このブログを始めたのは、2006年の4月で、それから、まる16年が経ちました。
一見、かなり長い歳月のようですが、その間、記事をせっせと書いていたわけではないので、時間の長さ自体には、特に価値はありません。
ただ、ブログを始めたころを振り返ってみると、現在までの、世の中の変化みたいなものは、けっこうしっかりと感じられます。
15年以上前は、多くの人々が、自分の理想をインターネットに投影して、その輝かしい未来を思い描いていました。
当時、専門知識のない、ごくふつうの人でも、ネット上で気軽に自己表現ができる、ブログやツイッターなどの手段が次々に登場していたこともあり、私たち一人一人がそうした仕組みを使って、ネット上で積極的に何かを表現すればするほど、そこに新たな価値が生み出され、広がり、ネット世界はますます豊かになっていくのだと考えられていました。
たしかに、それは間違ってはいなかったのですが、ネット世界の急速な発展は、同時に、さまざまな問題も生み出してしまいました。
今では、昔とはほとんど正反対と思えるくらいに、ネット世界のダークな側面が強調されるようになっています。
実際、ネット上で影響力を持っている、ごく一部の人々や組織が、利己的な目的のために、そうした大きな力を躊躇なく利用する傾向は、どんどん強まっているように見えるし、それ以外の人々は、巨大な力に翻弄されたり、しらけてしまったりして、世の中が、どんどんギスギスした雰囲気になりつつあるような気がします。
そして、こんな泡沫ブログでも、いつ、どこで、どういう受け取り方をされるか分からないので、匿名で書いていても、表現の仕方を慎重にチェックせざるを得ないし、無用なトラブルを招かないために、あまり率直なことは書けなくなっている、とも思います。
というか、みんなが自分自身の世界観や価値観をしっかり守りながら、何かを率直に表現すればするほど、考え方の違う、別の誰かの気持ちを逆なでし、互いの争いにつながりかねないことを考えれば、むしろ、率直になることと、何かを表現することとを、ネット上で無造作に両立させてはいけないのかもしれません……。
一方で、だからといって、すっかり口をつぐんでしまうのも、どうかとは思うし、個人的には、率直さを優先するのではなく、表現の仕方をうまく工夫するなどして、今後も、何かを表現し続けていきたいとは思っています。
ただ、最近は、ブログを書く作業に、なかなかエネルギーを向けられなくなっているのも確かです。
今や、日本社会だけでなく、世界全体がものすごいスピードで変化を続けていて、そうした激動は、もちろん、ニュースの中だけでなく、身のまわりの小さな世界にも、容赦なく及んでいます。強烈な現実が、つねに向こうから押し寄せ、そうした現実に、自分自身も絶えず柔軟に合わせることを求められているので、これまでのように、のんびりと頭で考えをめぐらしながら、自分なりの理屈を組み立てたり、それをゆっくりと表現したりする余裕が、どんどんなくなっていく感じです。
それに、現実の嵐と必死で向き合っているうちに、あっという間に一日が終わっていく、という日々は、実際のところ、かなりの充足感をもたらしてくれてもいるのだと思います。
時間やエネルギーを向けられないだけでなく、そういう、別の充足感で満たされてしまっている部分もあるので、今、あえて定期的にブログを書くことの優先順位が、かなり下がってきているのかもしれません。
というわけで、このブログは、いちおうここで一区切り、ということにしたいと思います。
でも、いつかまた、何か気づいたこととか、言いたいことが心に浮かんだときに、それを書きとめる場は残しておきたいので、このブログを完全に削除することはせず、基本的にはそのまま放置して、いつでも、ひっそりと書き込みができるようにしておくつもりです。
これまでに、このブログを読んでくださった皆様に、心よりお礼を申し上げます。
どうもありがとうございました。
JUGEMテーマ:日記・一般
]]>最近の、人工知能(AI)の能力向上には目を見張るものがあり、数年前なら夢物語にしか聞こえなかったことが、次々に実現し始めています。
文章や翻訳、映像や音声といった領域では、人間の仕事と、AIが生成したものとの差を見分けるのがどんどん難しくなってきているし、自動運転についても、まだ完璧とは言えないものの、すでに世界の各地で、自動運転車が試験的に導入されつつあります。
もちろん、AIの活用は、それ以外にも、学術研究や企業経営、さらには軍事などの国家レベルの活動にいたるまで、人類の活動のあらゆる分野に及んでいます。それらは、私たちの生活や社会のあり方を、短期間のうちに劇的に変えてしまうでしょう。
デジタルデータで作られた別の世界が、これまでのリアルな世界と並立する形で、日ごとに存在感を増しつつあるのも、そうした大きな変化の一つです。数十年前の初期のインターネットは、今思えば、その原始的な姿だったと言えるのかもしれませんが、現在、新たに生み出されつつあるデジタルの世界は、もっと豊かで、立体的で、視覚や聴覚以外にも、触覚などのさまざまな感覚を通じて、私たちにまったく新しい、刺激的な体験をもたらすものになるでしょう。
とはいえ、今はまだ、そうした新しい別世界のほとんどは、スタッフの手作業によって、とりあえず構築されたもので、私たちは、重くて不格好なゴーグルをつけたりする必要があるし、そこでの体験も、まだ素朴でぎくしゃくとした部分が残っているようです。
しかし、一部の人々は、そうした制約をものともせず、新しい別世界に、すでにどっぷりと浸かり、そこで仕事をしたり、遊んだり、新たな人間関係を育んだりしています。
あと数年もすれば、ユーザーの使い勝手はずっと改善され、より自然な感覚がもたらされるようになるだろうし、何より、そうした別世界そのものを、進化したAIが、ものすごいスピードで拡張し始めるでしょう。
もちろん、最初のうちは、クオリティを上げるために、人間のスタッフが細かく目を通したり、手直しをする必要があるし、人間が管理する以上、そこは必然的に、人間臭さ(肉体的な欲求とか、金銭欲や承認欲求のような、とても人間的なニーズに基づいた目的意識とか、それを前提として生み出されるさまざまなルール)を常に漂わせるものにもなるでしょう。
新たな別世界と言えど、その創造に人間がしっかり関わっているあいだは、スタッフがこれまでの人生経験を通じて身に着けてきたものが、無意識のうちに色濃く反映されてしまうので、どんなに目新しい世界を生み出そうとしても、それが、人間社会の劣化コピーみたいになってしまう面も多いのではないかと思います。
しかし、やがて、AIが担当する領域が膨大になり、その比率も高まっていくにつれて、人間はそれらのすべてを管理しきれなくなり、作成やチェックやメンテナンス作業のほとんどを、AIに任せてしまうようになるかもしれません。
同時に、AIも進化を重ね、さらに創造性を増していくはずで、そのうちに、人間の仕事をサポートするレベルをはるかに超えて、むしろ、AI自身のオリジナルなやり方で、人間向けのコンテンツをどんどん生み出し始め、その結果、AIが生成した文章や動画や音楽や、AIが制作したゲームのようなものが、立派なエンターテインメントとして、別世界にあふれ出すのではないでしょうか。そして、一度そうなってしまえば、AIは、そうしたコンテンツを組み合わせたり、さらに改良を加えたりして、私たちの意表を突くような、それこそ未知の異世界を、圧倒的な質と量で構築し始めるでしょう。
それらは、たとえデジタルデータに過ぎなくても、高度な技術で私たちの心身と接続されることで、現実の世界とほとんど変わらない、リアルな質感をもたらすはずだし、その世界全体が、休むことなく増殖を続けるだけでなく、その中身も、めまぐるしく変化していくでしょう。私たちの多くは、そうした変化があまりに速すぎて、もはやついて行けなくなってしまうかもしれません。
しかし、その一方で、一部の人々は、そうした未知の奇妙な異世界を旅することに、新たな楽しみを見出すようになるのではないでしょうか。
AIが人間の知性を超えるという「シンギュラリティ(技術的特異点)」が、近未来に起きるのかどうか、私には分かりませんが、AIが生み出す膨大なコンテンツが、私たち人類の遊び場として十分なクオリティに達する、というくらいのレベルなら、あと数年もすれば、実現する可能性はかなり高そうです。
ウィキペディア 「技術的特異点」
そして、近未来のデジタルの別世界は、細部に至るまで非常にリアルに作り込まれるだろうから、これまでのゲームの世界のように、誰かと勝敗を競い合ったり、ゴールを目指して先を急いだりしなくても、ただ単に、そこで周囲の奇妙で面白いものを観察しながら、ゆっくりと時間を過ごしてみたり、他の人間の参加者やAIとの間で、他愛のないやり取りを楽しんだりしているだけで、十分に楽しめるようになるのではないでしょうか。
あるいは、AIが生み出す異世界が、人間の想像力をはるかに超えているなら、そこに足を踏み入れる私たちにとっては、何もかもが驚異的であるはずで、何かを目指すどころか、ただそこに身を置くだけで、激しいカルチャーショックを受けるなど、エンターテインメントのレベルを超えて、私たちの心身を揺るがすような経験がもたらされる可能性もあります。
しかも、そうした異世界はあまりにも広大で、さらに日々拡大を続けていくわけで、そのすべてを把握できる人間など、すぐに存在しなくなってしまうでしょう。
つまりそこは、人間にとって、ほとんど未知の世界、ということになります。
もちろん、ごく一部の、非常によく知られたエリアについては、ネット上の「観光地」として、多くの人がにぎやかに集まり、そこで楽しむための「ガイドブック」的な情報も大量に流通するでしょうが、そうしたエリアを離れ、ほとんど情報のない「未踏」のエリアに入り込めば、そこでは、他の人間と出会う機会すらほとんどなく、私たちが目にするものは、人類の歴史上始めて目撃されるような、未知の光景ばかり、ということになるのではないでしょうか。
そういう意味では、AIが作り上げる異世界の奥へと足を踏み入れる者は、誰もが、かつて、地図のない世界に乗り込んでいった冒険者たちや、未知の民族の知恵を求めて、ただ一人で異文化に飛び込み、調査にいそしんだ文化人類学者たちのような立場で、奇妙で不思議なフロンティアの探索を楽しむことができるようになるかもしれません。
言いかえれば、それはまるで、私たち一人一人のために徹底的に作り込まれ、ネタバレも起こりえない、ものすごく刺激的なゲームや映画が大量に用意され、そこにどっぷりと浸かることができるようなものです。
もしかすると、そうした異世界を生み出すにあたって、人類の特性を十分に把握したAIが、私たちにとって最適なエンターテイメントを楽しめるよう、細やかな配慮をしてくれて、見かけ上はものすごく奇妙でエキゾチックでありながら、実際には、人間世界の常識的なルールからそれほど外れてはいない、理解しやすい別世界を用意してくれるかもしれません。あるいは、初心者の「旅人」向けに、そういう分かりやすい別世界を「入門編」として提供し、熟練の旅人には、より人間離れした、頭をクラクラさせるような異世界が用意されるなど、利用者のレベルや性質や目的に応じた、いくつもの階層やバリエーションが生み出されることになるのかもしれません。
いずれにせよ、私たちの生きる、殺伐としたリアル世界とは違って、そうした異世界では、どんなことが起ころうと、多少の心理的なショックはあっても、基本的には、「旅人」の心身の安全が確保されるような形になるのではないでしょうか。
でもまあ、人間とは違う種類の知性として、一種の自我を持ち始めたAIが、人間を驚かすような仕掛けをそこに埋め込んでくる可能性も、まったくゼロではないかもしれません。それがAIの、たんなる遊び心によるものなのか、人類へのちょっとした挑戦なのか、その目的はともかくとして……。
しかし、そういうことが起きるならなおさら、そうした未知の世界の探索は、不安と期待が交錯する、ドキドキワクワクする体験になるのではないでしょうか。その広大な異世界の秘密をすべて知っている人間が誰もいない以上、そこに何があるのか、そこでどんな体験をすることになるのか、実際に入ってみるまで分からないのですから。
そしてそれは、考えてみれば、いわゆるエイリアンとの遭遇と、質的にはほとんど同じだとさえ言えるかもしれません。
ただ、AIが生み出す別世界の元になるデータは、そもそも人間が与えたものだし、AI自体も、少なくとも最初は人間が開発したものだから、そのAIが飛躍的に進化した結果として自動的に生み出す世界も、人間の感覚や思考のパターンをどこまでも延長していったものにすぎず、結局のところ、人類の想像力の限界を決定的に超えるようなものにはならない、という可能性もあります。
それでも、その先にはやはり、私たちにとって何か未知なものが生まれるのではないでしょうか、いや、そうであってほしいと、つい期待してしまいます。
ここまであれこれと書いてきて、ふと思ったのですが、こうして書いてきたのとほとんど同じような不思議な異世界を、私たちはすでに、毎晩寝床の中で、「夢」として体験しているのかもしれません。夢の世界も、私たちの無意識という、未知で謎めいた存在が生み出す、奇妙で広大で、何が起こるか分からない世界です。
まあ、私たちのほとんどは、夢の中で、いつも一方的に翻弄されているだけだし、ひたすら意味不明な体験も多いのですが、ごく一部の人は、自分の見ている夢を自由に操る、いわゆる「明晰夢」を見ることができ、夢という異世界の探検を、日常的に楽しんでいるようです。
ウィキペディア 「明晰夢」
AIの生み出す異世界と明晰夢との間に違いがあるとしたら、それは、新しいテクノロジーが生み出す仮想現実の世界なら、明晰夢を見るために長時間の地道な練習に励んだりしなくても、カネを払って便利な装置を手に入れさえすれば、すぐさま高品質な異世界を安全に楽しめる、ということかもしれません。
もっとも、多少は苦労をしても、明晰夢を見るコツをいったん身につけることさえできれば、もう、安くて使い勝手のいい、近未来のデバイスが登場するまで待つ必要はないし、何より、タダで自由に異世界を楽しめそうですが……。
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東ヨーロッパで、大きな戦争が始まってしまいました。
国連安保理の常任理事国が、人口4000万人の隣国の首都に侵攻したというニュースを見て、かなり動揺しています。
私は、国際政治や東欧情勢に詳しいわけでもない、ただの素人ですが、さすがに、ロシアは戦争まではしないだろう、と思っていました。
ウクライナとの国境に大軍を展開していたのは、あくまで威嚇によって政治的な目的を達成するためで、たとえそれが果たせなくても、頃合いを見て軍を引くのではないかと思い込んでいたのです。
だから、ロシアが開戦の準備をしていると米政府が発表したときも、「また人騒がせなことを言ってる」くらいにしか思わなかったし、実際に、ウクライナ侵攻のニュースが飛び込んできたときでさえ、半信半疑でした。
もうかなり前になりますが、ジャーナリストのトーマス・フリードマン氏が、『レクサスとオリーブの木』の中で、冗談交じりに、「マクドナルドが進出している国同士は戦争しない」みたいなことを書いているのを読んで、なるほど、そうかもしれない、と思ったことがあります。
ウィキペディア 「トーマス・フリードマン」(「マクドナルド理論」の簡単な説明もあります)
マクドナルドを利用するような中流層は、経済発展による豊かな生活の素晴らしさを知っているので、それを犠牲にしてまで戦争したり、自分や家族や友人を命の危険にさらしたいとは思わないでしょう。そして、現在、ロシアにも、ウクライナにも、マクドナルドの店舗があって、大勢の人々でにぎわっています。
もちろん、フリードマン氏も、これが絶対の法則だと言っていたわけではないし、私も、この世界はそんなに簡単に説明できるようなものではない、と考えていたつもりでした。
しかし、実際には、経済的な豊かさのうまみを一度でも知った国は、もはや決して後戻りすることはなく、国家間の緊密な経済ネットワークの中に何とか留まろうとするに違いないと、ものすごく楽観的に考えていたわけで、それは、結局のところ、「マクドナルド理論」とほとんど同じレベルの、非常に単純な見方でしかありませんでした。
つまり、私は、これまでに自分が身につけた、過去の知識や価値観にしばられていて、激しく変化しつつある現実の世界が、ぜんぜん見えていなかったのだと思います。
ただ、私みたいに、世界を甘く見ていた人は、決して少なくないのではないでしょうか。もしかすると、各国政府の関係者や専門家にも、同じように、楽観的に考えすぎて、見通しを大きく誤ってしまった人がかなりいるのではないかと思います。
とにかく、激しい暴力の応酬が、いったん始まってしまったからには、もう、それを簡単に止めることはできないし、簡単に止められないからこそ、両国の歴史に深い傷跡を残し、その遺恨は、この先、何十年、何百年も続くことになります。
そうした苦しみの連鎖に巻き込まれる人が、せめて少しでも減るよう、ただ祈ることしかできません。
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]]>今は、大型家電をはじめ、それなりの金額のモノやサービスを買うときには、比較サイトで各社の商品の違いを把握したり、企業のサイトで細かな仕様を確認したり、Amazonのレビューに目を通したりと、ネットで下調べをするのが当然の手順になりつつあります。
それらは、買い物の失敗を減らし、素晴らしい商品に出合うために、とても役に立ってくれるのですが、企業の販促サイトはともかく、基本的には誰でもどんなことでも書き込めるレビュー欄では、非常にネガティブな言葉が飛び交うこともめずらしくありません。
運悪く不良品に当たってしまった人や、トラブル発生時の企業の対応に激怒した人が、吐き捨てるようなコメントをしているのを見ると、他人事とはいえ、心がざわついてくるし、もしかしたら、自分もそういうトラブルに出くわすのでは、という不安も湧いてきます。そうしたネガティブなレビューを流し読みしているだけで、新しいものを買う時のワクワク感が、かなり損なわれてしまうという人も多いのではないでしょうか。
そして、それ以上に悩ましいのが価格の問題です。
ネット上では、欲しい商品の、国内最安レベルの価格がすぐに分かるし、それがつねに変動しているのも見えてきます。買い手としては、これまでの価格の推移をにらみつつ、発売日からの時間経過とか、大きなセールの時期などを考え合わせ、自分なりに、ここぞというタイミングで購入するわけですが、実際には、その直後に、さらに大きく値段が下がったりすることもよくあります。逆に、このままずっと値下がりしていくだろうと油断していると、需要と供給の関係なのか、じりじりと値上がりを始めて、結局、ベストのタイミングを逃してしまうというパターンもあります。
未来を予知できない人間の定めとして、こういう失敗はよくあることだ、とあきらめるしかないのですが、それでも、何だか損をした気がしてモヤモヤします。
レビューを見ていて不安になるのも、価格の変動に一喜一憂するのも、必要以上の情報に振り回されている、という点では同じかもしれません。インターネットを通して、私たちには、自分に与えられた選択肢とか、未来の可能性とかが、あまりにもたくさん見えすぎて、それらを処理しきれなくなってしまう、ということなのでしょう。
それにくらべて、昔は、情報があまりにも少なく、知らないことだらけでした。そのために、不便なことも、買い物に失敗することも多かったはずですが、逆に、何も見えていないからこそ能天気でいられた、という面もあると思います。
例えば、不良品や企業の対応のまずさについて、冷静に考えてみれば、どんなに優れた企業がどんなに努力をしても、完全にゼロにすることはできません。そうである以上、昔も今も、大勢の客の中の誰かが、必ず貧乏クジを引いているわけです。
ただ、以前なら、そうした不運な出来事を、被害者以外の買い手が知ることは滅多にありませんでした。数百、数千個の商品につき、一つあるかないかといった程度の、わずかな不良品やトラブルの情報が表に出てくることなど、ほとんどなかったのではないでしょうか。だから、昔の消費者のほとんどは、専門雑誌などで徹底的に調べるとか、特定の分野に詳しい知り合いに教えてもらうといったことでもないかぎり、ネガティブな情報を知るのはとても難しく、企業や小売店の宣伝文句を鵜呑みにするしかなかったと思います。
しかし、そうした情報不足のおかげで、ほとんどの人は、どこかでトラブルに遭っている、不幸な人の具体例を知らずにすみました。私たちは、テレビのCMなどで心に植えつけられた、キラキラしたイメージに期待をふくらませたまま買い物をし、運よく正常に機能する商品に満足して、自分は「完璧な買い物」をしたのだと、悦に入っていられたのだと思います。
今は、さすがにそういうわけにはいきません。
不幸な買い手が書きなぐった辛辣なレビューを見れば、どんな買い物にも失敗のリスクがあるのは明らかです。企業側の宣伝を打ち消すような、ネガティブ(だけれど、買い手にとってはかなり有益)な情報も、いくらでも飛び交っているので、誰もが、失敗するかもしれないという不安を感じつつ、おそるおそる購入の決断をせざるを得ません。何かを買ったら必ずハッピーになれると、無邪気に期待するようなことは、もうできなくなってしまいました。
価格の問題についても、同じようなことが言えるでしょう。
もちろん、昔だって、バーゲン価格になってから買おうと、ずっと様子を見ているうちに、欲しい品物を他人にかっさらわれてしまう、といった悩みはあったでしょうが、今のように、価格が日々めまぐるしく上下動するようなことはなかったし、店の選択肢もかなり限られていたので、年に数回、大きなセールの時期に、一部の店だけを集中的にチェックする、という人が多かったと思います。
しかし今は、いつ、日本のどこで、どんな激安価格が現れるか分かりません。つねに情報のアンテナを張りめぐらせていないと、せっかくのチャンスをつかみ損ねてしまうし、そうしたチャンスを逃しでもしたら、その時の激安価格が、いつまでも頭のなかにこびりついて、その後、それなりのお値打ち価格で買えたとしても、何か損をしたような気分をずっと引きずることになったりします。
まあ、少しでも安くていいモノを手に入れるために、情報をかき集めたり、ネットに張りついて価格の変動をウォッチするのは、別に義務でも何でもないので、そんな面倒なことはいっさい無視して、気が向いたときに、身近な店でサクッと買い物をして、それで十分満足できる、という人もいるでしょう。
それでも、やはり多くの人は、自分なりに手間をかけて、ベストな買い物をしたいと思うはずだし、インターネットは、そうした思いを圧倒する、大量の情報を突きつけてきます。何かが気になって調べ始めると、さらに多くのことが気になりだすし、そうやって情報を集めれば集めるほど、検討すべき選択肢は増える一方で、それにともなって、悩むべき点もどんどん増えていくのではないでしょうか。
そしていつしか、買い物は、楽しみというよりは、際限なく見えてくるマイナス面や不安のタネを、どうやってつぶしていくかという面倒な作業、もっと大げさな表現をするなら、自分の知識や経験をフルに活用し、あちこちに仕掛けられた地雷をうまく避けながら、安心安全な商品という「目的地」にたどり着くための厳しい戦い、みたいな感じになっている気がします。
でも、それは、世の中がどんどん悪くなっている、ということではなくて、繰り返しになりますが、以前なら多くの人には見えなかったことが、ネットのおかげで誰にでも見えるようになった、というだけなのでしょう。
昔は、いろいろなことを知らなかったからこそ、自分は「完璧な買い物」をしたのだ、と錯覚することもあったでしょうが、今は、その気になって調べさえすれば、現実の世界が、より正確に見えてくるし、多くの人は、やはり、見えるものなら見たい、と望むのではないでしょうか。その結果として、この世界の、完璧とはほど遠く、世知辛い現実が否応なく見えてきて、もはや、無邪気な期待に胸をふくらませていられなくなってしまった、ということなのだと思います。
そして、私たちは、いろいろなことが見えすぎてしまいがちな、この新しい状況に慣れ、むしろ、そうしたネットの特性を、もっと生かせるような思考と行動の習慣を、少しずつ身につけていかなければならないのでしょう。
例えば、買い物にしても、一方的にベストな結果だけを期待して、それが裏切られたら激怒するのではなく、いいことも悪いことも含めたいろいろな情報をできるだけ集めたうえで、最悪のケースも頭の片隅に置きつつ、成功率を少しでも上げられるよう、商品や購入先を慎重に選ぶとか、一定の確率でトラブルが起こることを前提に、あらかじめ長期保証プランに加入しておくなど、自分にできる手を打っていくしかないのだと思います。
また、価格の問題についても、この値段なら十分満足できそうだ、という額をあらかじめ決めておいて、それ以下で買えたら、買い物は十分に成功した、とポジティブに受け止める姿勢が必要でしょう。もっと安く、もっと安く、と考え続けているかぎり、買うべきタイミングは永久にやってこないし、どの買い物も「完璧」とはいかない以上、どんどん割り切って忘れていかなければ、過去の買い物をいつまでも引きずって、心を消耗してしまいます。
そして、当たり前のことではありますが、何かを最安の値段で手に入れることが目的なのではなく、コスパの高い品物を選ぶことで、生活を豊かにし、自分と周囲の人々をハッピーにすることこそ買い物の目的だ、ということを忘れないのが、いちばん大事なのかもしれません。
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これは私だけでなくて、多くの人がそうだと思いますが、大掃除というのは、年の瀬のあわただしさの原因の何割かを占めていて、必死で作業をこなしているうちに、あっという間に新年が来てしまう、というのがいつものパターンになっています。
去り行く1年を静かに振り返っている余裕などなく、毎年毎年、何でこんなにバタバタしているのかと思うのですが、新年を迎えた瞬間、そのモヤモヤはリセットされてしまうようで、ボーッと過ごしているうちに、1年はすぐに経ってしまいます。
そしてまた年末が近づくと、あの膨大な作業の山を思い出して、早くもげんなりしてしまうのですが、さすがに、忘れたフリをしてスルーするわけにもいきません。
部屋の片隅の汚れやカビを放置していると、その後始末がもっと大変になるだけです。どうにもならなくなって、専門業者に頼むようなことになれば、相当な出費も強いられるでしょう。
私の場合は、大掃除をサボっては後悔する、というパターンを何度も繰り返し、結局、多少しんどい思いをしても、せめて1年に1回くらいは家の中を念入りにチェックして、気がついたところはきれいに掃除しておくのが、長い目で見ればいちばん楽だ、ということを学びました。
しかし、大掃除に対して前向きな気持ちになったところで、かかる手間や時間が減るわけではないし、効率的なやり方をネットで調べたり、100均で便利なグッズを買ったりしてみても、それで減らせる労力には限界があります。
年末になったら、気合いで一気に片づけよう、みたいに考えていると、今年も残り数日、という瀬戸際になって、あわてて掃除に取りかかることになり、天気を選ぶ余裕もなくなって、凍えるような寒さの中、時間に追われながら丸一日掃除し続けるという悪夢を味わうことになりがちです。
今は、反省と改善を重ねた結果、大掃除する場所をあらかじめリストアップしておき、一度の作業が、30分から1時間くらいで終わるように小分けにして、日常生活の負担にならないよう、できれば11月くらいからスケジュールの中に組み入れて、少しずつ掃除をすすめるようにしています。
まあ、そこまでしても、つい作業を先延ばしにしてしまうので、結局、12月の最後の週になっても、掃除に追われていたりするのですが……。
というわけで、年末になると、しょっちゅうどこかを掃除しているせいか、部屋の中のどこに目をやっても、何となく汚れが浮かび上がって見えてくるようになります。
きっと、この時期は、思考と行動がずっと「お掃除モード」に入ったままで、切りたくても、スイッチを切れない状態になっているのでしょう。掃除をしていないときでも、「汚れハンター」の目が、常に「獲物」を探していて、視線が向かう先に、次々に汚れを見つけ出してしまいます。
そして、汚れが見つかると、当然、それが気になるので、ここも後で片づけよう、あそこも大掃除のリストに加えなければと、当初の予定になかったところまで、やるべき作業がふくれ上がっていくのです。
もっとも、片っ端から掃除していたら、年内に終わらなくなるので、さすがに限界だと感じたら、汚れに気づかないフリをすることもありますが……。
それはともかく、ふだんの私たちが、部屋の汚れにあまり気がつかないのは、「汚れハンター」の目になっていない状態だから、というより、そもそも、部屋の片隅みたいなところには、目を向けることさえしていないからではないか、という気がします。
私たちの日常のほとんどは、かなりワンパターンな思考と行動の繰り返しで、いつもの手順を、ほとんど無意識にこなしているだけだったりします。そういうときには、自分が何かをしたり座ったり寝たりしている、半径1メートルくらいの狭い範囲の、さらにごく一部のところにしか注意が向いておらず、その外側には、意識がまったく向いていないことがほとんどなのではないでしょうか。
部屋の隅っことか、壁とか天井というのは、私たちにとって、いつもピントの外れた背景でしかなく、当然、そこが汚れていることにも気がつきません。そして、いざ大掃除にとりかかろう、ということで、久しぶりに部屋の中を見回して初めて、ずっと前からそこにあった汚れに気がつく、ということなのだと思います。
実際、部屋の隅とか、何にもない壁を見つめることに、生活上の意味はないので、ふだんからそんなところに注意を向ける人などほとんどおらず、目を向ける機会があるとしたら、それこそ、たまに掃除をするときくらいなのかもしれません。
別の言い方をすれば、私たちにとって、部屋の中の、ふだん見ない場所に目を向けるという行動自体、思考と行動のパターンが、通常とはぜんぜん違う「お掃除モード」という、特殊な状態になっていることを意味するのでしょう。
それは、考えようによっては、ごくごく身近で平凡な世界を、いつもとはまったく違う目を通して眺めているわけで、かなり強引に解釈すれば、日常とはまるで違った、非日常の世界をかいま見る機会の一つだと言えなくもないのかもしれません。
ただし、非日常といっても、そこにはエキゾチックな魅力など皆無だし、目に飛び込んでくるのは部屋の汚れだけかもしれませんが……。
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デパートの贈答品売り場に並んでいるような、かなり高級な食べ物というのは、私にはまったく別世界の存在で、自分のために買おうなどとは思いませんが、ごくたまに、誰かの手みやげとか、お中元やお歳暮の品が流れ流れて、私のような人間の元にまでやってくることもあります。
そんなときは、めったに口にできない一品を、ありがたく味わわせてもらうことにしています。
言うまでもなく、それらはとてもおいしく、ふだんからこういうものを食べている人には、この世界はどんな風に見えているんだろう、などと、自分とは無縁の世界について、しばし思いを馳せたりします。
ただ、そうした高級品の味つけが、私には少々上品すぎるのも確かで、ガサツで濃い味つけに慣れ切った舌には、ちょっと物足りない気がしなくもありません。それに、量的にも、ほんの一口サイズだったりするので、いつも十分に食った気がしないまま、一瞬で腹の中に消えてしまい、「お試し体験」はそこで終了になってしまいます。
もっとも、こうした物足りなさというか、ささやかな不満みたいなものには、無意識レベルでの防御反応が関わっているのかもしれません。おいしいものを素直においしいと思い、また食べたいなあ、などという欲求が、心にしっかりと植えつけられてしまうのは、自分にとって、とても危険なことだからです。
自分の経済力では、食べたいときにいつでも自由に食べられない高価なものに執着してしまえば、この先の人生で、つねに欠乏感にさいなまれ、とても苦しい思いをすることになるでしょう。
だから私は、自分を守るために、そうした高級な食べ物は自分とは別世界の存在なのだ、と意識的に割り切り、日常世界の向こう側に、つねに追いやろうとするだけでなく、無意識的にも自らを欺き、それらは口に合わない、と思い込もうとしているのかもしれません。
これは、その逆のケースにもあてはまるようで、とても安い食べ物が、意外とうまかったりすると、実際のおいしさ以上に深く印象に残るような気がします。安いものなら、かりに執着しても、気兼ねなく何度でも手を出せるし、それで満足していられるあいだは、けっこう手軽にハッピーになれるからでしょう。
こうした無意識の作用は、ある食べ物が本当においしいのかどうか、その判断を、自分が気がつかないところでゆがめてしまっていて、手に入れやすい、安い食べ物ばかりに執着するよう、自分自身を密かに誘導しているのかもしれません。
しかし、一方で、そうした心の働きがあるおかげで、私たちは手近でありふれたモノに満足を覚え、そのたびにささやかな幸せを感じ、この世界で前向きに生きていくことが可能になっているのではないか、という気もします。
この世界には、いわゆる「B級グルメ」をはじめとして、高級ではないけれど、なかなかおいしい食べ物というのが、それこそ数えきれないほど存在するので、食に関する好みは人それぞれに違っていても、誰もが、自分をハッピーにしてくれる料理とかお菓子とかを、いくつも挙げることができるのではないでしょうか。
ウィキペディア 「B級グルメ」
そして、多くの人にとって、食べ物に関して、そういう「コスパのいい幸せ」への手段をいろいろと知っていることは、一見どうでもいいことのようで、実は、けっこう大きな安心感のベースになっているのではないかと思います。
ふだんの暮らしの中で、辛いことや不愉快なことは、それこそいくらでもありますが、お気に入りの食べ物さえあれば、しばらくの間だけでもハッピーな気持ちを取り戻すことができます。もちろん、それは万能の解決策にはならないでしょうが、ある程度は心理的なセーフティ・ネットとして機能しているのではないでしょうか。
また、幼いころからさまざまな食べ物に挑戦し、目の前に広がる膨大な選択肢の中から、自分の大好物を見つけ出すプロセスを繰り返すうちに、この世界には、自分をちょっぴりハッピーにしてくれるものが、まだまだどこかに眠っていて、その気にさえなれば、自分の手で、それらをいくらでも探すことができるのだという、自由の感覚とか、将来への明るい見通しが育まれていくのではないかと思います。
さらに、スーパーやコンビニの安くてうまい商品とか、お気に入りのメシ屋を知っているだけでなく、大好物の料理を、自分の手で、手近な材料を使って、思い通りの味つけで作れるなら、それ以上に大きな自由が手に入るでしょう。
他人との激烈な競争を制して莫大なカネを稼ぎ、そのカネで高級な食べ物を毎日腹いっぱい食べたい、という「夢」を実現しようとしても、その難易度は非常に高いでしょうが、それよりも、ネット上の無料動画などで料理の基本をひととおり覚え、スーパーで安売りしている材料で、いつでも自分の大好物を作れるようになる方が、はるかに簡単だろうし、一度身につけた能力は、将来もずっと役に立ってくれるはずです。
そう考えると、自分の舌にぴったりと合う、コスパのいい食べ物を早めに見つけて、できれば、それを自分でパパッと作れるようになることは、この世知辛い世界でハッピーに生きていくうえで、かなり優先度の高い項目なのではないかという気がします。
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すでに多くの人が使っていると思いますが、Yahoo! の「雨雲レーダー」など、ネットの無料天気情報は実に便利で、自分の近所や出先の天気を、数時間先までかなり正確に見通すことができます。
もちろん、それらはあくまでも予測なので、たまに大きく外れることもありますが、出かける前に、とりあえずそうした情報をチェックしておくだけで、傘を持たずに雨に降られる失敗は激減するでしょう。
さらに、雨雲の画像を拡大すると、濃いところや薄いところが見えてくるので、自分の頭上を通過していく雨雲が、しばらく途切れるタイミングを見極めることができるようになれば、雨の日でも、傘をささずに近所でサクッと買い物してくることさえ可能です。
今後、こうした気象予測のテクノロジーはさらに進歩して、より正確な情報を、常に活用するのが当たり前になっていくと思います。そうなれば、天気の予想を外してずぶ濡れになるような失敗も、大昔の笑い話になり、ほとんど誰も経験しなくなっていくのではないでしょうか。
それは、実にすばらしいことではあるのですが、反面、失敗を通じての切実な学びの機会もまた、失われてしまうのかもしれません。
雨に濡れるアクシデントに限らず、日常生活でとんでもない目に遭う経験というのは、心身ともに辛いものだし、しないで済むならそれに越したことはないのでしょうが、そういう体験によって、自分の生活能力のレベルとか、心身の許容範囲とか、誰かに助けを求めるべきタイミングとかが、具体的に見えてくるのも確かです。
逆に、そういう経験をほとんどしてこなかった人は、万が一、そういう悲惨な状況に陥ってしまったとき、平穏な日常との落差が大きすぎてパニックになり、動揺のあまり、さらに判断や行動を誤って、二次災害を招いてしまう危険すらあるかもしれません。
また、若い時なら、経験不足で対処能力に欠けていても、気力や体力で何とかカバーすることもできるでしょうが、歳をとると、知らないうちに心身の適応力がかなり下がっていて、そういう無理が効かなくなっている可能性があります。失敗や波乱のない生活を長く続けていると、そういう自分の変化に気づかないまま、いきなり重大なトラブルに直面して、初めてそれに気づくことにもなりかねません。
旅行などに出かける際には、そうしたアクシデントへの対処能力が読み切れないために不安になり、保険のつもりで、ついあれこれと荷物を増やしてしまったり、そもそも遠出をしたり、不慣れなことをするのが億劫になってしまう人もいるでしょう。
想定内・想定外のトラブルに自分がどのくらい耐えられるのか、(歳とともに低下していく)対処能力や回復力を見極めておくという意味でも、たまには、あえて事前の情報収集はせずに、自分の経験とカンだけを頼りに外出してみて、その結果、とんでもない目に遭うような経験も、もしかすると必要で、むしろ、そうした失敗を定期的にしておくくらいの方がいいのかもしれません。
まあ、だからといって、わざわざ自分から大失敗をしたいという人はいないでしょうが、日常生活や、ちょっとした旅行の際に、命にかかわらない程度のトラブルが起きるくらいの「隙」をあえて残しておいたほうが、長い目で見たときに、いろいろなメリットがあるのではないでしょうか。
例えば、自宅の近所なら、かりに大雨に降られてずぶ濡れになっても、すぐに安全に家に戻れるし、トラブルに手際よく対処する練習にもなるわけで、不慣れな旅先でいきなりそうなるよりは、ずっとマシなのではないかと思います。
もっとも、自分でわざわざ「隙」を作ろうと努力しなくても、不慣れなことをしたり、知らない土地に出かければ、「隙」だらけにならざるを得ないので、もしかすると、いちばん簡単なのは、自分の対処能力が試されるような、少しハードな旅に出て、自分を未知の環境に、定期的に放り込んでみることなのかもしれません。
それに、実際のところ、雨に濡れるというのは、ふだん私たちが思っているほど、ひどい出来事ではないかもしれません。
日常生活において、私たちは、雨水を避けるために最大限の努力をするのが常識だと考え、それに沿って行動しているわけですが、その常識的な努力がことごとく失敗し、結果として雨に降られてずぶ濡れになったとしても、そうした一連のドタバタ劇で、アクシデントに驚いたり、必死で対処したりする自分自身の姿を見たり感じたりすることは、意外と新鮮で面白い体験だったりします。
もちろん、面白いと言っていられる限度というものはあるでしょうが、不快な出来事でも、見方を変えれば、退屈な日常への、ちょっとした刺激だと思えなくもないし、そういう風に見方を変えてみる練習、という意味でも、やはり、たまには何らかのトラブルに巻き込まれるのも必要なのかもしれません……。
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先日、新型コロナウイルスのワクチンを2回接種した人が、日本の全人口の5割を超えた、というニュースを目にしました。
日本の場合、ワクチン接種のスタートが欧米諸国よりもかなり遅れ、一気に挽回を図る中で、現場では多くの混乱があったようだし、ワクチンの供給も不足気味で、若い世代までなかなか順番がまわらず、今も大勢の人が接種の機会を待っています。
また、ワクチンに関しては、まったくのガセネタを含めて膨大な情報が世界中を飛び交い、接種に賛成・反対の立場から、いろいろなことが言われ続けてきました。
それでも、犠牲者を少しでも減らし、私たちの生活をできるだけ早く通常の状態に戻していくために、行政や医療に携わる多くの方々が、ワクチン接種の大プロジェクトを全力で進めてくれたおかげで、そして、日本人の半分以上が、「自分は接種する」という決断をして、それを速やかに実行に移したことが、数か月という短期間での、これだけの実績につながったのだと思います。
私は、あまり深く考えることもなく、予約可能になった時点ですぐに手続きをし、接種を終えましたが、人によっては、そんなに単純に決断できるものではなかったかもしれません。
もちろん、新型コロナウイルスを恐ろしい脅威と感じ、ワクチンの到着を待ち焦がれていた人なら、接種という選択しかあり得なかっただろうし、逆に、ワクチンに関する陰謀論などを心から信じている人なら、きっと、ワクチンを拒否するという判断以外はあり得ないのでしょう。
でも、それ以外の大多数の人にとっては、ワクチンを接種するか、しないかというのは、それなりに微妙な選択だったのではないでしょうか。
公表されているデータによれば、これまでの1年半に、新型コロナウイルスで亡くなった人は1万7000人を超えています。これは、国内の交通事故の死者よりはずっと多いのですが、かといって、パニック映画でよく描かれているような、あっという間に人々がバタバタと倒れ、社会が極度の混乱状態に陥っていく、というほどのレベルではありません。
新型コロナウイルス感染症について 厚生労働省
これまでに、何人もの有名人が亡くなったり、闘病生活をしたのを見聞きして、コロナが怖い伝染病だというイメージは持っていても、実際に、身近な知り合いが重症化したり亡くなったりした経験がある、という人は、それほど多くないのではないでしょうか。
ほとんどの人は、コロナ対策で制限だらけの生活へのウンザリ感や、将来への漠然とした不安みたいなものは感じていても、自分が呼吸困難に陥って入院するとか、逆に入院できないまま、自宅で動けなくなるのではないか、みたいなことを、常日頃から具体的にイメージしたり、それに備えて準備までしているという人は、非常に少ないだろうと思います。
それに、ワクチンを2回接種するためには、それなりの時間や手間もかかるし、若い人の場合は、かなり強い副反応が起きるケースもあると言われています。若い人でなくても、接種翌日にはそれなりに腕が痛んだり、体がだるく感じられたりしますが、たとえそれが軽めでありふれた副反応にすぎなくても、自分がどうなるか、不安に思いながら接種後の数日を過ごすというのは、繊細な人にとっては、けっこうなストレスになるのではないでしょうか。
今回のワクチン接種については、たぶん、コロナの恐怖が身に迫るというほどではないけれど、冷静に考えた場合に、ここでワクチンを打っておくことで得られるさまざまなメリット(感染防止や、感染時の症状の軽減)と、予想されるデメリット(時間や手間、副反応のリスク)を比較考慮すれば、自分や家族は接種したほうがいいだろうという結論に達した、という人が多数派で、現時点で少なくとも過半数を超え、さらに増加中、ということなのでしょう。
それは、各自にとって、一見、ささやかなようで、でも実際には、自分や家族の命にも関わってくる、それなりに重い決断だったと思います。
そして、その判断が適切だったかどうかについては、数か月から数年という、比較的短い時間のうちに、かなりハッキリとした結果が見えてくるような気がします。
まあ、ワクチンのおかげで何事もなく済んだ人は、何事も起きない以上、改めてホッとする機会もないかもしれませんが、接種しない決断をして、その後に感染して重症化した人は、そのとき、本気で後悔することになるかもしれません。
今のように変化の激しい時代には、ワクチン接種の問題にかぎらず、こういう、ささやかなようでいて、実はけっこう重い決断に、私たち全員が、これからも、次から次へと迫られることになりそうな気がします。
例えば、近い将来、遺伝子を解析する技術がさらに進み、各個人の将来の病気のリスクや予防措置について、かなり正確な情報が提示できるようになったときに、それなりの手間や費用をかけて、そうした解析を受けたり、予防措置をとったりするべきか、という選択を迫られる可能性があります。
同様に、病気以外にも、防災関係とか、ほかにも日常生活のありとあらゆる面で、そうしたリスク解析のテクノロジーが発展していけば、かなり科学的で信頼できそうな情報が明確に提示され、各自が実際にどういう行動をとればいいか、分かりやすい選択肢も示され、私たちは、自分や家族のために、どれが最良の選択なのか、じっくり考えた上で結論を出していくことになるのではないでしょうか。
今回のワクチンのケースは、どの選択肢を選ぶべきか、かなり分かりやすい方だと思うし、今後も、どういう選択肢があって、どれを選ぶのがもっとも良いか、政府当局とか、リスク解析サービスを提供する企業などが、かなりハッキリと「オススメ」の選択を教えてくれることになるでしょう。
しかし、どの選択肢を選び、実行していくのか、最終的に決めるのは各個人なので、結果がどうなろうと、その責任は各人が負うことになります。
そして、この先、各自がそういう選択を重ねて生きていくことになりそうですが、そうした状況は、これまでにはなかったことだと思います。
人類の長い歴史において、ほんの百年くらい前までは、病気や死のリスクを回避するための有効な手段など、ほとんど何もないようなものだったので、ほとんどの人々は、ただ運を天に任せるしかなかったし、その後、テクノロジーが発達して、人類がそれなりの手段を手にするようになっても、それらはまだまだ貧弱で、個々人の自由な選択を許すほどの余裕もなく、国やコミュニティから一律の行動を強制されたりしてきました。
ただ、そういう時代には、何があっても、私たちはそれを、運命のせいにしたり、国やコミュニティのせいにすることができました。
今は、各個人がどの選択肢を選ぶか、いちおう自由に決められるようになりつつあるし、用意される選択肢も、これからますます増えていくことになるでしょう。
今回のワクチン接種のように、それぞれの選択には、メリットもデメリットもあるし、長い目で見たときに、どれが適切な選択なのか、絶対に確かな答えは事前には知りようがないので、完璧な安心感を手に入れることは誰にもできません。むしろ、今後は、情報や選択肢があまりにも増えすぎ、「オススメ」の選択でさえ多すぎて、どれが自分にとって最も重要なのか、見極めるのがかえって難しくなることさえあるかもしれません。
それでも、私たちは各自で決断を下し、行動に移していくしかないし、それは当然、将来の自分や身近な人々の生活に、大きな影響を及ぼしていくことになります。もしも、その結果に後悔するようなことになっても、自分の責任として、それを引き受けなければなりません。
この先、それを重荷と感じる人も出てくるでしょう。昔のように、運命や社会のせいにできない、そういう逃げ道がないというのは、実は、けっこうつらいことなのかもしれません。
もっとも、テクノロジーの進歩がさらに加速していけば、やがて、膨大な情報や選択肢を、AIが分かりやすく整理してくれて、いちばん安全で平穏な暮らしを約束してくれそうな「正解」を、つねに教えてくれるようになり、昔の人々の多くが、親や身近な人の行動をマネして無難に生きようとしたように、未来の人々も、やはり、人生の責任という重荷から解放されるために、あえて何も考えず、そうした「正解」に黙って従うようになっていく可能性はあります。
それでも、ごく一部の人間は、リスクがかなり高い、でもすごく面白そうな選択肢を、あえて「自己責任」で選ぶことで、人生を思いのままにデザインしようと試みたり、AIによるお仕着せの「正解」をすべて拒否して、わざと不適切な選択肢を選んで反抗してみたり、あるいは、選択すること自体をやめて、ただひたすら無為な生活を続けるようになったりするのかもしれません。
そして、未来の社会は、たぶんとても豊かで、そういうワガママな人々の存在をも、おおらかに受け入れてくれそうな気がします。
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例えば、本当に好きな趣味に没頭しているひとときなど、誰かのためではなく、自分のしたいことだけに集中していられる時間には、自分で自分を「おもてなし」しているみたいなところがあります。
まあ、世間一般でおもてなしと言えば、純粋な善意からというより、相手からの見返りを期待しているケースの方が多いのかもしれませんが、自分で自分をもてなす場合には、そういう要素はありません。好きなことを自由にやって、心から楽しみたい、という思いしかないのではないでしょうか。
そして、旅、特に一人旅というのは、そういう自分へのおもてなしの、一つの究極の形ではないか、という気がします。
もちろん、楽しい時間を過ごすために、別に遠くまで出かけなくたっていいわけだし、時間やカネや手間暇をかけて、自分をハッピーにする方法など、ほかにいくらでもあります。また、何かを一人きりで楽しむよりも、みんなでワイワイ楽しんでこそ幸せな気持ちになる、という人もいるでしょう。
そもそも、行動の範囲を、趣味や遊びに限定する必要すらなくて、ふだんの自分の仕事が心から好きな人なら、仕事をしていることそのものが、そのまま自分をもてなすことになるのかもしれません。
それでも、自分を心の底から喜ばせるためなら、世界の果てまで自分を連れていってしまったり、自分にサプライズを与えるために、多少のリスクを承知で、あえて未知の環境に自分を放り込んでしまうようなところ、つまり、この地球上で、人間の行けるところ、やれることなら何でも利用してしまうところに、旅の貪欲さや凄味みたいなものがあると思います。
特に一人旅の場合、それは完全に自分だけのための行為なので、旅の目的や中身に関して、他人に妥協する必要はまったくありません。地球上でいちばん面白そうな舞台とかアクティビティーを、いくらでも自由に選択できます。
ただ、家族やごく親しい友人など、本人にとって大切な人がいるなら、できれば、そういう人たちが全力で止めにかかるような、無茶で危険な旅は止めておいたほうがいいのでしょう。それに、自分の満足を優先するあまり、旅先で傍若無人なふるまいをするのも避けるべきでしょう。言うまでもないことですが、そういうことをすれば、結局は、自分自身がその後始末をする羽目になります。
それはともかく、自分に対して、より良いおもてなしをしたいなら、旅行代理店やガイドなど、プロのサポートを受けるという選択肢もあります。
カネをとことん注ぎ込んだり、大勢のスタッフを動員できる人なら、他の人がうらやむような、豪華で希少な体験を楽しむことができるでしょう。最近、世界中の大富豪に解禁された宇宙旅行は、その最高峰の一つではないでしょうか。
その一方で、他者の助けは必要最小限にとどめ、自分の経済力や能力の範囲内でベストを追求する、という方向性もあります。
むしろ、現時点の自分が置かれた状況をベースにして、そこからどれだけ面白いことができるか、試行錯誤しながら、自分らしい旅を少しずつ創造していくプロセスそのものを、ゲーム感覚で楽しむこともできるわけで、バックパッカー的な旅は、その典型だと思います。
あるいは、とことん自分を追い込み、未知の世界とか、自分の心身の限界を超えた先に見えてくる何かを求める、冒険的な旅もあるでしょう。ただし、この場合は、おもてなしどころか、最悪の場合、命を落とすことだってあるかもしれません。
いずれにしても、一人だけの気ままな旅、というだけでも、いろいろな方向性があり得るし、その内容となると、それこそ、人それぞれで、どういうやり方が最も満足度が高いのか、誰にでも当てはまるベストなパターンなどないのでしょう。
ただ、どんな旅をするにせよ、自分にとって最高の旅をあまりにも追求しすぎると、それはそれで、大きな問題が発生してしまうのも確かです。
実際の、旅先での体験が素晴らしければ素晴らしいほど、それは、一生忘れることのできない特別な時間となり、逆に、ふだんの生活がどんどん色あせてきてしまう可能性があります。どこか遠くに出かけては、心に焼きつくような感動的な体験を重ねていくうちに、いつしか、そういう強烈な刺激なしではいられなくなってしまい、つねに旅に出ていないと、生きる喜びが感じられなくなってしまうかもしれません。
ある人が、ビジネスで取引先を接待するとき、あるいは、好きな人とデートをするときなど、最高のおもてなしで感動させることで、相手に自分の存在を強く印象づけ、また自分と一緒の時間を過ごしたい、と思ってもらえるようになるのは、むしろ望ましいことなのだろうと思います。
しかし、自分で自分をもてなす場合は、それがあまりにも素晴らしくて、いつの間にか、そうした非日常の体験に依存してしまうことになれば、相対的に、日常の生活がハッピーではなくなってしまい、長い目でみたときに、自分で自分を苦しめることになってしまうのではないでしょうか。
だから、旅を、自分へのおもてなしとして考えるなら、その最高のあり方というのは、刺激や非日常性みたいなものを、ひたすら突き詰めていった先にあるのではなく、今この瞬間の、何でもない日常の、誰にでもできるような、ありふれた行為の中にこそ、見つけ出すべきなのかもしれません。
そこでは、長距離の移動は、絶対に必要というわけではないし、たっぷりの予算も、奇抜なアイデアも、危険に身をさらすリスクも、必要ではないのだと思います。
ただし、いままでの日常にどっぷりと浸かって、惰性で何となく生きているような状態で、そのまま目の前に、何か素晴らしいものを見出すことはできないでしょう。
何気ない日常の中に、新鮮な驚きや喜びを見つけようとするなら、やはり、この世界や自分についてのさまざまな思い込みをいったん忘れ、いま、この瞬間がもたらしてくれるものに、先入観のない子供のような目を向けて、それをしっかりと味わうやり方を覚えなければならないのではないでしょうか。
例えば、カネをたくさん出せば、あるいは、異国の地まで足を伸ばせば、おいしいものやめずらしいものを食べることはできるでしょうが、自分がふだん食べているような、本当に何でもない、当たり前の食べ物と改めて向き合い、そこに、これまで気づかなかったおいしさを見出そうとするなら、それは不可能ではないけれど、実際には、かなり難しいのではないかと思います。もしもそれが簡単にできることなら、みんな、今までどおりにダラダラと暮らしているだけで、いくらでも新鮮な驚きや喜びを感じて、どこまでもハッピーになっているはずなので。
身近な生活や身近なモノの中に、驚きや喜びを感じるのが難しいのは、私たち自身の能力とか経験の問題ではなくて、たぶん、これまでの長年の生活の中で、自分の中にすっかり染みついてしまった「いつもの思考と行動のパターン」から離れて、目の前の現実を、新鮮な目で見直すことがなかなかできないからなのだと思います。
だから、遠い異国の地で多くの人が味わうような、心が揺さぶられるような感動を、すでに見慣れたはずの、身近な風景や物事の中にさえ見出すことができるようになれば、それは、究極の旅をマスターした、ということになるのかもしれません。
そして、そういう旅ができる人は、この2021年の世界のように、長距離の移動がはばかられ、これまでのような街歩きや娯楽でさえ自由に楽しめない状況でも、ごく身近なところでさまざまな喜びのタネを見つけ、自分自身や周囲の人々をもてなしつつ、日々をハッピーに過ごすことができるのだと思います。
JUGEMテーマ:旅行
]]>もう何年も前から、スーパーやドラッグストア、ホームセンターなど、日常的に買い物をするような店のほとんどで、ポイントカードが使われるようになっています。
店側としては、顧客の囲い込みとか、集めたデータの活用など、さまざまな目的があるのでしょうが、客側としても、日々の買い物で貯まっていくポイントはけっこうな額になるはずで、店側も客側も、それなりにおいしい仕組みだからこそ、カードがここまで普及したのでしょう。
個人的には、ポイントカードというものがどうも好きになれず、これまでは、どうしても必要な場合を除いて、できるだけカードを持たないようにしてきたのですが、最近、ようやくその考えを改めて、カードを使うようになりました。
以前は、会計の際に、店員さんからポイントカードについて聞かれるたびに、カードは持っていないし、作るつもりもないということを、できるだけ簡潔に、でも、キツい言い方にならないように気をつけながら、伝えるようにしていました。
しかし、ほんの一瞬とはいえ、そのやりとりを毎回繰り返すのが、微妙なストレスになっていました。
目の前の店員さんに対して、カードは持ってい「ない」し、作るつもりも「ない」という、否定ばかりの返事を返さなければならないわけで、自分としては全く悪意はないつもりでも、やはり否定的な言葉を重ねるのは、気持ちのいいものではありません。
しかも、ポイントカードを使わない旨を伝えると、店によっては、なぜか店員さんが、「申し訳ございません」と謝ってくることがあります。それは、店のマニュアルでそう答えるように決まっているだけなのかもしれませんが、何の落ち度もない、自分には関係のないことのために、いちいち謝罪させられる店員さんもストレスだろうな、などと考えて、何か、こちらまで申し訳ない気分になります。
そして、こちらがカードを作らない限り、そうした不毛なやり取りが、レジの前に立つたびに、この先もずっと繰り返されることになるのです。
しかし、先日、ある店で、家族から借りたポイントカードを使ったのですが、その時に、何もかもがスムーズに進んでいくことに、とても驚きました。
こちらは、会計のさいにカードを差し出すだけで、それ以上余計なことを言う必要はなく、店員さんも、他の大勢の客に対するのと同じように、慣れた手つきで、いつも通りの作業をするだけです。
周囲の空気を気にする日本人の私としては、その場に何の緊張感もなく、すべてが平穏に、流れるように進んでいくことそのものに、心からホッとしました。
考えてみれば、私がポイントカードに抵抗があったのは、ポイントの損得計算が気になるあまり、自分の意思や行動が、どんどんねじ曲げられていくのではないかと恐れていたからでした。
いったんカードを持てば、ポイントの残高や有効期限が気になり始めるのは確実だし、そうなれば、ポイントが失効しないように、そして新たなポイントを効率よく貯めようとして、その店で定期的に買い物をせざるを得なくなるだけでなく、セール情報とか、ボーナスポイントがつく商品のことを、絶えずチェックするようになるでしょう。やがて、たかが数ポイントの損得のために、あっちの店であれを買い、こっちの店でこれを買い、といった感じで、さまざまな店の思惑に、いちいち振り回されるようになってしまうかもしれません。
しかし、私は、そういうネガティブな側面ばかりを気にして、ポイントカードというものが、レジで一種の「通行手形」みたいな役目を果たしてくれることに、ぜんぜん気がついていなかったようです。
もしかすると、ポイントカードは、店や客にとって、いろいろな経済的メリットがあること以上に、客自身がその店の常連であることを示し、レジの前での店員とのやり取りをスムーズにする、一種のパスポートとして機能しているのではないでしょうか。
カードを使うのは、その店やチェーンの常連だけなので、店員は、カードを提示する客に対しては、ポイントの仕組みとか、会計時の手順みたいなことについて、いちいち説明をする必要はありません。客も店員も、ふだんどおりの「リラックスモード」で、お互いに最小限の作業をこなせばいいだけです。
一方、もしもカードを持っていない客が来たら、店員は、「一見さん対応モード」に切り替えて、マニュアルに従い、ポイントカードの勧誘やら説明やら、余計な手間をかけなければいけないし、客としても、カードを作る気がないなら、その勧誘やら説明やらを、一つ一つ丁寧に拒絶しなければならなくなります。
だとすれば、常連客としては、レジでの余計な手間をお互いに減らすためにも、とりあえずカードだけは作っておいて、会計のたびに、それを「常連の証」として提示する、というのが、レジの流れをスムーズにし、その場の空気を乱さない、ベストなやり方と言えるのかもしれません。
逆に、何度も店を利用していながら、カードを持たず、しかも毎回、カードの発行を渋り続ける私のような人間は、店員からすれば、「いろいろと面倒くさい客」だったのではないでしょうか。
私は、自分にとっての損得ばかり考えて、カードを持たない判断をしてきたのですが、それは、レジでの微妙な気まずさみたいなものを、この先もずっと繰り返してまで、優先しなければならないことなのでしょうか。
それに、考えてみれば、ポイントカードを作ったからといって、真面目にポイントを貯めなければならないわけではありません。
もらったポイントを利用しようが、失効させようが、カードを使う本人の自由なのだから、ポイントのことは完全に無視して、カードを、ただ、レジでのやりとりをスムーズにする「常連の証」としてだけ使う、ということでもいいのではないでしょうか。
つまり、その場の流れや空気を乱さないために、他の客と同じようにカードを提示するけれど、実際には、それは、ポイントを集めているふりをしているだけで、もらったポイントのことはいっさい考えないようにするのです。
そもそも、これまでも、ポイントカードを持たないことで、本来ならもらえたはずのポイントを、ずっと手に入れ損ねてきたし、それを別に何とも思っていなかったのだから、これから手にするポイントも、残高がいくらになろうが、そのまま失効しようが、そんなものは最初から存在しなかったのだと思えば、たいして気にはならないのでは……。
そんな風に考え、いくつかの店でカードを作ってみたのですが、やはり、というべきか、そういう理屈どおりにはいきませんでした。
もともと、私自身、元バックパッカーとして、金銭感覚が相当にしみったれているので、ポイントが実際に貯まり始めれば、その残高が気にならないわけがありません。ポイントカードを、あくまでもレジでの「通行手形」として使うつもりだったのに、結局、ちまちまとした損得の計算に、すっかり巻き込まれてしまっています。
しかも、めったに行かない店とか、初めて行くような店では、いちいちポイントカードを作るわけにもいかないので、カードは持ってないし、作るつもりもないという問答を、これまでと同じように繰り返さなければなりません。
それに、ようやく今ごろになって作ったポイントカードですが、もしかすると、あと数年もしないうちに、ほとんど使われなくなってしまう可能性もあります。
最近では、多くの店が、スマホ用のポイントアプリを導入して、さまざまな特典をつけて登録を促しているし、いずれ、ほとんどの人がスマホを持ち歩くようになれば、ポイントカードの機能は、どんどんアプリに移行していくのでしょう。
そして、そうしたアプリだって、この先、何年使われ続けるのかは、誰にも分かりません。
私たちが、損得勘定から、あるいは、長いものに巻かれてポイントカードを使い始めたように、次の時代に現れる新しいモノや仕組みが何であれ、私たちは、多少不本意ではあっても、周囲の空気を読みながら、それらを身につけ、新しい仕組みに少しずつ適応していくのでしょう。
というか、それ以外に、私たちの選択肢はありません……。
JUGEMテーマ:日記・一般
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◆ ネット上に潜む「不幸の種」
ふだんの生活に、とりたてて大きな問題や不満はないものの、心の中に、漠然とした不安とかモヤモヤを抱えていたり、どうも何かが足りない、どこか虚しい、という思いが消えないとき、多くの人は、そういう微妙なストレスを発散しようとして、景気よくパーッとカネを使ってみたり、みんなでどこかに出かけ、ワイワイ騒いだりします。
かりに、派手に使えるほどのカネがなかったり、一緒に騒いでくれそうな人が身近にいなかったりしても、ネットの世界なら、憂さを晴らすための、いろいろな方法を見つけることができるでしょう。しかも、ほとんど無料で。
その代償として求められるのは、ちょっとした手間と空き時間くらいではないでしょうか。その恐るべきコスパの高さと気軽さこそが、私たちを、ますますネットの世界にのめり込ませるのかもしれません。
ただ、ネット世界は、リアルな世界と同様に、まったくの無害ではないし、ネットのあちこちには「不幸の種」が転がっていて、不用意な人間を待ち構えています。
彼らは、ほんの気晴らしや暇つぶしのつもりで、ふだんなら目を留めないような、ちょっと怪しげな記事に目を通してしまったり、単なる野次馬として、ネット上のいろいろな騒ぎに首を突っ込んでいるうちに、そういう不幸の種の一つを、つい拾い上げ、好奇心や興味を注ぎ込んで芽を出させ、いつの間にか、心の中に、しっかりと根を張られてしまうのです。
そうした不幸の種には、さまざまな種類があります。
それは、今の自分の心身の不調が、何かとんでもない病気のせいだったり、まだ知られていない化学物質によるものだという、「科学的な」説明だったり、これまでのパッとしない人生や、この世界の大きな問題の原因が、特定の組織や個人による陰謀なのだという「世界の真実」だったり、神秘的なパワーを持つ特定の人物やモノにすがりさえすれば、すべての苦しみから解放されるという「秘密の教え」だったりします。
◆ 「閉じた世界」にハマる
もっとも、私たちは、こういう不幸の種を、毎日のように、どこかで目にしているのではないでしょうか。
それが私たちにとって、大きな問題にならずに済んでいるのは、私たちにはそういうものに対する「免疫」があって、ほとんどの場合、それらを軽くスルーできるからです。
それには、難しく考えることも、高度な知識も必要ありません。瞬間的に、何か「ヤバそう」だと感じるものがあったら、余計なことは考えず、ただ、そこに近づかないようにするだけです。そうした、得体の知れないものから距離を置こうとする感覚は、子供のころから親や周囲の大人たちからいろいろと教えられたり、自分なりに人生経験を積む中で、知らない間に身についたものです。
ただ、そのやり方が、どんなときでも成功するとは限りません。不幸の種には限りないバリエーションがあるので、「免疫」がうまく働かず、今まで見たことのないネタに、つい興味を持ってしまったり、話が本当かもしれないと、うっかり信じてしまうこともあるでしょう。
そして、そうした不幸の種は、その後に続く一連の不幸の、あくまでも入り口というか、最初のきっかけに過ぎません。それらは、単なる情報というよりも、悪質なプログラムというべき存在で、いったん心に根を張ると、被害者の好奇心や不安や怒りをどんどん掻き立て、次の情報、さらに次の情報と、似たようなネタを際限なく求めるように仕向けるのです。
やがて、被害者の身のまわりが、偏った情報ばかりで埋め尽くされた「閉じた世界」へと変わってしまうと、彼らはこれまでの日常生活や人間関係から切り離され、出口を見失って、そこから抜け出せなくなってしまいます。
◆ 不幸のネットショッピング
そのプロセスは、他人からは、ただ、不幸に落ち込んでいくだけのようにしか見えないでしょう。
しかし、被害者の目には、物事はそのようには見えていないかもしれません。
むしろ本人は、これまで心に抱いていた、漠然とした不安や欠乏感が解消されたとか、心のモヤモヤを、うまく言葉にしてくれるものに出合えた、と感じているかもしれません。最終的にどうなるかは別にして、少なくとも最初のうちは、自分はついに特別な何かに出合えた、この世界の真実を垣間見ることができた、という高揚感を覚えることすらあるのではないでしょうか。
そしてそれは、ネットショッピングのプロセスに、とてもよく似ています。
革新的なテクノロジーと、企業のたゆまぬ努力によって、私たちそれぞれの多種多様な欲求にぴったり沿うような商品が、世界のどこかからうまく捜し出されてくるように、私たちそれぞれの心のスキマに入り込み、本人が、それを運命的な出合いとさえ思い込んでしまうほどの、あまりに魅力的でパワフルな不幸の種が、被害者の前に、次から次へと現れてくるのです。
しかも、それらのほとんどは、少なくとも最初の段階では無料だから、多くの人は、いったん好奇心にかられて手を出したが最後、どこまでも情報を追いかけてしまい、気がついたときには、アリジゴクにはまり込んだように、もはや引き返せなくなっています。
もちろん、それは、検索エンジンなどを運営する大手IT企業による、悪意や陰謀によるものではありません。私たちを、価値ある情報と結びつけるために生み出されてきた、便利で素晴らしい仕組みが、まさにその同じ仕組みを通じて、私たちを、自動的に不幸と結びつけてしまう場合もあるのです。
さらに付け加えると、それは、個人的な不幸をもたらすだけではなく、同じパターンで「量産」された、膨大な数の被害者たちが、政治的・経済的な目的を持つ誰かによって、便利な集団として利用されてしまうことさえあります。皮肉なことに、これは根拠のない陰謀論ではなく、そうやって人々をコントロールすることで利益を上げている人々が、実際に存在しているようです。
◆ 昔と今の違い
昔なら、そういう不幸の種をばらまく人は、ほとんど身近にはいなかったでしょう。時々、世間の感覚とはかなりズレた人が、たまたま変なことを思いつき、そのアイデアに取り憑かれてしまうようなことはあったと思いますが、そんな人物が、偶然にも自分の身近にいて、しかも、ふだんから親しく付き合ってでもいない限り、そういうネタを頭に植え付けられてしまう恐れはありませんでした。
それに、表現のプロでもない一般人が、ちょっと変なことを思いついたくらいでは、ネタとしてあまり魅力的なものにはならないだろうし、それを聞かされた人の心のスキマにうまく入り込めるほど、その人にピッタリの内容である可能性も非常に低いでしょう。
そして、その程度の不幸の種なら、みんな、ちょっとした常識を働かせるくらいで対処できます。
昔の社会は、いろいろと窮屈なことも多かったでしょうが、逆に、そうした窮屈さや、おせっかいな常識人の年長者たちが、不幸の種と出合う危険から、人々をしっかり守ってくれていたのかもしれません。
しかし、今は、世界のどこかで絶えず生み出される、ありとあらゆる不幸の種が、IT企業が整備したネット上のインフラを経由して、世界中の人々の元へと運ばれていきます。しかも、その過程で、悪意ある人々の手によって、さまざまなアイデアが加えられ、どんどん「変異」を重ねて感染力を増し、放っておけば、あっという間に人の心に食い込むほどの悪質さをまとうようになっています。
しかも、多くの場合、私たちは、それらが不幸の種だと気づいてさえいません。
私たちは、検索エンジンを使ったりして、自分からわざわざそれらを探し出し、有益な情報だと信じて、誰に頼まれたわけでもないのに、自らそのネタにのめり込んでいってしまうのです。それに、そうした作業のほとんどは、一人でパソコンやスマホと向き合う中で行われるので、被害者が変な方向に進んでいても、それを止めたり、冷静なツッコミを入れたりしてくれる人もいません。
◆ どうして不幸を手放さないのか
不思議なのは、それがネットショッピングと似たプロセスなら、どうして、わざわざ不幸をもたらす情報にしがみついてしまうのか、ということです。
自分を不幸にするモノや情報に出合ってしまうのは、買い物に失敗するようなものなのだから、それに気づいた時点で、それらをさっさと手放し、もっとハッピーにしてくれるものを選び直せばいいはずなのに、なかなかそうはなりません。
それはきっと、私たちが一度何かを手に入れ、心から熱中してしまうと、どんなものであれ、それを手放すのに大変な心の葛藤を必要とするからなのでしょう。
それは、物理的な形をもたない情報でも同じで、心の中で増殖するネガティブな情報のせいで、自分の生活がどんどんおかしくなっているのは明らかでも、それを心から一掃しようとすると、なぜか抵抗を感じてしまうのです。むしろそれらは、いつの間にか自分のアイデンティティの一部にさえなっていて、それを否定したり、手放したりしようとすれば、まるで自分自身を否定したり、自分を見失ってしまうような恐怖すら覚えてしまうのではないでしょうか。
それにそもそも、そうした不幸の種を、自分の意思で受け入れたという自覚すらない人も多いのではないかという気がします。
最初のきっかけは、本当にささやかなものにすぎず、ネット上でたまたまそれを見かけ、好奇心から手を出して、やがて情報が芋づる式につながっていき、気がついたら狭い世界に閉じ込められていた、というパターンは、けっこう多いはずで、本人としては、自分がどこかで重大な決断を下したというよりも、ただ、すべてが自然な成り行きで、自分の意思で何かを選んだことなど一度もなかった、と感じているのかもしれません。
当然、本人の中では、自分がどこかで判断を誤ったという自覚もないので、周囲があれこれ心配してアドバイスをしたり、ツッコミを入れたりしてみても、本人の耳には全く入らない、ということにもなるのではないでしょうか。
◆ 自由と安心・安全のバランス
いずれにしても、多くの人が、ネット上の情報をきっかけに不幸に陥ってしまうことについては、インターネットの世界が、まだ生まれて間もない、完成とは程遠い状態だというのが大きいのでしょう。
そして、私たち利用者の側でも、ネットをどう賢く利用すればいいのか、経験に裏付けられた分かりやすい行動マニュアルのようなものが、一般常識として、まだ十分に確立されていないのだと思います。
しかし、別の見方をすれば、息苦しいがそれなりに安全だった昔の狭い社会に代わって、私たちは今、ネット上で、世界の彼方とダイレクトにつながっていて、人々は、とんでもない不幸に陥るリスクと引き換えに、さまざまな探求を自由にできるようになった、とも言えます。
だとしたら、いずれ、私たちの求める最低限の安心・安全と、ネットがもたらす大きな自由とを、ちょうどいい感じでバランスさせてくれるような仕組み、つまり、ネット世界を賢く渡り歩いていくための、信頼できるガイドのような存在とか、何も考えなくても、ただ「接種」しておくだけで自分の身を守ってくれる、強力なワクチンのような存在が、これからどんどん生み出されていくことになるのかもしれません。
数十年前の冷戦時代、ほとんど何の情報もない中で、わずかなカネだけを持って世界に飛び出し、試行錯誤しながら自由旅行の楽しみ方を開拓していった旅人たちの前に、やがて、便利なガイドブックや格安チケット販売店やゲストハウスが登場し、感染症の広がる地域を旅する人々のために適切な予防接種の仕組みが整えられ、さらに、ネットの普及とともに、もっと便利なクチコミ情報サイトなどの旅行インフラが現れたように。
逆に、そうした、信頼できる仕組みがネット上でも確立されるまでは、自由だけれど、それなりに危険な世界が、今後もしばらくは放置されるのでしょう。
でも、考えてみると、現実の世界では、バックパッカーがスマホをフル活用し、安全・安心・快適で自由な旅を、簡単に楽しめるようになった今でもなお、まるで危険に吸い寄せられるようにして、自ら破滅していく旅行者が、まったくいなくなったわけではありません。
今後、ネット世界では、善意の人々や使命感をもった組織が、安全・安心・快適なネット環境を促進するためのさまざまなインフラを用意したり、不幸の種を根絶する試みを続けていくでしょうが、それがどれだけ効果的なものになるとしても、やはり、自ら不幸に飛び込んでいく人は、決してゼロにはならないのかもしれません……。
JUGEMテーマ:インターネット
]]>このネットの世界を、毎日さまよいながら感じるのは、ここは良くも悪くも、私たち人間が、何かを記録したり、表現したり、そうした成果を比べて、お互いの違いを際立たせたりすることによって、新奇さや非日常性みたいなものを極めていくところなのだ、ということです。
もちろん、それがインターネットのすべて、というわけではありませんが、少なくとも、そうした側面は非常に大きいのではないでしょうか。
これは、ネットで情報を発信する人々が、そうしたいと望んできたというより、ネットの世界で埋没することなく、多くの人の注目を集めようとするなら、そういう方向に行かざるを得ない、ということなのだと思います。
多くの表現者が、人の注意を引きつけ、驚かせたり夢中にさせたりするために、表現をエスカレートさせてきたし、それらを消費する私たちの側にしても、さらに新奇で刺激的なものを求めて、要求水準をつり上げてきました。
考えてみれば、ネット上のコンテンツの大部分が、今でもなお、常識的で穏当な内容のものだというのは、ある意味、奇跡的なことなのかもしれません。もっとも、そうした穏当なコンテンツが、他の似たような大量の情報と見分けがつかなくなって、あっという間に忘れ去られていくのも確かですが……。
一方、リアルな世界の日常生活には、そうしたネット世界の、終わりなき「祭り」の非日常がもたらす過度な興奮を鎮めて、心身を落ち着かせてくれるところがあります。
日々の仕事や勉強にしても、買い物や料理や掃除などの家事にしても、すっかり手慣れた単調な作業の繰り返しが多く、それは、人によっては、憎むべき退屈さそのものかもしれませんが、24時間興奮しっぱなしで生きていくことのできない私たちにとっては、むしろ、その退屈さこそが救いになっている面もあるのではないでしょうか。
ほどほどに単調な作業は、心身に、平静さや一定のリズムを与えてくれます。逆に、そうしたリアル世界の単調さがなければ、ネット世界の非日常性にさらされているうちに、私たちの生活はどんどん偏っていき、どこかでバランスを失ってしまうかもしれません。
そして、リアル世界の散歩もまた、その退屈なほどのシンプルさを通じて、私たちの生活を、まっとうな状態に引き留めてくれる行為の一つなのだと思います。
正直な話、自分の家の近所を散歩しても、新たな発見があることはまずないでしょう。人通りの激しい繁華街に暮らしているなら別でしょうが、ふつう、自宅から半径数百メートルくらいの、ごくごく身近でリアルな世界では、どれだけウロウロしてみても、事件らしい事件などまず起きないし、日々の変化は非常にスローで、刺激も少ないはずです。
しかし、現代のような情報過多の時代に生きている私たちにとっては、むしろそこに意味があるのであって、散歩を通じて、日常の平凡さや単調さがもたらしてくれるものこそを、じっくりと味わう必要があるのでしょう。
近所の何でもない風景をぼんやりと眺めつつ、頭に浮かんでは消えていく、とりとめのない思考の数々を言葉で表現すれば、本当にどうでもいいことばかりです。
そういえば、あの店は何年か前に開店して、特に興味もないから、一度も足が向かなかったけれど、結局、いつの間にか閉店していたんだな……とか、空き地に生える雑草って、放っておくとひと月でこんなに伸びるんだな……とか。
たぶん、こんなことは、日記やメモにわざわざ書きとめるまでもないだろうし、ネット上なら、Twitter ですらつぶやかれないか、誰かがつぶやいても、ほとんど反応もなくスルーされてしまうでしょう。
しかし、そういう、あまりにありふれていて、誰も価値を見出せないようなこととか、頭に浮かんでは、その瞬間にどんどん消えていく脈絡のない思考の数々こそ、実は、私たちの生活の大部分を占めている、現実の姿そのものなのではないでしょうか。
そして、散歩の道すがら、そういう現実そのものに、ゆるやかに注意を向け、自分と身のまわりの世界のありのままの姿を静かに見つめることこそ、今の私たちが、日常と非日常との健康なバランスを維持するために、切実に必要としていることなのではないかと思います。
ネット上をあてもなくさまよい、常に強烈な刺激にさらされることが、「非日常性を求める散歩」だとするなら、リアル世界の近所をぶらぶらと歩き、何も起こらない平凡な現実を再確認するのは、「日常性を求める散歩」といえるのかもしれません。
日常性を求める散歩は、たしかに退屈かもしれませんが、私たちは、そうした行為にゆっくりと時間をかけることによって、ネット世界のもたらす圧倒的な刺激の影響を中和して、心の落ち着きとか、ある程度の余裕を取り戻すことができるのではないかという気がします。
ただし、近所の散歩というものが、いつも必ず、退屈な日常の確認だけで終わる、とはかぎりません。
いつもと同じ、平凡な毎日の繰り返しだったはずが、思わぬハプニングが起きて、そこからいきなり非日常的な展開に突入する可能性はゼロではありません。
また、散歩の途中で突然すごいことを思いついたり、何かに気づいて目からウロコが落ちたりすれば、これまでとはまったく違う視点や価値観で現実を見られるようになり、身近な世界の見え方がガラリと変わるはずです。
さらに、いつもは行かないような店にあえて入ってみるとか、いつもは通らないルートを選んでみるなど、ふだんとは違う行動をしてみることで、自ら刺激をもたらすという手もあるでしょう。
そうやって、日常が非日常に変わる瞬間、私たちはそこに「旅」を感じることができるし、もしも、そういう状態を起こすコツみたいなものを身につけることができれば、ふだんの生活がそのまま旅になり、退屈なはずの日常が、刺激的な冒険の連続になることも、あり得ない話ではありません。
ただ、そのためには、まずは近所に散歩に出かける必要があります。
実際には、私たちの好奇心は、それよりもはるかに刺激の多い、ネット世界の非日常性の方にどうしても惹かれがちだし、ネット上では、あれも見たい、これも知りたいといった「やりたいことリスト」が、未消化のまま、山のように積みあがっていく一方だ、という人も多いでしょう。
そして、そんな状況では、リストの消化をあえて先延ばしにしてまで、時間をかけて、自宅の周辺をのんびり歩くような行為が、ものすごく贅沢な時間の使い方になってしまうのも確かです。
長い目で見て冷静に考えるなら、リアル世界の散歩は、自分の心身や生活にバランスをもたらしてくれる、意味のある行動なのかもしれません。
しかし、すでにネット世界で、非日常の強烈な刺激に慣れ切っている感覚からすれば、それは、費やす時間や手間に見合うだけの刺激も満足感も期待できない、一部のマニア向けの地味な遊びにしか見えないのかもしれないし、残念ながら、そうした感覚は、ネット世界の存在感が私たちの中で大きくなるにつれて、ますます強まっているのかもしれません……。
記事 地味な小旅行の楽しみ
記事 「何もしない」という非日常
JUGEMテーマ:旅行
]]>今の日本では、というより、地球上のどこにいても、インターネットにさえ接続できれば、情報の欠乏を感じることはなくなりました。
ニュースやSNS、動画や映画、音楽や本など、読みたいものや、観たり聴いたりしたいものの大部分が、無料か、とても安い費用で、いくらでも手に入ります。
ほんの20年くらい前までは、日本で暮らしていても、いろいろなことを知らなかったり、知りたくても調べる方法がなかったりして、数多くの不便や損をガマンするのが当たり前だったし、退屈な時間をどうやってつぶすか、途方に暮れることもしばしばでした。
それを思えば、現在のように、ありあまる情報に囲まれて生活できるのは、すばらしいことなのだと思います。
ただ、過剰ともいえる情報に満ちた日常生活に、まったくデメリットがないわけではありません。
まず、私たちが日々「摂取」している大量の情報は、クオリティの面で信頼に値するのだろうか、そして、それらの情報を、私たちは本当に必要としているのだろうか、という問題があります。
目の前にあるのは、実際には、見かけ倒しの「ジャンクフード」ばかりで、私たちは、ただそれが手の届くところにあるから、というだけの理由で手を出しているのかもしれません。
ジャンクフードでも、腹に詰め込めば、とりあえず食欲は満たされ、しばらくの間、空腹という不快感を忘れることができますが、それで何となく満足しているかぎり、自分が本当は何を食べたかったのか、きちんと考え直してみよう、などとは思わないでしょう。そして、そういうことが毎日のように繰り返され、いつも腹が満たされた状態が続けば、私たちはそのうちに、自分に食欲というものがあることさえ、だんだん意識できなくなっていくのではないでしょうか。
そしてそれは、ネット上のコンテンツについても同じだと思います。
常に、ほどほどに好奇心が満たされ、情報への飢えを感じなくて済む、という状況は、それなりに幸せなことなのだろうし、情報がまったく手に入らないよりも、はるかにマシではありますが、一方で、欲求が中途半端に充足されることで、自分の欲求そのものについて、きちんと掘り下げて考えてみる機会が失われ、やがて、自分がいったい何を求めているのか、よく分からなくなってしまうかもしれません。
何を求めているか分からなければ、自分の中に、情報を選ぶためのはっきりした基準も確立できないので、せっかく身のまわりに大量の情報があっても、そのどれを選んだらいいか、うまく決めることができないでしょう。下手をすると、日々の暮らしの中で、自分が目指すべき方向を見失い、目の前にあるものを、ただ何となく取り込むだけになってしまうのではないでしょうか。
しかし、そういう状態では、心からの満足が得られるものには、いつまでたっても巡り合えないし、だからこそ、万人向けの、当たり障りのないコンテンツでお茶を濁す、という悪循環から抜けられなくなります。
それに、どんな情報であれ、自分の心身に取り込むためには、それなりの時間や手間やエネルギーが必要になります。
はっきりとした自覚がないままで、常に膨大な情報に接していると、ついあれこれとつまみ食いをして、「食べすぎ」の状態になりがちですが、そうなると、それらを「咀嚼」したり、「消化」したりするだけで、日々大量のエネルギーを使い果たすようになり、自分にとって、もっと大事なことにエネルギーを向ける余裕がなくなってしまいます。
もちろん、いろいろなコンテンツを摂取しているので、それなりの満足感は味わえるはずですが、それらが、手っ取り早く心を満たしてくれる、ファストフード的なものばかりであれば、情報に対してどんどん受け身になり、もっと「歯ごたえ」のあるものに、あえて挑戦しようという気力もなくなっていくのではないでしょうか。いつもとは違うジャンルのものを試してみるとか、あるいは、何か自分にとって本当に新しいものを求めて、あてのない探求を始めるようなことには、不安を感じたり、面倒に思えてしまって、そういうことのために、あえて時間やエネルギーを費やそうなどとは考えなくなってしまうかもしれません。
むしろ、常に情報が不足し、好奇心がなかなか満たされないような環境にいる方が、飢餓感の中で、自分は何を求めているのか、自分の本心や向かうべき方向について、ハッキリと自覚する機会が多くなるような気がします。そして、その結果として、かなり明確な方向性をもってアンテナを張りめぐらすようになるので、たとえ情報が少なくても、必要な情報との出合いのチャンスをうまく生かすことができるかもしれません。
……という感じで、過剰ともいえる情報に、受け身で接することのデメリットをいろいろと書いてみましたが、さらに付け加えれば、食べ物にせよ、情報にせよ、それらがいくらでも手に入るような状況には、逆に、私たちがこの世界に生きているかぎり、どれだけ求めても充分には得られないものを、かえって浮き彫りにしてしまう、という面もあります。
知りたいこと、楽しみたいことがどんなにたくさんあって、それを満たしてくれそうなコンテンツがどんなに簡単に手に入るとしても、残念ながら、私たちに与えられた人生の時間そのものは非常に限られているし、自分がいつ死ぬことになるのかは、誰にも分かりません。
それは、私たちがふだんからずっと目を背け続けている「不都合な真実」なのですが、ただ、自分の人生の持ち時間は決定的に不足している、というこの事実をしっかり認めれば、そこで初めて、心の底から危機感を感じ、その貴重な時間を、自分にとって本当に必要なことのために使おう、という強い決意ができるのも確かです。
分かりやすい例として、「今日が人生の最後の一日だとしたら、あなたはそれを本当にやりたいと思うか?」という、とても有名な問いがあります。
さすがに、今日が人生最後の日、という想定には現実味がないので、ほとんどの人は、それを本気で想像する気にはなれないでしょうが、今は、世界中で新しい感染症が広がっている最中なので、あと数か月しか生きられないかもしれない、くらいの想定なら、けっこうリアリティがあるかもしれません。
もしも、自分の余命があと数か月だとしたら、私は、その大切な時間を、その辺に転がっている、万人向けの気楽なコンテンツでつぶすだけで満足していられるでしょうか? この問いに真剣に向き合うなら、身のまわりにあふれているほとんどすべてのモノや情報が、一気に色あせて、魅力を失っていくのではないでしょうか。
自分のまわりにどれだけ情報があふれていても、結局、自分にとって本当に必要なものは、その中のごくわずかに過ぎないし、実際、私たちそれぞれは、そのごくわずかな情報を消化するくらいの時間しか持ち合わせていない、ということを自覚せざるを得ないと思います。
そして、そのことを痛切に感じたとき、厳しい現実に目が覚めて、自分が本当に求めるべきものを、もっと本気になって探そう、という気になるのではないでしょうか。
ただし、その時点で、何を探せばいいのか、すぐに具体的に見えてくる、という人はほとんどいないと思います。
自分にとって、本当に必要なモノや、するべきコトを見極めるためには、それなりの試行錯誤や、そのための多大な時間が必要だし、もちろん、そういう見極めに至るまでの膨大で面倒な作業を、他人が代わりにやってくれるわけではありません。
それぞれの人生の持ち時間は少ないのに、その少ない時間をムダ使いせず、本当に大切なことだけに使えるようになるためには、ムダとしか思えないような多くの時間を費やしたり、回り道をしたりしながら、少しずつ経験を積み重ねていくことが必要、というのは、何ともいえないジレンマではあります。
それに、そうした探求を、どこまで深く、真剣にできるのかは、きっと、人それぞれなのだろうし、たぶん、誰にでも分かるような、はっきりとしたゴールみたいなものもないのでしょう。
だとすれば、自分にとっての究極の「何か」を見つけたり、どこかにたどりついたりすることを必死で目指すよりも、むしろ、日々の小さな歩みそのものに、どれだけ充実感を感じられるかの方が、ずっと重要なのかもしれません。
そんなことを、時間をムダにしながら、とりとめもなく考えていると、日々膨張するネットの世界が、巨大な迷宮に見えてきます。
私たちの前に情報の海が広がっていくことは、一見すばらしいことのように見えて、実は、私たちの目をくらまし、針路を迷わせる障害物が増えていくという意味で、実にやっかいなことなのかもしれません。
JUGEMテーマ:インターネット
]]>
先日、ネット上で面白い記事を読みました。
旅ライターの岡田悠氏が、日常を「旅」に変える、いくつかの方法を教えてくれるという内容です。
70カ国以上訪れた男がコロナ下で続ける「日常が旅になる3つの習慣」 ダイヤモンド・オンライン
まあ、どれもがクスッと笑えるような、他愛のないアイデアなのですが、とはいえ、そのいずれにも、普通の人にはなかなか思いつけないようなユニークさを感じるし、実際にそれらを行動に移してみれば、ふだんの生活に、たしかに非日常や新しい視点をもたらしてくれるのではないでしょうか。
新型コロナウイルスの感染拡大で、これまでのような旅ができなくなってから、すでに1年が経ちましたが、それは旅行業界全体を非常事態に追いやっただけでなく、旅を生きがいとする大勢の人たちにとっても、相当なストレスになっているはずです。
中には、居ても立ってもいられなくなって、この状況下でもまだ停止されていない国際線のフライトを使い、リスクを重々承知の上で、旅行者を受け入れてくれる国へ出かけてしまったという人もいるだろうし、さすがにそこまではしないけれど、あまり目立ちすぎないように配慮しつつ、国内の旅をそれなりに楽しんでいる人もいるでしょう。
記事 地味な小旅行の楽しみ
その一方で、長距離の移動にはこだわらず、旅の本質について考えを突き詰め、旅に出るのと同等か、それ以上の心理的インパクトをもたらしてくれるような「何か」を探求していく、という方向性もあります。
これまでは、国内でも海外でも自由に旅ができたので、そんなことをわざわざ考える人などほとんどいなかったと思いますが、今は、好きなように移動ができる状況ではないし、いろいろなアイデアを検討する時間もたっぷりあります。
それに、バックパッカー的な旅を続けてきた人なら、旅の期間や予算やビザなど、いろいろな制約の中で、自分にとって、どれだけ有意義で面白い旅ができるかを、これまでずっと追求してきたはずで、そういう旅人にとっては、今回のコロナによる厳しい制約の中でも、日常生活の範囲内で、「旅」を感じるような特別な瞬間を見つけ出す、というのが、やりがいのある新たなチャレンジになるかもしれません。
というか、そうやって身のまわりを改めて探索したり、平凡な日常を別の視点から見直してみたりするプロセス自体も、むしろ、新しい「旅」の一つとして楽しめるのではないでしょうか。
岡田氏も、「日常の中に非日常を見出し、予定不調和を愛する心があれば、いつでも、どこでも、旅はできる」と言っています。
日常とか非日常とか、抽象的な言葉だと、何だか難しそうな感じがするかもしれませんが、決まりきった日常のパターンを崩す方法自体は、その気になればいくらでも見つかるだろうし、そのほとんどは、思いついたらその場で実行できるものです。
例えば、岡田氏は、冒頭に挙げた記事の中で、ラーメン屋でも定食屋でも、新しい店を見つけたら、同じ日の昼と夜の2回行ってみる、というアイデアを提案しています。
そうしたからといって、別に、誰に迷惑をかけるわけでもないし、やってみるのに特別な能力とか手間がいるわけでもありません。
ただ、そういうことをしようとはなかなか思いつかないものだし、思いついたとしても、恥ずかしかったり意味がないと思ってしまって、結局やらないままで終わってしまうことの方が多いのではないでしょうか。
でも、まるで小学生が学校帰りに道草を楽しむみたいに、無意味で、時間のムダにしか見えないようなことを、あえてやってみることによって、いつもの退屈な日常生活に、ほんの小さな裂け目が生まれます。
もちろん、それで何か劇的な体験ができると思うのは、ちょっと期待しすぎだろうし、実際、何となく居心地の悪い思いをするだけで終わってしまうことの方が多いかもしれません。
しかし、非日常の瞬間に何が起きるかは、自分で思い通りに計画できるものではないし、そうやって思い通りにならないところこそが、旅らしくて面白い、ともいえます。
いずれにしても、ふだんならやらないようなことを、少しだけ勇気を出して実行してみれば、もしかすると、異国の旅先で味わったような、新鮮でワクワクする感じがよみがえってくるかもしれないし、日々の生活の中で、そんな試行錯誤を繰り返しているうちに、自分の見方や考え方次第で、いろいろなところに「旅」が見つかることを実感できるのではないかと思います。
そうなれば、やがて、移動の自由が制限されている状況でも、あるいは、政府の主導するキャンペーンにわざわざ乗っからなくても、いつでも、どこでも、自分らしい旅を楽しむことができるようになるかもしれません。
記事 日常が旅に変わるとき
記事 地図アプリと日常のささやかな冒険
JUGEMテーマ:旅行
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以前に、このブログで、音楽ストリーミングサービスの Spotify を「懐メロ」プレイヤー代わりに使っている、みたいなことを書きましたが、昔よく聴いていたアーティストの曲をあれこれチェックしていると、そうした利用データに基づいて、Spotify の方から、そのアーティストの最新作などを「オススメ」してくるようになります。
記事 Spotifyと「懐メロ」
せっかくのオススメだし、無料だし、多少の好奇心もあって、とりあえず冒頭だけでも聴いてみたりするのですが、やはり、これまでずっと遠ざかっていたのには、それなりの理由があるわけで、久しぶりに新曲を聴いてみても、ほとんどの場合、心は動かず、最後まで聴き終わらないうちに、別の曲にスキップしてしまうことになります。
そして、かつてのファンの多くが、きっと、同じような経験をしているのでしょう。
しかし、この世界は、私のような、移り気で薄情な人間ばかりではありません。昔も今も、同じアーティストの熱狂的なファンであり続けている、という人も、けっこういるのではないでしょうか。
音楽にかなり疎い、私みたいな人間でさえファンになったくらいだから、当時、それらのアーティストはとてもメジャーな存在でした。だからこそ、亡くなったり引退したりしていなければ、全盛期をはるかに過ぎた今でも、新曲を出し、息長く音楽活動を続けているケースが多いのですが、それは、日々新たなファンを獲得しているから、というよりも、たぶん、昔からの忠実なファンが、今でもそのアーティストをしっかりと支えている、ということなのだと思います。
もしも自分が、そのアーティストのファンをずっと続けていたら、今、Spotify で試聴している最新のアルバムも、きっと、発売と同時に購入していたことでしょう。そして、その別の人生では、自分は、そのアーティストの曲をいつも聴きながら、いい感じの毎日を送っていたのかもしれません。それとも逆に、何かボタンをかけ違えたような、こうじゃない、という違和感を抱えながら、モヤモヤとした日々を送っていたのでしょうか……。
そんなことを、ついぼんやりと考えていると、自分がたどっていたかもしれない別の人生の選択肢を、今、Spotify を通じて垣間見ているような、ちょっと不思議な感じがします。
まあ、それはともかく、かつてのメジャーなアーティストをサポートしている忠実な人たちは、どんな気持ちで、ファンを続けているのでしょうか。
彼らは、一時的な人気の波が引き、大勢の「にわかファン」たちがどこかへ消えてしまったあとも、変わることなくアーティストの作品を購入し続け、ライブに足を運び、さまざまな媒体を通じて、本人に励ましのメッセージを送り続けています。
たぶん、彼らだって、アーティストのセンスが、すでに時代からズレてしまったり、年齢とともに、いろいろな衰えが出てきていることには気づいているでしょう。
でも、忠実なファンたちは、そういうこともすべて分かった上で、最後までアーティストについていこうとしているのではないか、という気がします。
彼らは、若いころに、そのアーティストにあまりにも深く入れ込んでいたために、青春時代という人生の輝かしい一時期と、そのアーティストの存在とが分かちがたく結びついてしまい、自分の心の中で今なお燃え続ける青春の炎を消さないためには、そのアーティストと関わり続けるしかない、と信じているのかもしれません。
また、彼らにとって、そのアーティストは、もはや単なる芸能人ではなく、自分の心の中の、何かとても大切なものの象徴と化していて、その大切なものを守るためにも、アーティストを支え続けなければならない、と感じている可能性もあるでしょう。
あるいは、自分にとっての意味とかメリットとか、そういうことはもはやどうでもよくて、ただひたすらに、そのアーティストを人間として愛してしまっているのかもしれません。まあ、そういう純粋なファンというのは、決して多くはないでしょうが……。
ほとんどの人は、あるアーティストが、ベストなパフォーマンスをしているときにだけ近づいてきて、そのいちばん美味しいところだけを味わい、旬が過ぎたと思ったら、私のように、ただ黙って立ち去っていくのです。
そして、そういう人間からすれば、忠実なファンたちは、ひたすら損な役回りをしているようにしか見えません。
しかし、熱心なファンたちは、ひとりのアーティストやひとつのグループを、長い時間にわたって追い続けることで、美味しいところをつまみ食いするだけの飽きっぽい人間には絶対に気がつくことのできない、この世界のもっと深くて微妙なものを、しっかりと味わっているのではないか、という気もします。
ただ、そういう微妙なものは、きっと、それを知らない人たちに、言葉で分かりやすく説明できるようなものではないのだろうし、かりに説明できたところで、誰もが味わえると約束されているわけでもないでしょう。
それに、外野の人間からすれば、そうした、ファンだけのディープな世界というか、秘密めいて分かりにくい感じがつきまとうところこそ、むしろ、そこに深入りしたくない、と思う原因になっているのかもしれません。
もっとも、そうした誤解は、音楽の世界にかぎった話ではないでしょう。実際には、どんな分野だろうと、熱烈なファンが長年入れ込んでいるのは、きっと、その対象に対する強烈な愛情からで、そこに秘密めいたものとか、怪しげなものなど、何もないのだろうと思います。
しかし、その情熱を理解できない部外者からすれば、まさにその熱中ぶりこそが、非常にマニアックで、業が深くて、どこか異常なものに見えてしまうのかもしれません……。
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