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「滞在3日以上」の法則
山の中の小さな町で一泊したのですが、夕食を終えるともう何もすることがありません。宿に戻り、ベッドに横になってボーッとしながら、今までの旅のことなどをとりとめもなく思い出していました。
色々な国で、色々な人に会いました。今までに通過してきた町の名前を思い出すと、それと同時にその町で会った人達の顔が浮かんできます。
しばし思い出にふけっているうちに、あることに気がつきました。自分が3泊以上した町には、今でも名前と顔を思い出せるような、けっこう親しくなった人が必ずいるのです。
それは現地に住む人であったり、日本人を含めた各国の旅行者だったりしました。出会ったきっかけは様々ですが、日本語や拙い英語やさらに拙い現地の言葉などを駆使(?)して色々なことを話したり、一緒にどこかへ出かけたりしました。
一方1泊か2泊の場合は、誰かと親しくなったこともあるし、そうでないこともあります。どうやら「3泊以上」というのが私にとっては重要なポイントのようです。
そこまで思いついたとき、何か神秘的な法則を発見したような気がして興奮してしまいました。もう一度自分の旅を最初の町からたどり直し、やっぱり「3泊以上の法則」が成り立つことを確認すると、何だかワクワクして、しばらく寝つけませんでした。
しかし、今になってよく考えてみると、事はそれほど神秘的でもないようです。
移動中心の旅を続けているとき、旅暮らしのパターンは一定になってきます。まず早朝に出発するバスに乗り、半日ないし丸一日の移動の後、新しい町に着いて宿を探します。だいたい午後おそくか夕方の到着になることが多いので、その日はいい宿といい食堂を見つけ、宿の近所をちょっと散歩する程度で終わりになります。
2日目は、そのまま移動して次の町に向かう場合もありますが、観光する価値のありそうなスポットがあれば、もう1泊することにし、とりあえずそこに行ってみます。田舎の町や村なら、そういう場所は半日もあればひととおり見て回ることができます。
それを終えると、とりあえずやるべきことは終わったというか、その町に対する「義理は果たした」という気分になります。観光地めぐりにほとんど興味を示さないバックパッカーも多いのですが、その頃の私は、せっかく時間もあるのだし、その町が自慢にしている「売りモノ」に対し敬意を表するという意味で、結構律儀に観光をしていたのでした。
それでもう充分という気になれば、3日目の朝に次の町に向かうのですが、その町の雰囲気が気に入ったり、もう少しゆっくりしたいと思った場合はもう1泊して、特に用事もなくのんびりと過ごします。これがそのまま繰り返されれば、4日目・5日目も同じようにぶらぶらと過ごし、それが一週間を超えると、いわゆる「沈没」に近づいていくことになるわけです。
つまり私の場合、2泊目と3泊目の違いは、「用事のない、フリーな一日」があるかないかの違いに等しい、ということになるわけです。「滞在3日以上」の法則が成り立つポイントは、どうやらそこにありそうです。
フリーな一日があるということは、予定を気にせず、好きなだけ誰かと話をしていてもいいし、現地の人々の多少強引な誘いに応じる心の余裕もあるということです。
1泊だけで次の町に向かうつもりの時は、心は「移動モード」のままで、その町で接触する人といえば、宿や食堂の人だけです。
2泊の場合は観光地に足を伸ばすので、多くの人と接触する機会がありますが、心は「公式日程の消化モード」なので、頭に描いたその日のプランから脱線する余裕はあまりありません。また観光地特有のスレた人達に対して身構えているので、声をかけてくる現地の人にホイホイとついて行くこともないでしょう。
しかし、3泊目となると、それなりにその町を気に入り、「宿題」も済ませた後なので、自由な発想でその日を過ごす心の余裕があるわけです。心は「フリーモード」なので、直感的に面白そうだと思ったことや、少々バカバカしいことにも時間を費やすことのできるような気分になっています。
こちらにある程度余裕があり、相手の都合にも多少は合わせることのできる心の状態だからこそ、互いに親しく話をすることができたのかもしれません。もちろん、これは後から分析して想像していることで、実際には全て無意識のうちに行なわれていたわけです。
ただしこの「法則」には例外があって、例えばバンコクのような大都会では、一週間滞在していても誰とも親しく会話を交わさないようなこともあります。それは人が多すぎて互いに知り合う機会がないためかもしれないし、私自身が「都会的孤独」を楽しみたいと思っているせいかもしれません。
田舎では、人と知り合いやすいというメリットがある反面、濃密な人間関係がうっとうしく感じられることもあります。アジアの田舎を旅していると、「滞在3日以上」の法則どおり、ちょっと長居すれば必ず誰かと知り合うようなことになりますが、それはそれで心の負担になる場合もあるのです。
あまり親しくなれば別れるのがつらくなるし、親しさを通り越して仲がこじれることがあるかもしれません。大都会でウロウロしていれば、そういう人間関係特有のしんどさから一時的に逃れることができるわけです。
以上、ちょっと理屈っぽく「滞在3日以上」の法則を分析してみましたが、法則といってもこれは私の場合にあてはまるというだけで、他の人にも通用するかどうかは分かりません。
例えば沢木耕太郎氏の『深夜特急』を読むと、氏はそういう法則とは関係なく、移動中からすでに「フリーモード」に入っているのがわかります。
彼はガイドブックなどの事前情報をもたない状態で町の中心部に到着すると、周辺を歩き回って雰囲気を確かめたり、人に尋ねたり、直感を働かせたりして宿を決め、その後もひたすら街歩きを繰り返すことで、少しずつ頭の中に町の地図を作っていくのです。
情報を持っていないため、見知らぬ町では会話をする相手すべてが情報源であり、彼らに導かれるまま、なりゆきまかせに事を運ぶこともしばしばです。もちろんその背後では、沢木氏の人生経験と直観力がフル稼働しているわけですが、そうだとしても、見知らぬ人間に対する信頼がある程度なければできないことでしょう。
沢木氏は、私のように「公式日程」や「表敬訪問」のようなものにこだわらず、アプローチしてくる人にはいつでも「フリーモード」で対応しているように見受けられます。これなら滞在する日数にかかわりなく、いつでもどこでも誰かと深く知り合う心の準備ができていることになります。
そういう「フリー」な人にとっては、1泊でも3泊でも同じことです。「滞在3日以上」の法則が成り立つということは、町を移動するたびに「フリーモード」に戻るまで3日を要するということにほかなりません。
そうなると私の場合は、神秘的法則というよりも、自由な旅ができてないことが証明されているみたいで、ちょっと恥ずかしくなってしまうのでした。
『深夜特急〈1〉香港・マカオ』
深夜特急〈1〉香港・マカオ
沢木 耕太郎
Kindle版はこちら
評価 ★★★★☆ 一度は読んでおきたい、素晴らしい本です
読む読まないは別にして、バックパッカーならたぶん知らぬ者はいない、超有名な『深夜特急』です。私も文庫版が出た1994年に読みました。『深夜特急』を読んだからというわけではありませんが、数年後に私も長い旅に出ました。
今になって、この本を読みつつ当時の自分の心境などを思うと、自分ではそのつもりはなくても実は結構大きく影響されていた、少なくとも旅立とうという気持ちを高めるための強力な一押しになっていたことは間違いないと思います。
『深夜特急1』は、旅立ちの瞬間から香港・マカオまでです。沢木氏が一応設定した旅のテーマは、乗り合いバスでデリーからロンドンまで行くことなので、香港の旅はいわば付録というか前座のようなものですが、「毎日が祭り」のような香港の放つ熱気や、マカオのカジノで「大小」というサイコロ博奕にハマっていくエピソードが生き生きと描かれていて、この一冊だけでも香港・マカオの旅行記として充分に楽しめます。
特に、マカオの章「賽の踊り」はすばらしいと思います。博奕について無関心なはずだった沢木氏が、まずは素人らしい単純な張り方で、次にはディーラーの狙いやゲームの本質を鋭く考察しつつロジカルな張り方で「大小」に挑むのですが、勝ったり負けたりを繰り返すうちに賭け金はどんどんつりあがり、ついには引き返せないところまで気持ちが深入りしていきます。その内面、外面のプロセスが的確かつ簡潔に描かれていて、非常にスリリングです。
最後にはちょっと神がかり的な状態にまでなるのですが、それらすべてのプロセスを二日だけのマカオ滞在で体験するというのは、ちょっと出来すぎのような気がしないでもありません。もっとも、私自身はそこまで博奕にのめり込んだことがないので、本当のところは経験してみないとわからないのかもしれません。
旅をしてかなり経ってから書かれたということもあるのか、沢木氏の文章は巧みでバランス感覚があり、若さを描いても傲慢にならず、アジアの影の部分を描いても下品にならず、鋭いコメントやユーモラスなエピソードも程よく埋め込んであって、旅行記や「青春モノ」としてはもちろん、エンターテインメントとしても楽しめるようになっています。
文庫の巻末に山口文憲氏との対談があって、沢木氏が『深夜特急』の旅をした1970年代半ばの時代背景や、沢木氏の旅のスタイルについて具体的に触れられていて、非常に興味深い内容です。
今でこそ、「ユーラシア横断」みたいな旅はそれほどめずらしくなくなりましたが、30年前はほとんど現地の情報もなく、欧米以外に対する日本国内での興味関心もほとんどないような状態だったわけです。そういう状況で旅立つということについては、現在以上の覚悟が必要だろうし、旅も困難なものだっただろうと考えられます。
また一方で、当時アジアといえば政治的、宗教的関心から注目される場合が多かったはずで、いわゆるヒッピーなど、旅もまたそれを反映したものが多かったのではないかと思いますが、『深夜特急』にはそういう色彩があまり感じられません。
これは沢木氏自身の関心がそういった方面に向かなかったのか、本が執筆・出版された時代の要請だったのかよく分かりませんが、いずれにしてもそのおかげでこの本は時代の色に染まることから逃れ、今の私たちが読んでも古さを感じさせないし、多くの人に受け入れられるであろう一種の普遍性を持っているように思います。
『深夜特急〈2〉マレー半島・シンガポール』の紹介記事
『深夜特急〈3〉インド・ネパール』の紹介記事
『深夜特急〈4〉シルクロード』の紹介記事
『深夜特急〈5〉トルコ・ギリシャ・地中海』の紹介記事
『深夜特急〈6〉南ヨーロッパ・ロンドン』の紹介記事
本の評価基準
以下の基準を目安に、私の主観で判断しています。
★★★★★ 座右の書として、何度も読み返したい本です
★★★★☆ 一度は読んでおきたい、素晴らしい本です
★★★☆☆ 読むだけの価値はあります
★★☆☆☆ よかったら暇な時に読んでみてください
★☆☆☆☆ 人によっては得るところがあるかも?
☆☆☆☆☆ ここでは紹介しないことにします
『もの知りバックパッカーになる事典』
もの知りバックパッカーになる事典
シミズ ヒロシ
評価 ★☆☆☆☆ 人によっては得るところがあるかも?
バックパッカーの事典ということで、旅先でのサバイバル術や旅のウラ事情なども含めたディープな内容を期待してしまったのですが、そういう本ではありませんでした。
旅行用語を中心に、著者のシミズ氏が簡単な解説とイラストを添えるという体裁ですが、対象読者はごく一般の人とバックパッカー初心者という感じで、長期の貧乏旅行をする人にとって参考になりそうなものはあまりありません。
また、本書中ほどにホテル紹介のコーナーがあって、妹尾河童氏の本でおなじみの「天井から覗いた」アングルのイラストで部屋が紹介されており、それなりに面白いのですが、ホテルの料金は数千円のものばかりです。
この本の元は「NHKラジオ英会話」テキストでの連載なので、異文化への期待を込めて日々英語の学習に打ち込んでおられる健全なリスナーの方々に悪い虫がついたりしないよう、編集部としては連載テーマの選択と内容に関して細心の注意を払ったはずです。その意味で、万人受けを目指してちょっと行儀が良すぎる感じになってしまっているのは止むを得ないのかもしれません。
本書の冒頭でシミズ氏が、最初はビアスの『悪魔の辞典』などをイメージしていたと書いているので、本当のところはもっとブラックで皮肉の効いたものを作りたかったのかもしれません。
しかし考えてみれば、むしろこういう本に違和感を感じている私のほうが「貧乏ズレ」しすぎているのかもしれません。世間ではバックパッカーというのは、団体ツアーではなく個人で自由に旅行する人、くらいに考えられているだろうし、それが必ずしも長期で貧乏である必然性はありません。バックパッカーはドロップ・アウト気味の貧乏人である、というのは私の側の勝手な思い込みなのです。
私もかつては一週間、二週間の「短期」の旅を楽しみ、一泊数千円の宿に泊まったこともありました。その頃の私ならこの本から得るものがあったかもしれません。バックパッカーとして少しスレてしまったという人には、蔵前仁一氏や前川健一氏の著作をお勧めします。
本の評価基準
以下の基準を目安に、私の主観で判断しています。
★★★★★ 座右の書として、何度も読み返したい本です
★★★★☆ 一度は読んでおきたい、素晴らしい本です
★★★☆☆ 読むだけの価値はあります
★★☆☆☆ よかったら暇な時に読んでみてください
★☆☆☆☆ 人によっては得るところがあるかも?
☆☆☆☆☆ ここでは紹介しないことにします
メコン河爆走
陸路交通網のあまり発達していないラオスでは、メコン河のほとりにあるルアンパバンからタイとの国境の町フェイサイまでは、メコン河を利用して船で行くのが便利です。普通はエンジンの馬力の弱いスローボートでのんびり旅するのですが、エンジンの具合や諸般の事情のために遅れることがしばしばで、いつ目的地に着くのか全く予定がたてられないというシロモノです。
すでにトランジットのビザが切れていたために出国を急いでいた私は、せっかちな旅行者のための「秘密兵器」を利用することにしました。ルアンパバンからフェイサイまでの区間にはスピードボートというものがあって、料金は非常に高いのですが、とにかく速くて確実で、全区間を一日で行くことも可能です。
ルアンパバン郊外のボート乗り場に行くと、ボートレースに使うような小さなモーターボートが泊まっていました。原色ギラギラに彩られたくさび形の船体はいかにも速そうで、後ろにはむきだしの自動車用エンジンからスクリューのついた長いシャフトが突き出ています。
その小さなボートの定員は8人で、全員がひざを抱えるいわゆる「体育座り」の体勢で、身動きもできない状態で数時間走り続けることになります。騒音が凄そうだったのでティッシュペーパーを耳栓がわりに耳に詰めてからヘルメットと救命胴衣を装着し、欧米人パッカーたちと一緒にボートに乗り込みました。
ぐらぐら揺れる不安定な船体に何とか全員が乗り込み、体育座りで配置につくと、「発進!」という感じでボートが加速し、水面の上をすべるように進んでいきます。平均時速はだいたい50キロ程度なのでしょうが、乗客の視点は水面すれすれなので、スリルというよりは恐怖感があって、体感スピードは100キロを超えている感じです。
以前に死亡事故もあったということですが、確かに万一流木などの漂流物に乗り上げてしまったら、乗客はとても無事ではすまないでしょう。何かの拍子に荷物が河に放り出されてしまった場合も、Uターンして戻ってくる前に沈んでしまって回収できそうにありません。いろいろと不安なことはあるのですが、ここは船頭(ドライバー?)にまかせるしかありませんでした。
ボートが走っている間は、むきだしのエンジンの爆音が止むことはありません。特に河の両岸が高い崖のようになっている場所では、谷全体が轟音に包まれます。私の場合は耳栓をしていたおかげでそれほどでもありませんでしたが、耳栓を忘れると大変なことになるでしょう。また、吹きさらしの状態で常に強風を受け続けるので、厚着をしておかないと凍えたりトイレを我慢する羽目になりそうです。当然雨に対しても無防備なので、雨季の移動だったらさらに大変だったと思います。
約3時間で中間地点のパクベンという村に到着しました。私はここで一泊していくことにしましたが、他の人たちはその日のうちにフェイサイまで向かったようです。ひざを抱えたままの状態でさらに3時間乗り続けるのはしんどいに違いありません。特に足の長い欧米人には苦痛なのではないでしょうか。
翌日、スローボートがあればそちらも試してみようと思っていたのですが、結局見つからず、再びスピードボートに乗ることになりました。約2時間半の爆走でフェイサイに到着し、イミグレーションでオーバーステイ分の罰金を払って、小さな「国際渡し舟」で川向こうのタイに出国しました。
考えてみれば、遅くて不確実で「まったり系」のスローボートか、速くて危険で疲れるスピードボートという両極端しか選択肢がないというのは、ある意味では「究極の選択」といえるでしょう。どうして普通の「ほどほどに速い船」という選択肢がないのか、全く謎としかいいようがないのですが、どちらの選択をしたとしても、普通の旅では味わえない貴重な体験ができるはずです。
『シンクロニシティ―「奇跡の偶然」による気づきと自己発見への旅』
シンクロニシティ―「奇跡の偶然」による気づきと自己発見への旅
フランク ジョセフ, Frank Joseph, 宇佐 和通
評価 ★★★☆☆ 読むだけの価値はあります
シンクロニシティは、「虫の知らせ」とか「信じられないような偶然」という言葉で古くから知られているもので、一般的には「意味のある偶然の一致」と定義されることが多いのですが、従来の科学の範疇では説明の困難な、不思議な現象です。
科学的な説明が難しいだけでなく、仮に身近に起こったとしてもその意味を測りかねるケースが多く、たいていの場合は、ちょっと不思議な面白い体験で終わってしまうのではないでしょうか。
ジョセフ氏のこの本は、氏が個人的に収集したシンクロニシティの事例をカテゴリー別に紹介し、後半ではシンクロニシティについて簡単な考察を加えると共に、読者が各自で探求を進めることができるよう、「シンクロニシティ日記」をつけることを勧め、そのポイントも解説しています。
この本は、シンクロニシティに今まであまり興味をもったことのないごく普通の人に向けて書かれており、理論的に考察するというよりは、まずは豊富な事例を通じてその現象の広がりと奥深さを明らかにしています。
その上でシンクロニシティを、神や自然が人間の無意識を通じてメッセージを伝えてくるものととらえ、それを各自の人生に生かす実践的な方法を解説しています。
ジョセフ氏が強調するように、シンクロニシティの意味を読み取るのは体験する本人であり、それを無視するか、意味のあるメッセージとして受けとるかは体験者次第です。また、体験者の感受性が低ければ、シンクロニシティが起こっているのに気がつかない場合もあるでしょう。
そういう意味で、「シンクロニシティ日記」をつけるというのはとてもいいアイデアだと思います。また、「夢日記」を平行してつけることで効果が増すというのもうなずけるところです。
両方を活用することによってシンクロニシティをより多くキャッチできるようになるし、一つ一つの体験を個別に解釈するより、いくつかのシンクロニシティが作り出す意味の関連性や流れのようなものをつかむことで、メッセージをはっきりと受け取ることができるようになるかもしれません。
一方で、ジョセフ氏はこんなことも述べています。
シンクロニシティによって示されたメッセージを逐一理解するというのは、それほど重要ではない。一つひとつの現象を完全に解明するよりも、シンクロニシティを通じてメッセージが示されたという事実を体感するほうがはるかに大切なのだ。頭脳を通じて理解するよりも、深層心理に響いたメッセージを心に留めておくほうが有意義だといえる。
解釈や理論よりも、シンクロニシティの当事者が感じる、何とも言葉で言い表わしようのない不思議な感動を心に留め、味わうことの方が重要だ、というのは鋭い指摘だと思います。
シンクロニシティの本質は、理屈や常識にとらわれがちな表層の意識を超えたものであり、そうだとすれば、シンクロニシティの原因や仕組みについて意識のレベルだけであれこれと詮索したりすることは、ことの本質からずれていくことなのかもしれません。
私も日記をつけることを通じて、どんなメッセージが浮かび上がってくるのか、是非試してみたくなりました。
本の評価基準
以下の基準を目安に、私の主観で判断しています。
★★★★★ 座右の書として、何度も読み返したい本です
★★★★☆ 一度は読んでおきたい、素晴らしい本です
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旅の名言 「僕は変な病気を……」
日本に帰り着いて、困ったことが起きてしまった。僕は変な病気を日本に持ち帰ってしまったようなのだ。といってもコレラとかペストとかいうような体の病気ではなく、それは心の病気である。誰かが「そりゃインド病だよ」と言ってくれた。
何もかもが、何か変なのである。何がどう変なのか、自分でもうまく説明できない。とにかく何もかもが何か変なのである。
例えば、なんで東京ってのはこんなに豊かなんだろう、何か変だなとか、なんで日本ってこんなに物価が高いんだろう、何か変だなとか、ありとあらゆるものが何か変だなになってしまい、せっかく逃げ帰った日本なのに違和感と居心地の悪さでつらくて仕方ない。
「そりゃ、インドへ行くしか治療法はねえな」
と友人の冷酷な答えが聞こえてくる。
『新ゴーゴー・インド』 蔵前 仁一 旅行人 より
本の紹介記事
バックパッカーの間では有名な病気、「インド病」に関しては、以前にこのブログでも触れました。
「インド病」は、ある意味では大変恐ろしい病気ですが、かかった人の受け止め方や対応の仕方によっては、むしろ人生の自由度を高めるきっかけになったりもするようです。
今やバックパッカーの大先輩として「旅行人」を主宰されている蔵前氏も、このやっかいな病気をきっかけにインドへの長い旅に出発し、帰国後に書き上げた『ゴーゴー・インド』が多くの人に受け入れられたことで、バックパッカーの旅行スタイルと彼らの心情の代弁者となったのでした。
「インド病」をユーモラスに解説する蔵前氏には、心の余裕とやさしさが感じられます。自らがそれを抱え込み、何とか乗り越えてきたことで、やがて同じような経験をするであろう「後輩」パッカー達に、「とんでもない思いもするかもしれないけど、それなりに何とかなるものだよ」という応援メッセージを伝えているように思います。
ただし、「インド病」の症状が重すぎてショック状態になってしまう人もいるので、むやみやたらとインド行きを勧めるわけにはいきません。また、インド以外の国を旅して「発症」するケースもあります。
旅は楽しいものですが、一方で人生を賭けるような一面もあります。旅に出る前によくよく考えて、悔いのないようにしてください……。
ロングテールと報酬
ロングテール現象の核心は「参加自由のオープンさと自然淘汰の仕組みをロングテール部分に組み込むと、未知の可能性が大きく顕在化し、しかもそこが成長していく」ことである。そしてそのことを技術的に可能にする仕掛けとサービス開発の思想が Web 2.0 である。
非常にもっともな説明だと思います。ネット世界の将来について、新聞やテレビはどちらかというと悲観的な見通しや危険・混乱を強調しがちですが、梅田氏にはこの本やブログを通じて敢えて楽観的な見通しを述べ、若い世代に期待することで、ポジティブな変化が実現するようにサポートしたいという意志が感じられます。
私もネットのポジティブな側面についてはワクワクするような期待感を感じているし、ブログなどの実践を通じて、ネット世界の変化とそのスピードも日々実感しています。
そこでは、斬新なアイデアが多くの人に急速に支持され、またたく間に普及したり、大きなビジネスになっていく姿がみられます。ロングテールのどこかから「未知の可能性が大きく顕在化し、しかもそこが成長していく」という、梅田氏の指摘する通りの現象が見られることに、誰も異論はないと思います。
ただ、ロングテールに関しては、私個人としては楽観的な見通しだけを抱いているわけではありません。「コストゼロ」のネット世界の特性を生かし、ロングテールをまとめあげて大きな利益を生み出すネット企業や、「未知の可能性」を実現できるだけのアイデアと才能に恵まれたごく一部の表現者を除けば、ネット世界の激しい「ゲーム」の参加者のほとんどは、相変わらず「長いしっぽの一部」という立場に甘んじ続けることになるわけです。
Web 2.0とそれに続くテクノロジーのさらなる発展を通じて、優れたアイデアや表現はますます効果的に選び出され、脚光を浴びるようになるでしょう。しかし、成果主義ですべてを割り切ってしまうと、成功者だけに報酬が集中してしまいます。ほとんどの表現者はネット世界の表面に浮かび上がってくることはできないので、その結果、非常にわずかな報酬しか得ることができないでしょう。
「参加自由のオープンさ」によって、誰もが表現者になることはできても、それだけで食っていける人はほとんどいません。ほとんどの人は報酬のことは忘れて自分の表現したいものだけを世に問い続けるか、収入の少なさに耐えながら、不屈の精神で表現をし続けるしかないでしょう。
ネット世界でかなり純粋な成果主義のルールが成り立つのは、それとは別にリアル世界で一定の報酬が確保されているからだと思います。ほとんどの人が二つの世界に同時に関わりながら、両者をうまくバランスさせつつ、ネット世界の急速な発展を支えているのです。
リアル世界では成果主義の他に、「努力」や「人格」や「人間関係」のような、数値化しにくいあいまいな要素も報酬に大きく影響しています。こうしたあいまいさは、時には不平等の原因にもなりますが、そのおかげで普通の人が成果主義の荒海に投げ込まれずに済んでいる、という側面もあります。
今後、ネット世界がさらに成長し、そのルールがリアル世界に大きな影響を与えるようになると、リアル世界の報酬システムにも大きな変化が生じるかもしれません。それがどのようなものになるのか私には全く予測できませんが、リアル世界も成果主義に飲み込まれてしまうなら、多くの人にとってはなかなか厳しいことになるでしょう。できることなら圧倒的多数派である「日の目を見ない人々」も、それなりに報われるようなものであってほしいと思います。
観音さまの群れ
現地で知り合った「自称ガイド」のオッサンのバイクの後ろに乗って街の中心部を走っていたら、昼食を取りに家に帰るところなのか、自転車に乗った女子高生(?)の群れに取り囲まれました。
若い女性たちが、真っ白なアオザイをひらひらと風になびかせ、通りを埋め尽くして川のように流れていく光景は壮観で、ガイド氏は私の方を何度も振り返っては、「どうだ、いいだろう、すごいだろう」という表情で、何だかとても得意そうでした。
確かに一人旅の男には目の毒になりそうな光景で、これから北上してハノイから中国の雲南省へ、厳しいバス旅を控えていた身としては、このままずるずるとベトナムに「沈没」してしまいかねない、妖しい誘惑だったかもしれません。
ところで最近、宮内勝典氏の『焼身』という本を読んでいたら、ベトナムの民衆の間には観音信仰が根付いていて、多くの家や店先に白い観音像が祀られているという記述がありました。ベトナムは仏教国とはいっても、お隣のカンボジアとは違って、中国経由の大乗仏教が盛んな国です。日本でも白い観音像をよく見かけますが、ルーツが中国にあるという点では同じで、ベトナムと日本の観音信仰は、いわば兄弟のような関係といってよいかもしれません。
ベトナムの女子高生の白いアオザイには、どことなくその白い観音像を想起させるものがあります。ここから先は私の勝手な想像ですが、ベトナムで女子高生の制服を決める立場にあった人は、意識的だったか無意識的だったかはともかく、観音さまを頭の中にイメージして白いアオザイに決めたのではないでしょうか。
沢山の若い女性に白いアオザイを着せることで、このギスギスした娑婆世界に、観音さまが満ち溢れている夢のような光景を出現させようという、密かな野望があったのかもしれません。
仮にそうだったとしたら、そういう試みというのはちょっとバランスを間違えて俗っぽくなりすぎると、「癒し」を通り越してヤバイ方面に逸脱していきそうな感じもするのですが、少なくとも私の見た限りでは、若い女性の発する清々しさのようなものが下品さの付け入る余地を与えていないようで、いわゆる「清純」なイメージはしっかり維持されているように感じられました。
現在では当たり前の生活習慣のように普及しているところを見ると、少なくともベトナム人で「白いアオザイ」に反対の人はほとんどいないのでしょう。
日本では、高校生の制服といえば「軍服系」です。最近ではそれほどの多数派でもなくなったようですが、セーラー服はセイラー(水兵)の制服から来ているし、学ランも軍服が起源のようです。
私は別に「軍服系はケシカラン!」とは思いません。若い時に一定の規律に従うことの重要性を制服のデザインが象徴しているのだとしたら、そのデザインが軍服を模倣したものになるのは理解できるし、それがただちに「軍国主義」につながるものでもないと思うからです。
ただ、観音さまを思わせるベトナムの白いアオザイを見ると、制服のデザインとして「民族衣装系」とか「宗教系」という選択肢もありえるんだな、と思います。具体的なデザインによってどのような価値を象徴しようとするのか、それぞれの国や文化によって優先順位が違うということなのでしょう。
そういえば、ベトナムの男子高校生は一体どんな服を着ていたのか、全く記憶に残っていません。私も白いアオザイにばかり見とれていて、男どもの服など眼中になかったようです……。
『アジアの沈没地』
アジアの沈没地
游人舎
評価 ★★☆☆☆ よかったら暇な時に読んでみてください
バックパッカーの間で有名な言葉に「沈没」というのがあります。バスや鉄道を乗り継ぎ、観光地を忙しくめぐる移動三昧の旅をしていた旅行者が、何かのきっかけで動けなくなり、居心地のいい町に沈澱して数週間さらには数ヵ月の間、無為な生活を送るという現象です。
この本は、その「沈没」現象に的を絞り、ネガティブにとらえるよりは、むしろ「沈没」したくなってしまうような居心地のいい町を選んで積極的に紹介しようというものです。
取り上げられている町は以下の通りです。
中国 ………… 大理、麗江、西双版納(シーサンパンナ)
ラオス ……… ルアンパバン、ムアンシン
カンボジア … シェムリアップ
タイ ………… カンチャナブリー、メーサイ、チャン島、パンガン島、サムイ島、ピピ島
マレーシア … ペナン
ミャンマー … パガン
インド ……… プリー、マハーバリプラム、コヴァーラムビーチ、アレッピー、ダラムサーラ
ネパール …… ポカラ
本書では紙面や取材上の制約からか、ベトナムのサパ、インドネシアのバリ、パキスタンのフンザなど、「沈没地」として有名であるにもかかわらず取り上げられていない国や町もあるし、バンコクなどの大都市もあえて扱わなかったということですが、上に挙げられた町のリストを見るだけでも、旅慣れた人ならそれなりに納得できるものがあるのではないでしょうか。
私は読んでいて、かつて旅した町や泊まったゲストハウスの連続に、思い出が続々と湧いてきて、懐かしくてたまりませんでした。また、他にもお勧めの「沈没地」がいくつも思い浮かぶのですが、それを挙げていけばきりがなくなりそうです。
ちなみに、現役パッカーに調査した結果として、「沈没地のベスト5」が挙げられています。1位から順に、ポカラ、パンガン島、プリー、大理、ルアンパバンということですが、妥当だなという感じがします。町の雰囲気の良さや宿の安さ、食べ物のうまさなど、いくつかの条件をそれなりにクリアーしているという点で、「沈没」の嫌いな人にもおすすめかもしれません。
この本は、ほかの町や大都市の情報がないので旅行に持っていくには不便で、ガイドブックとしてはいま一つなのですが、かつて「沈没」した人には懐かしい思い出を味わうために、これから「沈没」してみたい、お金をかけずに長期滞在型の旅をしてみたいという人には旅行先を検討する上で役に立つと思います。
ただし、この本は現在絶版のようです。また、現在アジア各地の社会の変化は著しく、この本の現地情報も古くなってしまった可能性があります。居心地のよさそうな町についてだいたいの見当をつけたら、他のガイドブックやネットも利用して、最新の旅行情報を集める必要があるでしょう。
本の評価基準
以下の基準を目安に、私の主観で判断しています。
★★★★★ 座右の書として、何度も読み返したい本です
★★★★☆ 一度は読んでおきたい、素晴らしい本です
★★★☆☆ 読むだけの価値はあります
★★☆☆☆ よかったら暇な時に読んでみてください
★☆☆☆☆ 人によっては得るところがあるかも?
☆☆☆☆☆ ここでは紹介しないことにします
『こころの生態系―日本と日本人、再生の条件』
こころの生態系―日本と日本人、再生の条件
河合 隼雄, 中沢 新一, 小林 康夫, 田坂 広志
評価 ★★☆☆☆ よかったら暇な時に読んでみてください
私は河合隼雄氏の著作が好きでよく読みます。『こころの生態系』も、何となく「こころの自然さ」みたいなものを感じさせるタイトルの語感から、いわゆる心理学やカウンセリング関係の内容だろうなと想像して読んだのですが、違っていました。
実際には、日本総合研究所主催のシンポジウム「21世紀の知のパラダイム――こころの生態系を見つめて」での討議内容と、後日行なわれたいくつかの対談で構成された対談集で、一応「こころ」も話題の一つにはなっているのですが、どちらかというと「21世紀における知のあり方」の方に重点がおかれているようです。
「オペレーション」の世紀(河合氏)としての20世紀の操作主義文明がもたらした行きづまりを乗り越えていくための処方箋として、例えばオペレーションの対極としての「エロス」の復権(河合氏)や、「何もしないことに全力をあげる」(河合氏)こととオペレーションの両立、「他力系宣言」(中沢新一氏)など、刺激的なキーワードと概念が提示され、例によって中沢氏の挑発的なコメントなどもあり、それなりに面白いのですが、テーマが大きいせいかシンポジウムでの議論はやや拡散している印象を受けます。
これは、テーマの性質からして仕方のない部分もあるかもしれません。あまりにも割り切りよく、全会一致でマニュアル的な結論が出るようでは、「オペレーション」主義の延長になってしまうだけだからです。
ただし、スカッと割り切れない微妙で複雑な状態を作りあげたり維持したりするのには、非常なエネルギーと忍耐が必要です。本書の議論を読んでいて思うのですが、どうもそのような苦労なしに、現代の危機を乗り越えることは難しいようです。
新しい「知のパラダイム」は、一人の優秀な人間の作り出すパラダイムにみんなが一斉に合わせるようなものではありえず、数多くの「主体」によって成り立つものになるだろうし、言葉だけにとどまらない、もっと広く人間活動のあらゆる側面を巻き込んだものでなければならないでしょう。そういう意味では、今後多くの人がいろいろな形で主体的に貢献する必要が出てくるだろうな、と改めて思いました。
どちらかというと本書後半の二人ずつの対談の方が議論の焦点が絞られていて、深みのある内容になっています。特に河合氏と田坂広志氏の対談では、それぞれ心理療法とマネジメントの現場での体験で会得した、ほとんど言葉にできないくらい感覚的で微妙な、人間のこころの機微に触れていてさすがでした。
本の評価基準
以下の基準を目安に、私の主観で判断しています。
★★★★★ 座右の書として、何度も読み返したい本です
★★★★☆ 一度は読んでおきたい、素晴らしい本です
★★★☆☆ 読むだけの価値はあります
★★☆☆☆ よかったら暇な時に読んでみてください
★☆☆☆☆ 人によっては得るところがあるかも?
☆☆☆☆☆ ここでは紹介しないことにします