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牢名主(ろうなぬし)現象
海外でも、大勢のバックパッカーが行き交う大都市の安宿や、ヒッピー風バックパッカーの聖地のような辺境の街も、ある意味では人間界の吹きだまりのような様相を呈することがあり、そんな場所では、必ずというわけではありませんが、「牢名主」的な旅人を見かけることがあります。
「牢名主」は、これといってすることもないのに同じ安宿に何週間、何カ月も滞在していて、たいてい宿のロビーや近所をウロウロして時間をつぶしています。「新入り」の旅人を見かけると、頼まれてもいないのに旅の情報を延々と講義したり、本人の旅のエピソードを話してくれたり、しまいには人生について熱く語ってくれたりするのですが、こちらの都合はおかまいなしで、その場を勝手に仕切られてしまうので、時間の限られた急ぎ旅の人はもちろん、静かに旅の気分に浸りたい人にとってはいい迷惑です。
これは私の勝手な想像なのですが、ヒッピーが世界中を放浪していた1960年代から1970年代の頃は、そうした「牢名主」の全盛期だったのではないかという気がします。
はっきりとした証拠があるわけではないのですが、当時は今よりもずっと強烈なキャラの人間が大勢いて、社会に対して「熱い戦い」を挑んでいたようだし、社会をドロップアウトし、世界を流れ流れて安宿のドミトリーなどに居すわっている、一癖も二癖もありそうなツワモノが、若い旅人をつかまえては「旅とは何か、社会とは何か、人生とは何か」というテーマで、熱く語りまくっていたというイメージが私の中にあるのです。
しかし、私が長い旅に出た頃は、もうすっかり時代は変わっていたようで、大きな街のドミトリーでも、辺境の安宿でも、そうした人を見かけることはほとんどありませんでした。
特に日本人の場合で言えば、若者やオジサンの旅人たちと意気投合して一緒に飯を食いに行ったり、屋台で酒を飲んだりすることはありましたが、みんなほどほどの礼儀をわきまえていて、互いの領域にズカズカと踏み込むようなことはありませんでした。旅の実用的な情報は交換しても、「旅とは何か、人生とは何か」などという大上段に振りかぶったテーマを語り合うことはあまりなかったし、そういう問題について一方的に説教をしたり、自分のペースで場を仕切ったりするような強烈な人物もほとんど見かけなかったのです。
ただ、それはもしかすると、私の年齢も関係していたのかもしれません。私は会社を辞めて旅に出たので、学生の旅人たちよりも年上でした。日本人バックパッカーは20代前半が圧倒的に多いので、どうしても出会う日本人の多くは私より年下になります。旅人同士で話をしている時でも、みんな何となく年上の私に遠慮して控え目にしていたのかもしれません。
考えてみれば、彼らには、私自身が牢名主そのものに見えていたのかもしれません。私の旅は彼らよりずっとスローペースでいつも「沈没」気味だったし、旅の期間も長く、さらに年上ということで、自分ではそのつもりがなくても、変な威圧感を彼らに与えていた可能性があります。
自分が牢名主なら、どこを見回しても牢名主が見当たらないわけです。
もっとも、言い訳に聞こえるかもしれませんが、旅先で牢名主に出会ったとしても、江戸時代の牢屋ならともかく、嫌ならさっさと別の宿に移るか、別の街に行きさえすればいいのです。会社の上司や同僚に牢名主のような説教オヤジがいるとしたら、給料のために耐え忍ぶ必要もあるかもしれませんが、自由な旅人にとって、旅先で出会う牢名主には何の義理もないわけで、ヤバイと思ったら敬して遠ざけておけば済むことなのです。
だから、私が仮に牢名主に見えるようなことがあったとしても、少なくとも他の旅人たちの自由を束縛してはいない(に違いない)、ということが、私にとっては唯一の救いなのです……。
などと思いつつ、このブログのことを考えてみると、毎回毎回、「旅とは何か、人生とは何か」などという、大上段に振りかぶったようなテーマを語りまくっています。しかも、ブログという場を自分のペースで勝手に仕切っています。やっていることは旅先で出会う牢名主のイメージにピッタリと重なっています。
そうか、私はやっぱり旅の牢名主だったのか……。
ただ、ネットの世界に参加する人間には、旅人以上の自由が与えられています。私はこうして勝手に書きたいことを書いていますが、読む人も、読みたければ読めばいいし、気に入らなければその瞬間に立ち去ることができます。旅先で牢名主につかまってしまったら、何となく気兼ねして、とりあえず話が一段落するまではその場から逃げ出せないかもしれませんが、ネット上なら何の遠慮もなく、イヤだと思ったその瞬間に別のサイトに移動するだけでいいのです。
そう考えれば、牢名主的な自らの行動に対して言い訳が立つような気がします。
しかし、読む・読まないを瞬時に判断するような人々を相手にブログ記事を書くというのは、まるで、人々が足早に通り過ぎていく街角でメガホンを握ってひたすらしゃべり続けているような奇妙な感じもします。
それは、今気がついたというより、ブログを始めた頃から感じていることです。
書いた記事を読んでもらえるという保証など何もない中で、それでもブログを書くということには、どんな意味があるのでしょうか?
私の場合、ブログ上で旅について書くといっても、旅人に情報提供したいとか、世間に向かって訴えたいことがあるというよりも、むしろ自分のために作業をしているような気がしています。誰か特定の人に向かって話しかけているというより、自分の体験や、今まで漠然と考えてきたことを頭の中で反芻し、整理するための道具として、ブログを利用しているような気がするのです。
それは、頭の中だけで実行できることなのかもしれません。しかし、頭の中の独り言ではなく、他の人にも説明できるレベルの言葉で整理することによって、今まで自分の通過してきた場所と現在立っている場所をハッキリさせ、次にするべきこと、次に向かうべき場所が少しずつ浮かび上がってくるのを待っているのではないかという気がします。
そして、考えてみれば、それはかつての「牢名主」の人たちも同じだったのかもしれません。彼らは、誰か特定の人間に向かって話をしていたというより、自分の頭の中を整理し、自分の現在地を確かめるために、「聞き役」になってくれる人を求めていたのではないでしょうか。
彼らにとっては、自分の話を理解し、共感してもらうことも大事だったかもしれませんが、それ以上に、自分のおかれている現実を自分なりに理解し、受け入れていくために、言葉という道具を使って経験を反芻し続けることが必要だったのかもしれません。そして、哲学者や作家のように、自分の頭の中だけでそれができる人はともかく、普通の人間にとっては、その代わりとして、誰かに向かって話をするという作業がどうしても必要だったということなのかもしれません。
そしてそれは、実際に人間が目の前にいればそれに越したことはありませんが、目の前にいなくても、誰かが聞いているかもしれない、誰かが読んでいるかもしれないという形式が用意されていれば、同じような効果をもたらすのではないでしょうか。
私は、ブログにはそのような効果があるのではないかという気がしています。
ブログに何かを書き綴ることは、実際に誰かがそれを読んでいるかどうかにかかわらず、書いている本人にとっては、誰かに自分の話を聞いてもらっているのと同じくらいの効果をもたらすのかもしれません。
そうだとすると、もしブログというものがなかったら、私は今ごろアジアのどこかの街の安宿で、「新入り」の若いバックパッカーをつかまえては、あーだこーだと説教を垂れまくる、筋金入りの「牢名主」になっていたかもしれません……。
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独善竜, 2007/03/28 11:53 PM
ほじめまして。
ご自身の心を客観的に分析されているようで感銘を受けました。
私のブログですと、なかなかにコメントを残してくれる方もいないし、カウンターの数字も小さいし、一体何のためかと考えると自然と苦笑いが頬に浮かびます。
文を書いて楽しい、そして読む人が少し楽しんでくれたらと自分では思っているのですが、果たして楽しんでくれているのやら・・浪人, 2007/03/29 7:26 PM独善竜さん、コメントありがとうございました。
「書いた記事を読んでもらえるという保証など何もない中で、それでもブログを書くということには、どんな意味があるのでしょうか?」などと書いた直後にコメントを頂いて、こんなブログでも読んで下さる方がいるんだと感激しました。
ブログを細々と運営していると、「誰にもかまってもらえない牢名主」のような気分になりますが、「これは何よりもまず自分のために書いているのだ」と思うことができれば、アクセスのことはあまり気にせず、マイペースで続けられそうな気がします。
もっとも、「それは牢名主のやせ我慢だろう」と言われれば、その通りなのかもしれませんが……。
門大寺, 2014/04/24 2:17 AM読んでみて何かがすっきりしました。
自分も牢名主であるということに気づかされた上、
場所とやり方さえ間違えなければ、牢名主であり続けてよいとさえ思えました。
これも私の中の「牢名主のやせ我慢」かもしれませんが。浪人, 2014/04/24 6:50 PM門大寺さん、コメントありがとうございました。
自分が牢名主だという自覚があれば、たぶん、ギリギリのところで節度が保てるので、周りの人に迷惑をかけることはあまりないと思います。
むしろ、本当に迷惑なのは、自分のやっていることは、善意や正義感からなのだと、心から信じて疑わないことなのかもしれません。
そうならないよう、自分は牢名主なんだという自覚を、今後も忘れないようにしたいと思います。
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