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『若者殺しの時代』

評価 ★★☆☆☆ よかったら暇な時に読んでみてください

ずいぶんと物騒なタイトルですが、内容もなかなか挑発的です。

堀井憲一郎氏によると、「損得」で考えた場合、戦後から昭和の終わりころまでの日本社会では、「若者であることが得な時代」が続いていたのに、いつの間にか状況が変わり、現在では「若者であることは別に得ではない」時代になってしまったといいます。

もちろん、厳密に考えていくと、何をもって「損得」の基準にするのかという話になってしまいますが、とりあえずそういう問題は抜きにして、何となく直感的に判断するなら、私もそんな気がしています。
 
では、そのように社会が変化してしまった境目は、一体どこにあったのでしょうか。堀井氏は本書で、1980年代、特に1983年に注目しています。

この本の面白さは、堀井氏がいわゆる政治・経済分野の難しい話題には触れず、多くの人にとってなじみ深い、大衆消費文化のトピックスのみを取り上げながら話を進めていくところにあります。一定の年齢以上の人にとっては、若い頃の思い出に刻まれていることばかりなので、政治・経済の話よりもずっと実感をもって当時を振り返ることができるのではないでしょうか。

・一杯のかけそば (1989年)
・女性誌「アンアン」が、「クリスマスはシティホテルで過ごそう」と提案 (1983年)
・東京ディズニーランド開園 (1983年)
・「おしん(1983年)」をピークとする朝の連続テレビ小説の長期低落
・ビデオデッキとコンビニエンスストアの普及 (1980年代)
・中森明夫氏が「おたく」という言葉を使い始める (1983年)
・宮崎勤事件 (1989年)
・フジテレビ「月9ドラマ」(トレンディドラマ)開始 (1988年)
・トレンディドラマに携帯電話が登場 (1989年)  等々……
 
一見、脈絡がないかのような雑多な出来事を軽妙に論じながら、堀井氏はその背後にある、日本社会全体の変化を浮き彫りにしようとしています。例えば、クリスマスをめぐる若者の慣習の大きな変化に関しては、次のように述べています。

 クリスマスが恋人たちのものになったのは1983年からだ。
 そしてそれは同時に、若者から金をまきあげようと、日本の社会が動きだす時期でもある。「若者」というカテゴリーを社会が認め、そこに資本を投じ、その資本を回収するために「若者はこうするべきだ」という情報を流し、若い人の行動を誘導しはじめる時期なのである。若い人たちにとって、大きな曲がり角が1983年にあった。


それは、1980年代の日本が、復興と経済成長という戦後最大の目標を実現するためのラストスパートに入っていたということであり、経済を常に拡大し続けるという社会システムの要請に応えて、「若者」たちがそのターゲットとして取り込まれ、旺盛な消費を義務づけられ、消費者として飼い慣らされていく時期でもあったということなのでしょう。

ただ、それは高度消費社会の必然であり、日本に限った話ではないし、ある意味では豊かさの代償ともいえるものだと私は思います。むしろ、より大きな問題は、堀井氏が指摘しているように、1990年代以降、物質的な豊かさが頂点に達し、もはや日本人にとって戦争と復興の記憶さえ薄れている現在でも、日本社会は次の新しい目標を見いだせないでいるということだと思います。

 五十年かけて作ったシステムを、誰も手放すことができなかったのだ。
 ゴールしたことも知らされなかった。
 そのまま走り続けた。1995年のゴールから十年。無意味に走り続けたのだ。息も詰まってくるはずである。
 でも次なる目標が設定されない。目標がおもいつかないのだ。おもいつかないのなら、しかたがない。
 僕たちの社会は、古く、意味がなくなった目標のもとで進むことになった。「これからもまだ裕福で幸せな社会をめざして右肩上がりで発展してゆく」ことになったのだ。
 無理だ。おもいっきり無理である。わかってる。でもしかたがない。これから、いろんなものが過剰になる。富が偏在する。どこかで綻びが目立ち始め、いつか破裂する。それでも進むしかない。僕たちは「いまのシステムを手放さず、このまま沈んでいくほう」を選んでしまった。
 「大いなる黄昏の時代」に入ってしまったのだ。


次の目標がないまま停滞し、みんなが過去のやり方を繰り返すばかりで息苦しく閉塞していく世の中で、状況の変化に眼をつぶったままの「おとなたち」のしわ寄せを受けるのは、若者たちです。

 自分が最初から立たされている位置が、理不尽にもいろんなことを規定してしまう。そういう理不尽な規定は我慢できるにしても、おとなたちが、何をやってるんだ、がんばれ、がんばりさえすれば高みへ行けるのだ、と言ってくることばかりは耐えられない。社会に参加する気が失せる。おとなたちは、自分たちの社会を守ることにばかり目がいって、若者の居場所をあけてくれるわけではない。若者のためといって、結局、息が詰まりそうな場所に追い込んでいくばかりだ。


何とも気が重くなる話ですが、堀井氏によれば、「若者殺しの時代」とはそういう意味なのです。

こういうテーマは堀井氏に限らず今まで多くの論者に取り上げられているし、彼の社会批評や細かい部分での解釈に説得力があるかどうかについては、人によって判断が分かれるところだと思いますが、私個人としては、堀井氏の直感的な解釈は大筋でポイントを突いているように感じられます。

では、こんな時代に、若者はどうすればいいのかということになるのですが、堀井氏はとりあえず「逃げろ」としか言っていません。この社会を破壊するわけにはいかない以上、若い人が自分たちの居場所を確保するためには、逃げるしかない、それは今の社会の歪んだ要請に応えないことなのだと言います。

しかし私には、ただ逃げ続けることに可能性があるようには思えません。社会を破壊するにしても、逃げるにしても、それでは今の社会を否定することになります。私は、豊かな社会そのものが悪いわけではなく、多くの人がそれ以外の価値を見い出せないでいることに問題があると思うので、今の社会をただ否定してしまうのではなく、物質的な豊かさのメリットを含んだ上で、それを超えていくような新しい社会のあり方を、むしろ若い世代からも地道に発信していくしかないのではないかと思います。

それは、月並みな表現ですが、外面的な豊かさと内面的な価値や充実感が調和し、心にもゆとりのあるような暮らしを、それぞれが自分のやり方で模索していくことだと思います。もちろん、そのためには、社会から逃げるまではいかなくても、社会からの過剰な要請に巻き込まれ過ぎないよう、一定の距離をおく必要が出てくると思いますが……。

本書には、所々で強引に思えるような解釈もありますが、厳密な議論よりも、親しみやすさ、読みやすさや歯切れのよさが堀井氏の持ち味なのでしょう。この本で、80年代、90年代の日本の消費文化を改めて振り返ることができるし、今の世の中の気分も直感的にうまく描いているような気がします。

ちなみに、浅田彰氏の『逃走論』が1984年、(本書のあとがきを読むと思い出す)村上春樹氏の『風の歌を聴け』は1979年です。堀井氏のこの本のテーマや文体自体も、80年代のパロディになっているということでしょうか。

現在20代、30代くらいの人たちは、この本を読んだらどういう印象を受けるのでしょうか。自分たちの声を代弁してくれていると感じるのか、それとも何かズレていると感じるのか、ちょっと知りたいと思いました。


本の評価基準

 以下の基準を目安に、私の主観で判断しています。

 ★★★★★ 座右の書として、何度も読み返したい本です
 ★★★★☆ 一度は読んでおきたい、素晴らしい本です
 ★★★☆☆ 読むだけの価値はあります
 ★★☆☆☆ よかったら暇な時に読んでみてください
 ★☆☆☆☆ 人によっては得るところがあるかも?
 ☆☆☆☆☆ ここでは紹介しないことにします

at 19:32, 浪人, 本の旅〜人間と社会

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comment
エーミン, 2008/02/11 7:17 PM

23歳の私が読んでみました。些か反抗的なコメントで申し訳ありませんが、私は妙に納得してしまいました。
自分のブログでも言及しておりますが、「この社会に対して利害関係は持てても、忠誠は誓えない」というのが正直なところです。

お目汚し申し訳ございません。

浪人, 2008/02/12 7:52 PM

エーミンさん、コメントありがとうございました。

私も、1980年代から現在までの日本社会についての堀井氏の「見立て」は的を射ていると思うし、賞味期限の切れた目標を掲げて、ひたすら同じことを繰り返しているだけの「おとなたち」の社会のしわ寄せを若者が受けているという本書の主張については共感を覚えました。

問題は、それを踏まえた上で、では私たちはどうしたらいいのか、ということなのですが、堀井氏はとりあえず若者たちに「逃げろ」と勧めるものの、それ以上のビジョンを示してはいないように見えました。私は、それでは結局出口がないのではないかと感じたのです。

これは、あくまで私自身のわずかな人生経験から言っているに過ぎないのですが、仮に「逃げろ」と言われても、大衆消費社会が世界中に広がりつつある今、この巨大な流れからうまく逃げおおすことのできる場所など、この地上にはほとんど残されていないし、そういう場所も、今や次々に消えつつあります。

かといって、時計の針を巻き戻し、牧歌的な昔の時代に戻ることも不可能です。

だとしたら、今の社会の動きに過剰に巻き込まれないように一定の距離を置きながらも、そこから逃げるだけではなく、何かそれを超える新しいものを、私たち自身の手で生み出していくしかないように思います。

そして、きっとそれは、今までのように、社会全体が効率的に同じ目標に向かって突き進んでいく動きからではなく、一人ひとりが内面的に価値や充実感を感じるものを探究していくことによって生み出されていくのではないかと思っています。

これではあまりにも漠然としているように思われるかもしれませんが、とりあえず、現在の「おとなたち」の要請に身も心も捧げて全てを委ねるつもりはない、という意味では、エーミンさんと考え方にあまり違いはないのかもしれません。

もっとも、私も年齢的にはすでに十分「おとなたち」の仲間入りをしてしまってはいるのですが……。










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