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『動物化するポストモダン ― オタクから見た日本社会』

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評価 ★★★☆☆ 読むだけの価値はあります

この本は、「ポストモダンという視点からオタク系文化の現状を分析する、あるいはその逆に、オタク系文化の分析を通してポストモダンの本質を探る」という、ユニークな試みです。

本書では、主として第三世代(1980年前後生まれで、『エヴァンゲリオン』ブームのときに中高生だった世代)のオタクたちによって消費されてきた、1990年代後半以降のアニメやゲームなどの作品とその消費のされ方が巧みに分析されています。

私自身はオタク系文化については詳しくないので、この本で初めて知ったことが多く、その意味ではとても勉強になったし、「90年代を扱ったオタク論」としても面白く読めるのですが、より興味深いのは、東浩紀氏が、ポストモダンとは何なのか、我々の社会はどこへ向かっているのかを、オタク系文化の分析という具体例を通じて分かりやすく示そうとしていることです。

 

オタクたちが趣味の共同体に閉じこもるのは、彼らが社会性を拒否しているからではなく、むしろ、社会的な価値規範がうまく機能せず、別の価値規範を作り上げる必要に迫られているからなのだ。
 そしてこの特徴がポストモダン的だと言えるのは、単一の大きな社会的規範が有効性を失い、無数の小さな規範の林立に取って替わられるというその過程が、まさに、フランスの哲学者、ジャン=フランソワ・リオタールが最初に指摘した「大きな物語の凋落」に対応していると思われるからである。 (中略)
 近代は大きな物語で支配された時代だった。それに対してポストモダンでは、大きな物語があちこちで機能不全を起こし、社会全体のまとまりが急速に弱体化する。日本ではその弱体化は、高度経済成長と「政治の季節」が終わり、石油ショックと連合赤軍事件を経た七〇年代に加速した。オタクたちが出現したのは、まさにその時期である。そのような観点で見ると、ジャンクなサブカルチャーを材料として神経症的に「自我の殻」を作り上げるオタクたちの振る舞いは、まさに、大きな物語の失墜を背景として、その空白を埋めるために登場した行動様式であることがよく分かる。


本書で議論の中心となっているのは、ポストモダンにおいてシミュラークル(オリジナルともコピーとも言えない中間形態)が増殖する仕組みと、大きな物語が凋落した後の人間性の問題という二つのテーマです。

一つ目のテーマに関しては、東氏は「データベース型世界」というモデルを提示し、シミュラークル(個々の作品)が宿る表層と、データベース(設定)が宿る深層とを区別した上で、従来のポストモダンの議論にあったような、シミュラークルが無秩序に増殖していくという考え方を排し、実はそれは深層のデータベースの水準で制御されているのだと言います。

しかし、そうしたデータベース・モデルが優勢となる時代においては、人々は表層の「小さな物語」(シミュラークル)と、深層の「大きな非物語」(データベース)を繋げることなく、バラバラに共存させ、消費していくことになります。

そこでは、二つ目のテーマである人間性の問題はどのように説明されるのでしょうか。

 

 近代の人間は、物語的動物だった。彼らは人間固有の「生きる意味」への渇望を、同じように人間固有な社交性を通して満たすことができた。言い換えれば、小さな物語と大きな物語のあいだを相似的に結ぶことができた。
 しかしポストモダンの人間は、「意味」への渇望を社交性を通しては満たすことができず、むしろ動物的な欲求に還元することで孤独に満たしている。そこではもはや、小さな物語と大きな非物語のあいだにいかなる繋がりもなく、世界全体はただ即物的に、だれの生にも意味を与えることなく漂っている。意味の動物性への還元、人間性の無意味化、そしてシミュラークルの水準での動物性とデータベースの水準での人間性の解離的な共存。


これが本当にポストモダンにおける人間の姿だとしたら背筋が寒くなります。もしも我々の未来 = ポストモダンだと単純に考えるなら、我々にはこういう未来しか待ち受けていないことになります。こんなに陰鬱な話はありません。

そしてこうした世界観は、トランスパーソナルの理論家ケン・ウィルバーが批判している「フラットランド」、あらゆる物事が物質に還元され、すべての意味や価値が相対化されて失われた虚無的な世界観そのものです。

私は思うのですが、一般的なポストモダンの議論は、突き詰めていくと多かれ少なかれこうした結論に行き着くしかないように思います。それは、ポスト近代と称していても、実際には近代の限界から抜け出ていないからだと思います。結局のところそれは近代の極限、あるいは近代の影ともいうべきもので、近代の問題を克服し、新しい時代を拓くという意味でのポスト近代ではないように思うのです。

私は、こうした問題を乗り越えるカギは、例えば今挙げたケン・ウィルバーの仕事などにあると思っているのですが、ポストモダンのバリバリの相対主義のもとでは、それは所詮「失われた大きな物語の捏造」に過ぎないとして一蹴されてしまうのかもしれません……。

それはともかく、オタク系文化の中に典型的なポストモダンの特徴を見出し、アニメやゲームなどの具体的作品とその消費のされ方を分析することで、ポストモダンの特徴を分かりやすく説明するという本書のアイデアは素晴らしいと思います。東氏の結論に賛同する、しないに関わらず、読む価値はあると思います。



本の評価基準

 以下の基準を目安に、私の主観で判断しています。

 ★★★★★ 座右の書として、何度も読み返したい本です
 ★★★★☆ 一度は読んでおきたい、素晴らしい本です
 ★★★☆☆ 読むだけの価値はあります
 ★★☆☆☆ よかったら暇な時に読んでみてください
 ★☆☆☆☆ 人によっては得るところがあるかも?
 ☆☆☆☆☆ ここでは紹介しないことにします

 

 

 

at 18:53, 浪人, 本の旅〜人間と社会

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