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『フューチャリスト宣言』

評価 ★★★☆☆ 読むだけの価値はあります

本書には、『ウェブ進化論』の著者梅田望夫氏と、TVでもおなじみの脳科学者茂木健一郎氏による対談と、それぞれが若い人々へ向けて行った講演の記録が収められています。インターネットが人間社会にもたらす大きな可能性と、すでに起こりつつある社会の根本的な変化について、二人は前向きに、熱く語っています。

梅田氏は『ウェブ進化論』の中で、インターネットの急速な普及によって、ここ10年ほどの間に、従来の社会とはまったく別のルールで動く「もうひとつの地球」が出現しつつあることを示しましたが、この対談では、その大変化にどう対応していくべきなのか、私たち一人ひとりが考える上でヒントになりそうなさまざまなアイデアを提示しています。

ちなみに、梅田氏は、この本のタイトルにある「フューチャリスト」という言葉について、次のように書いています。

フューチャリストとは、専門領域を超えた学際的な広い視点から未来を考え抜き、未来のビジョンを提示する者のことである。
 では私たちは、何のために未来を見たいと思うのか。
 「自分はいま何をすべきなのか」ということを毎日必死で考えているから、そのために未来を見たいと希求するのである。
 私たちはいま、時代の大きな変わり目を生きている。それは、同時代の権威に認められるからという理由だけで何かをしても、未来から見て全くナンセンスなことに時間を費やし一生を終えるリスクを負っている、ということだ。
 同時代の常識を鵜呑みにせず、冷徹で客観的な「未来を見据える目」を持って未来像を描き、その未来像を信じて果敢に行動することが、未来から無視されないためには必要不可欠なのである。
(梅田望夫「おわりに」より)


新聞やテレビなどの従来型メディアは、インターネットの危険や混乱を強調しがちですが、いくらネガティブに考えてみたところで、もはやインターネットのなかった時代に後戻りはできません。そうだとしたら、「そこでリテラシーを持って生きのびる術をそれぞれの人が身につけなければいけない(梅田氏)」のです。

私もその通りだと思います。「黒船がやってきた」以上、覚悟を決めて、新しい生き方に前向きに取り組むしかないようです。いま世界で何が起きているのかを冷静に把握し、ポジティブであり続けようという強い意志をもって、「ネット世界」と「リアル世界」の間でバランスをとりながら、問題を一つひとつ克服していくしかないのでしょう。

一方、茂木氏は、インターネットの出現は「知の世界のカンブリア爆発」であり、脳の使い方を劇的に変えるという意味で、人類にとっては言語を獲得したとき以来の大変化になるのではないかと語っています。

彼はネットの開く可能性に心底ワクワクしているようです。そして、「命を輝かせるためには、インターネットの偶有性の海にエイヤッと飛び込まないと駄目」なのだと言います。

二人ともそれぞれの専門分野で第一線の仕事をこなしながら、多くの人々・情報に能動的に接し、「自分はいま何をすべきなのか」を絶えず考え続けています。また、ネットの可能性に賭け、新しい試みに果敢にチャレンジし、それを「人体実験」的に自らの生き方に適用しようとしています。

二人のような社会への貢献はとても無理だとしても、その生き方について、私が学ぶべきことは多いと感じました。


本の評価基準

 以下の基準を目安に、私の主観で判断しています。

 ★★★★★ 座右の書として、何度も読み返したい本です
 ★★★★☆ 一度は読んでおきたい、素晴らしい本です
 ★★★☆☆ 読むだけの価値はあります
 ★★☆☆☆ よかったら暇な時に読んでみてください
 ★☆☆☆☆ 人によっては得るところがあるかも?
 ☆☆☆☆☆ ここでは紹介しないことにします

at 18:52, 浪人, 本の旅〜インターネット

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旅の名言 「最高の放浪というのは……」

ヴァケーションの唯一の目的は逃避だ。ヴァケーションに来る人は逃避することを考えているから、期待どおりの経験をするという頑なな決意を持って休日を過ごそうとする。一方、放浪の旅に出る人は、予想していたことも予想外のことも、楽しいことも楽しくないことも、どちらも別々のものではなく、進行中の同じ現実の一部なのだということを理解して、長い旅に備えている。もちろん放浪の旅だって、夢で思い描いたとおりのものに合わせようとしたってかまわない。ただし、それでは旅を見当違いのものにしてしまいかねない。そもそも、最高の放浪というのは、現実そのものを再発見することなのだから。
 どうか、旅を数週間、数か月と続けていくにしたがって、出発前から抱いていたステレオタイプな旅のイメージを解き放ち、ヴァーチャルだった期待を、現実の人や場所、生活に置きかえていってほしい。絵葉書のように静止した状態の空想を打ち破って、現実という力強い美を出現させる唯一の方法は、このプロセスだけだ。こうした旅をしながら物事を「とらえる」力をつけることは、精神的な鍛錬と少し似ている。身の回りにあるおもしろいことを探すのではなく、身の回りにある何にでもおもしろいと思う好奇心を持ち続けることなのだ。


『旅に出ろ! ― ヴァガボンディング・ガイド 』 ロルフ・ポッツ ヴィレッジブックス より
この本の紹介記事

今回も、放浪の旅(ヴァガボンディング)の入門書、『旅に出ろ!』からの引用です。

旅について、やや抽象的な議論が展開されていますが、ここではまず、同じ旅人でも「ヴァケーションに来る人」と「放浪の旅に出る人」とが分けて考えられています。

「ヴァケーションに来る人」とは、仕事などで溜まったストレスを解消しようという明確な目的をもって、旅先で楽しいくつろぎのひとときだけを経験するために旅に出る人のことだと思います。彼らは旅に「現実の再発見」などは求めていません。限られた日数で効率よく楽しみ、リラックスすると、彼らは再び忙しい日常生活に戻っていきます。

ちょっと意地悪な言い方をすれば、旅先にあっても、彼らの目はずっと自分の家や仕事や日常生活の方を向いています。その意味では、旅といってもそれは「非日常」ではなく、日常生活を維持する手段のようなものだと言えるかもしれません。

そういう状況では、旅先で予想外のことが起きてスケジュールが乱れたり、期待していた楽しみが得られなければ、さらなるストレスを抱え込んでしまうでしょう。そうしたことが起きないよう、あらかじめ情報を集め、何をするべきかしっかり計画し、楽しいイベントがスケジュール通りに進行するように手配し、必要ならばお金もかけて万全を期すのです。

ところで、日常生活の世界は、お互いのコミュニケーションを円滑にし、効率よく情報を伝え合い、仕事の生産性を上げるために、「約束ごと」や「ステレオタイプ」や「おなじみのイメージ」の数々で満たされています。それは長い間に人々が作り上げてきた生活の知恵であり、そうした一般常識や共通認識があるおかげで、お互いがいちいち考え込まなくても話がスムーズに伝わるし、人に頼んだ仕事も自分の期待通りに仕上がったりするわけです。

しかし反面、「約束ごと」ばかりが繰り返されればさすがに退屈だし、決まりきったことをするのに生き生きとした感受性は必要とされないので、そうした能力も鈍っていきます。また、おなじみの世界にあまりにも長く浸りつづけていると、そうした「約束ごと」や「ステレオタイプ」が、そもそもコミュニケーションのための道具だったことを忘れ、それこそが唯一の現実であるという錯覚すら生じてきます。

「放浪の旅に出る人」は、いったんそうした日常生活の外に出て、「現実そのものを再発見」することを目指しているのです。

それは、自分にとって未知の土地を旅する日々を通じて、日常生活で染みついたステレオタイプな見方をしばらく棚上げにし、書物やネット上のヴァーチャルな情報からも一定の距離を置き、予想外のアクシデントや楽しくないことも含めた、生々しい現実に触れることから始まります。

もっとも、最初はそうすることに心理的な抵抗も大きいだろうし、日常生活ですっかり身についた生活習慣やものの考え方を手放すまでには、思ったよりも長い時間がかかるかもしれません。

しかし、数週間、数カ月、あるいは数年の長い旅を通じて、少しずつ日常の惰性から自由になり、以前より少しだけ透明で軽くなった心を取り戻すことによって、旅人は「現実という力強い美」に再び触れることができるようになるのではないでしょうか。

ただし、気をつけなければならないのは、ポッツ氏がここで「ヴァケーションに来る人」と「放浪の旅に出る人」を分けて考えたのは、それで優劣とか善悪を判断するためではないし、また、放浪の旅人が「自分たちこそ本当の旅をしているのだ」と自慢するためでもないということです。

別に、放浪の旅をしたからといって、何か特別な存在になれるわけではないし、社会的に評価されるわけでもありません。

もしも旅人が、「自分たちは特別だ」と考えて、自らを他の旅人と差別化しようとするならば、それこそ日常世界の出世競争みたいな、ステレオタイプなものの見方に陥ってしまっていることになります。

「最高の放浪というのは、現実そのものを再発見すること」にあるのだとしたら、わざわざ旅先にまで日常世界の競争を持ち込む必要はないのです……。

at 19:11, 浪人, 旅の名言〜旅について

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『ビーチ』

アレックス ガーランド

評価 ★★★☆☆ 読むだけの価値はあります

この物語の主人公、イギリス人のリチャードは、アジアを一人で旅する若いバックパッカー。彼はバンコクのカオサン通りのゲストハウスで、隣の部屋に泊まっていた奇怪な男から、謎のビーチの場所を記した地図を受け取ります。

冒険心を刺激された彼は、ゲストハウスで知り合ったフランス人カップルと共にサムイ島に渡り、闇屋のボートをチャーターして秘密のビーチへと向かうのですが……。

この物語は、2000年に公開された映画『ザ・ビーチ』の原作にもなっているので、映画を見てストーリーを知っている方も多いと思います。

私はその映画の一部だけを見たことがあるのですが、そこでのバックパッカーの描かれ方には偏見のようなものが感じられ、あまりいい印象を受けませんでした。原作も似たような感じだろうと思って敬遠していたのですが、今回初めて読んでみて、どうやら原作者のガーランド氏自身が、かつてバックパッカーとしてアジア各地を旅していたらしいと分かりました。

もちろんこの物語自体は、別に旅好きの人でなくてもエンターテインメントとして楽しめるはずですが、旅人ならではの視点も随所に織り込まれているので、バックパッカー経験のある人ならこの作品世界により深く引き込まれるだろうし、読んだあとの衝撃も大きいのではないかと思います。

前半では、この小説の舞台となる「ビーチ」の風景と、そこでの半自給自足的な生活、少人数で和気あいあいと暮らす人々の姿がリアルに描写され、まるで実在するヒッピー・コミューンのルポでも読んでいるような臨場感があります。

しかし、後半に入ると物語は一転し、その小さなパラダイスに外界からの脅威が次から次へと襲いかかります。息もつかせぬ展開の果てにコミュニティは崩壊し、そこにはおぞましい結末が待っています。

若者の冒険心、試練の末にたどり着いたパラダイス、つかの間の平和な日々、コミュニティを襲う危機、メンバーの分裂、疎外と排除、疑心暗鬼、現実逃避、そして崩壊……。

現実にはありえないような展開であるにもかかわらず、シンプルで分かりやすいストーリーの力に加えて、登場人物の会話や細部のディテールがしっかり描き込まれているせいか、物語には気味が悪いほどのリアリティがあります。

ところで、私個人としては、登場人物のダフィやサルといった「ビーチ」の創設者たちが、旅人たちの理想のコミュニティとして秘密のビーチを死守しようとした気持ち(その凄まじいまでの執念にはついていけないとはいえ)もよく分かるような気がします。

バックパッカーなら誰しも、商業主義に毒された有名観光地にうんざりしたり、自分のお気に入りの街やビーチが年を追うごとに騒々しくなり、すっかり雰囲気が変わっていくことに、居たたまれない気持ちになったことがあるはずです。

そういう意味では、この物語の舞台の秘密のビーチは、多くの旅人が味わう幻滅の対極にある、いつまでも変わらない永遠のパラダイスへの、旅人のあこがれの象徴でもあるのです。

いつまでも理想の姿のままの場所など、現実世界のどこにもないと薄々気づいているのに、ひょっとしたらどこかに見つかるのではないかと思いつつ、自分にとっての「約束の地」を求めて、あてもなく世界中をさまよう旅人も多いはずです。もし私が、この物語の主人公のように「ビーチ」への地図を渡されたら、その誘惑に打ち勝つことはできないかもしれません。

衝撃的なのは、ガーランド氏がこの物語の中で、そんな旅人たちの幻想を、徹底的に破壊してみせたということです。

もちろん、この作品を単なるエンターテインメントととるか、作者の象徴的意図を(勝手に)読み取るかどうかは読者の自由です。しかし私はこんな風に解釈したいと思います。

ガーランド氏は、バックパッカーとしてアジアを旅するうちに、理想の土地を求める旅人たちのあこがれは、結局のところ幻想に過ぎないと痛感したのだと思います。そして、たとえその幻想にしがみついて、秘密のビーチのような固く閉ざされたコミュニティを作り上げたとしても、それは遅かれ早かれ現実世界の洗礼を受けて、激しく変わっていかざるを得ないということを冷酷に示してみせたのだという気がします。

そしてそれは、旅人の幻想に限らず、現実世界での人々のあらゆる幻想についても当てはまることなのではないでしょうか。

この物語を、バックパッカーたちはどう受けとめるのでしょうか。その感想を是非聞いてみたいと思います。


本の評価基準

 以下の基準を目安に、私の主観で判断しています。

 ★★★★★ 座右の書として、何度も読み返したい本です
 ★★★★☆ 一度は読んでおきたい、素晴らしい本です
 ★★★☆☆ 読むだけの価値はあります
 ★★☆☆☆ よかったら暇な時に読んでみてください
 ★☆☆☆☆ 人によっては得るところがあるかも?
 ☆☆☆☆☆ ここでは紹介しないことにします

at 18:26, 浪人, 本の旅〜旅の物語

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旅の名言 「どちらの道に行っても……」

 Y字路の手前で考える。
 どちらの道を行けばよいのかと。
 どちらの道に行ってもよいのだと、
 腹の底から理解できるまでには、
 実に長い年月が必要だった。


『天涯〈5〉風は踊り星は燃え』 沢木 耕太郎 集英社文庫 より
この本の紹介記事

沢木耕太郎氏の旅の写真集、『天涯』シリーズからの引用です。

知らない道をトボトボと歩いていると、やがて道が二つに分かれています。それぞれの道がどこへ通じているのか、ほとんど情報はなく、どちらの道に進むべきか分かりません。ひょっとすると、選んだ先にはとんでもない危険が待ち構えているかもしれないのですが、それも分からないまま、とにかく決断を下さなければなりません。旅人は考えあぐね、途方に暮れてしまいます……。

こんな状況は、登山や冒険旅行など、実際の旅においても起こり得るシチュエーションではありますが、私たちにとってはむしろ、人生を旅に喩えるときに登場するイメージとしてなじみがあるのではないでしょうか。

私たちは、先の見えない未来を前に、手に入るだけの情報をかきあつめ、何をすべきか、どの道を選ぶべきか、絶えず選択しながら生きています。適切な選択をすれば幸せな未来が待っているけれど、選択を誤ればとんでもない事態に巻き込まれるかもしれません。

私たちは有利な結果を求めてあらゆる努力を惜しまないのですが、時にはそのために非常な緊張を強いるような決断を迫られ、それをひたすら繰り返していく人生というものが重荷に感じられることもあります。

「どちらの道に行ってもよいのだ」とは、にわかには信じがたい言葉ですが、もし本当にそうなのだとしたら、これほどホッとする知らせはありません。

少しでもよい選択をしようと、情報を求めてあちこちかけずり回ったり、直感を研ぎ澄ましてみたり、頭を悩まして眠れぬ日々を過ごしたりといった日々の苦労から解放されるかもしれないからです。

もっとも、この言葉を真に受け、すぐに一切の計らいを捨てて無邪気に生きられるようになる人はほとんどいないはずです。本当かどうか確信のもてないような言葉に、自分の人生を賭ける気にはならないでしょう。

私はと言えば、きっと沢木氏の言うとおりなんだろうな、と感じてはいるのですが、今の私には、やはりこの言葉を確信できるだけの実感はありません。

「腹の底から理解できるまでには、実に長い年月が必要だった」とあるように、沢木氏は旅を含めて人生のさまざまな経験を重ねる中でこのことに気づき、それからさらに時間をかけて、少しずつ確信を深めてきたのでしょう。

それに、「どちらの道に行ってもよいのだ」と言っても、それは考えることを放棄し、すべてをサイコロで決めればいいという意味ではないはずです。熟慮の末に全力で決断したことの結果については、どちらに転んでもそれを最善として、それを丸ごと受け入れるということなのだと思います。

そう考えると、一見さりげない言葉の裏に、深い意味と味わいが感じられるような気がします。

そして、これは私の勝手な想像と願望に過ぎないかもしれませんが、長い歳月にわたって経験を重ねる中で、この言葉に心から納得できるようになったとき、人生の重荷から解放されたような気分、そこまで辿り着いた人だけが知ることのできる、すがすがしく軽やかな境地というものを味わえるようになるのかもしれません……。

at 18:33, 浪人, 旅の名言〜旅について

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『ニッポンは面白いか』

評価 ★★☆☆☆ よかったら暇な時に読んでみてください

本書は、日本にやって来た外国人の目に日本の社会や文化がどう映っているのか、外国人自らが書いた短い文章をまとめたものです。

執筆者は大学の研究者からTVでもおなじみの外人タレントまで、出身国もさまざまな20名、内容も日本の政治や企業、宗教、教育、日本語といった固めの話題から、日本のマンガ、結婚式、日本式の風呂、料理、日本の妖怪といった生活に密着した話題まで多彩です。

ただ、テーマが広すぎるのと、各々の文章も短いため、本書全体としてのまとまりがあまり感じられず、一通り読んでも漠然とした印象を受けます。外国人による日本語弁論大会をより専門的にしたような感じです。

また、何となく知っているような話が多いのは、TVを始めとするさまざまなメディアで「外人が見たニッポン」的なテーマが何度も取り上げられ、それなりに見聞きする機会が多いからなのでしょう。

個人的には、武本ティモシー氏の「鏡の前の日本人」が面白いと思いました。

人間の自己意識の持ち方には二つのパターンがあることを踏まえて、言語的な自己意識を重視する欧米人と映像的な自己意識を重視する日本人という対比から、それぞれの文化の違いを説明しようとする試みです。

ところで、日本にやって来る外国人の中には、出稼ぎの労働者や難民、あるいは長期滞在のバックパッカーもいるはずです。この本の執筆者の中にはそうした人々は含まれていませんが、彼らの目には、日本はどのように映っているのでしょうか。もしそうした人々へのインタビューのようなものがあれば、読んでみたいと思いました。


本の評価基準

 以下の基準を目安に、私の主観で判断しています。

 ★★★★★ 座右の書として、何度も読み返したい本です
 ★★★★☆ 一度は読んでおきたい、素晴らしい本です
 ★★★☆☆ 読むだけの価値はあります
 ★★☆☆☆ よかったら暇な時に読んでみてください
 ★☆☆☆☆ 人によっては得るところがあるかも?
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at 18:39, 浪人, 本の旅〜日本

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『国マニア ― 世界の珍国、奇妙な地域へ!』

文庫版はこちら

 

評価 ★★☆☆☆ よかったら暇な時に読んでみてください

タイトルの通り、本書では、かなりマニア好みの珍妙な国や地域が紹介されています。

第一章には、バチカンやモナコ、リヒテンシュタインなど、世界各国から認められた立派なミニ国家が出てきます。しかし、中には、資源の枯渇で破産してしまった国(ナウル)や、地球温暖化で海中に沈みつつある国(ツバル)もあります。

第二章では、一つの国の中にありながら高度な自治を行っている地域、いわば「国のなかで独立するもうひとつの国」が紹介されています。有名なところではプエルトリコや香港特別行政区、チベット自治区などがありますが、珍しいところでは、ギリシャのアトス山(聖山修道院自治州)や、なぜかシベリアにあるロシアのユダヤ自治州などが出てきます。

ちなみにこうした地域では、住民がより高度な自治を要求して国内で紛争になっている場合もあれば、逆に、経済的な利益を優先して完全に独立したがらない植民地もあるなど、その地域の人々の思惑はさまざまです。

第三章は、独立宣言をしたものの、世界からは認められていない国々です。北キプロス・トルコ共和国、サハラ・アラブ民主共和国(西サハラ)、ソマリア北部のソマリランド共和国などです。

面白いのは、イギリス沖合の公海上にある人工島の跡を個人が占拠し、人口たった4人のシーランド公国を名乗ったケース。もちろん世界からは黙殺されていますが、こういう変な事例が逆に、「独立国として必要とされる条件は何か?」という基本的な問題を改めて考えるきっかけになったりします。

第四章では、さらに珍妙な国や地域が紹介されています。複雑な歴史的経緯と条約に基づいて「日本人でも自由に暮らせる」スバールバル諸島(ノルウェー)、「領土なき国家」マルタ騎士団、そして、犬猿の仲であるはずのキューバの中にあるアメリカ領(グアンタナモ基地)などです。

最後の第五章は、かつて存在した奇妙な国や地域。白人の王様が支配していたサラワク王国(現在のマレーシア、サラワク州)や、企業が経営する植民地だった北ボルネオ会社領(現在のマレーシア、サバ州)、人種隔離政策の辻褄合わせのために作られた黒人の「独立国」ホームランド(現在の南アフリカ)などが紹介されています。

全体的に、ソ連崩壊で誕生(復活?)した国々や、植民地時代からの複雑な事情を引きずった国や地域が多く登場しますが、結局それは、小国の存続というものが大国同士の力関係や都合によって大きく左右されることを物語っているのだとも言えます。

それと、読んでいて思ったのですが、この本で紹介されている国や地域が珍妙に見えてしまうのは、そこが本質的に「変」だからというより、単に日本人にとってほとんどなじみがないからであり、そこに住む人々が、国際社会でもあまり省みられない少数派だからという理由も大きいような気がします。

冷静に観察してみれば、日本を含め、大国と呼ばれる国々にも、変なところはいっぱいあります。自分たちがそれを変だと思わないのは、あまりにそれに慣れ親しんでいるからであり、国際社会がそれを認めてくれて、変だということを指摘しないだけだからなのかもしれません。

ちなみに、著者の吉田一郎氏の略歴を見たら、香港留学時代、あの九龍城砦の中で暮らしていたとありました。その事実だけでも、彼も相当ユニークな人なんだろうなという気がします。


本の評価基準

 以下の基準を目安に、私の主観で判断しています。

 ★★★★★ 座右の書として、何度も読み返したい本です
 ★★★★☆ 一度は読んでおきたい、素晴らしい本です
 ★★★☆☆ 読むだけの価値はあります
 ★★☆☆☆ よかったら暇な時に読んでみてください
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at 19:01, 浪人, 本の旅〜世界各国

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旅の名言 「行こうと思えばいつでも行けそうなところでも……」

 僕は行けると言い張った。しかし根拠はまったくなかった。行きたいから行けるといっただけだったし、今行かないと、もう行けないような気もしたのだ。
 われわれの旅は常にそうだった。行こうと思えばいつでも行けそうなところでも、とにかく行っておこうぐらいのつもりで旅した国が、出国した途端にたちまち入れなくなってしまうことがたびたびあった。チベットがそうだったし、アルジェリアもマリもトーゴもそうだった。特にザイールのような政情不安定な国は、何が起こるかまるで見当がつかないのである。チャンスを逃したら二度と入国できないかもしれないではないか。


『ゴーゴー・アフリカ〈下〉』 蔵前 仁一 凱風社 より
この本の紹介記事

蔵前仁一氏の一年半に及ぶアフリカの旅の記録、『ゴーゴー・アフリカ』からの引用です。

蔵前氏夫妻は、雨季に入る前にザイールに入ろうと、ウガンダのカンパラまで行くのですが、蔵前氏が原因不明の激しい疲労感に襲われ、ベッドから動けなくなってしまいました。しばらくカンパラの宿で静養して回復を待つのですが、無情にも雨季の訪れを告げる雨が降り出し、ウガンダのビザの期限も迫ってきました。

ザイールは彼にとって憧れの地でしたが、疲労した体を引きずって旅ができるほど生易しいところではありません。ビザを延長し、本格的な雨季の到来と先を争いながら体力の回復に努めるか、「撤退」してナイロビに戻るか、ついに決断を迫られたのです。

夫婦で作戦会議を開き、蔵前氏は「行けると言い張った」ものの、結局二人はナイロビに引き返すことになりました。しかし、「今行かないと、もう行けないような」気がするという彼の不安は、私も旅人としてよく分かります。

二人がアフリカを旅していた1990年から92年までの時期は、冷戦体制崩壊のあおりを受けて、世界中の国々で政変が相次いでいました。実際、『ゴーゴー・アフリカ〈上〉』には、二人が西アフリカのトーゴを旅していたときに政変に巻き込まれ、情勢が落ち着いた隙を見て逃げるように出国するエピソードが描かれています。

ただ、「チャンスを逃したら二度と入国できないかもしれない」というのは考えすぎで、ごくわずかな国を除けば、いずれどの国も旅行者を受け入れる日がやってくるのだから、落ち着いてその時を待てばよいではないかと思う方もおられるかもしれません。

それは確かにそうかもしれませんが、旅人の側にもタイミングというものがあります。特にアフリカを始めとする開発途上国など、旅することにそれなりの体力と気力を要求されるような地域では、旅人も歳をとる以上、いつまでも待てるわけではありません。

それに今、世界中の国々で起きている変化の激しさを考えると、行けるチャンスを逃している間に、旅人を惹きつけているもの自体が消滅してしまうことも十分に考えられます。内乱や戦争による破壊、あるいは経済発展による急速な社会変化によって、美しい自然や伝統文化などが永久に失われてしまうこともあり得るのです。

もっともこれは、海外に限った話ではありません。

戦後生まれの日本人が戦前の日本を知らないように、あるいは平成生まれの若者が、バブル絶頂期の日本や、インターネットやケータイが普及する前の日本をほとんど知らないように、日本社会も激しく変化しつづけています。

今現在の日本は、今ここでしか見ることはできないし、もう二度と再び見ることはできません。今の時代の空気も、その善し悪しはともかくとして、今でしか味わえないものなのです。

それは、考えようによっては、とても寂しいことです。しかし、だからこそ旅人は、今この瞬間にしか見られないもの、味わえないものを求めて、まるで「何か」に急き立てられるように、地球のあちこちへ出かけていくのかもしれません……。

at 18:49, 浪人, 旅の名言〜旅について

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ツールスレンのツアー客

今から十年近く前、カンボジアのプノンペンに滞在していたときのことです。

当時プノンペンの治安はあまり良いとは言えず、バックパッカーが強盗の被害に遭ったという話もあちこちで聞いていました。日中の街歩きにはほとんど危険を感じませんでしたが、さすがに夜間一人で出歩くことはためらわれました。

街の中心部でも舗装されていないところがあるためか、街全体がほこりっぽいうえに、ポルポト時代の記憶がしみついているせいか、どことなく陰惨な印象もあって、とても長居をしたいと思うような街ではありませんでした。

しかし、街を去る前に、やはり見ておくべきだと思う場所がありました。ツールスレン博物館です。1975年から79年までのポルポト時代に、少なくとも100万人以上のカンボジア人が虐殺されたと言われていますが、ツールスレンには当時の惨劇を物語る強制収容所の跡がそのまま残されています。

バイクタクシーで博物館に着くと、そこは周囲と変わらない、古ぼけたコンクリートの建物に過ぎませんでした。むしろ、どこかで見覚えのあるような感じさえします。たぶんそれは、かつてはここが高校だったからなのでしょう。日本にもよくあるような無機的なコンクリートの校舎が建っていて、かつての校庭には鉄棒の跡まで残っています。

3階建ての校舎のうち、1階部分が公開されていましたが、その中は、もう学校とは言えませんでした。

ある教室は、ブロックやレンガを雑に積み上げた壁で仕切られ、間に合わせの独房になっていました。

ある教室には、鉄製のベッドと拷問のための道具が置かれていました。床にはどす黒いしみが広がっています。

ある教室には、黒い囚人服を着せられた人々の顔写真が、壁いっぱいに何百枚も貼られていました。どういう理由か分かりませんが、収容所を管理していたポルポト派の人々は、殺す前の囚人一人一人の顔を撮影して写真を残していたのです。

うつろな表情をした何百人もの目が、静かにこちらを見つめています。私は何とも言えない気分に襲われました。

この国の、まさにこの場所で、一体どれだけの苦痛が耐え忍ばれたのか。この強制収容所には何万という人々が送り込まれ、生きてここを出られたのはわずか数人だったといいます。何の理由もないのに自由を奪われ、絶望のうちに殺されていった人々の無念はいかばかりかと思うと、身の毛がよだちます。

そして数年もの間、拷問と処刑が、ここでの日常的な仕事として淡々と繰り返されていたのです。いったい、そのとき人間の心に何が起きていたのでしょうか。どす黒く底知れない、人間の闇の深さを垣間見たようで慄然としましたが、同じ人間である私も、どこかでその心の闇とつながっているのだと考えると、他人事として目を背けることができませんでした。

ある教室の壁には、犠牲者の頭蓋骨が巨大なカンボジアの地図の形に並べられていました。これを制作したのは博物館の職員なのでしょうか。とても悪趣味な展示です。

しかし、カンボジア全土で殺された百万人単位の人々のことを考えれば、何十人分もの頭蓋骨のもたらすインパクトなど、むしろ控え目なくらいなのかもしれません。観光客としてこの場所に興味本位で訪れる人間に一撃を与え、実際にカンボジアで起きた出来事に目を向けさせるという意味では、これくらい強烈で悪趣味な展示も必要なのかもしれません。

しかし、そんな地獄の跡に、短パン姿でドヤドヤと押し寄せるツアー客の一団がいました。彼らはペチャクチャとおしゃべりしながら教室の跡をめぐり、さかんにカメラのフラッシュをたいています。

私が一番驚いたのは、十代くらいと見られる若いツアー客の中に、頭蓋骨の地図の前で笑いながら、Vサインをして記念写真を撮っている者がいることでした。

どうやら彼らは中国人のようです。いくつもの団体が混じっているらしく、ガイドの話している言語から推測する限りでは、タイ系、香港または広東系、あるいは台湾系(?)など、彼らの国籍もさまざまのようでした。しかしなぜか、彼らの服装や見かけ同様、彼らの行動パターンもみな同じように見えるのです。

私は何ともやるせない気持ちになりました。頭蓋骨の前でVサインをする神経は、私の理解を超えていました。さすがに彼らに面と向かってそれを指摘する気にはなりませんでしたが、彼らには、他人の苦しみへの想像力が決定的に欠けているように思えてなりませんでした。

しかし今になって、当時のことを冷静に振りかえってみると、私がそう思ったのは少し大げさだったような気もします。

その日、私は疲れていた上に風邪気味だったので、いつもよりイライラしていたかもしれません。その上、人類の暗黒面を突きつけるような展示に衝撃を受けていました。私はその何ともいえない感情のはけ口を探していただけだったのかもしれません。やり場のない怒りを、マナーの悪いツアー客にぶつけていただけなのかもしれないのです。

そして、それはもしかすると、彼らツアー客も同じだったのかもしれません。

ツールスレンの展示を見て彼ら自身が感じている底知れない恐怖を認めたくなくて、周りの人と他愛のない話をせずにはいられなかったのかもしれないし、若い人たちが頭蓋骨の地図の前で笑ってVサインをしていたのは、よくあることですが、自分は平気だと周りに思わせたくて、ただ強がってみせていただけなのかもしれません。

ある意味、彼らはあまりに悲惨で生々しい展示を見て、ハイになっていたのかもしれないのです。

私は博物館を出ると、まっすぐゲストハウスに戻りましたが、部屋に入って、異様なことに気がつきました。

床は白黒の市松模様のタイル張りでしたが、これはあのツールスレンの教室の床の模様と同じでした。そして、クリーム色の壁も同じなら、薄汚れたシミの感じまでそっくりでした。

このゲストハウスの建物は、ツールスレンの建物と同じ時期に作られたのでしょうか。というより、きっとこのゲストハウスの内装は、プノンペンではごく普通の、ありふれたものなのでしょう。ツールスレンも、強制収容所になる前は、プノンペン市内の平凡な建物の一つにすぎなかったのですから。

しかし、この部屋の中にいると、内装が同じなだけに、ツールスレンの光景がフラッシュバックして、そこで見た全てが生々しく甦ってきそうな気がします。

早く、この街を出ようと思いました。

at 20:06, 浪人, 地上の旅〜東南アジア

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旅の名言 「途方に暮れた状態から……」

 しかし、さて……と小さく声に出してみると、体の奥の方から喜びに似たものが湧き起こってくるように感じられる。私は、自分が途方に暮れたことが嬉しくてならなかったのだ。途方に暮れた状態からどのように脱していくか。私にとって、異国を旅することの醍醐味のひとつがそこにある。


『一号線を北上せよ<ヴェトナム街道編>』 沢木 耕太郎 講談社文庫 より
この本の紹介記事

『深夜特急』の著者、沢木耕太郎氏の紀行エッセイ『一号線を北上せよ』からの引用です。

パリのドゴール空港に到着した沢木氏は、銀行のストのために両替ができないというトラブルに見舞われました。外国人旅行者に一方的な不便を強いる両替所のストライキなど、日本では考えられないようなケースですが、それはともかく、現地通貨を持っていなければ空港から移動することができません。

普通の旅行者ならパニックになるか、困惑して立ち往生してしまうところですが、沢木氏の場合は、こんなとき、「体の奥の方から喜びに似たものが湧き起こってくるように感じられる」のです。

これは結局、旅に対する姿勢の違いからくるのでしょう。

ビジネスのための出張やパックツアーなど、目的やスケジュールのはっきりとした旅をする人にとっては、できる限りトラブルを避け、平穏無事に予定通りの旅を続けることが重要です。両替ができずに立ち往生するなどということは、「あってはならないこと」であり、たとえそのような事態になっても滞りなく旅が続けられるように、会社の現地支店や旅行代理店などがさまざまなバックアップをすることになるでしょう。

一方、沢木氏のような旅人は、そのようなトラブルをこそ期待しているようなところがあります。ただし、両替ができないくらいのアクシデントならまだ軽い方で、旅ではもっと深刻なトラブルも起こり得るのですが。

言葉も十分に通じず、組織のバックアップもない環境で、途方に暮れるような状況に追い込まれたとき、自分はそれをどう感じ、どうリアクションしていくのか、そしてそこからどうやって自らの行動の自由を取り戻していくのか。沢木氏の言葉から感じられるのは、日常を超えた状況で見出される「何か」にこそ旅の本質を感じ、旅の試練にあえて自らを投げ込むことによって、そこに旅の「醍醐味」を味わってやろうという姿勢です。

もちろん、これをやりすぎれば命にかかわるような旅になりかねないし、『深夜特急』には、道を踏み外して旅に斃れる若者のエピソードも出てきます。しかし、沢木氏は何度も旅を繰り返す中で、その辺りの呼吸というか、バランスを見失わないコツを十分に心得ているのでしょう。

「途方に暮れた状態からどのように脱していくか。私にとって、異国を旅することの醍醐味のひとつがそこにある」とは、実にカッコイイ言葉です。カッコイイのですが、これはそれなりの経験とバランス感覚の裏づけがあってこその言葉でもあるということは知っておいた方がいいと思います。

at 18:46, 浪人, 旅の名言〜危機と直感

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『三位一体モデル TRINITY』

評価 ★★☆☆☆ よかったら暇な時に読んでみてください

本書は、「三位一体」という思考モデルを用いて、現代における経済・宗教・芸術などのさまざまな問題を考えてみようという試みです。

「三位一体モデル」は、キリスト教における「父」と「子」と「聖霊」の三位一体の教義をベースにしているのですが、中沢新一氏によれば、それは別にキリスト教をヨイショしたいからではありません。

三位一体という思考モデルは人類に普遍的な思考パターンに沿ったものであり、「宗教や道徳によって、人間の無意識の思考が抑圧されないときには、人間はごく自然なかたちで、三位一体モデルをつうじて思考している」のです。また、西欧で発達した資本主義社会はこの三位一体の上に成り立っているので、経済をはじめとする現代社会の問題を深く考える際に、この思考モデルが非常に役に立つことにもなるのです。

ちなみに、このモデルにおいて、「父」は「ものごとに一貫性や永続性や同一性を与える原理」、「子」は「人間の世界に、神(=父)の意思を媒介する原理」、「霊」は「増殖原理」を表しているとされています。

ただ、「父」と「霊」については、本文中で何度か言及されているのでそれなりのイメージが湧くのですが、「子」については、「媒介」とか「幻想力」と断片的に語られているだけです。本書を読む限りでは、私にはその働きや意味がよく分かりませんでした。

また、糸井重里氏はこの本を「誰にも読ませたい思想書」、「現代社会の秘密を解くためのビジネス書」だと評し、多くの人が気軽に手に取れるように編集の上でも工夫しているようですが、本書のテーマはかなり根源的で、私たちの日常生活のレベルではなじみのない話題が多いので、読んでもピンとこない人も多いかもしれません。

私は中沢氏の本のファンなので楽しめたのですが、彼の著作を何冊か読んでいる人にとってはおなじみのテーマであっても、それ以外の人にとっては説明が足りないと感じたり、話が飛躍しているように感じられる部分がかなりあるのではないかという気がします。ボリュームについても、90分の講義一回分の内容なので、物足りなさを感じます。

それでも、「三位一体モデル」をパワフルな思考モデルとして普及させようというアイデアは非常に面白いと思います。

本書の内容は連続講義の「第0回」に当たるということなので、この続きが出るのならぜひ読んでみたいと思いました。


本の評価基準

 以下の基準を目安に、私の主観で判断しています。

 ★★★★★ 座右の書として、何度も読み返したい本です
 ★★★★☆ 一度は読んでおきたい、素晴らしい本です
 ★★★☆☆ 読むだけの価値はあります
 ★★☆☆☆ よかったら暇な時に読んでみてください
 ★☆☆☆☆ 人によっては得るところがあるかも?
 ☆☆☆☆☆ ここでは紹介しないことにします

at 19:23, 浪人, 本の旅〜人間と社会

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