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ネットの片隅で朽ちていく故人データ

現在、私たちは、Twitter や YouTube のようなネット上のサービスを通じて、自分の思ったことや表現したいことを気軽に世界中に発信するようになっていて、同時に、生活上の雑多な情報やメモや写真など、プライバシーにかかわる膨大なデータも、クラウドストレージなどのサービスを通じて、ネット上に保存するようになりつつあります。

 

ただ、もしも私たちが突然死んでしまったりしたときに、そうした大量のデータがどうなってしまうのか、という点に関しては、みんな漠然と気にはしているでしょうが、それ以上の具体的な対策となると、特に何も考えていない、という人の方が多いのではないでしょうか。

 

SNSや実名での情報発信は別にして、ネット上で誰がどんなサービスを利用しているかは他人には見えにくいし、各サービスの個人データは厳重なセキュリティで守られているので、万が一の場合、本人があらかじめ用意しておいたメモなどで詳しいことを知らされないかぎり、たとえ家族のような身近な人間であっても、どこにどんなデータが保管されているのか知りようがないし、かりにそれがわかっても、パスワードがなければアクセスできません。

 

もちろん、こうした問題に関しては、亡くなった人物や遺されたデータの社会的・経済的な重要度によって、周囲の人々の真剣度も大いに違ってくるはずです。

 

故人が運営していたサイトが大きな利益を生んでいるとか、どんなプライベートな情報でも歴史的な資料になりそうな重要人物であれば、多くの関係者が必死になって、「故人データ」を閲覧し、それを誰かに引き継ぐためのあらゆる手段がとられるでしょう。そうしたケースでは、たとえ本人が何の準備もせずに亡くなったとしても、事態は関係者の利害が一致する形で、速やかに収まっていくのだろうと思います。

 

一方で、私的なデータに経済的・歴史的価値のほとんどなさそうな、私たちのような一般庶民の場合には、関係者の熱意も盛り上がらず、なんとなくそのまま放置されたり、データの存在にすら気づかれないままになってしまうことも多いのではないでしょうか。

 

これまでに、有名人がネット上のデータをそのままにして亡くなったケースは数多くあるので、そうした事例を何度も見聞きしていれば、さすがに私たちも、自分の死後のデータの取り扱いについて、必要な準備をしておこうと考えざるを得なくなるような気がするのですが、実際には、そういう習慣が広まっている気配はありません。

 

やはり、ふつうの人間は、自分が突然死ぬかもしれないなどということを、具体的に想像したくはないのだろうし、ネットの利用者は、今でも若い世代に偏っているだろうから、みんな、目の前に広がる青春の日々を謳歌するのに忙しすぎて、死んだ後のことなんて、頭に思い浮かべるヒマさえないのかもしれません。

 

それに、ネットサービスを提供している企業の側としても、正直な話、こういう問題にはあまり関わりたくないでしょう。

 

ユーザーが事前に何の意思表示もしていなかった場合、遺族や関係者が望んでいるからといって、勝手に故人のデータを見せたり、管理の権限を誰かに引き渡してしまっていいのかという問題があるし、法的な問題にも配慮しつつ、個別のケースごとに丁寧な対応をしていたら、とにかく膨大な手間がかかります。しかも、今後、ずっとサービスが継続されれば、処理しなければならない案件は増えていく一方です。

 

だとすると、やはり一番いいのは、社会的・経済的な影響の大きい重要人物のケースは別にして、ごくごくふつうのユーザーの場合には、遺族も関係者も、故人のプライバシーを尊重するという名目で、遺されたデータにはできるだけ手をつけずにそっとしておき、実質的にそのまま放棄することで、結果的に、サービスを提供している企業の手も煩わせない、というような慣習が広がっていくことなのかもしれません。

 

とはいえ、それで関係者全員が素直に納得するとは限らないし、故人の銀行口座や資産に関するデータがどこかに紛れ込んでいるなど、金銭的な利害がからんでくれば、あまり悠長なことは言っていられないのかもしれません。

 

また、ユーザーの中には、そういうことを成り行き任せにはせず、自分の死後のデータの行く末について、きちんと計画しておきたい人もいるでしょう。

 

そういうニーズに応えるためか、一部のサービスでは、万が一の場合のアカウントの処置について、いくつかのオプションを事前に設定できるようになっています。例えば、Google のアカウントに関しては、一定期間ログインされなかった場合に、誰かにそのことを通知したり、データを自動的に削除することができるようです。

自分の死後、GmailやGoogleドライブのデータを自動削除する方法 lifehacker
 

ただ、個人的には、かりに本人が何の対策もとらず、データが放置され、やがて消滅し、結果的にそれを誰にも引き継げないとしても、それはそれでいいんじゃないか、という気がします。

 

もともと、昔から、ほとんどの人間は、遺産といえるようなものは何も遺さずに死んでいました。

 

何か遺すことができる者は、それなりの財産のある、ごくわずかな人間だけだったし、彼らが遺すものも、カネとか、土地や家、家財道具のように、受け取った人たちがそのまますぐに使えるようなものばかりだったと思います。

 

中には、日記などをコツコツと書き記した人もいたでしょうが、そんなものを遺された子孫としては、実際にはありがた迷惑だったのではないかという気がします。

 

「去る者は日々に疎し」という言葉どおり、過去の人々の記憶は、時間の経過とともに急速に薄れていきます。直接面識があった、ごく親しい人たちでさえ、死者のことを思い返す機会はどんどん少なくなっていき、十年もすると、ぼんやりとした記憶が残るだけになってしまうでしょう。そして数十年が経てば、そういう人たちもほとんど死んでしまい、やがて故人のことを直接知る人はいなくなります。

 

ご先祖様の古い日記が遺されていたとしても、遠い昔の、名前すら聞いたことのないような人物が、当時の平凡な出来事をこまごまと記しただけのものを、時間と手間をかけ、埃にまみれながら、ありがたがって読む子孫はほとんどいないでしょう。死後しばらくの間は、書き手のことを直接覚えている人たちが、興味本位で拾い読みするくらいのことはあるかもしれませんが、その後は土蔵の奥にしまい込まれたまま、古文書一式みたいな感じで、そのまま何百年も忘れ去られ、ゆっくりと虫に食われていくのがオチだっただろうと思います。

 

むしろ逆に、そういうものが山のように残っていると、それを保管する手間やコストの負担を子孫や関係者に押しつけることになります。それでも、子孫が律義な人たちばかりで、負担をかえりみず、頑張って古文書を何世紀も守り抜いてしまうと、それはやがて貴重な歴史的資料になってしまい、その内容がどうであれ、もはや誰かが勝手に処分することさえ許されなくなってしまうかもしれません。

 

しかし、今のような時代には、ごく一般的な人物の個人的なデータを歴史的資料として大事に保存しておく意味はほとんどないでしょう。そんなものは、すでにネット上に掃いて捨てるほどあるし、その一部は、すでに何らかの形で半永久的に保存されているからです。

 

かなりキツい言い方かもしれませんが、特に社会的な価値があるとは思えない膨大な私的データを子孫や関係者に引き継いでいくのは、彼らに保存や管理の手間をかけさせ、それを廃棄すべきか否か、将来の誰かを大いに悩ませてしまうという点で、有害だとさえいえるかもしれません。

 

であるなら、本人がどうしても誰かに遺したいと心から願う、厳選されたごくわずかなメッセージ(それでさえ、子孫にとってはありがた迷惑になりそうですが)は別にして、ほとんどのデータは、本人が生きている間にしか意味がないのだから、死んだらそのまま、誰かの目に触れることも、存在さえ知られることもなく、ネットの片隅でひっそりと朽ちていくのがふさわしいのではないでしょうか。

 

そして、そういうふうにキッパリ割り切ってしまえるなら、本人がいつ死ぬことになろうと、あらかじめデータを整理しておく必要も、関係者に保存先を知らせておく必要もない、ということになります。むしろ、その存在を誰にも知らせないようにしておけば、死後は、堅固なセキュリティで守られた、ネット上の「開かずの間」にデータが収まることになるので、結果的に、誰にとってもハッピーな形になるのではないかと思います。

 

そもそも、本人が誰かに遺したいと思うような写真とか、伝えたいと思うようなメッセージは、きっと、死ぬずっと前、その写真を撮った直後とか、メッセージを思いついた時点で、すでに伝えるべき人にシェアされているはずです。つまり、本人が死ぬまで非公開にしていたデータというのは、他人がわざわざ見るまでもない、生活関連の雑用メモみたいなものとか、あるいは、そのまま誰にも見せずに墓場まで持っていきたいものなのだから、むしろ、余計な詮索をしない方が、遺族や関係者の心の平安のためにもいいのかもしれません。

 

また、サービスを提供している企業にしても、データが「開かずの間」にずっと放置されたところで、わずかな維持費がかかるだけでしょう。それでさえ問題なら、20年とか30年とか少し長めの期限を決めて、その間ずっとログインされなかったデータを消去するようにルールを設定すればいいだけの話です。数年以内に消去、ということにすると、まだ故人の記憶も生々しいので、データが消されるのはあんまりだ、という声が出てくるでしょうが、20年とか30年という年月が経てば、そのころには関係者自体がいなくなっていたり、多くの人の関心はすでに他のことに移ってしまっていて、ほとんど誰も問題にしないのではないかという気がします。

 

もしかすると、データがそうやって成り行き任せで消えていくだけでは、せっかく自分が生きた証を、後の世に遺せないではないか、という人がいるかもしれませんが、そういう人は、生きているうちに、その「生きた証」を、好きなだけ世界中に発信し、誰もがアクセスできるようにしておけばいいのです。

 

言いたいことがあるなら、いつかもっとふさわしいタイミングがきたら相手に伝える、とか、もっとうまい表現を思いついたら形にする、みたいなことは考えずに、とりあえず、現時点の自分がベストだと思う内容を、SNSなどにどんどん書き込んだり、得意なジャンルで表現するなりして、オープンなネット上にコンテンツを残していけばいいのです。

 

それらは、本人が死んで何年かすれば、サービス運営上のルールに従って、ネット上から消されていくことになるかもしれません。それに、もっと長い目で見れば、企業のサービス自体が終了してしまう可能性もあるでしょう。

 

それでも、いつか誰かが、何かのきっかけでそのコンテンツにたどりつき、それを、みんながシェアすべき大切な内容だと感じたら、彼らはそれを自発的にコピーしたり、引用したりして、ネット上に少しずつ広げていくに違いありません。そして、たとえそれがささやかな動きに過ぎなくても、途切れずに続いていくかぎり、それは未来へのメッセージとして、昔の写本みたいに、時代を超えて受け継がれていくのではないでしょうか。

 

そうなれば、子孫や関係者たちが、同じようなものを、苦労して内輪でひっそりと受け継いでいく必要はありません。

 

でもまあ、そんなに都合よく展開するケースというのはほとんどなくて、実際には、この巨大なネットの大海の中で、完全に忘れ去られてしまう可能性の方がずっと高いでしょう。

 

ただ、ほとんどの発信者は、たぶんそんなことは気にしないだろうし、どんなにささいな行動であっても、生きた証を遺すために自分なりに手を尽くした、という満足感だけで、もう十分なのではないかという気がします。

 

もちろん、わざわざそんな面倒なことをしたくない、ということであれば、ネット上に余計な足跡は残さず、ただ静かに消えていく、というのでもいいと思います。

 

いずれにしても、自分が死んだあと、この世界に遺すべきものを決めるのは、私たち自身ではなく、後世の人たちなのです。

 

そして私たちは、死んだ後のことは一切コントロールできないのだから、何をどうやって遺すかをあれこれ考えるくらいなら、むしろ、絶対に遺したくないデータだけは、確実にこの世から消えるように、きちんと手配しておくべきなのかもしれません。

 

まあ、死んだ後に、何かの間違いで変なデータが人目に触れることになっても、もう、それを恥ずかしいと思う自分はいないのだから、全く問題はない、と言えなくもないですが……。

 

というか、もしもそんなものをいまだに抱え込んでいるのだとしたら、死んだときにそれを消去しようなどと考えず、今すぐそれを実行すべきだと思います。

 

死んだ後ではなく、自分が生きているうちに、それが表に出てしまう可能性はゼロではないので……。

 

 

記事 ブログが墓標に?

 

 

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自分の好奇心と折り合う(2/2) 情報源のコントロール

自分の好奇心と折り合う(1/2) ネット利用時間のコントロール

 

(続き)

 

◆ どんどん増えていく情報源

 

前回は、自分の好奇心との折り合いについて、ネットの利用時間という側面から考えてみました。

 

今回は、もう一つの側面として、ネット上の情報源をどう絞り込むかについて書いてみたいと思います。

 

私の場合、今のところは、SNSとか、動画やゲームに時間をつぎ込んでしまうことはないのですが、いまだにRSSリーダーを愛用していて、そこにかなりの時間を費やしているため、ネットとのつき合いを適正化しようとするなら、何よりもまず、そこに手をつける必要がありました。
ウィキペディア 「フィードリーダー」
記事 RSSリーダーの「断捨離」

 

これは、誰しもそうだと思いますが、RSSリーダーを使っていると、登録したサイトの数は増える一方で、減ることはほとんどありません。

 

RSSリーダーは、自分のお気に入りサイトの更新情報を効率よく集めるための道具なので、当然、登録してあるのは自分にとって大事な情報源ばかりです。尊敬したり注目している人物の個人サイトで、新しいメッセージが発信されるのを楽しみにしていることもあれば、自分にとって非常に大切なテーマを扱っているサイトもあります。

 

また、長年にわたってずっと読み続けてきたサイトもあり、今では自分の興味関心が薄れ、記事をほとんど読まなくなっていても、すでに深い愛着があるので、簡単には登録解除に踏み切れなかったりするのです。

 

しかし、そんなサイトでも、登録解除しないかぎり、RSSリーダーは記事の見出しを自動的に拾ってきてしまいます。そして、どんな見出しであっても、人の注意を引き、本文を読んでもらうための工夫がたっぷり詰め込まれているので、少しでも目に入れば、反射的にクリックしたくなります。

 

今まさに興味があるテーマはもちろん、今は興味がなくても、かつては大いに熱中していたテーマなら、面白そうな見出しでちょっと気持ちをくすぐられるだけで、頭の中のいろいろな記憶ともつながり、懐かしさと好奇心で、読みたい気持ちが抑えられなくなります。結局、時間さえ許すなら……と自分に言い訳しつつ、いくつもの記事を読みふけってしまうのです。

 


◆ 一期一会だからこそ、気軽に読み流せない

 

もちろん、いちいちその場で記事にかじりつくのではなく、せめて、読みたい記事のリンクなり本文なりを保存しておいて、後で他の記事と一緒に読むようにすれば、多少は効率がよくなります。

 

実際、私もかなり前から、そういうやり方を実践しています。記事をすぐに読み始めず、いったん保留してクールダウンすれば、見出しにつられて余計な記事を読んでしまう可能性も少しは減るだろうし、保存した記事に優先順位をつけて、読むか読まないかを改めて選別することもできます。

 

しかし、そうやって保留した記事も、結局は、その日のうちに読み切らなければならない、というプレッシャーがあります。

 

RSSリーダーには、新しい見出しがリアルタイムで次々に追加されていくので、今日、膨大な見出しのリストを全部チェックしたとしても、明日にはまた、同じくらい膨大な見出しをチェックしなければなりません。そして、見出しに目を通すにも、実際に記事を読むにも、それなりの時間が必要なので、今日の分の記事を読み残してしまうと、明日以降の見出しチェックや、記事を読む時間にしわ寄せがいくことになります。

 

記事を古いものから順番に片づけていたら、そのうち、過去の読み残しを処理しているだけで、その日が終わってしまうことにもなりかねません。それを回避したいなら、毎日、その日の分の記事は、寝る前までに何としてでも読み切ってしまうか、それとも、読み切れなかった分は、いつかヒマができたら読むという名目で、そのまま放置するしかないのです。

 

冷静に考えれば、どうしてそこまで必死になって記事の山と格闘しなければならないのだろう、と思わなくもないのですが、とにかくそうやって毎日時間に追われ、自分の自由時間のほとんどをつぎ込んでひたすらネットの探索を続けているうちに、目の前に現れる見出しの一つひとつと、それこそ一期一会のような思いで向き合うようになりました。

 

ズラッと並んだ見出しにすばやく目を走らせながら、読むか読まないかを即決していくわけですが、それはほとんど直感的なもので、ごく一部の記事だけを拾い出しつつ、意識はどんどん次の見出しへと流れていきます。

 

もちろん、その判断をやり直す時間はないので、いったん読まないと判断されれば、その記事を目にする機会はもう二度とないでしょう。後日、ネット上で多くの人から注目を浴び、あちこちで引用されたりして、嫌でも目に入るようになったりすれば別ですが……。

 

ある記事を読むかどうか、ほんの一瞬の判断が、つねに最初にして最後の判定である以上、自分が読むべき記事は決して見落としたくない、と思うし、いったん読むと決めた記事は、とにかく自分の直感が読めと命じたのだから、最後までしっかり目を通してみよう、という気持ちになります。

 

まあ、それが変な責任感につながってしまうのか、見出しや記事を気軽に読み流すことができず、何とか時間をやりくりして、その日のうちに記事を読み切ろうと頑張ってしまったり、それが、かなりの心理的な負担にもなっているのではないかという気がします。

 


◆ RSSリーダーの登録サイトを絞り込む

 

いずれにしても、毎日更新されるネットの情報を追いかけ、それを消化するだけのために、一日に何時間も費やすようでは、やはり問題があると言わざるを得ないでしょう。

 

そして、それはもしかすると、自分が今、切実に求めているのは何なのか、そのためにどれだけの時間的・精神的なコストをかけられるのか、明確な方向性と、それに基づく優先順位がはっきりしていない、ということなのではないでしょうか。

 

前回の記事で書いたように、自分の自由時間には、「効率」という概念をあまり持ち込みたくはないのですが、RSSリーダーの利用に関しても、もう少しビジネスライクに、情報源や読むべき記事を絞り込むための基準を明確化する必要があるのかもしれません。

 

自分自身の方向性をいますぐ明確にするのはさすがに無理にしても、せめて、RSSリーダーに登録するサイト数の上限を決めるなどして、自分の目に触れる見出しの数を、できるだけ減らす必要はありそうです。

 

そのためには、面白そうだと思ったサイトを「お試し」感覚でどんどん登録するのではなくて、一つ登録したら一つ以上のサイトを削除するみたいに、自分なりに、かなり厳しいルールを課していかなければならないのかもしれません。

 

また、「〇〇ビジネス」とか、「〇〇オンライン」みたいな、大手の総合サイトを登録していると、毎日大量の更新があるだけでなく、好奇心をあからさまに刺激してくる見出しに、つい注意が奪われてしまうので、思い切って、そういうサイトの登録を解除してしまう、という方法もあるでしょう。

 

まあ、総合サイトを通じて雑多な記事に触れることで、自分の世界が少しずつ広がっていく面もないわけではないのですが……。

 

それに加えて、毎日見出しのチェックをするためのRSSリーダーと、これまでに自分が集めてきた、信頼できる情報源を整理・保存しておくためのRSSリーダーとを、はっきり分けておくべきなのかもしれません。

 

後者は、個人的な思い入れが深すぎて、なかなか削除できない情報源をとりあえず保存しておくのに役立つし、何か重大な出来事があったりしたときに、自分が信頼する人々がどのような見解を示しているか、すぐに調べることもできます。

 

しかし、ふだんからそういうサイトの情報までもれなくチェックしていると、あまり必要のない記事をつい読みふけって、いくらでも時間を費やしてしまうことになるでしょう。

 


◆ RSSリーダーの問題点

 

あと、忘れてはならないのは、RSSリーダーには、自分で選び、登録したサイトからの情報ばかりに注意が偏りがちになる、という弱点があることです。

 

もちろん、登録するサイトをバランスよく配分するなど、自分でできる対策もありますが、それでも、RSSリーダー経由でやってくる情報は、ネットが24時間生み出し続けている膨大な情報の、ごくごく一部に過ぎません。お気に入りのサイトばかりに注目していると、今、世界で起きている重要な動きを見落とす危険性があるかもしれません。

 

RSSリーダーなどのツールを駆使することで、私たちは好奇心を大いに満足させられるようになってはいますが、便利だからといってそれに頼りすぎてしまうと、気がつかないうちに自分の視野を狭めてしまう可能性もあるのです。

 

だとすれば、日頃から特定の情報源をウォッチし続けるよりも、逆にそういうものは捨てて身軽になり、テレビや新聞とか、大手サイトで読める一般向けの記事とか、私たちの日常会話など、特に注意を向けていなくても、四方八方から何となく飛び込んでくる情報に、敏感に反応できるようにしておけばいいのでしょうか?

 

私は、やはり、それだけでは十分ではないと思います。

 

どこにでも転がっているような情報の中から、自分にとって意味のあることを読み取って役立てるためには、むしろ、そうした判断を可能にするだけの十分な基盤がなければなりません。そのためには、好奇心に振り回され、失敗を重ねながらも、自分なりの経験にもとづいた世界観や価値観を、少しずつ築き上げていく必要があるでしょう。

 

私たちそれぞれがネット上で拾い集める情報は、たしかに偏っているかもしれませんが、たとえそうだとしても、それらは、誰かが用意してくれた情報を受け身で浴びているよりも、ずっと多くの意味を私たちに与えてくれるだろうし、この世界がどんな風になっているのか、そこで自分はどう考え、どう行動していくべきなのか、自分なりに判断するための基盤づくりに大いに役立つものでもあるはずです。

 

実に常識的な結論かもしれませんが、私たちは、RSSリーダーなどの情報収集ツールの長所と短所を踏まえ、自分の好奇心をそれなりに満足させつつも、情報源があまり偏らないように、そして、情報量が増えすぎて日常生活を圧迫しないように、バランスをとっていく必要があるのでしょう。

 

そして、そうしたバランス感覚自体も、私たちそれぞれがネット世界で試行錯誤をする中で、少しずつ育まれていくのだと思います。

 


◆ 日常世界に開いた底なしの穴

 

ということで、先日、愛用しているRSSリーダー(feedly)に登録したサイトを大幅に見直す作業を始め、すでに興味がなくなったものや、情報量の多すぎる大手サイトなどを、思い切ってどんどん削除しました。

 

もっとも、バックアップは取ってあるので、後悔しそうになったら、元の状態に戻すこともできますが……。

 

そうやって作業がひととおり終わるころ、登録したサイトに関連するサイトをオススメする機能を見つけてしまいました。この機能は、ずっと前から導入されていたようなのですが、毎日、膨大な見出しのリストをチェックするのに精一杯で、ぜんぜん気づかずにいたのです。

 

どのくらい使える機能なのか、オススメのサイトをチェックしているうちに、また新たにいくつかのサイトを登録してしまいました。

 

RSSリーダーの運営企業だって、これまでのユーザーを引き留め、新規ユーザーを呼び込むために、いろいろと必死なのでしょう。そして、そうやってサービスが便利で快適になればなるほど、いつもの「ネット散歩」をサクッと切り上げるのがますます難しくなり、ヘトヘトになるまでネットから出てこられなくなってしまうのです。

 

考えてみれば、ネット世界というのは、日常生活の中にぽっかりと口を開けた、底なしの穴みたいなものです。

 

入り口の近くからぱっと見た限りでは、それは、日常の世界がそのまま続いているだけのように見えます。だからこそ、自分の力だけで何とかなると思ってしまうのでしょう。

 

しかし、それなりの時間を中で過ごし、さらに奥へと進んでいこうとするなら、やはり、自分がいま対面しているのは、これまでに自分が身につけた世界観や価値観だけでは十分に対処し切れない、本当に異質な世界なのだということに、できるだけ早く気がつく必要があるのではないかと思います。

 

そして、それに気がついたときに初めて、インターネットという異質な世界にどっぷり浸かっていても、自分の心身のバランスを保ち、生活を破綻させないだけの技術を学んでおきたいという、謙虚な気持ちが生まれるのかもしれません。

 

 

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自分の好奇心と折り合う(1/2) ネット利用時間のコントロール

◆ 自分の好奇心はできるだけ尊重したいが、限度もある

 

私たちのような一般人がインターネットに関わるようになってから、すでに20年以上が経過し、今では、ネットなしには生活が成り立たないほどになりました。

 

ネットが日常の暮らしに浸透するにつれ、ほとんどの人は、その新しい世界とのつき合い方を身につけたと思うのですが、私はと言えば、質的、量的にどこまで関わるのが適切なのか、自分なりの加減がよく分からず、いまだに模索を続けている状態です。

 

言うまでもなく、インターネットが与えてくれる膨大な情報の魅力に抵抗するのは非常に難しいので、そこに無防備に飛び込んでいこうものなら、好奇心がどこまでも刺激され、収拾がつかなくなってしまうでしょう。私も、いつの間にか何時間もパソコンの前に張りついてしまい、他のことがおろそかになるたびに、もっとちゃんと自己管理しなければ……と思います。

 

しかし、何度も失敗を重ねてようやく分かったのですが、そうやって自分に言い聞かせるくらいでは、まったく何の効果もないし、かといって、「ネット断食」みたいに、まる一日ネットの利用を禁じるような荒療治を試みても、そもそも、ネットを使わずに生活すること自体が今では不可能に近いので、すぐに元の木阿弥になってしまいます。
記事 「ネット断食」の試み

 

それに、今はとにかく先の見えない時代だから、世の中の方向性を少しでも把握し、早めに対応できるよう、アンテナをあちこちに張り巡らしておきたいし、それなりにハッピーに生きたいなら、自分が心から求めているものに気づき、それを追求していくことも大事だと思います。そして、ネットの世界は、それらに関して、とても有用な手段と情報を与えてくれるのです。

 

実際、そうやって自分が伸ばしたアンテナを通じて、まさに自分が求めていた情報に行き当たったりするからこそ、うれしくてつい時間を忘れてしまうわけで、そうした探索の面白さに夢中になっているときに、自分でそれをストップするのは、非常に難しいことなのではないでしょうか。

 

とはいえ、現状を放置したままでは、平穏で健康的な生活の「持続可能性」に、かなりの悪影響が出てくるのも確かです。

 

何かをもっと知りたいという欲求には、長い目で見れば有意義な人生につながっていく可能性があると思うし、だからこそ、自分の好奇心を抑圧したくはないのですが、一方で、日常生活があまり不健全にならないよう、ネットとの関わりには、ある程度の節度も必要でしょう。そのためには、欲求にただ振り回されるのではなく、自分の意思で状況を少しでもコントロールし、生活全体のバランスを維持できるようになる必要があります。

 

今回は、ネットの利用時間と情報源のコントロールという二つのテーマについて、自分なりの試行錯誤を通じて分かったことを書いてみることにします。

 


◆ 自由時間をあまり管理したくない、という思い

 

まず、第一に、ネットの利用時間のコントロールについて。

 

実を言うと、私自身は、学生時代から今に至るまで、時間管理のやり方について、本格的に学んだり身につけたりしたことがありません。もちろん、そのためにいろいろと困ることもあったはずなのですが、何となく自己流のやり方で乗り切れた(と自分では思っていた)ので、そのままずるずるとここまで来てしまいました。

 

とはいえ、タイマーを使った時間管理法など、有名な方法については、これまで何度も見聞きする機会はあったし、それこそネットで検索するだけで、詳しい手順を含め、十分すぎるほどの情報が無料ですぐに手に入ります。

 

情報の少なかった昔はともかく、今なら、そうした方法を学び、実践するかどうかは、ほとんど本人のやる気次第だと言えるのかもしれません。

 

ただ、私が、ネットの利用時間をあまり意識的に管理してこなかったのは、仕事ならともかく、自分の自由な時間を使って楽しんでいるところに、効率性優先の管理テクニックみたいなものを持ち込むことに、かなりの心理的な抵抗があった、という理由もあると思います。

 

もちろん、たとえ好きでやっていることでも、その中に、退屈だったりムダだと思う作業がないわけではないし、そういう作業を毎日のように繰り返して消耗するのもイヤですが、かといって、個人的には、日々の習慣を効率化しすぎるのもどうかという気はします。効率化を徹底しすぎても、それはそれで、生活に潤いがなくなってしまうのではないでしょうか。

 

その日の気分に応じて、たまにはバカバカしいことをしたり、脇道にそれてみたりする自由だって必要だと思います。やりたいことをそれなりに自由にやりつつも、生活に支障が出ない範囲に収めるバランス感覚さえ保てるなら、それで十分なのではないでしょうか。

 


◆ 結局、タイマーの助けを借りる

 

とはいえ、そういう理想を口にするのは簡単でも、実践するのは非常に難しいことです。

 

自分の自由時間を聖域にして、効率化の魔の手が及ばないように抵抗し続けたとしても、自分がそれにふさわしいバランス感覚をいつの間にか発揮できるようになり、理想的な時間の使い方が自然に実現するわけではありません。むしろ逆に、問題がそのまま放置され、ネット世界の魅力という魔の手に、生活が引っ掻き回されるだけでしょう。

 

結局、対案もなしにムダな抵抗を続けるのはあきらめて、タイマーの助けを借りることにしました。

 

ネット上の記事を読むときに時間を計り、自分が何にどれだけ時間をかけているかを、まずはしっかり自覚できるようにするのが目的です。

 

また、タイマーには、比較的短い時間で作業を区切っていくことで、それぞれの区切りの中で高い集中力を持続させ、効率アップを図るという狙いもあります。

 

タイマーは、とりあえずは Windows におまけでついているアプリを使うことにし、有名な「ポモドーロ・テクニック」を参考に、25分間の作業用と、5分間の休憩用を設定。
ポモドーロ・テクニック再入門ガイド lifehacker

 

最初のうちは、作業内容をきちんと記録したり、時間の削減目標を立てたりするような面倒なことはせず、とにかく、ネットを利用するときには、忘れずにタイマーを使うよう習慣づけることだけに専念しました。

 

25分という時間についても、あまりこだわらないようにして、タイマーの音で時間の経過に気がつけばそれでいいことにしました。タイマーを止めたら、そのままきりのいいところまで作業を続け、5分ほど休憩をとってリラックスしてから、まだ作業を続けたければ再びタイマーをセットして、25分単位で延長していきます。

 

そうやってしばらく試してみた結果、以前から分かっていたとはいえ、毎日かなりの長時間を、ネット上の記事を読むのに費やしていることがはっきりしました。特に、なかなか面白い記事を見つけ、その書き手やテーマに興味をもち、キーワードを頼りに、そこからさらなる探索に乗り出してしまうと、そのまま時間を忘れ、ろくに休憩もとらずに、何時間もぶっ続けであれこれ読み漁ったりしてしまいがちでした。

 

ただ、そういうことをしていると、時間が経つにつれて、作業のペースや集中力が明らかに鈍っていくことも見えてきました。

 

自分が毎日どれだけの時間をネットに費やしているか、また、時間の使い方が行き当たりばったりで、いかに非効率なやり方をしているかが明白になると、特に改善しようと意識しなくても、ネットの利用時間が少しずつ減少するようになり、また、30分くらい経つごとに、ちょっと休憩を入れたいな、という気持ちが、自然に起こるようになってきました。

 

今のところ、特に意識的に何かをガマンしなくても、ネットの利用にそれなりにブレーキがかかり、何となく状況をコントロールしやすい感じになりつつあるような気がします。

 

これまでは、全体の見通しもないままに、そのつど思いついた作業に没入するだけで、どんなことを、どんなやり方でどのくらいやっているのか、無自覚なままだったのですが、タイマーを導入することで、作業全体を冷静に見渡す視点が生まれ、自分の行動パターンとその問題点も少しずつ見えるようになってきた、ということなのだと思います。

 


◆ 自由時間が効率化の波に飲み込まれる?

 

ただ、これについては、自分の自由な時間という聖域に、効率化という、ビジネスライクな光を当てすぎたという側面も、ないわけではないのかもしれません。

 

そもそも、人間の行動のすべてを、ムダか、そうでないか、という基準で選別していけば、正直な話、絶対にムダではない、と言い切れるような立派なものは、ほとんど残らないと思います。

 

何となくボーッとしている時間とか、ヒマつぶしにゲームをしたり、テレビやネットの動画をダラダラ見ている時間はもちろん、一見有意義に見えても、私たちの人生にとっての重要度という見地から厳しく判断するなら、ほとんど価値がないと判定されそうなことは、かなり多いのではないでしょうか。

 

その意味で、効率化というのは、最初のうちこそ日常生活を大いに改善してくれるのですが、それは往々にして行き過ぎてしまい、気がつけば私たちの内面の世界に容赦なく踏み込んで厳格な評価を下し、それらを一気に色あせたものにしてしまう危険性を秘めているのかもしれません。

 

個人的に、ネット上の記事を読んだりする時間が少しずつ減ってきているのも、そういう影響がじわじわと効いてきているのではないでしょうか。

 

ただ、そうやって自分の生活を徹底的に棚卸しして、それらにどれだけの意味があるのか、人生の貴重な時間をかけてまで追い求めるに値するものなのか、ということを厳しい目で判断していっても、最後まで残るものはもちろんあるはずです。

 

そして、そうやって残るのがたとえほんのわずかだとしても、ガラクタの中からそれらをより分け、はっきりと知ることができるなら、効率化の徹底にも、それなりの意味はあるのかもしれません。

 


◆ 好奇心と日常生活のバランス

 

それはともかく、タイマーを利用したこの新しい行動パターンが、この先、習慣としてうまく定着していくのかどうかはまだ分かりません。

 

ただ、ネットに侵食されない、ゆとりある日常生活を維持したいなら、ネットの利用時間をこれ以上増やさず、できれば減らしていかなければならないし、そのためには、クリックするたびにどこまでも膨らんでいく好奇心を、やはり、ある一定の枠内に抑えておく必要があります。

 

それは別に、自分の好奇心をどこかに閉じ込めようというのではありません。残念ながら、この世界で生きているかぎり、私たちが好奇心を向けられる対象は無限ではないことを自覚し、限られた時間内で、自分がもっとハッピーになれるテーマに好奇心を絞り込むやり方を学ばなければならないだけなのです。

 

私の場合は、タガが外れて迷走する好奇心が、日常生活にどれだけの負荷をかけているのか、最近になってようやく客観視できるようになりつつあるわけですが、きっと、時間管理のやり方を、もっと前に習得しておくべきだったのでしょう。

 

実際、私たちが現状を把握し、自分の欲求と生活の持続可能性とをバランスさせるための助けとして、タイマーを使った方法にせよ、別の時間管理法にせよ、何らかのテクニックを学んで実践する意味はあると思います。

 

そしてそれは、「ネット断食」のような極端な方法である必要はなくて、むしろ、腹八分目を目指すような穏やかなもののほうが、長い目で見て効果が大きいのかもしれません。

 

もちろん、効率化が行き過ぎれば生活を不毛にしてしまうように、それらは時に、思わぬところで、別のネガティブな影響をもたらす可能性もありますが……。

 

(続く)

 

自分の好奇心と折り合う(2/2) 情報源のコントロール

 

 

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at 19:19, 浪人, ネットの旅

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