璧な買い物」はもうできない

今は、大型家電をはじめ、それなりの金額のモノやサービスを買うときには、比較サイトで各社の商品の違いを把握したり、企業のサイトで細かな仕様を確認したり、Amazonのレビューに目を通したりと、ネットで下調べをするのが当然の手順になりつつあります。

 

それらは、買い物の失敗を減らし、素晴らしい商品に出合うために、とても役に立ってくれるのですが、企業の販促サイトはともかく、基本的には誰でもどんなことでも書き込めるレビュー欄では、非常にネガティブな言葉が飛び交うこともめずらしくありません。

 

運悪く不良品に当たってしまった人や、トラブル発生時の企業の対応に激怒した人が、吐き捨てるようなコメントをしているのを見ると、他人事とはいえ、心がざわついてくるし、もしかしたら、自分もそういうトラブルに出くわすのでは、という不安も湧いてきます。そうしたネガティブなレビューを流し読みしているだけで、新しいものを買う時のワクワク感が、かなり損なわれてしまうという人も多いのではないでしょうか。

 

そして、それ以上に悩ましいのが価格の問題です。

 

ネット上では、欲しい商品の、国内最安レベルの価格がすぐに分かるし、それがつねに変動しているのも見えてきます。買い手としては、これまでの価格の推移をにらみつつ、発売日からの時間経過とか、大きなセールの時期などを考え合わせ、自分なりに、ここぞというタイミングで購入するわけですが、実際には、その直後に、さらに大きく値段が下がったりすることもよくあります。逆に、このままずっと値下がりしていくだろうと油断していると、需要と供給の関係なのか、じりじりと値上がりを始めて、結局、ベストのタイミングを逃してしまうというパターンもあります。

 

未来を予知できない人間の定めとして、こういう失敗はよくあることだ、とあきらめるしかないのですが、それでも、何だか損をした気がしてモヤモヤします。

 

レビューを見ていて不安になるのも、価格の変動に一喜一憂するのも、必要以上の情報に振り回されている、という点では同じかもしれません。インターネットを通して、私たちには、自分に与えられた選択肢とか、未来の可能性とかが、あまりにもたくさん見えすぎて、それらを処理しきれなくなってしまう、ということなのでしょう。

 

それにくらべて、昔は、情報があまりにも少なく、知らないことだらけでした。そのために、不便なことも、買い物に失敗することも多かったはずですが、逆に、何も見えていないからこそ能天気でいられた、という面もあると思います。

 

例えば、不良品や企業の対応のまずさについて、冷静に考えてみれば、どんなに優れた企業がどんなに努力をしても、完全にゼロにすることはできません。そうである以上、昔も今も、大勢の客の中の誰かが、必ず貧乏クジを引いているわけです。

 

ただ、以前なら、そうした不運な出来事を、被害者以外の買い手が知ることは滅多にありませんでした。数百、数千個の商品につき、一つあるかないかといった程度の、わずかな不良品やトラブルの情報が表に出てくることなど、ほとんどなかったのではないでしょうか。だから、昔の消費者のほとんどは、専門雑誌などで徹底的に調べるとか、特定の分野に詳しい知り合いに教えてもらうといったことでもないかぎり、ネガティブな情報を知るのはとても難しく、企業や小売店の宣伝文句を鵜呑みにするしかなかったと思います。

 

しかし、そうした情報不足のおかげで、ほとんどの人は、どこかでトラブルに遭っている、不幸な人の具体例を知らずにすみました。私たちは、テレビのCMなどで心に植えつけられた、キラキラしたイメージに期待をふくらませたまま買い物をし、運よく正常に機能する商品に満足して、自分は「完璧な買い物」をしたのだと、悦に入っていられたのだと思います。

 

今は、さすがにそういうわけにはいきません。

 

不幸な買い手が書きなぐった辛辣なレビューを見れば、どんな買い物にも失敗のリスクがあるのは明らかです。企業側の宣伝を打ち消すような、ネガティブ(だけれど、買い手にとってはかなり有益)な情報も、いくらでも飛び交っているので、誰もが、失敗するかもしれないという不安を感じつつ、おそるおそる購入の決断をせざるを得ません。何かを買ったら必ずハッピーになれると、無邪気に期待するようなことは、もうできなくなってしまいました。

 

価格の問題についても、同じようなことが言えるでしょう。

 

もちろん、昔だって、バーゲン価格になってから買おうと、ずっと様子を見ているうちに、欲しい品物を他人にかっさらわれてしまう、といった悩みはあったでしょうが、今のように、価格が日々めまぐるしく上下動するようなことはなかったし、店の選択肢もかなり限られていたので、年に数回、大きなセールの時期に、一部の店だけを集中的にチェックする、という人が多かったと思います。

 

しかし今は、いつ、日本のどこで、どんな激安価格が現れるか分かりません。つねに情報のアンテナを張りめぐらせていないと、せっかくのチャンスをつかみ損ねてしまうし、そうしたチャンスを逃しでもしたら、その時の激安価格が、いつまでも頭のなかにこびりついて、その後、それなりのお値打ち価格で買えたとしても、何か損をしたような気分をずっと引きずることになったりします。

 

まあ、少しでも安くていいモノを手に入れるために、情報をかき集めたり、ネットに張りついて価格の変動をウォッチするのは、別に義務でも何でもないので、そんな面倒なことはいっさい無視して、気が向いたときに、身近な店でサクッと買い物をして、それで十分満足できる、という人もいるでしょう。

 

それでも、やはり多くの人は、自分なりに手間をかけて、ベストな買い物をしたいと思うはずだし、インターネットは、そうした思いを圧倒する、大量の情報を突きつけてきます。何かが気になって調べ始めると、さらに多くのことが気になりだすし、そうやって情報を集めれば集めるほど、検討すべき選択肢は増える一方で、それにともなって、悩むべき点もどんどん増えていくのではないでしょうか。

 

そしていつしか、買い物は、楽しみというよりは、際限なく見えてくるマイナス面や不安のタネを、どうやってつぶしていくかという面倒な作業、もっと大げさな表現をするなら、自分の知識や経験をフルに活用し、あちこちに仕掛けられた地雷をうまく避けながら、安心安全な商品という「目的地」にたどり着くための厳しい戦い、みたいな感じになっている気がします。

 

でも、それは、世の中がどんどん悪くなっている、ということではなくて、繰り返しになりますが、以前なら多くの人には見えなかったことが、ネットのおかげで誰にでも見えるようになった、というだけなのでしょう。

 

昔は、いろいろなことを知らなかったからこそ、自分は「完璧な買い物」をしたのだ、と錯覚することもあったでしょうが、今は、その気になって調べさえすれば、現実の世界が、より正確に見えてくるし、多くの人は、やはり、見えるものなら見たい、と望むのではないでしょうか。その結果として、この世界の、完璧とはほど遠く、世知辛い現実が否応なく見えてきて、もはや、無邪気な期待に胸をふくらませていられなくなってしまった、ということなのだと思います。

 

そして、私たちは、いろいろなことが見えすぎてしまいがちな、この新しい状況に慣れ、むしろ、そうしたネットの特性を、もっと生かせるような思考と行動の習慣を、少しずつ身につけていかなければならないのでしょう。

 

例えば、買い物にしても、一方的にベストな結果だけを期待して、それが裏切られたら激怒するのではなく、いいことも悪いことも含めたいろいろな情報をできるだけ集めたうえで、最悪のケースも頭の片隅に置きつつ、成功率を少しでも上げられるよう、商品や購入先を慎重に選ぶとか、一定の確率でトラブルが起こることを前提に、あらかじめ長期保証プランに加入しておくなど、自分にできる手を打っていくしかないのだと思います。

 

また、価格の問題についても、この値段なら十分満足できそうだ、という額をあらかじめ決めておいて、それ以下で買えたら、買い物は十分に成功した、とポジティブに受け止める姿勢が必要でしょう。もっと安く、もっと安く、と考え続けているかぎり、買うべきタイミングは永久にやってこないし、どの買い物も「完璧」とはいかない以上、どんどん割り切って忘れていかなければ、過去の買い物をいつまでも引きずって、心を消耗してしまいます。

 

そして、当たり前のことではありますが、何かを最安の値段で手に入れることが目的なのではなく、コスパの高い品物を選ぶことで、生活を豊かにし、自分と周囲の人々をハッピーにすることこそ買い物の目的だ、ということを忘れないのが、いちばん大事なのかもしれません。

 

 

JUGEMテーマ:インターネット

 

 

at 21:42, 浪人, ネットの旅

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不幸のネットショッピング

◆ ネット上に潜む「不幸の種」

 

ふだんの生活に、とりたてて大きな問題や不満はないものの、心の中に、漠然とした不安とかモヤモヤを抱えていたり、どうも何かが足りない、どこか虚しい、という思いが消えないとき、多くの人は、そういう微妙なストレスを発散しようとして、景気よくパーッとカネを使ってみたり、みんなでどこかに出かけ、ワイワイ騒いだりします。

 

かりに、派手に使えるほどのカネがなかったり、一緒に騒いでくれそうな人が身近にいなかったりしても、ネットの世界なら、憂さを晴らすための、いろいろな方法を見つけることができるでしょう。しかも、ほとんど無料で。

 

その代償として求められるのは、ちょっとした手間と空き時間くらいではないでしょうか。その恐るべきコスパの高さと気軽さこそが、私たちを、ますますネットの世界にのめり込ませるのかもしれません。

 

ただ、ネット世界は、リアルな世界と同様に、まったくの無害ではないし、ネットのあちこちには「不幸の種」が転がっていて、不用意な人間を待ち構えています。

 

彼らは、ほんの気晴らしや暇つぶしのつもりで、ふだんなら目を留めないような、ちょっと怪しげな記事に目を通してしまったり、単なる野次馬として、ネット上のいろいろな騒ぎに首を突っ込んでいるうちに、そういう不幸の種の一つを、つい拾い上げ、好奇心や興味を注ぎ込んで芽を出させ、いつの間にか、心の中に、しっかりと根を張られてしまうのです。

 

そうした不幸の種には、さまざまな種類があります。

 

それは、今の自分の心身の不調が、何かとんでもない病気のせいだったり、まだ知られていない化学物質によるものだという、「科学的な」説明だったり、これまでのパッとしない人生や、この世界の大きな問題の原因が、特定の組織や個人による陰謀なのだという「世界の真実」だったり、神秘的なパワーを持つ特定の人物やモノにすがりさえすれば、すべての苦しみから解放されるという「秘密の教え」だったりします。

 


◆ 「閉じた世界」にハマる

 

もっとも、私たちは、こういう不幸の種を、毎日のように、どこかで目にしているのではないでしょうか。

 

それが私たちにとって、大きな問題にならずに済んでいるのは、私たちにはそういうものに対する「免疫」があって、ほとんどの場合、それらを軽くスルーできるからです。

 

それには、難しく考えることも、高度な知識も必要ありません。瞬間的に、何か「ヤバそう」だと感じるものがあったら、余計なことは考えず、ただ、そこに近づかないようにするだけです。そうした、得体の知れないものから距離を置こうとする感覚は、子供のころから親や周囲の大人たちからいろいろと教えられたり、自分なりに人生経験を積む中で、知らない間に身についたものです。

 

ただ、そのやり方が、どんなときでも成功するとは限りません。不幸の種には限りないバリエーションがあるので、「免疫」がうまく働かず、今まで見たことのないネタに、つい興味を持ってしまったり、話が本当かもしれないと、うっかり信じてしまうこともあるでしょう。

 

そして、そうした不幸の種は、その後に続く一連の不幸の、あくまでも入り口というか、最初のきっかけに過ぎません。それらは、単なる情報というよりも、悪質なプログラムというべき存在で、いったん心に根を張ると、被害者の好奇心や不安や怒りをどんどん掻き立て、次の情報、さらに次の情報と、似たようなネタを際限なく求めるように仕向けるのです。

 

やがて、被害者の身のまわりが、偏った情報ばかりで埋め尽くされた「閉じた世界」へと変わってしまうと、彼らはこれまでの日常生活や人間関係から切り離され、出口を見失って、そこから抜け出せなくなってしまいます。

 


◆ 不幸のネットショッピング

 

そのプロセスは、他人からは、ただ、不幸に落ち込んでいくだけのようにしか見えないでしょう。

 

しかし、被害者の目には、物事はそのようには見えていないかもしれません。

 

むしろ本人は、これまで心に抱いていた、漠然とした不安や欠乏感が解消されたとか、心のモヤモヤを、うまく言葉にしてくれるものに出合えた、と感じているかもしれません。最終的にどうなるかは別にして、少なくとも最初のうちは、自分はついに特別な何かに出合えた、この世界の真実を垣間見ることができた、という高揚感を覚えることすらあるのではないでしょうか。

 

そしてそれは、ネットショッピングのプロセスに、とてもよく似ています。

 

革新的なテクノロジーと、企業のたゆまぬ努力によって、私たちそれぞれの多種多様な欲求にぴったり沿うような商品が、世界のどこかからうまく捜し出されてくるように、私たちそれぞれの心のスキマに入り込み、本人が、それを運命的な出合いとさえ思い込んでしまうほどの、あまりに魅力的でパワフルな不幸の種が、被害者の前に、次から次へと現れてくるのです。

 

しかも、それらのほとんどは、少なくとも最初の段階では無料だから、多くの人は、いったん好奇心にかられて手を出したが最後、どこまでも情報を追いかけてしまい、気がついたときには、アリジゴクにはまり込んだように、もはや引き返せなくなっています。

 

もちろん、それは、検索エンジンなどを運営する大手IT企業による、悪意や陰謀によるものではありません。私たちを、価値ある情報と結びつけるために生み出されてきた、便利で素晴らしい仕組みが、まさにその同じ仕組みを通じて、私たちを、自動的に不幸と結びつけてしまう場合もあるのです。

 

さらに付け加えると、それは、個人的な不幸をもたらすだけではなく、同じパターンで「量産」された、膨大な数の被害者たちが、政治的・経済的な目的を持つ誰かによって、便利な集団として利用されてしまうことさえあります。皮肉なことに、これは根拠のない陰謀論ではなく、そうやって人々をコントロールすることで利益を上げている人々が、実際に存在しているようです。

 


◆ 昔と今の違い

 

昔なら、そういう不幸の種をばらまく人は、ほとんど身近にはいなかったでしょう。時々、世間の感覚とはかなりズレた人が、たまたま変なことを思いつき、そのアイデアに取り憑かれてしまうようなことはあったと思いますが、そんな人物が、偶然にも自分の身近にいて、しかも、ふだんから親しく付き合ってでもいない限り、そういうネタを頭に植え付けられてしまう恐れはありませんでした。

 

それに、表現のプロでもない一般人が、ちょっと変なことを思いついたくらいでは、ネタとしてあまり魅力的なものにはならないだろうし、それを聞かされた人の心のスキマにうまく入り込めるほど、その人にピッタリの内容である可能性も非常に低いでしょう。

 

そして、その程度の不幸の種なら、みんな、ちょっとした常識を働かせるくらいで対処できます。

 

昔の社会は、いろいろと窮屈なことも多かったでしょうが、逆に、そうした窮屈さや、おせっかいな常識人の年長者たちが、不幸の種と出合う危険から、人々をしっかり守ってくれていたのかもしれません。

 

しかし、今は、世界のどこかで絶えず生み出される、ありとあらゆる不幸の種が、IT企業が整備したネット上のインフラを経由して、世界中の人々の元へと運ばれていきます。しかも、その過程で、悪意ある人々の手によって、さまざまなアイデアが加えられ、どんどん「変異」を重ねて感染力を増し、放っておけば、あっという間に人の心に食い込むほどの悪質さをまとうようになっています。

 

しかも、多くの場合、私たちは、それらが不幸の種だと気づいてさえいません。

 

私たちは、検索エンジンを使ったりして、自分からわざわざそれらを探し出し、有益な情報だと信じて、誰に頼まれたわけでもないのに、自らそのネタにのめり込んでいってしまうのです。それに、そうした作業のほとんどは、一人でパソコンやスマホと向き合う中で行われるので、被害者が変な方向に進んでいても、それを止めたり、冷静なツッコミを入れたりしてくれる人もいません。

 


◆ どうして不幸を手放さないのか

 

不思議なのは、それがネットショッピングと似たプロセスなら、どうして、わざわざ不幸をもたらす情報にしがみついてしまうのか、ということです。

 

自分を不幸にするモノや情報に出合ってしまうのは、買い物に失敗するようなものなのだから、それに気づいた時点で、それらをさっさと手放し、もっとハッピーにしてくれるものを選び直せばいいはずなのに、なかなかそうはなりません。

 

それはきっと、私たちが一度何かを手に入れ、心から熱中してしまうと、どんなものであれ、それを手放すのに大変な心の葛藤を必要とするからなのでしょう。

 

それは、物理的な形をもたない情報でも同じで、心の中で増殖するネガティブな情報のせいで、自分の生活がどんどんおかしくなっているのは明らかでも、それを心から一掃しようとすると、なぜか抵抗を感じてしまうのです。むしろそれらは、いつの間にか自分のアイデンティティの一部にさえなっていて、それを否定したり、手放したりしようとすれば、まるで自分自身を否定したり、自分を見失ってしまうような恐怖すら覚えてしまうのではないでしょうか。

 

それにそもそも、そうした不幸の種を、自分の意思で受け入れたという自覚すらない人も多いのではないかという気がします。

 

最初のきっかけは、本当にささやかなものにすぎず、ネット上でたまたまそれを見かけ、好奇心から手を出して、やがて情報が芋づる式につながっていき、気がついたら狭い世界に閉じ込められていた、というパターンは、けっこう多いはずで、本人としては、自分がどこかで重大な決断を下したというよりも、ただ、すべてが自然な成り行きで、自分の意思で何かを選んだことなど一度もなかった、と感じているのかもしれません。

 

当然、本人の中では、自分がどこかで判断を誤ったという自覚もないので、周囲があれこれ心配してアドバイスをしたり、ツッコミを入れたりしてみても、本人の耳には全く入らない、ということにもなるのではないでしょうか。

 


◆ 自由と安心・安全のバランス

 

いずれにしても、多くの人が、ネット上の情報をきっかけに不幸に陥ってしまうことについては、インターネットの世界が、まだ生まれて間もない、完成とは程遠い状態だというのが大きいのでしょう。

 

そして、私たち利用者の側でも、ネットをどう賢く利用すればいいのか、経験に裏付けられた分かりやすい行動マニュアルのようなものが、一般常識として、まだ十分に確立されていないのだと思います。

 

しかし、別の見方をすれば、息苦しいがそれなりに安全だった昔の狭い社会に代わって、私たちは今、ネット上で、世界の彼方とダイレクトにつながっていて、人々は、とんでもない不幸に陥るリスクと引き換えに、さまざまな探求を自由にできるようになった、とも言えます。

 

だとしたら、いずれ、私たちの求める最低限の安心・安全と、ネットがもたらす大きな自由とを、ちょうどいい感じでバランスさせてくれるような仕組み、つまり、ネット世界を賢く渡り歩いていくための、信頼できるガイドのような存在とか、何も考えなくても、ただ「接種」しておくだけで自分の身を守ってくれる、強力なワクチンのような存在が、これからどんどん生み出されていくことになるのかもしれません。

 

数十年前の冷戦時代、ほとんど何の情報もない中で、わずかなカネだけを持って世界に飛び出し、試行錯誤しながら自由旅行の楽しみ方を開拓していった旅人たちの前に、やがて、便利なガイドブックや格安チケット販売店やゲストハウスが登場し、感染症の広がる地域を旅する人々のために適切な予防接種の仕組みが整えられ、さらに、ネットの普及とともに、もっと便利なクチコミ情報サイトなどの旅行インフラが現れたように。

 

逆に、そうした、信頼できる仕組みがネット上でも確立されるまでは、自由だけれど、それなりに危険な世界が、今後もしばらくは放置されるのでしょう。

 

でも、考えてみると、現実の世界では、バックパッカーがスマホをフル活用し、安全・安心・快適で自由な旅を、簡単に楽しめるようになった今でもなお、まるで危険に吸い寄せられるようにして、自ら破滅していく旅行者が、まったくいなくなったわけではありません。

 

今後、ネット世界では、善意の人々や使命感をもった組織が、安全・安心・快適なネット環境を促進するためのさまざまなインフラを用意したり、不幸の種を根絶する試みを続けていくでしょうが、それがどれだけ効果的なものになるとしても、やはり、自ら不幸に飛び込んでいく人は、決してゼロにはならないのかもしれません……。

 

 

JUGEMテーマ:インターネット

at 21:09, 浪人, ネットの旅

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情報の過剰と時間の欠乏

今の日本では、というより、地球上のどこにいても、インターネットにさえ接続できれば、情報の欠乏を感じることはなくなりました。

 

ニュースやSNS、動画や映画、音楽や本など、読みたいものや、観たり聴いたりしたいものの大部分が、無料か、とても安い費用で、いくらでも手に入ります。

 

ほんの20年くらい前までは、日本で暮らしていても、いろいろなことを知らなかったり、知りたくても調べる方法がなかったりして、数多くの不便や損をガマンするのが当たり前だったし、退屈な時間をどうやってつぶすか、途方に暮れることもしばしばでした。

 

それを思えば、現在のように、ありあまる情報に囲まれて生活できるのは、すばらしいことなのだと思います。

 

ただ、過剰ともいえる情報に満ちた日常生活に、まったくデメリットがないわけではありません。

 

まず、私たちが日々「摂取」している大量の情報は、クオリティの面で信頼に値するのだろうか、そして、それらの情報を、私たちは本当に必要としているのだろうか、という問題があります。

 

目の前にあるのは、実際には、見かけ倒しの「ジャンクフード」ばかりで、私たちは、ただそれが手の届くところにあるから、というだけの理由で手を出しているのかもしれません。

 

ジャンクフードでも、腹に詰め込めば、とりあえず食欲は満たされ、しばらくの間、空腹という不快感を忘れることができますが、それで何となく満足しているかぎり、自分が本当は何を食べたかったのか、きちんと考え直してみよう、などとは思わないでしょう。そして、そういうことが毎日のように繰り返され、いつも腹が満たされた状態が続けば、私たちはそのうちに、自分に食欲というものがあることさえ、だんだん意識できなくなっていくのではないでしょうか。

 

そしてそれは、ネット上のコンテンツについても同じだと思います。

 

常に、ほどほどに好奇心が満たされ、情報への飢えを感じなくて済む、という状況は、それなりに幸せなことなのだろうし、情報がまったく手に入らないよりも、はるかにマシではありますが、一方で、欲求が中途半端に充足されることで、自分の欲求そのものについて、きちんと掘り下げて考えてみる機会が失われ、やがて、自分がいったい何を求めているのか、よく分からなくなってしまうかもしれません。

 

何を求めているか分からなければ、自分の中に、情報を選ぶためのはっきりした基準も確立できないので、せっかく身のまわりに大量の情報があっても、そのどれを選んだらいいか、うまく決めることができないでしょう。下手をすると、日々の暮らしの中で、自分が目指すべき方向を見失い、目の前にあるものを、ただ何となく取り込むだけになってしまうのではないでしょうか。

 

しかし、そういう状態では、心からの満足が得られるものには、いつまでたっても巡り合えないし、だからこそ、万人向けの、当たり障りのないコンテンツでお茶を濁す、という悪循環から抜けられなくなります。

 

それに、どんな情報であれ、自分の心身に取り込むためには、それなりの時間や手間やエネルギーが必要になります。

 

はっきりとした自覚がないままで、常に膨大な情報に接していると、ついあれこれとつまみ食いをして、「食べすぎ」の状態になりがちですが、そうなると、それらを「咀嚼」したり、「消化」したりするだけで、日々大量のエネルギーを使い果たすようになり、自分にとって、もっと大事なことにエネルギーを向ける余裕がなくなってしまいます。

 

もちろん、いろいろなコンテンツを摂取しているので、それなりの満足感は味わえるはずですが、それらが、手っ取り早く心を満たしてくれる、ファストフード的なものばかりであれば、情報に対してどんどん受け身になり、もっと「歯ごたえ」のあるものに、あえて挑戦しようという気力もなくなっていくのではないでしょうか。いつもとは違うジャンルのものを試してみるとか、あるいは、何か自分にとって本当に新しいものを求めて、あてのない探求を始めるようなことには、不安を感じたり、面倒に思えてしまって、そういうことのために、あえて時間やエネルギーを費やそうなどとは考えなくなってしまうかもしれません。

 

むしろ、常に情報が不足し、好奇心がなかなか満たされないような環境にいる方が、飢餓感の中で、自分は何を求めているのか、自分の本心や向かうべき方向について、ハッキリと自覚する機会が多くなるような気がします。そして、その結果として、かなり明確な方向性をもってアンテナを張りめぐらすようになるので、たとえ情報が少なくても、必要な情報との出合いのチャンスをうまく生かすことができるかもしれません。

 

……という感じで、過剰ともいえる情報に、受け身で接することのデメリットをいろいろと書いてみましたが、さらに付け加えれば、食べ物にせよ、情報にせよ、それらがいくらでも手に入るような状況には、逆に、私たちがこの世界に生きているかぎり、どれだけ求めても充分には得られないものを、かえって浮き彫りにしてしまう、という面もあります。

 

知りたいこと、楽しみたいことがどんなにたくさんあって、それを満たしてくれそうなコンテンツがどんなに簡単に手に入るとしても、残念ながら、私たちに与えられた人生の時間そのものは非常に限られているし、自分がいつ死ぬことになるのかは、誰にも分かりません。

 

それは、私たちがふだんからずっと目を背け続けている「不都合な真実」なのですが、ただ、自分の人生の持ち時間は決定的に不足している、というこの事実をしっかり認めれば、そこで初めて、心の底から危機感を感じ、その貴重な時間を、自分にとって本当に必要なことのために使おう、という強い決意ができるのも確かです。

 

分かりやすい例として、「今日が人生の最後の一日だとしたら、あなたはそれを本当にやりたいと思うか?」という、とても有名な問いがあります。

 

さすがに、今日が人生最後の日、という想定には現実味がないので、ほとんどの人は、それを本気で想像する気にはなれないでしょうが、今は、世界中で新しい感染症が広がっている最中なので、あと数か月しか生きられないかもしれない、くらいの想定なら、けっこうリアリティがあるかもしれません。

 

もしも、自分の余命があと数か月だとしたら、私は、その大切な時間を、その辺に転がっている、万人向けの気楽なコンテンツでつぶすだけで満足していられるでしょうか? この問いに真剣に向き合うなら、身のまわりにあふれているほとんどすべてのモノや情報が、一気に色あせて、魅力を失っていくのではないでしょうか。

 

自分のまわりにどれだけ情報があふれていても、結局、自分にとって本当に必要なものは、その中のごくわずかに過ぎないし、実際、私たちそれぞれは、そのごくわずかな情報を消化するくらいの時間しか持ち合わせていない、ということを自覚せざるを得ないと思います。

 

そして、そのことを痛切に感じたとき、厳しい現実に目が覚めて、自分が本当に求めるべきものを、もっと本気になって探そう、という気になるのではないでしょうか。

 

ただし、その時点で、何を探せばいいのか、すぐに具体的に見えてくる、という人はほとんどいないと思います。

 

自分にとって、本当に必要なモノや、するべきコトを見極めるためには、それなりの試行錯誤や、そのための多大な時間が必要だし、もちろん、そういう見極めに至るまでの膨大で面倒な作業を、他人が代わりにやってくれるわけではありません。

 

それぞれの人生の持ち時間は少ないのに、その少ない時間をムダ使いせず、本当に大切なことだけに使えるようになるためには、ムダとしか思えないような多くの時間を費やしたり、回り道をしたりしながら、少しずつ経験を積み重ねていくことが必要、というのは、何ともいえないジレンマではあります。

 

それに、そうした探求を、どこまで深く、真剣にできるのかは、きっと、人それぞれなのだろうし、たぶん、誰にでも分かるような、はっきりとしたゴールみたいなものもないのでしょう。

 

だとすれば、自分にとっての究極の「何か」を見つけたり、どこかにたどりついたりすることを必死で目指すよりも、むしろ、日々の小さな歩みそのものに、どれだけ充実感を感じられるかの方が、ずっと重要なのかもしれません。

 

そんなことを、時間をムダにしながら、とりとめもなく考えていると、日々膨張するネットの世界が、巨大な迷宮に見えてきます。

 

私たちの前に情報の海が広がっていくことは、一見すばらしいことのように見えて、実は、私たちの目をくらまし、針路を迷わせる障害物が増えていくという意味で、実にやっかいなことなのかもしれません。

 

 

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at 21:06, 浪人, ネットの旅

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ネットの片隅で朽ちていく故人データ

現在、私たちは、Twitter や YouTube のようなネット上のサービスを通じて、自分の思ったことや表現したいことを気軽に世界中に発信するようになっていて、同時に、生活上の雑多な情報やメモや写真など、プライバシーにかかわる膨大なデータも、クラウドストレージなどのサービスを通じて、ネット上に保存するようになりつつあります。

 

ただ、もしも私たちが突然死んでしまったりしたときに、そうした大量のデータがどうなってしまうのか、という点に関しては、みんな漠然と気にはしているでしょうが、それ以上の具体的な対策となると、特に何も考えていない、という人の方が多いのではないでしょうか。

 

SNSや実名での情報発信は別にして、ネット上で誰がどんなサービスを利用しているかは他人には見えにくいし、各サービスの個人データは厳重なセキュリティで守られているので、万が一の場合、本人があらかじめ用意しておいたメモなどで詳しいことを知らされないかぎり、たとえ家族のような身近な人間であっても、どこにどんなデータが保管されているのか知りようがないし、かりにそれがわかっても、パスワードがなければアクセスできません。

 

もちろん、こうした問題に関しては、亡くなった人物や遺されたデータの社会的・経済的な重要度によって、周囲の人々の真剣度も大いに違ってくるはずです。

 

故人が運営していたサイトが大きな利益を生んでいるとか、どんなプライベートな情報でも歴史的な資料になりそうな重要人物であれば、多くの関係者が必死になって、「故人データ」を閲覧し、それを誰かに引き継ぐためのあらゆる手段がとられるでしょう。そうしたケースでは、たとえ本人が何の準備もせずに亡くなったとしても、事態は関係者の利害が一致する形で、速やかに収まっていくのだろうと思います。

 

一方で、私的なデータに経済的・歴史的価値のほとんどなさそうな、私たちのような一般庶民の場合には、関係者の熱意も盛り上がらず、なんとなくそのまま放置されたり、データの存在にすら気づかれないままになってしまうことも多いのではないでしょうか。

 

これまでに、有名人がネット上のデータをそのままにして亡くなったケースは数多くあるので、そうした事例を何度も見聞きしていれば、さすがに私たちも、自分の死後のデータの取り扱いについて、必要な準備をしておこうと考えざるを得なくなるような気がするのですが、実際には、そういう習慣が広まっている気配はありません。

 

やはり、ふつうの人間は、自分が突然死ぬかもしれないなどということを、具体的に想像したくはないのだろうし、ネットの利用者は、今でも若い世代に偏っているだろうから、みんな、目の前に広がる青春の日々を謳歌するのに忙しすぎて、死んだ後のことなんて、頭に思い浮かべるヒマさえないのかもしれません。

 

それに、ネットサービスを提供している企業の側としても、正直な話、こういう問題にはあまり関わりたくないでしょう。

 

ユーザーが事前に何の意思表示もしていなかった場合、遺族や関係者が望んでいるからといって、勝手に故人のデータを見せたり、管理の権限を誰かに引き渡してしまっていいのかという問題があるし、法的な問題にも配慮しつつ、個別のケースごとに丁寧な対応をしていたら、とにかく膨大な手間がかかります。しかも、今後、ずっとサービスが継続されれば、処理しなければならない案件は増えていく一方です。

 

だとすると、やはり一番いいのは、社会的・経済的な影響の大きい重要人物のケースは別にして、ごくごくふつうのユーザーの場合には、遺族も関係者も、故人のプライバシーを尊重するという名目で、遺されたデータにはできるだけ手をつけずにそっとしておき、実質的にそのまま放棄することで、結果的に、サービスを提供している企業の手も煩わせない、というような慣習が広がっていくことなのかもしれません。

 

とはいえ、それで関係者全員が素直に納得するとは限らないし、故人の銀行口座や資産に関するデータがどこかに紛れ込んでいるなど、金銭的な利害がからんでくれば、あまり悠長なことは言っていられないのかもしれません。

 

また、ユーザーの中には、そういうことを成り行き任せにはせず、自分の死後のデータの行く末について、きちんと計画しておきたい人もいるでしょう。

 

そういうニーズに応えるためか、一部のサービスでは、万が一の場合のアカウントの処置について、いくつかのオプションを事前に設定できるようになっています。例えば、Google のアカウントに関しては、一定期間ログインされなかった場合に、誰かにそのことを通知したり、データを自動的に削除することができるようです。

自分の死後、GmailやGoogleドライブのデータを自動削除する方法 lifehacker
 

ただ、個人的には、かりに本人が何の対策もとらず、データが放置され、やがて消滅し、結果的にそれを誰にも引き継げないとしても、それはそれでいいんじゃないか、という気がします。

 

もともと、昔から、ほとんどの人間は、遺産といえるようなものは何も遺さずに死んでいました。

 

何か遺すことができる者は、それなりの財産のある、ごくわずかな人間だけだったし、彼らが遺すものも、カネとか、土地や家、家財道具のように、受け取った人たちがそのまますぐに使えるようなものばかりだったと思います。

 

中には、日記などをコツコツと書き記した人もいたでしょうが、そんなものを遺された子孫としては、実際にはありがた迷惑だったのではないかという気がします。

 

「去る者は日々に疎し」という言葉どおり、過去の人々の記憶は、時間の経過とともに急速に薄れていきます。直接面識があった、ごく親しい人たちでさえ、死者のことを思い返す機会はどんどん少なくなっていき、十年もすると、ぼんやりとした記憶が残るだけになってしまうでしょう。そして数十年が経てば、そういう人たちもほとんど死んでしまい、やがて故人のことを直接知る人はいなくなります。

 

ご先祖様の古い日記が遺されていたとしても、遠い昔の、名前すら聞いたことのないような人物が、当時の平凡な出来事をこまごまと記しただけのものを、時間と手間をかけ、埃にまみれながら、ありがたがって読む子孫はほとんどいないでしょう。死後しばらくの間は、書き手のことを直接覚えている人たちが、興味本位で拾い読みするくらいのことはあるかもしれませんが、その後は土蔵の奥にしまい込まれたまま、古文書一式みたいな感じで、そのまま何百年も忘れ去られ、ゆっくりと虫に食われていくのがオチだっただろうと思います。

 

むしろ逆に、そういうものが山のように残っていると、それを保管する手間やコストの負担を子孫や関係者に押しつけることになります。それでも、子孫が律義な人たちばかりで、負担をかえりみず、頑張って古文書を何世紀も守り抜いてしまうと、それはやがて貴重な歴史的資料になってしまい、その内容がどうであれ、もはや誰かが勝手に処分することさえ許されなくなってしまうかもしれません。

 

しかし、今のような時代には、ごく一般的な人物の個人的なデータを歴史的資料として大事に保存しておく意味はほとんどないでしょう。そんなものは、すでにネット上に掃いて捨てるほどあるし、その一部は、すでに何らかの形で半永久的に保存されているからです。

 

かなりキツい言い方かもしれませんが、特に社会的な価値があるとは思えない膨大な私的データを子孫や関係者に引き継いでいくのは、彼らに保存や管理の手間をかけさせ、それを廃棄すべきか否か、将来の誰かを大いに悩ませてしまうという点で、有害だとさえいえるかもしれません。

 

であるなら、本人がどうしても誰かに遺したいと心から願う、厳選されたごくわずかなメッセージ(それでさえ、子孫にとってはありがた迷惑になりそうですが)は別にして、ほとんどのデータは、本人が生きている間にしか意味がないのだから、死んだらそのまま、誰かの目に触れることも、存在さえ知られることもなく、ネットの片隅でひっそりと朽ちていくのがふさわしいのではないでしょうか。

 

そして、そういうふうにキッパリ割り切ってしまえるなら、本人がいつ死ぬことになろうと、あらかじめデータを整理しておく必要も、関係者に保存先を知らせておく必要もない、ということになります。むしろ、その存在を誰にも知らせないようにしておけば、死後は、堅固なセキュリティで守られた、ネット上の「開かずの間」にデータが収まることになるので、結果的に、誰にとってもハッピーな形になるのではないかと思います。

 

そもそも、本人が誰かに遺したいと思うような写真とか、伝えたいと思うようなメッセージは、きっと、死ぬずっと前、その写真を撮った直後とか、メッセージを思いついた時点で、すでに伝えるべき人にシェアされているはずです。つまり、本人が死ぬまで非公開にしていたデータというのは、他人がわざわざ見るまでもない、生活関連の雑用メモみたいなものとか、あるいは、そのまま誰にも見せずに墓場まで持っていきたいものなのだから、むしろ、余計な詮索をしない方が、遺族や関係者の心の平安のためにもいいのかもしれません。

 

また、サービスを提供している企業にしても、データが「開かずの間」にずっと放置されたところで、わずかな維持費がかかるだけでしょう。それでさえ問題なら、20年とか30年とか少し長めの期限を決めて、その間ずっとログインされなかったデータを消去するようにルールを設定すればいいだけの話です。数年以内に消去、ということにすると、まだ故人の記憶も生々しいので、データが消されるのはあんまりだ、という声が出てくるでしょうが、20年とか30年という年月が経てば、そのころには関係者自体がいなくなっていたり、多くの人の関心はすでに他のことに移ってしまっていて、ほとんど誰も問題にしないのではないかという気がします。

 

もしかすると、データがそうやって成り行き任せで消えていくだけでは、せっかく自分が生きた証を、後の世に遺せないではないか、という人がいるかもしれませんが、そういう人は、生きているうちに、その「生きた証」を、好きなだけ世界中に発信し、誰もがアクセスできるようにしておけばいいのです。

 

言いたいことがあるなら、いつかもっとふさわしいタイミングがきたら相手に伝える、とか、もっとうまい表現を思いついたら形にする、みたいなことは考えずに、とりあえず、現時点の自分がベストだと思う内容を、SNSなどにどんどん書き込んだり、得意なジャンルで表現するなりして、オープンなネット上にコンテンツを残していけばいいのです。

 

それらは、本人が死んで何年かすれば、サービス運営上のルールに従って、ネット上から消されていくことになるかもしれません。それに、もっと長い目で見れば、企業のサービス自体が終了してしまう可能性もあるでしょう。

 

それでも、いつか誰かが、何かのきっかけでそのコンテンツにたどりつき、それを、みんながシェアすべき大切な内容だと感じたら、彼らはそれを自発的にコピーしたり、引用したりして、ネット上に少しずつ広げていくに違いありません。そして、たとえそれがささやかな動きに過ぎなくても、途切れずに続いていくかぎり、それは未来へのメッセージとして、昔の写本みたいに、時代を超えて受け継がれていくのではないでしょうか。

 

そうなれば、子孫や関係者たちが、同じようなものを、苦労して内輪でひっそりと受け継いでいく必要はありません。

 

でもまあ、そんなに都合よく展開するケースというのはほとんどなくて、実際には、この巨大なネットの大海の中で、完全に忘れ去られてしまう可能性の方がずっと高いでしょう。

 

ただ、ほとんどの発信者は、たぶんそんなことは気にしないだろうし、どんなにささいな行動であっても、生きた証を遺すために自分なりに手を尽くした、という満足感だけで、もう十分なのではないかという気がします。

 

もちろん、わざわざそんな面倒なことをしたくない、ということであれば、ネット上に余計な足跡は残さず、ただ静かに消えていく、というのでもいいと思います。

 

いずれにしても、自分が死んだあと、この世界に遺すべきものを決めるのは、私たち自身ではなく、後世の人たちなのです。

 

そして私たちは、死んだ後のことは一切コントロールできないのだから、何をどうやって遺すかをあれこれ考えるくらいなら、むしろ、絶対に遺したくないデータだけは、確実にこの世から消えるように、きちんと手配しておくべきなのかもしれません。

 

まあ、死んだ後に、何かの間違いで変なデータが人目に触れることになっても、もう、それを恥ずかしいと思う自分はいないのだから、全く問題はない、と言えなくもないですが……。

 

というか、もしもそんなものをいまだに抱え込んでいるのだとしたら、死んだときにそれを消去しようなどと考えず、今すぐそれを実行すべきだと思います。

 

死んだ後ではなく、自分が生きているうちに、それが表に出てしまう可能性はゼロではないので……。

 

 

記事 ブログが墓標に?

 

 

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at 20:25, 浪人, ネットの旅

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自分の好奇心と折り合う(2/2) 情報源のコントロール

自分の好奇心と折り合う(1/2) ネット利用時間のコントロール

 

(続き)

 

◆ どんどん増えていく情報源

 

前回は、自分の好奇心との折り合いについて、ネットの利用時間という側面から考えてみました。

 

今回は、もう一つの側面として、ネット上の情報源をどう絞り込むかについて書いてみたいと思います。

 

私の場合、今のところは、SNSとか、動画やゲームに時間をつぎ込んでしまうことはないのですが、いまだにRSSリーダーを愛用していて、そこにかなりの時間を費やしているため、ネットとのつき合いを適正化しようとするなら、何よりもまず、そこに手をつける必要がありました。
ウィキペディア 「フィードリーダー」
記事 RSSリーダーの「断捨離」

 

これは、誰しもそうだと思いますが、RSSリーダーを使っていると、登録したサイトの数は増える一方で、減ることはほとんどありません。

 

RSSリーダーは、自分のお気に入りサイトの更新情報を効率よく集めるための道具なので、当然、登録してあるのは自分にとって大事な情報源ばかりです。尊敬したり注目している人物の個人サイトで、新しいメッセージが発信されるのを楽しみにしていることもあれば、自分にとって非常に大切なテーマを扱っているサイトもあります。

 

また、長年にわたってずっと読み続けてきたサイトもあり、今では自分の興味関心が薄れ、記事をほとんど読まなくなっていても、すでに深い愛着があるので、簡単には登録解除に踏み切れなかったりするのです。

 

しかし、そんなサイトでも、登録解除しないかぎり、RSSリーダーは記事の見出しを自動的に拾ってきてしまいます。そして、どんな見出しであっても、人の注意を引き、本文を読んでもらうための工夫がたっぷり詰め込まれているので、少しでも目に入れば、反射的にクリックしたくなります。

 

今まさに興味があるテーマはもちろん、今は興味がなくても、かつては大いに熱中していたテーマなら、面白そうな見出しでちょっと気持ちをくすぐられるだけで、頭の中のいろいろな記憶ともつながり、懐かしさと好奇心で、読みたい気持ちが抑えられなくなります。結局、時間さえ許すなら……と自分に言い訳しつつ、いくつもの記事を読みふけってしまうのです。

 


◆ 一期一会だからこそ、気軽に読み流せない

 

もちろん、いちいちその場で記事にかじりつくのではなく、せめて、読みたい記事のリンクなり本文なりを保存しておいて、後で他の記事と一緒に読むようにすれば、多少は効率がよくなります。

 

実際、私もかなり前から、そういうやり方を実践しています。記事をすぐに読み始めず、いったん保留してクールダウンすれば、見出しにつられて余計な記事を読んでしまう可能性も少しは減るだろうし、保存した記事に優先順位をつけて、読むか読まないかを改めて選別することもできます。

 

しかし、そうやって保留した記事も、結局は、その日のうちに読み切らなければならない、というプレッシャーがあります。

 

RSSリーダーには、新しい見出しがリアルタイムで次々に追加されていくので、今日、膨大な見出しのリストを全部チェックしたとしても、明日にはまた、同じくらい膨大な見出しをチェックしなければなりません。そして、見出しに目を通すにも、実際に記事を読むにも、それなりの時間が必要なので、今日の分の記事を読み残してしまうと、明日以降の見出しチェックや、記事を読む時間にしわ寄せがいくことになります。

 

記事を古いものから順番に片づけていたら、そのうち、過去の読み残しを処理しているだけで、その日が終わってしまうことにもなりかねません。それを回避したいなら、毎日、その日の分の記事は、寝る前までに何としてでも読み切ってしまうか、それとも、読み切れなかった分は、いつかヒマができたら読むという名目で、そのまま放置するしかないのです。

 

冷静に考えれば、どうしてそこまで必死になって記事の山と格闘しなければならないのだろう、と思わなくもないのですが、とにかくそうやって毎日時間に追われ、自分の自由時間のほとんどをつぎ込んでひたすらネットの探索を続けているうちに、目の前に現れる見出しの一つひとつと、それこそ一期一会のような思いで向き合うようになりました。

 

ズラッと並んだ見出しにすばやく目を走らせながら、読むか読まないかを即決していくわけですが、それはほとんど直感的なもので、ごく一部の記事だけを拾い出しつつ、意識はどんどん次の見出しへと流れていきます。

 

もちろん、その判断をやり直す時間はないので、いったん読まないと判断されれば、その記事を目にする機会はもう二度とないでしょう。後日、ネット上で多くの人から注目を浴び、あちこちで引用されたりして、嫌でも目に入るようになったりすれば別ですが……。

 

ある記事を読むかどうか、ほんの一瞬の判断が、つねに最初にして最後の判定である以上、自分が読むべき記事は決して見落としたくない、と思うし、いったん読むと決めた記事は、とにかく自分の直感が読めと命じたのだから、最後までしっかり目を通してみよう、という気持ちになります。

 

まあ、それが変な責任感につながってしまうのか、見出しや記事を気軽に読み流すことができず、何とか時間をやりくりして、その日のうちに記事を読み切ろうと頑張ってしまったり、それが、かなりの心理的な負担にもなっているのではないかという気がします。

 


◆ RSSリーダーの登録サイトを絞り込む

 

いずれにしても、毎日更新されるネットの情報を追いかけ、それを消化するだけのために、一日に何時間も費やすようでは、やはり問題があると言わざるを得ないでしょう。

 

そして、それはもしかすると、自分が今、切実に求めているのは何なのか、そのためにどれだけの時間的・精神的なコストをかけられるのか、明確な方向性と、それに基づく優先順位がはっきりしていない、ということなのではないでしょうか。

 

前回の記事で書いたように、自分の自由時間には、「効率」という概念をあまり持ち込みたくはないのですが、RSSリーダーの利用に関しても、もう少しビジネスライクに、情報源や読むべき記事を絞り込むための基準を明確化する必要があるのかもしれません。

 

自分自身の方向性をいますぐ明確にするのはさすがに無理にしても、せめて、RSSリーダーに登録するサイト数の上限を決めるなどして、自分の目に触れる見出しの数を、できるだけ減らす必要はありそうです。

 

そのためには、面白そうだと思ったサイトを「お試し」感覚でどんどん登録するのではなくて、一つ登録したら一つ以上のサイトを削除するみたいに、自分なりに、かなり厳しいルールを課していかなければならないのかもしれません。

 

また、「〇〇ビジネス」とか、「〇〇オンライン」みたいな、大手の総合サイトを登録していると、毎日大量の更新があるだけでなく、好奇心をあからさまに刺激してくる見出しに、つい注意が奪われてしまうので、思い切って、そういうサイトの登録を解除してしまう、という方法もあるでしょう。

 

まあ、総合サイトを通じて雑多な記事に触れることで、自分の世界が少しずつ広がっていく面もないわけではないのですが……。

 

それに加えて、毎日見出しのチェックをするためのRSSリーダーと、これまでに自分が集めてきた、信頼できる情報源を整理・保存しておくためのRSSリーダーとを、はっきり分けておくべきなのかもしれません。

 

後者は、個人的な思い入れが深すぎて、なかなか削除できない情報源をとりあえず保存しておくのに役立つし、何か重大な出来事があったりしたときに、自分が信頼する人々がどのような見解を示しているか、すぐに調べることもできます。

 

しかし、ふだんからそういうサイトの情報までもれなくチェックしていると、あまり必要のない記事をつい読みふけって、いくらでも時間を費やしてしまうことになるでしょう。

 


◆ RSSリーダーの問題点

 

あと、忘れてはならないのは、RSSリーダーには、自分で選び、登録したサイトからの情報ばかりに注意が偏りがちになる、という弱点があることです。

 

もちろん、登録するサイトをバランスよく配分するなど、自分でできる対策もありますが、それでも、RSSリーダー経由でやってくる情報は、ネットが24時間生み出し続けている膨大な情報の、ごくごく一部に過ぎません。お気に入りのサイトばかりに注目していると、今、世界で起きている重要な動きを見落とす危険性があるかもしれません。

 

RSSリーダーなどのツールを駆使することで、私たちは好奇心を大いに満足させられるようになってはいますが、便利だからといってそれに頼りすぎてしまうと、気がつかないうちに自分の視野を狭めてしまう可能性もあるのです。

 

だとすれば、日頃から特定の情報源をウォッチし続けるよりも、逆にそういうものは捨てて身軽になり、テレビや新聞とか、大手サイトで読める一般向けの記事とか、私たちの日常会話など、特に注意を向けていなくても、四方八方から何となく飛び込んでくる情報に、敏感に反応できるようにしておけばいいのでしょうか?

 

私は、やはり、それだけでは十分ではないと思います。

 

どこにでも転がっているような情報の中から、自分にとって意味のあることを読み取って役立てるためには、むしろ、そうした判断を可能にするだけの十分な基盤がなければなりません。そのためには、好奇心に振り回され、失敗を重ねながらも、自分なりの経験にもとづいた世界観や価値観を、少しずつ築き上げていく必要があるでしょう。

 

私たちそれぞれがネット上で拾い集める情報は、たしかに偏っているかもしれませんが、たとえそうだとしても、それらは、誰かが用意してくれた情報を受け身で浴びているよりも、ずっと多くの意味を私たちに与えてくれるだろうし、この世界がどんな風になっているのか、そこで自分はどう考え、どう行動していくべきなのか、自分なりに判断するための基盤づくりに大いに役立つものでもあるはずです。

 

実に常識的な結論かもしれませんが、私たちは、RSSリーダーなどの情報収集ツールの長所と短所を踏まえ、自分の好奇心をそれなりに満足させつつも、情報源があまり偏らないように、そして、情報量が増えすぎて日常生活を圧迫しないように、バランスをとっていく必要があるのでしょう。

 

そして、そうしたバランス感覚自体も、私たちそれぞれがネット世界で試行錯誤をする中で、少しずつ育まれていくのだと思います。

 


◆ 日常世界に開いた底なしの穴

 

ということで、先日、愛用しているRSSリーダー(feedly)に登録したサイトを大幅に見直す作業を始め、すでに興味がなくなったものや、情報量の多すぎる大手サイトなどを、思い切ってどんどん削除しました。

 

もっとも、バックアップは取ってあるので、後悔しそうになったら、元の状態に戻すこともできますが……。

 

そうやって作業がひととおり終わるころ、登録したサイトに関連するサイトをオススメする機能を見つけてしまいました。この機能は、ずっと前から導入されていたようなのですが、毎日、膨大な見出しのリストをチェックするのに精一杯で、ぜんぜん気づかずにいたのです。

 

どのくらい使える機能なのか、オススメのサイトをチェックしているうちに、また新たにいくつかのサイトを登録してしまいました。

 

RSSリーダーの運営企業だって、これまでのユーザーを引き留め、新規ユーザーを呼び込むために、いろいろと必死なのでしょう。そして、そうやってサービスが便利で快適になればなるほど、いつもの「ネット散歩」をサクッと切り上げるのがますます難しくなり、ヘトヘトになるまでネットから出てこられなくなってしまうのです。

 

考えてみれば、ネット世界というのは、日常生活の中にぽっかりと口を開けた、底なしの穴みたいなものです。

 

入り口の近くからぱっと見た限りでは、それは、日常の世界がそのまま続いているだけのように見えます。だからこそ、自分の力だけで何とかなると思ってしまうのでしょう。

 

しかし、それなりの時間を中で過ごし、さらに奥へと進んでいこうとするなら、やはり、自分がいま対面しているのは、これまでに自分が身につけた世界観や価値観だけでは十分に対処し切れない、本当に異質な世界なのだということに、できるだけ早く気がつく必要があるのではないかと思います。

 

そして、それに気がついたときに初めて、インターネットという異質な世界にどっぷり浸かっていても、自分の心身のバランスを保ち、生活を破綻させないだけの技術を学んでおきたいという、謙虚な気持ちが生まれるのかもしれません。

 

 

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自分の好奇心と折り合う(1/2) ネット利用時間のコントロール

◆ 自分の好奇心はできるだけ尊重したいが、限度もある

 

私たちのような一般人がインターネットに関わるようになってから、すでに20年以上が経過し、今では、ネットなしには生活が成り立たないほどになりました。

 

ネットが日常の暮らしに浸透するにつれ、ほとんどの人は、その新しい世界とのつき合い方を身につけたと思うのですが、私はと言えば、質的、量的にどこまで関わるのが適切なのか、自分なりの加減がよく分からず、いまだに模索を続けている状態です。

 

言うまでもなく、インターネットが与えてくれる膨大な情報の魅力に抵抗するのは非常に難しいので、そこに無防備に飛び込んでいこうものなら、好奇心がどこまでも刺激され、収拾がつかなくなってしまうでしょう。私も、いつの間にか何時間もパソコンの前に張りついてしまい、他のことがおろそかになるたびに、もっとちゃんと自己管理しなければ……と思います。

 

しかし、何度も失敗を重ねてようやく分かったのですが、そうやって自分に言い聞かせるくらいでは、まったく何の効果もないし、かといって、「ネット断食」みたいに、まる一日ネットの利用を禁じるような荒療治を試みても、そもそも、ネットを使わずに生活すること自体が今では不可能に近いので、すぐに元の木阿弥になってしまいます。
記事 「ネット断食」の試み

 

それに、今はとにかく先の見えない時代だから、世の中の方向性を少しでも把握し、早めに対応できるよう、アンテナをあちこちに張り巡らしておきたいし、それなりにハッピーに生きたいなら、自分が心から求めているものに気づき、それを追求していくことも大事だと思います。そして、ネットの世界は、それらに関して、とても有用な手段と情報を与えてくれるのです。

 

実際、そうやって自分が伸ばしたアンテナを通じて、まさに自分が求めていた情報に行き当たったりするからこそ、うれしくてつい時間を忘れてしまうわけで、そうした探索の面白さに夢中になっているときに、自分でそれをストップするのは、非常に難しいことなのではないでしょうか。

 

とはいえ、現状を放置したままでは、平穏で健康的な生活の「持続可能性」に、かなりの悪影響が出てくるのも確かです。

 

何かをもっと知りたいという欲求には、長い目で見れば有意義な人生につながっていく可能性があると思うし、だからこそ、自分の好奇心を抑圧したくはないのですが、一方で、日常生活があまり不健全にならないよう、ネットとの関わりには、ある程度の節度も必要でしょう。そのためには、欲求にただ振り回されるのではなく、自分の意思で状況を少しでもコントロールし、生活全体のバランスを維持できるようになる必要があります。

 

今回は、ネットの利用時間と情報源のコントロールという二つのテーマについて、自分なりの試行錯誤を通じて分かったことを書いてみることにします。

 


◆ 自由時間をあまり管理したくない、という思い

 

まず、第一に、ネットの利用時間のコントロールについて。

 

実を言うと、私自身は、学生時代から今に至るまで、時間管理のやり方について、本格的に学んだり身につけたりしたことがありません。もちろん、そのためにいろいろと困ることもあったはずなのですが、何となく自己流のやり方で乗り切れた(と自分では思っていた)ので、そのままずるずるとここまで来てしまいました。

 

とはいえ、タイマーを使った時間管理法など、有名な方法については、これまで何度も見聞きする機会はあったし、それこそネットで検索するだけで、詳しい手順を含め、十分すぎるほどの情報が無料ですぐに手に入ります。

 

情報の少なかった昔はともかく、今なら、そうした方法を学び、実践するかどうかは、ほとんど本人のやる気次第だと言えるのかもしれません。

 

ただ、私が、ネットの利用時間をあまり意識的に管理してこなかったのは、仕事ならともかく、自分の自由な時間を使って楽しんでいるところに、効率性優先の管理テクニックみたいなものを持ち込むことに、かなりの心理的な抵抗があった、という理由もあると思います。

 

もちろん、たとえ好きでやっていることでも、その中に、退屈だったりムダだと思う作業がないわけではないし、そういう作業を毎日のように繰り返して消耗するのもイヤですが、かといって、個人的には、日々の習慣を効率化しすぎるのもどうかという気はします。効率化を徹底しすぎても、それはそれで、生活に潤いがなくなってしまうのではないでしょうか。

 

その日の気分に応じて、たまにはバカバカしいことをしたり、脇道にそれてみたりする自由だって必要だと思います。やりたいことをそれなりに自由にやりつつも、生活に支障が出ない範囲に収めるバランス感覚さえ保てるなら、それで十分なのではないでしょうか。

 


◆ 結局、タイマーの助けを借りる

 

とはいえ、そういう理想を口にするのは簡単でも、実践するのは非常に難しいことです。

 

自分の自由時間を聖域にして、効率化の魔の手が及ばないように抵抗し続けたとしても、自分がそれにふさわしいバランス感覚をいつの間にか発揮できるようになり、理想的な時間の使い方が自然に実現するわけではありません。むしろ逆に、問題がそのまま放置され、ネット世界の魅力という魔の手に、生活が引っ掻き回されるだけでしょう。

 

結局、対案もなしにムダな抵抗を続けるのはあきらめて、タイマーの助けを借りることにしました。

 

ネット上の記事を読むときに時間を計り、自分が何にどれだけ時間をかけているかを、まずはしっかり自覚できるようにするのが目的です。

 

また、タイマーには、比較的短い時間で作業を区切っていくことで、それぞれの区切りの中で高い集中力を持続させ、効率アップを図るという狙いもあります。

 

タイマーは、とりあえずは Windows におまけでついているアプリを使うことにし、有名な「ポモドーロ・テクニック」を参考に、25分間の作業用と、5分間の休憩用を設定。
ポモドーロ・テクニック再入門ガイド lifehacker

 

最初のうちは、作業内容をきちんと記録したり、時間の削減目標を立てたりするような面倒なことはせず、とにかく、ネットを利用するときには、忘れずにタイマーを使うよう習慣づけることだけに専念しました。

 

25分という時間についても、あまりこだわらないようにして、タイマーの音で時間の経過に気がつけばそれでいいことにしました。タイマーを止めたら、そのままきりのいいところまで作業を続け、5分ほど休憩をとってリラックスしてから、まだ作業を続けたければ再びタイマーをセットして、25分単位で延長していきます。

 

そうやってしばらく試してみた結果、以前から分かっていたとはいえ、毎日かなりの長時間を、ネット上の記事を読むのに費やしていることがはっきりしました。特に、なかなか面白い記事を見つけ、その書き手やテーマに興味をもち、キーワードを頼りに、そこからさらなる探索に乗り出してしまうと、そのまま時間を忘れ、ろくに休憩もとらずに、何時間もぶっ続けであれこれ読み漁ったりしてしまいがちでした。

 

ただ、そういうことをしていると、時間が経つにつれて、作業のペースや集中力が明らかに鈍っていくことも見えてきました。

 

自分が毎日どれだけの時間をネットに費やしているか、また、時間の使い方が行き当たりばったりで、いかに非効率なやり方をしているかが明白になると、特に改善しようと意識しなくても、ネットの利用時間が少しずつ減少するようになり、また、30分くらい経つごとに、ちょっと休憩を入れたいな、という気持ちが、自然に起こるようになってきました。

 

今のところ、特に意識的に何かをガマンしなくても、ネットの利用にそれなりにブレーキがかかり、何となく状況をコントロールしやすい感じになりつつあるような気がします。

 

これまでは、全体の見通しもないままに、そのつど思いついた作業に没入するだけで、どんなことを、どんなやり方でどのくらいやっているのか、無自覚なままだったのですが、タイマーを導入することで、作業全体を冷静に見渡す視点が生まれ、自分の行動パターンとその問題点も少しずつ見えるようになってきた、ということなのだと思います。

 


◆ 自由時間が効率化の波に飲み込まれる?

 

ただ、これについては、自分の自由な時間という聖域に、効率化という、ビジネスライクな光を当てすぎたという側面も、ないわけではないのかもしれません。

 

そもそも、人間の行動のすべてを、ムダか、そうでないか、という基準で選別していけば、正直な話、絶対にムダではない、と言い切れるような立派なものは、ほとんど残らないと思います。

 

何となくボーッとしている時間とか、ヒマつぶしにゲームをしたり、テレビやネットの動画をダラダラ見ている時間はもちろん、一見有意義に見えても、私たちの人生にとっての重要度という見地から厳しく判断するなら、ほとんど価値がないと判定されそうなことは、かなり多いのではないでしょうか。

 

その意味で、効率化というのは、最初のうちこそ日常生活を大いに改善してくれるのですが、それは往々にして行き過ぎてしまい、気がつけば私たちの内面の世界に容赦なく踏み込んで厳格な評価を下し、それらを一気に色あせたものにしてしまう危険性を秘めているのかもしれません。

 

個人的に、ネット上の記事を読んだりする時間が少しずつ減ってきているのも、そういう影響がじわじわと効いてきているのではないでしょうか。

 

ただ、そうやって自分の生活を徹底的に棚卸しして、それらにどれだけの意味があるのか、人生の貴重な時間をかけてまで追い求めるに値するものなのか、ということを厳しい目で判断していっても、最後まで残るものはもちろんあるはずです。

 

そして、そうやって残るのがたとえほんのわずかだとしても、ガラクタの中からそれらをより分け、はっきりと知ることができるなら、効率化の徹底にも、それなりの意味はあるのかもしれません。

 


◆ 好奇心と日常生活のバランス

 

それはともかく、タイマーを利用したこの新しい行動パターンが、この先、習慣としてうまく定着していくのかどうかはまだ分かりません。

 

ただ、ネットに侵食されない、ゆとりある日常生活を維持したいなら、ネットの利用時間をこれ以上増やさず、できれば減らしていかなければならないし、そのためには、クリックするたびにどこまでも膨らんでいく好奇心を、やはり、ある一定の枠内に抑えておく必要があります。

 

それは別に、自分の好奇心をどこかに閉じ込めようというのではありません。残念ながら、この世界で生きているかぎり、私たちが好奇心を向けられる対象は無限ではないことを自覚し、限られた時間内で、自分がもっとハッピーになれるテーマに好奇心を絞り込むやり方を学ばなければならないだけなのです。

 

私の場合は、タガが外れて迷走する好奇心が、日常生活にどれだけの負荷をかけているのか、最近になってようやく客観視できるようになりつつあるわけですが、きっと、時間管理のやり方を、もっと前に習得しておくべきだったのでしょう。

 

実際、私たちが現状を把握し、自分の欲求と生活の持続可能性とをバランスさせるための助けとして、タイマーを使った方法にせよ、別の時間管理法にせよ、何らかのテクニックを学んで実践する意味はあると思います。

 

そしてそれは、「ネット断食」のような極端な方法である必要はなくて、むしろ、腹八分目を目指すような穏やかなもののほうが、長い目で見て効果が大きいのかもしれません。

 

もちろん、効率化が行き過ぎれば生活を不毛にしてしまうように、それらは時に、思わぬところで、別のネガティブな影響をもたらす可能性もありますが……。

 

(続く)

 

自分の好奇心と折り合う(2/2) 情報源のコントロール

 

 

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見るべきか、やめておくべきか

ここ数年の間に、Netflix や Hulu など、定額見放題の動画配信サービスが次々に始まったこともあり、日本でも、ネット経由で映画やドラマを見る習慣がさらに広がりつつあるようです。

 

と言っても、私自身は GYAO! のような無料サービスしか利用したことがなく、有料サービスがどのくらい便利で快適なものなのか、頭の中で想像してみるだけなのですが、無料サービスの方も、以前に比べればずっと充実してきていて、最近では、選ぶのに困るくらいのさまざまな作品が配信されています。

 

これは、私たちにとってすばらしい状況ではあるのですが、一方で、ちょっとした悩みのタネを、新たに生み出しているように思います。

 

それは、私たちの限られた時間を、いったい何に振り向けたらいいのか、という問題です。

 

例えば、ちょっとした空き時間があるとして、それで映画やドラマを見るという行動を選べば、近所に散歩に出かけたり、誰かと話をしたり、ゲームをしたり、音楽を聴いたり、本を読んだり、何か手の込んだ料理を作ってみたりといった、ほかのさまざまな選択肢をあきらめることになるし、映画やドラマを見ると決めた後も、今度は膨大な作品リストの中から、どの作品を選び、どの作品をあきらめるかという決断をしなければなりません。

 

そして、度重なる決断を乗り越え、実際に行動に移したところで、それがあまり面白くなかったりすれば、もしもほかの選択肢を選んでいたら、もっとハッピーな気持ちになれたかもしれないのに……と、自分の失敗を後悔することになるわけです。

 

でもまあ、だからといって、こういう問題をいちいち真剣に考えすぎると、日常生活がしんどくなってしまうので、私たち人間は、こういうことを適当にスルーしながらうまくやる術も身につけています。

 

映画を最後まで見てつまらなければ、それなりにガッカリはしますが、それでもムダになる時間は長くて2時間ほどなので、あまり深刻に考えることもなく、そのまま忘れてしまうことができる人は多いのではないでしょうか。

 

問題は、連続ドラマの場合です。

 

1シーズン、十数話の作品でも、全部見れば10時間近くになるので、それだけのまとまった時間を、ほかのことに使えば、ずっと有意義に過ごせたりするかもしれません。

 

ただ、テレビでいま放送中のドラマを見るような場合、そこまで熟慮して決断をする人はあまりいないでしょう。とりあえず最初だけでも……という気軽な気持ちで見始め、それが面白ければ来週も、という感じで何度か試し、かなり引き込まれるようなら、1シーズンの間、週に1時間だけ捻出することを考えればいいわけです。

 

もしかすると、その作品が大ヒットして、将来、続編が作られたりすれば、そのときはさらに時間をとられることになるかもしれませんが、将来のことなんて現時点では分からないわけだから、もしもそうなったら、またその時に考えればいい、と割り切ることができます。

 

つまり、見るべきか、やめるべきかという決断は、最初のうちは、1話見るたびに小出しに行われることになるので、それぞれの時点で、かなり気軽に判断をすることができるわけです。

 

しかし、ネットの見放題サービスなどで、過去の大長編ドラマに手を出そうとするような場合には、話が違ってきます。

 

過去の大ヒットドラマの中には、何度もシーズンを重ねた結果、全部で100話を超えるようなものさえあり、最後まで見たらトータルで何十時間消費することになるのか、あらかじめそれを正確に計算できてしまうだけに、思い切って見始めるべきか、やっぱりやめておくべきか、まるで「究極の選択」のような決断を迫られ、実に悩ましいのです。

 

それらは、絶大な人気があったからこそ次々に続編が作られ、大長編になったわけで、 あえて解説や他人のレビューなど読まなくても、大長編だという事実そのものによって、面白さは保証されているといえます。実際、第1話を試しに見てみると、どんな作品であれ、それなりに面白いし、引き込まれます。次が見たくなり、その世界に浸りたくなり、結末を知りたくなります。だから、後で面白くなかったと悔やむような可能性はほとんどないと思うのですが、逆に言えばそれは、途中でやめるにやめられない、ということでもあります。

 

さすがに何十時間ものまとまった時間があれば、そのドラマを見る以外にも、面白いことがいろいろできるでしょう。何か自分にとって全く新しいことを学んだり、始めたりすることさえできるかもしれません。果たしてそういう楽しみや可能性をあきらめてまで、その作品を見始めるべきなのか、いろいろと考え込んでしまうのです。

 

もちろん、大長編を見終われば、豊かな作品の世界に浸り切った満足感や、何かを成し遂げたという充足感を味わうことができるでしょう。しかし、それは同時に、人生の貴重な時間を、ある特定のドラマに捧げたということでもあるのです……。

 

そして、これは長編ドラマに限ったことではなくて、長編小説とか、ゲームとか、ほかのさまざまなことについても同じなのかもしれません。

 

自分の自由になる時間は限られているのに、世界中のさまざまな素晴らしいコンテンツが、あの手この手で私たちを誘惑しようと手ぐすねを引いて待ちかまえています。その一つひとつに足を踏み入れるまでの敷居はどんどん低くなりつつあり、その一方で、一度足を踏み入れてしまえば、それは、それ以外のさまざまな選択肢をあきらめることを意味します。

 

何かを得ようとすれば、何かを捨てるしかない……。それは、この世に生きる上で常につきまとうジレンマですが、長編ドラマにチャレンジしようか、やっぱりやめておこうかと悩むたびに、それがこの世界の現実を象徴しているようで、何とも言えない切ない気持ちになるのです。

 

でもまあ、何を選ぶべきか悩んでいるだけでも、時間は同じように失われていくわけだから、失敗や後悔を恐れず、いまの自分が「これだ!」と思った選択を信じて、どんどん行動に移していくしかないのですが……。

 

 

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記憶の発掘

先日、このブログで、Spotify を「懐メロ」プレイヤーとして使っている、みたいなことを書いたのですが、それがきっかけで、自分にとっての懐メロを、もっといろいろと集めてみたくなりました。

記事 Spotifyと「懐メロ」

 

Spotify 公式のプレイリストを始め、年代別のヒット曲を集めたコンピレーション・アルバムなどを片っ端からチェックして、聞き覚えのある曲を探していくと、曲名もアーティストの名前も知らなかったけれど、サビの部分だけはよく知っているような曲が次々に見つかりました。

 

たぶん、子供のころや学生時代に、テレビやラジオで何度も流れていたか、あるいはその後、テレビのコマーシャルとかバラエティ番組のBGMで耳にする機会があったのでしょう。繰り返し聞かされて心に刻み込まれていたせいか、サビの部分を聞いた瞬間、「ああ、これこれ!」と思い出したのですが、それまでは記憶の底に埋もれていて、意識に上ることはありませんでした。

 

もしもその曲が、もっと魅力的で、どうしてももう一度聴かずにはいられないと思い詰めるほどだったら、きっと、過去のどこかの時点で、必死で曲名を調べたりしたんだろうと思います。でも、昔はメロディーや歌詞の一部から曲名を調べるのは難しかったし、かりに曲名が分かったところで、それを聴きたければレコードやCDを買うしかなかったわけで、実際に聴きたい曲にたどり着くまでにはいくつものハードルがありました。

 

そんな状況だったので、当時、どこかで聞いて何となく気にはなっても、そのままになって、いつしか忘れ去ってしまったような曲が、きっとたくさんあったのでしょう。

 

音楽好きの人なら、ふだんからさまざまなメディアを通じて多くの曲に接する機会があり、その中で、気になる曲の名前などを知るチャンスもあると思いますが、音楽にあまり縁のない暮らしをしてきた私は、大量の音楽をまとめて試聴できる Spotify のようなサービスと出合うことで初めて、昔のモヤモヤを少しずつ解消できるようになったわけです。

 

そして、今回、初めて曲名が分かった昔の歌を久しぶりに聴いていると、本当に好きでよく知っている曲のように、具体的ではっきりとした思い出が浮かんでくるというほどではありませんが、その曲を耳にしていたころの記憶の断片というか、当時の雰囲気のようなものが、ぽつぽつと蘇ってきます。それらの曲は、たとえ今まで忘れてしまっていたとしても、膨大な記憶の世界を支える大事なパーツとして、確実に自分の一部になっていたのです。

 

それにしても、そうやって自分にとっての懐メロを調べる作業をすることによって、これまでずっと心の奥深くに埋もれたままだった音楽のかけらを、意識の光の当たるところまで引っ張り出してくるのは、まるで、記憶の発掘をしているみたいで、とても面白いと感じました。

 

テレビの懐メロ番組をぼんやりと見ながら、懐かしい曲が流れるのを何となく待っているよりは、こうして Spotify のような「音楽の図書館」にこもって、自分から積極的に、過去をあちこちほじくり返してみるのも、たまにはいいのかもしれません。

 

まあ、あまりやりすぎると、封印していたはずの、過去の恥ずかしい思い出なども一緒に蘇らせてしまいそうですが……。

 

それはともかく、昔のさまざまな曲が私の心に刻み込まれたのは、それらの曲を気に入った誰かが、映画やテレビ番組やCMのBGMとして使ったり、ラジオでリクエストしたり、街中で何度も流したりしていたからです。あるいは、過去の時点ですでに、それがおなじみの名曲として、さまざまなメディアで繰り返し取り上げられるような存在だったからです。

 

人に好まれた音楽は、そうやってあちこちで何度も流され続けることで、次の世代の人々の心の中に、無意識のうちにしっかりと植えつけられていきます。若い世代の中には、そうした古い曲に魅せられて、それがその人にとっての特別な一曲になったりすることもあるでしょうが、多くの場合、そこまではいかなくても、気がつかないところで世界観や美意識に微妙な影響を与え、各人の膨大な記憶の世界を味わい深くする、隠し味のような存在となっていくのかもしれません。

 

ただ、そうやって後世に残る名曲やヒット曲よりも、もっとずっと多くの曲が、時間とともに忘却の彼方に完全に消え去っていくのだと考えると、なかなか切ないものがありますが……。

 

 

記事 「懐メロ」の効用

 

 

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Spotifyと「懐メロ」

音楽ストリーミングサービスの Spotify が、昨年の9月に日本でのサービスを開始してから、1年ほど経ちました。

 

数千万もの楽曲にアクセスできるとはいうものの、「大人の事情」で日本のアーティストの曲は限られているし、無料サービスの利用時間に上限があったり(再生する曲を自由に選べるのは、パソコンだと、1か月につき15時間まで、スマホはシャッフル再生のみ)しますが、とにかく無料でそれなりに楽しめるのはありがたく、ときどき使わせてもらっています。

 

Spotify には、各国別の人気曲やSNSで話題の曲、ジャンル別・シチュエーション別のプレイリストなどが用意されていて、とりあえず何のあてもなくても聴き始められるようになっています。また、Release Radar (各ユーザーの好みを反映させたプレイリストが毎週更新される)のように、新しい音楽と出合うきっかけを与えてくれそうな、面白い機能も無料で使えます。

 

もちろん、自分の聴きたい曲がはっきりしているなら、膨大な曲の中からピンポイントで検索することもできます。

 

ただ、これまで1年近くのあいだに、個人的に Spotify をどれくらい利用したかとなると、全部で十数回、時間にしても、トータルで数十時間に満たないのではないかと思います。これは、Spotify に問題があるということではなくて、単純に、私が音楽にあまり縁のない生活をしているからです。

 

若いころはともかく、最近はめっきり音楽を聴かなくなったし、それで平気になってしまいました。当然、今の世界の音楽の流れには全然ついていけてないのですが、歳をとったせいか、Spotify が面白そうな曲を教えてくれていても、そうした機能を生かして、自分にとって新しい音楽を積極的に開拓していこうという意欲が湧いてこないのです。

 

もしも、学生時代にこうしたサービスに出合っていたら、もっと気軽に新しい音楽を試し、その結果、日常生活の中で、音楽がもっと存在感をもつようになっていたのかもしれません。そういう意味では、Spotify のような素晴らしいサービスに出合うのが、ちょっと遅すぎたという残念さはあります。

 

それでも、Spotify に利用価値がないというわけではありません。

 

私のような人間でも、これまで生きてきた中で、ちょっとした思い出の曲とか、耳に残っている曲くらいならいくつもあります。学生時代によく耳にしたけれど、CDを買うほどではなかった曲とか、一時期はファンでけっこうCDを買ったりしたけれど、そのうちすっかり熱が冷め、すでにCDも処分してしまったアーティストの曲とか、異国の旅先で耳にタコができるくらい聞かされた曲とか……。要するに、「懐メロ」です。
ウィキペディア  「懐メロ」

 

そういう曲を面白半分に検索してみたら、海外の作品なら、けっこうな確率で曲と再会できることが分かり、うろ覚えのタイトルとかアーティスト名で検索したり、それでも分からなければ、当時のヒット曲をネットで調べてみたりして、しばらく懐メロを探しては、My Music(自分用の曲名リスト)に追加する作業を楽しく続けました。

 

自分用のリストを作り上げるまでに、多少の手間と時間はかかりますが、その面倒さえ厭わなければ、Spotify を自分専用の懐メロ再生機として使うことができます。懐メロは、たまに気が向いたときに聴けば十分満足できるので、無料サービスの上限時間(月に15時間)でも十分すぎるほどです。

 

そうやって、しばし懐メロに浸りながら、ふと、今の若い人たちにとっても、懐メロというものが存在し得るのだろうかと考えてしまいました。

 

懐メロというのは、ある時期、特に若い頃に、同じ曲を何度も繰り返し聴いて耳にこびりつくからこそ、後からその頃のさまざまな思い出や感情とともによみがえってくるものです。

 

昭和時代に青春を過ごした世代の多くは、今と比べれば、多様な音楽に触れる機会がなく、ラジオや街中で何度も同じ曲を聴いたり、録音したカセットテープをすり切れるまで再生するような環境でした。結果的に、一部の人気曲ばかりを耳にすることになりましたが、それがしっかりと耳に残ったことで、何十年後かに、当時を思い出すきっかけになってくれます。

 

しかし今では、あまりにもいろいろな曲を、ほとんどコストなしであれこれと聴くことができます。そういう環境でも、お気に入りの曲を、何度もしつこく聞いたりするものなのでしょうか? まあ、その辺りは人それぞれなのでしょうが、さまざまな曲を広く浅く聴いているような場合には、将来、それらが懐メロになることはないような気がします。

 

それに、かりに若い人たちそれぞれが、今現在、思い入れの深い曲を持っているとしても、その好みがバラバラであれば、たとえ同じ世代であっても、共通の懐メロを持つことはできないでしょう。

 

今の音楽のジャンルは細分化されているし、今後はさらに多様になっていくはずです。しかも、今、レコード会社が売り出している曲をみんなが聞いているわけではなく、多くの人が、Spotify などで知った、どこかの国の過去の曲に夢中になっているかもしれません。

 

だとしたら、これから数十年後に、みんながそろって感動できるような懐メロ番組を、テレビで放送するなどということはできなくなります。

 

でもまあ、今後は Spotify のような音楽ストリーミングサービスが、十分にその代わりをつとめてくれることになるのでしょう。実際、個人的に好きな曲だけを集めてプレイリストを作れるので、テレビの懐メロ番組よりも便利で感動できるという人も多いと思うし、将来、アーティストの映像なども見られるようになれば、もっと素晴らしいサービスになりそうです。

 

そして、さらに未来の世界では、きっとヴァーチャル・リアリティの技術も格段に進化して、Spotify よりもずっと面白いサービスが生まれることでしょう。そこでは、音楽以外のアイテムも含めて、自分にとって懐かしいもので満たされた、バーチャルな過去の世界、例えば、未来人にとっての『三丁目の夕日』みたいな、古き良き思い出にどっぷりと浸れる世界が個人向けに作り出され、その中に没入できるようになるかもしれません。

 

昔の人は、年末など、たまに放送されるテレビの懐メロ番組を心待ちにしたり、高いカネを払って当時のヒット曲集を買ったりするしかありませんでしたが、未来の人々は、人工知能の強力な助けを借りながら、自分専用にカスタマイズされた仮想世界に入り込んで、それこそタイムトラベルをしているような気分を味わえるようになるのかもしれません。

 

もしそんなことが可能になったら、若い人たちよりは、むしろ、ヒマを持て余した老人たちにとっての格好の娯楽になりそうですが……。

 

 

記事 記憶の発掘

記事 「懐メロ」の効用

 

 

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