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長野の聖火リレー

長野の聖火リレーが終わりました。

私は以前からチベット問題には関心があり、これまで長年にわたってチベット人の受けてきた苦しみについて同情しています。特に3月のラサの騒乱以降は、強い懸念をもって事態の推移を見守っていました。

聖火リレーがチベット問題をめぐる政治的なアピールの場になり、開催する各国で混乱が広がっていくのを目にした時には、リレーを実力行使で妨害する行為には賛成できなかったものの、今、チベットで起きていることを考えれば、多くの人が抗議の意思を表明するのは当然のことだと思いました。

そして4月26日に、その聖火リレーが日本にやって来ました。

私は長野まで出かけることはなく、TVの生中継を見ているだけでしたが、それでも長野の緊迫した雰囲気は、画面から充分に伝わってきました。

暴力的な妨害行為によってランナーが傷つけられたり、リレーが大混乱に陥るようなことは起こってほしくなかったけれど、かといって、ただ粛々とリレーが進行し、まるで日本人が聖火リレーを歓迎しているかのような雰囲気で終わってしまうのも嫌でした。

そんな矛盾したような、複雑な気持ちで、私はハラハラしながらTV画面を見守っていました。

結果的には、チベット人を支援するグループと中国サポーターとの間での小競り合いがあって、怪我人が出たし、聖火リレー走者の前に飛び出して取り押さえられる人も何人かいましたが、厳重な警備体制のおかげか、リレーの進行そのものに大きな影響はなく、行事としては予定通り終了しました。

和やかな雰囲気の中、お祭り気分でリレーを楽しみたかった人にとっては、当日の状況は期待を裏切る残念なできことだったかもしれませんが、聖火リレーが世界中に対立や混乱をまき散らしている中で、日本だけが平和なイベントを実現するのは不可能だったと思います。

私としては、むしろ、あれ以上に混乱した状況に陥らなかっただけでもよかったと思うし、終わったときには正直いってホッとしました。

それと同時に、チベット人を支援する人々が長野に多数集まり、基本的には非暴力の原則を守りながら、日本人としての抗議の意思表示がしっかりと行われたことは、とても心強く感じられました。リレー出発と同時刻に、スタート地点を辞退した善光寺で、チベットでの犠牲者を追悼する法要が行われたことも、世界に向けての大きなアピールになったと思います。

下の動画「The torch relay will begin! At the time of Zenkouji」は、リレー当日の善光寺の様子です。





それともう一つ、長野での聖火リレー中継を見ていて感じたのは、リレーを実施し、それを警備した日本の関係者のきちょうめんな姿勢と手際のよさでした。

聖火リレーの意味に深刻な疑問が投げかけられる中で、現場を担当する人々にも相当な葛藤があったはずですが、リレーの実施を引き受けた以上は自らの手でしっかりと運営・警備し、礼をつくして聖火を送り出そうという真面目な姿勢が画面からも伝わってきました。

パリのように混乱で中断することもなく、サンフランシスコのように迷走することもなく、これだけの緊迫した状況の中で、ほぼ予定通りに長野でのリレーを終えたことは、グズグズになった国際聖火リレーがそのまま崩壊してしまうのを防いだという意味で、中国当局に「貸し」をつくれるほどの立派な仕事だったのではないかという気がします。

これは皮肉でも何でもありません。主催者側のスタッフ、聖火ランナー、ボランティア、警備当局など、それぞれの役割で現場を預かっていた多くの人たちが、イベントを最後までやり遂げるために大変な苦労をしたことを思うと、政治的な立場とは関係なく、そのことはしっかりと評価されるべきだと思うのです。

もちろん、これはあくまでTVの画面から感じたことで、You Tube にアップされた動画などを見ると、TVで報道されない舞台裏のレベルでは、いろいろと問題も生じていたようだし、実際に現地で聖火リレーを体感していた人は、また違う印象を受けたのかもしれませんが……。

最後に、下の動画「Torch relay 2008 Beijing in Nagano Japan」は、長野での抗議活動の様子が写真でまとめられたものです。現地の雰囲気が伝わってきます。





JUGEMテーマ:ニュース

at 18:46, 浪人, ニュースの旅

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『ROADSIDE JAPAN ― 珍日本紀行 東日本編』

評価 ★★★☆☆ 読むだけの価値はあります

1996年の出版当時に話題を呼び、私もその存在だけは知っていた写真集『珍日本紀行』。遅ればせながら読んでみました。

この本には、都築響一氏が日本各地を取材して発掘した「珍スポット」の数々が、あふれんばかりに詰め込まれています。

日本人の情念を物質化したような民俗宗教スポットに始まって、バブル期以降に日本中に建設された奇妙なテーマパーク、遊園地・博物館・温泉・宗教などあらゆる要素がてんこ盛りの複合施設、アウトサイダー・アーティストたちの生み出した奇怪な造形、さらには廃墟まで……。

これだけまとめて見せられると、笑える珍名所というよりは、何かギラギラとした人間の情念やグロテスクさの方が強く感じられて、その迫力にたじろいでしまいます。

しかし、都築氏は、こうした珍妙なスポットの存在を批判したり否定しようというのではなく、むしろそこに普段着の日本の姿を見出しているようです。

ここには日本らしい美しい風景もなければ、外国人観光客を黙らせるワビサビの空間もない。むしろ俗悪・軽薄と罵られてもやむを得ないような、ときには地元の人間でさえ存在を忘れてしまいたいスポットばかりが詰め込まれている。でも、このスッピンの乱れ顔こそが、いまの日本なのだ。そしてその素顔は、確かに美人じゃないけれど、見ようによってはちょっと可愛かったりする。


確かに、世界に自慢したいクールな日本があれば、当然、クールではない日本もあるわけで、むしろその方が私たちにとっては身近な存在です。あまり認めたくはありませんが、この写真集に載っているような風景も、今の日本の素顔であり、背伸びしていない本来の姿なのかもしれません。

それに、ある意味では、こういう珍妙な存在を次から次へと生み出し、それを平気で養っていけるほど日本は懐が深いというか、豊かな国なのだといえなくもないのかもしれません。

もっとも、公営のテーマパークや博物館など、その多くが税金をつぎ込んで建てられたのかと思うと、複雑な気分がするのも確かですが……。

なお、この本は出版当時の大判の写真集を文庫化したもので、『西日本編』とセットになっています。文庫といえど、2冊揃えれば結構な金額になるので、購入にはちょっと勇気がいるかもしれません。


本の評価基準

 以下の基準を目安に、私の主観で判断しています。

 ★★★★★ 座右の書として、何度も読み返したい本です
 ★★★★☆ 一度は読んでおきたい、素晴らしい本です
 ★★★☆☆ 読むだけの価値はあります
 ★★☆☆☆ よかったら暇な時に読んでみてください
 ★☆☆☆☆ 人によっては得るところがあるかも?
 ☆☆☆☆☆ ここでは紹介しないことにします



JUGEMテーマ:読書

at 19:09, 浪人, 本の旅〜日本

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旅の名言 「インドに一週間くらいいると……」

インドに一週間くらいいると、もう一年もインドを旅しているような気になる。三週間もいると、一〇年くらいここにいるというか、日本にいたころが「前世」のような、少なくとも「前半生」であったような気になる。これは最初の時だけでなく、二回目も三回目も、いつもそうでした。ヨーロッパとかアメリカでは、決してそのような気分にならない。日本と同じように時間が流れる。このことはとても奇妙なことで、インドはものすごく非能率です。チケットを一枚買うのに半日も並んだりする。午前中にこれとこれ、午後にはあそことあそこに行こうと決めていても、そのうちの一つか二つで日が暮れてしまう。やれることはとても少ないのに、長くいたという気がする。数学的にいって矛盾です。


『社会学入門 ― 人間と社会の未来』 見田 宗介 岩波新書 より
この本の紹介記事

冒頭の引用は、インドやラテンアメリカなど、いわゆる開発途上国、あるいは近代化が進んでいないとされている地域を旅したときに、私たちが感じる時間感覚の違いについて、社会学者の見田宗介氏が触れている部分から抜き出したものです。

インドを旅した人ならご存知でしょうが、パックツアーではなく、現地を自由に旅しようとすると、とにかく大変な手間と時間がかかります。

ビザにしても、列車のチケットにしても、長時間並ばなければ手に入らないことが多いし、列車やバスはもちろん、飛行機でさえ当然のように遅れます。

道を歩けば怪しげな人物がやたらと声をかけてくるし、買い物で油断をすればボッタクリに遭い、時には旅行者自身がひどい下痢や病気に襲われて、旅の予定が大幅に狂ってしまうこともあります。

とにかく、何をするにも時間がかかるだけでなく、トラブルの頻度も多いので、知恵を絞ってそれらを乗り越えていかないと、目的地にたどり着くことはおろか、その日一日を平穏無事に過ごすことすら難しくなってしまうのです。

しかし、見田氏が言うように、インドにいるとなぜか濃密な時間を過ごしているような気がします。時間の進み方が遅いというか、「やれることはとても少ないのに、長くいたという気がする」のです。これは、本当に奇妙なことです。

もちろん、インドに限らず、見知らぬ場所を旅すれば、誰もが多かれ少なかれ時間の感覚が変わるのを感じるはずです。

新しい場所に行って、そこに慣れるまでの間は、どんな体験でも新鮮に感じられるし、強く印象に残るものです。そして、そうした時間というのは、慣れ親しんだ日本での日常生活にくらべれば、相対的に長く感じられるはずです。

しかしインドのような土地では、それがかなり強烈に感じられるのです。そこには、もっと別の要因も働いているのではないでしょうか。

見田氏はこの現象について、近代化の進んだ欧米や日本の人々の時間感覚と、インドやラテンアメリカに生きる人々の時間感覚が違うことを指摘し、私たちが時間を「使う」とか「費やす」というふうに考えるのに対し、近代「以前」の社会に生きる人々にとって、時間とは「使われる」のではなく「生きられる」ものなのだと言います。

だから、旅をすることで、時間を「使う」社会から、時間を「生きる」社会に移動するとき、私たちの感覚には、大きなズレというか、ギャップが生じているはずです。私たちのほとんどはその違いを頭で理解しているわけではありませんが、奇妙な時間感覚の違いとして、それを実感しているというわけです。

私たち現代社会の人間は、仕事の生産性を高めなければならないというプレッシャーから、あるいは、限られた人生の時間を楽しく有意義に過ごしたいと真剣に思うあまり、時間をいかに効率的に使うかという問題に日夜悩まされているし、時間を何かのために使うという発想も、まるで当然のことのように感じています。

私たちがインドのような土地で感じる奇妙な時間感覚は、時間を「使う」という考え方にとり憑かれてしまった私たちが、時間を「生きる」という、まったく別のあり方について、意識や理性のレベルでは気づかなくても、無意識や感覚のレベルではそれをしっかりと受けとめ、その違いを強烈に感じとっているということなのかもしれません。

見田氏は同じ本の中で、次のようにも書いています。

そういえばぼくたちでさえ、旅で不思議に印象に残る時間は、都市の広場に面したカフェテラスで何もしないで行き交う人たちを眺めてすごした朝だとか、海岸線を陽が暮れるまでただ歩きつづけた一日とか、要するに何かに有効に「使われた」時間ではなく、ただ「生きられた」時間です。


そう考えると、近代化の極のような社会に生きる私たちにとって、旅の醍醐味とは、いかに多く、効率的に見どころを見物して回るか、ということにあるのではなく、異質な社会に触れることをきっかけに、私たちが自明としている考え方から解き放たれ、ふだんは感じることのない別の感覚に目覚めること、あるいは、久しく忘れてしまっていた、遠い昔の感覚を思い出すことにあるのかもしれません……。


JUGEMテーマ:旅行

at 19:20, 浪人, 旅の名言〜旅の時間

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『セルフビルド ― 家をつくる自由』

評価 ★★★☆☆ 読むだけの価値はあります

自分の住む家を、自分の手で建てることができたら……。

日本各地に、そんな夢を実現した人たちがいます。「家をつくる自由」がテーマのこの本には、そうしたセルフビルド、またはハーフビルドの住宅が30例近く、豊富なカラー写真で紹介されています。

この本を出している「旅行人」は、バックパッカー向けの旅行雑誌や旅に関する本を扱っている出版社で、著者も編者も、みな世界各地を旅したことのある人たちです。

長い旅の経験を通じて培われたまなざしが、日本での住まいや暮らしに向けられるとき、これまでとは違った、もっと自由でのびのびとした生き方を模索するようになるのは、当然の成り行きなのかもしれません。

しかし、持ち家といえば建売の一戸建てかマンションを想像してしまう多くの人々にとって、自分の家を自分でつくるという行為への心理的なハードルはかなり高いのではないでしょうか。

それでも、この本に紹介された数多くの具体的な事例を見ていくことで、実際のところ、セルフビルドはそれほど難しくはなく、むしろ楽しい作業なのかもしれないと思ったり、あるいは、すぐに自分もやってみようとまでは思わないにしても、少なくとも家づくりについての常識を見直すきっかけになるかもしれません。

この本を読むと、初心者にはなじみのない、建築関係の用語や道具の名称がたくさん出てきますが、そうした用語や、家づくり関係の法律については、巻末に用語集や解説がつけ加えられるなど、細やかな気配りもされています。

ただ、この本に載っている事例をまとめて見ていくと、そこには一定の傾向のようなものがあることも確かです。

田舎の広い敷地に大きな家、広いリビングに吹き抜け、薪ストーブというパターンが多いし、紹介されているビルダーも、陶芸家など、アーティスト系の人が多いようです。

これは、取材先の家やビルダーがたまたまそうだったのか、それとも一般的な傾向なのかどうかは分かりません。もちろん、会社勤めのかたわら、週末に現場に通い、何年もかけてコツコツと家を建てたという事例もいくつかあるので、自由業でなければセルフビルドができないというわけではありません。

しかし、法律の問題もあって、都会の狭い敷地に自由に家を建てるのはむずかしいし、田舎に家を建てるとなれば、家づくりだけでなく、仕事をどうするかという問題も出てきます。やはり田舎でそれなりに暮らしていけて、時間も比較的自由になる仕事でないと、セルフビルドは難しいのかな、という印象を受けるのも確かです。

それから、セルフビルドとは思えないほど本格的で、細部まで目の行き届いた家を建てているケースが多いという感じもしました。こういうこだわりは日本人の特性なのかもしれません。

ただ、個人的には、細部に多少の難はあっても、奇抜なアイデアに基づいた独創的な家づくりをしている事例をもっと見てみたかった気がします。

例えば、南伊豆の平太氏のバンブーハウスなど、身近で手に入る素材を利用し、少々(かなり?)ワイルドで自由につくられた感じは、私のイメージするセルフビルドの感覚にピッタリでした。

もっとも、見ていてワクワクする家かどうかということと、それが暮らしやすい家かどうかということは、全く別の問題なんだろうと思いますが……。


本の評価基準

 以下の基準を目安に、私の主観で判断しています。

 ★★★★★ 座右の書として、何度も読み返したい本です
 ★★★★☆ 一度は読んでおきたい、素晴らしい本です
 ★★★☆☆ 読むだけの価値はあります
 ★★☆☆☆ よかったら暇な時に読んでみてください
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at 18:35, 浪人, 本の旅〜住まい

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『竜(ナーガ)の眠る都』

評価 ★★★☆☆ 読むだけの価値はあります

この本は、1990年代後半のタイとカンボジアを舞台にした異色の冒険小説です。地理的な辺境への旅と、異界や人々の心に潜む闇、さらにカンボジア創世神話のモチーフまでが複雑に交錯し、猥雑で、ときにはグロテスクで、しかし生命力にあふれた独特の世界が繰り広げられています。

主人公のガンテツは、年季の入った放浪の旅人です。子供の頃から日本社会と折り合いが悪く、大学をドロップアウトしてからは、アルバイトで食いつなぎながら世界各地を渡り歩いています。

ある日、彼はバンコクのムエタイのスタジアムで、試合結果を予見してみせる不思議なタイ人の少年と出会い、彼のおかげで大金を手にします。チャイナタウンで仲間の貧乏旅行者たちと豪勢な夕食を楽しもうとしたガンテツは、そこに迷い込んできた日本人の小学生を保護するのですが、その少年は何者かに父親を誘拐されたらしく、そのショックで心にダメージを負っていました。

二人の少年との出会いが、さらに新たな出会いを呼び、ガンテツはいつの間にか、かつてのアンコール帝国を支配した神王たちの力の源泉であったという「竜の卵」をめぐる冒険に巻き込まれていきます。

旅の舞台はバンコクからイサーン(タイ東北部)へ、そしてポル・ポト派の支配するカンボジア西部へと移っていくのですが、それは同時に異界への旅であり、人間の心に潜む深い闇への旅でもありました……。

タイ人やカンボジア人の精神世界をめぐる冒険というテーマも異色なら、物語の舞台も、そのほとんどが普通の日本人にはなじみのない場所です。さらに主人公も、ドロップアウト組の貧乏旅行者で、メジャーな世界からは遠く離れた存在です。何から何までマイナーづくしという意味で、この本は多くの人に読まれるタイプの本ではないのかもしれません。   

しかし、私個人としては、そういうマイナーな世界にとても心惹かれるものを感じます。そしてそれ以上に、タイとカンボジアの宗教・神話・民俗文化・歴史といった硬めのトピックから、食文化・武術・現地の裏事情まで、ありとあらゆる話題をちりばめながら、猥雑でエネルギッシュな世界を描き出していく伊藤武氏の語りに圧倒されます。

そこには、まるでおもちゃ箱をひっくり返したようなにぎやかさと自由な想像力があり、また一方では、現代社会の価値観の中で抑圧され、無意識の世界に閉じ込められてきたさまざまなモノたちが、この物語の中で居場所を得て、一挙に噴き出しているような凄みもあります。

この本は、現在は絶版になっているようですが、バックパッカーとして東南アジアを旅した方や、東南アジアの民俗文化や精神世界に関心のある方は大いに楽しめる本だと思います。興味をもった方は、古書店や図書館で探して読んでみてください。


本の評価基準

 以下の基準を目安に、私の主観で判断しています。

 ★★★★★ 座右の書として、何度も読み返したい本です
 ★★★★☆ 一度は読んでおきたい、素晴らしい本です
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 ★★☆☆☆ よかったら暇な時に読んでみてください
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at 19:21, 浪人, 本の旅〜旅の物語

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おかげさまで2周年

2006年の4月に始めたこのブログも、おかげさまで2周年を迎えることができました。

これまで、このブログの記事を読んでくださった方々に、心よりお礼を申し上げます。

どうもありがとうございました。

ネット上にあふれる膨大な情報の中から、検索エンジン経由でこのブログにたどり着き、記事を読んでくださる方がいるというのは、本当に不思議なことだといつも思います。

もっとも、読んでくださる方にとって、費やした時間に見合うだけの情報を提供できているのかどうかは自信がありませんが……。

「旅」をテーマにしたブログのはずが、いつの間にか読書日記のようになってしまったり、内容的にマンネリ化したりと、いろいろ個人的に反省するところはあるのですが、そうは言っても、なかなか新機軸を打ち出せずにいます。

このブログは、自分のために書いているという側面が大きいので、無理をするつもりはありませんが、せめてもう少し違うジャンルの本を読んでみるとか、ネットの世界をもう少し探索してみるとか、記事の内容もひと工夫していきたいとは思っています。

今後とも、このブログをどうぞよろしくお願い申しあげます。


JUGEMテーマ:日記・一般

at 19:07, 浪人, 感謝

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迷走する聖火リレー

北京五輪の聖火リレーが迷走しています。

北京五輪への抗議活動の激化を受け、4月6日のロンドン、7日のパリでは、中国から送り込まれた聖火「親衛隊」と、地元の警官隊が聖火ランナーを何重にも取り囲み、まるで警察がパレードをしているような、異様な光景となりました。

それでも反対派は、聖火を奪おうと何度も強硬手段に訴えました。さらにそれを阻止しようとする「中国人サポーター」も多数集まり、両者の間の小競り合いまで起きて、混乱に拍車をかけました。

4月9日のサンフランシスコの聖火リレーでは、出発直後にランナーが姿を消し、反対派を混乱させるためのおとりまで用意して行方をくらませた上で、予定になかったルートを走って「無事」にリレーを終えました。

聖火リレーを強行しようとする関係者と、実力行使でそれを妨害しようとする反対派との間で板挟み状態の地元当局としては、それは、ケガ人や混乱なしに事態を乗り切るための苦肉の策だったのでしょう。

しかし、ただ聖火を見たい一心で待っていた沿道の観衆は裏切られた気分だろうし、聖火ランナーにしても、ほとんど声援もないガランとした道を、ものものしい警備に守られて走るだけでは、せっかくの晴れ舞台を楽しむという心境にはほど遠かったのではないかと思います。

今後も、聖火リレーそのものは、予定通り粛々と行われていくのでしょうが、これだけの混乱が続き、事態が政治的な文脈で語られるようになると、それはもう、当初の聖火リレーの趣旨とはかけ離れてしまっているのではないでしょうか。

少なくとも、多くの人にとっては、北京五輪を純粋なスポーツの祭典として、無邪気に楽しめる状態ではなくなっているだろうと思います。

そもそも、ことの発端は3月14日のチベットの騒乱にあります。

しかし私たちは、その日チベットで何が起きたのか、そして現在、チベットで何が起きているのか、いまだに正確なことをほとんど知ることができません。

外国人の記者が、チベットで自由に取材できないだけでなく、現地との通信も制限・監視されているので、そこに住むチベット人が、今何を考え、どのように感じているのかすら、私たちは知ることができないのです。

亡命したチベット人だけでなく、それをサポートする人々、さらには事件を報道するマスコミ関係者まで含めて、多くの人々が、断片的にしか伝わってこない現地の状況にいらだちを募らせているはずです。正確に事実を知り、互いに情報を伝え、必要なら助け合うという人間として当たり前の行為ができない状況に対して、激しいフラストレーションを感じるのは当然です。

聖火リレーをめぐる混乱は、ある意味では、そうして積もりつもった人々のフラストレーションが、自由な表現や報道の許される国々に舞台を移して、激しく噴き出しているということなのではないでしょうか。

そして、それに対し、耳を傾ける姿勢を全く見せず、何事もなかったかのように強引にことを進めようとする中国当局の対応は、人々の怒りの火に油をそそぎ、対立と混乱をエスカレートさせています。

ただ、忘れてはならないのは、この問題を解決するためのイニシアティブが中国政府の側にあるということです。

私たちが北京五輪への抗議活動をいくら活発におこなっても、チベットでの人権侵害をいくら告発しても、各国政府がいくら厳しい非難を繰り返しても、圧倒的な武力をもってチベットを支配している中国政府の態度に何らかの変化が起きない限り、問題は全く解決しません。

私たちが聖火リレーや北京五輪を実力行使で妨害しても、中国と中国人のメンツを傷つけ、彼らをさらに頑なにするだけだし、抗議行動が行き過ぎて暴力行為に発展すれば、中国側にそれを非難し、自らを正当化する格好の根拠を与えてしまいます。

ダライ・ラマ法王がいつも強調されているように、私たちは、つねに非暴力という大前提を守る必要があります。そのうえで私たちは、今感じている怒りや悲しみ、強いフラストレーション、そしてチベットの人々が自由で平和な環境で暮らせるよう強く願う気持ちを、きちんと表現していくべきだと思います。

中国とチベットの代表者による建設的な対話がすみやかに実現するよう、祈らずにはいられません。

なお、長田幸康氏のブログ「チベット式」に、チベットの騒乱についての簡単な解説があります。チベット問題についての概略を知りたい方、今私たちに何ができるか知りたいという方は是非ご覧ください。
【2008年チベット動乱】よく聞かれる質問集


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at 19:16, 浪人, ニュースの旅

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旅の名言 「そこには独特の空気が……」

 さて、トルコのそういったいくつかの地域の中でどこがいちばん面白かったか? もちろんいちばんひどい東部アナトリアだ。そこにいるあいだは、毎日朝から晩まで我々は頭にきたり、消耗したり、毒づいたり、冷汗を流したりしていた。出てくる街、出てくる街、どれも汚くて、見苦しくて、道路は殆どが道路以前という代物だった。人々の生活は見るからに陰惨であり、街の通りは警官と兵隊と牛と羊で溢れていた。でも誤解しないでほしい。僕はこうして随分ひどいことを書いているみたいだけれど、決して悪意で書いているわけではないのだ。僕は僕なりにここの旅を楽しんだのだ。楽しんだというのは言いすぎかもしれない――でも少なくとも退屈はしなかった。面白いか面白くないかという見地から見れば、これは面白かった。大変に面白かった。そこには独特の空気があり、手応えがあった。人々には存在感があり、彼らの目はいきいきとした光を放っていた。それはヨーロッパや日本ではまずお目にかかれない鮮やかで暴力的な光だった。そこにはややこしい留保条項はなかった。「でも」や「しかし」のない、そこにあるものそのまま全部という目だった。そこにおいてはたいていの物事は予測できず、条理は多くの場合虚無の中に吸い込まれていた。早く言えば出鱈目だった。でもそこには旅行の醍醐味というものがあった。
 それは確かである。大変に面白かった。でももう一度そこに行きたいかと言われれば、今のところ僕の答えはノーだ。何かはっきりとした明確な目的があるならともかく、あそこは一度行けば充分だという気がする。


『雨天炎天 ― ギリシャ・トルコ辺境紀行』 村上 春樹 新潮文庫 より
この本の紹介記事

村上春樹氏のギリシャ、トルコへの旅の記録、『雨天炎天』からの引用です。

彼がトルコの東部アナトリアを旅したのは、今からちょうど20年前のことですが、その当時も、クルド人の独立運動をめぐって現地は非常な緊張状態にあり、そこを旅する村上氏の一行は、数々のトラブルに巻き込まれることになりました。

しかし、朝から晩まで「頭にきたり、消耗したり、毒づいたり、冷汗を流したり」するような、ある意味では悲惨な旅の日々を、「大変に面白かった」と言い切るところに、村上氏の旅に対する考え方がよく表れているような気がします。

もちろん、人々が争い、時には生命の危険にさらされることもある紛争地域を旅して、それを「面白かった」の一言で済ませてしまうと、無用の誤解を招くかもしれません。それもあってか、村上氏はそのすぐ後で、彼の言う「面白い」とはどういう意味なのか、彼自身が東部アナトリアで感じていた「手応え」とはどのようなものだったのか、何とか読者に伝えようと試みています。

私には現地に足を運んだ経験がないので、あくまでも彼の文章から想像するだけなのですが、人々の放つ強い存在感や、彼らの目に宿るという「鮮やかで暴力的な光」は、やはり彼らをとりまく貧しさや極度の緊張という状況が生み出したものなのでしょう。

今日一日を何とか生きのびること以外には何も考えられないような極限の状況は、人々から余計なものをすべて剥ぎとり、生き抜こうとする本能的な意志だけを、生々しくむき出しにするのではないでしょうか。

それは、安心・安全のための社会システムがうまく機能しているおかげで、生きるということの生々しさに向き合わずに済み、「ややこしい留保条項」を互いにいじくり回しながら暮らしていける欧米や日本のような社会では、ふだんまず目にすることのできない光景のはずです。

私たちにとって異質なものや、あるいは、私たちがふだん気がつかずにいる、何か根源的なリアリティに出合えることが「旅行の醍醐味」なのだとすれば、東アナトリアは、確かにそうした体験をもたらしてくれる場所の一つなのかもしれません。

しかしそれは一方で、旅人の心も体も消耗させ、場合によっては死とも隣り合わせの、ギリギリの体験を迫る場所であることも確かです。

それは、旅人の人生の中でも貴重な経験になるでしょうが、その衝撃度を考えれば、ふつうの人はそう何度も体験したいとは思わないでしょう。それは大変に面白い旅であり、大きな手応えを感じる旅ではあっても、「一度行けば充分」なのかもしれません……。


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at 19:03, 浪人, 旅の名言〜土地の印象

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『地球のはぐれ方』

文庫版はこちら

Kindle版はこちら

 

評価 ★★☆☆☆ よかったら暇な時に読んでみてください

この本は、作家の村上春樹氏、エッセイストの吉本由美氏、アート・デザイン編集者の都築響一氏の三人が、「ちょっと変なところに行って、ちょっと変なものを見てまわろう」(村上氏)というコンセプトのもとに、名古屋、熱海、ホノルル、江の島、サハリン、清里の六か所を旅した記録です。

観光開発はおろか、社会的なインフラすら整っておらず、いまだ秘境という感じのサハリンは別として、他の場所は、地元の方には申し訳ないのですが、旅先として選ぶのはちょっと……と、少々ためらわれるところがあります。

「世間から軽蔑されこそすれ、尊敬されることはまずなさそうな土地ばかりを、わざわざ選んで出かけた」(都築氏)とはちょっと大げさにしても、かつては観光地としての栄光をほしいままにし、今では賞味期限の切れてしまったような感じのする場所に足を運ぶのは、確かに酔狂かもしれません。

それでも、実際に現地に行ってみれば、面白いものはまだまだあるし、意外な発見もあるようです。この本には、そうしたささやかな発見の数々が集められています。

全体的に肩の力の抜けた、ユルい感じの旅行記で、雑多なテーマについてコラム形式で書かれているため、ブログを読んでいるような感じがします。

私個人としては、それぞれの土地について、三人が歯に衣着せず語り合う座談会の部分が一番面白いと思いました。もっとも、旅行者の気楽な立場でずいぶんキツいことも言っているので、地元の人が読んだらカチンとくると思いますが……。

それにしても、「珍スポット」とか廃墟の好きな人、あるいはベタな観光地を愛する人はともかく、こういう旅というのは、「旅先でガッカリしたくないので、今、一番面白くて人気のあるところに行きたい」というタイプの人には向いていないだろうと思います。

三人の旅は、雑誌連載の企画だからこそ実現したという面もあるだろうし、「けっこうなお金を払って下品な脱力感を買う」(都築氏)みたいなところがあるので、ある意味では、とても「高度」でリスキーな旅なのです。

ところで、自らの日常世界を離れ、非日常の異質な世界を求めるのが旅の本質だとすれば、それにふさわしい、本当に異質なものを感じさせる場所は、今、世界からどんどん消えつつあるように思われます。

このまま放っておけば、世界中どこもかしこも均質化して金太郎飴のようになってしまうかもしれないし、その結果、私たちは旅をする意味を感じられなくなるばかりか、日常と非日常というメリハリもなくなって、生活が輝きを失ってしまうかもしれません。

本当にそうなるかどうかは、私には分かりませんが、もしこのまま世界が均質化の方向に向かうとしたら、私たちは、既にすっかり見飽きてしまったような場所や日常性の中に、自分にとって異質で非日常なものを改めて見出す、いわば再発見のプロセスを通じて、生活に輝きを取り戻すことが必要になってくるのではないでしょうか。

もしかすると、これからの時代には、本書の三人のように、「つまらなく見える町を、なんとかおもしろがろうとする」(都築氏)努力とセンスのようなものが、楽しく生きていくために切実に求められるようになっていくのかもしれません……。


本の評価基準

 以下の基準を目安に、私の主観で判断しています。

 ★★★★★ 座右の書として、何度も読み返したい本です
 ★★★★☆ 一度は読んでおきたい、素晴らしい本です
 ★★★☆☆ 読むだけの価値はあります
 ★★☆☆☆ よかったら暇な時に読んでみてください
 ★☆☆☆☆ 人によっては得るところがあるかも?
 ☆☆☆☆☆ ここでは紹介しないことにします

 

 

 

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at 19:27, 浪人, 本の旅〜世界各国

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旅の名言 「こうしてインドから得たパワーは……」

 それにしてもメインバザールの賑やかさはすごい。道行く人間の叫び声や動物の鳴き声。ノラ犬、ノラ牛、ノラ人間。
 なんだか、体の底からパワーが湧いてくるような気がする。生まれた時に持っていて、日本での暮らしで失ったパワーを再注入されているようだ。インドに来ることになったのは、もしかしたら体が無意識のうちにこのパワーを求めていたからかもしれない。
 ただ、こうしてインドから得たパワーはこの後すべてインド人によって吸収されるどころか、帰国時には結局マイナスになってしまうということを、この時のオレはまだ知らない。


『インドなんて二度と行くか!ボケ!! …でもまた行きたいかも』 さくら 剛 アルファポリス より
この本の紹介記事

さくら剛氏のお笑いインド旅行記、『インドなんて二度と行くか!ボケ!! …でもまた行きたいかも』からの引用です。

自称ひきこもりのさくら氏は、現状を憂い、一念発起してインドへと旅立ちます。深夜の便でデリーに到着した彼は、早速トラブルの波状攻撃に見舞われるのですが、何とかそれを乗り越え、ニューデリー駅前のメインバザールに宿を確保して眠りにつくのでした。

冒頭の引用は、翌朝宿を出てメインバザール界隈を歩いたさくら氏の、インドの街に対する第一印象です。 

人も動物も勝手気ままに歩き回り、すべてがごちゃまぜで混沌としたようなその情景に、何かとてもワイルドなものを感じ、「体の底からパワーが湧いてくるような」気がしたというのは、私も実感としてよく分かります。

おおらかというか、いいかげんというか、そのあまりにもゴチャゴチャした街の雰囲気に、何かこう、心が芯から解放されるというか、心の底から笑いがこみ上げてくるという感じでしょうか。

「生まれた時に持っていて、日本での暮らしで失ったパワーを再注入されているようだ」とさくら氏は書いていますが、インドの街の光景は、おもちゃ箱をひっくり返したような、どこか子供時代に還ったような懐かしさも感じさせます。

こうして彼の街歩きは、街にみなぎる鮮烈なエネルギーを感じるところから始まるのですが、それがそのままで終わらないところがインドのインドたるゆえんです。

さくら氏はその後、メインバザールを徘徊する「不良インド人」たちとの不毛な戦いに巻き込まれ、インドが与えてくれたせっかくのパワーをどんどん吸い取られてしまうのですが、これは彼に限ったことではなく、インドを旅するバックパッカーなら誰もが経験することでしょう。

旅を終えて帰国する頃には、インドにもらったパワーが吸い取られすぎてマイナスになってしまうというのは、もちろんジョークですが、実際のところ、インドからやつれ果てて帰ってくる旅人も少なくないことを考えれば、単なるジョークとは言い切れない部分もなきにしもあらずです。

それに懲りて、それこそ、「インドなんて二度と行くか!ボケ!!」で終わってしまう旅人もいるでしょうが、中にはインドで散々な目に遭ったというのに、その濃密な旅の日々がどうしても忘れられず、また行きたくなって、居ても立ってもいられなくなってしまう人もいます。

いわゆる「インド病」の発病です。

インドにもらったパワーは、インド人にすべて吸収されてしまうのではなく、自分でも気がつかない形でしっかりと心の奥深くに残っていて、あるいは、心の奥深くに長いこと閉じ込められていた何かを呼び覚まして、旅人の心を次なる旅へと強く駆り立てるのではないでしょうか。

インドの放つパワーは、栄養ドリンクの効果のようにすぐに擦り減ってしまうものではなく、目に見えないところでじわじわと、しかし強烈に働きかけてくる、ちょっとやっかいな性質のものなのかもしれません……。


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at 19:06, 浪人, 旅の名言〜土地の印象

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