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ミャンマーの外国人料金

何年も前、ミャンマーを旅していたころのことです。

ミャンマーには外国人料金の制度があって、観光地への入域料や入場料、国営交通機関の料金など、外国人であるというだけで、現地の人と比べるとはるかに高額な料金を払わなければならないことになっています。

例えば、仏教遺跡で知られるバガンなら、入域料として10ドル、ヤンゴンのシュエダゴン・パゴダなら入場料5ドルといった具合です。

こうした制度自体はミャンマーに限ったことではなく、アジアの各国に存在します。日本から直接ヤンゴンにやって来る旅行者にとっては、高いとはいえ、我慢できなくもない金額だと思いますが、一日数ドルの予算で旅をするバックパッカーにとっては、こうした料金はべらぼうに高く感じられるものです。

それに加えて、欧米の旅行者の間では、こうした料金がミャンマーの軍事政権の財源になっていることを問題視する人もおり、「ミャンマーに行けばあなたの落とすお金が軍事政権を支えることになるから、ミャンマーに行くこと自体がダメだ」とか、「行ってもいいが、外国人料金を払わなくても済むよう、民間の交通機関を使い、観光地も避けるべきだ」などという意見があります。

私個人としては、その趣旨はわからなくもありませんが、軍事政権へ金が流れることを危惧するあまり、自分の行動をがんじがらめに縛ってしまうのはどうかと思ったので、さすがにそこまで徹底する気にはなれず、鉄道やフェリーなど国営の交通機関も利用したし、どうしても見たい観光地では、入域料・入場料を払うことにしていました。

ただし、払うとはいっても、私も外国人料金の制度自体には不満だったし、あまりにも料金が高くてバカバカしくなり、見学を断念した場所もいくつかあります。

もちろん、別に観光地を回らなくても、旅を楽しむ方法などいくらでもあります。政府に金を払うのが嫌なら、それ以外のものに楽しみを見出せばいいだけの話です。

しかし、人間とは奇妙なもので、こうして外国人料金という「高い壁」が立ちはだかっていると、かえって、それを何とかクリアできないか、などという方向に情熱が向かってしまうこともあります。

当時、バックパッカーの間では、交渉次第では入場料を免除してもらえる場合がある、という噂が流れていました。例えば、外国人料金の必要な寺に入ろうとして、「私は仏教徒だ」と言ったらタダにしてもらえた、というのです。

これは、筋金入りのドケチパッカーだった私には耳よりな情報でした。素直に外国人料金を払うのは嫌だけど、かといって、せっかくミャンマーまで来たのに、見たいものを我慢して帰るのも情けない話です。交渉次第で入場料を免除してもらえるなら、こんなにいい話はありません。

日本人旅行者の中には、ロンジー(ミャンマーの腰布)をはいてミャンマー人に「化ける」というツワモノもいたそうですが、さすがに私はそこまでする気にはなれず、数珠だけ用意して、ある寺に向かいました。

入口に着くと手首に数珠をかけ、平静を装いながらミャンマー人に混じってそのまま入ろうとしましたが、当然ながら、料金徴収係の青年に見つかってしまいました。私はかねてから準備していたとおり、拙い英語で、自分は仏教徒としてここに来たこと、同じ仏教徒なのに入場料を取られるのが悲しいこと、しかも入場料が非常に高いこと、等々といったことを、悲しそうな表情で訴えてみました。

すると青年は、人のよさそうな笑顔であっさりとOKしてくれ、私はそのまま寺に入ることができたのです。私は、そのあまりの簡単さに拍子抜けしてしまいました。交渉するとか、ゴネるとか、そういうレベルではなく、ちょっとお願いしたら気軽に頼みを聞いてくれた、という感じでした。

本当かどうかは知りませんが、料金を徴収する人たちもこうしたお金がどこに行くのかよく知っており、それを快く思っていないので、一種のサボタージュとしてあえて積極的に徴収はしないのだ、というまことしやかな説があります。

あるいは、ミャンマーの人たちはいい人が多いので、私の言ったことに本当に同情してくれ、同じ仏教徒ということで、日本人にお目こぼしをしてくれたのかもしれません。

しかし、どういう理由からだったにせよ、彼があまりにもあっさりと通してくれたせいか、私はタダで入れたことを喜ぶよりも、自分がミャンマー人の親切心につけ込んでいるような気がして仕方ありませんでした。

軍事政権に対する抗議とか、いろいろと大義名分を並べてみても、結局自分が金を払いたくなかっただけなのではないか。こんな芝居がかった白々しいことを言ってまで、金を節約する必要があったのだろうか……。

市場での値切りにせよ、こうした交渉事にせよ、相手も同等のテクニックで激しく応戦してくることが前提です。こんな風に相手があっさり折れてしまっては、振り上げた拳の下ろしようがないというか、自分の繰り出したわざとらしいテクニックに対し、言い訳が立たなくなってしまいます。

ミャンマー人の人のよさを前に、いつの間にかすっかり「旅ズレ」してしまった自分に気づき、私は激しい自己嫌悪を覚えるのでした……。


記事 「ミャンマーの「強制おみやげ」」
記事 「外国人料金と値段交渉」

at 19:23, 浪人, 地上の旅〜東南アジア

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『聖地の想像力―なぜ人は聖地をめざすのか』

Kindle版はこちら

 

評価 ★★☆☆☆ よかったら暇な時に読んでみてください

私は、かつてバックパッカーとしてアジアを旅していたとき、自分たちのような旅人は、それぞれ旅に出る目的は違うようでも、結局のところはみんな聖地巡礼の旅をしているのではないか、と思ったことがあります。

貧乏旅行者のたまり場になるような街というのは、伝統的な宗教の聖地そのものであることも多いのですが、そうしたはっきりとした特徴がなくても、美しい自然の景観や、平和で居心地のよい雰囲気など、人を惹きつける、何か特別なものを感じることが多いのです。

宗教とか、聖なるものには全く関心のないバックパッカーでも、仲間や楽しみを求めてそうした街を渡り歩いていると、知らないうちに、地球上に存在する特別な土地、つまり一種の聖地を巡り歩くことになるのではないか、それは、本人が自覚しているかどうかにかかわらず、聖地巡礼をしているのと同じなのではないか、と思ったのです。

世界中には数え切れないほどの街があるのに、世界中から人が集まってくるような特別な場所は限られています。そうした場所は、何が人を惹きつけるのでしょうか?

そもそも、聖地とは人間にとって、いったいどういう場所なのでしょうか?

以下に引用するのは、本書の著者、植島啓司氏による聖地の定義です。植島氏は、アカデミックな堅苦しい話には深入りせず、これらの定義を順に解説しながら、それぞれにまつわる「聖地論」の幅広いトピックにも触れています。

 

 

 01 聖地はわずか一センチたりとも場所を移動しない。
 02 聖地はきわめてシンプルな石組みをメルクマールとする。
 03 聖地は「この世に存在しない場所」である。
 04 聖地は光の記憶をたどる場所である。
 05 聖地は「もうひとつのネットワーク」を形成する。
 06 聖地には世界軸 axis mundi が貫通しており、一種のメモリーバンク(記憶装置)として機能する。
 07 聖地は母胎回帰願望と結びつく。
 08 聖地とは夢見の場所である。
 09 聖地では感覚の再編成が行われる。

 


現在、特定の宗教の聖地として知られている場所は、歴史を遡ってみると、そうした宗教が成立するはるか以前の人々によっても聖地として認識されていたことがわかります。また、エルサレムのように、いくつもの宗教が同じ場所を聖地としている場合もあります。聖地が聖地であるということには、特定の宗教よりももっと根源的な要因が働いているようです。

人間にとって聖地とは何か、巡礼とは何か、本書では「宗教以前」の九つの観点から様々な説明がなされていて、個人的にはとても興味深く感じたのですが、これらの九つの定義を総合するような全体的なイメージというか、聖地の本質のようなものは、今一つはっきりとしませんでした。

それはもしかすると、古代の人々がはっきりと感じていたであろう、聖地や聖なるものに対する畏れの念を、私たち現代人が失いつつあることと関係があるのかもしれません。

聖地とは何かと説明されるまでもなく、古代人にとってそれははっきりと「感じられる」ものだったのではないでしょうか。現代人は、そのはっきりとした自明な感覚を失ってしまったために、こうした言葉による説明を通して聖地を把握しようと試みるのかもしれません。

個人的に関心のある分野なので、他の「聖地論」も含め、もう少しいろいろと勉強してみたいと思います。


本の評価基準

 以下の基準を目安に、私の主観で判断しています。

 ★★★★★ 座右の書として、何度も読み返したい本です
 ★★★★☆ 一度は読んでおきたい、素晴らしい本です
 ★★★☆☆ 読むだけの価値はあります
 ★★☆☆☆ よかったら暇な時に読んでみてください
 ★☆☆☆☆ 人によっては得るところがあるかも?
 ☆☆☆☆☆ ここでは紹介しないことにします

 

 

at 18:51, 浪人, 本の旅〜人間と社会

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旅の名言 「世界は……」

 ぼくは《旅》を続けた……多分に、愚かな旅であった。時に、それは滑稽な歩みですらあった。歩むごとに、ぼく自身とぼく自身の習って来た世界の虚偽が見えた。
 しかし、ぼくは他の良いものも見た。巨大なガジュマルの樹に巣食う数々の生活を見た。その背後に湧き上がる巨大な雨雲を見た。人間どもに挑みかかる烈しい象を見た。《象》を征服した気高い少年を見た。象と少年を包み込む高い《森》を見た。世界は、良かった。大地と風は、荒々しかった……花と蝶は美しかった。
 ぼくは歩んだ。出会う人々は、悲しいまでに愚劣であった。出会う人々は悲惨であった。出会う人々は滑稽であった。出会う人々は軽快であった。出会う人々は、はなやかであった。出会う人々は、高貴であった。出会う人々は荒々しかった。世界は良かった。そして美しかった。《旅》は無言のバイブルであった。《自然》は道徳であった。《沈黙》はぼくをとらえた。そして沈黙より出た《言葉》はぼくをとらえた。
 悪くも良くも、すべては良かった。 (後略)


『印度放浪』 藤原 新也 朝日文庫 より
この本の紹介記事

インド旅行記の名作、『印度放浪』からの引用です。

『印度放浪』という作品は、それをお読みになった方はご存知だと思いますが、こうした文章以上に、美しい写真や、ザラザラの用紙の触感、紙の匂いなど、様々な感覚的要素が複合して、「藤原ワールド」ともいうべき独特の異世界を作り上げています。

だから、そこから文章だけを取り出して引用するのは適切ではないのですが、私自身が若い頃に(たぶん自覚している以上に)深い影響を受けた名言だと思うので、あえて紹介させていただきました。

高校時代にこの本と出会ったことで、私はインドに対して漠然とした憧れを抱き始めたような気がします。あるいは、インドに対して漠然とした憧れを抱き始めた頃に、ちょうどこの本と出会ったのかもしれません。

もちろん、当時の私の乏しい判断力からしても、インドが人間にとって理想の国であるとは到底思えませんでした。そこに住む人々は「愚劣」で「悲惨」で「滑稽」であるようにも思われました。しかし、少なくともそこに嘘はない、という気がしたのです。

「歩むごとに、ぼく自身とぼく自身の習って来た世界の虚偽が見えた。」

インドを放浪することは、文明人ぶった自分の薄っぺらなプライドを引き剥がし、自分をボロボロにしてしまう強烈な試練に違いないと思いました。私はそんな状況に直面することを恐れていましたが、同時に、いつかは自分もそこに行かなければならないような気もしていました。

何年も後になり、私にもようやく覚悟ができて、インドを旅しましたが、そのインパクトは、言葉で表現し切れないような、ずっと深いものだったように思います。

別に現地で何かの大事件が起こったとか、特別な人と知り合ったというわけではありません。インドでの旅の日々は、坦々と過ぎていきました。だから具体的に、自分にどんな変化が起きたかということを、言葉で説明するのはとても難しいのです。

それは、自分では表現のできない無意識の深いレベルで、自分自身や、世界に対する見方を揺るがすような、後にまでずっと尾をひくような、モヤモヤした感じでした。それは、一時的な旅のショックにとどまるものではなく、長い時間をかけて私をすっかり変えてしまいました。そして、その影響は今もなお続いているのです。

バックパッカーの世界に「インド病」という言葉がありますが、まさにそんな感じです。
記事 「インド病」
旅の名言 「僕は変な病気を……」

しかし私は、「インド病」になり、自分が深いところで変えられてしまったことをマイナスだとは思いません。もちろんそれは一銭の得にもならないし、苦しいプロセスでもあるのですが、それを通じて、私の目の前の世界は再び新鮮さを取り戻し、周囲のものが、以前とは違って見えてくるようになったという気がします。

それは、良いとか悪いとか、損とか得とか、そういった社会の表面的な価値観とは別の、もっと深いレベルでの変化を意味しているのだと思います。

「《沈黙》はぼくをとらえた。そして沈黙より出た《言葉》はぼくをとらえた。」

うまく表現できないのですが、インドの大地や、インドの人々や動物たち、あるいはインド的なモノが発散している「何か」を通じて、私自身も、何か強烈で、根源的な生命力のようなものの一部と、再びつながるようになった感じ、でしょうか。

そしてそれは、言葉上の善悪や美醜というレベルを超えた、本質的に良くて、美しいものです。そしてこの根源的で健康なエネルギーに触れることで、一種の健全さのようなものを少しだけ取り戻したという気がします。

「世界は、よかった。そして美しかった。」

藤原新也氏が、「世界は、よかった」と書いているのを読んだとき、高校時代の私は、彼のまるで苦行僧のような姿の向こうに、そうした根源的で健全な世界が広がっていることを、理屈ぬきに感じていたのだと思います。そしてこの短い言葉は、私が長い旅に出る決意をするにあたって、どこかで強く後押しをしてくれていたのではないかという気がします。

at 19:10, 浪人, 旅の名言〜土地の印象

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『ネットvs.リアルの衝突 ― 誰がウェブ2.0を制するか』

評価 ★★☆☆☆ よかったら暇な時に読んでみてください

先日、梅田望夫氏の『ウェブ進化論』を読んで、「リアル」世界では絶対に成立し得ない、全く異質のルールに基づいた「ネット」世界が出現しつつあるという考え方に共感を覚えました。

それ以来、「ネット」と「リアル」という分かりやすい分類が、私の頭にこびりついて離れません。性質の異なる二つの世界がこれからどう関わり合っていくのか、「ネット」の拡大によって社会がどう変わっていくのか、ということは、私にとっても大きな関心事です。

今回、『ネットvs.リアルの衝突』という、「そのまんま」のタイトルの本を見つけたので、さっそく読んでみました。

梅田氏の『ウェブ進化論』が、「ネット」の全く異質なルールの存在を示したものだとすれば、『ネットvs.リアルの衝突』は、それを前提に、既にあちこちで起きている「ネット」と「リアル」の摩擦の現場を描いているといえます。

 たとえばWinny(ウィニー)というP2Pの理想を背負ったファイル交換ソフトは、二〇〇〇年代の日本社会に突如として異形の空間を出現させ、国家権力と真っ向から対峙することになった。
 一九八〇年代初めにリチャード・ストールマンが起したフリーソフトの運動は、九〇年代に入って経済活動の中に囲い込まれ、さらには中国や日本、欧州の国家戦略の道具と化した。
 美しい互助精神で飾られていたインターネット共同体は、アメリカと中国の国家対決の狭間で、あてのない泥沼の中に引きずり込まれている。
 そしてウェブ2・0による世界のフラット化を、フランスや日本政府は経済戦略の中に囲い込もうとしている。
 これらはまったく異質な文化の衝突であり、覇権をめぐる戦いでもある。国家が採っている戦略は「排除」と「囲い込み」であり、しかしコンピュータの世界の側は、その二方面戦略に対して有効な反撃を実現できていない。


佐々木氏は、1960年代のカウンター・カルチャーの中で生まれた、中央集権に対抗し、人々にパワーを与えるためにコンピュータを開放するという考え方が、現在の「ネット」の理想と情熱の源流になっているとして、その流れをたどっています。しかしその理想は、インターネットの爆発的な普及とともに、「リアル」を代表する国家や企業活動のルールと激しく衝突するようになるのです。

従来型の社会を代表する国家や企業は、「ネット」の危険な部分は「排除」し、有用な部分については「囲い込み」を図ろうとします。これは、「リアル」の側から「ネット」をコントロールしようとする戦略です。

本書の前半では、「排除」の例として、ファイル交換ソフト Winny(ウィニー)が、「リアル」世界の著作権法に抵触し、排除されていく過程が描かれています。

後半では、「囲い込み」の例として、コンピュータ業界の「標準化」をめぐる闘争、国家の世界戦略に取り込まれていくオープンソース、インターネットガバナンスをめぐる争い、国家主導の検索エンジン・プロジェクトなどが描かれています。

こうした「リアル」からの激しい干渉は、「ネット」自体を変質させることになるのですが、一方で、日々進化を遂げるテクノロジーは、「ネット」の理想を推し進めながら、次々に新しい地平(「リアル」から見れば「異形の空間」)を作り出していきます。

  一九六〇年代に生まれたコンピュータ文化の理想と情熱は、やがて国家や企業活動の中に呑み込まれて、徐々に変質していった。
 しかし二〇〇〇年代初頭のP2P、そして二〇〇四年に出現したウェブ2・0という新たなパラダイムで、その理想は再び復活する。
 ところがその理想は、再び岐路に立たされている。
 この理想は、これからいったいどこに向かっていくのか――国家戦略と企業活動の中に巻き込まれて消滅していくのか、それとも世界を変革させるパワーとなっていくのか。


本書では、「ネット」と「リアル」の衝突がこれからどういう方向に向かうのか、ある意味では、それが知りたいからこそ本書を読むという人が多いのではないかと思うのですが、明確な見通しは示されていません。

しかし、それも止むを得ないという気がします。実際のところ、変化する要素が多すぎて、あてずっぽうでもなければ、予測するのはほとんど不可能なのではないでしょうか。

ただ、考えてみると、「リアル」を代表するとされる国家や企業にしても、それを構成する個々のメンバーは、同時に「ネット」のユーザーでもあるわけです。社会的なアイデンティティとしてはある企業に属し、「リアル」の立場で仕事をしているとしても、家に帰ればそのアイデンティティを脱ぎ捨て、「ネット」の理想を追求する立場に変わるかもしれません。

「リアル」、「ネット」と分けて考えることで、何となく別々の実体があるかのように思ってしまいがちですが、ある意味では、二つの異なる世界が、各々の個人の中に同居しているとも言えるのです。

そういう意味では、「ネット」と「リアル」の衝突というのは、むしろ一人一人の人間の内面で起きており、人によってその程度に違いはあるにしても、私たちは二つの異なる世界の間で引き裂かれながら、激しく変化する社会の中で、各人が自分なりのバランスというか、適切な着地点を見出そうとして模索を続けているということになるのではないでしょうか。

そして、もしそうならば、二つの世界の衝突がこれからどうなるかは、突き詰めれば、私たち一人一人が、自らの責任で解決しなければならない問題ということになるのかもしれません。


本の評価基準

 以下の基準を目安に、私の主観で判断しています。

 ★★★★★ 座右の書として、何度も読み返したい本です
 ★★★★☆ 一度は読んでおきたい、素晴らしい本です
 ★★★☆☆ 読むだけの価値はあります
 ★★☆☆☆ よかったら暇な時に読んでみてください
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at 20:05, 浪人, 本の旅〜インターネット

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『夜の言葉 ― ファンタジー・SF論』

評価 ★★☆☆☆ よかったら暇な時に読んでみてください

ファンタジーの名作『ゲド戦記』シリーズの作者として有名な、アーシュラ・K. ル=グウィン氏による、ファンタジー・SFを論じたエッセイ集です。

本のタイトルである「夜の言葉」とは、ル=グウィン氏がある雑誌に書いた、次のような文章がもとになっています。

 竜の物語に耳を傾けない人々はおそらく、政治家の悪夢を実践して人生を送るよう運命づけられていると言っていいでしょう。わたしたちは、人間は昼の光のなかで生きていると思いがちなものですが、世界の半分は常に闇のなかにあり、そしてファンタジーは詩と同様、夜の言葉を語るものなのです。


ファンタジーをこよなく愛する人なら、彼女のこの力強い言葉に勇気づけられるに違いありません。

しかし、日本でもそうですが、アメリカにおいても(少しずつ変化が見られるとはいえ)、ファンタジーやSFを楽しむことは、ビジネスや政治のことで頭がいっぱいの人たちからは、「現実逃避」であるとして非難される傾向にあるようです。

また、作家や批評家からも、「シリアスな」純文学等に比べれば格下であるという差別を受けています。

ル=グウィン氏は本書の中で、そうした偏見に対しては断固として反論しつつ、同時に、ファンタジーやSFの本質と可能性について、あるいは自らの創作のプロセスについて、明快に語っています。

 すぐれたファンタジーや神話や昔話は実際夢に似ています。それは無意識から無意識に向かって、無意識の言語――象徴と元型によって語られます。言葉そのものは使われても、その働きは音楽のようなものです。つまり字義を追い、論理的に組みたてて意味をとらえる過程をすっとばし、あまり深くに潜んでいるので言葉にされることのないような考えに一足とびに到達するのです。こうした物語は理性の言語に翻訳し尽くすことはできませんが、論理的実証主義者でベートーヴェンの第九交響曲を無意味だと思うような人でもなければ、だからこの物語には意味がないと言いはしないでしょう。こうした物語は深い意味に満ちていますし、利用価値も高い――実用的とさえ言えるのです。倫理という点で、洞察という点で、人間的成長という点で。

(「子供と影と」より)


人間がふだん認識しているのは、意識の光に照らされた昼の世界、すなわち言語と論理の世界ということになりますが、実はそれは、現実のごく一部にすぎません。認めようと認めまいと、その外には、無意識という夜の世界が存在しています。

「夜の言葉」とは、自らの内面を通じ、無意識の領域へと分け入った芸術家が見出した「無意識世界の知覚や直観」が、「言語領域のイメージと論理的な叙述形式に翻訳」されたものであると言うことができます。

それは、言語、一貫性、時間的展開といった昼の世界の形式に変換されながらも、同時に、夜の世界の強い香りを漂わせています。

こうした、ファンタジーは人間の無意識を描いている、というル=グウィン氏の考え方は、ユング心理学とも重なり合うものがあります。

 ファンタジーは旅です。精神分析学とまったく同様の、識域下の世界への旅。精神分析学と同じように、ファンタジーもまた危険をはらんでいます。ファンタジーはあなたを変えてしまうかもしれないのです。

(「エルフランドからポキープシへ」より)


ファンタジーが無意識への旅であるならば、その創作過程は、作家の意識的な自我が、登場人物やストーリーをあらかじめプランするようなものにはなり得ません。それは、未知の世界への探険と同様、作家自らが危険を冒し、自らの内面を探索して、語るに値するものを少しずつ発見していく、身を削るような苦しいプロセスです。

そしてそこには、芸術家が「真実」を探求し続けていくということについての本質が語られているように思います。

ただ、ル=グウィン氏は、ファンタジーやSFの世界すべてを手放しで賞讃しているわけではありません。

この分野の作家たちの中には、無理解な世間との間に壁をつくって自ら狭い世界に閉じこもる「自己ゲットー化」の傾向が見られたり、退行的でナルシシスティックな作品を作り続けたり、売れるかどうかという「市場による検閲」に屈してしまう者も多いとして、そうした風潮を厳しく批判しています。

とにかく読んでいると、こうしてブログに拙い文章を書き散らしている私のような人間にとっては痛いことばかりで、深く反省させられます。

このように、内容的には非常に深く、ジャンルを越えて幅広く読まれてもいい本だと思うのですが、本書を手に取るのは、実際のところ、もともとファンタジーやSFに興味のある人に限られてしまうのかもしれません。

私個人としては、『ゲド戦記』シリーズの創作プロセスと、作者自身による作品へのコメントが興味深い「夢は自らを語る」と、ファンタジーの本質について語られる「子供と影と」という2つのエッセイが特に印象に残りました。


本の評価基準

 以下の基準を目安に、私の主観で判断しています。

 ★★★★★ 座右の書として、何度も読み返したい本です
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at 19:05, 浪人, 本の旅〜ことばの世界

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旅の名言 「放浪は……」

 放浪は、目指す場所やゴールのない巡礼のような旅だ。答えを求める旅ではなく、迷いや疑問を受け止め、自分の身にふりかかるいかなることも積極的に受け入れる旅。
 もし何か目標や計画を持って旅に出たとしたら、せいぜい得られるのはそれを実行したという自己満足ぐらいだろう。
 けれど真っ白な状態で、純粋な好奇心を持って出かければ、それよりはるかに上等な喜びを見つけられるに違いない。行く先々でわき起こってくる、可能性に満ちた素朴でシンプルな気持ちを。


『旅に出ろ! ― ヴァガボンディング・ガイド 』 ロルフ・ポッツ ヴィレッジブックス より
この本の紹介記事

放浪の旅(ヴァガボンディング)への入門書、『旅に出ろ!』からの引用です。

一見、当たり前のことを言っているように思えます。皆様も、似たような言葉を、いろいろなところで何度も耳にしたことがあるのではないでしょうか。

しかし、これを単なるタテマエとか絵空事として聞き流さずに、本気で受け止め、いざそれを実行しようとすれば、実に難しいことだということが分かると思います。

例えば、一般的に、旅には「目指す場所やゴール」があると考えられています。現代社会では、経済合理的な考え方が浸透しているので、目的のない行動は「時間の無駄」であり、価値を生み出さないと考えられているばかりでなく、旅人としても、自分がどこに向かっているのかわからない、何が起こるかわからない、という状況は実に不安です。

多くの人は、短い休暇の限られた時間の中で、危険や不安を回避し、期待通りの満足を得ようと考えるので、旅程をしっかり計画したり、パックツアーに参加したりしますが、それはコストパフォーマンスを重視する、実に合理的な判断だと思います。

しかし放浪者は、そうした「合理的」な生き方をあえてカッコに入れ、目標や計画に縛られない旅をしようとします。

それは、うまくいけば、思いがけない喜びや発見に満ちた旅になるはずです。だからこそ、多くの人が放浪の旅に人生を賭けるのだし、私も個人的には、それだけの価値があると思っています。

しかし、その喜びは無償で得られるものではありません。旅人は、そのために多くのものを手放さなければならないし、旅先では、迷いや疑問、不安や恐怖が次から次へと襲いかかってくるように思われることもあります。

目標や計画を手放すということは、「こういう旅にしたい」「自分の好きなものだけを見たい」という選り好みをしないということです。楽しいことであろうと、どんなに嫌なことであろうと、「自分の身にふりかかるいかなることも積極的に受け入れる」のです。

たぶん多くの人にとって、それは辛い旅になると思いますが、そうした旅の日々を重ね、心を磨かれることで初めて、ロルフ・ポッツ氏の言う「可能性に満ちた素朴でシンプルな気持ち」とはどういうものなのか、少しずつ実感として分かってくるのだろうし、自らの体験を通じて、放浪の意味を深く理解することになるのだと思います。

そしてそのとき初めて、冒頭に挙げたような文章が単なるタテマエではなく、放浪者の深い実感を語ったものなのだと理解できるのだと思います。

ちなみに、これは誤解を招きやすい点ですが、目標や計画を持たない旅といっても、それはいたずらに自分を危険にさらしてみたり、どんちゃん騒ぎに明け暮れるという意味ではありません。その点については『旅に出ろ!』の中でも触れられています。

個人的にも、そうした行動の行き着く先には、本当の意味での喜びはないと思っています。

もっとも、過去の私自身の行動を振り返ってみれば、そうした行動がいいだの悪いだのと偉そうに講釈する資格などないのですが……。

at 19:34, 浪人, 旅の名言〜旅の理由

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『グローバリゼーションとは何か―液状化する世界を読み解く』

評価 ★★★☆☆ 読むだけの価値はあります

最近、「グローバル化」という言葉をよく耳にします。

自分では何となく分かったつもりで聞き流してきたのですが、ちょっと気になって改めて考えてみると、世界中で進行している何か大きな変化のことらしい、という以外は、ほとんど何も知らないことに気づきました。

遅ればせながら、勉強のために入門書を読んでみることにしました。

本書は、グローバリゼーション研究の「入門書」ということになっていますが、実際に読んでみると、非常に幅広いトピックが盛り込まれていて、なかなか手ごわいというか、読み応えがあります。

一九七〇年代以降、近代世界は新しい世界秩序への解体と統合の時代に入った。
国民国家に編成されてきた資本と労働と商品は、国境を越え、ジェンダーや家族の枠組みを壊し、文化と政治・経済の領域性や時空間の制約すら越境し、新たな貧富の格差の分断線を引き始めている。

(本書カバーより)


グローバリゼーションは、国境を越える資本の動きを中心に、政治・経済のレベルで語られることが多いようですが、それは同時に、映画・音楽・ファッション・食文化・スポーツ・ゲームなど、グローバル文化と呼べるような世界共通の消費文化の浸透や、伝統的な共同体の崩壊、近代以降の家族制度や男女の性別分業の解体といった、文化・社会の大きな変化でもあります。

こうした大きな社会変化を、例えば経済学など、人文・社会科学の一つの領域だけで研究することは困難です。グローバリゼーション研究は、従来の学問の枠組みを必然的に越えていくことになるし、本書でも触れられているように、それは「近代」そのものの根本的な問い直しにつながるとともに、国民国家という枠組みの中で発展してきた人文・社会科学の思考様式からの脱却をも迫るものとなります。

問題は広く深く、極端な話、グローバリゼーション研究の領域には、私たちの社会のほとんど全てのトピックが含まれると言ってもいいのではないでしょうか。

ところで、著者の伊豫谷登士翁氏は、グローバリゼーションの進行に対しては批判的です。そこには、表面的に唱えられる「平等」のイデオロギーの裏で、「同じ人間であるはずの人々の価値を、あまりにも大きな格差によって評価」しようとする動きへの怒りがあるように思います。

近代とは、地球上の人々を、とどのつまり同じ人間として扱うことではなかったのか。しかしグローバル化は、その格差を拡大し、固定化する営みでもありました。


ただ、だからといって、グローバルな動きに対抗しようとしてナショナリズムを持ち出しても、問題の解決にはならないようです。

本書によれば、近代とは、「われわれ」と「他者」とが明確に区別され、統合化と差異化が繰り返されていく過程です。そもそも「ナショナル」と「グローバル」もそうした動きの中で形成されてきたもので、それらは対立する別々の存在ではなく、いわばメダルの裏表のように相互に補完し合っているのです。

 ナショナリズムの興隆は、自らの豊かさを他者から守り、世界秩序のなかで獲得してきた特権を維持するためのメカニズムとなるのです。グローバル資本は、一方では国家のさまざまな支配装置を多孔化し、領域性を崩してきましたが、他方では、富の偏りを含めた国家間の格差を維持しつつ、国家という支配装置をグローバル資本が活動しうるように変形してきました。企業活動の越境化や膨大な資金の移動によって、国家の経済的権能は脅かされ、近代国家の根幹である主権や市民権(シチズンシップ)は再編を余儀なくされてきたのですが、他方では、通貨当局は為替相場と物価安定の番人であり、規制緩和や民営化は、新しい官僚体制と新しいエリート層の教義なのです。現代は、グローバリゼーションとナショナリズムとの共犯関係が明確になった時代です。


本書では、では具体的にどうするか、という点までは踏み込んでいません。私個人としても、現実問題として、グローバリゼーションに伴うさまざまな問題を簡単に解決できる方法があるとは思えません。このテーマについては、もう少し勉強をしてみる必要がありそうです。

この本の体裁は新書ですが、手軽に読める本ではないし、アカデミックな立場からのグローバリゼーション「研究」の本なので、ビジネスマンが読んでもあまりピンとこないかもしれません。しかし、私たちにとっては非常に重要な問題を扱っているので、読んでみる価値はあると思います。


本の評価基準

 以下の基準を目安に、私の主観で判断しています。

 ★★★★★ 座右の書として、何度も読み返したい本です
 ★★★★☆ 一度は読んでおきたい、素晴らしい本です
 ★★★☆☆ 読むだけの価値はあります
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 ☆☆☆☆☆ ここでは紹介しないことにします

at 18:59, 浪人, 本の旅〜人間と社会

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旅の名言 「動き出せば……」

「やっぱり自転車ってええなあ」
 そう思った瞬間、ぼくはつい笑ってしまった。ベッドの中でぐずぐずしていたときの気分とはえらい違いやないか……。
 景色が流れ、自分が前に進んでいると実感できた。それがたまらなく快感だった。やはり、あれこれ考えていても仕方がないのだ。とにかく動くことだ。動き出せば、おのずと力が湧いてくるのだ。そんなことさえ、こっちに来てからはしばらく忘れていた。
 ぼくは心の中でつぶやいた。
「よっしゃ、行ったろう。とことん行ったろう……」


『行かずに死ねるか!―世界9万5000km自転車ひとり旅』 石田 ゆうすけ 実業之日本社 より
この本の紹介記事

7年半かけて自転車で世界を駆け抜けた石田ゆうすけ氏の痛快な旅行記、『行かずに死ねるか!』からの引用です。

彼は学生時代に、自転車による日本一周を成し遂げていましたが、世界一周の旅に出るために会社を辞め、スタート地点のアラスカに飛んだものの、これからの長い旅への不安からか、アンカレッジで数日停滞してしまいます。

ようやく意を決して走り始め、町を出て大自然の中を走る爽快感を感じ始めたとき、自転車の旅の楽しさを改めて実感し、前に進もうという意欲が湧いてきたのです。

冒頭の引用はそのシーンからですが、これは、自転車の旅に限らず、すべての旅にもあてはまることなのではないでしょうか。

あれこれ考えていても仕方がないのだ。とにかく動くことだ。動き出せば、おのずと力が湧いてくるのだ。


行動しているときと行動していないときとでは、心のモードというか、心の働き方がはっきりと違うのでしょう。あれこれ考えるよりも、一度動き出してしまえば何とかなってしまうことが多いのは、とにかく動き出すことで、普段とは別のエネルギー・システムみたいなものが働き出すからなのだと思います。

それにしても、日本一周の実績があった石田氏にとってさえ、いざ世界一周を、となると、実際に走り出してみるまでは、ものすごい緊張と不安との戦いだったんだな、ということがよく分かります。

自転車も、走り始めのひとこぎが一番重いものです。

旅においても、旅に出ようと決意し、出発にこぎつけるまでのドタバタを含めて、この最初の苦しいモヤモヤ状態を何とか突破することができれば、新しい景色が開けてきます。

しかし、「とにかく動く」ための最初のパワーを注ぎ込み、その間の苦しさを乗り切れるかどうかは、結局、旅に対する情熱や、本人の意志の力にかかっているということなのかもしれません。

at 18:37, 浪人, 旅の名言〜旅の予感・旅立ち

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ワット・プートークで冷や汗

タイ北部、ラオスとの国境の街ノンカイに滞在していたときのことです。

英語のガイドブックで、ワット・プートークという寺があることを知りました。ノンカイからはかなり遠いのですが、岩山の上に仏教の僧院があって、修行僧の小屋が断崖の途中に建てられ、小屋同士は木の回廊で結ばれているらしいのです。

何かとても奇妙なものが見られそうな予感にワクワクして、早起きして出かけました。

ノンカイからローカル・バスで東へ2時間、ブンカンという街で南に向かうバスまたはソンテウ(ピックアップ・トラックの後部を座席にした乗り合いバス)に乗り換えて30分、バン・シウィライという村からソンテウまたはトゥクトゥク(タイの3輪タクシー)で30分行ったところにワット・プートークがあります。

何もない平原のようなところに、赤い岩山がいきなりボコッと突き出していて、その表面には、マッチ細工のようにコチャコチャとした建物が張り付いているのが見えます(ちなみに、トゥッ・ムーさんのブログ「アライナ! 泰国生活記」には、ワット・プートークに関する写真入りの詳しい記事があります)。

あいにく小雨が降っていましたが、私は期待に胸を膨らませながら階段を登り始めました。周囲に人の気配は全く感じられず、境内は奇妙な静けさに包まれています。

途中で、参拝(?)を終えたらしいタイ人の若者5〜6人のグループとすれ違いましたが、彼らはみな、何だか顔が引きつっています。何があったのか分かりませんが、ちょっと嫌な予感がしました。

急な木の階段を上がっていくうちに、「第5層」と呼ばれている場所にたどり着きました。この山を修行の場所とするために僧院を築いた僧は、岩山全体を7つの階層に分け、それを修行の階梯に見立てているそうです。上に登ることが高い境地を象徴するということのようですが、たしかに「第5層」の岩場からの眺めは素晴らしく、周囲の平原がはるか彼方まで見渡せます。

その地点から、岩山の周りをぐるりと取り囲むように木の回廊が作られていて、その途中には、修行僧のためと思われる小屋が建てられているのが見えます。私はその先がどうなっているのか見てみたくなり、回廊の上を歩き始めました。頭上には、岩が屋根のように覆いかぶさっているので、雨に濡れずに歩くことができます。

しかし、しばらく歩いているうちに、不安を覚え始めました。木の回廊をよく見てみると、厚さ1〜2センチしかなさそうなペラペラの細長い板材で作られています。それも見るからに素人のやっつけ仕事で、いつバラバラになってもおかしくないような気がします。

薄いスノコのような床板の隙間からは、数十メートル下の森が見えます。足元のはるか下を、薄い霧のかたまりが流れていきました。

断崖に作りつけられた回廊といっても、ところどころで細い棒が岩に斜めに突き刺してあるだけで、それ以外に岩山と木の廊下との接点はありません。セメントで固めたり、何かワイヤーのようなもので縛り付けてあるようにも見えません。

回廊はほとんど空中に浮いていて、何かとても微妙なバランスで宙吊りになっている感じなのです。木の廊下全体がどうやってバランスを保っているのか、どうやって細い棒だけで回廊を支えているのか、今この瞬間、すべてが崩れ落ちていないことが、ほとんど奇跡のように思えます。

そう気づいた瞬間、ものすごい恐怖に襲われました。

以前このブログでマレーシアのタマンヌガラ国立公園にある「キャノピー・ウォークウェイ」という施設のことを紹介しましたが、ジャングルの中の吊り橋を歩くそのスリルと、ワット・プートークのリアルな恐怖とでは 1,000倍くらいの違いがあります。尻の穴がこそばゆいとか、そういうレベルをはるかに通り越して、あまりの恐怖にへっぴり腰になってしまい、なかなか前に進むことができません。

相変わらず周囲には誰もおらず、岩山全体が不気味な静けさに包まれています。いつ足元で板が割れるか、いつ木の廊下が崩壊するかと気が気ではないし、万が一そんなことが起きたら、私の人生はそこで終わりです。たとえ運よく断崖の途中に引っ掛かって、ハリウッド映画みたいに助けを求めようにも、私を見つけてくれそうな人が誰もいないのです。

さっきからほとんど動いていないというのに、Tシャツはもう、冷や汗でビショビショです。それでも、尻尾を巻いて引き下がるのが悔しくて、一歩一歩進んでいるうちに、気がついたら、「ポイント・オブ・ノー・リターン(帰還不能点)」まで来ていました。もう、行くも還るもその危険度は同じで、今さら引き返すことはできません。

実際には、回廊の残りはあと数十メートルくらいで、大した距離ではないのに、歩けば歩くほど恐怖心が増してきて、足がすくみ、ついに動きが止まってしまいました。

しかし、こんなところで無意味に立ち止まっていても、恐ろしさがつのるだけです。

「ええい、ままよ!」

覚悟を決め、半ばヤケクソになって再び歩き出しました。

回廊の突き当たりまでなんとかたどり着き、岩山の裏側に回りこむと、木の回廊は終わり、砂岩のしっかりした道に変わりました。ホッとひと安心です。

さらに少し歩くと、岩が大きくせり出して洞窟状になったところに、大きな木製のテラスが作られていて、ホールというか、本堂のようになっていました。ここにもやはり誰もおらず、しんと静まり返っています。

しばらくそこで休んでいたら気持ちが落ち着いてきたので、懲りずに再び階段を登り、「第6層」を見てみることにしました。

先ほどと同じように、頼りなさそうな空中廊下が断崖に沿って続いています。しかし、先ほどと違って、この下には「第5層」の廊下があると思うと、何となく安心感がありました。万が一のことがあっても、下の「第5層」に引っ掛かって助かるのでは、という淡い期待があったからです。

しかし、歩き出してみると、回廊はさっきよりも細く、もろく、踏むたびにキシキシと音を立てます。しかも岩壁が目の前にせり出していて、屈まないと歩くことができません。床板の隙間からは、頼みの綱の「第5層」は全く見えず、足元は、やはり数十メートル下まで何もないのでした。

何でこんなことを続けているのか、自分でもよく分かりませんでしたが、せっかくここまで来て引き返すのはどうしても嫌でした。かといって、これ以上進むのはあまりにも恐ろしく、体はへっぴり腰を通り越して、激しく「くの字」に曲がってしまいました。体もガチガチになっていて、こんな状態ではバランスを崩しやすく、かえって危険です。

恐ろしさのあまり、心の中ではほとんど泣いていましたが、同時に意地にもなっていました。おびえる自分自身を叱りとばし、励ましながら、怖いのを我慢して背筋を伸ばし、できるだけサクサクと歩きました。

それでも、足元の薄板を踏み抜いたら終わりです。一度に二枚ずつ板を踏めば、体重が分散して少しは安全に歩けるのでは、などと考えて、足を「ハの字」に踏み出してみたりと、涙ぐましい努力を重ねました。

きしむ廊下を渡り切り、やっと突き当たりまでたどり着きました。そこまで何十分かかったのか、自分でも分かりません。岩山の裏へ回りこむと、そこには仏像がありましたが、無事渡り切れたことに心から感謝して、思わず手を合わせました。

しかし、何でこんなに恐ろしい思いをしたのでしょう。木の回廊が非常にもろい作りで、リアルな危険が迫っていたことはもちろんですが、それ以上に私が、この空中の遊歩道を作った修行僧たちを信用していなかったからではないでしょうか。その仕事の仕上がりを見て、いかにも素人風の粗雑な作りに驚き、いつ回廊が崩れてもおかしくないと思い込んでしまったのでした。

しかも、この回廊の上を歩く人間を一人も見かけなかったことも疑惑の原因になりました。もしかして、作られてから時間が経ち、今は危険すぎて、修行僧ですら誰も歩いていないのではないか、私はそれを知らずにこんなところに迷い込んで、命の危険を冒しているのではないか、という妄想が膨らんでしまったのです。

そして、疑惑を晴らそうにも、そのとき境内には誰もいなかったのです。

しかし、そんな風にして彼らの仕事ぶりを疑っている自分がみじめでした。もしかすると、そんな自分が嫌で、ことさら意地になってこの回廊を渡り切ろうと思ったのかもしれません。

「第6層」からは、「第7層」へのはしご段があったので、一応登ってみましたが、そこにはもう回廊はなく、雨にぬかるんだ細いけもの道が見えるだけでした。足を滑らせる危険があったので、そこはさすがにあきらめて引き返しました。

岩山から降りてくると、「入山」してから2時間以上も経っていました。結局、最初に見かけた若者のグループ以外、誰とも会わず、一人で寺の境内をさまよっていたことになります。

終わってみれば何事もなかったものの、何とも不思議で恐ろしい体験でした。

朝から何も食べていなかったことに気づき、門前の食堂でビーフン麺の遅い昼食をとりました。冷や汗にまみれ、疲れ切った体に、田舎っぽい、素朴なスープの味が染み入ってくるようでした。

at 19:02, 浪人, 地上の旅〜東南アジア

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『ヤバい経済学 [増補改訂版]』

スティーヴン・D・レヴィット/スティーヴン・J・ダブナー

Kindle版はこちら

 

評価 ★★☆☆☆ よかったら暇な時に読んでみてください

真っ黒な表紙に加えて「ヤバそう」なタイトルに、ちょっと手に取るのをためらってしまいそうな本ですが、実際に読んでみると別に「トンデモ本」ではなく、けっこう真面目な内容であることがわかります。

私は経済学に関しては素人なので、経済学者というと、国家レベル、世界レベルの経済活動を説明したり予測したりできるような精密な理論モデルを考え出したり、何か普遍的な経済法則のようなものを探求しているのかと思ってしまうのですが、経済学者スティーヴン・D・レヴィット氏が興味を持っているのは「ごまかし、腐敗、犯罪」なのだそうです。

一見、経済学とは何の関係もなさそうですが、「インセンティブ」という観点から見ると、そこに経済学とのつながりが見えてきます。

 

 経済学は突き詰めるとインセンティブの学問だ。つまり、人は自分の欲しいものをどうやって手に入れるか、とくに他の人も同じものが欲しいと思っているときにどうするか、それを考えるのが経済学だ。


そう考えると、何とかして他人を出し抜いて、自分だけおいしい思いをしようというインチキや犯罪も、「インセンティブの暗黒面」として立派な研究対象になり得るわけです。

経済学の世界には、インセンティブに対して人間がどう反応するかを測るために開発されてきた統計的手法が揃っています。だから、信頼のおけるデータを見つけ、統計的な手法を適切に当てはめることができれば、人間活動の暗黒面に関しても、いろいろなことが見えてきます。

 

 道徳は世の中がどうあってほしいかを表すと言えるだろう―― 一方、経済学は世の中が実際にはどうなのかを表している。経済学は、他にも増して、計測の学問である。経済学は非常に強力で柔軟な手法を取り揃えているので、情報の山をかきわけ、何かの要因一つや要因全体が及ぼす影響をちゃんと探り当てることができる。


例えば本書では、1990年代のアメリカで犯罪が激減したのはなぜか、というトピックが取り上げられています。

これについては従来、好景気の影響によるものだとか、ニューヨークのジュリアーニ市長らによる画期的な取り締まり戦略のおかげだとか、銃規制の強化や、人口の高齢化によるものだなどと言われてきましたが、レヴィット氏らは、こうした従来の通念をくつがえします。

彼らは、懲役の増加や警官の増員、麻薬市場の暴落なども犯罪減少の要因であることは認めていますが、それ以上に、1970年代の中絶の合法化が最大の要因だという、意外な理由を明らかにしています。

これは、正直なところ、日本人にとっても何だか嫌な感じのする話ですが、中絶の可否が政治問題になっているアメリカでは、もっと感情的で、強烈な反応を引き起こしたようです。

レヴィット氏らがそう主張する根拠については、具体的に本書や彼の論文にあたっていただくとして、一言付け加えておきたいのは、彼らは別に中絶を合法化することが良いとも悪いとも言っていないということです。

彼らは単にデータの山を分析し、「世の中が実際にはどうなのか」を示してみせただけです。ただし、これは誰の目にも明らかなものではなく、彼らの示す論理的な筋道をたどることで初めて見えてくるものであり、ひょっとすると、彼らの分析が間違っているという可能性もあります。彼らの出した結論が適切であるかどうかは、読者それぞれが判断すべきことなのでしょう。

他にも、人間社会のダーク・サイドや日常生活に関する話題が盛り沢山で、経済学者の仕事を紹介するという本の割には面白く読めます。

なお、私が読んだのは、 [増補改訂版]の前の旧版です。[増補改訂版]は110ページの増量で、新しいトピックが追加されたほか、「犯罪と中絶合法化論争」のその後にも触れられているそうです。


本の評価基準

 以下の基準を目安に、私の主観で判断しています。

 ★★★★★ 座右の書として、何度も読み返したい本です
 ★★★★☆ 一度は読んでおきたい、素晴らしい本です
 ★★★☆☆ 読むだけの価値はあります
 ★★☆☆☆ よかったら暇な時に読んでみてください
 ★☆☆☆☆ 人によっては得るところがあるかも?
 ☆☆☆☆☆ ここでは紹介しないことにします

 

 

 

at 19:01, 浪人, 本の旅〜人間と社会

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