- このブログ内を検索
- 新しい記事
-
- このブログを読んでいただき、ありがとうございました (04/28)
- AIが生み出す異世界への旅 (03/21)
- まさかの戦争 (02/26)
- 「完璧な買い物」はもうできない (01/28)
- 「汚れハンター」の目 (12/25)
- 記事のカテゴリー
-
- このブログについて (1)
- 地上の旅〜旅全般 (68)
- 地上の旅〜中国 (11)
- 地上の旅〜東南アジア (62)
- 地上の旅〜チベット (6)
- 地上の旅〜インド・南アジア (19)
- 旅の名言〜旅について (32)
- 旅の名言〜旅の予感・旅立ち (14)
- 旅の名言〜衣食住と金 (14)
- 旅の名言〜土地の印象 (25)
- 旅の名言〜旅の理由 (10)
- 旅の名言〜旅の時間 (8)
- 旅の名言〜旅人 (27)
- 旅の名言〜危機と直感 (21)
- 旅の名言〜旅の終わり・帰還 (13)
- 旅の名言〜未分類 (1)
- 本の旅〜宇宙 (1)
- 本の旅〜世界各国 (58)
- 本の旅〜日本 (27)
- 本の旅〜中国・東アジア (3)
- 本の旅〜東南アジア (19)
- 本の旅〜チベット (4)
- 本の旅〜インド・南アジア (15)
- 本の旅〜ヨーロッパ・中東 (6)
- 本の旅〜アフリカ (5)
- 本の旅〜南北アメリカ (6)
- 本の旅〜旅の物語 (21)
- 本の旅〜魂の旅 (18)
- 本の旅〜共時性 (3)
- 本の旅〜身体技法 (5)
- 本の旅〜脳と意識 (3)
- 本の旅〜住まい (10)
- 本の旅〜人間と社会 (53)
- 本の旅〜ことばの世界 (9)
- 本の旅〜インターネット (9)
- 本の旅〜本と読書 (18)
- ネットの旅 (40)
- テレビの旅 (19)
- ニュースの旅 (55)
- つれづれの記 (70)
- 感謝 (36)
- おすすめの本 (1)
- アソシエイト (3)
- 過去の記事
-
- 2021年
- 2020年
- 2019年
- 2018年
- 2017年
- 2016年
- 2015年
- 2014年
- 2013年
- 2012年
- 2011年
- 2010年
- 2009年
- 2008年
- 2007年
- 2006年
- プロフィール
- コメント
-
- カトマンズの宝石店で
⇒ 浪人 (01/15) - カトマンズの宝石店で
⇒ kiokio (01/14) - 見るべきか、やめておくべきか
⇒ 浪人 (01/08) - 見るべきか、やめておくべきか
⇒ カール (01/08) - 『日本型システムの終焉 ― 自分自身を生きるために』
⇒ 浪人 (11/28) - 『日本型システムの終焉 ― 自分自身を生きるために』
⇒ maruyama834 (11/28) - 牢名主(ろうなぬし)現象
⇒ 浪人 (04/24) - 牢名主(ろうなぬし)現象
⇒ 門大寺 (04/24) - ワット・プートークで冷や汗
⇒ 浪人 (02/17) - ワット・プートークで冷や汗
⇒ sanetoki (02/16)
- カトマンズの宝石店で
- トラックバック
-
- 本と便意の微妙な関係
⇒ 【豆β】ニュース速報+ (05/01) - 『西南シルクロードは密林に消える』
⇒ 障害報告@webry (06/08) - バックパッカーは「時代錯誤」?
⇒ 威厳汁 (07/02) - 『アジアの弟子』
⇒ 貧乏旅行情報 (02/22) - 「フランダースの犬」に共感するのは日本人だけ?
⇒ ゆげやかんの魂100℃〜魂燃ゆる!ニュース&バラエティーブログ〜 (12/26) - インドにもついにスーパーマーケットが……
⇒ 専門家や海外ジャーナリストのブログネットワーク【MediaSabor メディアサボール 】 (11/08) - 『なにも願わない手を合わせる』
⇒ まことの部屋 (10/30) - 『なにも願わない手を合わせる』
⇒ りこのblog (10/30) - 『心と脳の正体に迫る』
⇒ 心理学ってすごい? (10/01) - 『日本の聖地 ― 日本宗教とは何か』
⇒ 宗教がいいと思う (09/28)
- 本と便意の微妙な関係
- sponsored links
身近なニュースをささやかに語る人々
記事の長さは、ただ一言かもしれないし、数行かもしれないし、何百行もの長さかもしれません。テーマも、天下国家を論じるものや、専門分野に関する話題、身近な人々の近況や自分自身の内面を語るものまで、言葉で表現できるあらゆるジャンルにわたっているはずです。
そんな記事が、毎秒ごとに世界中で量産され、ネット世界にどんどん書き加えられていること、それらが基本的に誰でも読めるようになっていると考えるだけで、世界中で何か途方もない変化が起こっているように思えてきます。
しかし考えてみれば、今まで新聞やテレビなどの大手メディアが扱っていた情報は、取材の手間や費用を考えれば、個人が簡単に集めてこられるようなものではありません。世界全体や国レベルのニュースということになると、それなりにきちんとした情報収集の組織を持っていないと、正確な情報を集めることは難しいでしょう。
そして、そうである以上、大手メディアの役割は今後も大きく、その地位がそう簡単に揺らぐことはないと思います。
大手メディア以外の、ほとんどのブログ作者が書けるのは、ニュースに対し個人的なコメントを加える二次的な記事や、自分が詳しい専門分野の話、身近なコミュニティの出来事や、自分の心の中など、非常にローカルでマイナーな内容です。
今この瞬間に、そういうローカルな場所で起きていることを記事にするという意味では、これらもすべて、一種のニュースには違いないのでしょうが、内容がマイナー、というよりほとんどプライベートすぎるので、多くの人の関心を集めることはないでしょう。
もちろん、一部のタレントや人気ブロガーのブログが注目を集めることはあるでしょうが、残りの9割9分以上は、メジャーな世界に知られることもなく、ほとんど「水面下」で、プライベートな記事を発信し続けることになるのです。
そんなブログが何十万、何百万とあるのだと考えると、人類全体という視点からすれば、何とも無駄なことをしているように見えてしまうのですが、ミクロな視点で見れば、それぞれの「零細ブログ」は、その小さなコミュニティにとっては重要な情報を発信しているのであり、それは大手メディアの情報では置き換えられないものです。
それは「家族新聞」や「町内会報」のようなものです。外部の人には、他愛なくて読むに値しないように見えるかもしれませんが、当事者にとっては大きな意味と感動があるし、身近な他者とのコミュニケーション手段として重要な役割を果たしているのです。
そうしたブログを運営している人は、すべてが「全国区」の人気を得たいと思っているわけではないでしょう。ほとんどの人は、ささやかな自己表現が届く範囲の、身近な人に伝わればそれでいいと考えているはずです。
ネット世界では、不特定多数に向けた情報発信が簡単にできるという建前ですが、発信された情報を見たい人がいなければ、その情報は存在しないのと同じです。非常にマイナーなブログでも、地球の裏側からアクセス可能だし、実際そういうケースも皆無ではないでしょうが、ほとんどの場合、実際にアクセスしてくるのは身近な少数の人だけであり、建前はともかく、そうしたブログは実質的に、その小さなコミュニティの中でしか見えない存在といえるのかもしれません。
そういう意味では、同じブログのシステムを使っていても、メジャー級のブログとマイナーなブログでは、果たしている役割が全く違うということになります。そして、そういうレベルの違うものが、同じ土俵というか、同じ形式で同居しているというのが、ネット世界の面白いところなのかもしれません。
そして私も、そのマイナーなブログを運営する一人です。
ひと昔前なら、趣味で個人的な文章を発表しようとしたら、何の利益にもならない割りにとんでもないお金がかかったはずですが、今は少なくとも、情報の発信だけは無料でできる世の中になりました。
このブログも、とりあえず今のところは、無料という魅力と、記事を書いて公開するという体験の新鮮さのようなものが動機になって、なんとか続いています。
こうして世界中の何十万という人々と共に、「水面下」でささやくような作業を続けることは、果たして、何か新しいものをみんなで生み出すことになるのか、それともやっぱりこれは、水底からブクブクと湧いてくる泡のように虚しい試みにすぎないのか、もう少し時間が経てば、ブログというものの未来が見えてくるのかもしれません。
犬が恐い!
ラサやシガツェなどの都会ならともかく、辺境の村で病気になったとしても、ちゃんとした医者や医療設備を期待することはできません。病気やケガで動けなくなったりしたら、本当に悲惨なことになるでしょう。
また、標高5000メートル以上ある峠をいくつも越えていかなければならないのですが、たとえ高山病の症状が出ても、充分な設備がないので、酸素ボンベや薬によって症状を和らげることもできません。
以前このブログに、「香港で注射器を探した話」という記事を書きましたが、そういう変な努力をしたのも、何でもいいから、こちらで可能な備えをしておくことで、旅の不安を少しでも減らしたい、という切実な思いがあったからです。もっとも注射器をいくら用意していても、医者も薬もない環境ではどうすることもできないのですが……。
話を戻します。
旅の病気に関しては、薬を用意するなど可能な限りの備えをし、歯医者に行って虫歯も治して、後は日々の体調管理をするくらいしかできませんが、そこまでやっておけば、「何か起きてもその時はその時だ!」と開き直ることもできるでしょう。
問題は突発的な事故です。交通事故やがけ崩れ、場合によっては強盗に襲われることもあるかもしれませんが、確率的には非常に低いし、そんなことをいちいち心配するくらいなら、旅に出ること自体不可能です。
それよりもはるかに確率が高そうで、日常的な危険として、私がいちばん恐れていたのは「犬に噛みつかれる」ことでした。
ご存知の方も多いかもしれませんが、辺境のチベット人は遊牧民です。ヤクなどの群れを率いてあちこちを放牧する生活を送っているのですが、番犬として非常に獰猛な犬を飼っています。トレッキングで歩いている時など、遊牧民のキャンプを横切らなければならないことがあるのですが、番犬は、遠くから人間が近づいてくるのを目ざとく見つけると、狂ったように吠え立てながらこちらに走ってくるのです。
こちらには悪気など全くないのに、今にも喰いつかんばかりの激しさです。そんな時、私は足がすくんでしまい、キャンプのテントから主人が出てきて犬をなだめてくれるまで、そこから一歩も動けないのでした。
遊牧民のキャンプばかりではありません。寺や民家でも獰猛な番犬を飼っていることが多いので、うかつに建物に近づいたりしてウロウロするのは危険です。また、チベットでは、巡礼者が寺の周囲を時計回りに周回する(コルラする)習慣があるのですが、彼らにならって私もコルラしていると、巡礼者のくれるエサを目当てに、飢えた野犬がゾロゾロと集まってくるのです。
チベット人は犬に慣れているので、全く気にする様子もなく、ツァンパ(大麦を炒った粉、チベット人の主食)を所々に供えながら足早にコルラを続けます。しかし、私はいつも犬の動きが気になって、巡礼気分に浸ることもできません。見るからに挙動の怪しい犬を見かけたりすると、噛まれたら間違いなく狂犬病になりそうな気がして、「どうか私にだけは噛みつきませんように!」と思わず必死に祈ってしまうのでした。
これを読まれる方は、私のことをずいぶん臆病だと笑われるかもしれませんが、私が旅行していた当時、チベットで犬に噛まれたという日本人旅行者に2人も会ったのです。それほど沢山の日本人に会ったわけでもないので、これはかなりの確率だと思います。
1人は、チベットの旅を終えて、シルクロードを旅している最中でしたが、狂犬病のワクチンを何本も持ち歩いていました。何日かおきに、旅先で医者を見つけて、ワクチンを一本ずつ打ってもらわなければならないんだと言っていました。
彼の場合は、噛まれた場所が都会に近かったので、すぐに医者に行ってワクチンをもらえたのですが、それができない辺境だったらと思うと、なかなか恐ろしいものがあります。もちろん、犬に噛まれても、狂犬病でなければ、致命傷になる可能性は低いのですが。
それに、先日の記事「チベットのトイレ事情」に書いたように、犬たちがふだん喰っているもののことを思うと、あの口でガブリとやられるのだけは勘弁願いたいと思うのです……。
しかし、そんな思いをしてでも、チベットは旅するだけの価値があります。その魅力について、私にはひと言でうまく表現できる自信がありません。チベットに興味を持たれた方は、長田幸康氏のウェブサイト「I Love TIBET!」をご覧ください。
『アルケミスト―夢を旅した少年』
アルケミスト―夢を旅した少年
パウロ コエーリョ, Paulo Coelho, 山川 紘矢, 山川 亜希子
Kindle版はこちら
評価 ★★★☆☆ 読むだけの価値はあります
この本は、何年か前に旅先で読みました。その時はストーリーを追うようにして、軽く読み流してしまったのですが、その後何人ものバックパッカーからこの本のことを聞きました。旅人の間ではけっこう人気があるのかもしれません。
今回改めて読んでみて、初めて読むような新鮮な感動がありました。非常にシンプルな言葉使いで、ファンタジー風の展開なので、一見子供向けの作品のようにも見えてしまうのですが、背景に織り込まれた思想や個々のセリフには、なかなか味わい深いものがあって、じっくりと楽しめました。
この本は、スペイン南部と北アフリカを舞台に、自分の見た夢を信じた羊飼いの少年が、夢に現れた自分の運命を実現するために、数々の試練を乗り越え、人生について学びながら旅を続けるという物語です。ネタバレになるので、これ以上ストーリーに触れるのは避けますが、錬金術師(アルケミスト)という存在が、物語のテーマに深く関わってきます。
私は錬金術には詳しくないので、はっきりしたことは言えないのですが、この本における錬金術の思想は、著者のコエーリョ氏によるかなり独自の解釈だと思います。また、日本人にとっては、錬金術に限らずキリスト教にもなじみがないと思うので、欧米人にとってはスッキリと理解できるようなセリフでも、日本人が読むとやや違和感を感じるところがあるかもしれません。
著者の意図はともかく、この本が売れているのは、主にキリスト教文化圏のようです。ただ、この本は、いわゆる伝統的宗教の発想で書かれているわけではなく、「砂漠の錬金術師」というユニークなキャラクターを使っていることからも明らかなように、キリスト教文化圏とイスラム文化圏に共通して存在する、人生についての、古くからの普遍的な知恵のようなものを描き出そうとしているように思います。
それに加えて、最近の「成功哲学」やニューエイジ的な発想・表現もまじっているようです。そのため物語全体が、昔話のようでもあり、妙に現代的でもある、不思議な雰囲気をかもしだしています。
いわゆる「自己啓発もの」や「精神世界もの」になじみのない人にとっては、やや説教臭く感じられるかもしれません。そういう意味では、どういう読者がどういうタイミングで読むかによって、評価が分かれる本だと思います。
こういう宗教ファンタジーっぽいのはどうも……という人でも、日常を離れ、旅先で読んだりすれば、心にしみてくるものがあるかもしれません。
余談ですが、日本の昔話に、この物語と瓜二つの話があります。海外にも似たような民話があるのでしょうか? 興味のある方は岩波文庫の『日本の昔ばなし』シリーズで探してみてください。
本の評価基準
以下の基準を目安に、私の主観で判断しています。
★★★★★ 座右の書として、何度も読み返したい本です
★★★★☆ 一度は読んでおきたい、素晴らしい本です
★★★☆☆ 読むだけの価値はあります
★★☆☆☆ よかったら暇な時に読んでみてください
★☆☆☆☆ 人によっては得るところがあるかも?
☆☆☆☆☆ ここでは紹介しないことにします
旅の名言 「一生を賭けるに値する……」
彼らは出てゆく人々であり、行った先について本を書く人々であり、それを喜んで読む人々である。世界は彼らにとってちょうどよい広さと複雑さ、文化の多様性、適量の謎などを含んでいて、これは一国民が数世紀に亘る探求遊びを続けて飽きないほどのものだった。それに熱中することは彼らに莫大な利をもたらしたが、今では純粋の遊びに近いものになっている。それが一生を賭けるに値する遊びであることを知る者が、今日もまた荷物を背負って国から出てゆく。
『明るい旅情』 池澤 夏樹 新潮文庫 より
この本の紹介記事
これは、作家の池澤夏樹氏が、「旅」という切り口でイギリス人について語ったエッセイの一節です。文中の「彼ら」とはイギリス人のことです。
かつて、島国イギリスの人々にとって、海外に出ることは冒険であると同時に、非常に実利的な行動でもありました。素朴な船で海を越えていくしかなかった頃、旅は常に死の危険を伴いましたが、それが未知への探険だったにせよ、貿易や植民地支配、あるいは海賊行為だったにせよ、成功したときの見返りも大きかったのです。
富に浮かれた数百年の時を経て、今は旅そのものに莫大な利益を求められる時代ではなくなっています。しかしある意味では、そのおかげで、旅を純粋な遊びとして楽しめるようになったといえるのかもしれません。
池澤氏の文章は、そうした歴史を踏まえつつ、数世紀にわたって旅人として探求を続けてきたイギリス人の一面を簡潔にとらえていて、非常に味わい深いものがあります。
旅がほとんど遊びとなった以上、毎日の商売や仕事に忙しい人々にとっては、産業としての旅行業以外に関心が向かうことはないでしょう。これはイギリス人に限ったことではありませんが、旅が「一生を賭けるに値する遊びであることを知る者」だけが、探求の喜びを求めて国を出ていくのです。
もちろんこれは言葉の綾であって、実際には仕事で海外を旅する人は大勢いるだろうし、ツアー客やバックパッカーの全てがこんな高尚な動機で海外を目指すわけでもないでしょう。
しかし、私も旅人の端くれとして、たまにはどこかでグラスを傾けながら、「旅は俺の一生を賭けた遊びだ」などというセリフを、カッコよく決めてみたいものです……。
「ええじゃないか」のプチ・ブーム?
幕末に起きた謎の民衆騒動「ええじゃないか」。その発祥地とされる愛知県豊橋市の市民らが21日、豊橋まつりで「ええじゃないか」と叫び、踊り出した。時代の転換期に地元から全国に広がったという動きを、140年後の地域おこしの起爆剤にするのが狙いだ。景気が回復基調へ転じた今、遊園地では、「ええじゃないか」という名のジェットコースターが人気を呼ぶ。大衆演劇スターはCD「ええじゃないか」を売り出し、「今の世の中、何とかせい」と叫ぶ。この動き、果たして時代の変わり目の予兆なのか、単なるプチ・ブームなのか。 (中略)
「ええじゃないか」を研究する愛知大学経済学部の渡辺和敏教授は「ええじゃないかの前年は凶作だったが、豊作への兆しが見えた時に始まり、実際に豊作になった。景気が上昇気流になった転換期に起こり、大勢で一気に盛り上がるという点で、現代と共通しているのではないか」と話している。
(2006年10月22日 朝日新聞)
記事では、この他に豊橋出身の松平健氏による豊橋限定曲「マツケンのええじゃないか」の発売や、宗田理氏の小説『ええじゃないか 17歳のチャレンジ』、富士急ハイランドの新型ジェットコースター「ええじゃないか」、大衆演劇の松井誠氏が発売したCD「ええじゃないか」を「ええじゃないか現象」の例として挙げています。
一読する限りでは、日本のあちこちが「ええじゃないか!」で盛り上がっているような気もするのですが、果たしてどうなのでしょう?
まず、豊橋まつりの「ええじゃないか」自体が、市による町おこしの一環、つまり官による事業であるところからして、幕末とは明らかに異なっています。記事には、「明日に夢を求める民衆のエネルギーを紡ぎだし、市の活力にしたい」という市の観光課のコメントが載っていますが、幕末の現象は、観光課のスケジュール通りに進行する整然とした踊りからは程遠く、ほとんどコントロール不能な、もっと毒々しく荒々しいものだったのではないでしょうか。
以前にこのブログでも『「おかげまいり」と「ええじゃないか」』という本を紹介しましたが、それを読む限りでは、「おかげまいり(江戸時代に起こった、自然発生的な伊勢神宮への集団的巡礼運動)」にせよ「ええじゃないか」にせよ、そうした民衆の運動は自然発生的なもので、運動を企画したり指導するような人物はいなかったようです。
幕末の「ええじゃないか」の場合は、世の中を混乱させるために、勤皇の志士らが神社のお札をまいて、わざと引き起こしたのだとする説もあります(ウィキペディアによる)が、仮にそうだったとしても、そうしたきっかけですぐに火がつくだけの社会的な不安と緊張が高まっていたために、日本各地に燃え広がるように運動が波及したのでしょう。
話を現代に戻して、今そこまでの緊張が日本社会にみなぎっているかといえば、あくまでも私個人の見解ですが、それほどでもないと思います。確かに国内では社会システムの機能不全現象がみられたり、地球規模でも環境の悪化や、政治的な緊張が高まるような状況もありますが、あまりの不安に耐えかねて、日本人があちこちで「ええじゃないか!」と踊り狂うほどのレベルではないように思います。
豊橋の町おこしにしても、歌や遊園地の「ええじゃないか」にしても、担当者が祭りの高揚感のようなものをイメージして、ちょっと刺激的なネーミングを借りてきたというところがせいぜいで、実際に大群衆が踊り狂うような、激烈な現象を起こそうなどと意図しているわけがありません。
むしろ、その「ハイ」なエネルギーを「消費者」から多少なりとも引き出して、うまくコントロールした上で、経済的な利益に結びつけたいという企画者側の意図が感じられます。
そうだとすると、これは「時代の変わり目の予兆」などでは全然なく、いつも通りのセールス・プロモーションだということになります。現在の「ええじゃないか現象」に共感し、時代の変化を信じて踊りの輪に加わる人は、経済的なブームを支えることで、まさに流行に「躍らされる」ことになりそうな気がします。
かなり嫌味なことを書いてしまいました。
私個人としては、江戸時代の「おかげまいり」や「ええじゃないか」に当たるような自然発生的な運動が、仮に現代において起きるとしても、江戸時代そのままのレトロな形ではないだろうと思うし、全く新しい形で、日本という狭い境界も越えて、地球全体を舞台に起きるような気がします。
そしてそれは、皆が我を忘れて躍り狂うようなものよりは、もっとおだやかにゆっくりと進んでいくような気がするのです。
もちろんこれはあくまでも私の想像で、何の根拠もありません。そうであってほしいという期待も多分に混じっていることでしょう。
そもそも現代の世界全体がめまぐるしいスピードで変化している以上、予兆どころか時代の変化そのものが、絶えずあちこちに現れているはずです。実のところ、それがあまりにも多すぎて、私も含めて皆、何がなんだか分からず、途方に暮れているのではないでしょうか。何が起きているのか少しでも理解しようと、幕末のエピソードを引っぱり出しては、いろいろ当てはめてみたりするものの、ますます混乱しているだけなのかもしれません……。
『龍と蛇(ナーガ)―権威の象徴と豊かな水の神』
龍と蛇(ナーガ)―権威の象徴と豊かな水の神
那谷 敏郎, 大村 次郷
評価 ★★☆☆☆ よかったら暇な時に読んでみてください
これはなかなか異色の写真集です。
中国から東南アジアを経てインドにいたるまで、各国の多彩な民族文化の底流には、水の神としての蛇という共通したモチーフがあります。中国文化圏ではそこから竜(龍)のイメージが派生し、インドのドラヴィダ系文化圏ではナーガ(蛇神)となったと考えられているのですが、それらは国境や文化を越えて大きく広がり、両者が重なり合っているところもあります。
中国の皇帝の権威を象徴する故宮の龍の文様、香港やラオスにおける竜船競漕、ロケット花火の黒煙を昇竜に見立てたラオスの雨乞いの儀礼、ナーガのイメージに埋め尽くされたアンコールの遺跡群、ナーガの首飾りをつけたネパールの生神クマリなど、大村次郷氏による美しい写真と、那谷敏郎氏の簡潔な解説によって、各地のカラフルな民族文化が紹介されています。
この一冊で、インド以東のアジア全域の「蛇文化」を俯瞰することができます。そしてそこに、この地域に共通する「水と蛇」というモチーフが、くっきりと浮かび上がってくるのです。
巻末では、インド以西の中近東からヨーロッパ、また新大陸や日本において、竜と蛇のイメージが神話や物語にどのように表れているかが概観されていて、こちらも非常に参考になります。
有名なところでは、旧約聖書の楽園の奸悪な蛇や悪竜レヴィアタン、新約聖書の黙示録に登場する竜、ギリシャ神話では、凶悪なテュポン竜、頭髪がすべて蛇のメドゥーサ、自分の口で尾をくわえ円環となるラドン蛇(ウロボロス)、ゲルマン人には「ジークフリートの悪竜退治」の物語などがあり、西欧では全般的に竜・蛇に関してのネガティブなイメージが多いのですが、ギリシャ神ヘルメスの杖に巻きつく蛇が「素早さ」や「知恵」を象徴するようなケースもあります。
また新大陸でも、アステカの翼蛇神ケツァルコアトルをはじめ、神々の体系の中に多くの蛇が表れてきます。そして日本においても、神話中のヤマタノオロチをはじめ、蛇のイメージには事欠きません。有名な能楽の「道成寺」でも、僧侶に調伏される鬼女は蛇体をしています。
本文とこの巻末の解説を合わせると、世界各地の民族文化に表れた蛇のイメージをひととおり網羅していることになり、「世界の蛇文化」を一望するのに大変便利です。
私は非常に興味深く読んだのですが、一般的には「アジアにおける蛇」というテーマに興味を持つ人はあまりいないと思うので、かなり地味でマニアックな趣向の本だと思います。これは大村次郷氏の写真による「アジアをゆく」というシリーズ中の一冊で、美しい写真と丁寧なつくりの本なので、この分野に関心のある人にはおすすめしたいと思います。
本の評価基準
以下の基準を目安に、私の主観で判断しています。
★★★★★ 座右の書として、何度も読み返したい本です
★★★★☆ 一度は読んでおきたい、素晴らしい本です
★★★☆☆ 読むだけの価値はあります
★★☆☆☆ よかったら暇な時に読んでみてください
★☆☆☆☆ 人によっては得るところがあるかも?
☆☆☆☆☆ ここでは紹介しないことにします
旅の名言 「金がないなどと……」
私は旅に出て以来、ことあるごとに「金がない」と言いつづけてきたような気がする。だが、私には少なくとも千数百ドルの現金があった。これから先の長い旅を思えば大した金ではないが、この国の普通の人々にとっては大金というに値する額であるかもしれない。私は決して「金がない」などと大見得を切れる筋合いの者ではなかったのだ。
『深夜特急〈2〉マレー半島・シンガポール』 沢木 耕太郎 新潮文庫 より
この本の紹介記事
これはバックパッカー旅行記の名作『深夜特急』の、タイでのエピソードです。いわゆる開発途上国を旅する人なら誰もが直面するジレンマを直截に表現しています。
『深夜特急』の旅は1970年代のことで、沢木氏の旅の資金である千数百ドルを現在の価値に直せばけっこうな金額になるでしょう。それでも彼が計画していた長い旅の期間や、最終的にヨーロッパの旅でかなりの金を使うことを考えれば、アジアの旅では支出をできるかぎり切り詰める必要がありました。
旅人の立場からすれば、宿代と貧しい食事に充てるだけで精一杯です。余計な遊びに金を使う余裕など一切ないわけで、その意味で自らに対して「金がない」というのは正しいのです。
しかし、現地の人からすれば、バックパッカーというのは仕事もしないで好きなことをして暮らしていて、ぜいたくにも飛行機に乗ってやってきて、毎日ブラブラと遊んでいる「金持ち」にしか見えないかもしれません。
しかも、これはバックパッカーに共通していえることでしょうが、彼らの姿を先入観なしに観察したとしても、若くて人生経験もあまりなさそうで、旅のはっきりした目的があるようにも感じられない、何とも宙ぶらりんな雰囲気を漂わせているように見えるはずです。
要するに「いい若いもんが、何にもしないでブラブラしている」ようにしか見えないかもしれないのです。、現地の、特に同世代の若い人が、先進国の「お坊ちゃま」「お嬢ちゃま」に対して反感を抱くかもしれないとは容易に想像できるし、私も現地の人から、もしも面と向かってこのような非難をされたら、どう答えていいか、言葉に詰まってしまうのではないかと思います。
理屈の上で、いわゆる南北問題を持ち出したり、国際経済の用語を並べ立てたりしても、目の前に存在する厳然たる富の格差は何も解決しないし、いくら言葉で説明しても、自分の立場を正当化できるようには到底思えないのです。
自分としては自らを金持ちだと思ってもいないし、ケチケチとした毎日を送っているのに、周りからは金持ちに思われてしまう、そして場合によっては、金持ちらしい豪勢なふるまいを期待されてしまう、という状況はつらいものです。
しかし、言うまでもないことですが、開発途上国を旅するにあたって、為替レートの関係で安く旅ができるということは、旅の魅力の一つです。むしろこれが旅の一番の動機になっているかもしれません。そういうことを充分に承知した上で旅の予算を組んでいる以上、我々は経済格差を利用しているのであって、この問題に対しては確信犯的なところがあるのです。
いくら旅先でケチケチしてみても、現地の人から、しょせんは「金持ちの貧乏ごっこ」にすぎないと言われたら、私には返す言葉がありません。
この問題に対して、私にはこれといった解決は思いつきませんが、かといって、非難を恐れて旅を自粛しようとも思いません。私としては、沢木氏の言うように、金がないなどと大見得を切れる筋合いの者ではないことを自覚し、ジレンマを抱えながら旅を続けることしかできないように思います。
皆様は、いかがお考えでしょうか?
『深夜特急』の名言
「検索」が変える行動パターン
それでもインターネットが普及する前、1980年代の頃までなら、同じことをリアル世界の図書館や本屋まで足を運んでやらなければならず、さらなる時間と手間が必要でした。しかもリアル世界の場合、図書館や本屋の規模によって、物理的に手に入れられる資料は限られており、手間をかけたにもかかわらず、全てが徒労に終わる可能性もあったのです。
まるで宝探しみたいな話です。学者やモノ書きの人など、情報を探すプロならともかく、情報探しは、一般の人にとっては面倒でとても敷居の高い世界だったのです。
資料探しの訓練をある程度積んだ人や、職務としてかなりの時間をその活動に充てられる人を別にすれば、自分の欲しい情報を手に入れる手段は、知り合い同士のクチコミや、TVや新聞・雑誌の情報を受け身で取り入れるくらいでした。
それが今、検索エンジンの登場によって、状況が飛躍的に変わろうとしています。
例えば、TVで美しい南の島の映像が流れていて、「きれいなところだな、どういう島なんだろう、自分でも行くことができるのかな?」とフト思ったとします。
以前なら、まずは家にある簡単な地図帳で、どこの国の島なのか、その位置を調べたり、図書館や本屋で百科事典やガイドブックを調べたりして、もっと詳しい情報を得ようとしたでしょう。
しかし、家に地図帳がなかったり、島が小さすぎて地図に載っていなかったりすれば、途端に調べるのが面倒になるし、図書館などに調べに出かけるとなると、さらなる時間と労力がかかります。それに、そこまで手間をかけても、結局何もわからず、すべてが徒労に終わるかもしれません。
かくして普通の人は、フト何かを思いついても、それについて調べるのは面倒なので、よほど心が動かない限り、その思いをそのままスルーしてしまい、次の行動に移ることなく終わっていたのではないでしょうか。
そして、そうである限り、南の島に行くといえば、ハワイとかバリ島とかグアムとか、誰でも知っていて無難なところに落ち着いてしまうかもしれないし、せっかくのひらめきや個人的な思いが、生かされることなく消えてしまっていたかもしれません。
その点、検索エンジンのすごさは、家にオンラインのパソコンさえあれば、フト思いついたことを入力してみるだけで、それなりの反応が即座に返ってくるということです。
例えば、南の島の例でいえば、島の名前さえ知っていれば、一瞬のうちに検索結果がズラリと表示されるので、そこから自分の欲しい情報をさらに探していくことができます。
それに、島の名前を半分忘れてしまったりしても、知っている一部の情報をいくつか入力すれば、その島の情報にたどり着ける可能性が高いのです。これは実にすごいことです。
フト何かを思いついたとき、パソコンの電源が入っていれば、その人に必要とされるのは検索エンジンに何かひとこと入力するだけです。欲しい情報を求めて行動を起こすのは、実に主体的な行為なのですが、その最初の一歩は、キーボードからほんのひとこと入力する手間だけなのです。
もちろん、表示された検索結果を見て、次にどのサイトを見るべきか判断したり、検索結果によってはキーワードを追加して、結果をさらに絞りこむ必要もあるでしょう。サイトから情報を手に入れた後、さらに詳しく本やガイドブックで調べる必要が出てくるかもしれません。
しかし重要なのは、フト何かを思いついてから、最初の行動を起こすまでの敷居がものすごく低くなったということなのです。
検索エンジンを使って調べた結果、その思いつきは、たいして魅力的でないことが分かるかもしれません。先の例で言えば、検索エンジンからいくつかのウェブサイトをたどり、ある島の情報をざっと調べてみたら、島の風景や観光施設、旅行者の評判などがあまりパッとせず、どうもわざわざ行くほどでもなさそうだな、と感じるかもしれません。
しかし以前なら、面倒くさいのできちんと調べず、その島のことが頭の隅にひっかかったまま、無駄に何日も宙ぶらりんの状態で放置していたかもしれないのです。その島に行く必要はなさそうだ、という結論がすぐ出れば、別のアイデアに気持ちを切り換え、集中することができます。これは、見通しも情報もないまま、中途半端に待たされないで済むということでもあるのです。
こうして各個人が、それぞれの心に浮かぶちょっとしたアイデアを逃すことなく、検索エンジンを使って気軽にネット世界から情報を集め、面白そうなアイデアを絞り込んだうえで、リアル世界でのさらなる行動に移るというふうになっていけば、以前よりもずっと高い確率で、それぞれの趣味や嗜好に合った情報、モノやサービスに出会うことが可能になるでしょう。
そして、それが生活のあらゆる側面に広がっていくことで、生活と行動のパターンは大きく変化していくはずです。
しかしもちろん、物事には光と影の両面があるものです。検索エンジンを通じてあらゆる情報源にアクセスできるようになったということは、気軽な気持ちでアクセスしたウェブサイトを通じて、この世の闇の部分にも簡単につながる可能性がある、ということでもあります。世の中には、これが恐ろしくて、ネット世界へ足を踏み入れるのをためらう人もいるでしょう。
それに、昔のように、ちょっとした情報を手に入れるのに四苦八苦していた時代は、それはそれで宝探しのような楽しみや、果報をひたすら待つことの楽しみもあったかもしれません。
全ての情報とはいえないまでも、ネット世界を通じて、それなりの情報が一瞬のうちに手に入ってしまうということは、ある意味ではそうしたなつかしい楽しみを失うことなのかもしれません……。
『雪豹』
雪豹
ピーター マシーセン, Peter Matthiessen, 芹沢 高志
評価 ★★☆☆☆ よかったら暇な時に読んでみてください
数年前、私がカトマンズに滞在していた頃、タメル地区の本屋の店頭には、この本の原書“THE SNOW LEOPARD”がズラッと並べられていたものです。欧米のトレッカーや旅行者の間ではかなりの人気作品なのでしょう。それから何となく気になっていたのですが、今回ようやく読むことができました。
1973年の9月、著者のマシーセン氏は動物学者のジョージ・シャラー氏とヒマラヤアオヒツジの生態を調査するため、ネパール西部の秘境、ドルポ地方に向かいました。彼らには、「大型のネコ科のなかでももっとも希少で、もっとも美しい」、神秘に包まれた動物である雪豹を一目見たいという動機もありました。
ネパールの秘境といえば、NHKの「やらせ事件」で有名になったムスタンを思い浮かべますが、ドルポはそのさらに西に位置します。2人は、シェルパ数名と多数のポーターからなるキャラバンを組んで、ポカラから徒歩でヒマラヤ山脈を越え、チベット高原の聖地、クリスタル・マウンテンを目指します。
途中、一行は、断崖に細々と続く危険な悪路や、苦しい峠越えはもちろんのこと、モンスーンの雨やポーターの確保という問題にも振り回されます。
本文は旅日誌のスタイルで書かれており、数々の障害に悩まされながらも、彼らが一日一日着実に、じりじりと目的地に近づいていく様子が克明に描かれています。同時に、マシーセン氏自身の長年にわたるスピリチュアルな探求と妻の死について語られ、この旅が彼にとって、動物の生態調査にとどまらない、いわば巡礼の旅とも呼ぶべきものであることが、少しずつ明らかになっていきます。
クリスタル・マウンテンで2人が雪豹を見ることができたのか、ここではあえて書かないでおきます。しかし、マシーセン氏にとってもっと重要だったのは、この困難な旅のさなかに出会った不思議な人々でした。その深い意味は、2カ月にわたる旅も終わり近くなってようやく明らかになり、最後は不思議な余韻を残して終わっています。
希少な野生動物の生態記や、秘境の探険記のようなものを期待して読むと、期待はずれに終わるかもしれません。この旅の本質は「巡礼」であり、いわゆるニューエイジや宗教に関する記述にあふれているので、その方面に興味のある人でないと、この本を読み通すのは苦しいでしょうし、微妙な形で示される最後の「オチ」も味わえないかもしれません。
一方で、いわゆるスピリチュアルな方面に関心のある人にとっても、本文を読んでいると、ところどころ首をかしげるような箇所が見受けられるかもしれません。これについては、この本がいわゆる宗教の専門書ではなく、魂の旅を続けるひとりの人間による内面の記録であり、ある時点における個人的な理解や内面の葛藤を、正直につづったものだと解釈するべきだと思います。
30年前の1970年代という時代を考えると、チベット仏教や禅について、きちんとした形で語られること自体がまれであり、現在のように文献による知識や「修行」の機会にも恵まれていなかったことを思えば、マシーセン氏が当時、このような構成の著作を世に問うたこと自体が、冒険的試みだったはずです。そういう意味で、この作品は70年代当時の記念碑的な著作といえるでしょう。
ヒマラヤの風景の具体的で細密な描写は、読んでいると目の前にその光景が広がってくるようです。ドルポ、ヒマラヤに対する、著者の深い思いが感じられる作品です。
本の評価基準
以下の基準を目安に、私の主観で判断しています。
★★★★★ 座右の書として、何度も読み返したい本です
★★★★☆ 一度は読んでおきたい、素晴らしい本です
★★★☆☆ 読むだけの価値はあります
★★☆☆☆ よかったら暇な時に読んでみてください
★☆☆☆☆ 人によっては得るところがあるかも?
☆☆☆☆☆ ここでは紹介しないことにします
チベットのトイレ事情
私が学生時代に読んだ旅行記では、中国政府の許可を得て学術調査隊などの大キャラバンに参加しなければ、足を踏み入れることもかなわない神秘の世界という扱いでした。ラサのポタラ宮の描写などを読みながら、私がこんな秘境を訪れることは一生ないだろうな、と漠然と考えていたことを思い出します。
それからしばらくして、中国の西蔵自治区は外国人旅行者に解放され、一定の条件つきではありますが、バックパッカーが自由に旅することも可能になりました。今ではチベットを個人で旅するための詳細なガイドブックが日本語で出版されるまでになっています。
数年前、旅先で会った日本人からチベットの話を聞いているうちに私も行ってみたくなり、香港で半年のビザを取ってチベットを目指しました。その旅についてはいずれ書く機会もあると思いますが、今回はチベットのトイレ事情についてだけ書いてみることにします。
ただし、チベットといっても、私が旅したのは青海省などのチベット文化圏や西蔵自治区のごく一部です。トイレ事情と一口に言っても、町や村の大きさや環境によってトイレの状態は劇的に変わるので、以下はあくまでも私の経験の範囲内での話です。
また、ラサやシガツェのような都会になると、外国人が宿泊できるホテルのシステムなどは、中国の他の地方と基本的には同じなので、そういう場所のトイレについては、以前に書いた記事「中国のトイレ事情」から想像してみてください。
大きな町を離れ、地方を旅していると、トイレの設備はだんだんと粗末になっていきます。それなりの大きさの町ならば、招待所のビルの中に中国式トイレがあるのがふつうですが、私が泊まった西チベットのある町では、宿のビルの中にシャワーはおろかトイレさえなく、道路を渡った反対側にある公衆トイレを使うように言われました。
その公衆トイレは、地面に掘った穴の上に、中国式の低い仕切りが並んでいるだけというシロモノでしたが、屋根がついており、足場もコンクリートでしっかり固めてあるので、一応安心して用を足すことができます。ただし、夜になると電灯の類いは一切なく、月明りも入ってこないので真っ暗闇になります。
夜中にそんなトイレに行きたくはないのですが、止むを得ず行かねばならないこともあります。そんな時は懐中電灯を用意して足元を照らし、懐中電灯を絶対に落とさないようにしっかりと確保した上で用を足さないと、暗い「穴」の中に足を踏み外したり、懐中電灯を落として身動きがとれなくなるという最悪の事態にもなりかねません。
しかし、それでもそこには足場や壁があるという安心感があります。
知り合いになった若いチベット僧に招待されて訪れた青海省のある僧院では、敷地の一角に数メートル四方の大きな穴が掘られていて、そこに細長い板がさしかけてありましたが、それがトイレのようでした。幸いなことに、そこを使う必要に迫られることはありませんでしたが、あの細い板の上で落ちないようにバランスを取りながら、穴に向かって用を足すというのは、かなり熟練を要するかもしれません。
さすがにこういう「穴」だけというケースは少ないのですが、小さな村の、旅人向けの安宿みたいなところになると、広い敷地の一角に壁が立っていて、その陰に掘られた穴の上で用を足すことになります。トイレに屋根はありません。
ここまで読んでこられた方は、チベットはずいぶん不潔なところだと思われるかもしれませんが、実感としてはそれほどでもないのです。
チベット高原は非常に乾燥しているため、屋根のないトイレでも雨や雪に悩まされることはほとんどないし、排出されたモノはすぐに干からびて風化してしまうせいか、臭いも思ったほどひどくはありません。天井や壁が少ないと風が通り抜けるので、粗末なトイレであればあるほど、臭いがこもらずに済んでいるという可能性もあります。
ところで、問題は用を足した後です。欧米や日本からの旅行者は (もちろん私も含めて)、トイレットペーパーを使って後始末をします。しかし、地元の人しか使わないようなトイレでは、トイレットペーパーを使った形跡が見られません。
そもそも、へき地に住んでいるチベット人が、工業製品であるトイレットペーパーを高い金を払って買うとも思えないし、かといってインド人や東南アジアの人々のように水を使って処理しているようにも見えません。
紙も水も使わないとすると……。これ以上はあまり考えないほうがいいかもしれません。
話を戻しますが、田舎の粗末なトイレを使おうとしても、場合によってはちょっと汚くて入る気になれないことがあります。それにさらに辺境に行くと、トイレ自体が見当たらないこともあります。
そんな時は、広いチベットの大地がどこでもトイレになるのです。チベットのいいところは、人が少ないことです。人の住んでいる集落でも、ちょっと歩けば、小高い丘の上や大きな岩の陰など、誰の目にもつかないような、野グソにうってつけの場所が見つかります。
そして、これが実は非常に爽快なのです。
目の前に果てしなく広がる荒涼とした大地を眺めたり、遠く雪の山脈を望んだり、目の前に迫る断崖を見上げたり、美しい湖を見下ろしたりしながらゆっくり用を足すというのは、ある意味では最高の贅沢かもしれません。もちろんこれは夏の話で、身を切るような寒風の吹きすさぶ冬のチベットでも同じように楽しめるかどうかはわかりませんが……。
それに実は、野グソの爽快さに水を差す、ちょっとやっかいな問題があるのです。人の住まないような場所でなら何の問題もないのですが、人の住む集落のそばの物陰でしゃがみこんでいると、どこからともなく野良犬がやって来るのです。中には音もなく背後から忍び寄って、ふと振り向くと自分の尻のすぐ後ろにいたりするので油断できません。
彼らが狙っているのは、我々のウンコそのものです。エサの豊富な日本の犬たちならそんなことはしないでしょうが、荒涼としたチベットの大地で生き抜いていくためには、犬が人間の排泄物を喰うというのはめずらしいことではないようです。彼らは排出されたばかりのホカホカのモノを他の犬たちに横取りされまいと、人間の尻のすぐ横で待ち構えようとするのです。
しかし、いくら何でも、見知らぬ野犬が口を開けて後ろで控えているという状態で、ゆっくり用便を楽しめる人はいないでしょう。私も集落の近くでは、後ろから忍び寄られないよう、できるだけ背後に壁があるような場所を選び、周囲に目を光らせ、ちょうど身動きがとれない大事な瞬間に犬が走り寄ってくるという最悪の事態を防ぐため、できるだけ素早く用を足すように心がけていました。
皆様もチベットで野グソを楽しむ機会があれば、背後から迫ってくる犬にくれぐれもご用心ください。
旅の名言 「便所で手が……」
旅の名言 「自分の中で何かが壊れ……」
記事 「中国のトイレ事情」
内沢旬子・斉藤政喜著 『東方見便録』 の紹介記事