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旅の名言 「アフリカは……」

 アジアの旅行者は、全員そうだというわけでは無論ないが、なんとなくダラっとしている。一カ所にずっと留まって何カ月もそこにへばりついている人もいれば、観光的なことをまったくやらない人もいる。アジアは日本人からすれば物価も安く、食べ物も豊富でうまいので、あちこち旅行をしなくても、もってしまうのである。
 しかしそれに較べると、アフリカの旅行者は実に行動的である。ナイロビではよく日本人旅行者が集まって話をしているが、実に大変なところを、あちらこちらとよく旅しているのがうかがえる。そのスピードがアジアの旅行者よりずっと早い。のんびりしているのは、せいぜいナイロビにいるときぐらいのものだろう。
 もっともアフリカの場合、ナイロビ以外にのんびりするところがあまりないということもあるのかもしれない。アフリカは、アジアのようにやり方によっては易きに流すことがやりにくいところなのだ。旅をするなら根性を入れてビシバシやらないと、体力も金もどんどん飛んでいってしまうのである。
 しかし、そこがまた、アフリカの旅人をひき付けてやまないところなのかもしれないと、僕は思うのである。


『ゴーゴー・アフリカ〈下〉』 蔵前 仁一 凱風社 より
この本の紹介記事

バックパッカー向け雑誌『旅行人』を主宰する蔵前仁一氏が、夫婦での一年半に及ぶアフリカの旅を描いた作品、『ゴーゴー・アフリカ』からの引用です。

私には、アジアの旅人が「なんとなくダラっとしている」という蔵前氏のコメントが、実によく分かります。

そしてその大きな理由が、物価の安さと食べ物のうまさにあること、そしてアジアの各地に、そこそこ便利で快適で平和で、要するにのんびりできるような場所がいくつもあるから、ということも経験から知っています。

逆に、のんびりできる町がほとんどなく、物価が高く、メシも充実していない土地を旅するというのが一体どんな感じになるのか、それが『ゴーゴー・アフリカ』を読むとよく分かります。

アフリカは、「旅をするなら根性を入れてビシバシやらないと、体力も金もどんどん飛んでいってしまう」、旅人にとっては相当ハードな土地なのです。

「アジアまったり系」のバックパッカーにとっては、根性を入れなければならない旅など信じられないかもしれません。しかし、旅人のタイプにもいろいろあるわけで、厳しい旅こそ自分の性分に合っているという人もいるはずだし、現にアフリカの地を旅する逞しいバックパッカーやチャリダーたちが存在します。

現代のアフリカを旅することは、かつての冒険や探検のようなレベルではないにしても、かなり辛いことは確かです。しかし、そうした辛い旅でこそ見えてくるものもあるのでしょう。

もっとも、アジア専門の旅人である私には、それは本で読むだけの未知の世界なのですが……。

at 18:29, 浪人, 旅の名言〜土地の印象

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『反社会学講座』

Kindle版はこちら

 

評価 ★★★☆☆ 読むだけの価値はあります

 

社会学者の個人的な偏見をヘリクツで理論化したもの、それが社会学です。


本書は、『反社会学講座』という過激なタイトルが示しているように、社会学という学問に対する強烈な批判と皮肉に満ちています。

「少年の凶悪犯罪が激増している」
「パラサイトシングルやフリーターなど、自立しない若者が増えたのは問題だ」
「日本人は勤勉である」
「少子化によって年金制度が破綻する」……。

こういう言説は、テレビや新聞で何度も繰り返されたために、今では日本人の常識として定着してしまっていますが、千葉県在住の謎のイタリア人、パオロ・マッツァリーノ氏によれば、これらはそもそも「社会学者の個人的な偏見」なのであり、根拠薄弱なヘリクツに過ぎません。

問題なのは、社会学者がそうした個人的な偏見に、データを駆使した社会学的研究という「科学的」な装いをまとわせることです。それによって彼らは勝手に、日本人はこう生きるべきだという「人生の正解や理想社会の青写真を作り、そこからはずれたものを批判し、社会問題に仕立て上げる」のです。

もちろん、すべての社会学者がそんなことをしているわけではないでしょうが、マッツァリーノ氏はこの本の中で、マスコミ受けする俗流社会学を垂れ流すエセ学者たちを痛烈にこき下ろしています。

 

反社会学の目的は二つです。
第一に、社会学という学問が暴走している現状を批判すること。
第二に、不当な常識・一方的な道徳・不条理な世間体から人間の尊厳を守ること。


もっとも、この本の表紙イラストを見ればお分かりかと思いますが、これは単なるしかつめらしい告発の書ではありません。

むしろこの本は、学問と毒の効いた「お笑い」とを融合させた知的エンターテインメントなのです。

マッツァリーノ氏はこの本で、俗流社会学者のやり方そのものを逆手にとり、彼らが故意に無視しているデータや別の観点を示すことによって、彼らとは全く逆の、とんでもない結論を示してみせます。

そのやり方自体が、俗流社会学的な言説を生み出すシステムに対する痛烈なパロディになっているばかりでなく、マッツァリーノ氏の軽妙な語りとスパイスの効いたギャグも読者を楽しませてくれます。

この本は、マスコミと社会学者が押しつけようとする「正しい生き方」というステレオタイプから私たちを解放し、タテマエでガチガチになった頭を解きほぐす、ちょうどいい解毒剤になってくれると思います。

なお、本書はパオロ・マッツァリーノ氏のウェブサイト「スタンダード 反社会学講座」の内容を書籍化したもので、ウェブ上でも本書とほぼ同内容の記事を読むことができます。


パオロ・マッツァリーノ著 『反社会学の不埒な研究報告』の紹介記事
パオロ・マッツァリーノ著 『つっこみ力』の紹介記事


本の評価基準

 以下の基準を目安に、私の主観で判断しています。

 ★★★★★ 座右の書として、何度も読み返したい本です
 ★★★★☆ 一度は読んでおきたい、素晴らしい本です
 ★★★☆☆ 読むだけの価値はあります
 ★★☆☆☆ よかったら暇な時に読んでみてください
 ★☆☆☆☆ 人によっては得るところがあるかも?
 ☆☆☆☆☆ ここでは紹介しないことにします

 

 

 

at 19:26, 浪人, 本の旅〜人間と社会

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旅の名言 「世界を放浪し……」

 そして我々にも「ソングライン」のようなものがある。それは旅人、個人個人が持っている旅の話であり、異国の風景や文化や匂いであり、旅をすることによって得た知識であり、自分についての発見である。旅人はよく旅先でこのような歌を交換する。そしてインフォメーション以上の、貴重な何かを分かち合う。その意味では我々現代のエグザイル達は、新しい形のウォーク・アバウトの旅をしているのかもしれない。
 世界を放浪し、地球という大地の地形や自然を知り、自分の内面をさまよい、人と出会い、人間という総合体の歴史や神話を吸収し、そして歌い上げていく。旅のスタイル、目的地、個人的な理由は異なっていても、結局我々が旅をしている本当の意味は、そこにあるんじゃないだろうか。ただ当てもなくさまようのではなく、この地球、この生を歌い上げる。そして己のことを少しずつ理解していく。
 インナーなものであろうとアウターなものであろうと、これが旅をする人間に、旅というものが与えてくれる、大いなる可能性なんじゃないだろうか。少なくとも僕はそう思いたかった。


『エグザイルス(放浪者たち)―すべての旅は自分へとつながっている』 ロバート ハリス 講談社+α文庫 より
この本の紹介記事

ロバート・ハリス氏が、波瀾万丈の放浪の半生を語る自叙伝『エグザイルス』からの一節です。

バックパッカーや放浪の旅人たちには、世界各地の安宿を溜まり場にして、そこで旅の技術的な情報を交換したり、これまで行った中で最高の土地を教え合ったり、旅の武勇伝を披露し合ったりする習慣があります。

これは別にルールとしてそうなっているわけではなく、見知らぬ旅人同士が何となく集まって話し始めるとき、そういうテーマが共通の話題として手っ取り早いということもあるし、もともと旅の好きな連中が集まっている以上、そうした話題なら自然に盛り上がれるからです。

そして時には、異国の旅人とすっかり意気投合し、お互いの旅について、人生について、深い話を交わすこともあるかもしれないし、それから長く続く友情を育むこともあるかもしれません。

冒頭に引用した一節は、そんな現代の旅人の習慣と、オーストラリアのアボリジニの「ソングライン」を重ね合わせ、人間にとっての、旅という行為の持つ意味を浮かび上がらせています。

といっても、ソングラインという言葉は、これまで聞いたことのない人の方が多いのではないでしょうか。

『エグザイルス』の中には、ある人類学者がソングラインについて説明するシーンがあります。とても分かりやすい説明なので、そのまま引用します。

 アボリジニの若者は、ある日突然旅に出る。何の前触れも予告もなしに家を出て、何ヵ月も大地を放浪するんだ。彼らの通過儀礼のひとつ。ネイティブ・アメリカンの伝統にたとえればビジョン・クエストの旅、自分達の精霊に会うための旅なんだ。
 彼らは旅をしながら自分達の種族の歌を歌い続ける。歌の中には彼らの守り神、トーテムとの関係から戒律、伝説、地形、水飲み場の位置、それこそ丘や石の一つひとつのことまでが詳しく織り込まれている。つまり、彼らの土地と彼らの存在のインフォメーションが、すべて歌につまっているんだ。
 彼らはそうやって隣の種族の土地へと入っていく。そこで彼らはその種族の若者達と歌を交換する。種族間の重要なインフォメーションを交換し合うんだ。彼らの精霊達との関係、種族間の歴史、戒律、そしてこれから旅をしていく土地の水飲み場の位置、目標になるような岩や丘の位置、その向こうに住む種族のことなどを歌を通して覚えていくんだ。
 こうして彼らは何百キロもの道なき道を旅していく。そしてさまざまな人間や精霊達に出会い、自分と大地との特別な関係、自分の生きる道について理解を深めていくんだ。
 この歌のつながりを『ソングライン』と言うんだけど、オーストラリアの広大な土地のすべてがこの『ソングライン』でつながっていると言っても過言ではない。言い換えれば、オーストラリアの生きた地図が、昔から歌によって完璧に描かれているんだ。


旅人が、人間と大地との関係や、自らの存在について歌い上げ、この世界で生きるということについて理解を深めるとともに、旅をしながら、それを新しく出会う人々と共有していく、そして、「歌のつながり」によって、この世界の上に「生きた地図」を作り上げていく……。

ここには、太古から続いてきたであろう、人類にとっての旅の営みの原点が示されているような気がします。

そして、ハリス氏の見方に従うなら、私たち現代の旅人も、表面的な形式はすっかり変わってしまっていても、その本質においてはアボリジニのソングラインと同じ営みを続けているということになります。だとすると、私たちは人類の古くからの営みに、自らはそれと気づかずに参加していることになります。

もちろん、私たちの意識の表面のレベルでは、旅に出る理由は個人によって違うだろうし、旅の仕方も、旅を通じて何を得るかも人それぞれでしょう。

しかし、現在この地球上で行われ続けている何百万、何千万という数の旅をトータルでとらえ、その行為のもつ人類的な意味を考えてみるとき、そこには地球スケールのソングラインが浮かび上がってくるのではないでしょうか。

旅人はみな、本人が自覚するしないにかかわらず、いつでも「この地球、この生を歌い上げ」ているのであり、旅を通じて自分と世界のことを少しずつ理解しながら、それを歌うことによって、新しく出会う人々ともそれを分かち合っているのです。

もっとも、こんなことを考えるのは、少しロマンチック過ぎるのかもしれません。

現実に目を向けてみれば、日本のマスコミや世間には、「バックパッカーはお気楽で無責任な怠け者だ」というステレオタイプがあるようです。

それに、放浪の旅なんていうものは、全く金儲けの足しにはなりません。日本においては、脇目もふらず勤勉に働いて経済成長に貢献し続けることが「正しい」生き方とされているようなので、放浪の旅人などという怪しげな存在に向けられる世間の目は、年々冷たさを増しているような気がしなくもありません。

でも、旅人の一人として言わせてもらえるなら、旅人たちが世界のすみずみまで旅し、地球と自分たちのことを歌い、この地球上に「生きた地図」を織り上げているというのは、とても美しい営みだと思います。

これは、旅人の単なる幻想に過ぎないのかもしれません。

しかしそれは、一つの美しい幻想として、世間から冷たく見られがちな放浪の旅人たちのささやかな心の支えとなり、私たちが旅を続ける勇気を与えてくれるような気がします。

at 18:45, 浪人, 旅の名言〜旅の理由

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『脱出記 ― シベリアからインドまで歩いた男たち』

文庫版はこちら

 

評価 ★★★☆☆ 読むだけの価値はあります

第二次世界大戦中のこと、シベリアの強制収容所を脱走し、歩いてインドまで逃げ延びるという、信じられないような旅を成し遂げた人々がいました。

それは、無謀としか言いようのない旅でした。シベリアからインドまでは 6,500キロ、その間には、厳寒のシベリア、灼熱のゴビ砂漠、広大なチベット高原、そして極寒のヒマラヤが立ちはだかっています。

本書は、その旅を生き延びたポーランド人、スラヴォミール・ラウイッツ氏による回想録です。ここには、飢えと渇き、死の恐怖、極限の気候に苦しめられながらも、仲間同士で知恵を出し合い、支え合って、1年もの間ひたすら歩き抜くという、壮絶な旅が描かれています。

ドイツとソ連による1939年のポーランド侵攻で祖国を喪い、ソ連軍に捕えられたポーランド陸軍の青年将校ラウイッツ氏は、スパイ容疑をかけられ、凄惨な拷問を受けたあげく、強制労働25年の刑を宣告されます。

彼は他の受刑者とともに家畜用の貨車に詰め込まれ、1カ月かかってシベリア鉄道で西へと運ばれるのですが、イルクーツクで列車から降ろされると、そこからさらに1,500キロ、ヤクーツクの西にある第303収容所までの区間を、徒歩で進むよう強要されます。

4,000人の受刑者は、鎖につながれ、厳寒のシベリアを2カ月もの間歩き続けるのですが、その「死の行進」の中で、受刑者たちは次々と斃れていきます。しかし、その苛酷な旅を必死の思いで生き延びたとしても、その先には、強制収容所での厳しく単調な労働の日々が待っているだけでした。

ここまで読むだけでも、多くの読者は気が滅入ってくると思いますが、これらのエピソードは、その後に待ち受けている、さらなる苦難の旅のプロローグに過ぎないのです。

ラウイッツ氏は、収容所での生活に慣れた頃、思いがけない協力者の助けを得られることになり、雪の降りしきる夜、6人の仲間とともに収容所から脱走することに成功します。

彼らは厳しい寒さと追っ手の恐怖に怯えながらも、ひたすら南に向かい、モンゴルへ抜けるために国境を目指すのですが……。

これ以上はネタバレになってしまうので、ラウイッツ氏の旅の詳細については、実際に本書を読んでいただきたいのですが、とにかく驚くのは、彼らの旅の条件の苛酷さです。

彼らの一行は、当然ながら一銭も持たず、装備も食糧も、旅のルートに関する情報も充分ではありません。その上、逃亡者という性質上、人との接触を極力避ける必要があります。それに、たとえ旅先で人々と接触するとしても、現地の言葉を知らない彼らは、有益な情報を仕入れることができません。

そして何よりも、彼らの前途には、人を寄せつけない厳しい自然の脅威が待ち構えていました。

これは、旅をするには最悪の条件だと言えるでしょう。

それでも彼らは、わずかなパンの供給と引き換えに収容所の労働に耐え続ける生活を捨て、「自由」を求め、この無謀な旅を生き延びる可能性に賭けました。

ラウイッツ氏の一行は、さまざまな障害に悩まされ、度重なる悲劇に見舞われ、心身ともにボロボロになりながらも、休むことなく、ひたすら南を目指して歩き続けます。ほとんど気力だけで前に向かって進み続けるその姿には、鬼気迫るものがあります。

奇跡としか言いようのない彼らの旅の記録を読んでいると、人間には途方もない力が秘められているという事実に感嘆するばかりですが、その一方で、これは幸運で稀なケースに過ぎなかったのだということも改めて思います。

同じように収容所からの脱走を試みながら、力尽き、誰にも看取られることなくシベリアの荒野に朽ち果てていった人々が大勢いたはずです。そして、脱走に至る以前の段階で命を絶たれたさらに多くの人々がいます。彼らの悲痛な叫びは、私たちのもとに届くことはありませんでした。

本書を読んでいると、そうした無数の犠牲者の存在が、自由を求めて闘ったラウイッツ氏の旅の背景として浮かび上がってきて、それを思うと気が遠くなるような気がします。

そして考えてみれば、同じようなことが、これまでも世界の至る所で起きてきたし、現に今も起きています。

奇跡の旅を成し遂げたラウイッツ氏ですが、そもそも彼がシベリアに送られることがなければ、その苛酷な旅もあり得ませんでした。冒険に満ちた彼の旅の記録に感動しながらも、同時に、私たちと同じ人類の作り出した悪夢のような社会について、深く考えずにはいられません。

ちなみに本書には、一行がヒマラヤの山中で雪男イエティと遭遇するシーンも出てきます。これは彼らの旅の全体から見れば「おまけ」のようなエピソードなのですが、そちらの方面に興味のある方には、イエティ目撃談の一つとして参考になるかもしれません。


本の評価基準

 以下の基準を目安に、私の主観で判断しています。

 ★★★★★ 座右の書として、何度も読み返したい本です
 ★★★★☆ 一度は読んでおきたい、素晴らしい本です
 ★★★☆☆ 読むだけの価値はあります
 ★★☆☆☆ よかったら暇な時に読んでみてください
 ★☆☆☆☆ 人によっては得るところがあるかも?
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at 18:26, 浪人, 本の旅〜世界各国

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『イルカと墜落』

文庫版はこちら

 

評価 ★★☆☆☆ よかったら暇な時に読んでみてください

本書は、沢木耕太郎氏自身が遭遇した飛行機の墜落事故を中心に描いた、異色のブラジル旅行記です。

アマゾン河の流域には、いまだに文明と接触したことのないインディオが相当数いるといわれ、ブラジルでは「イソラド」と呼ばれています。しかし、イソラドはアマゾンの熱帯雨林が焼き払われ、開拓されるにしたがって奥地へと追い立てられており、免疫のない彼らは、奥地まで踏み込む木材業者、金鉱堀りや遺伝子ハンターと接触するたびに、文明社会から持ち込まれた病気の蔓延によって壊滅的なダメージを受けています。

沢木氏は、イソラドに関するテレビ番組を制作するNHKのスタッフに同行してブラジルへ飛び、イソラド保護のために文明と未接触の彼らとのコンタクトを試みている、国立インディオ基金(FUNAI)のシドニー・ポスエロ氏のもとへ取材に向かいます。

「イルカ記」は、国境の町タバチンガからアマゾン支流のイトゥイ河をさかのぼり、ジャバリ渓谷で活動を続けるポスエロ氏と会見するまでの、沢木氏のブラジル第一回目の旅を描いています。

「墜落記」は、第二回目の取材の旅で起きた飛行機の墜落事故に、沢木氏自身が巻き込まれた顛末を描いています。

ポスエロ氏がイソラドの状況を空から調査する作業を取材するため、国境の町リオ・ブランコから前線基地に向かう途中、沢木氏ら5人を乗せた双発のセスナ機が、機体のトラブルのために墜落してしまうのです。

結果的には、奇跡的に全員軽症で済むのですが、沢木氏は自らが遭遇した死と隣り合わせの状況を、前後の出来事も含めて淡々と綴っています。

深刻な事故を描いているはずなのに、読んでいて、時にユーモラスにさえ感じられるのは、沢木氏が自らの置かれた状況をどこか楽しんでいるような様子が伝わってくるからです。

 

 

どこかでそんな事故に巻き込まれてしまった自分を面白がっている私がいて、それが私を取り巻くすべてをじっと見ていたような気がするのだ。

 


ちなみに、「墜落記」には、20年前に飛行機の墜落事故で亡くなった向田邦子氏を「偲ぶ会」に出発直前の沢木氏が出席したことや、ブラジルに向かう途中で一行が遭遇したアメリカの同時多発テロ後の混乱(これも飛行機の墜落事件)が描かれています。

こうした、飛行機事故を連想させる出来事の不思議な重なり合いや、墜落前に他の取材スタッフに起きていた不思議な「偶然の一致」、そして自らが旅の前に感じていた微妙な違和感などについても詳しく記されているのですが、こうした出来事は、後付けの理屈という域を超えて、大きな事故や出来事が起きる「予兆」のようなものが実際にあるのだということを感じさせます。

もちろん沢木氏自身は、そうした「偶然の一致」について、ことさらに重視したり、神秘化しているわけではなく、そうした出来事を含めた事故の前後の体験を、淡々と綴っているだけです。こうした記録を読んで何をどう受け止めるかは、それぞれの読者にまかされているということなのでしょう。


本の評価基準

 以下の基準を目安に、私の主観で判断しています。

 ★★★★★ 座右の書として、何度も読み返したい本です
 ★★★★☆ 一度は読んでおきたい、素晴らしい本です
 ★★★☆☆ 読むだけの価値はあります
 ★★☆☆☆ よかったら暇な時に読んでみてください
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at 18:55, 浪人, 本の旅〜南北アメリカ

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旅の名言 「僕の旅なんて……」

 僕の旅なんて、しょせん貧乏ごっこに過ぎない。いつでも元の生活に戻ることができるという保証をしっかり手に持ちながらの、架空の貧乏体験だ。だからこそ我慢もできるし、今日まで旅を続けることができた。


『僕が遍路になった理由(わけ) ― 野宿で行く四国霊場巡りの旅』 早坂 隆 連合出版 より
この本の紹介記事

野宿をしながら四国八十八カ所を巡礼した旅の記録、『僕が遍路になった理由』からの引用です。

著者の早坂隆氏は、大学四年の夏、就職活動を中断して歩き遍路の旅に出ますが、テントも寝袋も持たず、野宿をしながらひたすら歩き続ける旅は、予想どおりつらいものでした。

彼は巡礼の旅を続けながら、挫けそうになる自分自身とひたすら内面の対話を繰り返すのですが、そんなとき、自分を説得する理由のひとつとして浮かんできたのが、冒頭の言葉でした。

今は野宿の貧乏旅行をしているけれど、それは自分の意志でそうしているだけであって、やめようと思いさえすれば、いつでも元の快適な生活に戻ることができる。いつでも戻れるのだから、もうちょっとだけ頑張ってみよう……。

それにそもそも、バイトをすればそれなりのお金を稼げる日本で、野宿の旅をしなければならない必然性はありません。それは、自分の意志であえてそうしているのであり、ある意味では、ウケ狙いの酔狂な試みに過ぎないのだとも言えます。「僕の旅なんて、しょせん貧乏ごっこに過ぎない」というのは、ミもフタもない言い方ですが、確かにその通りかもしれません。

そして同じことは、アジアなどの開発途上国を旅するバックパッカーについても言えることです。

沢木耕太郎氏の名作『深夜特急』に、同じようなニュアンスの言葉が出てきます。

旅の名言 「金がないなどと……」

バックパッカーは一日でも長く旅を続けようと、現地では経費を切り詰め、金のない貧乏人のようにふるまうことが多いのですが、彼らが飛行機に乗ってそこまでやって来たという事実は、現地の人の目からすれば、彼らがフライト・チケットを買えるだけの金持ちであるということを意味します。

開発途上国の若者たちが、わずかな給料や失業の苦しみの中で毎日の生活に追われている一方で、同年代のバックパッカーは働かずしてのんびりとした旅の日々を楽しみ、その懐にはトラベラーズチェックの束やクレジットカードを忍ばせています。

貧乏旅行といってみたところで、その気になればいつでも「先進国」に生まれた特権を行使することができるし、嫌になればいつでも旅をやめて自分の国に帰り、便利で快適な暮らしに戻ることができるのです。

もし現地の人たちから、それは所詮「貧乏ごっこ」ではないのか、と言われれば、私たちには返す言葉がないのではないでしょうか。

『深夜特急』の沢木青年をはじめ、バックパッカーの中には、ときにこうした問いに襲われ、自分がなぜ旅を続けているのか、こんなことをしているのは自己欺瞞ではないのかと、深く悩む人もいるはずです。

しかしそれでも、私たちは旅を続けます。「貧乏ごっこ」だと思っていても、現地の人から批判的な目で見られても、やはり旅の日々の経験を通じて、それ以上の「何か」を感じているからこそ、バックパッカーは旅をやめられないのです。

それに、昨今のグローバリゼーションの進展によって、「先進国の人は金持ちで、開発途上国の人は貧乏」という単純なステレオタイプは通用しなくなりつつあります。

開発途上国の人でも、昔からの大金持ちというのは存在するし、うまく時流に乗って事業で財をなす人もいます。バックパッカー相手のゲストハウスやツーリスト・カフェなどを経営する人たちは、そうした企業家の一部です。

また、現地の多国籍企業や新興企業に勤めるホワイトカラーは、アルバイトや派遣の仕事で旅行資金を稼ぐ先進国のバックパッカーたちに較べたら、ずっと社会的に安定し、よい暮らしをしていると言えるかもしれません。

バックパッカーの格言に「豊かな青春、悲惨な老後」というのがあります。旅に青春を賭けた筋金入りのバックパッカーたちは、たとえ先進国の国籍を持っていたとしても、将来の豊かな暮らしを保障されているわけではありません。

「いつでも元の生活に戻ることができるという保証」があるかぎり、バックパッカーの旅は「貧乏ごっこ」かもしれませんが、もしもそこから抜け出せなくなるとしたら、それはもう、「架空の貧乏体験」ではありません……。

at 18:36, 浪人, 旅の名言〜旅について

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『なにも願わない手を合わせる』

評価 ★★★☆☆ 読むだけの価値はあります

本書は、写真家の藤原新也氏が、癌で亡くなった兄の供養のために行った四国巡りの旅をテーマにしています。

藤原氏はすでに二度、父母が他界するたびに四国巡りをしたことがあるそうですが、その旅は四国八十八カ所を律儀にたどる旅ではなく、気の向くままに旅を続けるという、藤原氏らしい自由なものでした。今回は徳島で自転車を手に入れ、「風に吹かれ」ながら四国を巡っています。

本書には、その旅先でのエピソードや、身近な人々、身近な生きものたちの死と別れの思い出を綴るエッセイと、四国の旅の写真が収められています。

そしてそこには、藤原氏の死生観や、これまでの人生において、彼が他者の死とどのように向き合ってきたかが、率直に描かれています。

読んでいると、心がしんと静まりかえっていくような不思議な感じを覚えます。

それは、死と別れという、本書のテーマによる部分も大きいのでしょうが、それ以上に、藤原氏の祈りの形、何かを求めて願うのではなく、「なにも願わない手を合わせる」という美しい祈りの形が、彼の写真や文章を通じて静かに伝わってくるからなのかもしれません。

もちろん、『印度放浪』当時からのとんがった感じ、アウトサイダー感覚、独特のユーモアはいまでも健在ですが、写真も文章もその表現の深みを増しているように感じられます。それは、言葉になる以前の、こころの無意識の層にしみじみと染み渡ってくるような力が、以前よりさらに増しているからでしょうか。

ひとり静かな場所で、ゆっくりと噛みしめて味わいたい本です。


本の評価基準

 以下の基準を目安に、私の主観で判断しています。

 ★★★★★ 座右の書として、何度も読み返したい本です
 ★★★★☆ 一度は読んでおきたい、素晴らしい本です
 ★★★☆☆ 読むだけの価値はあります
 ★★☆☆☆ よかったら暇な時に読んでみてください
 ★☆☆☆☆ 人によっては得るところがあるかも?
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at 18:50, 浪人, 本の旅〜日本

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旅の名言 「私はこの街で……」

 私は盗まれて困るようなものを持っていない。だから、荷物のすべてはホテルに残したままである。パスポートと現金をコートのポケットに入れている以外、手に何ひとつ持たずに街を歩きはじめた私は、異邦の街の中にあって、透明な存在になったような心地よさを感じている。私はこの街で何者でもない。この街の住人ではもちろんなく、ある意味で旅行者でもない。ただ、目的もなく街をさまよっているひとりの異邦人にすぎないのだ。


『天涯〈1〉鳥は舞い光は流れ』 沢木 耕太郎 集英社文庫 より
この本の紹介記事

『深夜特急』の著者、沢木耕太郎氏による旅の写真集『天涯』からの引用です。

沢木氏が旅人について語るとき、「透明な存在」といった表現がよく出てきます。例えば、ベストセラーの『深夜特急』だけを見ても、その中にいくつかそうした表現を拾うことができます。

旅の名言 「異国にありながら……」
旅の名言 「歩いても歩いても……」

「透明な存在」、それはある時は日常の世界を離れた自由さや解放感として語られ、またある時は旅人が感じる、旅先の日常世界と関わることのできない距離感として語られます。

旅人は、自らの属する土地から旅立つことによってそこから切り離され、一方では旅先の土地と深くつながることもなく、まるで宙に浮いたような状態で漂っています。移動の連続が、その浮遊感に拍車をかけます。飛行機で旅を続ける人なら、物理的な浮遊感すら感じ続けることになるでしょう。

ただ、多くの旅人には、しっかりとした旅の目的地があり、あるいは旅先での行動に関する詳細なプランがあります。

彼らは微妙な浮遊感や解放感を感じつつも、「旅行者」としてのアイデンティティを持ち、ガイドブックを手に観光名所をたどったり、有名なレストランを巡りながら旅行者らしいふるまいを演じます。彼らは旅先の土地の経済に貢献する人々であり、現地の人々からも「観光客」として受け入れられることになるでしょう。

しかし旅人の中には、沢木氏のように、旅行者というアイデンティティまで脱ぎ捨ててしまう人もいるようです。

明確な行き先も目的もなく、いわゆる放浪の旅人として風まかせの旅を続けているような人間は、たとえ旅行者のような格好をしていても、本人の意識の上では「透明な存在」と化しています。彼らは「街の住人ではもちろんなく、ある意味で旅行者でもない」、「何者でもない」存在として異国をさまよっているのです。

もしかすると、彼らはその「透明な存在」という感覚がもたらす独特の「何か」をはっきりと感じとりたいがために旅を繰り返し、長い旅を続けているのかもしれません。

見知らぬ街を目的もなくひとりでさまよっているとき、旅人の内面に感じられるその独特の感覚が、私たちの心の奥に眠っている「何か」を呼び覚まし、心を掻き立てるのではないでしょうか。

それは言葉で説明しようと試みるよりも、実際にそれを感じること、何度でもそれを感じることに意味のあるような「何か」です。

そしてそれは、なぜかは分からないけれども、自分が生きていくうえでとても大切だと感じられるような「何か」なのだと私は思います。

放浪の旅人にとっては、もしかすると、目的地を決めて地上の特定の場所にたどり着くことよりも、見知らぬ土地をさまよっているときにふと味わうそうした内面の感覚の方が、はるかに大きな意味を持っているのかもしれません。

at 18:21, 浪人, 旅の名言〜旅人

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『日本型システムの終焉 ― 自分自身を生きるために』

評価 ★★☆☆☆ よかったら暇な時に読んでみてください

 今まで機能してきた日本社会のシステムが、機能不全に陥っている。いやそのシステムが機能していると見えたのはうわべだけで、うまくいっていると見えているうちから内部崩壊はすでに進んでいた。それに気づかなかったのは、そのシステムが表層的に誇示する利得、すなわち右肩上がりの経済成長があまりにも目覚ましく、その「豊かさ」が目くらましの効果を持っていたからだ。
 日本型システムが崩壊させていったのは、一言でいえばわれわれの「存在感」である。われわれはなぜ生きているのか。何を求めているのか。われわれとはそもそも何者か。これだけ「豊か」になったこの社会の中で、われわれはその問いに答えることができない。これだけ豊かになったのに、われわれは存在感の病いに悩んでいる。そしてこれだけ豊かになったのに、われわれはどこかで自分自身が根源的に自由でないと感じている。


本書の著者、上田紀行氏は、学生時代に自らその「存在感の病い」に苦しみました。「癒し」を求めてカウンセリングを受けたり、インドを旅してみたり、自己啓発セミナーにはまったりと、さまざまな経験を重ねました。

やがて彼は、文化人類学者として伝統社会の癒しを研究するようになり、現代社会における癒しについても、著書やマスメディアを通じて積極的な発言を続けています。

上田氏は伝統社会の持つ「つながり」、つまり、共に生きているという感覚の重要性に着目しました。以前にこのブログでも紹介した『悪魔祓い』という著作においては、スリランカの悪魔祓いの儀礼を紹介しながら、癒しと「つながり」感覚との深い関係を分かりやすく解説しています。

しかし、現代社会の癒しを考えるとき、ただ「つながり」の回復を訴えるだけでは、問題の解決にならないことも確かです。現代の日本を覆い尽くしている、目的と効率ばかりを優先する社会システムのあり方を考えてみるとき、単純にそのようなシステムに「つながる」ことが癒しをもたらすとは思えません。

上田氏は大学の教員として愛媛に赴任し、そこで目にした学生たちのあまりの元気のなさに驚愕します。その理由を探っていくうちに、前近代的なしがらみと近代的な合目的性や効率性が重なり合った、息苦しい「日本型システム」の姿が見えてきます。

 世間は効率性を求めている。世間はあなたに「意図」を抱いており、その「意図」が効率的に遂行されることを期待している。自分が存在する場にはすでに「意図」や「目的」があり、その目的に添って行動すればそこで認められるが、それに反する面を出せば排除される。あなた自身の「色」、ノイズを出してはいけない。それは過剰なものであり、決して歓迎されない。それは効率を下げ、みんなに迷惑をかける。「世間から後ろ指をさされないように、効率的に生きなさい」これが現代日本を覆っている意識に他ならない。


そうした日本型システムに過剰に適応しようとすれば、人は「透明な存在」になっていくしかありませんが、それが私たちの存在感を根底から失わせてしまうことになるのです。

上田氏は、私たちがこうした「存在感の病い」から癒されるためには、癒しの二つの原理のうち、「<つながり>型の癒し」だけでなく、「<断ち切り>型の癒し」にも着目する必要があるのだと言います。

それは、日本人が近代社会の矛盾を乗り越え、脱近代の新しい社会を目指そうとするならば、まずは私たちそれぞれが、近代的な「個」をしっかりと確立する必要があるということであり、同時に、「個」の確立が単なる孤立に陥ることなく、「つながり」に対しても開かれたものになることが必要なのです。

『日本型システムの終焉』という、大上段に構えたようなタイトルといい、本書を貫く「日本型システム」への鋭い批判といい、肩に相当力が入っている感じがしましたが、私は上田氏の主張自体には違和感を感じなかったし、むしろ読んでいて深い共感を覚えました。

ただ、理屈としてはその通りだと思うのですが、実践というレベルで考えるとき、私たち日本人の今後の道のりは相当厳しいと思わざるを得ません。

それは、開かれた「個」を確立していくという課題が、単なる心の持ちようだけで済む問題ではなく、私たちの日常生活に浸透しているあらゆるものに批判的に目を向け、残すべきものは残しながらも、それを乗り越えて新しい生き方を創造していく苦しい作業を要求するからです。

そしてその際、これまでの学校や会社のような組織だけを通じて「効率的」「システム的」に問題を解決していくことはできません。また、誰か他の偉い人だけに解決を任せて、自分は今まで通りの生き方を続けるというわけにもいかないでしょう。

現在私たちを悩ませる「存在感の病」から癒されるためには、私たちそれぞれが自らの責任で、内面・外面の双方において、自分なりの道を切り開いていかなければならないのです。

もちろん、それがうまくいけば、やがて私たちに深い癒しをもたらし、生きがいも与えてくれるはずなのですが……。

本書の出版から約10年が経った今、上田氏が指摘した問題は解決に向かうどころか、むしろ深刻化し、社会の閉塞感はさらに増しているように見えます。

その閉塞感が臨界値を超え、閉じられた社会の中で理不尽な暴力が噴出したり、スケープゴート探しが過熱したりする前に、私たち一人ひとりが重い腰を上げ、新しい生き方を創造する作業、苦しいけれどもやりがいのある作業に取り組み始める必要があるのではないでしょうか。


本の評価基準

 以下の基準を目安に、私の主観で判断しています。

 ★★★★★ 座右の書として、何度も読み返したい本です
 ★★★★☆ 一度は読んでおきたい、素晴らしい本です
 ★★★☆☆ 読むだけの価値はあります
 ★★☆☆☆ よかったら暇な時に読んでみてください
 ★☆☆☆☆ 人によっては得るところがあるかも?
 ☆☆☆☆☆ ここでは紹介しないことにします

at 19:16, 浪人, 本の旅〜人間と社会

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旅の名言 「ひとり旅をすることによって……」

ひとり旅をすることによって唯一学んだことがあるとしたら、それはものごとを実行に移すときの要領のようなものにちがいない。なにかをやりたいと思ったらうだうだ悩まず即行動。ボルネオ島ってどんなところだろうなんて想像するまえに、チケットを予約し、ビザを取得して、さっさと荷造りをする。なにかを実現させるなんていうのは、つまるところそういうことじゃないだろうか。


『ビーチ』 アレックス ガーランド アーティストハウス より
この本の紹介記事

映画『ザ・ビーチ』の原作となった、アレックス・ガーランド氏の小説『ビーチ』からの引用です。

ガーランド氏は元バックパッカーだったようで、長旅を経験した旅人ならではのリアルな感覚が、この小説のあちこちに埋め込まれています。

冒頭の引用は、主人公のリチャードが一人旅の心得を語る部分ですが、「うだうだ悩まず即行動」するひとり身の気楽さ、腰の軽さをうまく表現していると思います。

実際、何度かバックパックをかついで旅をしていると、旅に出ること、国境を越えて見知らぬ国に行くことへの心の敷居がどんどん低くなっていくことは確かです。

未知の世界に飛び込むというプロセスを何度も繰り返しているうちに、事前に手に入るわずかな情報をこねくり回してあれこれ思案してもはじまらないこと、不安を紛らわせるために仲間を募って出発の時期や目的地を調整する手間をかけるよりは、自分の行きたいところに一人でさっさと出発してしまうほうが自由で気軽であることに改めて気づくのです。

もちろん、一人旅では自由を満喫できる反面、その自由に見合うだけの責任が求められることも確かですが……。

at 18:48, 浪人, 旅の名言〜旅の予感・旅立ち

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