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旅の名言 「ぼくは旅先で日記は……」
ぼくは旅先で日記はつけない。一度やってみたことはあるが、とんでもないまちがいだった。その旅についておぼえているのはそこに書きとめたことだけで、ほかのすべては記憶の彼方に消えてしまった。ぼくがあまりにペンや紙に頼るものだから、きっと頭や心が裏切られた気分になって、その働きを止めてしまったのだろう。まったく同じ理由で旅先にカメラは携帯しない。そんなものを持っていけば旅そのものがスナップ写真に凝縮され、そこに写っていないものは残らず失われてしまうことになる。第一、写真を見て懐かしい記憶がよみがえったという経験は皆無に等しい。古い旅仲間が持っているアルバムをめくってみても、その旅についてなにも思いだせない自分にいつも驚かされる。
『ビーチ』 アレックス ガーランド アーティストハウス より
この本の紹介記事
バックパッカーの若者が巻き込まれる冒険と悪夢を描いたベストセラー小説『ビーチ』からの引用です。
著者のアレックス・ガーランド氏は、かつてバックパッカーとしてアジアの国々を旅していた時期があるようで、旅人としての自らの体験から得た教訓を、小説の主人公の口を借りて語っているように見受けられる箇所があります。
日記をつけず、カメラも持ち歩かないという主人公の習慣は、ガーランド氏自身の習慣だったのかどうかはわかりませんが、少なくとも、旅の記録を一切残さないようにしているという旅人がガーランド氏の身近に存在したか、彼自身がそのことについて深く考えてみたことがあるのだろうということは想像できます。
日記やカメラで旅を記録しておきたいというのは、普通の旅人にとってはごく当たり前の発想だし、それには何も問題はないと私は思っています。
ただ、旅というものを非常に真剣に考え、旅に対する自らの姿勢を絶えず問い直しているような人にとっては、日記をつけたりカメラを持ち歩いたりすることの是非が、大きな問題になってくる場合もあるのではないでしょうか。
ペンや紙、あるいはカメラによって、自らの旅を記録したつもりになっても、それはあくまで旅というまるごとの体験のうちのごく一部にすぎず、そこに書き取られ、写し取られる以外の圧倒的に多くのものが永久に消え去ってしまうのだ、そして、日記やカメラという記録手段に頼ることそのものが、むしろそうした忘却を加速してしまうのだ、というのは、確かにその通りなのかもしれません。
例えば、旅先で感じる暑さや寒さ、湿気や陽射しなどの皮膚感覚、それぞれの街によって違う独特の香りと匂い、料理や飲み物、タバコなどの味わい、出会う旅人や現地の人たちとのやりとりから生じる言葉にならないムードといったものは、言葉では何とも表現が難しいし、写真で記録することもできません。
また、そうした感覚的なものだけでなく、旅をしている自分自身の内面で起きている様々な変化も、モヤモヤしたままでうまく言葉で表現できなかったものはそのまま消えていきます。
旅の経験の中で本当に重要なものは、もしかするとそうした微妙な感覚や内面的なプロセスなのかもしれないのに、日記やカメラで記録することに心を奪われているうちに、そうした感覚を取り逃がし、それはそのまま永久に失われてしまうかもしれないのです。
ただ、私個人としては、それはそうだと思う一方で、とにかく不完全でもいいから何かを記録しておきたい、という気持ちも強くあります。
歳をとったせいか、十年以上前の旅の記憶などがすっかり薄れてしまっていることにふと気がついて、何ともいえない切なさを感じることがあります。もちろん、インパクトのある体験は何年経っても忘れないのですが、その他の何気ない旅先での日常みたいなものはすっかり記憶から抜け落ちてしまって、旅日記を読み返してみても、全然イメージが甦ってこないということがあるのです。
それは、何度も旅をしたせいで、一つひとつの旅の印象が相対的に薄れたということもあるかもしれませんが、やはり年月の経過が記憶を薄れさせているのは確実でしょう。日記や写真がなければ、放っておくとそのうちに、思い出すきっかけや手がかりさえ忘れてしまうかもしれません。
忘れたら忘れたでいいじゃないか、という考え方もあるかもしれませんが、私としては、たとえ不十分なものだとしても、せめて記憶をたどる手がかりだけでも一応残しておきたい、という気持ちが最近強くなってきたのです。
もっとも、この世の中のすべては絶えず変化し続けているわけで、消え去っていくものにしがみつき、無理やりに押しとどめようとするのは、虚しい試みなのでしょう。『ビーチ』の主人公の若いバックパッカーのようにキッパリと割り切れず、無駄にジタバタしたくなるということは、私もすっかり歳をとったということなのかもしれません……。
記事 「旅日記の効用」
記事 「「写真が撮れない」症候群(1)」
『憲法九条を世界遺産に』
評価 ★★☆☆☆ よかったら暇な時に読んでみてください
本書は、中沢新一氏と爆笑問題の太田光氏による、日本国憲法をめぐる異色の対談録です。
「憲法九条を世界遺産に」という、笑えるアイデアが中心テーマとなっていますが、二人の対談に耳を傾けてみると、このアイデアがあながち荒唐無稽な冗談でもないような気がしてきます。
それは日本国憲法が、「日本人の、十五年も続いた戦争に嫌気がさしているピークの感情と、この国を二度と戦争を起こさせない国にしようというアメリカの思惑が重なった瞬間に、ぽっとできた」日米合作の「無垢な理想憲法」(太田氏)だからという理由もありますが、それだけではありません。
中沢氏は、憲法九条の戦争放棄の宣言に、近代的な政治思想に基づいた他国の憲法とは異質な原理が息づいていることを指摘します。
国家が戦争を放棄するとは、まるで生命体が自らの免疫機構を解除してしまうようなものですが、それに似た「免疫解除原理」が見いだされるものといえば、新しい生命を育む母体と、神話の世界です。
つまり、憲法九条に謳われた思想は、現実においては女性の生む能力がしめす生命の「思想」と、表現においては近代的思考に先立つ神話の思考に表明されてきた深エコロジー的「思想」と、同じ構造でできあがっていることになる。どこの国の憲法も、近代的な政治思想にもとづいて書かれたものであるから、とうぜんのことながら、そこには生命を生むものの原理も、世界の非対称性をのり越えようとする神話の思考なども、混入する余地を残していない。ところが、わが憲法のみが、その心臓部にほかのどの憲法にも見いだされない、尋常ならざる原理をセットしているのだ。
日本国憲法が「世界遺産」に推薦されてしかるべき理由は、そこにある。
そして、こうした「尋常ならざる原理」の系譜をたどっていくと、日本国憲法を近・現代史や政治思想の枠組みでとらえるだけでは見えない、もっと深く大きな人類史の流れのようなものが見えてきます。
アメリカ先住民の思想が、建国宣言に影響を及ぼし、その精神の中のかすかに残ったものが日本国憲法に生きている。それが日本民族の精神性と深い共鳴をもってきた。そう考えれば、日本国憲法のスピリットとは、一万年の規模を持った環太平洋的な平和思想だといっていい。
こうした議論は、いわゆる護憲派・改憲派による従来の議論とは全く異なる視点に立っているので、もしかするとピンとこない人も多いかもしれません。また実際問題として、こうした視点が現実の政治的な論争の中でどれだけ意味のある貢献ができるかもよく分からないのですが、私個人としてはとても面白いと感じました。
二人の対談そのものは、あまり噛み合っているとは言えず、議論が深まっていく感じはしないのですが、似たもの同士のようなやんちゃな二人が繰り出す刺激的な発言の数々は、読んでいてワクワクします。
本の評価基準
以下の基準を目安に、私の主観で判断しています。
★★★★★ 座右の書として、何度も読み返したい本です
★★★★☆ 一度は読んでおきたい、素晴らしい本です
★★★☆☆ 読むだけの価値はあります
★★☆☆☆ よかったら暇な時に読んでみてください
★☆☆☆☆ 人によっては得るところがあるかも?
☆☆☆☆☆ ここでは紹介しないことにします
「フランダースの犬」に共感するのは日本人だけ?
タイトルを英語に訳すと「ドッグ・オブ・フランダース」なのかな、などと四苦八苦しながら聞いてみたのですが、私の英語がひどすぎて質問がうまく伝わらないのか、どうも反応がよくありません。
周りにいた日本人バックパッカーたちも私に加勢してくれて、
「かわいそうな少年のストーリーだよ!!」
「日本ではものすごく有名な話で、誰でも知ってるよ!!」
「ネロだよ!!」
「パトラッシュだよ!! 知らないの?」
と大騒ぎしたのですが、熱くなっているのは日本人だけでした。相手のオランダ人はこの物語に全く心当たりがないようで、ただただ困惑の様子です。
後日、「フランダースの犬」は、オランダではなく、ベルギーが舞台のお話だということを知りました。
物語の中に風車小屋が出てくるので、風車=オランダというステレオタイプから、すっかりオランダの話だと思い込んでいたのですが、あの時一緒にいた日本人も、全員同じ勘違いをしていたわけです。
どうりでオランダ人が知らないわけです。オランダ人の旅人をすっかり当惑させてしまったことを申し訳なく思ったのですが、後の祭りでした。
しかし、ベルギー人となら、「フランダースの犬」の話題で盛り上がれるかというと、どうもそうではないらしいのです。
【「フランダースの犬」日本人だけ共感…ベルギーで検証映画】
【ブリュッセル=尾関航也】ベルギー北部フランドル(英名フランダース)地方在住のベルギー人映画監督が、クリスマスにちなんだ悲運の物語として日本で知られる「フランダースの犬」を“検証”するドキュメンタリー映画を作成した。
物語の主人公ネロと忠犬パトラッシュが、クリスマスイブの夜に力尽きたアントワープの大聖堂で、27日に上映される。映画のタイトルは「パトラッシュ」で、監督はディディエ・ボルカールトさん(36)。制作のきっかけは、大聖堂でルーベンスの絵を見上げ、涙を流す日本人の姿を見たことだったという。
物語では、画家を夢見る少年ネロが、放火のぬれぎぬを着せられて、村を追われ、吹雪の中をさまよった揚げ句、一度見たかったこの絵を目にする。そして誰を恨むこともなく、忠犬とともに天に召される。原作は英国人作家ウィーダが1870年代に書いたが、欧州では、物語は「負け犬の死」(ボルカールトさん)としか映らず、評価されることはなかった。米国では過去に5回映画化されているが、いずれもハッピーエンドに書き換えられた。悲しい結末の原作が、なぜ日本でのみ共感を集めたのかは、長く謎とされてきた。ボルカールトさんらは、3年をかけて謎の解明を試みた。資料発掘や、世界6か国での計100人を超えるインタビューで、浮かび上がったのは、日本人の心に潜む「滅びの美学」だった。
プロデューサーのアン・バンディーンデレンさん(36)は「日本人は、信義や友情のために敗北や挫折を受け入れることに、ある種の崇高さを見いだす。ネロの死に方は、まさに日本人の価値観を体現するもの」と結論づけた。 (後略)
(2007年12月25日 読売新聞)
考えようによっては、何だかすさまじい話です。
ボルカールト監督のこのドキュメンタリーがどんな内容なのか、この新聞記事からだけでは正確に判断できないのですが、それにしても、ネロ少年の悲劇は「負け犬の死」だから共感できないというヨーロッパ人もヨーロッパ人なら、結末を勝手にハッピーエンドに書き換えてしまうアメリカ人もアメリカ人です。
こういう反応は、ちょっと日本人の理解を超えているのではないでしょうか。
極めつけは、ネロ少年の悲劇に共感するのは、日本人の心に潜む「滅びの美学」だという「解釈」です。そこには、「フランダースの犬」に感動するのは非常に特殊な人々で、そこには何か特別な理由があるに違いない、という思い込みがあるような気がします。
しかし、「フランダースの犬」に感動して涙を流すことは、そんなにややこしい話なのでしょうか?
身寄りを無くし、周囲の誤解で居場所も失った少年ネロが、楽しいはずのクリスマスの晩に、飢えと寒さに苛まれ、誰にも看取られることなく死んでいくという、あまりにもかわいそうな結末を見れば、日本人に限らず、どんな人でも自然に同情の涙が流れるのではないでしょうか。
それに、物語はただ単に悲惨なまま終わるのではなく、(間に合わなかったとはいえ)最後にネロ少年の名誉は回復され、その才能も認められます。また、憧れだったルーベンスの絵を一目見て、いつも一緒だったパトラッシュと共に天に召されていくネロの姿に、一抹の救いも感じられるはずです。
確かに、欧米人がこういうストーリー展開を認めたがらないのは分かるような気がします。こんな理不尽な立場に追い込まれたネロが、社会に対して何も抗議せず、黙って自分の運命を受け入れるかのように死んでいく姿は、なんとも歯がゆく感じられるのかもしれません。
自分の力で運命を切り開き、自ら人生のハッピーエンドを創造するべきだ、いや、そうしなければならないし、子供たちにもそのような姿勢を教えていくべきだという強い社会的コンセンサスが、欧米社会にはあるのかもしれません。
でも、現実を見れば、ネロのような人生を歩む子供たちは今でも世界に大勢いるはずです。その意味では、この物語には、表面的な設定を超えたリアリティがあるし、だからこそ、見る者の心の奥に深く突き刺さってくるものがあるのだと思います。
そして、そういう観点から見ると、この物語の結末は「負け犬の死」だといって心が動かないのはあまりにも冷酷ではないかという気がするのです。
もっとも、これはボルカールト監督のドキュメンタリーを見ずに、新聞記事だけを読んで私の心に浮かんだことにすぎません。実際には、たぶん物事はもっと複雑で、そう簡単に割り切れるようなものではないのかもしれません。
ただ、「フランダースの犬」という物語の受け止め方が、欧米と日本で違っているというのは、とても興味深い問題を提起しているように思います。もっと掘り下げて考えていくと、いろいろと面白いものが見えてくるかもしれません。
今年の一冊(2007年)
今年も残りわずかとなりました。
昨年と同様、今年読んだ本の中から、もっとも印象に残った本を選んでみました。
行かずに死ねるか!―世界9万5000km自転車ひとり旅
石田ゆうすけ
この本の紹介記事
文庫版はこちら
この本は、自転車による世界一周の旅を描いた旅行記です。今年出版された本ではありませんが、とても面白く、深く印象に残りました。
私は、自転車で一泊以上の旅をしたことがないので、旅先でときどき出会うチャリダー(チャリ=自転車で旅をする人)たちがどんな旅をしているのか、今まで漠然と想像するだけでしたが、今回初めてチャリダーの旅行記を読んでみて、じりじりと地を這うように進んでいく彼らの旅の大変さと、それに見合うだけの旅の喜びを彼らが感じていることを知りました。
この他に印象に残った本を挙げると、
『サバイバル登山家』
『ホームワーク』
『旅に出ろ! ― ヴァガボンディング・ガイド』
『エグザイルス』
『脱出記 ― シベリアからインドまで歩いた男たち』
の五冊です。
『サバイバル登山家』、『エグザイルス』、『脱出記』は、いずれも常識では考えられないような特殊な旅を描いていますが、人生を賭けて自分の選んだ道を突き進むそれぞれの著者の姿が、深く印象に残りました。
『ホームワーク』は、「自分で自分の住みたい家をつくる」というテーマのユニークな写真集、『旅に出ろ!』は、放浪の旅に出るための懇切丁寧なマニュアルです。いずれも社会のメインストリームからは外れた生き方へのガイドブックですが、伝統に学び、そこから有益なヒントを得ながら、自分自身の心に響く新しい生き方を模索していく姿勢が、とても魅力的に感じられました。
2008年には、どんな面白い本に出会えるでしょうか。来年は、今年以上にいろいろな分野の本に挑戦してみたいと思います。
『ガンジス河でバタフライ』
評価 ★★★☆☆ 読むだけの価値はあります
この本は、有給休暇で世界をさすらう銀座OL、たかのてるこ氏の作家デビュー作です。先日TVドラマ化もされたので、タイトルをご存知の方も多いと思います。
本書では、初めての海外ひとり旅(香港、シンガポール、マレーシア)と、2回目のインドへの旅(カルカッタ、ブッダガヤ、バラナシ、ボンベイ)での出来事を描いているのですが、トラブル連続の常人離れした旅を、終始ハイテンションな文体で描いていて、とにかくそのパワーに圧倒されます。
たかの氏は、海外を放浪する兄を見て育ったせいか、自分も世界を股にかける旅人になりたいと憧れていましたが、小心者のため、なかなか最初の一歩を踏み出せずにいました。しかし、腹話術師になった母の姿に刺激された彼女は、20歳の夏に、ありったけの勇気を振り絞って海外ひとり旅に挑戦し、ついに「旅人デビュー」を果たします。
といっても、その旅のスタイルは、初心者とは思えないほど大胆です。ひとり旅というだけでなく、予定を立てず、ガイドブックを持たず、お金もあまり持たず、ドミトリーに泊まりながら、現地で出会う人々に導かれるように、行き当たりばったりの「体当たり系」の旅を続けていくのです。
例えば、2回目のインドの旅では、無礼講の祭り「ホーリー」の狂乱の真っ最中にカルカッタに到着してしまったり、夜行列車の中で出会ったインド人家族の家に泊まったり、ガンジス河ではバタフライをしていて死体にぶつかったりと、思わず話に引き込まれずにはいられないような数々の武勇伝が語られています。
島田紳助氏が、単行本の帯に「これを読んでこんな旅をしてみたい! と思ったヒト、あかん、やめとき、絶対死ぬで!」と書いたそうですが、まさにそんなコメントがピッタリです。
しかし、そうした旅の日々には、日常生活ではなかなか味わえない、生きている実感を呼び起こすような「何か」があるようです。彼女は、筋書きのない刺激的な旅を重ねるうちに、海外ひとり旅が「痛快で、スリルと期待に満ちた、最高のエンターテイメント」であることを知ってしまったのでした。
ところでこの本は、たかの氏の初めての海外旅行を描いているのですが、彼女がこれを書いたのは、実際の旅から10年近く経ってからのことです。
それまでの間、社会人として経験を重ねてきたせいか、この本では初めての旅の興奮とドタバタぶりを描きながらも、その文章には、いい意味での社会人としてのバランス感覚も働いているように見えます。
また、年季の入った旅人らしく、旅人の心に響くツボもしっかり押さえてあります。文章の端々ににじみ出る旅人らしい人生観も、ある意味では真っ当すぎてベタかもしれませんが、シンプルで、とても力強く感じられます。
バックパッカー体験者なら、楽しく読むうちに、自分が初めて海外へ旅した頃の新鮮な感動や、何でもないことで右往左往した恥ずかしい経験を思い出して、とても懐かしい気持ちになるだろうし、この本からもらうエネルギーで、また旅に出たいという気持ちをかきたてられるのではないでしょうか。
本の評価基準
以下の基準を目安に、私の主観で判断しています。
★★★★★ 座右の書として、何度も読み返したい本です
★★★★☆ 一度は読んでおきたい、素晴らしい本です
★★★☆☆ 読むだけの価値はあります
★★☆☆☆ よかったら暇な時に読んでみてください
★☆☆☆☆ 人によっては得るところがあるかも?
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カトマンズの宝石店で
カトマンズのタメル地区は、トレッキング客やバックパッカー向けの安宿やレストラン、旅行代理店や土産物屋がひしめく一大観光拠点です。
狭いタメル地区の中に、さまざまな国の料理を扱うレストランが何軒もあるのですが、ネパール人コックの作る料理は、和食を含めてなかなかの水準で、値段も手頃です。旅人の中には、ここでしばし旅の疲れを癒しつつ、各国料理の食べ歩きを楽しむ人も少なくありません。
私も、そうした例に漏れず、居心地のいいカトマンズの雰囲気を味わいながら、ぶらぶらと長居を続けていました。
そんなある日、いつものようにおいしいパン屋に立ち寄り、優雅なティータイムを楽しんでいると、一人の少年が英語で声をかけてきました。彼は私の向かい側の席に座ると、身を乗り出すようにして自分のことを話し始めました。
南アジアの人々は、概して好奇心旺盛なのか、外国人を見つけると話しかけたり、いろいろと質問してくることがめずらしくありません。そのほとんどは「どこから来たのか?」とか、「何の仕事をしているのか?」「結婚しているのか?」といった他愛のない会話なのですが、ヒマを持て余している旅人にとっては、ちょうどいい時間つぶしになることもあります。
私は、他にすることもなかったので、少年の話に適当に付き合っていたのですが、彼のあまりに強引な話の進め方に、すぐに違和感を感じ始めました。そこには、明らかに何か特定の意図があって、シナリオ通りに話を持っていこうという作為が感じられました。
案の定、彼は座って5分もたたないうちに、兄が経営している宝石店へ遊びにこないか、と言い出しました。聞いてみると、彼らはインド系の住民で、タメル地区で商売をしているのだそうです。
客引きに誘われるまま、宝石店に遊びに行ったりしたら何が起こるか、インドを旅したことのある人ならピンと来るはずです。
[宝石及び絨毯詐欺]
この詐欺犯罪は、殆どがアグラ、ジャイプールで発生しています。典型的な手口は以下のとおりです。
観光中に声を掛けてきた者やオートリキシャやタクシーの運転手に、宝石店や絨毯屋に連れて行かれ、その店で、商品を日本国内の指定する店まで届けて欲しいと持ちかけられる。店員からは、「取りあえずクレジットカードで支払いをしてもらうが、商品は帰国後手元に届くように直接発送する。商品が指定された店に無事届けば、その支払いをキャンセルした上で礼金を渡すことを約束する」などと言われ、支払いを迫られる。あるいは、「日本の取引先に宝石を送りたいが、輸出許可等が面倒なので、取り敢えずあなたのクレジットカードで購入したことにして日本まで運んで欲しい。日本では取引先があなたにコンタクトするので、商品と引き換えに購入代金と礼金をもらって欲しい」等と言葉巧みにクレジットカードでの決済を迫られる。日本人旅行者がこれを断ると、脅迫まがいに支払いを強要する場合もあります。どちらの場合も商品は届かなかったり、日本で念のため鑑定してもらったら、二束三文の商品であったりという典型的な詐欺です。
(外務省 海外安全ホームページ インド 【安全対策基礎データ】 より。ネパールの項にも同様の記述があります。)
要は貧乏旅行者に、金になるアルバイトだと信じ込ませて多額の金を前払いさせ、その担保となる商品を送らなかったり安物をつかませたりするのです。帰国しても取引先とのコンタクトの話などデタラメで、被害者はそこで初めて騙されたことに気づくのですが、すでに後の祭りで、泣き寝入りするしかありません。
タージマハルで有名なアグラなどの観光地でよくあるパターンなのですが、同じ手口がついにネパールにまで広がってきたのかと思いました。
少年の言うままに宝石店に行ったらどうなるか、この先の展開が読めてしまったので、彼をどうやって追い返そうかと考えていると、少年はなおも話を続け、兄の宝石店で一緒に写真を見よう、と言います。兄が世界各国を旅した写真があるので、見たらきっと面白いはずだ、というのです。
全く見知らぬ他人の写真を見せられても、楽しいだろうとはとても思えませんでしたが、ここでふと魔が差したのか、少年の誘いに乗ったふりをして、ちょっと様子を見てもいいかな、という気持ちが湧いてきました。
どうせ今日はヒマなんだし、最終的にダマされないように用心すればいいじゃないか、ヤバそうになったら早めに逃げ出せば大丈夫、などと、いつになく大胆なことを考えました。結局、彼の兄が経営するという宝石店に行ってみることにしたのです。
パン屋から宝石店までは、ほんの数分でした。宝石に興味のない私は、こんなことでもなければ足を運ぶこともなかったでしょう。その小さな店に入ると、兄だという30代くらいのインド人と、なぜか欧米人の老人がいました。
この老人は一体何者なのでしょうか。一見したところ、この店によく来るなじみの客という感じです。手許に並べられた宝石を手に取りながら、主人のインド人と親しげに会話を交わしています。
やがて少年が、写真の入った簡易アルバムを何冊か持ってきました。開いてみると、目の前にいる主人が、日本やヨーロッパの風景を背景に写真に収まっています。中には、日本人バックパッカーの自宅に招待されたのか、若い日本人男性とその家族が、宝石店の主人を家に迎えている写真もあります。
写真を眺めていると、主人と老人、そして私と少年のために、チャイが4つ運ばれてきました。一瞬、何かの薬が入っているかもしれないと躊躇しましたが、店の中には他の客の姿も見えたので、とりあえず大丈夫だろうと考え、少しずつ口に運びました。
チャイを飲んで一服すると、宝石店の主人は、すぐに本題に入りました。
こちゃこちゃと回りくどい説明だったのですが、要は、日本で宝石の見本市をやるために宝石を送らなければならないのだが、いろいろ手続きをするのが大変だ、ついては君に「運び役」をお願いしたいという、先ほど引用した典型的な詐欺のパターンです。
老人も一緒になってその話を聞いているところからして、彼は客ではなく、店の用意したサクラなのかもしれません。彼は欧米人のバックパッカーを信用させるためにこの店に雇われていて、店に有利な証言をしてみせたりする役回りを演じているのではないでしょうか。
私は、店の主人の頼みをのらりくらりとかわしながらも、心の中で怒りが込み上げてくるのを感じていました。先ほどの日本人バックパッカーの写真のことが、頭から離れません。
その日本人旅行者は、別にこの店で騙されたわけではなく、何かの理由で店の主人と仲よくなり、何も知らずに友情の証として彼を日本の家に招待したのかもしれません。しかし、彼らの写真は今こうして、他の旅人たちを騙して信用させるための道具として悪用されてしまっています。
日本人の若者は、このことを知っているのでしょうか? そして、本当のことを知ったらどう思うでしょうか?
人との友情を踏みにじる、この詐欺師のやり方が、私には許せませんでした。
しかし、この宝石店で詐欺が行なわれているという状況証拠はあっても、彼らに反撃できるだけの力は、私にはありません。
この場で彼らのことを詐欺だと言って非難するのは簡単です。しかしきっと、彼らは笑って即座にそれを否定するだろうし、彼らの商売に何のインパクトも与えないでしょう。他の人が騙されたという証拠を私は持っていないし、私もまだ、騙されたわけではありません。詐欺が行なわれているという明白な証拠は、どこにもないのです。
それに、私には宝石を鑑定する能力がないので、ここで私に運ばせようとした石が本当に安物なのかどうか判断できません。ほとんど限りなくゼロに近い確率ですが、彼らが全く詐欺をはたらいておらず、値段相応の宝石を旅人に運ばせているという可能性もないわけではないのです。
彼らが実際に詐欺をしているかどうかは、旅人が帰国してみなければ分からないし、だからこそ被害者は泣き寝入りするのです。ある意味では、考え抜かれたやり口だともいえます。
私は、しばらく日本に帰国する予定はなかったので、それを理由に主人の要求をかわし続けました。すると、主人は脈がなさそうだと分かったのでしょう、弟の少年に向かって、「こいつはダメだ、追い出せ」というように目で合図しました。
私は少年に促され、店を出ました。
カモにならないと見るや、客をさっさと放り出すというあまりに現金な扱いは、いかにも彼らの商売にふさわしいやり方に感じられました。
結局、金を払うような状況に追い込まれずに済んだという意味では、私はまあ、運がよかったのかもしれません。それに、私のような人間でも簡単に見抜ける不自然さで、しかもあまりしつこく私を追い込んでこなかったところを見ると、彼らもまだ詐欺のプロといえるほど商売に慣れていなかったのかもしれません。
しかし、社会勉強になったと言うにしては、何とも後味の悪い体験でした。
観光客の集まる街には、こんな落とし穴もあちこちにあります。皆様もどうぞお気をつけください。
『スピリチュアルにハマる人、ハマらない人』
評価 ★☆☆☆☆ 人によっては得るところがあるかも?
本書は、精神科医の香山リカ氏による、スピリチュアリズム批判です。
ウィキペディアによれば、スピリチュアリズムは「心霊主義」と訳されることもあり、「人間との交信可能な、人間等の死後の霊魂または霊魂の科学的証拠が存在することを信じること」です。
香山氏は、スピリチュアルに「ハマらない人」の立場からそれを批判しているのですが、読んでみるとやはりこういう議論にありがちなパターンで、「初めに結論ありき」という印象を強く受けます。スピリチュアリズムに対して否定的な自らの持論に当てはまりそうな事例や身近な体験をつなぎ合わせて、一冊の本にしたという感じです。
彼女は、ここ数年の日本のスピリチュアル・ブームを牽引する「カリスマ」たちとそのメッセージを簡単に紹介した上で、彼らの主張の底に流れるものは「圧倒的な自分中心主義」であり、お金や恋など、非常に個人的で現実的な問題とスピリチュアルなものが違和感なく結びついてしまっていると指摘します。
また、スピリチュアルに「ハマる人」たちが、社会や政治の問題には目もくれず、極端な内向き志向に陥っており、「科学的実証性」よりも、「楽しいかどうか」「希望を持てるかどうか」にばかり関心が向いていることを嘆いています。
確かに、現在のスピリチュアリズムの世界には、近代科学にあるような真偽の検証システムが働いていないため、「言ったもの勝ち」「何でもあり」みたいな傾向があり、発せられるメッセージは玉石混交、むしろ石の方が圧倒的に多いというのが現状かもしれません。
また、そうした多様性が商業主義と結びついたスピリチュアル・スーパーマーケット状態や、霊的な世界をかいま見た人が、自分の体験を特別視してエゴ・インフレーションを起こしてしまうなど、さまざまな問題や危険があることも確かです。
しかし香山氏は、そうした問題点ばかりに注目し、日本でのブームの一部の側面だけ、多様なメッセージの一部だけを取り出して、それでスピリチュアリズム一般を批判しているように見えます。そして本書では、スピリチュアリズムのもつ歴史的、世界的な広がりについてはほとんど触れられていません。
また、本書で展開されている批判は、あまり痛烈なものではなく、どこかモヤモヤとして歯切れの悪いところがあります。
香山氏自身、専門である精神病理学が、ある意味では「目に見えないもの」に関わる仕事であることは認めているし、若い頃一度ユング心理学にハマったことがあり、その東洋的・オカルト的な要素が受け入れられず、結局訣別したというエピソードも綴られています。
彼女自身、科学者・文化人として、一線を「踏み越える」ことができない立場にいる一方で、スピリチュアルな世界と全く無縁とも言い切れない、自らのあいまいな立場を自覚しているのではないかと思います。たとえ批判するつもりであっても、スピリチュアルな世界に本腰を入れて向き合えば、ミイラ取りがミイラになる危うさがあることを、うすうす感じているのかもしれません。
この本で、スピリチュアリズムの本質にまでは踏み込まず、あくまで「ラインの一歩手前から眺めたスピリチュアルな世界」に触れているだけなのは、そんな事情もあるのかもしれませんが、やはり多くの読者には、とても中途半端な印象を与えるのではないでしょうか。
本の評価基準
以下の基準を目安に、私の主観で判断しています。
★★★★★ 座右の書として、何度も読み返したい本です
★★★★☆ 一度は読んでおきたい、素晴らしい本です
★★★☆☆ 読むだけの価値はあります
★★☆☆☆ よかったら暇な時に読んでみてください
★☆☆☆☆ 人によっては得るところがあるかも?
☆☆☆☆☆ ここでは紹介しないことにします
『フラット化する世界』
普及版(2010年、3分冊)はこちら(Kindle版もあります)
評価 ★★★☆☆ 読むだけの価値はあります
本書は、ニューヨーク・タイムズ紙のコラムニストであるトーマス・フリードマン氏が、2000年代のグローバリゼーションの新たな展開を、「フラット化」をキーワードに詳細に描き出したものです。
上巻では、1990年代のITとビジネス分野での革新によって、付加価値を生み出す仕組みが、垂直な指揮・統制システムから水平な接続・共同システムへと移行したことを、豊富な事例とインタビューによって跡づけています。
インターネットとワークフロー・ソフトウェアが世界を結び、知的生産の地理的な制約が取り除かれたことによって、2000年代に入ると、「フラットでグローバルな競技場」が出現しました。これによって、中国・インド・旧ソ連などの膨大な数の人々が、それぞれの国にいながらにして、グローバルな共同作業と競争に参入できるようになりました。
これは、ついに知的労働までもが世界的な競争にさらされるようになったことを意味します。いわゆる先進国のミドルクラスにとって、そのインパクトははかり知れません。
下巻では、先進国、発展途上国、企業、個人のそれぞれが、急速に進行するフラット化にどう適応していけばいいのか、そして、フラット化の動きに取り残されている人々や、フラット化がもたらす深刻な負の側面にどう対処すればいいのかという問題が取り上げられています。
フリードマン氏は本書で、「思いやりのあるフラット主義」を提唱しています。フラット化への反動に対する緩衝材を用意したうえで、国や企業、個人は流れに適応し、競争力を維持できるようにすべきだという立場です。
確かに、この劇的な変化を生き延びるためには、そうせざるを得ないというのは理解できるのですが、より多くの組織や個人がフラット化に適応すればするほど、さらにその流れは世界中で加速することになるわけです。
フリードマン氏は、5年先、10年先にどんな世界が出現するのか、その具体的なイメージは示していないし、それはほとんど誰にも分からないことだと思うのですが、もしかするとそれは、経済学者シュンペーター氏の言う「創造的破壊」の嵐が吹き荒れ、イノベーションが瞬く間に陳腐化し、世界中の人々がわずかな競争優位を求めて、24時間休みなく走り回っているような世界かもしれません。
本書の中で、著者の友人が所有する北京の工場に掲示されていたというアフリカの諺が紹介されています。
アフリカで毎朝、シマウマが目を覚ます。
一番足の速いライオンよりも速く走らないと殺されることを、シマウマは知っている。
毎朝、ライオンが目を覚ます。
一番足の遅いシマウマに追いつけないと飢え死にすることを、ライオンは知っている。
ライオンであろうとシマウマであろうと変わりはない。
日が昇ったら、走りはじめたほうがいい。
誰がライオンで、誰がシマウマなのかはともかくとして、ひょっとするとどちらもそのうちに、夜もおちおち眠れなくなってしまうのではないでしょうか。心底から競争が好きで、それが生きがいだという人は別にして、多くの人は、そんな世界には耐えられないと思います。
ところで、フラット化の流れは、個人が世界中の情報にアクセスし、自ら情報発信したり、自発的なコミュニティや共同作業のグループを作ることも可能にしました。これは個人や小さなグループが「フラットでグローバルな競技場」を舞台に、プレイヤーとして活躍できる可能性もあることを意味します。
ビジネスと個人のサバイバルだけを考えていると、私たちの未来は出口のない、底なしの競争社会に向かってしまいそうな気がしますが、一方で、ポジティブなイマジネーションを働かせて未来を創造する力も、私たち一人ひとりに与えられたのだとすれば、むしろそこに大きな希望があると言うべきなのかもしれません。
グローバリゼーションに対してどういう立場をとるかにかかわらず、今何が起きているかを知るためにも、読んでおくべき本だと思います。
上下巻で800ページと、ボリュームがありすぎて、気軽に読めないのが難点ですが……。
トーマス・フリードマン著 『レクサスとオリーブの木』の紹介記事
本の評価基準
以下の基準を目安に、私の主観で判断しています。
★★★★★ 座右の書として、何度も読み返したい本です
★★★★☆ 一度は読んでおきたい、素晴らしい本です
★★★☆☆ 読むだけの価値はあります
★★☆☆☆ よかったら暇な時に読んでみてください
★☆☆☆☆ 人によっては得るところがあるかも?
☆☆☆☆☆ ここでは紹介しないことにします
旅の名言 「ぼくがワイロを出したくないのは……」
西アフリカの国境では、ワイロ請求はもうほとんど文化のようなものだ。ドイツ人の友だちは慣れたもので、ペンやTシャツなど、いろんな貢ぎ物を大量に用意してから旅に出ている。
ぼくは、しかし、ワイロなど一銭たりとも出す気はしなかった。
断っておくと、妙な正義感などからそう考えているのではない。
「あとから来る旅行者のために、ワイロは断固はねつけるべきだ」という意見をよく聞くけれど、そんな思いはぼくにはさらさらない。
だいたい、国境を最も多く利用するのは現地の商売人だ。その彼らが日常的に、役人に言われる前からパスポートに金を挟んで渡しているのだから、一旅人ががんばったところで役人の体質が変わるとは思えない。
ぼくがワイロを出したくないのは、単にイヤだからである。これはいってしまえばゲームだ。ゲームには負けるより勝ったほうが気持ちいい。そして、そんな勝敗の行方を、もうひとりの自分がどこか別のところからおもしろそうに眺めているのである。
ぼくは国境へ向かう前に、いろいろシミュレーションをして策を練っておいた。
『いちばん危険なトイレといちばんの星空 ― 世界9万5000km自転車ひとり旅〈2〉 』 石田 ゆうすけ 実業之日本社 より
この本の紹介記事
世界一周を果たしたチャリダー(チャリ=自転車で旅をする人)石田ゆうすけ氏の旅行記『いちばん危険なトイレといちばんの星空』からの引用です。
チャリダーに限らず、バックパッカーなどの旅人は、自分でビザの手配をしたり、陸路で国境を越えたりと、地元の役人と接する機会が多くあります。
外国人ビジネスマンやツアー客が多く利用する国際空港を国の「表の顔」とするなら、ほとんど地元の人々ばかりが利用する国境は、「裏の顔」と言うこともできるでしょう。
私はアフリカを旅したことはありませんが、アジアの国々の国境で、ちょっとした理不尽な思いをしたことはあります。
金額的にはたいしたことはないのですが、国境の役人が小遣い稼ぎのために勝手にヘンな手数料をでっち上げ、国境を通過する旅人に支払いを強要したりするのです。
旅人の心理としては、役人を敵にまわして余計な厄介ごとに巻き込まれるのはゴメンだし、気持ちは早くも次の国へと向かっているので、捨て金だと思って払ってしまいたくなります。
しかし冒頭の引用にあるように、旅慣れた人々の間には「あとから来る旅行者のために、ワイロは断固はねつけるべきだ」という考え方もあり、言われてみればたしかに一理あるようにも思われます。
国境に限らず、腐敗した役人が至る所に出没するような国を旅する人にとって、こうした問題にどう対処すべきかは、けっこう頭の痛い問題かもしれません。
その点、石田ゆうすけ氏の立場ははっきりしています。
ぼくがワイロを出したくないのは、単にイヤだからである。これはいってしまえばゲームだ。ゲームには負けるより勝ったほうが気持ちいい。
これは実にシンプルで、しかも、とても有益な考え方かもしれません。
腐敗した役人は権力を振りかざし、不当な要求をするものです。一方、旅人は、それに知恵と度胸で対抗し、不当な要求をくぐり抜けて国境を突破しようとします。国境とは、両者の間の真剣なゲームの舞台であり、息詰まる駆け引きを味わえるスリリングなプロセスなのです。
そう考えると、役人というのは、楽しいゲームの機会を提供してくれる対戦相手だということになります。彼らに対する見方もちょっと変わってくるかもしれません。
後々の旅行者のためだと考えて、ワイロは絶対に支払わないと考えるのは正しいことかもしれませんが、旅人がそう心に決めてしまうと、もしも払わざるを得ない状況に追い込まれてしまったら、自らの信念と現実との狭間で深刻なジレンマに陥り、身動きがとれなくなってしまいます。
それよりも、ゲームに勝ったらタダ、負けたらペナルティーだと割り切ってしまえば、正しさを主張して役人を非難することよりも、いかにしてゲームに勝つかという方向に知恵を働かせることができます。
そうすることによって、頭痛の種である役人との対決を、一種のエンターテインメントとして楽しむこともできるかもしれません。
ただし、ゲームといっても、旅人の方が圧倒的に不利な立場にあることを忘れてはいけません。むしろ、勝つことのほうがまれであることは、あらかじめ覚悟しておいたほうがいいと思います……。
『つっこみ力』
評価 ★★☆☆☆ よかったら暇な時に読んでみてください
本書は、謎のイタリア人(?)戯作者、パオロ・マッツァリーノ氏による社会科学エンターテインメントの第三弾です。
今回は、おなじみの「統計漫談」に加え、社会と人生をおもしろくしようという自らの方法論のエッセンスを、「つっこみ力」という概念で説明しています。
それは従来の学問や、社会問題をめぐる議論の世界が、正しさばかりを追求して、「おもしろみも逸脱も発展もない堂々めぐり」に陥ってしまっていることへの、痛烈な批判でもあります。
愛と勇気とお笑い、これがつっこみ力を構成する三大要素です。どれもが、社会と人生をおもしろくするために欠かせない要素です。つっこみ力の目的は、社会と人生をおもしろくすることにあるのです。正しさをおもしろさに変えるのが、つっこみ力の目的です。
ちなみに「愛と勇気とお笑い」とは、分かりやすく伝えることであり、権威に刃向かう勇気であり、「笑いの付加価値を創出して相手の興味を惹きつける」ことです。
とはいえ、これは並大抵のことではありません。これだけの条件を満たす作品を書くためには、従来の学問の世界に精通し、その方法論を一通り身につけた上で、その本質を分かりやすく表現できる文章力と、強力な反発を覚悟で怪しげな「常識」や「正論」を批判する勇気と、なおかつ読者を楽しませる創造的な笑いのセンスが必要とされるからです。
だから実は、「つっこみ力」を提唱することは、マッツァリーノ氏にとって自らハードルを上げることに等しいのです。言ったことが即座に自分にはね返り、この作品自体の完成度の判定基準にもなってしまうからです。
マッツァリーノ氏は一作ごとに作風を変え、新たな挑戦を自らに課し続けているように見えます。一見ちゃらんぽらんな文章を書いているように見えながら、ネタ探しのための下調べも含め、相当な時間と手間をかけていると思われます。
この作品が、「愛と勇気とお笑い」という条件を満たしているかどうか、「つっこみ力」のいいお手本となっているかどうかは、実際に一読して、皆様それぞれがご判断ください。
パオロ・マッツァリーノ著 『反社会学講座』の紹介記事
パオロ・マッツァリーノ著 『反社会学の不埒な研究報告』の紹介記事
本の評価基準
以下の基準を目安に、私の主観で判断しています。
★★★★★ 座右の書として、何度も読み返したい本です
★★★★☆ 一度は読んでおきたい、素晴らしい本です
★★★☆☆ 読むだけの価値はあります
★★☆☆☆ よかったら暇な時に読んでみてください
★☆☆☆☆ 人によっては得るところがあるかも?
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