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『「臨死体験」を超える死後体験 4 - 2012人類大転換』

評価 ★★☆☆☆ よかったら暇な時に読んでみてください

 本書は、ケンタウルス座アルファやシリウス、アークチュルス、プレアデス星団、オリオン座三ツ星など、さまざまな星系にいる生命存在たちとの交信によって得られた情報をそのままの形で明らかにしたものである。


この本の冒頭は、いきなりこんな書き出しで始まります。

いわゆる「精神世界系」の本に免疫のない人にとっては、これはあまりにも荒唐無稽で、とても手に取って読む気にはならないかもしれません。

しかし、坂本氏の『死後体験』シリーズを最初から読んできた人にとっては、ロバート・モンロー氏が開発したヘミシンクという音響技術によって、坂本氏が日常的な意識とは異なるさまざまなレベルの変性意識状態を体験し、そうした意識状態を通じて「死後の世界」を探索したり、人類とは異なる宇宙のさまざまな生命存在たちとの交信さえ行っているというのは、すでにおなじみの話でしょう。

こうした「あちらの世界」というものが果たして実在するのか、仮に実在するとして、それは生きている人間が探索したりできるものなのかという問題は、そもそも近代科学の枠組みの外にあり、自然科学的な方法では検証できません。坂本氏が創作ではなく事実を述べているかどうかを確かめるには、実際に各自が同じ意識状態を体験してみるほかはないのです。

私自身はヘミシンクを体験したことがないので、坂本氏が書いている内容についてその真偽をコメントできる立場にはないのですが、とりあえず事実性の問題を棚上げにするなら、これは意識のフロンティアという広大な海を探索した航海記として、かなり楽しめる内容になっていると思います。

何よりも、「死後の世界」という別世界をかいま見ているというのに、そこにためらいや恐れのようなものがほとんど感じられず、むしろさらなる未知の世界へ向かってどんどん突き進んでいく坂本氏の姿勢がスゴイし、また、異世界の描写におどろおどろしさのようなものがなく、旅行先の風景でもスケッチするように、淡々と、時にはユーモラスに描いているところも新鮮です。

ある意味では、変性意識状態というものをこれだけ当たり前のように、カジュアルに表現できるほど、「時代は変わった」のだと強く感じさせられます。

意識をめぐる冒険としては、ひと昔前に一世を風靡したカルロス・カスタネダ氏の「ドン・ファン」シリーズなどがありますが、坂本氏の『死後体験』シリーズも、カスタネダ氏の著作と同様、巻を追うごとに「ぶっ飛び度」が増していくようです。

今回も、坂本氏を導く「ガイド」やさまざまな生命存在との交信によって、驚くべき情報がもたらされています。

それによると、現在、銀河系の中心核から地球生命系へ向けて非物質の生命エネルギー(無条件の愛、スーパーラブ)が流入しつつあり、それが2012年にピークを迎えるというのです。そして、そのエネルギーをうまく活用すれば、人類は人間を「卒業」し、新たなステージへと移行することが可能だといいます。そして坂本氏は、「死後の世界」では実際に大きな変化が生じつつあると報告しています。

もちろん、先ほどの事実性の問題を含め、こうした話をどう受け止めるかは読者次第です。私自身も、さすがにここまでくると、いろいろと引っかかるものを感じます。

2012年をピークとする「人類大転換」と言われても、それが具体的に地球上でどういう現れ方をするのか、この本にはあまりにも情報が少なく、断片的すぎるし、なぜこうした情報が今頃になって急に切迫感をもって出てきたのか、唐突な印象も受けます。

逆に、もしも2012年前後に目立ったことが何も起こらなければ、いわゆる「大予言」の類いと同じで、こうした本の事実性に関して大いに疑問視されることにもなりかねません。

ちなみに、『死後体験』シリーズの坂本氏の体験を読んで推測する限りでは、ヘミシンクによって「死後の世界」や「異星人」とのコンタクトが可能になるといっても、それによって体験者が人間的に一挙に成長するとか、生きていくうえでの問題が一気に解決するというものではないようです。

つまり、「死後の世界」を含めた全く新しい世界観、コスモロジーに対して目が開かれ、自らの生を新しい観点から見直すという意味では、その効果は大いにあるようですが、その新たな展望の下でも、人間としての成長に関しては、やはり自ら学び、試行錯誤しながら一歩一歩進んでいくという点ではあまり変わらないようです。

もっとも、坂本氏が本書で伝えている情報が本当だとするなら、これから数年間は大量の「無条件の愛」が地球に降りそそぐことになります。これはヘミシンクを知る知らないに関わらず、すべての人に影響するはずなので、人類全体がそのおかげで劇的な精神的成長を遂げ、争いの虚しさに気づき、もっと賢く慈悲深い人ばかりになるなんてこともあり得るのかもしれません……。


坂本政道著 『「臨死体験」を超える死後体験1』の紹介記事
坂本政道著 『人は、はるか銀河を越えて』の紹介記事
坂本政道著 『2012年 目覚めよ地球人 ― いよいよ始まった人類大転換の時』の紹介記事
坂本政道著 『分裂する未来 ― ダークサイドとの抗争』の紹介記事


本の評価基準

 以下の基準を目安に、私の主観で判断しています。

 ★★★★★ 座右の書として、何度も読み返したい本です
 ★★★★☆ 一度は読んでおきたい、素晴らしい本です
 ★★★☆☆ 読むだけの価値はあります
 ★★☆☆☆ よかったら暇な時に読んでみてください
 ★☆☆☆☆ 人によっては得るところがあるかも?
 ☆☆☆☆☆ ここでは紹介しないことにします



JUGEMテーマ:読書

at 18:52, 浪人, 本の旅〜魂の旅

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『社会学入門 ― 人間と社会の未来』

Kindle版はこちら

 

評価 ★★★☆☆ 読むだけの価値はあります

本書の「社会学入門」という硬めのタイトルからは、無味乾燥で教科書的な内容を想像される方が多いと思います。

しかし実際に読んでみると、この本のねらいはもっと深いところにあるようで、人間と社会に関する探究の前提となる、「社会学の<魂>」ともいうべきものの一端を、何とかして若い人たちに伝えたいという、見田宗介氏の熱い思いが伝わってくるユニークな本であることがわかります。

見田氏は、「人間はどう生きたらいいか」という、人生における根源的な問題意識から出発し、そこから派生する「死とニヒリズムの問題系」と「愛とエゴイズムの問題系」を、経験科学的な方法で追求するために社会学の道へと進んだと語ります。

自らの生に関わる鮮烈な問題意識が先にあって、その解決を求めてどこまでも探究を続けていけば、それは結果として専門領域の壁を乗り越え、「越境する知」とならざるを得ません。

また、インドやラテンアメリカのような、同時代のいわゆる辺境への旅を通じて、あるいは人間社会がたどってきた歴史的なプロセスの探究を通じて、私たちは現代社会とは異なる世界のあり方を知り、そうした異世界との比較を通じて、自らの認識を狭めている「自明性の檻」から意識を解き放ち、広い視野と柔軟な想像力を獲得することができます。

それはある意味で、生きていく中で誰もが必然的にたどっているプロセスを、自らの手によって意識的に加速する試みだといえるかもしれません。

 

 

このような社会学の方法としての「比較」は、<他者を知ること>、このことを通しての<自明性の罠>からの解放、想像力の翼の獲得という、ぼくたちの生き方の方法論と一つのものであり、これをどこまでも大胆にそして明晰に、展開してゆくものです。

 


そうして得られた明晰さによって、現代社会は人類史の大きな流れの中に位置づけられ、現代がいかなる時代であるか、そこに至るまでに私たちが手に入れてきたもの、失ってしまったものの本質が明らかになるのです。

さらに見田氏はそこから踏み込んで、近未来において、人それぞれが「魂の自由」を解き放つことのできるような理想の社会はどのようなものであるべきか、その形式を理論的に構想しています。

もちろん、新書という限られた紙数の中では、こうしたテーマについてアウトラインが示されるだけなので、その細部について、読者は具体的なイメージを思い描けるところまではいかないだろうし、結論部分で見田氏の提示する社会構想自体をどう受け止めるかも、人それぞれだと思います。

しかし、制度化された学問としての社会学を学ぶためというよりは、それぞれの個人が人間と社会について、自らの問題意識に基づく真剣な探究を続けていくための一つの入口として、本書はさまざまのヒントに満ちていると思います。


本の評価基準

 以下の基準を目安に、私の主観で判断しています。

 ★★★★★ 座右の書として、何度も読み返したい本です
 ★★★★☆ 一度は読んでおきたい、素晴らしい本です
 ★★★☆☆ 読むだけの価値はあります
 ★★☆☆☆ よかったら暇な時に読んでみてください
 ★☆☆☆☆ 人によっては得るところがあるかも?
 ☆☆☆☆☆ ここでは紹介しないことにします

 

 

 

 

 

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at 19:07, 浪人, 本の旅〜人間と社会

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旅の名言 「インドという国は……」

 インドをめざす男たちの何割かは、自分をみつめ直したいと旅に出ているのかもしれなかった。しかしインドという国は、これでなかなか意地悪なのである。一年や二年の旅では、なにも見せてはくれないというのに、人生の足許をすくうようなインド式の禅問答はそこかしこに仕掛けられていて、そこに簡単にはまってしまうのである。出口が見えない、という意味ではまさにブラックホールで、そのなかで旅行者はあがき続けるのである。


『アジアの弟子』 下川 裕治 幻冬舎文庫 より
この本の紹介記事

旅行作家の下川裕治氏が自らの半生を綴った作品、『アジアの弟子』からの引用です。

世界にはさまざまな国や地域があるとはいえ、昔も今も、旅人の心に深い衝撃を与える国といえば、まずはインドの名が挙がるのではないでしょうか。

もちろん、その衝撃がもたらす影響は、人によって違います。

インドを好きになってしまい、その後インドばかりに通いつめる旅人もいれば、心の底から嫌いになって、二度と足を踏み入れたくないと思う人もいるかもしれません。

「インド病」という有名な言葉がありますが、そこにも両義的な意味があります。ビジネスマンがインドへ赴任したら使い物にならなくなった、というような否定的なケースを意味することもあれば、インドが大好きになってしまった人間が、自分のインドへの熱い想いを表現する言葉として使うこともあります。

しかし、仮にインドが好きになり、あるいは、好きなのかどうかはよくわからないけれど、インドのことが気になって気になって仕方がなくなり、インドに通いつめるようになったからといって、インドがその気持ちに応えて、何か「インド的な真実」みたいなものをすぐに見せてくれるかというと、そう簡単にはいきません。

下川裕治氏が巧みに表現しているように、「インドという国は、これでなかなか意地悪」なのです。

日本や欧米など、いわゆる先進国といわれるような国からやってきた人間にとっては、インドのような異世界は、まさにワンダーランドです。今まで見たことも聞いたこともなかった未知の世界に浸る毎日には発見の興奮があり、そこで過ごす濃密な時間があります。

しかし、その混沌とした世界を仮に一年か二年旅してみたところで、その核心をつかむことができるほど、インドは簡単な場所ではないのです。

「人生の足許をすくうようなインド式の禅問答」に翻弄されているうちに、気がつけばインドにどっぷりとはまり込んでおり、旅人は身も心も、もはや元の社会には簡単に復帰できない状態になっています。かといって、心はインドに深く捕われたままで、いつになったらインドを「卒業」できるのか、その出口は見えないままという、泥沼の状態に陥ってしまうのです。

もっとも、これはインドが「意地悪」であるとか、インドに責任があるというよりは、私たちの生きているいわゆる「先進」社会と、インド的世界との間に存在する深い溝に、その原因があるような気もします。旅人は自らそれと気がつかないまま、その溝に落ち込んでしまったり、二つの世界の間で心が引き裂かれてしまうということなのかもしれません。

中には、そうした混乱や葛藤を乗り越え、「インド病」を克服する過程で「何か」をつかみとり、非常にクリエイティブな人生を歩んでいく人もいるのかもしれませんが、「ブラックホール」に呑み込まれたまま、そこからずっと出られなくなってしまう人がいることも事実です。

インドは今、グローバリゼーションの中で急速な経済発展への道を歩みつつあり、その社会も急速に変化しているといいます。インドをインドたらしめてきた、強烈なインド性のようなものは、いつの日か薄れ、やがて失われていくのかもしれません。

しかし、私たちの目に映るインドは、今でもまだまだ神秘のワンダーランドであり、その向こうには底知れない未知の世界が広がっています。そして、そういう一筋縄ではいかない、ある意味では非常に危険な世界だからこそ、旅人の気持ちを強く惹きつけてやまないのかもしれません……。


記事 「インド病」
記事 「インドにもついにスーパーマーケットが……」


JUGEMテーマ:旅行

at 18:31, 浪人, 旅の名言〜土地の印象

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カオサンの小象

バックパッカーの街、バンコクのカオサン通りに滞在していたときのことです。

今でも見られるのかどうかは知りませんが、私が旅をしていた当時は、夜になるとカオサン通り周辺の路上に、毎日のように象が出没していました。

象は、大人(?)の巨大なのもいれば、かわいらしい小象のこともあります。象は象使いに連れられ、オープンカフェで飲み食いしているバックパッカーたちの近くを流して歩き、気が向いた客が象使いから一回分のエサを買い取って、象に直接エサをやって楽しむのです。

酒を飲んで盛り上がっている貧乏旅行者たちにとっては、ふと横を見たら象がその辺をウロウロしているというのはとても楽しい余興のようで、エサやりを志願する人もけっこういるようです。象使いにとっては、なかなかいい商売になっているのではないでしょうか。

その日、陽も落ちてすっかり暗くなった道を歩いていると、カオサン方面に「出勤」していく小象を見かけました。小象を先導するように象使いの若者が急ぎ足で歩き、そのすぐ後ろにくっつくようにして、小象がテケテケと小走りに歩いています。象使いのアシスタントなのか、周囲には子どもを含めた数人のタイ人が一緒に歩いています。

傍から見ていると、小象はまるで、迷子にならないよう必死になって親の後を追いかける子どもといった感じです。小象にしてみれば、見知らぬ人間ばかりの大都会というのは居心地のいいところではなく、やっぱり何かと不安なのでしょう。象使いを見失ったら一大事とばかり、わき見もせず、一心不乱に象使いの足元を見つめる様子が何とも健気です。

しかし、小象がセブン・イレブンの前を通り過ぎる光景は、さすがにシュールでした。これは、インドで象を見たときには決して感じることのなかった感覚です。

南インドを旅していたときには、お寺の敷地に入ったすぐのところに「寺象」が待ち構えていて、小銭を鼻の先に置いてやると、参拝者の頭を鼻でチョンと触れて祝福してくれるのをよく見かけたし、街中を象が歩いていても違和感を感じませんでした。
記事 「象の祝福」

そもそも、インドの街中では、巨大な「野良牛」がその辺を徘徊しているのが当たり前で、牛たちは道の真ん中や駅のホームに寝そべってみたり、市場の野菜を盗み食いしたりと勝手気ままに生きています。また、インド北西部では、自動車の行き交う道路でラクダがのんびりと荷車を引いていたりします。

その大小にかかわらず、動物が街の中を歩いているのは、インドではまったく自然な光景です。だから、たまに象を見かけたりしても、「ああ、象か」の一言で終わってしまうのです。

タイでも、観光客が象に乗れるアトラクションはあちこちにあるし、田舎に行けば象が現役で働いていることもあるので、象そのものがめずらしいわけではありません。

ただ、日本と同じ看板のコンビニやファストフードの店が建ち並ぶバンコクの街中で象が歩き回っているのを見かけると、場違いというか、いるべきでない場所に迷い込んでしまっているというか、何とも言えない違和感を感じるのです。

そもそも日本なら、夜の繁華街を象が歩き回るなんて、特別なイベントでもない限り、まずありえないことです。そして、仮にそういうことが可能だとしても、いろいろ事前の手続きが必要になったり、「暴れたらどうする?」とか、「フンはどうする?」とか、各方面からいろいろとクレームがついたりして、何ともややこしいことになりそうです。

高層ビルが建ち並び、ガラス張りのショーウィンドーや有名ブランドの看板で街中が埋め尽くされているような繊細で機能的な街は、大きな動物がウロウロすることなどまったく前提にしていません。そういう街では、人間以外の大型動物は動物園の中に隔離され、厳重に管理されるべき存在であって、その辺を勝手に歩き回ることは許されないのです。

セブン・イレブンの前を通り過ぎる象がシュールに見えたのは、コンビニと象という、本来は互いにまったく相容れないはずの存在が、目の前で、何だか当たり前のように共存していることへの驚きだったのかもしれません。

そう考えると、バンコクの場合、表面的な街並みは欧米や日本のような高度消費社会に近づきつつあるように見えても、やっぱりアジア的おおらかさというか、街中を象が普通に歩いていられる程度のユルさみたいなものは、まだまだしっかりと残っているのでしょう。

それにしても、象たちはバンコク中心部にあるカオサン通りまで、一体どこから「出勤」してきたのでしょう?

まさかその辺の家の中庭で飼われているとも思えないのですが、だとすると、バンコクの郊外から中心部まで延々と歩いてくるのでしょうか? そのためには途中で何度も道路を渡らなければならないし、半端ではない時間がかかります。象使いといえどもタイ人なので、歩くのが嫌いな彼らが毎日そんなことをするとも思えません。

では、トラックか何かで、象をカオサン通りの近くまで運んでくるという可能性は? しかし、小象はともかく、大きな象をその辺のトラックの荷台に載せて運ぶことなどできるのでしょうか?

結局、どう考えてみても、よく分かりませんでした。

きっと、バンコク中心部からそれほど遠くないところに、象と人間が一緒に生活できるような場所がまだ残っているのでしょう。そういう場所が存在するということと、バンコクの醸し出すおおらかな雰囲気は、同じ根っこから来ているもののように思います。

もちろん、そこにはいい面だけでなくて悪い面もあるわけですが、そうしたユルさが旅人の気持ちを強く惹きつけるのも確かです……。


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at 19:11, 浪人, 地上の旅〜東南アジア

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『世界の不思議な家を訪ねて ― 土の家、石の家、草木の家、水の家』

Kindle版はこちら

 

評価 ★★☆☆☆ よかったら暇な時に読んでみてください

この本は、世界各地の人々の暮らしを長年にわたって撮り続けている写真家の小松義夫氏が、旅先で出会った不思議で面白い家々を、カラー写真と文章で紹介するものです。

そのほとんどは、その地に暮らす人々が自らの手で作り上げてきた伝統的な家屋です。身の周りで手に入る素材を活かし、可能な限りの暮らしやすさを追求していくなかで、それは独自の発展を遂げ、どの家も他では見られないユニークさと機能美にあふれています。

私個人としては、シバームの「泥の摩天楼」(イエメン)、チチカカ湖の浮島の家(ペルー)が特に印象に残りました。また、これは伝統的な住居ではありませんが、一攫千金を夢見てオパール鉱山にやってきた人々が、自宅兼坑道として地下を好きなように掘削して住んでいる、クーパーピディの地下住居(オーストラリア)もユニークでした。

こうした美しい住居が今も残っているのは、大都市からは遠く離れた辺境であることが多く、したがって撮影のためにはかなりハードな旅を強いられることになります。

この本には、小松氏が取材中に遭遇した困難や、危機的な状況なども簡潔に描かれているのですが、意外なのは、「危険地帯では夫婦のほうが安全」という判断から、渡航延期勧告が出ているような地域に夫人を伴って出かけていくという発想です。

もちろん、これは長年にわたる旅の経験と可能な限りの情報収集・準備をふまえた上での判断で、誰もがマネのできるようなことではないのですが……。


本の評価基準

 以下の基準を目安に、私の主観で判断しています。

 ★★★★★ 座右の書として、何度も読み返したい本です
 ★★★★☆ 一度は読んでおきたい、素晴らしい本です
 ★★★☆☆ 読むだけの価値はあります
 ★★☆☆☆ よかったら暇な時に読んでみてください
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at 18:28, 浪人, 本の旅〜住まい

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旅の名言 「日本という国は……」

 日本という国はとりたてて引力が強い国のようだった。この国に暮らしていると、いつの間にか体が重くなり、足どりの軽さを失ってしまうのである。社会にはもつれた人間関係という罠がそこかしこにしかけられていて、僕などは実に頻繁にひっかかってしまうのである。日本に暮らす人々は、生活とか人生といった言葉を巧みに使って、僕の足をしきりに引っぱろうとするのである。旅のなかで軽くなってきていた僕の人生は、またしても日本でどっさりと重荷をかけられるのである。
 気がつくと、僕は旅行代理店に走り、ザックに荷を詰めはじめてしまっていた。行き先はどんな国でもよかった。南の貧しい国ならどこでもよかった。そこには明日のことなどなにも考えない男がたむろしていて、そこに紛れて暮らさなければ、僕は自分に負わされた重さのようなものに押しつぶされてしまいそうな気がしたからだ。


『アジアの弟子』 下川 裕治 幻冬舎文庫 より
この本の紹介記事

旅行作家の下川裕治氏が、旅を通じてアジアと関わってきた自らの半生を綴った作品『アジアの弟子』からの引用です。

27歳で新聞社を辞め、アフリカとアジアへの長い旅に出た下川氏は、帰国後フリーのライターとして忙しい日本の日常に戻りますが、多忙で重苦しい日本での生活に押しつぶされそうになった彼は、再び旅に出たいという思いを抑えることができませんでした。

「日本という国はとりたてて引力が強い国のようだった」という表現は、日本とは違う世界を知ってしまった者にとって、帰国後の偽らざる実感だったのではないでしょうか。

もちろん、日本人でありながら、日本の社会に対してこのようなコメントをすれば、周囲から冷ややかな視線を浴びることを覚悟しなければならないでしょう。日本の社会に適応し、毎日歯を食いしばって仕事をこなしている人たちからは、「何を甘えたことを言ってるんだ! 黙って仕事しろ!」と怒りの鉄槌が下されそうです。

しかし、長旅を通じて、アジアの貧しさと、その裏返しとしてのシンプルで軽い生き方に身を浸してきた下川氏は、今まで生きてきた日本の社会をすっかり相対化してしまうような、強固な視点を内面化してしまったのではないでしょうか。

帰国したとき、彼の目に映った日本は、出発前とはすっかり違っていたはずです。彼は、自分がそれまで旅してきたアフリカやアジアとは違う、むしろその対極とも思えるような日本社会の姿を、嫌でも意識せざるを得なくなってしまったのではないでしょうか。

日本は自分が生まれた重要な国だとしても、他の社会との比較の上で相対的に眺めれば、その素晴らしいところも嫌なところもくっきりと見えてきます。そして旅人にとって、日本の社会で生きることはただ一つの選択肢なのではなく、もはや、この地上に存在する数多くの人生の可能性のうちの一つに過ぎないのです。

ただ、そうした状況は多くの旅人に共通しているとしても、その中で自分がどんな道を選び取っていくかは、旅人によって大きく異なります。

人によっては、すべてを忘れ、何事もなかったかのように再び日本社会にどっぷりと身を浸すことができるだろうし、あるいは逆に、日本社会での「逆カルチャーショック」に耐え切れず、日本を飛び出してそのまま戻ってこない人もいるかもしれません。

しかし多くの旅人は、多かれ少なかれ、日本に魅力を感じ、そこで再び生きていこうとする自分と、旅先で見た別の社会や別の生き方に強く心惹かれる自分との間で引き裂かれ、いずれかをハッキリと選ぶ決心もつかないまま、モヤモヤとした宙ぶらりんの日々を送ることになるのではないでしょうか。

そのモヤモヤが我慢できる程度ならともかく、葛藤が非常に激しい人にとっては、これはとても辛いことです。下川氏は、その苦しみからの逃げ場を求めるように、その後も仕事の合間を縫って、アジアへの短い旅を繰り返しています。

しかしこれは、彼に限ったことではなく、海外、特にいわゆる開発途上国への長い旅を終えて帰国した者が、多かれ少なかれ陥る状態なのではないでしょうか。

長旅に出発する決意を固め、そして実際に世界各地を放浪し続けることは、旅人にとって大きなハードルですが、もしかすると最大のハードルは、帰国後にあるのかもしれません。

旅の体験と帰国後の日常生活が生み出す心の葛藤やとまどいをなんとか乗り越えて、それぞれの旅人にとってしっくりとくる生き方のスタイルを生み出すまでには、非常な困難を伴うし、それがどうしてもうまくいかない人もいるでしょう。

そして、たとえそれに成功するとしても、人によってはそのプロセスに何年、あるいは何十年もの歳月を必要とするのではないでしょうか。


旅の名言 「五年近くのブランクのある私は……」


JUGEMテーマ:旅行

at 19:36, 浪人, 旅の名言〜旅の終わり・帰還

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『池澤夏樹の旅地図』

評価 ★★☆☆☆ よかったら暇な時に読んでみてください

本書は、作家の池澤夏樹氏が、旅というテーマで自らの半生と仕事を振り返った作品です。

1972年、27歳のときにミクロネシアを旅し、初めて海外を知った池澤氏は、「非日本というものと具体的に出会ったことに、とても大きなショックを受け」たといいます。それは、「ミクロネシア体験があったからこそ作家になれた」というほどの人生の大きな転機でした。

それ以来、世界中を旅するだけでなく、ギリシャ、沖縄、フランスと移住を重ね、旅と関わりの深い仕事を続けてきた池澤氏ですが、この本では、いくつかのインタビューや対談、本人によるエッセイなどを通じて、幼年時代の帯広の思い出から現在のフランス暮らしに至るまでの、世界中のさまざまな土地とのかかわりと、その体験が仕事にどのような形で反映されてきたかが明らかにされています。

また、旅に関する本・映画・音楽のミニ・ガイドや、随所にちりばめられた美しい写真など、旅心を誘うさまざまな趣向も凝らされていて、池澤氏のファン必携の本になっています。

ところで、本書後半のエッセイ、「楽園の曖昧な根拠」は、私にとって非常に興味深い内容でした。

池澤氏はオーストラリアのリゾート地で休暇を過ごしながら、ある「居心地の悪さ」を感じています。それはリゾートという、「最も安直な、陳腐な形で具体化された楽園」を目の当たりにした当惑というよりも、もっと根の深いものです。

自分たちにとって未知の土地に楽園のイメージを託し、そこへと駆り立てられるという、人類に共通の行動パターン。それがもたらしてきた歴史を振り返るとき、旅への衝動を肯定しつつ生きてきた者として、何か後ろめたいものを感じないわけにはいかないのです。

 

一方では旅や移動の衝動を全面的に認め、もう一方ではどこかで後ろめたい思いを無視できずにいる。後ろめたさは背を向けた土地に対するものではない。たいていの場合、土地は人を引き留めない。問題は行った先、押しかけた先に対する違和感であり、居心地の悪さだ。リゾートでいえば、リゾート開発をしてしまったことへの、そこを利用することへの、後ろめたさ。他人の土地に楽園を想定する僭越への自己批判。


そしてそれは、旅先で出会った素晴らしいものについて書くという自らの仕事の根底に潜む矛盾に対する、苦い思いともどこかでつながっています。

 

 最初からわかっていたことがある。ある土地に行って、そこについて報告を本国に送る。それは結局は観光開発のお先棒を担ぐことになる。だからぼくが送るメッセージはそれ自体が矛盾の上に成り立っていた――「ここはとてもいいところですから、みなさんは来ないでください」。


池澤氏はこうした「居心地の悪さ」に対し、スッキリとした解決を得られないまま、そこに立ち尽くしています。しかしそれは、作家だけが感じる思いではないはずです。

ここではないどこか別の場所に楽園を思い描き、そこを目指して出かけていく旅人すべては、楽園とされる場所に辿り着いたとき、多かれ少なかれ、同じような現実に直面するのではないでしょうか。

だとすれば、人間にとって旅とは、結局何を意味しているのでしょう?

旅人は、この「居心地の悪さ」を認めるところから始まる、さらなる探究へと足を踏み出さざるを得ないのかもしれません……。


本の評価基準

 以下の基準を目安に、私の主観で判断しています。

 ★★★★★ 座右の書として、何度も読み返したい本です
 ★★★★☆ 一度は読んでおきたい、素晴らしい本です
 ★★★☆☆ 読むだけの価値はあります
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at 19:17, 浪人, 本の旅〜世界各国

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おかげさまで400記事

すっかり忘れていましたが、先月、このブログの記事が400まで達していました。

今まで記事を読んで下さった皆様、どうもありがとうございました。

旅に関するブログのつもりが、気がつけばほとんど読書日記のようになっていました。また、紹介している本の内容も旅に限定されているわけではなく、むしろ次第にテーマが拡散していく傾向にあるのですが、「読書も旅だ!」と自分に言い聞かせることで、何とか続けています。

その意味でこのブログは、面白い本を通じて「読書の旅」を楽しませてくれた著者や出版関係の方々の仕事に多くを負っているわけで、本当にありがたく思います。

検索エンジン経由でこのブログを訪ねてくださった方々に、求める情報を提供できているかについては、たいへん心もとないのですが、人によっては何らかの意味を見出してくれることもあるかもしれないと信じることにして、まだしばらくはこのブログを書き続けたいと思います。

今後とも、このブログをどうぞよろしくお願いいたします。


JUGEMテーマ:日記・一般

at 18:51, 浪人, 感謝

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『アジアの弟子』

評価 ★★★☆☆ 読むだけの価値はあります

本書は、旅行作家の下川裕治氏が、旅を通じてアジアと深く関わり、「アジアの弟子」として生きてきた自らの半生を綴った作品です。

新聞社に勤めていた下川氏は、27歳のときに会社を辞め、長い旅に出ました。

アフリカ、アジアの国々をあてもなく放浪するなかで、彼は自らを縛りつけていた日本社会の重苦しさから解き放たれ、貧しい国の人々の限りなくシンプルな生き方に溶け込んでいきます。

しかし下川氏は、インドの安宿にくすぶる貧乏旅行者たちのように日本と訣別することもできず、これからどうするのか明確な結論も出ないまま、日本に帰国したのでした。

フリーライターとして再び多忙な日常へと復帰したものの、彼は日本での生活に違和感を感じ続け、仕事の合間をみては、何度もアジアへの旅を繰り返します。彼はやがて仕事を中断し、タイ語を学ぶためと称してバンコクでの長期滞在に踏み切ります……。

日本の超多忙で重苦しい生活と、アジアの人々のシンプルで軽い生き方との間を揺れ動く下川氏の姿に、私は強い共感を覚えずにはいられませんでした。

日本の社会や生き方とは違う世界に一度でも身を浸し、心の中にアジアの底知れなさを抱え込んでしまった人間にとって、その魅力に抗うことはほとんど不可能に近いのですが、そうかといって、日本に生まれ育った人間としては、日本で生きるという選択肢を完全に捨て切ることもできないのです。

そうやって二つの世界の間で引き裂かれるような悩みは、日本を出ることがなければ味わわずに済んだ苦しみなのかもしれませんが、逆に、別の世界を知っていて、いざとなればそこに逃げ込むことができると思えるからこそ、出口のない日本での日常に耐えていけるのかもしれません。

下川氏は自らについて、「人に誇れることなどなにもない危うい人生だった」と書いていますが、本書を読む限りでは、彼は先の見えない「二十代から三十代にかけての綱渡り」の日々においても、周囲の常識的な判断とは違う、思い切った決断をとり続けているように見えます。

それが日本的な常識や美意識からどう見えるかは別にして、私にはそれは「アジアの弟子」としての、人生を賭けた生き方の実践のように見えるし、まだ世間がアジアにほとんど関心を抱かず、国内のバブルに酔いしれていた1980年代の頃から、自らの心の声に従うようにして、ひとりで黙々と道を切り開いていたその姿に、静かな迫力を感じました。


本の評価基準

 以下の基準を目安に、私の主観で判断しています。

 ★★★★★ 座右の書として、何度も読み返したい本です
 ★★★★☆ 一度は読んでおきたい、素晴らしい本です
 ★★★☆☆ 読むだけの価値はあります
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at 18:34, 浪人, 本の旅〜世界各国

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旅の名言 「放浪の旅に対する意気ごみを……」

 皮肉なことではあるけれど、放浪の旅に対する意気ごみを測るリトマステストは、旅の中にではなく、旅を実現させるための自由を得ようとする過程にある。


『旅に出ろ! ― ヴァガボンディング・ガイド 』 ロルフ・ポッツ ヴィレッジブックス より
この本の紹介記事

放浪の旅(ヴァガボンディング)へのガイドブック、『旅に出ろ!』からの一節です。

長い旅をしたことのある人ならお分かりだと思いますが、旅を長く続けることそれ自体には、別にそれほどの困難は感じないことが多いし、特別なテクニックが必要なわけでもありません。
旅の名言 「一年くらい旅を……」

私自身の体験からいっても、たぶん旅の中で一番の試練と感じるのは、旅の始めと終わり、つまり、旅に出るという決意を実現させるまでのプロセスと、一度始めてしまった旅をどうやって終わらせるかというタイミングの問題だと思います。

旅の終わりの問題は、沢木耕太郎氏のベストセラー『深夜特急』でも大きなテーマになっているし、それについては別の機会に触れたことがあるので、今回は、旅立ちのプロセスについて考えてみたいと思います。
旅の名言 「やがてこの旅にも……」

放浪の旅への憧れは、その強度を別にすれば、たぶんどんな人の心にも芽生えることがあるはずです。

それは、ふとした思いつきのまま、自然に消えていってしまうことがほとんどでしょうが、人によってはそれが頭にこびりついて離れず、その手の本を読んだり、旅人の話を聞いたりして、どんどん旅への憧れを膨らませてしまうようなこともあるかもしれません。

しかし、学業や仕事を中断したり、あるいは身の周りの全てを清算した上で長い旅に出るという人は、実際のところほとんどいないのではないでしょうか。現実に長期にわたって世界を放浪している人の数は非常に限られているという事実が、放浪への憧れと現実との間の落差の大きさを物語っているように思います。

とはいえ、旅に出るという物理的な行動だけをとってみれば、それは別に難しいことではありません。数カ月、あるいは数年にもわたるような長い旅に出る人も、その表面的な行動だけを見れば、海外出張のビジネスマンや休暇を楽しむ観光客と全く同じで、航空券の手配をし、出国手続きをし、飛行機に乗り込んで海を渡るだけです。

大変なのは、出発に至るまでの間に、今まで続けてきた生活のすべてを見直し、放浪の旅という、これまでとは全く違うスタイルの生活を始めるための準備を着々と進めなければならないということなのです。

例えば、長い旅を夢見るだけでなく、それを実行するには、現実問題としてある程度の資金が必要になります。もし手許にそれだけの金がないなら、自らの手で稼ぎ出すしかありません。働いても金の残らない生活をしているのなら、出費を切り詰めて少しずつ貯金していかなければならないし、学生ならアルバイトで金を稼ぐ必要があります。

放浪というとロマンチックな響きがありますが、実際にそれを実現するためには、ある程度現実的になり、目標に向かって計画的にプロジェクトを進めていくような態度も必要になるのです。

そして、いざ旅の資金が用意でき、旅立つ決意が固まったとしても、次なる試練が待っています。

数カ月以上日本を離れるつもりならば、当然会社は辞めざるを得ないし、学校なら休学するか退学しなければならないでしょう。もちろん、一度会社や学校を辞めてしまったら、その後何があったとしても、すべてを元に戻してやり直せるほど世の中は甘くありません。

また、自分の周囲の人々にも、長い旅に出ることを告げる必要があるでしょう。一緒に旅に出るのでもなければ、付き合っている恋人とは別れることになるかもしれないし、すでに家庭をもっている人なら、さらに大きく複雑な問題に直面することになります。

それに、旅の間、これまで住んでいた部屋をそのままキープしておくのかといった問題や、役所や公共サービスへの各種届け出など、細々とした現実的な問題も、きちんと解決しておく必要があります。

それだけのことを実行していく過程では、当然周囲からの心配や反対もあるだろうし、自分自身の中でも、これから始まる旅やその後の人生について、ほとんど恐怖に近いような不安が心をよぎるはずです。

当然、こうした不安や数々の現実問題のことを想像しただけで嫌になり、自分にはとても無理だと、放浪の旅を早々に断念してしまう人もいるだろうし、旅に出る決意まではしたものの、準備の途中で障害を乗り越えられず、結局出発に至らない人も多いのではないでしょうか。

そういう意味で、長い旅に出るということは、さまざまな障害を一つひとつクリアーし、周囲をそれなりに説得し、自分自身の心の葛藤をくぐり抜けた上での旅立ちであり、実際のところ、出発にこぎつけるまでの段階で、すでに自らの生き方を変えるという大仕事を成し遂げていることになるのです。

『旅に出ろ!』の著者、ロルフ・ポッツ氏は、そんな奮闘のプロセスを「旅を実現させるための自由を得ようとする過程」であると美しく表現していますが、これは人によっては人生を賭けた血みどろの闘いそのものになってしまうかもしれません……。

旅に出る前に、こうした形で何度もその人の意気込みが試され、その試練を乗り越えた人だけが、実際に長い旅を始めることができるのです。言ってみれば、それは放浪への一次試験みたいなもので、あいまいな気持ちの人、準備の足りない人は、出発前の段階でふるい落とされてしまうというわけです。

もちろん、これは理屈の上の話です。

実際には、こうした厳しい「一次試験」を全ての旅人がくぐり抜けるわけではなく、特に20代前半くらいまでの若い人なら、あまり悩んだり考えたりせずに、わずかな金と勢いだけで旅に出てしまう人もけっこういるのでしょう。

それでもやはり、一般的に考えるなら、旅の出発までのプロセスは、旅の最初にして、ある意味では最大の難関だと言うことができるのではないでしょうか。


旅の名言 「いつかいつかと……」
旅の名言 「動き出せば……」


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at 18:40, 浪人, 旅の名言〜旅の予感・旅立ち

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