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2011.12.08 Thursday
本と便意の微妙な関係
「青木まりこ現象」という言葉をご存知でしょうか?
本屋や図書館など、本が大量に並べられている場所に入ると、なぜか便意を催す現象のことで、「青木まりこ」とは、1985年にその体験をある雑誌に投稿し、この現象が広く知られるきっかけとなった方の名前なのだそうです。
ウィキペディア 「青木まりこ現象」
ちなみに、これは特別な体質の人だけに起きる、まれな出来事ではないらしく、けっこう多くの人が同じような経験をしているようです。
本というのは、それを読む人にとってはエンターテインメントであったり、貴重な情報源や学びの機会であったり、とにかく世間では楽しいもの、価値あるものとみなされているはずで、それと排泄という行為とは、一見、どうにも結びつかないような気がしますが、だからこそ、その意外な組み合わせが面白くて、多くの人の関心を呼ぶのでしょう。
その原因については、これまで様々な説明がなされていて、例えば、本のインクの匂いが関係しているのでは、とか、小さな書店にはトイレがないことが多いのでそれが逆にプレッシャーになるのでは、とか、好きな本に囲まれてリラックスするから、とか、いろいろですが、どれも決定力には欠けるような気がします。
こうした話は、たまに世間をにぎわせたかと思うとすぐに消え、また忘れたころに蒸し返されるというパターンをずっと繰り返しているようですが、それは、この現象がそれなりに有名であるにもかかわらず、いつも納得のいく理由が示されないまま、モヤモヤとした消化不良の状態で棚上げにされてしまうからなのかもしれません。
私自身はこれまでにそういう「症状」を覚えたことはないのですが、本屋でトイレに行きたくなるという話は、私の中ではそんなに違和感がないというか、何となく納得ができるような気がします。
これから書くことは、ちゃんとした理屈ではなく、あくまで私個人の勝手な妄想に過ぎないのですが、本とは、その作者にとって、一種の排泄物のようなものなのではないか、だから本屋に来る人は、本の山に囲まれると、そのことを無意識のうちに連想し、それが便意につながるのではないかという気がするのです。
もちろん、こんな表現をするのは、本作りに関わるすべての人にとって大変に失礼なことだし、もし気分を害される方がおられるなら本当に申し訳ないのですが……。
ただ、出版社や印刷所で本作りに携わったり、その流通をサポートしている方々はともかく、少なくとも本の著者にとって、本とはどういうものなのかという点を考えてみると、それは、著者が経験している創造プロセスの本来の目的というよりは、その副産物というか、抜け殻のようなものなのかもしれないという気がします。
人が、自分の中に、表現されることを求めている混沌とした「何か」を感じとり、それをどうにかして意味のある言葉に置き換えていこうとするプロセスは、ときには非常に苦しく困難ではありますが、創造的で、やりがいがあり、大きな喜びを感じることなのではないかと思います。
もちろん本の著者は、そうやって吐き出された言葉が、その後丁寧に編集され、印刷されて美しい本になって、多くの人のもとに届けられることにも多くの喜びを感じるはずです。また、本というモノを生み出すことの結果として、執筆料や印税、あるいは社会的な評価など、プロの作家はさまざまな利益を得ることができるし、実際、作家はそれによって生活を支えています。
しかし、本人がより多くの喜びとやりがいを感じるのは、やはり、言葉以前の「何か」が、言葉として外の世界に生まれ出てくるまでの過程そのものを味わうことにあるのではないかと思うし、それに比べれば、(あえて極端な表現をすれば)いったん言葉として外界に現れた言葉そのものは、創造プロセスがたしかに起きていたことの証明くらいの価値しかもたないのではないかと思うのです。
もっとも、私は作家ではないので、彼らが日々体験している創造プロセスや、その本当の苦しみや喜びについて語れる立場にはありません。ただ、このブログを書く程度のささいな作業でも、それなりの苦労とか楽しみが感じられることを思うと、作家が人生におけるさまざまなものをつぎ込んで、大きなテーマに挑戦し、そこから納得のいく言葉を紡ぎ出していくプロセスがどのようなものであるのか、かすかに想像できるような気がするのです。
そして、似たようなことは、本作りやその流通に携わる人々についても言えるのかもしれません。注意深く、適度な緊張感をもって仕事に取り組み、目の前の作業に集中して、よりよい成果を生み出そうとするプロセスそのものが、本人にとっては日々の大きな喜びであるはずで、その結果として生み出される仕事の成果や報酬自体は、その喜びの副産物のようなものであるといえなくもないのではないでしょうか。
さらに、多くの読者も、紙の束である本そのものよりも、実際にそれを読むプロセスにこそ、価値を見出しているはずです。
そう考えていくと、物理的な本の山というのは、本に関わるすべての人が、本を媒介にして、生きるプロセスそのものを楽しみ、味わったあとに残された排泄物の山みたいなものだと見ることも可能なのかもしれません。
まあ、自分でも少しこじつけっぽいとは思いますが……。
ただ、印刷された本というものが、かりに作家にとって創造活動の残りかすなのだとしても、もちろんそれは、全く無価値であるという意味ではありません。
先ほど書いたように、それは多くの人が仕事を通じて喜びを味わうきっかけとなり、また、多くの読者がそれを読むことに楽しみを見出しています。
偉大な作家の紡ぎ出した言葉は、それが印刷され、コピーされたものであろうと、百年前、千年前のものであろうと輝きを放っているし、その輝きが読者の中の「何か」に引火して、その心の内で、思いもかけない新たな創造プロセスが働き出すこともあるでしょう。
別の言い方をすれば、それは多くの人の精神活動にとってのまさに「肥やし」であり、そこに価値を見出せる人にとって、本というのはやはり貴重な宝なのだと思います。
ところで、そういうことを考えていくと、インターネットというものも、まさに地球上のあらゆる種類の言葉が絡まりあった巨大なかたまりであり、人間の知的活動が生み出した地球規模の排泄物と言えるのかもしれません。
であるなら、ネットに接している人たちにも、やはり「青木まりこ現象」が生じる可能性があるということになります。
皆様は、ネットをしていて、トイレに行きたくなることはありませんか?
JUGEMテーマ:読書
本屋や図書館など、本が大量に並べられている場所に入ると、なぜか便意を催す現象のことで、「青木まりこ」とは、1985年にその体験をある雑誌に投稿し、この現象が広く知られるきっかけとなった方の名前なのだそうです。
ウィキペディア 「青木まりこ現象」
ちなみに、これは特別な体質の人だけに起きる、まれな出来事ではないらしく、けっこう多くの人が同じような経験をしているようです。
本というのは、それを読む人にとってはエンターテインメントであったり、貴重な情報源や学びの機会であったり、とにかく世間では楽しいもの、価値あるものとみなされているはずで、それと排泄という行為とは、一見、どうにも結びつかないような気がしますが、だからこそ、その意外な組み合わせが面白くて、多くの人の関心を呼ぶのでしょう。
その原因については、これまで様々な説明がなされていて、例えば、本のインクの匂いが関係しているのでは、とか、小さな書店にはトイレがないことが多いのでそれが逆にプレッシャーになるのでは、とか、好きな本に囲まれてリラックスするから、とか、いろいろですが、どれも決定力には欠けるような気がします。
こうした話は、たまに世間をにぎわせたかと思うとすぐに消え、また忘れたころに蒸し返されるというパターンをずっと繰り返しているようですが、それは、この現象がそれなりに有名であるにもかかわらず、いつも納得のいく理由が示されないまま、モヤモヤとした消化不良の状態で棚上げにされてしまうからなのかもしれません。
私自身はこれまでにそういう「症状」を覚えたことはないのですが、本屋でトイレに行きたくなるという話は、私の中ではそんなに違和感がないというか、何となく納得ができるような気がします。
これから書くことは、ちゃんとした理屈ではなく、あくまで私個人の勝手な妄想に過ぎないのですが、本とは、その作者にとって、一種の排泄物のようなものなのではないか、だから本屋に来る人は、本の山に囲まれると、そのことを無意識のうちに連想し、それが便意につながるのではないかという気がするのです。
もちろん、こんな表現をするのは、本作りに関わるすべての人にとって大変に失礼なことだし、もし気分を害される方がおられるなら本当に申し訳ないのですが……。
ただ、出版社や印刷所で本作りに携わったり、その流通をサポートしている方々はともかく、少なくとも本の著者にとって、本とはどういうものなのかという点を考えてみると、それは、著者が経験している創造プロセスの本来の目的というよりは、その副産物というか、抜け殻のようなものなのかもしれないという気がします。
人が、自分の中に、表現されることを求めている混沌とした「何か」を感じとり、それをどうにかして意味のある言葉に置き換えていこうとするプロセスは、ときには非常に苦しく困難ではありますが、創造的で、やりがいがあり、大きな喜びを感じることなのではないかと思います。
もちろん本の著者は、そうやって吐き出された言葉が、その後丁寧に編集され、印刷されて美しい本になって、多くの人のもとに届けられることにも多くの喜びを感じるはずです。また、本というモノを生み出すことの結果として、執筆料や印税、あるいは社会的な評価など、プロの作家はさまざまな利益を得ることができるし、実際、作家はそれによって生活を支えています。
しかし、本人がより多くの喜びとやりがいを感じるのは、やはり、言葉以前の「何か」が、言葉として外の世界に生まれ出てくるまでの過程そのものを味わうことにあるのではないかと思うし、それに比べれば、(あえて極端な表現をすれば)いったん言葉として外界に現れた言葉そのものは、創造プロセスがたしかに起きていたことの証明くらいの価値しかもたないのではないかと思うのです。
もっとも、私は作家ではないので、彼らが日々体験している創造プロセスや、その本当の苦しみや喜びについて語れる立場にはありません。ただ、このブログを書く程度のささいな作業でも、それなりの苦労とか楽しみが感じられることを思うと、作家が人生におけるさまざまなものをつぎ込んで、大きなテーマに挑戦し、そこから納得のいく言葉を紡ぎ出していくプロセスがどのようなものであるのか、かすかに想像できるような気がするのです。
そして、似たようなことは、本作りやその流通に携わる人々についても言えるのかもしれません。注意深く、適度な緊張感をもって仕事に取り組み、目の前の作業に集中して、よりよい成果を生み出そうとするプロセスそのものが、本人にとっては日々の大きな喜びであるはずで、その結果として生み出される仕事の成果や報酬自体は、その喜びの副産物のようなものであるといえなくもないのではないでしょうか。
さらに、多くの読者も、紙の束である本そのものよりも、実際にそれを読むプロセスにこそ、価値を見出しているはずです。
そう考えていくと、物理的な本の山というのは、本に関わるすべての人が、本を媒介にして、生きるプロセスそのものを楽しみ、味わったあとに残された排泄物の山みたいなものだと見ることも可能なのかもしれません。
まあ、自分でも少しこじつけっぽいとは思いますが……。
ただ、印刷された本というものが、かりに作家にとって創造活動の残りかすなのだとしても、もちろんそれは、全く無価値であるという意味ではありません。
先ほど書いたように、それは多くの人が仕事を通じて喜びを味わうきっかけとなり、また、多くの読者がそれを読むことに楽しみを見出しています。
偉大な作家の紡ぎ出した言葉は、それが印刷され、コピーされたものであろうと、百年前、千年前のものであろうと輝きを放っているし、その輝きが読者の中の「何か」に引火して、その心の内で、思いもかけない新たな創造プロセスが働き出すこともあるでしょう。
別の言い方をすれば、それは多くの人の精神活動にとってのまさに「肥やし」であり、そこに価値を見出せる人にとって、本というのはやはり貴重な宝なのだと思います。
ところで、そういうことを考えていくと、インターネットというものも、まさに地球上のあらゆる種類の言葉が絡まりあった巨大なかたまりであり、人間の知的活動が生み出した地球規模の排泄物と言えるのかもしれません。
であるなら、ネットに接している人たちにも、やはり「青木まりこ現象」が生じる可能性があるということになります。
皆様は、ネットをしていて、トイレに行きたくなることはありませんか?
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【豆β】ニュース速報+, 2012/05/01 12:07 PM
1 :ゴッドファッカーφ ★:2012/05/01(火) 02:05:08.26 ID:???0 書店にいるとなぜか便意を催し、トイレに行きたくなる−。書店利用者の間で以前からささやかれているこんな「症状」がある。はっきりした根拠は...