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『世界の日本人ジョーク集』
評価 ★★☆☆☆ よかったら暇な時に読んでみてください
最近のベストセラーとして多くの人に読まれた『世界の日本人ジョーク集』。私も遅ればせながら読んでみました。
この本に集められたジョークの中には、国際紛争のホットな部分に関するものなど、かなりブラックで毒のある作品もあります。
しかし、早坂氏の一般教養的な解説や、随所にちりばめられた彼のルーマニア在住時のエピソードのおかげか、全体的にそうした毒気はうまく中和されていて、楽しく読みながら、海外の人々の目に映る日本人のイメージが一覧できるような内容になっています。
個人的には、民族の違いを際立たせるエスニックジョークの数々が一番面白く感じられました。
こうしたジョークはそれぞれの民族に対するステレオタイプに基づいていることが多いので、時と場合によっては相手にネガティブな印象を与えたり、差別的だと受け取られることもあるので注意が必要ですが、よくできたジョークはさまざまな民族に関する一面の真実をついているような気がするし、オチも秀逸で大いに笑えます。
それにしても、この本がベストセラーになったという事実自体が、日本人が世界でどういうネタで笑われているか、ひととおり知っておきたいという日本人の研究熱心さを表しているようで、これもまた、実に日本人らしい現象といえるのかもしれません。
もちろん、この本を手にした私自身も、そういう日本人の一人だということになるわけですが……。
本の評価基準
以下の基準を目安に、私の主観で判断しています。
★★★★★ 座右の書として、何度も読み返したい本です
★★★★☆ 一度は読んでおきたい、素晴らしい本です
★★★☆☆ 読むだけの価値はあります
★★☆☆☆ よかったら暇な時に読んでみてください
★☆☆☆☆ 人によっては得るところがあるかも?
☆☆☆☆☆ ここでは紹介しないことにします
『マヤ文明 聖なる時間の書 ― 現代マヤ・シャーマンとの対話』
本書は、宗教人類学者の実松克義氏が、グアテマラ南西部高地のマヤ・キチェー地方で今もなお古代マヤ文明の精神文化を受け継ぐシャーマン(サセルドーテ・マヤ)たちを訪ね、彼らとの対話を通して、マヤ人の神秘的で奥深い思想の本質に迫ろうとする異色の作品です。
恥ずかしい話ですが、私はこの本を読むまで、「マヤ人たちは密林の中に巨大なピラミッドを残し、ある日忽然と姿を消してしまった」というおなじみの誤った俗説を信じていました。
この本で私は、マヤ文明はスペイン人征服者によって滅ぼされたこと、マヤの人々はその後もグアテマラの地に生き続け、彼ら自身の言葉(キチェー語など)を守り続けてきたこと、そして多くのシャーマンたちによって、彼らの伝統的な精神文化の一部も継承されてきたことを初めて知ったのです。
しかし本書は、そんな私のような初心者でも、知的興奮を覚えながら興味深く読み進めることができる内容になっています。
それは、実松氏が現地に全く手がかりのない状態からフィールドワークを開始し、体当たりでシャーマンたちとのコンタクトを図りながら、少しずつ彼らの内的世界に対する理解を深めていったプロセスが、読者も追体験できるような構成になっていて、実松氏が感じた驚きや発見の興奮、そしてさらなる探究を待っているマヤ文明の多くの謎の存在が、生き生きと伝わってくるからです。
この本に登場するシャーマンたちは、おどろおどろしい魔術的な人物もいれば、大学で哲学を教えていた知的な人物もいて、それぞれが非常に個性的です。
生きた伝統の持つこうした混沌とした多様性は、研究者にとってはやっかいなことなのだろうし、祈祷・占い・呪術・奇跡・迷信などが氾濫する彼らの世界は、豊かさというよりもむしろ、本質を見失った「現代マヤのシャーマニズムが陥っている危機的状況」を反映しているのかもしれません。
しかし一方で、そうした混沌の中から少しずつ手がかりを見出し、探究の旅を重ね、マヤ人の精神的伝統の本質に迫っていくという作業は、研究者にとって挑戦しがいのある、魅力的な仕事でもあるのではないでしょうか。
私はこうしたシャーマンとの交流をとおして混沌としたマヤ・シャーマニズムの世界の中に入って行った。そしてその最も重要な存在である異神サン・シモン、マヤのカレンダー、またマヤの十字架に出会った。だが時間が経つにつれて、さらにその彼方に見えてきた、より原初的な古代マヤの精神的伝統がある。それはマヤの聖なる書『ポップ・ヴフ』に描かれている、壮大な宇宙進化論と調和の思想である。そして最後にこれらのすべてを貫く深い川が「時間」という唯一無二の神であることを知った。
本書はこうした私自身の未知の次元への発見の旅を記録したものである。
現代のシャーマンとの対話と思索を通じて得られた本書の結論部分が、古代マヤ人の思想を正確に再現したものであるかどうかは、現時点ではほとんど検証のできない問題だろうし、従ってそれをどう受け止めるかは、それぞれの読者に任されているといえます。
私はむしろ、マヤ人の神秘的な思想をめぐる多くの謎を解明することに生きがいを見出し、未知の領域に飛び込んで熱心に探究を続けてきた実松氏の長い旅のプロセスこそ、この本の持つ、より大きな魅力であるような気がします。
本の評価基準
以下の基準を目安に、私の主観で判断しています。
★★★★★ 座右の書として、何度も読み返したい本です
★★★★☆ 一度は読んでおきたい、素晴らしい本です
★★★☆☆ 読むだけの価値はあります
★★☆☆☆ よかったら暇な時に読んでみてください
★☆☆☆☆ 人によっては得るところがあるかも?
☆☆☆☆☆ ここでは紹介しないことにします
旅の名言 「なんでまたひとりで……」
「なんでまたひとりで旅するの?」ともよく聞かれるけど、それはひとり旅の方が安全だと思うからだ。例えばふたりで行動していると、人に声をかけられても、つい「きっとこの人、いい人だよー」「ウン、いい人そうだもんねー」なんていうふうに、不安や恐怖をふたりで半分に分かち合ってしまうから、人を見る目や判断力が鈍る気がする。
『ガンジス河でバタフライ』 たかの てるこ 幻冬舎文庫 より
この本の紹介記事
有給休暇で世界をさすらうOL、たかのてるこ氏のハイテンションな旅行記『ガンジス河でバタフライ』からの引用です。
彼女は本の中で、自らのことを小心者と称しているのですが、実際には、彼女の旅のスタイルは非常に大胆です。女性のひとり旅というだけでなく、ガイドブックも持たず、旅のスケジュールも立てないのです。
現地の人々との出会いや出来事の流れに導かれるようにして、行き当たりばったりの「体当たり系」の旅を続けていくそのやり方は、ある意味では非常に旅らしい旅とも言えるのですが、それはまた危険と隣り合わせの行為でもあります。
しかし、彼女の旅行記を読んでいると、その一見無謀な旅のスタイルも、単に無邪気に危険な旅を楽しんでいるというわけではなく、彼女なりの冷静な計算に基づいたやり方であることが分かります。
例えば、「ひとり旅」という点に関しても、世間一般の常識では、二人以上のグループ旅行よりも危険に違いないと考えてしまいがちですが、むしろ彼女には「ひとり旅の方が安全だ」という確信があるようです。
確かに、旅に道連れがいるということは非常に心強いことではありますが、精神的に互いを頼ってしまうという側面もあります。何かあっても二人いれば何とかなるだろうとたかをくくり、不用意に危険に足を踏み入れてしまうこともないわけではありません。
その点、ひとり旅だと、頼れるのは自分の感覚と判断力だけです。自らの安全については一瞬たりとも人任せにはできないし、何かあっても、相棒などの他の人のせいにすることはできません。だから旅の間、絶えず感覚を研ぎ澄まして現実に向き合わざるをえないのですが、そうした緊張感を保ち続けることが、結果としてむしろ旅の安全にもつながるのかもしれません。
しかし、そうはいっても、これは口で言うのは簡単ですが、実際に行うのは至難の技です。
日頃の仕事のストレスから解放され、海外のリゾートでゆっくり骨休めするために旅に出るような人なら、そもそもそんな緊張に満ちた旅なんかしたくないだろうし、たかの氏のような風まかせの旅にあこがれて日本を飛び出す人でも、いきなり何もかも自分で判断しなければならないとなったら、ヒヤリとする体験や失敗の連続で、パニックに陥ってしまうかもしれません。
実際には、自分の実力をわきまえたうえで、必要なら旅の道連れやガイドを求めたり、ガイドブックを持参したりするところから始め、ある程度慣れてきたところで、徐々に旅の自由度を上げていくのが現実的なやり方なのでしょう。
それにしても、たかの氏が、行き当たりばったりの自由な旅を楽しめるのは、自分自身の「人を見る目や判断力」を心の底から信頼しているからこそなんだろうな、という気がします。逆に言えば、多くの旅人は、いざという時の自分の直感や判断力を信じきれないからこそ、旅行代理店やガイドブックのお世話になるのだとも言えるわけです。
そういう意味では、自らを信じ、世界を信じ、旅の流れに身を任せ切ることのできるたかの氏は、やっぱりスゴイ人なのだと思います。
消灯時間の攻防
2006年7月に青海チベット鉄道(青蔵鉄道)がラサまで開通して以来、チベットは空前の観光ブームに沸いていて、今では中国人や世界各国からの観光客が年間に数百万人も訪れるといわれていますが、私がチベットを旅したのはその何年か前のことでした。
当時、ラサではすでに急速な「中国化」が進んでいて、もはや秘境という感じではなくなっていましたが、それでも街で見かける旅行者といえば、観光客よりもチベット人巡礼者の方が多いと感じられるくらいで、街にもまだまだ牧歌的な雰囲気が残っていたような気がします。
私が泊まっていたホテルのドミトリーは大部屋で、各国からのバックパッカーが20人くらい詰め込まれていました。あまりいい条件の部屋ではありませんが、チェックインをした時には疲れていて、あまりあちこち宿探しをしたくなかったのと、当時そのホテルは日本人バックパッカーのたまり場になっていて、知り合いの旅人の姿も見かけたので、とりあえずそこに腰を落ち着けることにしたのです。
確か、ラサに着いた翌日のことだったと思います。日本人旅行者どうしで雑談をしているときに、同室の若い日本人バックパッカーが、その部屋の「ぬし」のことを教えてくれました。
彼によれば、私たちの部屋には神経質そうな欧米人のオバサン・バックパッカーが居座っていて、そのオバサンが消灯時間にやたら厳しいというのです。彼女は部屋の電灯のスイッチに一番近い場所のベッドを使っていて、9時だったか10時だったか、とにかく消灯時間になると、他の人が何をしていようがおかまいなしに、いきなり部屋の電気を消してしまうというのです。
私はそのとき、そういえばドミトリーにはそういうルールがあったのかと、初めて思い至りました。私がそれまでに泊まったアジア各国のドミトリーでは、消灯時間なんていちいち確認したことはないし、そのようなものがあると意識したこともなかったのです。
だいたい、バックパッカーには若者が多いので、概して夜更かしの傾向があるし、たとえ細かなルールが決まっていたとしても、人がどんどん入れ替わっていくドミトリーで、それが徹底されるなどとはとても思えません。
しかし、少なくとも私の場合は、そのことで何か不都合な思いをしたという記憶はなかったし、消灯時間に関しては、ルール以前の問題として、旅人どうしの気配りでうまく解決されていたように思うのです。
3〜4人の少人数のドミトリーなら、国籍は違っても、旅人どうしの暗黙の了解というものが成立します。早く寝たい人がいれば、その人に合わせて早めに消灯することになるし、話をしたい人は寝ている人に気を使って、ロビーかどこかに移動します。逆に、部屋の全員で話が盛り上がれば、そのまま遅くまで話し込んだりすることもあります。
大部屋の場合でも、夜中になると明かりがついているうちに寝る人がポツポツ現れはじめ、それがある程度の人数になると、誰かが気を効かせて消灯するという感じです。それに文句を言う人はいないし、逆に時間だからといって、有無を言わさずいきなりスイッチを切ってしまう人もいません。
そういう意味では、そのオバサン・バックパッカーは、ちょっと変わった人なのかもしれません。旅人どうしの暗黙の了解とか、その場の流れみたいなものよりも、とにかく決められたルールを絶対的に優先するタイプの人なのでしょうか。
世の中には、そういう人が一定の割合で存在するのだろうし、旅人の中にそういうタイプの人がいてもおかしくはありません。まわりの人はちょっと迷惑をこうむるけれど、ずっと一緒に暮らすわけでもないし、どうせ何日かの辛抱だと思えば耐えられないほどではない、といった感じでしょうか。
もちろん私たちには、オバサンのやり方に反対し、自分たちが迷惑していることを伝えるという選択肢もあるわけですが、頭の固そうな彼女を敵に回すことになれば、いろいろとやっかいなことになりそうだし、そもそも消灯時間が決まっているのだとしたら、「正義」は彼女の側にあります。オバサンの一方的なやり方には問題があるにしても、理屈の上では、闘っても勝ち目はなさそうです。
しかし、そうと分かっていても、日本人の彼は、やはりオバサンに一矢報いたいようでした。彼は、日記を書いたり、いろいろとやりたいことがあるのに、毎日勝手に電気を消されて本当に困る、今日こそは彼女の思いどおりにはさせない、絶対に立ち向かってやると息巻いています。彼は何となくそう言ってしまった手前、オバサンと闘う決意を固めたようでした。周りで聞いている日本人は「まあ、がんばってね」とニヤニヤ笑うばかりです。
その日の夜。
私も「闘いの瞬間」がやってくるのを何となく気にして待っていると、期待通りというべきか、多くの人が書き物をしたり、本を読んだりしていたにもかかわらず、オバサンが何も言わずにいきなり電気を消してしまいました。
例の彼は、何か書き物をしているところでしたが、すぐさま立ち上がり、スイッチに突進しました。彼は黙って電気をつけ直し、自分のベッドに戻りました。
「おお〜っ!」
日本人旅行者の間から、声にならない感嘆のため息がもれ、みな思わず顔を見合わせました。ついに戦いの火蓋が切って落とされたのです。
しかし、彼が再び自分のベッドに戻る間もなく、バチッ! と大きな音がして、再び電気が消されました。オバサンはスイッチの脇に陣取っているわけですから、当然予想された反応ですが、さすがにこの激しい反撃には、大部屋全体の空気が凍りつきました。
さあ、彼は次にどう出るか……。
私も思わず固唾を飲んで見守りましたが、結局、彼が再び立ち上がることはありませんでした。たった今のオバサンの気迫あふれる反撃にタジタジとなり、戦意を喪失してしまったようです。
さすがに彼の代わりに立ち上がる者もなく、この闘いはそのまま決着がついてしまいました。やはり誰も、あのオバサンに立ち向かうことはできなかったようです。あっけない幕切れでしたが、ある意味では、それ以上のトラブルは回避されたともいえます。
そのまま私も眠りについたのですが、真夜中になって、誰かがドアを開けたりガサゴソ動き回る物音で目が覚めました。夜遅くまでどこかで飲み歩いていた旅人が部屋に戻ってきたのでしょうか。
その人物は自分のベッドのあたりでガサガサと騒々しい音を立てていましたが、やがて入口の方に戻っていくと、いきなり部屋中の電気をつけました。
私は眩しさに目がくらみました。それまで寝ていた人もびっくりして、いったい何が起こったのかと思ったのではないでしょうか。驚いて体を起こす人こそいないようでしたが、これでは多くの旅人が目を覚ましたに違いありません。
それにしても、あの「消灯オバサン」が仕切っているこの大部屋で、真夜中にいきなり電気をつけるとは、何と大胆な攻撃なのでしょう。
いったい誰の仕業かと思って見てみると、中国人の若者でした。自分のバッグの中に入っているはずの何かを探しているのか、まだガサゴソと荷物を引っかきまわしています。はっきりとは分かりませんが、その雰囲気からして、彼は香港人や台湾人のバックパッカーというよりは、広州などの沿海部からやって来た旅行者という感じがしました。
彼はかなり酒に酔っているのでしょうか、それともいつも通りの何気ない行動だったのでしょうか。日本人ならこういう状況では、せめて懐中電灯を使うなり、周囲に気を使いながら暗闇の中で静かに探し物をするはずです。彼の大胆不敵というか、あまりにも傍若無人なふるまいにはさすがにあっけにとられました。
あのオバサンはどう出るのだろう、今度はそれが気になりだしました。これだけの重大なルール違反を、あのオバサンが黙って見過ごすとはとても思えません。
しかし、オバサンが立ち上がって電気を消す気配はありませんでした。
やがて若者は、探していたものが見つかったのか、再び出口の方に歩いていって自分で電気を消しました。大部屋は再び静けさを取り戻しました。
それにしても、オバサンは、熟睡していて部屋の電気がついたことに気がつかなかったのでしょうか。それとも、彼女にとって想定外の、あまりに大胆なルール違反に呆然として、反撃することもできなかったのでしょうか。
真相は知る由もありませんが、せっかくの空前のバトルを見損なって残念なような、でもとりあえず平和が守られてよかったような、ちょっと複雑な心境でした。
しかし、冷静に考えてみれば、消灯時間のルールを守るか守らないかなんて、まあ、喧嘩するほど大げさな問題ではありません。
私は再び眠りに落ちていきました……。
『遍歴 ― 約束の土地を求めて』
旅と宗教とは、古来から切っても切れない深い関係にあります。
世界各地の宗教的な伝統では、約束の地を求める苦難の旅や、荒野での修行、聖地への巡礼など、宗教的な行為がそのまま地上の旅でもあるような場合はもちろんのこと、天上界に向かう幻想的な旅や、シャーマンの脱魂、精神の解放を求めての内面的な探究など、人間の内面世界を探索するプロセスも、さまざまな旅の象徴を用いて語り伝えられてきました。
本書は、宗教史家・宗教学者であるウド・トゥウォルシュカ氏が、キリスト教・イスラム教・仏教の三大宗教を始め、古今東西の精神的な伝統に関する文献を渉猟するばかりでなく、ニュー・エイジ・ムーブメントや、現代の巡礼としてのマス・ツーリズム、ディズニーランドなどへの「テーマ・パーク詣で」までをも視野に入れ、此岸の旅と彼岸の旅に関して人類が表現してきた、さまざまな旅の象徴をまとめて示そうという試みです。
これはまさに「象徴のラビリンス」にふさわしい内容で、また、執筆・翻訳ともに、膨大な手間がかかっているのだろうと推測されます。
個人的には非常に興味のあるテーマなので、かなり期待して読み始めたのですが、正直なところ、なぜか読んでいてあまり感動がありませんでした。
それは、人類がこれまでに生み出し続けてきた、旅をめぐる象徴の巨大な迷宮に踏み込んで、そのあまりの奥行きの深さと多彩さに圧倒されてしまったからなのかもしれませんが、そればかりではないような気もします。
トゥウォルシュカ氏は、本書の中で次々に紹介する膨大な旅の象徴の数々について、その一つひとつに価値判断的なコメントや踏み込んだ解釈を加えることは避けているようです。それは人類の精神的伝統の多様性を尊重し、自らの世界観・価値観に基づく判断は控えたいという、学者としての良心の表れなのだろうと思います。
しかしそのためか、さまざまな文献から取り出された断片的な情報が、互いの有機的なつながりもないままにバラバラに投げ出されたような、キツい言い方をすれば、「宗教」と 「旅」をキーワードに、ネット上で検索した情報をコピー&ペーストして作ったスクラップブックを、そのまま読んでいるような印象を受けるのです。
もっともこれは、私がこの分野に精通していないためにそう感じるだけなのかもしれず、注意深い読者には、本書の構成を通じてトゥウォルシュカ氏が暗示する、何らかのメッセージを読み取ることができるのかもしれませんが……。
ひょっとすると、私がこの本に感じた物足りなさは、このブログ「浪人巡礼」に対する私自身の不満を無意識のうちに投影してしまったものなのかもしれません。このブログのテーマは、トゥウォルシュカ氏のこの著作のテーマに近いものがありますが、だからこそ自らのブログの欠点や限界を、気がつかないうちにこの本の評価に重ね合わせてしまっているということは十分に考えられます。
というわけで、旅と宗教というテーマに興味のある方は、実際にこの本に目を通して、内容を自ら確認されることをおすすめします……。
本の評価基準
以下の基準を目安に、私の主観で判断しています。
★★★★★ 座右の書として、何度も読み返したい本です
★★★★☆ 一度は読んでおきたい、素晴らしい本です
★★★☆☆ 読むだけの価値はあります
★★☆☆☆ よかったら暇な時に読んでみてください
★☆☆☆☆ 人によっては得るところがあるかも?
☆☆☆☆☆ ここでは紹介しないことにします
ふたりの子ども
ポカラは、美しい湖とヒマラヤの眺望が楽しめるだけでなく、アンナプルナ山系へのトレッキングの拠点にもなっており、世界各地からトレッキング客やバックパッカーが集まる有名観光地です。
観光地といっても、町自体はこぢんまりとしていて居心地がいいし、乱立気味のホテルは価格競争のおかげで安く泊まれ、日本食のレストランも数軒あるという好条件がそろっており、ぐうたらな旅人には最適の「沈没」地です。
欧米人ツーリストのほとんどは、湖の東側に広がるレイク・サイドといわれるエリアに集中していて、例によって毎日騒々しく遊んでいるのですが、日本人バックパッカーは静けさを好む傾向があるのか、繁華街から少し離れた、湖の南側のダム・サイドといわれるエリアに固まっているようです。
今はどうなっているか分かりませんが、私が滞在していた時には、ダム・サイドには騒々しい音楽をかけるようなカフェは一軒もありませんでした。日が暮れると、食堂以外は全て閉店し、通りはひっそりと静まり返ってしまいます。
その日私は、友人のネパール人とダム・サイドの安食堂でささやかな夕食をとり、暗い夜道を宿に戻ろうとしていました。時間は夜の7時すぎくらいだったでしょうか。
そのとき、小学校に行くか行かないかくらいの、幼いふたりの子どもが、大声で泣きながら向こうから歩いてきました。確か、兄と妹ではなかったかと思います。
ネパール人の友だちは彼らのそばに駆け寄って、何があったのか子どもたちに尋ねました。彼は子どもたちをなだめて落ち着かせると、私にも簡単に事情を説明してくれました。
子どもたちは近所に住んでいて、彼とも顔見知りのようなのですが、最近彼らの父親が急死し、それ以来、母親は酒浸りになってしまったのだそうです。その日も母親はどこかへ出かけたまま、夜になっても家に戻らず、不安になった子どもたちは泣きながら母親を探しているというのです。
私は、その場に立ち尽くしていました。
何か、子どもたちにとって大変なことが起きているのは分かるのですが、自分がそれに対して、一体どうしたらいいのか分からなかったのです。
やがてネパール人の友人は子どもたちに、とりあえず家に帰って母親を待つように指示したようでした。ふたりは家に向かって引き返していきましたが、彼らの母親が果たして帰ってくるのか、それまでふたりがどれだけ不安な気持ちで待ち続けることになるのか、私には想像もつきませんでした。
友人と別れ、宿に戻ってからも、ふたりの子どものことが頭を離れませんでした。
母親が帰ってこないということは、彼らは食事もできないでいたはずです。親が戻らないという不安だけでも大変なことですが、彼らはひどくお腹を空かせてもいたのではないかと思い至りました。
家で母親を待つあいだ、せめて彼らが何か口にできるよう、まだ開いていたパン屋で菓子パンか何かを買ってあげればよかったのではないか、せめてそのくらいのことなら私にもできたのではないか、そんな後悔が心にまとわりついて離れませんでした。
しかしその一方で、たとえそうしたところで、それは私自身の自己満足のための行為に過ぎないのではないか、という気もしていました。
ネパールを始め、社会保障が発達していない国々では、一家を支える働き手に家族の命運がかかっています。病気や事故で一家の大黒柱を失えば、家族全員が極貧の生活に陥ることになるのです。一家の主を失った母親が将来を悲観し、絶望のあまり酒浸りになってしまったのだとしたら、それは今日一日をなんとかやり過ごせば済むという問題ではありません。
通りすがりの旅人が、ささやかなお金で今晩の子どもたちの胃袋を満たしてやることができたとして、それでどうなるというのでしょうか。明日になれば、また同じ問題が、解決されないまま再び子どもを苛むことになるだけです。
そもそも、私がネパール人の友人と一緒に通りを歩いていなかったら、ふたりの子どもがなぜ泣いているのか、その理由を知ることはなかったでしょう。たぶん彼らは喧嘩でもしているのだろうと考えて、そのままそこを通り過ぎていたはずです。
彼らが泣いている理由をたまたま知ってしまったために、私は気持ちを動かされ、ささやかな善意という自己満足のために、自分で背負うつもりもない問題に、中途半端にちょっかいを出しているだけではないのか……。
子どもたちに何かしてやるべきだったのか、それとも何もしなくてよかったのか、頭の中では思考がグルグルと回るだけで、結論が出ることはありませんでした。
後日、ネパール人の友人と会ったときも、私はあの日のふたりの子どもがその後どうなったのか、結局尋ねることができませんでした。
もしかすると、あの日の大騒ぎは子どもたちの取り越し苦労で、家に帰ったら母親が夕食の支度をしていたなんてことも、可能性としてないわけではありませんでしたが、たぶん実際には、もっと悲しいニュースを聞かされるだろうということが、何となく分かっていたからなのかもしれません。
いろいろ聞いてしまえば、気持ちの問題として、子どもたちの窮状を打ち捨ててはおけなくなるはずです。しかし、旅人という立場を省みずにそうした問題に首を突っ込めば、結局はどこかの時点で、無責任な形で手を引かざるを得なくなるでしょう。
そうやってネパールの重い現実に、中途半端な気持ちのまま巻き込まれ、旅人という立場と自分の気持ちとの間で板挟みになって悩むことになるのが、怖かったのかもしれません。
今にして思えば、泣いている子どもたちと向き合っていたあの瞬間に、サッと体が動いてパン屋に走り、パンなり何か食べるものを彼らに持たせてあげていれば、きっとそれで私の役目は充分だったし、後でグズグズと悩む必要もなかったのだろうと思います。
通りすがりの旅行者でも、通りすがりなりに何かできることがあるのだろうし、その瞬間に思いついた手当てを自然な気持ちでサッとできれば、それで充分だったのではないでしょうか。
ポカラでのあの日、そのちょっとした行動ができなかったために、後味の悪さがずっと後まで尾を引いたのではないかという気がします。
皆様は、旅先でこんなシチュエーションに出合ったら、どんな行動をとられますか?
『共時性(シンクロニシティ)の宇宙観 ― 時間・生命・自然』
評価 ★★★☆☆ 読むだけの価値はあります
本書は、スイスの心理学者カール・グスタフ・ユング氏が提唱した共時性(シンクロニシティ)の概念が、人類の思想史の中でどのような位置を占めているのか、ユングの思想と東アジアの伝統的な思考様式とのかかわりを解説するとともに、近代合理主義の行き詰まりを克服し、新たな自然観と人間観の枠組みを創りあげていくうえで、共時性の概念がどのような役割を果たし得るのか、その手がかりを示そうとする試みです。
ユングは共時性の概念を、中国哲学の源流である『易経』の思想にもとづいて提唱している。易の基本原理は、人間と自然の間の神秘的共感の体験にもとづいている。この思考様式は、古代から近代に至る中国哲学史の全局面をつらぬく伝統になっていると言っていいであろう。そればかりでなく、自然との心理的共感の体験は、理論的思索の問題であるよりも前に、全人格的な主体的実践の課題である。この問題の波及する範囲は、宗教や哲学から医学や武術・芸道など種々の身体技術、さらに人事や自然とのかかわりに至る広い諸分野に及んでいる。ユングは、共時性の理論を単に思想史の過去を回顧するために提起したのではない。彼は、その生涯にわたって研究を重ねた心理学の臨床的経験と思索とをふまえて、現代の思想と科学の世界に対してその意味を問いかけたのである。
本書を読むと、共時性という概念が、いわゆる「虫の知らせ」や「信じられないような偶然」といった不思議な現象を説明する怪しげな理屈というレベルを超えて、近代科学の枠組みを根本から問い直すような巨大なインパクトを秘めているということがよく分かります。
因果性の原理を前提とする近代科学が、私たちの生活を豊かにすることに大きく貢献してきたことは疑いのない事実だとしても、共時性の原理というもう一つの視点に立ってみることで、因果性の原理が相対化され、それがリアリティを把握する唯一絶対の方法ではないことが分かるのです。
ただ、上の引用にもあるように、東アジアの伝統では、「自然との心理的共感の体験は、理論的思索の問題であるよりも前に、全人格的な主体的実践の課題」でした。理論云々よりも、まずは「人間と自然の間の神秘的共感」を実際に体験することが重視されてきたわけです。
共時性についても、多くの人にとっては、それを知的に納得のいくように説明しようと試みる以前に、まずはそれを実際に体験し、一人ひとりがそこに「人生を生きることの価値や意味」とのかかわりを見出すという側面の方がより重要であるように思えます。
その意味では、すでに共時性の原理を認め、それにかかわる何らかの実践に踏み出している人にとっては、アカデミズムの世界で共時性の原理が広く受け入れられ、今後も知的な検討が加えられるかどうかは、それほど重要な問題ではないのかもしれません。
そうした人にとっては、例えば以前に紹介したフランク・ジョセフ氏の『シンクロニシティ』や、ジェームズ・レッドフィールド氏の『聖なる予言』など、いわゆるスピリチュアル系の本の方が、内容的にさらに踏み込んでいるという点で面白いだろうし、実践上の参考にもなるのではないかと思います。
本の評価基準
以下の基準を目安に、私の主観で判断しています。
★★★★★ 座右の書として、何度も読み返したい本です
★★★★☆ 一度は読んでおきたい、素晴らしい本です
★★★☆☆ 読むだけの価値はあります
★★☆☆☆ よかったら暇な時に読んでみてください
★☆☆☆☆ 人によっては得るところがあるかも?
☆☆☆☆☆ ここでは紹介しないことにします
旅の名言 「旅先で感傷的になり……」
旅先で感傷的になり、変に哲学的になるのは、旅人の通過儀礼かもしれない。特に一人で旅をしていると、自分という存在の先天的な孤独を、改めて噛み締めさせられる。日常生活やその中の人間関係というパディングが取り払われ、剥き出しになった自分に戻るからだ。そんな時、すべてのものが悲観的に見えてくることがよくある。周りにいる人間の目が冷たく映り、旅そのものが無意味な行動に感じられ、今までの人生が失敗や妥協の繰り返しのように思えてくる。ぼくはまさに、そんな状態の中にいた。
対処方法はわかっていた。淋しさを自分の中に受け入れるのだ。逃げるでもなく、反応するのでもなく、ただじっと見つめていることだ。そうしていると、そのうち必ず、痛みは和らいでいく。淋しさが、孤独という別の生きものに変わっていくのだ。そしてある日、その孤独を道連れに、旅を続けていこうという意欲が湧いてくる。
『地図の無い国から』 ロバート ハリス 幻冬舎 より
この本の紹介記事
ロバート・ハリス氏の自伝的な小説、『地図の無い国から』の一節です。
「旅先で感傷的になり、変に哲学的になるのは、旅人の通過儀礼かもしれない」……。
一人旅をしたことのある人なら、誰もが同じような体験をしているのではないでしょうか。
数日で帰れるような短い旅ならともかく、数週間、数カ月と旅が長くなれば、旅人は「日常生活やその中の人間関係」という居心地のよい環境から引き剥がされた状態のまま生活していかなければなりません。まるでお気に入りのぬいぐるみを取り上げられてしまった子どものように、旅人は「自分という存在の先天的な孤独」に素手で向き合わざるを得なくなるのです。
自分を守ってくれていたシェルターを失い、旅先の見知らぬ世界で「剥き出しになった自分」に戻るとき、人によっては「淋しさ」を通り越して、激しいパニックに陥ることもあるかもしれません。
そんなとき、旅人が取りうる選択肢はいくつかあります。
一つ目は、すぐさま旅行を中断して、いつもの日常に逃げ帰り、慣れ親しんだ家族や友人やお気に入りの物事と再びつながることで、「剥き出しになった自分」と直面する苦しみを避ける方法です。
二つ目は、旅先で何らかの娯楽に熱中したり、新しい友人や恋人との出会いを必死に求めたりして、一人にならなくても済む方法を探すことです。これは、いわば新しい日常を創りあげようとする試みで、本質的には一つ目の選択肢と同じことなのかもしれません。
三つ目は、深い孤独感や悲観的なムードに苛まれ、それに過剰に反応してしまうことです。しかしこれは、慢性化すればどんどんネガティブな方向に進み、ヤケになって身を持ち崩してしまう危険性があります。
冒頭の小説の主人公ジョー・ライダーのとるやり方は、そのいずれでもありません。彼は「淋しさを自分の中に受け入れ」、それをただじっと見つめるのです。これはきっと、作者のロバート・ハリス氏が自らの試行錯誤の経験を通じて学んだことを、主人公の口を借りて語っているのでしょう。
心の痛みとじっと向き合うことは、特に一人でいるときには、辛く厳しいものであるはずです。しかし、その一見すると無力そうなやり方が、長い目で見れば、結局は最も適切な対処法なのかもしれません。
もちろん、痛みを自分の中に受け入れるということは、それほど簡単に実践できるものではないでしょう。ある意味では、そうしようと思えるだけの心の強さがないからこそ、私たちは痛みから逃げたり、痛みを何とかごまかそうと、あれこれ策を弄してしまうのではないでしょうか。
いずれにせよ、長い一人旅をしていると、この問題を避けて通ることはできません。問題に否応なく直面し、問題と格闘することを通じて、それぞれの旅人が「自分という存在の先天的な孤独」に向き合う自分なりのやり方を身につけていくことになるのだと思います。
『フラット革命』
本書は、ITとインターネットの分野で精力的な取材を続けているジャーナリストの佐々木俊尚氏が、ネット世界の出現が引き起こしつつある社会の大きな変化(フラット化)と、その先に姿を見せ始めた新しい社会の枠組みについて、日本における具体的な事例を手がかりに描き出そうという試みです。
1990年代後半以降のインターネットの爆発的な普及によって、マスメディアによる情報の独占は崩壊し、匿名言論や多数のブロガーの出現によって、言論の徹底的なフラット化が進みつつあります。それは「誰が言ったか」、つまり発言者の所属する組織や肩書きよりも、「何を言ったか」が問われるような世界が出現しつつあることを意味します。
また、佐々木氏によれば、「戦後社会」と呼ばれる日本の古い共同体的な枠組みが、2000年代前半に完全に終焉を迎えました。日本の経済発展を支えてきたその堅固な枠組みは、私たちに息苦しさと隷従を感じさせるものでしたが、それは同時に、<われわれ>という共同幻想による安心感をも与えてきました。
いま、帰属すべき共同体を失った膨大な数の人々が、よるべなく漂流を始めています。
人々はかつて、共同体に支えられ、マスメディアを経由することで、世界との強固なつながりを持っていると信じられた。だが共同体は温かい繭ではなくなり、マスメディアの<われわれ>幻想も消滅した。この結果、共同体によって提供されていた世界認識システムは崩壊してしまった。いまやコミュニティやマスメディアを経由して、世界を認識することはできなくなってしまったのだ。
だから人々は、自分自身の力によって、ひとりで世界認識へと立ち向かわなければならない。
だが自分自身でそれを引き受けるということは、とても厳しくつらい。だから成功する人もいれば、失敗する人もいる。
そして本書の後半では、フラット化した世界における公共性(異なる意見や異なる立場にいる人たちのさまざまな意見をとりまとめ、民主主義の中へと落とし込んでいく社会の機能)の問題が取り上げられています。
マスメディアという権威の中心が力を失ったあと、来たるべき社会では、誰が、どのような形で公共性を担っていくのでしょうか。それとも、そのようなものは失われ、社会はコントロールを失った混乱状態に陥ってしまうのでしょうか。
佐々木氏は、すべての当事者が情報のやりとりに参加し、中央のコントロールなしに直接意見をぶつけ合い、評価、分析、批判、反論といったさまざまな活動がすべてオープンにされ、その過程のすべてが、社会を構成する<わたし>たち全員の前に可視化されることが、新たな公共性を生み出していくのだと考えます。
そしてそれは、ラディカルな民主主義という、民主主義の新たな可能性につながっていくのだと佐々木氏は言います。
もしそれが、フラット化の先にある新たな社会の姿であるとすれば、そこでは多様な価値観や考え方を持った人たちが同じ社会を構成し、「友愛も隷従も存在しないけれども、しかしそこにお互いの存在を許容し、議論として対決し続ける」ような、「闘技的民主主義」が発展していくことになるのかもしれません。
本書は、インターネットの普及がもたらす社会の大変化という、非常に大きなテーマを扱っているのですが、佐々木氏自身がその渦中に巻き込まれた「ことのは事件」を始め、彼自身による取材に基づいた具体的な事例に沿って、とても読みやすく、分かりやすく書かれています。
ただ、私個人としては、「フラット革命」の行く末に関しては、私たちの想像をはるかに超える大変化が待ち構えているような気がしています。
例えば、この本の中では触れられていませんが、「戦後社会」の終焉やフラット化といった、外なる世界の大変動と平行して起きている、スピリチュアリズムの隆盛やオカルトブームといった、私たちの内なる世界の大変動のことも考え合わせると、こうした変動の行き着く先は、ラディカルな民主主義にとどまらず、私たちが世界を認識する枠組みのもっと根本的な変化につながっていくような気がします。
いずれにしても、佐々木氏の言うように、その変化は既に後戻りのできないところまで来てしまいました。
この先に待っているものが何であれ、私たちにできることは、ポジティブな姿勢でそれと向き合い、一人ひとりが新しい世界で何とか生き延びる方法を見い出すことしかなさそうです……。
本の評価基準
以下の基準を目安に、私の主観で判断しています。
★★★★★ 座右の書として、何度も読み返したい本です
★★★★☆ 一度は読んでおきたい、素晴らしい本です
★★★☆☆ 読むだけの価値はあります
★★☆☆☆ よかったら暇な時に読んでみてください
★☆☆☆☆ 人によっては得るところがあるかも?
☆☆☆☆☆ ここでは紹介しないことにします
宇宙飛行士の見た地球
宇宙の一日は、ヒューストンの管制センターから送られてくるウェイクアップコールではじまる。宇宙飛行士を起こす目覚めの曲は通常2分あまり、その後管制官が「グッドモーニング」と呼びかけるのが慣例だ。曲は宇宙飛行士自らのリクエストもあれば、家族や友人、地上スタッフからのプレゼントの場合もある。1970年代のアポロ計画から今日まで続くこの伝統には、それぞれの曲にこめられた思いと時代を映す物語がある。
21世紀最初のフライトとなったスペース・シャトルの飛行士たちを起こしたのは、スタンリー・キューブリックの「2001年宇宙の旅」で使われていた「美しく青きドナウ」だった。1968年に公開された映画は、主人公の宇宙飛行士が驚がくの体験を経て進化し、戦いをやめない人間の歴史に終止符を打つという暗示で終わっている。しかし、現実の21世紀の地上では、同時多発テロ、イラク戦争、深刻化する地球温暖化など問題が続いている。
人は宇宙空間に出ることによって、地球への意識が変わると言われる。あのとき宇宙飛行士たちは、どのような曲で目覚め、400キロ上空の周回軌道から地上の出来事を見つめていたのだろうか。同時多発テロを宇宙から見つめた飛行士、スペースシャトル・コロンビアの事故で亡くなった飛行士、日本人飛行士・野口聡一さんら21世紀に宇宙に向かった飛行士たちの「宇宙からの思い」でつづっていく。
(NHK 2007-2008年末年始特集番組紹介 より)
これまでウェイクアップコールとして使用された曲は1,000曲以上にもなるといいますが、この番組では、アポロ計画やスペースシャトル計画で実際に宇宙船に流された名曲の数々が、宇宙から見た地球の美しい映像をバックに紹介されています。
しかしこの番組のメインはやはり、宇宙飛行士たちが、光り輝く地球の姿を実際に眺めながらどんなことを感じていたのか、その個人的な体験を率直に語っていることでしょう。
2001年9月11日の同時多発テロを国際宇宙ステーション上から目撃したただひとりのアメリカ人で、噴煙を上げるニューヨークを宇宙から撮影したフランク・カルバートソン氏が語る自らの宇宙体験を始めとして、イスラエル初の宇宙飛行士としてコロンビア号に搭乗し、事故で帰らぬ人となったイーラン・ラモン氏が遺した日記や家族へのメールなどから、宇宙体験を通じて大きく変化した彼の内面の軌跡をたどる試み、日本人として初めての船外活動を行った野口聡一氏が語る宇宙から見た地球の姿など、非常に密度の濃い内容です。
彼らの宇宙体験は、もちろん人によって異なるはずだし、それを限られた言葉でうまく説明することも非常に難しいだろうと思いますが、自分が大いなるものの一部だという強い感覚や、地球人としての自覚、このかけがえのない世界を守っていきたいという責任感など、彼らの宗教的ともいえる言葉の端々に、宇宙体験が彼らにもたらした強いインパクトをうかがうことができます。
以前にこのブログで紹介した立花隆氏の『宇宙からの帰還』は、まさにこの「宇宙体験は人間の意識をどう変えるのか」というテーマを扱っていました。その点で、この番組は「宇宙からの帰還 21世紀バージョン」と言えるかもしれません。
新春にふさわしく、日常の世界を超えたさまざまな思いに導いてくれる、素晴らしい番組でした。
ところで番組では、宇宙から眺める地球を背景に、“What a Wonderful World”や“Imagine”など、世界の名曲が次々に流れるのですが、青い地球をバックにすると、どの曲も、何ともいえない深い感動を誘うように思われます。
それは、ウェイクアップコール用に選ばれた曲のテーマや歌詞のもつ象徴的な意味が、宇宙飛行という人類史的なプロジェクトの意味と微妙に重なり合い、それぞれの曲がまるで人類史のBGMであるかのような、深い意味をもった曲のように聞こえてくるからなのかもしれません。
あるいは、宇宙の底知れない暗黒を背景にポツンと浮かぶ地球の姿と、美しく繊細な人間の歌声が心の中で響き合い、何といえばよいのか、宇宙的な切なさとでもいうようなものを心の底に呼び覚ますからなのかもしれません。