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旅の名言 「ひとりバスに乗り……」

 ひとりバスに乗り、窓から外の風景を見ていると、さまざまな思いが脈絡なく浮かんでは消えていく。そのひとつの思いに深く入っていくと、やがて外の風景が鏡になり、自分自身を眺めているような気分になってくる。
 バスの窓だけではない。私たちは、旅の途中で、さまざまな窓からさまざまな風景を眼にする。それは飛行機の窓からであったり、汽車の窓からであったり、ホテルの窓からであったりするが、間違いなくその向こうにはひとつの風景が広がっている。しかし、旅を続けていると、ぼんやり眼をやった風景の中に、不意に私たちの内部の風景が見えてくることがある。そのとき、それが自身を眺める窓、自身を眺める「旅の窓」になっているのだ。ひとり旅では、常にその「旅の窓」と向かい合うことになる。

『旅する力 ― 深夜特急ノート』 沢木 耕太郎 新潮社 より
この本の紹介記事

旅行記の名作『深夜特急』の著者が、その元になった1970年代のユーラシアの旅や、『深夜特急』執筆のプロセスを、自らの半生とともに振り返るエッセイ、『旅する力』からの引用です。

バスに限らず、列車や飛行機、あるいは船に乗って、窓の外を流れていく景色を眺めるのは、旅人にとって、もっとも旅を実感できる時間だといえるかもしれません。

とはいえ、ひとりで長時間の移動をするときは、地元の乗客が話しかけてでもこないかぎり、そんな時間が延々と続くことになります。

誰でも最初のうちは、エキゾチックな風景に目を奪われ、旅の実感に心を躍らせることでしょうが、さすがにそれが何時間、何日と続けば、次第に好奇心もすり減ってきて、やがて、ただぼんやりと、窓の外に目を向けるようになっていきます。

それは一見したところ、ヒマを持て余し、何か生産的なことを考えるでもなく、ボケーッとした放心状態に陥っているように見えますが、沢木氏は、そうしてぼんやり眼をやった風景の中に、自分自身の内面を見ているのだといいます。

たしかに、絶えず現れては消えていく光景、すべてが留まることなく移ろっていくさまを、ひたすら眺め続けるという体験は、旅人を、日常とは違った、別の意識状態に切り替えさせる力をもっているのかもしれません。

ちなみに、沢木氏は、ベトナム旅行記『一号線を北上せよ』でも、同じようなことを書いています。
記事 旅の名言 「窓の外の風景を……」

 窓の外の風景を眺めている私は、水田や墓や家や木々に眼をやりながら、もしかしたら自分の心の奥を覗き込んでいるのかもしれない。カジノでバカラという博奕をやりながら、伏せられたカードではなく自分の心を読んでいるのと同じように、流れていく風景の向こうにある何かに眼をやっているのかもしれない。


沢木氏にとって、車窓を流れていく風景というのは、意識のモードを切り替え、自分の心の奥に目を向けさせてくれる、一種の瞑想装置のような役目を果たしているのでしょう。

哲学者のアラン・ド・ボトン氏も、『旅する哲学』の中で、似たような体験について書いています。
記事 旅の名言 「旅は思索の……」

 何時間か列車で夢見ていたあと、わたしたちは自分自身に戻っていたと感じることがある――それはつまり、自分にとって大切な感情や考えに接触するところまで引き返していたということなのだ。わたしたちが本当の自分に出会うのに、家庭は必ずしもベストの場とは言えない。家具調度は変わらないから、わたしたちは変われないと主張するのだ。家庭的な設定は、わたしたちを普通の暮らしをしている人間であることに繋ぎ止めつづける。しかし、普通の暮らしをしているわたしたちが、わたしたちの本質的な姿ではないのかもしれないのだ。


私たちは、「本当の自分」に出会いたいとつねに切望しているにもかかわらず、日常の生活においては、それをなかなか実現することができません。

テレビやケータイを切ったり、日常の雑事をいったん棚上げにして、自分の心の奥底を覗き込もうとしても、よほど瞑想に熟練した人でもなければ、ささいな心配事やら、心の中の絶え間ないおしゃべりに翻弄されるばかりで、かえってうんざりしてしまうことも多いのではないでしょうか。

しかしなぜか、ひとり旅先で乗り物に揺られ、窓から景色を眺めていると、意図せずいつのまにか、自分の心の奥に触れているような気がします。

もしかすると、ほどほどのエキゾチックさと、適度な退屈さがバランスした景色とか、体に伝わるリズミカルな揺れといった要素が、旅人の注意や集中力をほどよい状態に保つことで、ふだんは自分が心の奥深くにしまい込んでいる、大切な「何か」に触れることを可能にしているのかもしれません。

ただ、通勤や買い物のために移動するようなときには、なかなかそういう体験を味わえないことを考えると、やはり、旅をしているという実感、つまり、日常の世界から遠く離れた解放感とか、ひとりで見知らぬ場所にいるという感覚が、日常的な心のおしゃべりを静め、そうした体験を生み出すことに大きく貢献しているように思います。

そう考えると、知らない土地でバスや列車に乗り、窓の外を眺めるという行為には、たんなる移動中の暇つぶしというだけでなく、人を日常の思考回路から解放し、意識を別のモードに切り替え、旅人自身の「大切な感情や考え」に触れさせる、ある種の儀式のような側面もあるのではないでしょうか。

もっとも、それはとても繊細なプロセスのようです。

私も、アジアでバス旅をしていたときには、オンボロのバスで朝から晩まで悪路を走るような旅にヘトヘトになりながら、それでもまたバスに乗りたくなるという、不思議な中毒性のようなものを感じていましたが、当時は、自分に何が起きているのか、沢木氏のようにうまく表現することができませんでした。

たぶん、多くの旅人にも、彼のいう「旅の窓」を通して、何か大切なものに向き合っているという感覚は、あまりないのではないかという気がします。

だからこそ、多くの人は、移動の時間はできるだけ短いほうがいいと考えるのだろうし、移動中も、誰かと話したり、何かのエンターテインメントに集中して、万が一にもぼんやり過ごすことのないように、必死で時間を埋めようとするのかもしれません……。


JUGEMテーマ:旅行

at 19:01, 浪人, 旅の名言〜旅人

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