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旅の名言 「自分の中で何かが壊れ……」
アラブ世界ではトイレットペーパーが一般的じゃないので、商店にもあまり置かれておらず、手に入れるのにちょっと苦労する。
ある日、ペーパーを探して町を歩いているとき、急に自分が浅ましく感じられた。いつまでお前は日本の価値観を引きずっているんだ?――そんな思いが頭をかすめた。
ぼくは紙を探すのをやめ、手ぶらでトイレの中に入った。
モロッコの便所には大型の計量カップのようなものが備えつけられている。それでもってケツに水を流すのだ。
おそるおそる注ぎ口をチェックする。見たところ、妙なものはこびり付いていない。
用便を済ましたあと、ぼくは深呼吸をする。右手にカップを持ち、それを背後からまわし、注ぎ口を肛門の上のほうにあてがう。それからカップをゆっくり傾ける。細い糸のような水が蛇のようにケツを這い、肛門へと注がれる。ぼくは意を決し、エイヤッと、左手の中指を肛門にくっつけた。
「あ……」
妙な感動が起こった。
自分の中で何かが壊れ、そして何かが生まれた。
深く根を張った呪縛から、広い空へと解き放たれたような気がした。
これで俺は文明に縛られることなく、どこでだってやっていけるのだ――。
フィジカル的にもじつに爽快だった。このスッキリ感を29年間知らなかったとは、なんともったいないことをしてきたのだろう。
『いちばん危険なトイレといちばんの星空 ― 世界9万5000km自転車ひとり旅〈2〉 』 石田 ゆうすけ 実業之日本社 より
この本の紹介記事
世界一周を果たしたチャリダー(チャリ=自転車で旅をする人)、石田ゆうすけ氏の旅行記『いちばん危険なトイレといちばんの星空』からの引用です。
知っている人も多いと思いますが、便所でトイレットペーパーを使うというのは、いわゆる先進国の文化であって、世界の多くの地域では、水と左手、あるいはその他の方法で「処理」をするのが常識です。
南北アメリカ縦断とヨーロッパの旅を終えて、アフリカ大陸にやってきた石田氏は、モロッコで「水と左手」文化に直面し、ついに決意して、自らその実践に踏み出します。
その最初の瞬間、「ファースト・コンタクト」を、彼は実にうまく表現しています。
「自分の中で何かが壊れ、そして何かが生まれた」……。
その瞬間までの心理的な抵抗感は、誰しも相当なものだと思います。でも「エイヤッ」と気合いを入れて、一度やってみてしまえば、後は実にあっけないものです。
もちろん初めのうちは、不器用な失敗をすることもあるかもしれませんが、「糞闘」を重ねるうちに、やがて新しいやり方にもすっかり慣れるはずです。
何よりも、紙で処理するより「爽快」で、「スッキリ感」が断然違います。この辺は、ウォシュレットなどのハイテク便座の登場で、ようやく日本人も知りつつあります。
ところで、石田氏は「水と左手」文化がよほどお気に召したようです。
今はもう、用便後は水ナシでは考えられなくなった。日本でも五〇〇ミリリットルのペットボトルを「携帯ウォシュレット」と呼び、どこへ行くにも持ち歩いている。
石田氏の中では、本当に「何かが壊れ」、彼はすっかり「広い空へと解き放たれ」てしまったようです……。
旅の名言 「便所で手が……」
記事 「中国のトイレ事情」
記事 「チベットのトイレ事情」
内沢旬子・斉藤政喜著 『東方見便録』 の紹介記事
宇宙人を見つけたら? (その2)
記事 「宇宙人を見つけたら?」
そのときの新聞記事では、結局、研究者の話し合いの結論がどうなったのか、よく分からなかったのですが、別の新聞記事では、次のようになっていました。
【未知との遭遇”時の情報統括は? 西はりま天文台で研究会】
異星人が発信した電波などをキャッチしたとき、情報を統括する「国の機関」はどこか−。佐用町の県立西はりま天文台公園で開かれた研究会で、こんな問題が討論された。国際天文学連合(IAU)の指針を基にした協議だが、研究者らは「国家には任せられない」との結論に達し、独自の指針づくりを目指す作業部会を結成した。
IAUでは1991年、兆候をとらえた際の指針として「発見者は適切な国家当局に連絡し、異星人のものと断定できるまで公表してはいけない」などと定めた。しかし日本では、この「国家当局」の任務をどこが担うかなどの対応策が未整備のまま。
討論では、「国家が情報を統括すると国益がからみ、科学の進展を阻害する」「情報の独占は人類を不幸にする」「IAUの指針は時代遅れ。兆候発見情報の機密保持は無理だ」など、国が情報統括を担う指針への異論が続出。結局、「時代に即した新しい指針をまとめ、世界に提案する」との方向でまとまり、さっそく出席者らが作業部会を発足させた。
メンバーの1人、鳴沢真也・同天文台主任研究員は「国連の『世界天文年』に当たる2009年をめどに提言をまとめたい」と話している。
(産経新聞 2007年11月13日)
科学者としては、ETIからの信号をキャッチしても、そのことを日本の役所に通報するとややこしいことになりそうなので、もっと時間をかけて、より適切な方法を考えることにした、ということのようです。
ところで、この研究会は、あくまでもSETIに関係する科学者が「もしもの場合」にとるべき行動について議論しているだけで、例えば「一般市民」がUFOを目撃してしまったり、エイリアンとコンタクトしてしまったらどうするか、ということを話し合っていたわけではありません。
研究会が行われた西はりま天文台のウェブサイト内の、光学的地球外知的生命探査(OSETI)のページ「なゆたOSETI」では、以下のようなコメントが出されています。
【誤解しないで下さい!】
11月3日、4日に西はりま天文台でSETI研究会を開催しました。 (中略)
この会議の一部で、国内の研究施設で太陽系外文明からの電磁波を検出した場合にとられる対応についての議論がありました。
一部のマスコミは、一般の方などが、もしUFOを目撃したり、町で宇宙人に遭遇したらどこに通報するかについて決める会議だったかのような報道をしていますが、そのようなことはまったく前提としておりません。誤解のないようにお願いします。
私には、科学者の気持ちが分かる気がします。
天文学者の探査プロジェクトと怪しげなUFOの話題をマスコミがごっちゃにし、面白おかしく報道することで、SETIに参加する研究者たちが「トンデモ科学」に首を突っ込んでいるという誤解を一般の人々に与えかねない、と危惧しているのでしょう。
しかし一方で、私には、マスコミがSETIとUFOの話題を混同するのももっともだという気がするのです。
マスコミにとっては、宇宙人からのメッセージがどこからやってくるかに興味があるのではなく、宇宙人の話題そのものに興味があるのであり、宇宙人という言葉が巻き起こす「モヤモヤとした不思議感」や、宇宙人とのコンタクトへの「期待と不安」というテーマに惹かれてしまうのだと思います。
科学者側の、あくまでも自分たちの研究範囲で起き得ることにしか関知しません、という立場は、それはそれで正しい対応だと思うのですが、考えてみれば、宇宙人のメッセージが必ずしもSETIの観測網を経由してやって来るとは限りません。
もしも気まぐれな宇宙人が、何の予告もなく、私たちの近所にいきなりやって来てしまったら、どうすればいいのでしょう?
実は今回の報道を通じて、科学者の間には国際天文学連合(IAU)の指針など、とりあえず参考になりそうな行動指針があるものの、「一般市民」が宇宙人とコンタクトしてしまった場合にどうすればいいか、公式な取り決めやルールが何も用意されていないということが、はからずも明らかになってしまったわけです。
もちろん、私たちがいきなり宇宙人に遭遇してしまうなど、あり得ない話だと考えるからこそ、マスコミも冗談半分で話題にしているのですが、「一般市民」の誰かがその当事者になってしまう可能性は、完全にゼロだとも言い切れません。
実はみんな、内心ちょっと不安を感じている部分もあるのではないでしょうか。
ある日突然、ご近所に着陸したUFOから宇宙人が出てきて、私たちの誰かが人類への重大なメッセージか何かを託されてしまったりしたら、その当事者の心の衝撃は想像を絶するものになるはずです。
彼(彼女)はきっと、誰かに助けを求めたくなるでしょうが、周りの人は、その人を変人か病人扱いしてまともにとりあってはくれないだろうし、どこか役所に届けようとしても、門前払いされそうで、どこに相談したらいいかわかりません。
その人は、宇宙人から「重大な使命」を託されながら、誰にも相手にしてもらえず、切羽詰まって途方に暮れることになるでしょう……。
まあ、大げさに考えれば、そういうこともあり得るわけです。
そんな私たちの密かな不安を代弁してか、こんな記事がありました。
【宇宙人に遭遇したとき僕らはどうすればいい??】
宇宙人からコンタクトがあった場合、日本ではどこに通報すればいいのか?
こんな疑問を解決するための会議が、先日兵庫県で開かれた。天文学者をはじめ60人以上の専門家が集まる、初の本格的会議として成果が期待されたのだが…残念ながら、今回は結論が出ず。情報を独占される可能性があるので国家を通報先にすべきではない、といった意見も出るなか、とりあえず結論が出るまでの間は「発見者の判断に委ねる」ことになったという。
しかし。当然、僕らだって今日あたり、ひょっこりと宇宙人に出くわす可能性があるわけで。そんな重大なイベントに対して「判断に委ねる」と言われても…正直荷が重すぎます。その時、我々はいったいどうすればいいのか?? こんな疑問を、思いっきり“あの人”にぶつけてみましたよ。
「確かに通報先を決めるのは難しいですね。強いていえば、UFOに関しては防衛省でしょうが、これはあくまでも《未確認飛行物体》に対する防衛面から。宇宙人に出会った場合…やはり、僕に連絡をするのがよいでしょう」(UFO研究家・矢追純一氏)
(以下略)
(R25 2007年11月26日)
やはり、そういう緊急事態に心強い味方になってくれるのは、「あの矢追さん」くらいしかいないのでしょうか……。
『世界を見る目が変わる50の事実』
本書は、英国BBCのジャーナリスト、ジェシカ・ウィリアムズ氏が、日々のマスコミ報道ではほとんど取り上げられることのない世界の衝撃的な現実を、さまざまな統計資料や具体的な事例をもとに描き出したものです。
「中国では4400万人の女性が行方不明」
「ロシアで家庭内暴力のために殺される女性は、毎年1万2000人を超える」
「ケニアでは家計の三分の一が賄賂に使われる」
「武力紛争による死者よりも自殺者のほうが多い」
「世界にはいまも2700万人の奴隷がいる」
こうしたショッキングな見出しを見ると、これは一体どういうことなのか、どうしてそのようなことが起きているのか、もっと知りたくなります。この本には、各国の驚きの実情や、世界全体の憂うべき問題が、50のトピックで簡潔に述べられています。
中には、「アメリカ人の三人に一人は、エイリアンがすでに地球に来たと信じている」といった面白い話題もありますが、正直言って、ほとんどが目を背けたくなるような厳しい問題ばかりです。読んでいて気持ちのよいものではないし、人によっては絶望的な気分になってしまうかもしれません。
しかし、それでも、こうした事実を知らずに済ますわけにはいかないのだと思います。
この本を読んでいると、世界的な貧困の問題が強く印象づけられます。しかし意外なことに、ウィリアムズ氏によれば、富める国が貧しい国に手を差し伸べることは、少なくとも経済的には、それほど大きな負担にはならないというのです。
世界で最も富める国々の国民所得の一%足らずを用いれば、最悪の貧困は大幅に軽減できる。充分な食料、医療や教育などの基本的サービスは、すべての人々にいきわたり、新生児死亡率も下がり、疾病の蔓延も防げるのだ。
しかし、それが実現しないのが、現実の世界です。
何より、世界を取り巻く問題の多くは、富める先進国と貧しい途上国との、醜い不平等に起因していることだ。その緩和にまがりなりにも取り組むことができたなら、問題解決に向けて大きく踏み出せる。悪評高いグローバリゼーション――貿易、通信、投資を通じて世界がより深く結ばれること――も、正しく用いられさえすれば、解決への強力な一助になる。しかし、本書で明かされるとおり、これまで富裕国は、途上国に高い障壁を課して自国の経済を下支えし、グローバリゼーションをさらなる搾取の手段にしてきた。企業も、貧困国の安価な労働力や資源を使ってますます利益を上げてきた。
ウィリアムズ氏は、こうした状況を変えるためには、人々の意識を変えることが必要であり、そのためにはまず事実を知ることが大切な一歩だとしています。
確かに、それはとても大事なことで、実際にこうした本を通じて、多くの人が世界の問題を認識し、自分にできる範囲で、ささやかな行動を起こすことが必要だと思います。本書でも、問題によっては、すぐにでも手を打つことのできるいくつかの解決策が述べられています。
ただ私は、日本を含めた先進国の人々が、いまや国際的になった大競争の中で、自分の雇用や豊かな生活を守るために必死になっている状況で、果たして他の人の苦しみにまで目を向ける心の余裕があるのだろうかとも思います。
日本の外ばかりでなく、今や日本国内においても、貧困を始めとするさまざまな問題が噴出していることに、多くの人が気づいているはずです。しかし一方で、自分や家族の生活を守るために、休みなく働き続けなければならないという現実があります。
「負け組」になりたくない一心で頑張ることが、結果的に他者を押しのけ、まわりまわって貧しい国の人々の生活をも悲惨にしているのではないかと薄々気づいていながら、それをやめることができないジレンマ。
こうしたジレンマを解消するためには、遠回りのように見えますが、私たち一人ひとりが、自らのライフ・スタイルと、それを根底で支えている世界観を、根本的に見直していくことが必要だし、それが本当の意味で「意識を変えること」なのだと思います。
でもそれは、面倒で辛い作業です。私も、偉そうなことを言える立場ではなく、このままではいけないと感じながらも、結局、今の自分のやり方を変えたくない気持ちに押し切られることが多々あります。
それでも、こうした本を読んで現実の衝撃にさらされるたびに、そのことが、少しずつでも私たちが前に進むエネルギーを与えてくれるのだと思います。
本の評価基準
以下の基準を目安に、私の主観で判断しています。
★★★★★ 座右の書として、何度も読み返したい本です
★★★★☆ 一度は読んでおきたい、素晴らしい本です
★★★☆☆ 読むだけの価値はあります
★★☆☆☆ よかったら暇な時に読んでみてください
★☆☆☆☆ 人によっては得るところがあるかも?
☆☆☆☆☆ ここでは紹介しないことにします
旅の名言 「旅とは、とどのつまり……」
旅とは、とどのつまり、修行のひとつの形であり、それは(キャサリン・ノリスの言葉を借りれば)「人格をまるごとすべて成長させるために、切りつめた状況に身を委ねるひとつの方法である。また、私たちに大切なことを忘れさせようとする社会の強力な圧力に抗って、自分はどこにいて、何をしている、何者なのかをしっかりと認識するための革新的な方法なのである」
『旅に出ろ! ― ヴァガボンディング・ガイド 』 ロルフ・ポッツ ヴィレッジブックス より
この本の紹介記事
放浪の旅へのガイドブック、『旅に出ろ!』からの一節です。
放浪の旅は、人間のスピリチュアルな側面と密接な関係があります。
もっとも、スピリチュアルと言っても、人のオーラが見えるとか、超能力が身につくとか、そういうレベルの話ではなく、ここでは人間の精神的な成長といったような、もっとシンプルで常識的な意味合いの言葉として使っています。
古くから、世界各地で多くの人々が、自らの意志で、巡礼という長い旅に出ていました。現代の放浪の旅も、ある側面においては、そうした人類の精神的な伝統の延長線上にあると言えます。
もちろん、放浪する旅人一人ひとりが、スピリチュアルな側面についてどこまで意識しているかは別の問題です。
旅に出る直接的な動機は人によって違うだろうし、多くの旅人は、「自分はただブラブラと世界をうろついて、面白いものを見たり、のんびりとした日々を過ごしたいだけで、精神的なものとは全く関係ない」と思っているのではないでしょうか。
ただ、自分の内面からこみ上げてくる「旅に出たい」という強い気持ちに突き動かされ、日常の安楽な世界をいったん離れて長い旅に出ることは、結果として、自らの意識を強烈に変えていくことになるのです。
それは、メッカやエルサレムやブッダガヤや、あるいは四国八十八カ所のような、明確な巡礼の目的地がなくても、本人に宗教心などなく、旅先でごくごく世俗的な行動をしていても、放浪の旅という生活スタイルそのものが、否応なく本人の意識に強い作用を及ぼすからです。
旅は、日常的な人間関係や、気を紛らすためのさまざまな道具や生活習慣から人を切り離すことによって、「切りつめた状況」へと旅人を追い込みます。それは、ふだんの忙しい日常生活の中でちょっとしたストレスを感じたときに、いつもの「お気に入り」へ逃げ込んで気分転換をするやり方を封じてしまいます。
旅先では、すべてが流動的です。旅人は、予想もしなかった出来事や、ストレスに満ちた状況に巻き込まれやすいものですが、そんなとき、旅人の身の回りには、ちょっとした会話で気を紛らすことのできる家族や友人もいなければ、ストレス解消に役立ってくれるようなアイテムもほとんどありません。
ちょっと大げさに言うなら、旅人は、見たくもない自分の情けない姿も含めて、今この瞬間の自分のありのままの姿と、絶えず向き合うしかなくなるのです。ある意味では、旅とはそうしたシチュエーションを強制的に作り出す試みであるとも言えます。
しかし、そうやって逃げ場をなくし、あえて自分自身と向き合うことで、「自分はどこにいて、何をしている、何者なのか」が少しずつ見えてきます。
私たちの日常である、消費社会の終わりなきお祭り騒ぎからいったん離れ、「私たちに大切なことを忘れさせようとする社会の強力な圧力」から逃れることで、少しだけ透明になった目で、自分自身を見つめることができるのです。
旅の、移動と変化の日々は、旅人にシンプルな生活を要求します。切りつめられた生活を通して、自分にとって本当に重要なことに集中せざるを得ない状況を作り出せば、必然的に、精神的に磨かれることになるというわけです。
そう考えると、すべての放浪者は、本人が自覚するしないにかかわらず、長い旅に出発しようと志した時点で、一種の精神的な「修行」へと足を踏み出しているのかもしれません。
もちろん、これはあくまで理屈の上での話で、何もかもがそううまくいくとは限らないのですが……。
『解読「地獄の黙示録」』
評価 ★★★☆☆ 読むだけの価値はあります
誰でも知っている超有名映画「地獄の黙示録」。でも、そのエンディングは難解であることでも知られています。
立花隆氏は、この映画を「世界文学に匹敵するレベルで作られた映画」であると絶賛します。そしてこの本の中で、さまざまな視点からの作品「解読」を試みています。
本書第一部の「『地獄の黙示録』22年目の衝撃」は、2002年の「特別完全版」の公開に合わせて書かれたもので、「オリジナル版」制作にまつわるエピソードが詳しく紹介されています。
自らの全財産をこの映画の制作につぎ込んだものの、エンディングの構想が固まらないまま撮影に突入してしまったコッポラ監督の撮影・編集をめぐる苦悩の日々と、紆余曲折と偶然の中から次第に映画が形を成していくスリリングなプロセスが描かれています。
第二部の「『地獄の黙示録』研究」は、1979年の「オリジナル版」公開時に立花氏が発表した論文がベースになっています。彼は、難解だといわれるエンディング部分を中心に、この映画に隠された重層的な構造を「解読」してみせてくれます。
立花氏は、この映画の下敷きとなっているコンラッドの『闇の奥』を始めとして、エリオットの「荒地」「うつろな人々」、ジェシー・ウェストンの『儀式からロマンスへ』(聖杯伝説の人類学的研究書)、フレイザーの『金枝篇』、ドアーズの「ジ・エンド」など、映画の中で引用される詩や文献を一つひとつ解説しています。
欧米の文化的伝統を共有しない日本人にとっては、立花氏の丁寧な説明によって、コッポラ監督が映画の中に埋め込んだメッセージを初めて理解できるという部分もあるのではないでしょうか。
この映画には、派手な戦争スペクタクル、多数の観客を動員できるエンターテインメントとしての表層の下に、アメリカ人に深い傷跡を残したベトナム戦争の実態を、フランスのインドシナ植民地支配からアメリカの介入までの史実をふまえて、リアルに表現するという目的もありました。
そして、さらに深い層においては、カーツという象徴的な人物の存在を通じて、虚飾を剥ぎとったむきだしの戦争の論理が示され、さらにそこには、そうした存在を生み出す私たちの現代社会の底にある、神なき時代の「ニヒリズムと自己神格化と原始的本能に依拠した偽善」が、象徴的に示されているのです。
こうしたメッセージは、私たちの日常世界の言葉では表現し切れない、意識の深層のレベルに関わってくるため、その表現はどうしても神話的・象徴的なものにならざるを得なくなります。そのため、主人公のウィラードが「カーツ砦」に到着するあたりからエンディングまでは、神話的な色彩の濃い表現に変わっています。
イメージと神話的寓話によってメッセージを伝えようとしたからこそ、これはアポカリプス(黙示)なのである。そしてそれは?地獄の黙示?ではない。我々の時代である現代に作者が与えんとした「Apocalypse Now」なのである。
立花氏は、ジャングルの奥へと向かうウィラードの旅が、伝統的な聖杯探求の旅のイメージを下敷きとしているばかりではなく、カーツを殺すというエンディングには神話的な「王殺し」、つまり病める王を倒すことによって「荒地」に恵みの雨をもたらすという神話的なイメージが重ねられていることを指摘しています。
第三部は、この映画に関する補足的な解説記事です。いくつもの興味深いエピソードが出てきますが、その一つとして、当初監督に予定されていたジョージ・ルーカスが、のちにこの映画の設定をヒントに、「スター・ウォーズ」を構想したという話も紹介されています。
「地獄の黙示録」という映画をどう受け止め、解釈するかは、もちろん鑑賞する人それぞれに任されており、必ずしもこの本のように深読みする必要はないのかもしれません。
ただ私は、立花氏の「解読」にはかなりの説得力があり、見落とされがちなポイントや映画のエンディングに関しては、コッポラ監督の意図をかなり適切に言語化しているのではないかと思います。
少なくとも、この映画のエンディングを難解と感じ、今までモヤモヤとしていた人は、この本を読めばかなりスッキリするのではないでしょうか。
本の評価基準
以下の基準を目安に、私の主観で判断しています。
★★★★★ 座右の書として、何度も読み返したい本です
★★★★☆ 一度は読んでおきたい、素晴らしい本です
★★★☆☆ 読むだけの価値はあります
★★☆☆☆ よかったら暇な時に読んでみてください
★☆☆☆☆ 人によっては得るところがあるかも?
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タイで運転中のケータイが禁止に
記事 「バス運転手と携帯電話」
きっと、運転中のケータイ使用が原因で、痛ましい事故が何件も起きていたのでしょう。タイでも、運転中の携帯を禁止する法案がようやく可決したようです。
【運転中の携帯禁止、「袖の下」危惧する声も】
自動車運転中に、ハンズフリー通話以外での携帯電話使用を禁止する陸運法改正案が先日、立法議会を通過。
改正法は官報掲載後、90日の猶予期間を経て、発効する。
ドライバーへの広報徹底、およびハンズフリーキットを用意する時間が必要なため、発効までに90日という時間的余裕を設けることになった。発効後は、ハンズフリーキットを使用せずにドライバーが走行中に携帯電話を使った場合、400バーツから1000バーツの罰金となる。
ただ、同法施行により、警官がドライバーに目こぼし料を要求するネタが増えることになる、と危惧する声が早くも多くの市民から出ている。 (後略)
(バンコク週報 2007年11月19日)
これでとりあえず、ケータイ片手に運転するのは違法になったので、バスの乗客も、そんな運転手を見かけたら、注意をするとか、少なくともみんなで冷たい視線を送ることが可能になったわけです。
このルールが徹底されれば、タイの陸路の旅は、より安全なものになるかもしれません。
もっとも、この法律の弊害として、警察官の小遣い稼ぎに悪用されるのでは、という懸念が早くも出ているのは、さすがタイらしいところです。実際に、このルールがどこまで徹底されるのかも、フタを開けてみないとわかりません。
ところで、他のアジア諸国では、「運転中のケータイ」問題への対応はどうなっているのでしょう? 私には詳しい事情はわかりませんが、運転中のケータイが野放しになっている国はまだまだたくさんあると思います。
ケータイの利用というのは、ここ数年で世界中に普及した生活スタイルだけに、どの国もそれに対する免疫ができていません。皆がその適切な利用の仕方に慣れるまでは、さまざまな事故や摩擦が起きるはずです。
その上、そういう社会の変化にすばやく対応できる政府や議会がない国では、問題がそのまま放置されることになりがちです。
もちろん、こうした問題を解決するのはあくまでもそれぞれの国と国民であって、外国人がくちばしを挟むことではないのですが、その国の住民だけでなく、旅行者も直接被害をこうむる可能性があるだけに、よその国のことでも、ちょっと気になります。
皆さんも、アジアで長距離バスに乗るときは、ケータイ片手の運転手にはご注意ください……。
旅の名言 「旅とは……」
旅とは豪奢な無駄を味わうことだ。
『天涯〈3〉花は揺れ闇は輝き』 沢木 耕太郎 集英社文庫 より
この本の紹介記事
沢木耕太郎氏の旅の写真集、『天涯』シリーズからの引用です。
改めて言うまでもなく、旅には「無駄づかい」がつきものです。
先日紹介した『伊勢詣と江戸の旅』には、江戸時代の庶民が、一生かかってコツコツと貯めた金を、伊勢に着いたとたんに一挙にばら撒き、まさに一生に一度の「豪奢な無駄」を堪能したさまが描かれています。
また、そうした習慣が現代にも受け継がれているのか、日本人が旅先で買物に明け暮れ、散財するのは世界的に有名です。もっとも、最近ではアジア諸国の中流階級が、まるで日本人を見習うかのように、同じ行動をするようになりましたが……。
ただ、沢木氏が「旅とは豪奢な無駄を味わうことだ」と言うとき、それは単に旅人の金遣いの荒さだけを意味しているのではないと思います。
私たちの日常は、特に現代社会での日常は、人生設計に基づいた、細かな目標の連続で成り立っています。
子どもの頃は、いい中学・高校・大学に入るために一生懸命勉強し、青年時代になれば自分で人生の目標を決め、いい就職をして、希望通りの仕事ができるように努力します。また、いい結婚相手にめぐり合うことも人生の目標の一つでしょう。
結婚したら、二人でどんな家庭を築いていくかを考えます。家事の分担のこと、子育てのこと、住宅のこと、親や親類とのつき合いのことなど、人生のステージごとに現れるさまざまな具体的課題をクリアーしながら、同時に自分たちの人生の目標を達成できるように日々努力を重ねます。
自分のやりたいことを決め、それを自分や家族、仕事仲間と力を合わせて達成するという作業は、とてもやりがいがあり、楽しいことです。そのプロセスを味わうだけでも充実感があるし、目標を達成できれば喜びもひとしおです。
しかしそこでは、できるだけ回り道をせずに、効率よく目標に向かうことも要請されます。無駄遣いばかりしていては、家を建てることはできないし、やるべき義務を果たさなければ、周囲から認められません。私たちの人生の持ち時間とエネルギーに限りがある以上、目標に向かってそれを効率よく配分しなければ、その達成はおぼつかないのです。
人生の目標や義務を効率的に追求していく立場から見れば、回り道をしたり、途中で立ち止まってしまうのは、人生の貴重な時間とエネルギーの無駄以外の何物でもありません。
でも人間というのは、いつも目標に向かって一直線に進めるほど単純な生き物ではありません。時には道草を食いたくなってみたり、目標をもう一度考え直したくなったり、ある日突然魔が差してみたりと、一筋縄ではいきません。
人生は目標の効率的な追求だけではない、ということに意識的・無意識的に気づいている人は、効率のために日々切り捨てられていく「無駄」と一緒に、何か自分にとって大事なものが忘れられ、捨て去られているのではないか、という気がしてしまうのです。
私たちにとって、旅とは、日常の目標や義務を一時的に離れることも意味します。旅にかける時間や費用は、効率という面から見ればマイナスであり、「無駄」かもしれませんが、旅を通じていったん日常の視点を離れることで、今まで考えてもいなかったことに気づいたり、忘れていた何かを思い出したりすることがあるかもしれません。
また、旅とは、道草を食う贅沢であり、人生の休息であり、目標や効率の世界からいったん距離をおいて、いろいろなことを冷静に見直してみることのできるゆとりでもあるのです。
そしてそこには、そうすることでしか味わえない、深い解放感や自由の感覚などがあることも確かです。これは、「無駄」を通じて初めて可能になる、目標達成とは別の種類の喜びです。
人によっては、そうした自由を求めるあまり、今まで築いてきたものをなげうったり、大幅に人生のレールから脱線して放浪の旅に出てみたりと、あえて「無駄」の方向へ二歩も三歩も踏み出すことがあるかもしれません。
冒頭に書いたような、一生かかってコツコツと貯めたお金を一瞬でばら撒くような行動や、旅先の衝動買いで我を忘れるようなことも、ある意味では、そうした解放感の追求が、物質的な面で現れたものなのかもしれないという気がします。
もちろんこういう種類の喜びは、度を越せば大変なことになります。旅の解放感が危険と背中合わせでもあるように、日常のルールを離れた世界に深く足を踏み入れていくことには、時には非常な危険が伴います。
きっと、効率についても無駄についても、どちらかに傾きすぎれば、人生の味わいは失われてしまうのでしょう。結局は両者のバランスをどうやってうまくとるのか、ということがポイントになるのでしょうが、それは理屈で解決できる問題ではなく、経験や失敗を重ねながら、一人ひとりが自分なりに感覚をつかむしかないようです。
人生が、目標や効率一辺倒で息苦しくなっているなと思ったら、それがあまり行き過ぎないうちに、旅の「豪奢な無駄」で、バランスをとることも必要かもしれません……。
『伊勢詣と江戸の旅』
江戸時代の庶民の旅というと、お伊勢参りが真っ先に頭に浮かびますが、飛行機も鉄道もなかった時代に、彼らはどんな旅をしていたのでしょうか。
例えば江戸の住人にとって、伊勢まで行くことは、往復だけで一カ月近くはかかる辛い長旅でした。人々は毎日、40キロ近くをひたすら歩いたといいます。
本書は、当時の文献や旅人の残したメモを集め、その記述や支払いの記録をもとに、江戸中期以降の庶民の旅を具体的に再現してみようという、ユニークな試みです。
第一章の「伊勢参宮」では、当時の伊勢参拝の実情が、特に伊勢到着後に焦点をあてて詳しく描かれています。
江戸時代に伊勢信仰が日本中に広がった要因として、その信仰を地方に伝え、伊勢講という旅費積み立てのグループを組織し、伊勢詣にやって来る人々を接待した御師の存在が大きいのですが、彼らが伊勢講の団体を接待するその手厚さには驚かされます。
莫大な金額の神楽奉納と引き換えという面はあったにせよ、御師は豪壮な邸宅に団体を招き、伊勢エビや鯛や鮑の豪勢な料理をふるまい、絹の布団に寝かせ、伊勢見物のための駕籠を手配し、重箱に詰めた弁当まで届けるサービスぶり。帰りにはお札の他に、みやげまで持たせています。
金持ちの商人ならともかく、庶民にとっては、こんな接待を受けるのは一生に一度のぜいたくだったはずです。彼らはここぞとばかりにあちこちでご祝儀をはずみ、伊勢の街を歩けば、文字通り金をばら撒いています。そしてそれを目当てに列をなす芸人や物乞いたち……。
読んでいると、当時の伊勢が、人々にとっての一大ワンダーランドであったことがよく分かります。
第二章の「旅の値段」では、旅全体で実際にどれくらいの費用がかかったか、宿泊費、渡し舟や川越し人足への支払い、拝観料、みやげ代などの詳細な金額が挙げられています。
第三章「街道に生きる」では、江戸時代の旅を支えていた、公的・私的なシステムが紹介されています。旅人を管理・保護する幕府の制度やその運用実態に始まって、旅人を相手に生きる茶屋、旅籠屋、遊女、客引き、飛脚屋、雲助、物売り、芸人など、街道筋のさまざまな人々の姿が描かれています。
驚くのは、伊勢・京都間や、東海道などの主要な街道には、旅人向けのかなり便利なサービスが発達していたことです。飛脚屋に頼んで、余分な荷物を必要な場所まで送ってもらうことができたし、為替を利用して旅先で現金を受け取ることもできました。現代でいう宅配便のサービスや、トラベラーズチェックに当たるようなものが当時すでに存在していたわけです。
街道の様子やこまごまとした出費の内容を読んだり、豊富な図版を見たりしていると、江戸時代の旅の具体的なイメージが浮かんできます。まるで江戸時代の日本の旅行ガイドブックを読んでいるような感覚です。
ちなみに、現在の日本ではもうほとんど影を潜めてしまったようですが、アジアの国々では、「雲助」や「護摩の灰」など、お騒がせな人々がまだまだ元気に活躍(?)しています。この本を読んでいて、アジアの旅で出会ったそういう人々を懐かしく思い出しました。
本の評価基準
以下の基準を目安に、私の主観で判断しています。
★★★★★ 座右の書として、何度も読み返したい本です
★★★★☆ 一度は読んでおきたい、素晴らしい本です
★★★☆☆ 読むだけの価値はあります
★★☆☆☆ よかったら暇な時に読んでみてください
★☆☆☆☆ 人によっては得るところがあるかも?
☆☆☆☆☆ ここでは紹介しないことにします
『いちばん危険なトイレといちばんの星空 ― 世界9万5000km自転車ひとり旅〈2〉 』
評価 ★★☆☆☆ よかったら暇な時に読んでみてください
著者の石田ゆうすけ氏は、七年半をかけて自転車による世界一周を果たしたチャリダー(チャリ=自転車で旅をする人)です。
その長い旅については、彼の最初の旅行記『行かずに死ねるか!』で、そのエッセンスが時系列に沿って語られています。
今回は、石田氏が旅の間に出会った「世界一」を紹介するという趣向です。
世界一の遺跡や自然を挙げるとしたらどこ?
世界一メシがうまかった(まずかった)国は?
世界一美人が多かった国は?
そして、一番好きな街や、一番スゴイ場所は?
世界一周をした人に出会ったら、誰でもこんなことを聞いてみたくなるはずです。本書では、石田氏がこうした質問に答える形で、改めて自らの旅を振り返り、印象に残った素晴らしい場所や人々について語っています。
彼の巧みな語りに思わず引き込まれ、笑いながら楽しく読めるのですが、これは単なるおちゃらけ旅行記ではありません。
人生を賭け、たっぷりと時間もかけて、地を這うような旅をしてきた人ならではの視点や感覚、芯のある行動が垣間見えて、「さすがチャリダー!」という感じがします。「チャリダーたちはこんな風に旅をしているんだ……」と、読んでいてとても羨ましくなりました。
この本を十分に楽しむためには、まず先に『行かずに死ねるか!』を読まれることをお勧めします。
本の評価基準
以下の基準を目安に、私の主観で判断しています。
★★★★★ 座右の書として、何度も読み返したい本です
★★★★☆ 一度は読んでおきたい、素晴らしい本です
★★★☆☆ 読むだけの価値はあります
★★☆☆☆ よかったら暇な時に読んでみてください
★☆☆☆☆ 人によっては得るところがあるかも?
☆☆☆☆☆ ここでは紹介しないことにします
旅の名言 「人の心の中にしか……」
人の心の中にしか残らないもの、だからこそ何よりも貴重なものを、旅は僕らに与えてくれる。そのときには気づかなくても、あとでそれと知ることになるものを。もしそうでなかったら、いったい誰が旅行なんかするだろう?
『もし僕らのことばがウィスキーであったなら』 村上 春樹 新潮文庫 より
この本の紹介記事
村上春樹氏夫妻のスコットランド、アイルランドの旅をまとめた小さな旅の本、『もし僕らのことばがウィスキーであったなら』のあとがきの一節です。
さりげない言い回しなのに、心に沁みる言葉です。
「旅に行っても、結局あとには何も残らないんだから、形の残るものに金を使った方がマシだ」とは、世間でよく言われる言葉です。あるいは、「若いうちに旅なんかして時間を無駄にするよりも、働けるうちにうんと働いて、老後、ヒマになったらゆっくり旅でもすればいい」と考える人も多いかもしれません。
こういう「現実派」の声は、旅に出かけない人ばかりでなく、旅する私たちの心の中にも存在していて、ときどき旅人を憂鬱な問いに陥れることがあります。「こんな旅をして、結局何の意味があるんだろう?」とか、「他の人が頑張って働いて金を貯めているときに、もしかして私だけ人生の貴重な時間を浪費してるのだろうか?」とか……。
でも私は、村上氏の言うように、旅は「心の中にしか残らないもの、だからこそ何よりも貴重なもの」を与えてくれると思っています。
こういう考え方は、「現実派」に言わせれば、少々ロマンチックすぎるのかもしれないし、何がどう貴重なのか、客観的な根拠を何も示していないかもしれません。
それでも、その「貴重なもの」は、旅人の内面で、確かに実感として感じられるものです。それは言葉で表現できる場合もあるし、できない場合もあるでしょうが、確かに「何か」が心に残っているはずです。
そしてそれは、旅が終わった後も、仕込まれた酒のように心の中で発酵を続け、ちょうどいい頃合になると、「いま」の暮らしに豊かで深い味わいを与えてくれるのだと思います。
私の旅も、今から何年後、何十年後かに自分で振り返ってみるとき、なお深い意味や味わいの感じられるようなものであってくれればいいのですが……。