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旅の名言 「東南アジアの空気の中には……」

 東南アジアの空気の中には人を睡眠に誘う素粒子が含まれているように思われることがある。亜熱帯の湿度と温度の中で揮発する鬱蒼たる植物世界のエーテルが我々をとりまいているせいかもしれない。その植物世界で育まれた成仏という思想が無為の王であるように、この土地で眠りは、無為の王のための日々の練磨であるようにさえ見える。


『印度放浪』 藤原 新也 朝日文庫 より
この本の紹介記事

冒頭の引用は、東南アジアの持つ「魔力」を、藤原新也氏が独特の表現で語ったものですが、現地を長く旅したことのある人なら、この表現に思わず納得してしまうのではないでしょうか。

東南アジアを旅していると、日中の蒸し暑さや豪雨、道路状態の悪さなどのために、行動が大きく制約されることがありますが、それだけでなく、その土地の放つ独特の雰囲気に絡め取られて、旅人の動き自体も次第に鈍くなっていくような気がします。

旅人の足が止まり、数週間から数か月の間、何をするわけでもなく、一か所にダラダラと滞在する現象を、バックパッカー用語で「沈没」といいますが、東南アジアは特に「沈没」を誘発しやすい雰囲気を持っていると思います。世界一周をしようと意気込んで日本を出発した旅人が、最初の東南アジアで早くも「沈没」してしまい、そのまま動けなくなったという話をよく耳にします。

「沈没」という現象自体は、旅人が足を運ぶところならば、世界のどこでも見られるのですが、東南アジアで見られる「沈没」は、静かで平和な、まったりとした日々を過ごしている間に、旅人がいつの間にかすっかり現地の雰囲気に染まってしまい、まるで生活自体がトロリとした眠りに引きずり込まれていくような印象があります。

そうして「沈没」していくことには、睡魔に身を任せるような心地よさがある反面、日本人なら誰しも心の片隅で、「こんな生活をしていたら、もう日本の社会には戻れなくなってしまうな……」という強い不安も感じるのではないでしょうか。

東南アジア的な眠りへの誘惑には、どこか後ろめたさがつきまうのです。

そんな時に、「眠りは、無為の王のための日々の練磨である」などと聞けば、「沈没」中の旅人も、ちょっとうれしくなるかもしれません。この惰眠をむさぼるような日々が、無為のための厳しい訓練なのだと聞けば、何か人類の壮大なプロジェクトにでも参加しているような感じさえしてきます。

そうか、これは単にダラダラしているのではなく、あえて何も行動しないことによって無為を究めようという、厳しい修錬をしているのだ!

もっとも、さすがにそれを、日本で働いている人たちに向かって言う勇気までは出てこないと思いますが……。

at 19:11, 浪人, 旅の名言〜土地の印象

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『魂のライフサイクル―ユング・ウィルバー・シュタイナー』

増補新版(2010年)はこちら

 

評価 ★★☆☆☆ よかったら暇な時に読んでみてください

発達心理学の世界に、ライフサイクルという言葉があります。人間の一生、その誕生から死までの間には、人々に共通する、いくつかの心理的な発達段階というべきものがあって、それぞれの段階に特有の発達課題があるという考え方です。

しかし、そのライフサイクルの理論は「死」で終わっており、その先はありません。アカデミズムの世界で議論できるのはそこまでで、例えば「死」の後に、俗に「死後の世界」といわれているような、生から連続する何かがあるのかという点になると、アカデミズムは沈黙してしまいます。

それは、科学によっては検証のできない領域であり、「死」はともかく、「死後」の問題を提示することは、オカルトに首を突っ込むこととほとんど同義になってしまうのです。

本書の著者、西平直氏は、あえてその領域に踏み込んでいきます。

仏教の「四有」の説をヒントに、誕生から死まではもちろん、「死後」あるいは「再生」といった段階を組み入れた円環的なライフサイクルを想定した上で、従来の発達研究における<死後などまるで念頭にないパラダイム>と、<死後まで含めた円環的パラダイム>とで、ライフサイクルの全体と、それぞれの段階のもつ意味が、どのように違って見えてくるかを探ろうとしています。

そして、その円環的なライフサイクルをどのように解釈しうるかという観点から、ユング、ケン・ウィルバー、シュタイナーという三人の思想家の理論を整理しています。

西平氏によれば、ユングの理論では、「自我と無意識エネルギーとの関係の変容」として、ウィルバーの理論では、「意識の変容」として、シュタイナーの理論では、「超感覚的構成要素の組み合わせの変容」として、生と死のライフサイクルを説明できることになります。

しかし、一見してわかるとおり、同じ生と死のテーマを扱っていながら、彼らの「理論地平」が全くといっていいほど異なっているため、三者の説明が互いに噛み合わない部分もあり、これらを乱暴につなぎ合わせたり、一つにまとめてしまうことはできません。

不必要な批判や混乱を避けるためか、西平氏は非常に注意深くそれぞれの理論を整理し、ライフサイクルというテーマに沿った形で、「精神世界」の理論について簡単な見取り図を提示していますが、この本では、とりあえずそこまでです。

アカデミズムの立場から「精神世界」を検討しようとするとき、現時点では、そこまで踏み込むのがギリギリの線ということなのかもしれません。

 

 

 精神世界と名前のつけられたゆるやかな領域。心理学でも哲学でも宗教でもない、むしろ、それらが<そこ>から誕生してきた、より生活実感に近い、より原初的な、より未分化な領域。それは、いつの時代にも形を変えて蠢いていた魑魅魍魎。
 結果的にこの本は、その現代版の理論をいくつか並べた、おおまかな理論地図となった。「外」から見ると、この領域への分岐点はどこなのか。同じこの領域といっても、いかに異なるものの見方があるか。そして、それぞれの地平から見ると、「同じ事柄」でもどれほど違って語られるか。そうしたことを、ひとつひとつ確認しながら、太くザックリ描いた見取り図。
 それは、しかし、単なる道案内のためではなかった。
 そうではなくて、この領域も、学問的な吟味に耐えること。地道な思想研究に値すること。もしくは逆に、この領域から順に発想してゆくことによって、知の枠組みそのものが組み変わる可能性を、慎重に示すこと。つまり、この領域に足を踏み入れた途端、学問を放棄したかのような誤解に対して、何らかの異議を申し立てたいということである。
 しかし、他方では、神秘・超越・自分探しと、多彩に飛びかう言葉の束に対しては、地味な慎重さを求めるということでもある。

 


現在、いわゆるスピリチュアルなテーマに関しては、膨大な数の書籍が出版されており、まさに玉石混交の状態です。

多かれ少なかれ「あちら」の世界に親しみ、その世界に心を開いている人にとっては、それがアカデミズムの世界で受け容れられていようがいまいが、あまり関係ないのかもしれません。

そういう意味では、「精神世界」に関する話題に既に慣れ親しんでいる人にとっては、本書のような「地味な慎重さ」は物足りなく感じるだろうと思います。

しかし、スピリチュアル・ブームの中で、「あちら」の世界でしか通用しない言葉がいくら豊かに飛び交っても、結局「こちら」側の人々には届かないし、逆に「こちら」の人々が「あちら」を全否定して、「こちら」の言葉だけに固執していても、二つの世界の間にはコミュニケーションが成立しないでしょう。

この本は、「こちら」側を代表するアカデミズムの中から、「あちら」へと慎重に橋を架けようとする試みの一つだと思います。こうした地道な努力が積み重ねられることによって、やがて二つの世界の間には、少しずつ正確な理解が広まっていくことになるかもしれません。


本の評価基準

 以下の基準を目安に、私の主観で判断しています。

 ★★★★★ 座右の書として、何度も読み返したい本です
 ★★★★☆ 一度は読んでおきたい、素晴らしい本です
 ★★★☆☆ 読むだけの価値はあります
 ★★☆☆☆ よかったら暇な時に読んでみてください
 ★☆☆☆☆ 人によっては得るところがあるかも?
 ☆☆☆☆☆ ここでは紹介しないことにします

 

 

at 21:30, 浪人, 本の旅〜魂の旅

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旅の名言 「このような危うさを……」

 長い道程の果てに、オアシスのように現れてくる砂漠の中の町で、ふと出会う僕と同じような旅を続けている若者たちは、例外なく体中に濃い疲労を滲ませていました。長く異郷の地にあることによって、知らないうちに体の奥深いところに疲労が蓄積されてしまうのです。疲労は好奇心を摩耗させ、外界にたいして無関心にさせてしまいます。旅の目的すら失い、ただ町から町へ移動することだけが唯一の目的となってしまいます。どんなに快活で陽気なバイタリティーに溢れているように見えても、このまま安宿のベッドに横になったら、ふたたび立つことはできないのではないかという危うさを、どこかに抱え込んでいるようでした。多くは、二十歳を超えていましたが、ポール・ニザンのいう「一歩踏みはずせば、いっさいが若者をだめにしてしまう」状態に陥っていたのです。
 西への途上で出会う誰もが危うさを秘めていました。とりわけそれがひとり旅である場合はその危うさが際立っていました。一年を越える旅を続けていればなおのことでした。しかし、と一方では思うのです。このような危うさをはらむことのない旅とはいったい何なのか、と。
 次から次へと生み出される現代日本のシルクロード旅行記なるものも、その大半が甘美で安らかなシルクロード讃歌であるように思われます。肉体上の苦痛、物理的な困難については語られても、ついに「一歩踏みはずせば」すべてが崩れてしまうという、存在そのものの危機をはらんだ経験について語られることは決してないのです。


『深夜特急〈5〉トルコ・ギリシャ・地中海』 沢木 耕太郎 新潮文庫 より
この本の紹介記事

これまた、『深夜特急』からの引用です。

今や世界中にバックパッカーが溢れていますが、1970年代に『深夜特急』の旅で沢木氏が見たような、「危うさ」を秘めた若者たちは、シルクロードに限らず、現在でも至るところで目にします。

長い旅の中で、当初の新鮮な驚きや感動はすっかり薄れ、いつしか旅の日常にすっかり埋没してしまい、かといって自分の国に帰ることもできず、次に何をなすべきかも見出せないまま、日々疲労を蓄えながら、町から町へと流れ続ける放浪者たち。

しかし、中には自暴自棄になって、旅先で身を持ち崩したり、最悪の場合、命を落としてしまう者もいるということを考えれば、長い旅を続けている者の多くは、「危うさ」を秘めながらも、崖っぷちで踏みとどまっているように思います。

心身に「危うさ」を抱え込みながら、ギリギリのところで耐え続けている若者たち、ということで、すぐに思い出すことがあります。

最近、「ネットカフェ難民」と呼ばれる人々の生活がTVで何度も取り上げられ、話題になりました。彼らは経済的な理由でアパートを借りることができず、日雇いの仕事で食いつなぎながら、ネットカフェの椅子で寝泊まりするという、ギリギリの生活を続けています。

将来の見通しもないままに、今日一日を生き延びるために働き、寝場所を求めてさまよう毎日。TVの取材を受ける彼らの多くは若者ですが、孤独で砂を噛むような日々の連続に疲れ果てているように見えました。その綱渡りのような生活は、どこかで全てが崩れてしまいそうな「危うさ」に満ちています。

「ネットカフェ難民」の存在は、今までほとんど気づかれていなかったとはいえ、私たちのすぐ身近にある「社会問題」だという認識から、世間の強い関心を集め始めたようです。

しかし、世界中に散らばり、日本に住む人々からは見えないところで、心身ともにボロボロになりながら長い旅を続ける人々のことが、世間で話題になることはないでしょう。

もちろん、「ネットカフェ難民」の多くが、望んでそのような生活を送るようになったわけではないのに対して、長旅の放浪者は自分の意志で旅を始め、自分の意志で旅を続けているのであり、彼らがどんな状態になろうと、他人がとやかく口出しをすべきことではないのかもしれません。

また、旅人自身にも、ある意味では、長い旅のもたらす苦しみを知りながら、あえてそれを自ら望んでいるようなところがあります。

彼らは、沢木氏が指摘しているような、旅がもたらす「危うさ」を、むしろ、自らの人生に必要なプロセスとして積極的に引き受けようとしているのではないでしょうか。

「安全・安心」だけれども、逆に言えば、決定的なことが何も起こらないような平穏な日常の暮らしを離れ、旅を通じて自らを不安定な状況に投げ込むことで、自らを揺さぶり、今までとはまるで異質な自分に気づいていく日々。

それは、新鮮な驚きや感動をもたらす一方で、肉体的・精神的な「死」と背中合わせの「危うさ」を秘めています。これまで、いい意味でも悪い意味でも自分を守ってくれていた身近な人々や、モノや生活習慣から離れてしまうため、旅人は傷つきやすく、無防備です。様々な試練と誘惑の中で、一歩間違えればすべてが崩れてしまいそうな、きわどい綱渡りの日々が続くこともあるかもしれません。

しかし、そうした「危うさ」をはらむ旅を通じて、初めて自分の中に見出せるものがあり、鍛え上げられるものがあります。それは、日常的な言葉では簡単に説明できないような、深い体験を通じて見出される微妙なものです。そしてそれは、日常生活の繰り返しの中にとどまっている限りは、ほとんど気づかれることのないものです。

そうした、言葉にはなりにくい微妙な「何か」こそ、一部の旅人たちが苦しみも厭わず、真剣に探し求めているものであり、彼らは旅の危険を承知しつつも、直感に導かれるようにして、自分の意志であえて「危うさ」をはらむ旅へと出て行くのではないでしょうか。

最後に、誤解のないように付け加えますが、私は「ネットカフェ難民」と呼ばれる人々と、長旅の放浪者が同じ体験をしている、と言いたいわけではありません。

共に、「危うさ」を秘めた毎日を送り、全てが崩れてしまう寸前のような、ギリギリの状態で踏みとどまっているという点では似ていますが、自らの意志でそうした生活を選び取った場合と、望まずにそうした生活を余儀なくされているのとでは、その体験に大きな違いがあるように思うからです。


『深夜特急』の名言

at 19:02, 浪人, 旅の名言〜危機と直感

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旅の名言 「登山は……」

 登山は選択の連続で成り立っている。どう行動してもさして問題ないときもあれば、数少ない厳しい選択肢だけが、つぎの瞬間につながっているときもある。経験の蓄積が選択肢を広げ、的確な状況判断が最良と思われる選択を行ない、体力と技術、そして精神力がそれを実行する。選択が正しかったのかそれとも誤っていたのかを山が教えてくれるのは、正しくなかったときだけである。最良と予測する選択肢にもギャンブルが残るとき、登山者は全能力を絞りだして、生き残る可能性を濃くするしかない。


『サバイバル登山家』 服部 文祥 みすず書房 より
この本の紹介記事

迫力のある言葉です。

現代の文明社会に生きていると、日常生活で、次の一手を誤れば死ぬ、という極端な状況に遭遇することはめったにありません。「安心・安全」をモットーに、社会のシステムがそういう危機的な状況をあらかじめ注意深く取り除いてくれているし、私たち自身も、そういう状況に直面しないような平穏な生き方を強く望んでいるからです。

そんな文明社会をあえて飛び出し、山に分け入っていく登山家たちがいます。

人間の手によって状況をコントロールできない山の自然の中では、厳しい気候や登山者自身のミス、危険な野生動物などによって、生命の危険に遭遇することも少なくありません。

もちろん、登山をする人にもいろいろなタイプがあって、安全をしっかりと確保した上で、無理をせず、レジャーの一環として山登りを楽しむ人もいるでしょうが、『サバイバル登山家』の著者、服部文祥氏は、あえて危機的な状況に身をさらすような厳しい登山を繰り返しています。

それは、蛮勇からではなく、死と背中合わせのような厳しい状況に自らを追い込むことによって、「生きようとする自分を経験する」ためです。

そのためには、死んでしまっては意味がないのですが、逆に、安全が約束されていては、「生きようとする」自分の根源的な力を必要とする機会がありません。彼は、山の状況と自分の能力の限界を冷静に見極めた上で、無謀な登山と安全な登山の間にある、微妙な領域を探っていくことになります。

そこは、バックアップや「安全保障」のシステムなどなく、一瞬の判断ミスで全てを失うような世界。生命を賭けた決断の連続。自分の全能力を振り絞ることによって、初めて次の瞬間がやってくるような世界。

私はそんな厳しい山登りなど、もちろんしたこともないので、ただただ想像するだけですが、そういう命がけの状況を通じて、初めて自分の中に見出され、鍛えられていくものが確かにあるのだろうし、そこには、同じ世界を味わった者しか知らない、言葉では言い尽くせないような深い体験があるのだろうと思います。

そして、そんな登山には比べるべくもありませんが、旅の中にも、そうした厳しい決断の瞬間に近いものがないわけではありません。

日常生活の平穏な環境を離れ、未知の世界を旅するとき、どんな旅人も、多かれ少なかれ選択と決断の場に立たされます。

それは、その日に泊まる宿をどこにするかや、夕食をどの食堂でとるかという選択であるかもしれないし、旅先で出会った現地の人に心を許すかどうか、あるいは、次の目的地をどうするかという決断であるかもしれません。

そこには、「どう行動してもさして問題ない」ような、ささやかな選択もあれば、一歩間違えれば命にかかわるような厳しい選択もあるはずです。

どんな瞬間であれ、今までの人生経験と状況判断によって自分なりにベストな選択を行ない、「体力と技術、そして精神力」によってそれを実行に移すとき、旅人は、まだ約束されていない次の瞬間の生というものを、自分自身の手でつかみ取ろうとしているのではないでしょうか。

そして、その体験こそが、旅の大きな魅力のひとつであるのかもしれません。

at 19:10, 浪人, 旅の名言〜危機と直感

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『行かずに死ねるか!―世界9万5000km自転車ひとり旅』

文庫版はこちら

 

評価 ★★★★☆ 一度は読んでおきたい、素晴らしい本です

バックパッカー・スタイルの旅をしていると、各国の安宿でたまにチャリダー(チャリ=自転車で旅をする人)に出会うことがあります。

バックパッカーの旅にもそれなりのしんどさはありますが、チャリダーの旅の苛酷さに比べれば足元にも及びません。彼らから直接話を聞いたり、噂話を耳にするたびに、自分にはとてもマネのできない世界だと、畏怖の念を覚えていました。

今回、ふと思いついて、チャリダーの書いた本を初めて読んでみました。

本書の著者、石田ゆうすけ氏は、1995年7月にアラスカからスタートし、南北アメリカ大陸、ヨーロッパ、アフリカ大陸を縦断した後、ユーラシア大陸を横断し、途中一度も帰国せずに、7年半かかって自転車による世界一周の旅を成し遂げました。

この本では、その長い旅を駆け足で振り返りながら、旅の途上で出会った人々、印象に残るエピソード、そして、旅を通じて変わっていく石田氏の心の軌跡が語られています。

とにかく石田氏の文章がすばらしいと思います。ユーモラスで軽い筆致なので、サクサク読めるのですが、語りのツボはしっかり押さえられていて、笑いながら読んでいるうちに、いつの間にか彼の世界に引き込まれています。

そして、旅のエピソードの数々にホロリとし、彼のシンプルで力強いメッセージに思わず共感してしまいます。本当に、いい旅してるなあ、と思いました。

時にはあまりにもストレートすぎて、「ベタ」に感じることもありますが、むしろそれがこの本の魅力なのかもしれません。

今の日本で生活していると、シンプルで真っ直ぐな生き方を貫くことに対して、何となくしらけた目で見てしまいがちなところがありますが、長い旅を乗り越えてきた石田氏の文章には、そんなひねくれた見方をはね飛ばすような、健康的な強さと自信が溢れているのを感じます。

それは、毎日のように自転車をこぎ、少しずつ距離を稼ぎながら、長い時間をかけて自分の足で世界を周るという、忍耐そのもののような日々や、数え切れないほどの人々との出会いと別れ、言葉や文化の生み出す多様な世界を体験することを通じて、分厚い経験を積み重ね、その結果として、この世界に深く根を張ったことからくる力強さではないでしょうか。

本書は石田氏の7年半の旅のハイライトだけをまとめた総集編といった感じで、この一冊の中には収まりきらない思いが行間から溢れているように感じます。もっと他にも語りたいエピソードや、伝えたいメッセージがいくらでもありそうです。

また、石田氏の他にも、世界一周や、大陸縦断・横断を成し遂げたチャリダーは日本にたくさんいるはずですが、帰国後、本を書く人はごくわずかで、多くの場合、彼らの旅は身近な人々の間でしか語られることはないのでしょう。この本は、そんな彼らの思いも代弁しているような気がします。

もちろん、全てのチャリダーが石田氏のようなタイプの人間ではないでしょうし、本書では、自転車による旅の技術的な側面(装備品リストとか、パーツの補給、走行ルートや国境の越え方など)の細かい部分については、ほとんど触れられていませんが、この本を通じて、むしろもっと旅人の間に共通した思い、つまり、チャリダーたちの旅への情熱や、彼らの味わっている濃密な旅の時間が伝わってくるような気がしました。

読んでいると、激しく旅に出たくなる一冊です。
 

 


本の評価基準

 以下の基準を目安に、私の主観で判断しています。

 ★★★★★ 座右の書として、何度も読み返したい本です
 ★★★★☆ 一度は読んでおきたい、素晴らしい本です
 ★★★☆☆ 読むだけの価値はあります
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at 19:16, 浪人, 本の旅〜世界各国

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タマンヌガラで天狗気分

マレーシアのタマンヌガラ国立公園に滞在していたときのことです。

この公園は、熱帯雨林のジャングルと野生動物ウォッチングを楽しめるというのが最大の売りなのですが、マレー半島の内陸部にあるために、マレーシアの主要な観光コースからは外れています。また、野生動物の方も派手に現れるわけではなく、ジャングルの中に設けられた質素な観察小屋で、夜を徹して辛抱していないと見られないため、ちょっとした観光気分では歯が立たない、ある意味では「玄人好み」のスポットと言えるでしょう。

そんな公園にも、誰もが気軽にジャングルを楽しめる、キャノピー・ウォークウェイという施設があります。

キャノピーとは熱帯雨林の林冠、つまり地上数十メートルにまで成長するジャングルの木々が、太陽の光を争うようにして枝葉を茂らせている上層部分を意味しています。この部分に大木同士をつなぐ細い吊り橋が架けられていて、そこを歩きながら、ジャングルの上の方がどうなっているのか観察できるようにしてあるのです。

料金を払い、階段を昇っていくと、木漏れ日の射し込む道が空中に伸びています。吊り橋の幅は一人がやっと通れるくらいで、当然ゆらゆらと揺れています。

昔、「MYST」というアドベンチャーゲームが話題になったことがありますが、その中に出てくるツリーハウスを思い出しました。鬱蒼と茂るジャングルの中に空中廊下が続いているのは、なかなかシュールな光景です。

吊り橋は最大で地上40メートルの高さがあります。もし都会にこれと同じ高さの吊り橋があって、ビルとビルをつないでいたら、恐ろしくてとても歩けないかもしれませんが、ここでは周りに人工物がなく、高さを比較する対象がないせいか、あまり高いという感じはしません。

それでも歩いていると、さすがに尻の穴がこそばゆくなってくるというか、何となくそわそわして早足になり、じっくりと観察を楽しむという気分ではありません。

考えてみたら、これはオランウータンと同じ視点から森の中を眺めていることになります。私たち人間はふだん地面の上を歩きながら、時々木々を見上げるだけですが、キャノピーに住んでいる動物たちは、こうやっていつも上の方から地上を見下ろして生活しているんだなあ、ということが改めて実感できます。

ふと、天狗も木から木へと自由に飛び移るという話を思い出しました。森の中を風のようにヒョイヒョイと飛び回りながら、地上の人間を見下ろしている天狗たちの目にも、世界はこのように見えているのかもしれません。

天狗ほど身軽ではない私は、へっぴり腰でヨロヨロと進むだけですが、少しだけ天狗気分を味わいながら、つかの間の空中散歩を楽しんだのでした。


記事 「退役軍人とジャングルトレッキング」

at 19:23, 浪人, 地上の旅〜東南アジア

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旅の名言 「さて、どこに行こう……」

 さて、どこに行こう。
 しかし、どこと決めた瞬間に無限の自由は失われてしまう。それが惜しいために、行く先を決めず、机の前で無為な時を過ごす。無為な時にして至福の時。だが、私は知っている。やがて、その至福の時にも倦むようになるだろうということを。


『天涯〈1〉鳥は舞い光は流れ』 沢木 耕太郎 集英社文庫 より
この本の紹介記事

沢木耕太郎氏による旅の写真集『天涯』からの引用です。

パスポートに出国のスタンプが押される瞬間、あるいは飛行機が滑走路から飛び立つ瞬間に、旅の始まりを実感する人は多いと思います。しかし考えてみると、そうした実際の出来事が起こる以前に、私たちの心がまだ見ぬ土地を思い、あこがれて、心がどこかにさまよい出した時点で、既に旅は始まっているのかもしれません。

机の前で、ベッドの上で、あるいは通勤電車に揺られながら、これから始まるかもしれない旅に思いを馳せるとき、心は自由に空想の世界を駆け巡り、そこには何の制約もありません。

世界一周だろうが、宇宙への旅だろうが、心の中では全てが可能だし、具体的な旅のルートを思い浮かべる必要さえありません。どことも知れぬ異国の街角にたたずむ自分の姿など、旅のムードやイメージをボンヤリと夢想することもできます。そうした世界では、旅人は無限の自由を楽しむことができます。

どこへも行かず、家に居ながらにして味わう自由な旅。そうした「無為な時にして至福の時」は、空想が現実味を帯び、その行き先として具体的な土地が頭に浮かび始めた瞬間、失われ始めます。

ある特定の場所に心が強く惹かれ、実際に自分の体をそこまで運ぼうと計画し出したら、旅費、交通機関、旅のために自分が確保できる時間など、現実世界のさまざまな制約を受けて、自由な空想は思いどおりにならなくなります。

それが惜しくて、行き先を決めない自由な時間を楽しむというのは、とてもよくわかる気がします。しかし一方で、そうしたフワフワとして自由な時間にもやがて倦み、具体的な計画や行動に向かって、心が動き出すだろうということもよくわかるのです。

空想の旅と現実世界の旅。それぞれの旅は、全く性質の違うものですが、旅人にとって、どちらかだけを味わい続けることは不可能だし、それぞれにふさわしい時というものがあるのでしょう。

旅はまず、フワフワとした自由な夢想として始まり、やがてそれが現実的な目的地として結晶化を始めたとき、私たちは無限の自由を捨てて一つの現実を選び取り、体を動かす「リアル世界」の旅へと移行していくということなのかもしれません。

at 18:46, 浪人, 旅の名言〜旅の予感・旅立ち

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『歩行禅―呼吸のくふうと巡礼の瞑想』

新装版(2016年)はこちら

 

評価 ★★☆☆☆ よかったら暇な時に読んでみてください

この本の徒歩巡礼の舞台となるのは、世界遺産として有名な熊野古道です。西国三十三ヶ所巡礼の第一番札所である那智山青岸渡寺から第二番の札所である紀三井寺まで、約200キロの険しい山道です。

ここを、登場人物である白川博遊先生(80歳)、瀬野圭太氏(68歳)、樺島三郎氏(32歳)という三人の同行が8日間かけて歩きながら、「歩行禅」について対話を重ねるという形で話が進んでいきます。

本書には巡礼の一日ごとの行程マップや、道中に現れる数々の名所や歌碑の紹介、土地にゆかりのある人物のエピソードなども散りばめられており、実際に同じルートを歩いてみたいという人のためのガイドブックとしても役立つようになっていますが、やはりこの本のメインは、「歩く」という人間の基本的な行為について、巡礼という実践を通じて深く探求していくことにあるように思います。
 

 

 時に、気息奄々となりながら、それでも、そこにこそ徒歩巡礼の真骨頂があり、醍醐味がある。歩ける痛みと苦しみこそ、感謝すべきもの、と我が心に語りかけつつ、一歩一歩に「南無阿弥陀仏」の念仏を心がけ、かつまた、丹田呼吸、腹式呼吸を試みて参りました。
 この歩行の一歩、そしてそれにともなう呼吸の一瞬にこそ、永遠につながる機縁があるという思いに、自らの人生の結論を求めました。

 


この本では、歩き方の実践として、体の要である腰を立てること、足裏から呼吸するようにすること、呼主吸従で丹田呼吸をすること、下腹をひきしめて腹から進むようにすること、などのポイントが簡潔に説明されており、それぞれのポイントについて説得力を高めるために、幅広い分野の有名人のエピソードや、医学的な裏づけも紹介されています。

この本では、「歩行禅」という重々しい響きに対応するかのように、長く厳しい巡礼路を何日もかけて歩く巡礼の旅が描かれていますが、そうした旅に出られない人でも、本書を参考にして、歩くという行為に対して今まで以上に意識的になることで、日常生活の一歩一歩を無駄にすることなく、生活の場そのもので「歩行禅」を実践することができるかもしれません。

著者の松尾心空氏は既に6,000キロ近くの徒歩巡礼を続けてこられたということなので、「歩く」ことに関しては、本書で述べられているような一般的な説明をはるかに超える豊富な経験をお持ちだと思います。そうした長い実践の中での松尾氏自身のエピソードや、「歩行禅」を行じている時の体の実感を含めた、深く微妙な気づきについても、もっと知りたいと思いました。


本の評価基準

 以下の基準を目安に、私の主観で判断しています。

 ★★★★★ 座右の書として、何度も読み返したい本です
 ★★★★☆ 一度は読んでおきたい、素晴らしい本です
 ★★★☆☆ 読むだけの価値はあります
 ★★☆☆☆ よかったら暇な時に読んでみてください
 ★☆☆☆☆ 人によっては得るところがあるかも?
 ☆☆☆☆☆ ここでは紹介しないことにします

 

at 18:55, 浪人, 本の旅〜日本

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おかげさまで一周年

おかげさまで、昨年の4月12日にこのブログをスタートしてから、ちょうど一年になりました。

世間の流行とは縁遠い、マイナーな分野のことばかり書いてきましたが、三日坊主の危機を乗り越え、何とか続けているうちに、いつの間にか記事の数も250を超えました。

今までに、このブログの記事を読んで下さった方々に、心よりお礼を申し上げます。

ネット世界という膨大な情報の海の中から、このブログにたどりつく方法は、ほとんど検索エンジンだけだし、その検索エンジンの中でも、このブログが上位に表示されることはほとんどないはずなのに、毎日どこかからこのブログを見つけ、読んで下さる方がいるということは、書き続けていく上で大きな励みになりました。

そもそも最初の時点では、ブログとは一体どんなものなのか試してみたいという、一種の実験のつもりだったのですが、しばらく継続して書いているうちに、生活の中にリズムというか、習慣のようなものができたのか、書くという作業そのものはあまり苦にならなくなりました。問題は「ネタ切れ」の方ですが、今のところはもうしばらく続けられそうな感じがしています。

また、この一年、こうした形でネット世界と関わったことで、ごく限られた範囲内ですが、いろいろと実践的なことを学ぶこともできました。

もちろん、ネット世界に関しては初心者で、まだまだ知らないことばかりだし、ブログのテーマや内容については、これからも試行錯誤することになりそうです。

今後ともどうぞよろしくお願い申しあげます。

at 18:58, 浪人, 感謝

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『ロビンソン・クルーソー』

評価 ★★★☆☆ 読むだけの価値はあります

超有名な冒険小説の古典、『ロビンソン・クルーソー』です。

私も子供の頃、挿絵がふんだんに入った児童向けの要約版を何度も読んだ記憶がありますが、今回思い立って、ダニエル・デフォー氏による原著の翻訳を読んでみることにしました。

ちなみにこの文庫版で本文は400ページ以上もあり、かなりの長編なのですが、これでもデフォー氏が執筆した「ロビンソン・クルーソーもの」の第一部にしかすぎず、実際には第二部の『その後の冒険』とか、『ロビンソン・クルーソー反省録』といった続編があるのだそうです。

ただ、訳者の鈴木建三氏によれば、最も面白いのがこの第一部で、「あとはちょっと二番煎じというか、少し気の抜けた作品」なのだそうです。通常『ロビンソン・クルーソー』といえば、無人島に漂着した一人の男の物語ということになっているので、一般の読者にとっては、それ以外の話は蛇足ということになるのかもしれません。

この本の主人公、ロビンソン・クルーソーは、1632年、イギリスのヨークに商人の子として生まれたという設定になっています。彼はそこで何不自由なく育ちますが、18歳のときに、中流階級の美徳を説く父親に反発して家を飛び出し、船乗りになります。

波乱の生活の中で、様々な危機をくぐり抜けたロビンソン・クルーソーは、家を出て数年後にはブラジルで農場を持つまでになりますが、放浪の思い止みがたく、あえて再び冒険的な航海に出ます。しかし彼の乗り込んだ船はハリケーンに遭い、船は漂流したあげくに座礁し、彼一人だけが無人島に漂着して助かるのです。その日は、彼の27歳の誕生日でした。

着の身着のままで海岸に流れついた彼は、命だけは助かったとはいえ、何が潜んでいるかもわからない未知の島で、助け合える者は一人もおらず、この先を行き抜いていける見通しも全くないという状況に絶望しますが、やがて気をとり直し、まずはサバイバル生活をスタートします。徐々に安全な寝場所を作り上げ、たまたま海岸近くに流れついた自分の船から食糧や生活必需品を持ち出し、島内を探検したり、狩りをしたりしながら一人で生き抜いていくのです。

やがて生活は安定し、彼は合理精神と不屈の意志を発揮して、少しずつ快適な生活を作り上げていきます。日記をつけ、聖書を読んで神に祈り、麦と米の栽培や山羊の囲い込みによって安定した食料を確保し、土器や籠や服など、さまざまな生活必需品を自らの手で作り出していくのです。

ロビンソン・クルーソーは長年の苦労と忍耐を通じて、孤独ではあっても、平和で安定した生活を築き上げ、まるで修道僧のような日々をひとり楽しむようになるのですが、そんな生活が十数年にもなろうとする頃、ある日突然、彼は海岸で驚くべきものを目にします。そして、それを境に彼の生活は一変していくのですが、この先の後半部分については、これから読む方の楽しみのために書かないでおくことにします。

まずなにより、これほどリアリティを感じる冒険小説が、300年近く前に書かれていたということに驚きます。実はこの話のネタ元として、同時代にアレグザンダー・セルカークという水夫が孤島で4年間生活した後に救出されるという実話があったそうなのですが、この物語の基本的なアイデアはともかく、細部はデフォー氏の創作なので、わずかな資料と想像力だけでこれだけリアルな世界を作り上げたのは天才的だと思います。

そしてロビンソン・クルーソーが、無人島で手に入るものだけを利用して、自らの手と知識とアイデアを駆使して少しでも快適な生活を創造していこうとする過程は、内容が非常に具体的で、食べることや日常生活に直結していることもあって、読んでいて本当にワクワクするし、無人島に漂着しているという悲惨な状況をつい忘れて、創造的な毎日を楽しんでいる(?)主人公の生活をうらやましく感じてしまうほどです。

また、この物語が多くの人を引きつける理由の一つは、「もしも無人島に漂着して一人ぼっちで生きることになったらどうするか?」という、シンプルでありながら人々の想像力を掻き立てずにはおかないような、切実なテーマに沿って話が進んでいくところにあるのだと思います。

デフォー氏はこの物語の主人公を通じて、ピューリタンらしいキリスト教倫理と合理主義精神による生き方をシミュレートしてみせたのですが、それはある意味で彼自身の個性や、当時の時代精神を色濃く反映しているのだと思います。

だから、同時代の別の作家や、後の時代の多くの作家はこの物語に刺激され、「無人島に漂着」という同じ基本設定を使って、主人公の生き方もその結末も違うようなストーリーを、自分たちの個性や時代精神に合う形で書いてみたくなったに違いありません。

この基本設定には、「自分ならこのように生きたい!」という形で、作家の想像力を強烈に刺激するものがあるのではないでしょうか。事実、その後多くの「漂流系」の冒険物語が世に出ています。

『ロビンソン・クルーソー』を読んで、自分が主人公の立場だったらどうするか、しばし子供時代に戻って、空想の世界に遊んでみるのも楽しいかもしれません。



本の評価基準

 以下の基準を目安に、私の主観で判断しています。

 ★★★★★ 座右の書として、何度も読み返したい本です
 ★★★★☆ 一度は読んでおきたい、素晴らしい本です
 ★★★☆☆ 読むだけの価値はあります
 ★★☆☆☆ よかったら暇な時に読んでみてください
 ★☆☆☆☆ 人によっては得るところがあるかも?
 ☆☆☆☆☆ ここでは紹介しないことにします

at 20:25, 浪人, 本の旅〜旅の物語

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