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旅の名言 「経験と未経験とが……」

 つまり、あの当時の僕には、未経験という財産つきの若さがあったということなんだろうと思うんですね。もちろん経験は大きな財産ですが、未経験もとても重要な財産なんです。本来、未経験は負の要素ですけど、旅においては財産になり得るんです。なぜなら、未経験ということ、経験していないということは、新しいことに遭遇して興奮し、感動できるということだからです。
 もしそうだとするなら、旅をするには幼ければ幼いほどいいということにならないだろうか。そういう疑問が湧いてくるかもしれません。しかし、それはそうならないんです。極めて逆説的な言い方になりますが、未経験者が新たな経験をしてそれに感動することができるためには、あるていどの経験が必要だからです。
 経験と未経験とがどのようにバランスされていればいいのか。それは「旅の適齢期」ということに関わってくるのかもしれません。


『天涯〈6〉雲は急ぎ船は漂う』 沢木 耕太郎 集英社文庫 より
この本の紹介記事

沢木耕太郎氏による旅の写真集『天涯』で、彼は若き日の自らの『深夜特急』の旅を振り返り、「旅の適齢期」について考察しています。

沢木氏は26歳の時、軌道に乗りかけていたライターの仕事を中断して、先の見えない長い旅に出ました。

当時の彼には、ある人物からの影響で、26歳までに海外に出ることに対してはちょっとしたこだわりがあったようです。しかし、それはあくまでも沢木氏を旅へと押し出したいくつかの要因のうちの一つであって、絶対に26歳でなければならない、というほどの必然性はなかったようです。

ただ、『深夜特急』がベストセラーになり、若者の多くが沢木氏の生き方に影響を受けるようになると、26歳という数字が一人歩きして、読者の中には、26歳までに海外放浪の旅に出なければならないという、「旅の適齢期26歳説」を信奉する人も出てくるようになりました。

そのことについて、沢木氏はこんな風に語っています。

すべてはいい加減な話なんですけど、『深夜特急』にはそう書いてあるので、二十六ぐらいになると読んだ人はなぜか焦っちゃうらしいんです。「俺もそろそろ出なきゃいけないんじゃないか」と思うらしくて、会社を辞めて実際に旅に出て行っちゃう人もかなりいるらしいんです。僕は何人もの人の道を誤らせているらしいんです(笑)。でも、僕は心のどこかで、行かないよりは行った方がいいというふうに思っているんです。だから、責任を問われるのは困りますけど、道を誤ることがそんなに悪いことだとは思っていないようなところがあるんです。
(『天涯〈5〉風は踊り星は燃え』より)


「旅の適齢期」が何歳であるのか、それは、旅人によっても違うだろうし、旅の性質によっても違ってくるでしょう。すべての人間に共通する年齢というものがあるとは思えません。しかし、冒頭の引用の中で沢木氏が語っているように、「経験と未経験」とのバランスに「旅の適齢期」が関係しているのだとすると、確かに20代後半というのは、現代人にとって旅にふさわしい時期なのかもしれません。

「新しいことに遭遇して興奮し、感動できる」から、未経験であることが旅をするうえでの大きな財産になる、というのはよく分かります。例えば日本だけに長く暮らして日本人になり切ってしまうと、海外旅行中の食事ひとつとっても、慣れない異国の料理を受けつけず、梅干や味噌汁ばかり恋しがることになりがちだ、というのはよく聞く話です。

しかし一方で、「未経験者が新たな経験をしてそれに感動することができるためには、あるていどの経験が必要」というのは、鋭い指摘だと思います。

自分が体験しているものが、自分にとって非常に挑戦的で、新しい経験であると認識するためには、そう判断できるだけの何らかの基準が自分の中に確立している必要があります。日本的でないものを認識し、その体験の新しさを味わうためには、日本人としての社会経験をある程度積み重ね、日本的な考え方や価値基準を身につけておく必要もあるわけです。

もっとも、それがあまりに身につきすぎれば、異質なものを受けつけなくなってしまうこともあり得るわけです。そのあたりの「経験と未経験」のバランスを斟酌し、自分にとっての「旅の適齢期」がいつであるかを知るためには、結局、旅に出るひとりひとりが自らの直感で判断するしかないのでしょう。

そしてもし、その人が絶妙のタイミングで旅に出ることができるとしたら、旅は単なる物見遊山を超えて、その人の人生にとって、非常に豊かな経験を与えてくれる大きなチャンスになるのではないでしょうか。

at 19:06, 浪人, 旅の名言〜旅人

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「おまえは日本の人か?」

ベトナム北部の山岳地帯を旅していたときのことです。

ハノイからローカルバスを乗り継いでディエンビエンフーに向かう途中、ソンラという町に立ち寄りました。

山岳少数民族の集まるカラフルな市場を除けば、観光的な見どころもほとんどない、山あいの小さな町です。それほど長居したくなるような町ではないのですが、朝から晩までローカルバスに連日乗り続けていると体力がもたないので、ここで2、3日のんびりと過ごすつもりでした。

ゆっくりと朝寝してから市場まで散歩に出かけました。朝市のにぎわいはピークを過ぎていましたが、近くの山から下りてきたのか、色とりどりの民族衣装を着た人々が小さな市場の中を行き交っています。

そのカラフルな眺めに目を奪われながら、ぶらぶらと歩いていると、いきなり鋭い日本語で呼びつけられました。

「おまえは日本の人か?」

変な日本語ですが、発音はなまりもなく、明瞭でした。まるで詰問でもするような言い回しにギクッとして振り返ると、おばあさんがニコニコと笑っています。

どうやら若い頃に覚えた日本語を思い出して話しかけてきたようです。東南アジアや中国の田舎を旅していると、たまにこんなことがあります。悪意はなさそうだったのでホッとして、「そうです」と答えると、そのまま彼女の店の前まで連れていかれました。

おばあさんの口からは、正確な発音の日本語がポンポンと飛び出してきます。それは、敬語や表現の仕方に所々変なところはありましたが、発音にしても言葉にしても、昔風というのか、不思議な上品さがあって、今の日本で話されている日本語よりずっと折り目正しく感じられました。

話によれば、彼女は10代の頃に、ハノイのホテルで日本人の若い女性たちと一緒に働いていたのだそうです。だとすると、若い頃は日本語漬けのような生活を送っていたのかもしれません。

そのうちに彼女はひらがなも読めると言い出し、何か書いてみろといって店の奥から紙を持ってきました。試しに私がひらがなを書いてみると、全部きちんと読むことができました。おばあさんも自分の記憶力に改めて驚いたのか、非常にごきげんな様子です。

おばあさんは店で売っている缶ビールやお菓子を私にくれると、さらに話し続けました。日本語とともに、若い頃の思い出があとからあとから甦ってきて、止まらなくなってしまったのでしょう。

彼女は、日本の兵隊さんにデートに誘われた日のことまで話してくれました。「夜七時半に待っているから」と兵隊さんに言われたけれど、自分のお父さんとお母さんにはたいそう心配されたんだそうです。笑いながら当時の思い出を語るおばあさんは、何だかとてもうれしそうでした。

彼女の場合は、第二次大戦の頃の日本や日本人に対しては、あまり悪い印象を抱いていないのでしょうか。彼女の場合は運がよくて、たまたま嫌な思いをしなくて済んだのでしょうか。それとも、嫌な思い出には、あえて触れないようにしているのでしょうか。

楽しい思い出に浸っているらしいおばあさんに、そういうことを聞くのは何となくはばかられ、私には聞けずじまいでした。そのおかげで、結局、そのデートが実現したのかどうかも聞きそびれてしまいましたが……。

今思い返してみると、第二次世界大戦が終わり、日本人が引き揚げていった後、彼女がどんな暮らしをしてきたのか、彼女は一言も語りませんでした。ベトナム戦争中、そしてその後の生活を含めて、きっと何十年もの大変な人生を歩んできたはずです。

きっとおばあさんは、日本語とともに脳裏に甦る若い頃の記憶をただ楽しみたかっただけで、私に何かを伝えたいというわけではなかったのでしょう。ましてや、戦乱のベトナムで生き抜いたその後の人生は、通りすがりの私に語り尽くせるようなものではなかったのかもしれません。

おばあさんの話がひととおり終わると、私は日本の歌を歌ってくれとせがまれました。日本の歌と言われても、おばあさんの知らないような最近の歌では白けてしまいそうだし、かといって私は昔の歌を知りません。とりあえず、童謡でお茶を濁すことにしました。童謡なら私の歌唱力でも問題なさそうだし、歌詞の意味もわかってもらえそうです。

「うみは ひろいな おおきいな つきが のぼるし ひがしずむ ……」

人前で童謡を歌うなんて何年ぶりだろうと思いつつ歌ってみたら、おばあさんはとても喜んでくれました。とりあえず、ホッとしました。

2時間くらい経ったでしょうか。店の前に座り込んで話をしているうちに昼過ぎになり、市場は閑散としてきました。私は頃合を見て立ち上がり、お礼を言って、おいとましました。

at 19:59, 浪人, 地上の旅〜東南アジア

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旅の名言 「現代の旅は……」

 よく言われているように、現代の旅は、夢にまで見た場所に、実際に行くとがっかりするかもしれないとおびえながら行く旅なのだ。(前に『ニューヨーカー』誌に出ていた漫画を思い出す。男がひとり、旅行会社で世界の有名観光地の写真を眺めてこう言うのだ。「どの場所もみんなすばらしい。早くがっかりしに行きたい!」)
 ディーン・マッカネルは『ザ・ツーリスト』という本の中でアカデミックな言葉を淡々と用いながらこの問題を論じている。「個人がそれぞれに観光をすることよりも、正統派の観光地を最高の価値を有するものとして儀式的に承認することのほうが重要になっている。……旅行者が観光地を自分なりに味わうことよりも、イメージや社会通念が重要になっているのだ」


『旅に出ろ! ― ヴァガボンディング・ガイド 』 ロルフ・ポッツ ヴィレッジブックス より
この本の紹介記事

「現代の旅は、夢にまで見た場所に、実際に行くとがっかりするかもしれないとおびえながら行く旅なのだ」とは、非常に辛辣なコメントですが、今や、旅に出る人のほとんどは、多かれ少なかれ同じことを感じているのではないでしょうか。

旅行産業が発展するにつれ、旅行者=消費者と見なされるようになり、旅行業界は魅力的な観光地を数多く開拓し、そこにできるだけ多くの消費者を送り込もうとします。一方、世界の国々は、観光産業が経済発展にプラスになると気づき、旅行客を積極的に誘致しようと努力するようになりました。

そのために、プロのスタッフの手によって、それぞれの観光地の美しい写真やイメージが用意され、観光施設が整備され、大々的な宣伝がされるようになりました。私たちはまるで映画の予告編でも見るようにそれらの情報に接し、大いなる期待を抱いて旅に出ますが、現地では期待と現実のギャップにがっかりさせられることも少なくありません。

もちろん、期待通り、あるいは期待以上の素晴らしい場所が世界中に存在するのも事実です。また、知られざるパラダイスを求めるバックパッカーたちによって、そうした場所が次々に「発見」され、旅人に新たな憧れの場所を提供してくれているのも確かです。

しかしそうした場所も、世界中から旅人を引き寄せるようになると急速に変質し、観光地化が進んで、いつの間にか「がっかり系」のスポットに転落してしまうこともあるのです。

ある程度目の肥えた旅行者は、こうした経験を重ねるうちに、「正統派の観光地」にこだわるのをやめ、自分にとって特別の場所を見つけたり、旅先で思いがけない出来事や人と出会うことに興味の対象が移っていくものです。

『旅に出ろ!』の著者ロルフ・ポッツ氏は、冒頭の引用部分に続けて、旅人に次のようにアドバイスしています。

世界的に有名な観光地でフラストレーションを感じてしまう旅行者が多いのは、自分の国でのいつものルール、つまり決められた日課や慣習に従うことで「見返り」を受けるというルールをまだひきずっているからだ。そうではなくて、旅に出たら、自分のために自分がしたいと思ったことだけに専念すればいいということをけっして忘れないでほしい。


つまり、「先進」産業社会での日常的なルール、すなわち会社の宣伝やガイドブックのマニュアルに従うことで、無駄な回り道をするリスクを冒さずに、効率的に満足感を得るといういつものやり方をいったん棚上げして、改めて自分の心に耳を傾け、心の動きや直感に従うやり方を試してみるべきだと言うのです。

それは当然、人によって違うさまざまな行動になるはずですが、ポッツ氏は、そうした試みのささやかな例を挙げています。

クレムリンの外で、レーニン廟見学の列が長すぎると思いつつ自分も並んでいる必要なんかない。ビールを二、三本買って赤の広場の隅に陣取り、モスクワの人の流れを心行くまで眺めたっていいのだ。バリ島のクタビーチがちゃちなショッピングセンターみたいだと思ったら、ガイドブックには頼らずに、内地に向かうバスに乗りこみ、山間の静かな村で迷子になってみたっていい。天安門広場の端にマクドナルドがあることが気に入らなかったら、市バスに乗って適当な場所で降り、北京の胡同をさまよいながら古い町並みに残る庶民の生活をのぞいてみることだってできるのだから。


考えてみれば当たり前の話ですが、誰に命令されて旅に出るわけでもない以上、旅先で何をしようが、自分自身が満足できればそれでいいわけです。宣伝やガイドブックに従って何度もがっかりさせられるうちに、旅人は自分なりに旅を楽しむささやかな方法を覚え、自分の心に耳を傾けるコツをつかむのです。

ただし、気をつけなくてはならないのは、観光地でがっかりすることを恐れるあまり、そうした場所を過剰に避けようとしてしまうことです。

私もかつてバックパッカーとして旅をしている時、「観光地化現象」を嫌うあまり、旅そのものが窮屈になってしまったことがありました。旅行産業の「魔の手」にかかるまいとして、ガイドブックに載っているようなツーリスト・カフェやレストランを避け、ツーリスト・バスや旅行代理店を避けることで、自分なりのオリジナルな旅を楽しんでいるつもりでしたが、それは少々滑稽なやせ我慢に過ぎなかったのかもしれません。ポッツ氏も次のように書いています。

 ただし、いわゆる「観光地」をつねに避けようとするのも考えものだ。バックパッカーを皮肉った『インドいき』の中で大衆作家のウィリアム・サトクリフは、インドに出かけた若者グループが一般的な観光コースを避けるあまり、何をしたらいいのかわからなくなっている様子をコミカルに描いている。


「旅とはこうあるべきだ!」と頭で決めつけるのをやめ、旅を豊かにしてくれる手段として観光産業もうまく活用しながら、自分なりの旅を楽しめるようになったとき、旅はさらに新鮮で美しい世界を旅人の前に示してくれるのかもしれません。

at 18:56, 浪人, 旅の名言〜旅について

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『レクサスとオリーブの木 ― グローバリゼーションの正体』

評価 ★★★☆☆ 読むだけの価値はあります

この本が書かれたのは1999年、第二次大戦後ずっと続いてきた冷戦システムが、ベルリンの壁とともに崩壊してから10年という時点でした。

冷戦後の混沌とした10年間、世界各地で取材をしてきたニューヨーク・タイムズ記者のフリードマン氏は、世界が急速に統合され、各国が経済の開放、規制緩和、民営化を中心に据えた自由市場資本主義を受け入れていくプロセスに着目しました。

彼は本書で、冷戦に変わる新しい世界システムとして、それを「グローバル化システム」と呼び、それがどのように働いているのか、トヨタのレクサス(世界市場・金融機関・コンピュータ技術などが具現化する、より高い生活水準の象徴)とオリーブの木(家族・共同体・国家・宗教など、人々にアイデンティティと居場所を与え、この世界にしっかりと根づかせるものの象徴)の緊張関係を軸に、豊富な事例によってわかりやすくまとめています。

冷戦時代から進んでいた技術・金融・情報の民主化が1980年代末に臨界に達し、ベルリンの壁を吹き飛ばした後も、それはさらに加速してあらゆる障壁を崩し続け、世界中の人々を巨大な競争に巻き込みつつあります。そこには、従来の国家のほかに、「電脳投資家集団」や影響力のある「超大個人」というプレイヤーも加わり、それぞれが複雑に相互作用し、時には激しい摩擦を生み出しています。

内容的にはそれほど目新しく感じないのですが、それは、本書で描かれているグローバル化のさまざまな側面が、ここ数年の間、新聞・テレビを通じて何度も取り上げられ、私自身がそれにすっかり慣れてしまったからなのだと思います。

むしろ、この本が出版された後、2001年9月11日の同時多発テロを含めてさまざまな出来事があり、世界の状況はますます流動的になっているように見えます。

フリードマン氏はグローバル主義者であり、アメリカ人であり、レクサスに乗る成功者でもあります。グローバル化に光と影の側面があることや、グローバル化に対する反動があることは認めながらも、自由市場資本主義に替わるような、思想やイデオロギー上の選択肢はあり得ないという立場です。

確かに、レクサスが象徴するグローバル化のプラス面は素晴らしいものだし、私も日本人として実際にその恩恵を受けています。また、世界中の人々の、物質的な豊かさへの衝動こそが、この大きなうねりを引き起こしているのだというフリードマン氏の指摘はもっともだと思います。

ただ、私個人としては、本当に他の選択肢はあり得ないのだろうか、という気がしてなりません。

統合された市場で、世界中の人間が24時間競い合い、経済学者シュンペーター氏の言う「創造的破壊」の嵐が吹き荒れ、人々が速く・安く・快適なモノを求めてひたすら走り回っているような世界は、物質主義者にとっての天国かもしれませんが、それ以外の価値観を持つ人々にとって、そこは果たして心休まる場所なのでしょうか?

それはともかく、本書はグローバル化の仕組みとその問題について、具体的な事例を通じてわかりやすく説明しているので、一読する価値はあると思います。

ただし、上下巻合わせて550ページ以上と、かなりのボリュームがあるので、忙しい人にとっては手軽に読むというわけにはいかないかもしれません。もう少し事例を絞って、内容を一冊分に縮めてくれたらと、余計なことを考えてしまいました。


トーマス・フリードマン著 『フラット化する世界』の紹介記事


本の評価基準

 以下の基準を目安に、私の主観で判断しています。

 ★★★★★ 座右の書として、何度も読み返したい本です
 ★★★★☆ 一度は読んでおきたい、素晴らしい本です
 ★★★☆☆ 読むだけの価値はあります
 ★★☆☆☆ よかったら暇な時に読んでみてください
 ★☆☆☆☆ 人によっては得るところがあるかも?
 ☆☆☆☆☆ ここでは紹介しないことにします

at 20:01, 浪人, 本の旅〜人間と社会

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旅の名言 「窓の外の風景を……」

 窓の外の風景を眺めている私は、水田や墓や家や木々に眼をやりながら、もしかしたら自分の心の奥を覗き込んでいるのかもしれない。カジノでバカラという博奕をやりながら、伏せられたカードではなく自分の心を読んでいるのと同じように、流れていく風景の向こうにある何かに眼をやっているのかもしれない。だとすれば、窓の向こうに風景があろうとなかろうと、そこが闇であろうがなんであろうが変わりないではないかということになるかもしれない。しかし、やはり、そこには闇ではなく風景があってほしい。


『一号線を北上せよ<ヴェトナム街道編>』 沢木 耕太郎 講談社文庫 より
この本の紹介記事

私は、沢木氏のこの文章に、深い共感を覚えます。

列車やローカルバスに揺られながら、車窓を流れる光景をぼんやり眺めている時間というのは、もしかすると最も「旅らしい」瞬間かもしれません。移動こそ旅の本質だと考えるなら、目まぐるしく移り変わっていく景色こそ、自分が今まさに移動中であることを強く実感させてくれるはずだからです。

しかし、私の個人的な経験から言えば、エキゾチックな風景に目を奪われるのは、列車やバスが動き出してからせいぜい数時間くらいまでです。それが丸一日、あるいは何日も続けば、さすがに感動は薄れます。特にローカルバスで旅していると、一日に移動できる距離が短いために、同じ国、同じ地方の同じような風景を毎日見続けることになりがちです。

それに、時々道端に何か面白そうなものを見つけても、あっという間に視界から流れ去ってしまいます。ビデオのように再生してもう一度見ることもできません。隣の席に地元の人が座っていて、いろいろと親切に教えてくれたりすれば別ですが、たいていの場合、それが何であったのか知ることさえできないうちに、次々に記憶の霧の中へと溶け去っていってしまうのです。

車窓風景には、映画やテレビのようなストーリーや感動の場面はありません。一日中景色を眺め続けたところで、何かがはっきりと分かるわけでもなく、ドラマチックな感動があるわけでもありません。そう考えると、実に無意味で退屈だとも言えます。

それなのに、私にとって、知らない国の田舎の、何の変哲もないような道を走りながら、ただぼんやりと車窓を眺め続けることには不思議な中毒性があるようです。自分ではそれほど楽しいと意識しているわけではないし、肉体的にはしんどい旅であることはわかっているのに、何度も何度も同じような旅を繰り返してしまうのです。

もしかするとそれは、沢木耕太郎氏の言うように、車窓風景を通して「自分の心の奥を覗き込んでいる」からなのかもしれません。

目の前を、あらゆるモノが通り過ぎていきます。初めのうちはその一つ一つがエキゾチックに感じられ、頭の中でいろいろ考えたり、連想を膨らませたりしているのですが、色々なモノが次々にやって来ては去っていくので、だんだんついていけなくなり、思考がパンク状態になります。

歩くスピードではなく、全てが飛ぶように流れていくので、通常の思考モードでは対応し切れないのでしょう。そのうちに、余計なことは考えず、あらゆるモノが目の前に現れては消えていくのに任せるようになります。

そうやって、風景が流れていくに任せ、物思いに耽っているような、そうでもないような状態でボーッと窓の外を見ていると、ふだんとは違う意識モードのスイッチが入るというか、世界が違って見えてくるような気がします。そしてそれは、何か心の非常に繊細な部分に関わっているような感覚があるのです。

沢木氏はそれを、「流れていく風景の向こうにある何かに眼をやっている」と表現していますが、それは意識的に努力してそうしているというよりは、次々に流れ去る風景が半ば自動的に引き起こす、別モードの意識なのかもしれません。

もちろんそれは、私の場合、はっきりと自覚できるほどではなく、あくまでもぼんやりと感じられるだけです。だから、何がどうなのかと、言葉ではうまく説明できないのですが、その状態に一種の中毒性も感じているということは、自分でも無意識のうちに、そこに重要な「何か」があることを感じ取っているからではないでしょうか。

そして、その「何か」こそが、表面的な意識や理屈を超えて、私を何度も旅へと駆り立てているのに違いありません……。

at 19:32, 浪人, 旅の名言〜旅人

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『深夜特急』の名言

ユーラシア大陸を乗り合いバスで疾走する若者の旅を描いた『深夜特急』は、バックパッカー旅行記の名作です。

今まで、その中から「旅の名言」をいくつか紹介してきましたが、まとまった数になったので、以下に目次としてまとめてみました。

もちろん、『深夜特急』には他にもさまざまな名言があります。旅の本が好きな方、バックパッカーとして実際に旅をされている方には、ぜひ原典を読まれることをおすすめします。

旅について
 「歩いても歩いても……」
 「旅人の相手をしてくれるのは……」

旅の予感・旅立ち
 「さて、これからどうしよう……」

衣食住と金
 「金がないなどと……」
 「便所で手が……」
 「金がなくなり……」

旅の理由
 「わからないからこそ……」
 「彼らがその道の途中で……」

旅人
 「異国にありながら……」
 「ヒッピーとは……」
 「ヒッピーたちが放っている……」

危機と直感
 「恐らく、私は……」
 「どこへ行くにも……」
 「騙されることは……」
 「自分はいま旅という……」
 「このような危うさを……」

旅の終わり・帰還
 「やがてこの旅にも……」

at 19:02, 浪人, 旅の名言〜未分類

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『ターミナルマン』

サー・アルフレッド・メヘラン,アンドリュー・ドンキン

評価 ★★★☆☆ 読むだけの価値はあります

外国旅行中にパスポートを失ったために、空港の入管で自分の身分を証明できなくなり、どこの国からも受け入れを拒否されて、仕方なく空港の待合室に住み着くことになった男……。

2004年に公開されたスピルバーグ監督の映画『ターミナル』は、そんな奇想天外な境遇に陥った男の物語を描いていますが、この話のネタ元になったという人物が実在します。

本書は、イラン生まれのメヘラン・カリミ・ナッセリー、通称アルフレッド・メヘラン氏の自叙伝です。彼は1988年、パリから飛行機でロンドンに渡ろうとしたところ、身分証明書を所持していないためにパリへ強制送還されたのですが、身分証明書がないためフランスに入国することも、第三国に向かうこともできなくなりました。

彼はシャルル・ド・ゴール空港に足止めされ、そのまま18年近くもの間、第1ターミナルの赤いベンチに座って、そこから出発できる日を待ち続けました。

一体どうしてそんなことになってしまったのでしょう? 

アルフレッド・メヘラン氏は、パスポートを再発行してもらい、出身国のイランに帰れないのか? 彼は空港の待合室から出ないまま、所持金もないのにどうやって今まで食いつないできたのか? それにそもそも、身分証明書をもっていないという理由で入国を拒否されたまま、他に何の選択肢も与えられず、十数年も放置されるなどということが現代のヨーロッパであり得るのか? 

この人物の存在を知ったら、どんな人でも、次から次へと疑問が湧いてくるはずです。本書では、彼がド・ゴール空港で足止めされ、動けなくなった複雑な事情が、タマネギの皮を剥くように少しずつ明らかにされていきます。そして、それはやがて彼の出生の秘密にまで及んでいきます……。

実際の文章は作家のアンドリュー・ドンキン氏が執筆していて、本のミステリアスな展開自体は面白いのですが、読み終わって、アルフレッド・メヘラン氏の人生について詳しく知ってしまうと、何か納得できないような、モヤモヤとした後味が残ります。

それは、彼の人生が、まるで得体の知れない不条理さに包まれているように感じるからかもしれません。

彼の人生は(まだすべてが終わったわけではありませんが)、あらゆる国から拒否され続ける人生であり、国籍という問題に一生つきまとわれる人生です。この地球上で合法的に暮らせる場所を誰からも与えてもらえず、空港の待合室という、入管と入管の間のエアポケットにはまり込んだまま、ただひたすら救出を待ち続ける日々。

しかし、物事は一向に解決せず、人々は彼の側を急ぎ足で通り過ぎていくだけです。そしていつしか、彼はその孤独で宙ぶらりんの状態が自分の運命であると受け入れたかのように、ド・ゴール空港第1ターミナルの赤いベンチを自分の家と思い定め、毎日毎日その同じベンチに座り続けるのです。

どこの国の人間でもなくなり、定職もなく、同じ建物の中を行ったり来たりするだけの日々。はた目には普通の外国人旅行者のようにしか見えないし、自分の足でどこにでも歩いていけるはずなのに、国籍という見えない壁があるために、そこから出ることができないのです。彼にとっての全世界とは、ド・ゴール空港第1ターミナルの建物の中だけになってしまったのです。

私には、その何ともいえない「不条理感」を、どうにもうまくお伝えできないのですが、この本を実際に読んでいただければ、その奇妙な感じを分かっていただけると思います。

なお、アルフレッド・メヘラン氏については、ウィキペディアの項目「マーハン・カリミ・ナセリ」でもその略歴等を知ることができます。

現在彼はどうしているのか調べてみたら、ウィキペディアの英文の項目「Mehran Karimi Nasseri」に、アルフレッド・メヘラン氏は2006年に病気で入院し、既にド・ゴール空港第1ターミナルを退去したとありました。


本の評価基準

 以下の基準を目安に、私の主観で判断しています。

 ★★★★★ 座右の書として、何度も読み返したい本です
 ★★★★☆ 一度は読んでおきたい、素晴らしい本です
 ★★★☆☆ 読むだけの価値はあります
 ★★☆☆☆ よかったら暇な時に読んでみてください
 ★☆☆☆☆ 人によっては得るところがあるかも?
 ☆☆☆☆☆ ここでは紹介しないことにします

at 13:45, 浪人, 本の旅〜住まい

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旅の名言 「旅人の相手をしてくれるのは……」

 それにしても、旅人の相手をしてくれるのは老人と子供だけだな、とベンチに坐ったまま私は思った。観光客を相手の商売をしている人たちを除けば、いつでも、どこでも、私たち旅人の相手をしてくれるのは老人と子供なのだ。しかし、それを悲しがってはならないことはよくわかっている。なぜなら、まっとうな仕事をしている大人たちに、昼の日中から旅人を構っている暇などあるはずがなかったからだ。


『深夜特急〈6〉南ヨーロッパ・ロンドン』 沢木 耕太郎 新潮文庫 より
この本の紹介記事

バックパッカーとして旅をすると、沢木氏のこの言葉を実感をもって理解することができます。

パックツアーのようにスケジュール上の制約がなく、自由な旅を楽しめるとはいえ、バックパッカーの前に現れるのは、旅行者相手の商売をしている人や、同じような格好をしたバックパッカーたち、そして暇そうな老人や子どもばかりです。

どんな国でも、「まっとうな仕事をしている大人たち」は忙しく、暇人の旅行者を相手にしている時間はありません。よほどのきっかけでもないかぎり、彼らは旅人の姿を横目に見ながら、足早に側を通り過ぎていくだけです。

知らない国に行って、そこで働く普通の人と知り合い、彼らがどんなことを考えて日々生活しているのかを知る、というのが旅の目的の一つだと考えるなら、これはなかなか達成するのが難しいことなのかもしれません。

もちろん、それは難しいとはいえ、不可能というわけでもありません。列車やバスで移動中、隣の席のビジネスマンと話をして意気投合するとか、屋台やパブでビールを飲んでいて、隣のテーブルにやって来た勤め人と話をすることもあるでしょう。インドならその辺をブラブラと歩いているだけで、好奇心旺盛なオッサンがいろいろ質問してくるかもしれないし、親切な人の多いミャンマーなら、地元の人があれこれ世話を焼いてくれるかもしれません。

でもやっぱり、バックパッカーが遭遇する人たちのほとんどは、旅行客ズレした商売人であり、時間を持て余している老人であり、失業してブラブラしているオヤジであり、好奇心旺盛な子どもたちなのです。

彼らが我々の相手になってくれるということは、我々を相手にすること自体が商売になるか、忙しく打ち込めるほどの仕事を何も持っていないということです。つまり、彼らは「普通の人々」ではないということになります。

そう考えると、バックパッカーが旅先の国で抱く印象というのは、意外に偏ったものなのかもしれません。ある国や街の印象というものは、そこで出会う人々によって左右されがちなものですが、バックパッカーの出会う人々の層が偏っていれば、当然そこから得られる印象も偏ってしまうはずだからです。

ビジネスマンが海外でもビジネスマンばかりと会っているように、暇人は海外でも暇人とばかり出会うということなのかもしれません……。


『深夜特急』の名言

at 19:10, 浪人, 旅の名言〜旅について

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『読み替えられた日本神話』

評価 ★★★☆☆ 読むだけの価値はあります

ウィキペディアによれば、神話とは、「物の起源や意義を伝承的・象徴的に述べる説話的物語」です。「日本神話」というと誰もが『古事記』『日本書紀』を思い浮かべますが、そこには、日本という国の成り立ちに関する古代の人々の思考の跡が、当時の姿のままで残されているといえます。

しかし、日本神話というと、どうしても戦前の国家神道の記憶と結びついてしまうし、近代科学における宇宙観・世界観と比較して、古代人の神話的思考を非科学的として低く評価する傾向もあって、学問の世界では、さまざまな先入観なしには扱いづらい分野であり続けているようです。

本書の著者、斎藤英喜氏は、そうした日本神話をめぐる閉塞状態を脱け出すためには、「中世日本紀」と呼ばれる中世の神話世界の研究がカギになるとしています。

 近代的なイデオロギーに封印された日本神話の不幸は、いかに脱却できるのか。その実践的な方法は、読み替えられた日本神話の現場、中世神話を起点とした神話変奏のダイナミズムに身を置くことにある。


私は本書によって、「中世日本紀」の世界を初めて知ったのですが、その「自由奔放な神話世界」は、現代の「トンデモ本」も顔負けです。

 中世日本紀の世界。そこには『記』『紀』神話に伝わっていない、イザナギ・イザナミの両親から棄てられたヒルコのその後の運命、あるいは源平合戦のさなかに失われた三種の神器のひとつ、草薙の剣のその後の行方、あるいは伊勢神宮でアマテラスの食事担当の神だったトヨウケ大神が、天地開闢の始元神、アメノミナカヌシへと変貌していく様子、さらには第六天魔王とか牛頭天王といった、古代神話には登場しない異国の神々さえも活躍していく。もはや仏教とか神道とかいった区別さえも通用しないような世界が繰り広げられていくのだ。
 そしてそのとき、古代神話の最高の主人公にして、天皇家の祖神アマテラスさえも、日本神話の読み替えのなかで、驚くべき姿にメタモルフォーゼしていく。太陽の女神たるアマテラスは女神の身体を脱ぎ捨て、さらにその身は銀色に輝く鱗をもつ蛇体の神へと変貌していくのだ。また太陽神の姿は「虚空」「無相」のメタファーへと読み替えられていく。


ちなみに、「中世日本紀」といっても、そういう名称の特定の書物が存在するわけではなく、中世の人々が、「日本紀」からの引用という形式を使って、元の神話の内容を改竄してしまったり、新たな神話をつけ加えてしまうという、「中世における神話創造のムーブメント」全体を指しています。

従来の学問の世界では、こうした神話世界は、荒唐無稽とか牽強付会と判断されて黙殺されるか、あるいは一部の好事家によって興味本位に取り上げられるだけでした。

しかし、先入観を離れ、そのムーブメント自体を丁寧に研究していくと、そこには、物事の根源を突き詰めていく、中世の人々の信仰と思考実験の現場、あるいは、異質なものが次第に混淆していく状況の中で、新しいビジョンにもとづいて、自由奔放で豊かな神話を生み出していくプロセスが浮かび上がってきます。

そして、そうした神話の「読み替え」という観点に立って、改めて日本の歴史を振り返ってみたのが本書です。古代から現代に至る、「日本列島のうえに延々と続いた神話変奏のプロセス」をたどっていくと、日本神話が、古代の時点で固まってしまった不変のものではなく、絶えず新しい意味をつけ加えられ、新しいビジョンのもとに甦りながら、物事の根源を語る神話としての役割を果たし続けるとともに、時代を超えてイマジネーションの源泉でもあり続けてきたことがわかります。

日本神話への新しい視点を与えてくれる、とても興味深い一冊です。


本の評価基準

 以下の基準を目安に、私の主観で判断しています。

 ★★★★★ 座右の書として、何度も読み返したい本です
 ★★★★☆ 一度は読んでおきたい、素晴らしい本です
 ★★★☆☆ 読むだけの価値はあります
 ★★☆☆☆ よかったら暇な時に読んでみてください
 ★☆☆☆☆ 人によっては得るところがあるかも?
 ☆☆☆☆☆ ここでは紹介しないことにします

at 19:05, 浪人, 本の旅〜ことばの世界

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『エグザイルス・ギャング』

Kindle版はこちら

 

評価 ★★☆☆☆ よかったら暇な時に読んでみてください

 

 

どんな国にも、どんな社会にもグループにも完全には所属せず、自分の世界を持ち、どんなルールにも縛られないで、自分の心に忠実に生きている奴ら。それが「エグザイルス・ギャング」なのである。

 


本書は、以前に紹介したロバート・ハリス氏の波瀾万丈の自叙伝『エグザイルス』の続編ともいうべき作品です。ハリス氏が30代から40代の頃に出会った人々を中心に、「社会の枠のぎりぎりの所で自分のスタイルを持って生きている連中」との交遊の日々が鮮やかに描かれています。

シドニーで書店&画廊「エグザイルス」を経営している頃に知り合った日本人留学生ツカサとサニーとの長い友情、「シドニー、東京、香港、カリフォルニア、バリ島と世界をまたにかけて繰り広げられた」ブラジル生まれのモデル、ハディアとの2年越しの恋、カブール、ゴア、バリ島と流れながら、20年以上も行商とギャンブルで生き延びてきたヨハンとの友情……。

めまぐるしい女性遍歴、ドラッグ、ギャンブル……。ハリス氏にしても、登場する「エグザイルス・ギャング」たちにしても、その生き方は相当ぶっ飛んでいますが、一人一人に何ともいえない存在感があります。ここまでやってくれると、あっぱれというか、つきぬけた爽快感さえ感じます。

それは、「ギャング」たちの行状を描くハリス氏の、独特の文体によるところも大きいのかもしれません。率直でドライな文章がとてもいい味を出していて、とんでもないことを書いている割には変ないやらしさを感じさせず、読んでいるうちに、そこはかとないユーモアさえ感じるほどです。

それにしても、こんな生活を続けていて、ハリス氏はよく生き延びてこられたな、という気がします。彼は幸運な例外だったのかもしれません。

1960年代の頃から、体制的な生き方に背を向けて「エグザイルス・ギャング」的な方向を目指した者は世界中に数え切れないほどいたはずですが、結局は続けられなくなって不本意ながら足を洗った者も大勢いただろうし、中には道半ばで破滅してしまった者もいたはずです。

こういう本を読んで、ハリス氏のワイルドで映画のような綱渡りの人生に憧れる人もいると思いますが、そうした世界では、彼のような鋭いバランス感覚をもっていないと生き延びるのは難しいかもしれない、ということは知っておくべきだと思います。

また、本書に書かれている内容だけでは、ハリス氏がどうして「エグザイル」として生きる道を選んだのか、理解しがたい部分もあるかもしれません。この本の前にまず『エグザイルス』から読まれることをお勧めします。


本の評価基準

 以下の基準を目安に、私の主観で判断しています。

 ★★★★★ 座右の書として、何度も読み返したい本です
 ★★★★☆ 一度は読んでおきたい、素晴らしい本です
 ★★★☆☆ 読むだけの価値はあります
 ★★☆☆☆ よかったら暇な時に読んでみてください
 ★☆☆☆☆ 人によっては得るところがあるかも?
 ☆☆☆☆☆ ここでは紹介しないことにします

 

 

at 16:24, 浪人, 本の旅〜世界各国

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