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『深夜特急〈5〉トルコ・ギリシャ・地中海』
深夜特急〈5〉トルコ・ギリシャ・地中海
沢木 耕太郎
Kindle版はこちら
評価 ★★★☆☆ 読むだけの価値はあります
『深夜特急』の第5巻は、イランのテヘランからイタリアのブリンディジまで、いよいよ旅も終盤に向かっていきます。
テヘランから一気に国境を越えてトルコのエルズルムへ、さらにトラブゾン経由でアンカラに向かう場面や、イスタンブールからギリシャのアテネへ抜ける場面など、例によって長距離を突っ走る疾走感は健在です。
また、女性芸術家に届け物をする話や、「熊連れの男」との遭遇、通りすがりの男に誕生日パーティーに招待される話など、所々に面白いエピソードも織り込まれています。
しかし旅の疾走感とは裏腹に、この巻全体には何か重苦しくて内省的なムードが漂っています。それは本文にもあるとおり、人生に例えれば、この長い旅がすでに「青年期」の輝きを失い、「壮年期」あるいは「老年期」ともいえる段階にさしかかっているからでしょう。
ギリシャの旅を続けながら、沢木氏の心に浮かんでくるのは過去に通り過ぎた土地の記憶であり、旅をどう終わらせるのかという問題でした。
そもそもロンドンまで乗り合いバスで行くというのが当初の計画だったわけで、そこに着けば旅は終わりであり、それ以外に何も考える必要はなさそうなものですが、沢木氏は、その計画があくまで表面的な建前にすぎず、実際には自分でも知らないうちに別の意図をもって旅を続けていたということに気づいたのでしょう。
ロンドンというのは、とりあえず西に向かって進んでいくための最初の口実にすぎず、この長い旅そのものに意味を与えてくれるわけではありません。自分にとってこの旅が何だったのか、自分なりに納得できるような結末を見つけられない限り、たとえロンドンに着いてもこの旅を終えるわけにはいかない、という思いが伝わってきます。
ヨーロッパという、何事も予定通りに進行する世界に入ってしまうと、意外性やハプニングによって自分が揺さぶられることもなくなり、旅の資金も残り少ないため、自由に動き回ることもできなくなっていきます。そんな中でこの旅にふさわしい終わり方を見つけるというのは非常に難しいことでしょう。
10年以上も前に最初に読んだ時、私はこのあたりは軽く読み飛ばしていました。何か旅の終わり方にこだわっていたなあ、という淡い印象を残しただけで、今回読み返してみるまでほとんど記憶に残っていなかったのです。
その後、私も長い旅をしました。そして、期限を決めずに旅に出てしまったために、旅をいつ終わらせるのか、どういう結末をつけるのかという問題が重くのしかかり、さんざん悩むことになりました。今回、その経験と照らし合わせながら読んでいると、沢木氏の言葉がいちいち深く身にしみてきます。
自分の意識の上では、旅をしていた頃には、『深夜特急』で読んだ内容をすっかり忘れていたと思うのですが、当時自分なりに旅の結末をつけようとした時など、無意識のうちにこの本が深いところで影響を及ぼしていたような気がします。
第5巻で私の好きな場面があります。イスタンブールのアジア側とヨーロッパ側を連絡するフェリーに毎日乗りにいくシーンです。舳先のベンチに座り、潮風に吹かれながら、沢木氏はドネル・カバブのサンドイッチを頬張り、チャイを飲む「優雅な」ひと時を楽しみます。
イスタンブールは東と西の文明が出会う都市ですが、連絡フェリーはまさにその象徴のような存在であり、同時に東にも西にも属さない、両文明のバランスの中心のような、「静寂の支配する空間」でもあります。そこを片道15分で優雅に行ったり来たりする、というのは実に面白そうな遊びで、私はイスタンブールに行ったことはありませんが、いつか訪れることができたら是非同じことをしてみたいと思います。
『深夜特急〈1〉香港・マカオ』の紹介記事
『深夜特急〈2〉マレー半島・シンガポール』の紹介記事
『深夜特急〈3〉インド・ネパール』の紹介記事
『深夜特急〈4〉シルクロード』の紹介記事
『深夜特急〈6〉南ヨーロッパ・ロンドン』の紹介記事
本の評価基準
以下の基準を目安に、私の主観で判断しています。
★★★★★ 座右の書として、何度も読み返したい本です
★★★★☆ 一度は読んでおきたい、素晴らしい本です
★★★☆☆ 読むだけの価値はあります
★★☆☆☆ よかったら暇な時に読んでみてください
★☆☆☆☆ 人によっては得るところがあるかも?
☆☆☆☆☆ ここでは紹介しないことにします
無言の宴
その時は長旅の疲れがたまっていたこともあって、エアコンバスを選びました。窓口で言われるままに料金を払って乗り込み、効きすぎの冷房から身体を守るためにフリースを着込むと、後はバンコクに到着するまで何もする必要はありません。
すっかりくつろいで車窓の風景を眺めながら、たまにはこういう快適な旅もいいな、などとぼんやり考えているうちに、バスはドライブ・インで停車しました。
普段なら乗客は勝手に食堂や売店に行って食事をすませ、バスに戻ってくるのですが、今回は車掌が乗客を案内して食堂に連れていきます。食堂のテーブルの上には、すでに何十人分もの食事が用意されていました。どうやら私の乗ったのはいわゆる「VIPバス」だったようです。もちろんこれらの食事もサービスに含まれているので、追加料金を払う必要はありません。
私は指示されるまま、見知らぬタイ人の乗客たちと同じテーブルに着きました。中華料理店のように大皿に盛られた料理がいくつも並べられていて、各自が好きなだけ取って食べるシステムのようです。
みんなが席についた頃、タイ人たちは黙って食事を始めました。お互いに知らない人同士なのか、無言で箸をすすめていきます。彼らは大皿から小皿に料理をとりわけるようなことはせず、大皿から直接料理を口に運んでいきます。私も彼らにならって同じように食べ始めました。
箸をすすめる、と日本的表現をしてしまいましたが、タイの人は実際にはご飯をスプーンとフォークを使って食べます。メン類は箸で食べる事が多いのですが、コメがパラパラしているので、ご飯はスプーンでないとうまく食べられません。
食事は相変わらず無言のまま続いていきますが、その場の雰囲気は少しずつ変わり始めているようでした。人間、やはり腹の中に何か入ると落ち着くのか、あるいは「同じ釜の飯」という表現どおり、食卓を共にすると連帯感が芽生えるのか、だんだん場の空気がやわらかく、打ち解けた感じになっていきます。
きっと彼らは自分の家庭でも、同じようなスタイルで家族と料理をつついているのでしょう。私のような外国人に対してはもちろん、タイ人の乗客同士の間でもいっさい会話はないのですが、みんな穏やかな顔をして、ゆっくりと上品に料理を楽しんでいるかのようでした。
料理の味も意外でした。ドライブ・インで大量に用意されたものにもかかわらず、大皿料理は見た目以上においしくて、私はウハウハと食ってしまいました。もっとも、私にとってはそれが今回の旅行でタイに入ってから初めてのまともな食事だったために、タイ料理自体が新鮮に感じられたからかもしれません。
そろそろ満腹してきて、私が箸を置こうとした時、その場でテーブルを囲んでいたほとんど全員が、いっせいに食事を終えて立ち上がりました。まるで、みんながテレパシーで通信し合っているみたいでした。食事を共にし、なごやかな時を共有するうちに、互いの心がシンクロしたのでしょうか。私はそのほのぼのとした感じに、思わず笑いがこぼれてしまいました。
人間というのは、別に言葉を交わさなくても、言葉にできない微妙なレベルでは盛んにメッセージを交わし合っていて、それは国や文化が違っても、ある程度はわかりあえるのではないか、そんなことを改めて実感した出来事でした。
旅の名言 「なぜ旅をしたのか……」
なぜ旅をしたのか。なぜ、世界を広く見たいと思ったのか。なぜ、自分が生まれた国を全体の中で客観化して見ようという欲求があれほど強かったのか。その作業がすむまでは自分自身の仕事には手がつけられないと考えたのはなぜか。こういうことを言いながら、ぼくは自分の中にカリキュラムがあったことをほとんど認めようとしている。旅はその主要な科目だった。それなくしては何も始まらなかった。
『明るい旅情』 池澤 夏樹 新潮文庫 より
本の紹介記事
なぜ人間は旅をするのか、人によって考え方はさまざまだと思いますが、今回はその一つとして、作家の池澤夏樹氏のユニークなコメントを紹介したいと思います。
旅は自分(の人生)のカリキュラムの主要科目だった、というのはとても面白い見方だと思います。旅を通じて、人生における大切な学びの機会が与えられる、というニュアンスがその表現に感じられます。
池澤氏はこの「カリキュラム」という言葉の意味について、エッセイの中であまり詳しくは触れていませんが、以下、私が勝手にふくらませた個人的な解釈を述べたいと思います。
若いとき、止むに止まれぬ思いで海外に飛び出し、その時々の状況や自分の感覚に従っていろいろな場所を旅したことが、後の自分の人生や仕事において大きな意味を持つように感じられることがあります。
例えば、若いときに旅した国や文化と、後に仕事や人生の上で深いかかわりを持つようになり、後から振り返ってみると、当時は深い考えもせず適当に行動してきたはずなのに、長年の自分の行動が、現在の人生のすべてに意味のあるつながりをもっているような気がしてくるようなケースがあります。まるで自分の中の超越的な「何か」が、未来の自分をあらかじめ知っていて、そのために昔から着々と準備してきたかのように感じられるのです。
実は、これはあくまでも後付けの解釈にすぎず、そこにはカラクリがあります。
人間の行動はいつでも首尾一貫しているわけではなく、特に若いときにはいろいろな可能性を試してみたり、突拍子もない行動に出たりすることがあります。そうした行動のほとんどは後につながることなく、いわば芽を出さずに終わってしまうわけですが、ごく一部の行動は芽を出し、さらに発展して、その人らしい人生の営みを作り上げる骨格になっていくと考えられます。
逆に言えば、人生の後半になって自分の歩いてきた道を振り返ってみれば、今の自分を作り上げている重要なものは、若いときから着々と生長してきたように見えるはずです。
しかしそれは、実はたくさんの人生の可能性の中から現在まで生き残ったごくわずかな芽に過ぎず、枯れてしまった圧倒的多数の芽のことはもう忘れてしまっているだけなのです。主観的な立場からは、成功して生き残ったわずかな芽しか見えていないので、すべてが必然の流れで、まるで神様の定めたカリキュラムを着々とこなしてきたように見えてしまうのではないでしょうか。
例えば、偉人の自叙伝などを読んでいると、自伝を書いた本人が、まるで若い頃から人生をはっきり見通していたかのような錯覚に陥る事がよくあります。しかしそれは、人に話す価値のない、無駄に終わったたくさんの試みの話はあらかじめ省かれて、成功したエピソードだけが書かれているからではないでしょうか。
カリキュラムという言葉には、将来の目標を見通した上で、効率よく必要な知識や体験を身に付けていくようなニュアンスがありますが、実際の人生はそんなに効率のいいものではありません。それぞれの人にとって人生の意味や生き方は、混乱と無駄の中から、時間をかけてゆっくりと立ち上がってくるものだと思います。
池澤氏はそういうことを充分承知しているので、カリキュラムという言葉をいきなり持ち出すことに、ためらいを感じているのだと思います。
しかしそうは言っても、主観的に人生を振り返った時には、そういう言葉を使わざるを得ないような深い実感があるのも事実です。その一部が錯覚であることを認めたとしても、それでもまだ残る「何か」があります。
若い頃の混乱のさなかでも、「自分はこういう方向で生きるしかない」という直感のようなものがあって、大事な決断の場面ではある程度の確信をもって、意識的に人生の方向を選び取っている部分があるからです。
また、理論的に考え、行動にスジを通すタイプの人なら、若いときからある程度先を見通して、まるで建築物のように人生を組み上げていくこともあるのかもしれません。特に、理系的カラーも強い池澤氏なら、カリキュラムという表現のふさわしい、理知的な見通しと人生の選択があったとしても不思議ではありません。
ところで、池澤氏は旅を通じて、具体的には何を学ぼうとしていたのでしょうか。冒頭に引用したエッセイは次のように続いています。
世界全体を見るのに、日本は決して有利な観測地点とは言えない。中緯度圏、大洋のほとり、経済的には中位(であった)、識字率は高く、統一国家となってからの歴史は長く、国民の大半を占める《日本人》という種族は異民族の支配をうけたことがほとんどない。これらの資質はそれぞれに世界史の平均からの偏りである。いや、世界史は地方ごと民族ごとの偏りばかりで、平均的場所というものはない。日本の偏りをそのまま裏返した場所を見て、両者のベクトル和としての世界像を考える。日本と最も相補的な位置にある場所を見つける。そこが人文地理的な意味でのアンティポードである。ことはそんなに都合よく運ぶものではないが、一度やってみないことには気持ちの収まりがつかなかった。
こういう動機で旅に出る人もいるのです……。
『本当にあった嘘のような話―「偶然の一致」のミステリーを探る』
本当にあった嘘のような話―「偶然の一致」のミステリーを探る
マーティン プリマー, ブライアン キング, Martin Plimmer, Brian King, 有沢 善樹
文庫版はこちら
評価 ★★☆☆☆ よかったら暇な時に読んでみてください
これは世界各地で起こった、信じられないような「偶然の一致」に関する事例集です。
本書の前半は、「偶然の一致(シンクロニシティ)」に関して、それが単なる偶然にすぎないのか、それともそれ以上の「超常的」なものなのか、という古くからの議論を中心に、やや理論的な話題を紹介しています。
ごく一般の読者を意識してか、いわゆる「オカルト系」の本のようにあまり深入りはせず、イギリス人らしい皮肉もまじえつつ、予備知識として知っておくべき必要最小限の話題を網羅しています。
後半は古今東西の「偶然の一致」事例集です。イギリスの事例が中心ですが、タイタニック号の事件を予言(?)した小説の話や、リンカーンとケネディの驚くべき共通点など、有名な話を含めて様々なカテゴリーの逸話が集められていて、読み物として楽しめます。
全体を通じて肩のこらない楽しい本ですが、本格的にシンクロニシティについて理解を深めたいという人にはやや物足りないかもしれません。
それはシンクロニシティが、体験者にとって意味のある(偶然の)一致であるということとも関係するかもしれません。他者に起きたシンクロニシティの事例を読んだり聞いたりすることは楽しいし、興味をそそられることは確かですが、その「意味」の重さは、やはり当事者でないと実感できないところがあります。
そういう意味では、シンクロニシティを深く知るには、自ら体験することにまさるものはないわけです。先日紹介したフランク・ジョセフ氏の『シンクロニシティ』では、「シンクロニシティ日記」をつけるなどの方法で、自ら体験を引き寄せようという実践の方向に一歩踏み出していますが、この現象に興味のある人にとってはその方がより参考になるのではないかと思います。
もっとも、シンクロニシティの探求にのめりこみすぎると、すべての出来事に強迫的に意味を見出そうとするようになってしまう可能性も指摘されています。本書の著者がすすめるように、ほどほどに、健全な範囲内で関心を持ち続けるというバランス感覚も必要でしょう。
本の評価基準
以下の基準を目安に、私の主観で判断しています。
★★★★★ 座右の書として、何度も読み返したい本です
★★★★☆ 一度は読んでおきたい、素晴らしい本です
★★★☆☆ 読むだけの価値はあります
★★☆☆☆ よかったら暇な時に読んでみてください
★☆☆☆☆ 人によっては得るところがあるかも?
☆☆☆☆☆ ここでは紹介しないことにします
惑星ではなくなった冥王星
昔から、「冥王星は本当に惑星と言えるのか?」という議論は盛んだったし、昨年「第10惑星」と呼ばれる天体も発見されたことで、惑星の定義に関して改めて注目が集まるようになり、冥王星を惑星というなら他の天体も惑星と呼ばざるを得なくなりそうな雲行きになっていました。
放っておけばますます話がややこしくなりそうだっただけに、科学者の間での定義を早い段階ではっきりさせたのは、個人的には良かったのではないかと思います。
今回の採択は、「惑星の定義」を科学者の団体が多数決で決めたということです。定義は観測する人間の側の分類上の問題なので、観測される天体自体には何の変化もありません。当然のことながら、定義が変わったところで冥王星の大きさが変わるわけでもないし、一度名づけられた冥王星という天体の名前が変わるわけでもありません。
ということは、今後何らかの事情で、惑星に関する別の定義が改めて採択されれば、冥王星が惑星として復活するなどということもあり得るのかもしれません。
これは私の勝手な妄想ですが、科学者の中にも「太陽系家族」のメンバーをもっと増やしたいと考える寂しがり屋の人たちと、ごちゃごちゃするし面倒だからこれ以上増やしたくないと考える現実派の人たちがいて、今回の採択では後者が勝利し、メンバーは8で打ち止め、ということになったのではないかと思います。
確かに今後も惑星の数が際限なく増え続けていくと、科学者にとっても、それを勉強させられる学生にとってもスッキリしない話になりそうで、惑星として覚えなければならない星の数が8つに限定されたことは、とりあえずは良かったのかもしれません。
しかし、今回の採択はあくまで科学者同士の決定なので、これを一般の人たちが受け入れるかどうかはまた別の話です。よく町の名や通りの名前が変わっても、慣れ親しんだ地元の人の間では昔どおりの名前が使われ続けるように、冥王星は惑星だと教えられた古い世代の人間にとっては、これからもしばらくは冥王星は惑星であり続けるのでしょう。
『「みんなの意見」は案外正しい』
「みんなの意見」は案外正しい
ジェームズ・スロウィッキー, 小高 尚子
文庫版はこちら
評価 ★★☆☆☆ よかったら暇な時に読んでみてください
この本は梅田望夫氏の『ウェブ進化論』の中で紹介されていました。タイトルの意外性に惹かれたのと、ネット社会の「進化」の方向性を知るうえで参考になるかもしれないと思い、読んでみました。
人間の集団は愚かな行動をとることが多いという見方には、伝統的になかなか根強いものがあります。確かに人間のたどってきた歴史を見れば愚かさの事例には事欠かないため、インターネットの未来もその延長線上でとらえられ、悲観的な見通しを語る人も多いようです。
本書の内容自体はネット社会と直接の関係はありません。この本の著者スロウィッキー氏は人間集団一般に関して、普通に考えられているのとは違い、条件さえ整えばむしろ個人より賢い判断をするものであるという仮説を提示し、様々な事例を通じてそれを検証しようとしています。
正しい状況下では、集団はきわめて優れた知力を発揮するし、それは往々にして集団の中でいちばん優秀な個人の知力よりも優れている。優れた集団であるためには特別に優秀な個人がリーダーである必要はない。集団のメンバーの大半があまりものを知らなくても合理的でなくても、集団として賢い判断を下せる。
この仮説の面白いところは、「メンバーの大半があまりものを知らなくても合理的でなくても」よい、と言っているところです。集合的な判断を問題にする場合、それぞれの個人が「優秀」であるかどうかは問題にならず、むしろ彼らが独自に持つ情報に基づいて様々な意見を構成することが、集合的に賢明な判断を生み出すことに大きく貢献していることになるのです。
ただし注意しなければならないのは、スロウィッキー氏は集団がいつでも賢いと言っているわけではないということです。集団が賢明な判断をするためには、意見の多様性、独立性、分散性、集約性という四つの要件が満たされなければならないと彼は言います。
本書を読み進めていくと、条件をコントロールしやすい実験上の環境はともかく、一般企業や市場、各種の小グループなど、実際の人間集団において四つの要件を常に満足するということは非常に難しいということがよくわかります。
つまり、賢明であり続ける人間集団というのはあまり見られないわけです。ほとんどの人々は集団が愚かな判断ばかりするケースや、時には賢明で時には愚かな判断をするケースばかりを見続けていることになります。だとすればその結果として、集団は愚かであると結論づけられてしまうのは止むを得ないのかもしれません。
また、上に挙げた四つの要件を満たす例として、アイオワ大学のIEMプロジェクトなどが紹介されており、企業が賢明な意思決定をするための一つの仕組みとして、社内で未来予測市場を設置することなども提案されています。
しかしそれらは、企業のように集団の方向性や目的がかなりはっきりしている場合や、意思決定の結果を「市場価格」など、何らかの形で数値化できるような場合には有効かもしれませんが、例えば一国の政治のように、そもそも何をもって「公益」とするのか、そもそも何が「正しい」のかという点からして人々の意見が分かれてしまうような場合には適用が難しいでしょう。
もちろん、だからといって、誰か優れた個人や専門家集団がすべての判断を下せばよいということにはならないと思います。これからも人類は、集団の賢明さを引き出すための具体的な方法やノウハウを探求し続けるほかはないのでしょう。
個人的な感想としては、本書は、事例は豊富なのですが、説得力はいまひとつという感じがしました。いろいろなタイプの人間集団を一括して論じているせいか、議論が多岐にわたり、やや錯綜した印象があるためかもしれないし、私自身が人間集団の賢明さについて、まだまだ懐疑的であるからかもしれません。
ただ、どんな場合に集団が賢明でありうるのか、その要件を抽出した上で、それらを具体的なツールを使って意識的に創り出していこうとする著者の発想は、いかにもアメリカ的だなと思いました。
また、議論を集団一般に広げず、未来予測市場のように、集団の意見の集約が数値化できるような分野に限定するなら、すでにかなり効果的なツールが見出されているといえます。この分野に関してはネット世界との親和性も高いので、今後数年のうちに面白いものがたくさん出てきそうな気がしました。
最後に、ちょっとやっかいな問題について触れておきたいと思います。
ある集団が賢明であるか否かというのは、よく考えると、何を基準にしてそう判断するのかという難しい問題に行き着きます。正しいとか賢明であると判断するためには判定の基準が必要ですが、その基準は結局何らかの方法で人間が定めているわけです。だから、そもそもそれをどうやって決めたかも集団の意思決定の一つだということになります。
別の言い方をすれば、言葉、特に「正しさ」や「賢明さ」といった価値判断に関する言葉は非常にトリッキーで、判定の基準を自分自身で決めていながら、それを自分や他者にあてはめた上でその判断を絶対化してしまい、なおかつそのカラクリに自分では気がつかないような場合もあり得るわけです。
また、一見愚かな行動が後々になってすばらしい成果をもたらすことがあるし、その逆もあります。「人間万事塞翁が馬」という言葉どおり、今起きていることを正しいとか間違っていると言うことは可能でも、それはあくまでも現時点での相対的な判断にすぎないかもしれません。
そうだとすると、「賢明な集団」を仮に実現できたとしても、現時点での我々にとっての賢明さを反映しているに過ぎず、宇宙的スケールで考えたり、後の時代になって冷静に振り返ってみれば賢明でなかったという可能性もあるわけです。
まあ、こういう理屈っぽいことを考えすぎると何も行動できなくなってしまうので、現実生活を考えた場合には、スロウィッキー氏のような実際的な態度の方がずっと役に立ちそうです。ただ、実際的な運用の世界の底に、こういうややこしい問題が潜んでいて、時にはそれがフッと顔を出すということは知っておいたほうがよいのかもしれません。
本の評価基準
以下の基準を目安に、私の主観で判断しています。
★★★★★ 座右の書として、何度も読み返したい本です
★★★★☆ 一度は読んでおきたい、素晴らしい本です
★★★☆☆ 読むだけの価値はあります
★★☆☆☆ よかったら暇な時に読んでみてください
★☆☆☆☆ 人によっては得るところがあるかも?
☆☆☆☆☆ ここでは紹介しないことにします
ネパールの断食少年は今どこに?
インドでは、ヒンズー教の神々の像が信者が捧げたミルクを飲んだと報道され、全土で数千人の人々が寺院に押しかける騒ぎになっている。目撃者が明らかにした。
目撃者の話によると、寺院では、神々の像に捧げるミルクを入れた鉢を持った人々が、長い列を作っている。ある女性は「私の手からミルクを飲んだ」と断言。ヒステリー状態に陥る信者らも出ている、という。
今回の騒ぎは20日夜に北部で始まり、全土に広がった。1995年にも、数千人の信者が像にスプーンでミルクを飲ませる騒動があった。
(ロイター 8月21日)
インド西部ムンバイで18日夜、「海の水が甘くなった」とのうわさが広まり、数千人が海岸に殺到して海水を飲む騒ぎがあった。
水を飲んだ住民は地元テレビに「本当に甘い。奇跡だ」と口々に話したが真偽は不明。水は汚染されて茶色に濁っており、ムンバイ市当局は「病気になる恐れがある」と飲むのをやめるよう呼び掛けている。
(共同 8月19日)
こういうニュースを読んでいると、つい思い出す一件があります。覚えておられる方も多いと思いますが、昨年の暮れから今年の春にかけて、ネパールで断食を続けているという少年のニュースが世間を騒がせました。
ラム・バハドゥール・バムジョン少年は、何カ月もの間、食事も水もとらずに瞑想を続けているといわれ、地元では「ブッダの化身だ」と噂されて巡礼が押し寄せていたのですが、今年の3月、断食瞑想が10カ月になろうとする頃、突然姿を消してしまいました。
それからはニュースに取り上げられることもなくなり、いつしか世間からも忘れられたようですが、今はどうなっているのか、ネットで調べてみました。
とりあえず日本語の記事をあたってみると、姿を消した直後、3月20日のBBCニュースで、「ブッダ少年」が再び現れた、と報道されていたことがわかりました。
それによれば、彼は近くの村に現れて関係者のインタビューに答え、「6年後に再び現れる」と言ったそうです。が、結局この情報を最後に、現在に至るまで彼の消息はわかっていません。
そもそも、彼が本当に断食をしていたのかについては、客観的な調査が行なわれずじまいでした。疑い深い人から見れば「疑惑」のタネになりそうなこともたくさんあり、私も距離をおいて成り行きを見ていたのですが、決定的なことが判明しそうな時点で、何となくウヤムヤになって終わってしまったようです。
日本で同じことが起こったら、「小学校の卒業文集」とか「元同級生のコメント」とか様々な資料を駆使して本人の過去が調べられ、行方不明になったりすればさらに報道が過熱して、少年も絶対に逃げ切れないだろうと思いますが、現地ではこの結末でみんな何となく納得してしまったのでしょうか?
ネパールではその数カ月後に国内情勢が緊迫し、「奇跡の少年」どころではなくなったということもあるのかもしれませんが、6年後といわず、とりあえず今、彼がどこで何をしているのか知りたいと思います。
記事 「ネパールの断食少年再び出現!?」
記事 「ネパールの断食少年続報」
記事 「ネパールのお騒がせ「断食少年」再び出現」
スマトラの虎の穴
ブランケジェレンという山間部の町の近くから、ガイドと一緒にジャングル・トレッキングに出かけました。といっても「探険隊」みたいな本格的なものではなく、歩くのは全部で数時間程度の軽いトレッキングです。
薄暗く湿ったジャングルの中を歩いていると、ガイドがその辺を指差して、「ほら、これが虎の穴だ」と言います。見ると岩場の陰に、穴が開いたようになっているところがありました。別に変な気配がするわけでもなく、獣の臭いみたいなものも感じません。教えられなければそのまま気づかずに通り過ぎてしまいそうな、何の変哲もない場所でした。
このあたりで虎と言えば、スマトラ・タイガーのことです。そうか、虎というのは本当に穴の中に棲んでいるのかと、妙に感心してしまいました。よく「虎穴に入らずんば……」とか、「○○虎の穴」とかいいますが、これぞ正真正銘の虎の穴というわけです。
ガイドの話によれば、その穴には3年前まで虎が棲んでいたのだそうです。そして、彼自身のことだったか、彼の仲間のガイドの体験だったのか、記憶がはっきりしませんが、ある日欧米人の女性を二人連れてトレッキングをしている最中に、ジャングルの中で虎に遭遇したという話をしてくれました。
至近距離で虎と出くわしてしまい、女性二人はその場を動けず、恐怖のあまり泣き出してしまったということです。ガイドも自分だけ逃げるわけにもいかず、オロオロしたのではないかと思いますが、幸い三人とも虎に襲われることはなく、無事生還することができたのだそうです。
それにしても、3年前にこの穴を出て、虎は今どこにいるのか、ちょっと不安になりました。現在でも近くの村人が虎を見かけることはあるそうなので、どこか遠くない場所にその虎か、もしくは別の虎が棲んでいるはずです。
虎の話を最初に聞いていれば、こんなトレッキングには出かけなかったかもしれません。スマトラの山奥で虎に襲われたら、日本人バックパッカーの末路として後々語り草にはなりそうですが、自分がその当事者になるのはイヤでした。
今さら引き返すのもカッコ悪いので、ガイドの前では冷静を装っていましたが、何となく早く帰りたいような、腰が引けたような感じになっていたのは否定できません。それでも何とか予定通りに歩き続け、トレッキングの目的も果たすことができました。
ちなみにこのトレッキングの目的は、野生のオランウータンを見ることでした。それについては、いずれまた別の記事で書くことにしたいと思います。
記事 「半野生のオランウータン」
『図解トレーニング 身体意識を鍛える』
図解トレーニング 身体意識を鍛える
高岡 英夫
評価 ★★★☆☆ 読むだけの価値はあります
「ゆる体操」の提唱者として有名な高岡氏の本は以前にも紹介しましたが、長年の経験と緻密な理論に裏付けられているので、読んでいてなかなか説得力があります。ただ、理論の部分はやや取っ付きにくいところがあるので、「理屈はともかく、どうすれば効果がでるのか、わかりやすくハウツーを教えてほしい」という人も多いかもしれません。
この本は、高岡氏の「身体意識」の理論をベースに、重要な7つの身体意識を鍛えるためのトレーニング方法が学べる、実践的な内容になっています。
テレビに登場するトップアスリートは、筋力や持久力において優れているだけではなく、優れた動きを生み出し、コントロールする「質的能力」においても優れていて、そのカギになるのが身体意識です。
高岡氏はこの本で、重要で基本的な身体意識として、センター、下丹田、中丹田、リバース、ベスト、裏転子、レーザーの7つを挙げ、それぞれの身体意識を鍛えることのメリット、具体的なトレーニング方法を紹介しています。
面白いのは、これらの身体意識を鍛えることが、運動能力の向上だけにとどまらず、精神的にもよい影響を与えるとしていることです。
例えば「センター」という身体意識を鍛えると、スッキリ立てるようになるとか、全身の各部分のバランスが良くなる、回転運動の軸ができるなど、身体・運動上の効果がある一方で、シャープな感覚、颯爽とした感じになる、小さなことが気にならなくなる、といった精神的な効果もあるというのです。
常識的には「身体」と「精神」は別物として分けて扱われ、トレーニングといえば筋力や持久力の向上といった身体的なものだけを対象とするのが普通ですが、身体意識の場合は両方につながりを持っているので、身体意識を鍛えることで双方によい影響を及ぼすのです。
この本で扱われている身体意識は基本的なものですが、高岡氏によれば、『意識のかたち』で紹介されている「ジンブレイド」など、さらに高度な身体意識もあります。これらを究めていけば、伝統的に言われている「達人」のレベルへ、さらにその先へと続いていくのかもしれません。
ちなみにこの本では、身体意識トレーニングの土台として「ゆる体操」も紹介されているので、「寝ゆる体操」、「立ちゆる体操」などの基本レパートリーも学ぶことができます。
高岡英夫著 『仕事力が倍増する“ゆる体操”超基本9メソッド』 の紹介記事
高岡英夫著 『意識のかたち―現代に甦る天才の秘密』 の紹介記事
本の評価基準
以下の基準を目安に、私の主観で判断しています。
★★★★★ 座右の書として、何度も読み返したい本です
★★★★☆ 一度は読んでおきたい、素晴らしい本です
★★★☆☆ 読むだけの価値はあります
★★☆☆☆ よかったら暇な時に読んでみてください
★☆☆☆☆ 人によっては得るところがあるかも?
☆☆☆☆☆ ここでは紹介しないことにします
おかげさまで10,000ページビュー
ページビューの数は、記事を書き続ける上での大きな励みになりました。ただ、JUGEM付属のカウンターは、同じ人が同じページを何度か見た場合、全てカウントされてしまう仕組みのようで、実際には10,000という数字もかなり割り引いて考える必要がありそうです。
そこで本日からページの左上に、二重カウントを防止した仕様のアクセスカウンターを設置してみることにしました。ただしこちらの方は、たぶん景気よく数字が増えていくようなわけにはいかないと思うので、小さな、薄い色のものを選んであまり目立たないようにしました……。
ちなみにその上の世界地図もアクセスカウンターの一種で、世界のどの地点からアクセスがあったかを地図上に表示するというものです。今のところ日本からのアクセスがほとんどですが、アメリカ大陸やタイなどからアクセスして下さった方もおられるようです。今後、世界の色々な場所からアクセスがあれば面白いな、と思っています。
今後とも、このブログをよろしくお願いいたします。