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2008.05.30 Friday
『自然の歩き方50 ― ソローの森から雨の屋久島へ』
評価 ★★☆☆☆ よかったら暇な時に読んでみてください
この本は、八ヶ岳の森の家に暮らし、自然を愛するバックパッカーでもある加藤則芳氏が、これまでの自らの旅を振り返り、アメリカや日本の国立公園から、北極圏やニューギニアの高地まで、バラエティ豊かな数々の旅の印象を、それぞれ短い文章でまとめたものです。
バックパッカーという言葉は、現在の日本ではもっぱら「開発途上国を旅する貧乏旅行者」のような意味で使われていますが、この本を読むと、ウイルダネスに分け入り、「必要最小限のもので、自然での生活を最大限に楽しむ」、本来のバックパッキングのあり方がどのようなものかが分かります。
ウイルダネスどころか、宿から宿への移動のときくらいしかバックパックを背負わず、アジアの街や村に沈没しているばかりの私には、耳が痛い話です……。
本の評価基準
以下の基準を目安に、私の主観で判断しています。
★★★★★ 座右の書として、何度も読み返したい本です
★★★★☆ 一度は読んでおきたい、素晴らしい本です
★★★☆☆ 読むだけの価値はあります
★★☆☆☆ よかったら暇な時に読んでみてください
★☆☆☆☆ 人によっては得るところがあるかも?
☆☆☆☆☆ ここでは紹介しないことにします
この本は、八ヶ岳の森の家に暮らし、自然を愛するバックパッカーでもある加藤則芳氏が、これまでの自らの旅を振り返り、アメリカや日本の国立公園から、北極圏やニューギニアの高地まで、バラエティ豊かな数々の旅の印象を、それぞれ短い文章でまとめたものです。
バックパッカーという言葉は、現在の日本ではもっぱら「開発途上国を旅する貧乏旅行者」のような意味で使われていますが、この本を読むと、ウイルダネスに分け入り、「必要最小限のもので、自然での生活を最大限に楽しむ」、本来のバックパッキングのあり方がどのようなものかが分かります。
ウイルダネスどころか、宿から宿への移動のときくらいしかバックパックを背負わず、アジアの街や村に沈没しているばかりの私には、耳が痛い話です……。
本の評価基準
以下の基準を目安に、私の主観で判断しています。
★★★★★ 座右の書として、何度も読み返したい本です
★★★★☆ 一度は読んでおきたい、素晴らしい本です
★★★☆☆ 読むだけの価値はあります
★★☆☆☆ よかったら暇な時に読んでみてください
★☆☆☆☆ 人によっては得るところがあるかも?
☆☆☆☆☆ ここでは紹介しないことにします
JUGEMテーマ:読書
2008.05.27 Tuesday
ネットカフェ難民3
5月25日放送の日本テレビ「NNNドキュメント'08 ネットカフェ難民3 居場所はどこに?」を見ました。
この番組は、2007年1月に放送されて話題を呼び、「ネットカフェ難民」という言葉が広く知られるきっかけとなったドキュメンタリーの第3作目にあたります。
ただ、これまでの2作とは違って、今回はネットカフェ難民の映像はほとんど出てきません。
むしろ、ネットカフェ難民だけでなく、失業や借金、DVや家庭の問題などが原因で、社会での自分の居場所を失った人々に広く目を向け、彼らをサポートするNPO(自立生活サポートセンター・もやい)の活動を紹介する内容になっています。
ネットカフェ難民の問題の一つの側面として、彼らの人間関係が希薄で、周囲の人々からの充分なサポートを得られないこと、また彼ら自身にも、行政側の保護を受けたりするための具体的な知識がないために、いったん悲惨な状態に陥ると、そこから抜け出せなくなってしまいがちという事情があります。
それを解決する方法の一つとして、彼らと行政側を仲介するNPOの存在が重要になっているというのはよく分かります。
ただ、この番組のタイトルに「居場所はどこに?」とあるように、ネットカフェ難民に限らず、多くの人々が感じている社会での居場所のなさ、深い孤独や疎外感のようなものは、行政側の経済的なサポートを受けられたとしても、それで簡単に解決するものではないでしょう。
もちろん、寝るところもなく、食べるものさえないような生活にくらべれば、経済的なサポートを受けられるだけでもありがたいことなのですが、周囲の人間関係から一度切り離されてしまった彼らが、個人の力だけで、社会の中に再び居場所を見つけ出していくのは非常に難しいと思います。
番組の中でも、NPOのメンバーが、相談者と行政側をつなぐという役割だけに徹するのか、相談者ともっと踏み込んだ関わりをしていくべきなのかについて、ジレンマを抱えている様子が紹介されていました。
次から次へと相談にやってくる一人ひとりと深く関わり、物心両面のサポートを続けていくことはほとんど不可能だけれど、相談者はそうしたサポートこそを切実に必要としているはずで、誰かがそれをやらなければいけない……。
こうしたジレンマは、問題を専門家やボランティアに任せているだけでは解決できないと思うし、限られたNPOのスタッフのもとへ相談者が殺到すれば、スタッフもいつかは燃え尽きてしまいます。
こうした番組を見ていると、ネットカフェ難民という問題は、もっと大きな、社会全体の問題の一つの表れに過ぎないという気がしてきます。この番組のシリーズが今後も続くのかどうかは分かりませんが、続くとしたら、次はどのような内容になるのでしょうか?
ただ、最後に一応書いておきたいのは、現在ネットカフェに寝泊まりしている人が、すべて悲惨な人たちであるとは限らない、ということです。
ネットカフェにやってくる人は、その目的も背景も多様なはずです。社会からはじき出され、やむなくネットカフェで暮らさざるを得なくなった人もいれば、ささやかな自由や解放感を求め、一種のセカンドハウスとして使うために、自発的にネットカフェに泊まりに来ている人もいるはずです。
ネットカフェに出入りする人を、ネットカフェ難民という一つのイメージだけでとらえると、そうした多様な姿は見えなくなってしまうでしょう。
日本で独自の進化を遂げたネットカフェという空間には、さまざまなポジティブな可能性も含まれているはずだと私は思います。ネットカフェで暮らす人々について考えるときには、貧困や格差といった問題だけでなく、そういう側面にも目を向けておく必要があるのではないでしょうか。
記事 「ネットカフェ難民」
記事 「ネットカフェ難民2」
記事 「ネットカフェ「難民」というけれど……」
記事 「ネットカフェ難民4」
記事 「ネットカフェ難民5」
この番組は、2007年1月に放送されて話題を呼び、「ネットカフェ難民」という言葉が広く知られるきっかけとなったドキュメンタリーの第3作目にあたります。
ただ、これまでの2作とは違って、今回はネットカフェ難民の映像はほとんど出てきません。
むしろ、ネットカフェ難民だけでなく、失業や借金、DVや家庭の問題などが原因で、社会での自分の居場所を失った人々に広く目を向け、彼らをサポートするNPO(自立生活サポートセンター・もやい)の活動を紹介する内容になっています。
ネットカフェ難民の問題の一つの側面として、彼らの人間関係が希薄で、周囲の人々からの充分なサポートを得られないこと、また彼ら自身にも、行政側の保護を受けたりするための具体的な知識がないために、いったん悲惨な状態に陥ると、そこから抜け出せなくなってしまいがちという事情があります。
それを解決する方法の一つとして、彼らと行政側を仲介するNPOの存在が重要になっているというのはよく分かります。
ただ、この番組のタイトルに「居場所はどこに?」とあるように、ネットカフェ難民に限らず、多くの人々が感じている社会での居場所のなさ、深い孤独や疎外感のようなものは、行政側の経済的なサポートを受けられたとしても、それで簡単に解決するものではないでしょう。
もちろん、寝るところもなく、食べるものさえないような生活にくらべれば、経済的なサポートを受けられるだけでもありがたいことなのですが、周囲の人間関係から一度切り離されてしまった彼らが、個人の力だけで、社会の中に再び居場所を見つけ出していくのは非常に難しいと思います。
番組の中でも、NPOのメンバーが、相談者と行政側をつなぐという役割だけに徹するのか、相談者ともっと踏み込んだ関わりをしていくべきなのかについて、ジレンマを抱えている様子が紹介されていました。
次から次へと相談にやってくる一人ひとりと深く関わり、物心両面のサポートを続けていくことはほとんど不可能だけれど、相談者はそうしたサポートこそを切実に必要としているはずで、誰かがそれをやらなければいけない……。
こうしたジレンマは、問題を専門家やボランティアに任せているだけでは解決できないと思うし、限られたNPOのスタッフのもとへ相談者が殺到すれば、スタッフもいつかは燃え尽きてしまいます。
こうした番組を見ていると、ネットカフェ難民という問題は、もっと大きな、社会全体の問題の一つの表れに過ぎないという気がしてきます。この番組のシリーズが今後も続くのかどうかは分かりませんが、続くとしたら、次はどのような内容になるのでしょうか?
ただ、最後に一応書いておきたいのは、現在ネットカフェに寝泊まりしている人が、すべて悲惨な人たちであるとは限らない、ということです。
ネットカフェにやってくる人は、その目的も背景も多様なはずです。社会からはじき出され、やむなくネットカフェで暮らさざるを得なくなった人もいれば、ささやかな自由や解放感を求め、一種のセカンドハウスとして使うために、自発的にネットカフェに泊まりに来ている人もいるはずです。
ネットカフェに出入りする人を、ネットカフェ難民という一つのイメージだけでとらえると、そうした多様な姿は見えなくなってしまうでしょう。
日本で独自の進化を遂げたネットカフェという空間には、さまざまなポジティブな可能性も含まれているはずだと私は思います。ネットカフェで暮らす人々について考えるときには、貧困や格差といった問題だけでなく、そういう側面にも目を向けておく必要があるのではないでしょうか。
記事 「ネットカフェ難民」
記事 「ネットカフェ難民2」
記事 「ネットカフェ「難民」というけれど……」
記事 「ネットカフェ難民4」
記事 「ネットカフェ難民5」
JUGEMテーマ:今日見たテレビの話
2008.05.24 Saturday
旅の名言 「毎日のかけがえのなさを……」
人は、すべては永遠に続くものだと、心のどこかで思っています。昨日に変わらない今日があって、今日に変わらない明日があって、そうやって毎日がずっと続いていくような気がしています。
でも本当は、永遠なんてこの世にありません。人も自分自身も、変わり続けています。親や恋人や友だちとの関係だって、時を経て、少しずつ形を変えていくように、すべてはちょっとずつちょっとずつ、その変化に気づかないぐらいの速さで、変わり続けています。毎日は当然のようにやって来るから、ほっといても朝が来てほっといても夜になるから、日常の重みを時に忘れてしまいそうになるけど、本当はいつだってかけがえのない時間が絶え間なく流れていて、そんな中で私たちは生きています。胸が痛いほど、切ない時を。噛みしめる間もないほど、生き急ぎながら。
私は、そのことを忘れずにいる人が好きです。実際に旅に出る出ないは関係なく、毎日のかけがえのなさを知っている人はみな、私と同じ「旅人」だと思っています。そして、私は精神が「旅人」の人としか、本当の友だちにはなれないような気さえしています。
『ガンジス河でバタフライ』 たかの てるこ 幻冬舎文庫 より
この本の紹介記事
たかのてるこ氏のインド旅行記、『ガンジス河でバタフライ』からの一節です。
ちょっと感傷的すぎる文章かもしれませんが、その言わんとするところには、共感できる旅人も多いのではないでしょうか。
人は旅に出るとなぜか、これまでの自分の人生について振り返ってみたり、世界のさまざまな問題のことなど、大きなテーマについて考えをめぐらしてみたくなるものです。
これは、それまでの日常生活から心が解放され、自由な視点から自分と周りの世界について考えられるようになるからだと思いますが、それと同時に、旅そのものがもたらす独特の時間感覚も、そういう内省を促しているような気がします。
飛行機や汽車に乗って移動していくあのスピード感や、車窓を流れていく風景は、まるで時間を早回しにしているような感覚を旅人に与えます。
また、旅の始まりの鮮烈さ、さまざまな旅の出来事やトラブル、見知らぬ人々との出会いと別れ、そしていつかやってくる旅の終わりという一連の旅の展開は、まるで人生をダイジェスト版で体験しているかのように感じられることもあります。
時間が、ふだんよりも早く流れていくようなこの独特の感覚は、旅人に新鮮で痛快な感覚を与えてくれるのですが、その一方で、旅人は、私たちの人生の時間には限りがあること、その限られた時間はいまこの瞬間にも刻々と過ぎ去り、それを止めることは誰にもできないのだという厳然たる事実を、改めて突きつけられるのではないでしょうか。
旅人は、旅を重ねれば重ねるほど、その実感を深めていくのだろうし、それはいつか、旅をしている最中だけでなく、旅から戻っても常につきまとう消しがたい無常の感覚となって、旅人の生き方に強く影響していくのかもしれません。
そしてそれは、たかの氏のように、「毎日のかけがえのなさ」にしっかりと目覚め、限りある人生の時間を大切に過ごす姿勢へとつながっていくものなのだと思います。
実際に旅に出る出ないは関係なく、毎日のかけがえのなさを知っている人はみな、私と同じ「旅人」だと思っています。
ただ、この「旅人」たちは、その日常生活において、他の人々と違った何か特別な行動をしているわけではありません。
「すべては永遠に続くものだ」という幻想の中で毎日を漫然と生きている人も、「毎日のかけがえのなさ」に目覚めている人も、一見しただけではその生活に大きな違いは見られないでしょう。
それでも、たかの氏のような「旅人」は、そこにある微妙な、しかし実は大きな違いのようなものを、しっかりと嗅ぎ分けてしまうのだと思います。
それは、旅に出る・出ないとか、旅に何回出たか、という表面的な違いではなく、生きる姿勢の違いというか、今この瞬間の大切さにどれだけ気がついているかということが、物事への対応の仕方に微妙な形で現れてくるということなのだと思います。
そして、その基本的な姿勢を共有している人同士なら、いちいち余計なことを説明しなくても、互いに信頼し、深く分かり合えるような気がするということなのだろうし、そういう人たちと一緒だからこそ、旅先の安宿で盛り上がる旅人同士のように、つかの間の時を味わい、心から楽しむことができるのではないでしょうか。
もっとも、何回か旅をしたくらいで、誰もがそういう境地に簡単にたどり着けるほど、この世界は甘くはないのでしょうが……。
JUGEMテーマ:旅行
2008.05.21 Wednesday
『日本を降りる若者たち』
評価 ★★★☆☆ 読むだけの価値はあります
「外こもり」という言葉を、最近あちこちで目にするようになりました。
派遣やアルバイトで集中的に金を貯めては日本を飛び出して、東南アジアなど物価の安い国でのんびりと生活し、金がなくなると日本に帰って再び金を稼ぐというサイクルを繰り返す人々を指す言葉です。
バックパッカーの間では昔から、何年も何年も旅を続けたあげく日本社会に復帰できなくなり、旅の資金を稼ぐためだけに日本に帰るという筋金入りの旅人がいることはよく知られていました。また、世界各地の安宿では、現地にすっかり腰を落ち着けてしまった「沈没」組の旅人を見ることもめずらしくありません。私自身も沈没系のバックパッカーなので、この辺りの事情についてはよく分かります。
しかし、最近はどうも様子が変わってきたようです。
旅行作家の下川裕治氏によると、そんな外こもり生活を続けている日本人が、現在タイだけで数千人、アジア全体では1万人くらいいるというのです。
かつての筋金入りの万年放浪者や沈没系バックパッカーだけでなく、フリーターや元サラリーマン、心身の病に苦しむ人、少しでも生活費を安くあげようとする年金暮らしの老人まで、さまざまな事情を抱えた人たちがバンコクに流れてきて、そのまま長逗留するようになったのです。
この本によると、バンコクで外こもりが目立つようになったのは1996年前後だといいます。その頃にタイでのビザなし滞在が30日まで可能になったことや、カオサン通りが世界有数のゲストハウス街として発展したことも影響しているようです。
今では、その多くがカオサン通りの安宿を出て、さらに割安な月払いのアパートに入居するようになったといいます。中には外こもりという言葉どおりにアパートの部屋に引きこもってしまい、ほとんど外に出てこない生活をしている人もいるようです。
下川氏はバンコクの安宿やアパートに暮らす外こもりの日本人にインタビューし、彼らがそうした生活に至った事情や、そのつつましい暮らしぶりを、具体的な金額も交えて淡々と描いています。
それにしても不思議なのは、人数的にはたぶん同じくらいだと思われる国内の「ネットカフェ難民」が、格差社会の象徴として話題を呼んでいるのにくらべて、ある意味では似たような生活環境にいる海外の外こもりの存在は、今のところあまり注目されていないということです。
ネットカフェ難民の場合は、貧しくて、悲惨で、かわいそう、というステレオタイプなイメージで理解しやすいのに対して、外こもりの方は一見、南の国でのんびり楽しそうに暮らしているように見えなくもないので、汗水たらして働いている大方の日本人の共感を得られないのかもしれません。
あるいは、何だかんだ言っても、外こもりの多くは海外で暮らす費用を自分で稼いでいるのだし、日本とアジアの往復生活にしても、一つのライフスタイルとして確立されているとも言えるわけで、それに対して他人がとやかく言ったり同情したりする余地がない、ということなのかもしれません。
しかし、この本に登場する外こもりの若者、あるいは経済的に追い詰められて海外まで流れてきた老人たちの事例を読んでいると、何とも切ない気持ちになってきます。
彼らの姿を通して浮かび上がってくるのは、閉塞し、不寛容な日本社会で生き続けることの辛さであり、『日本を降りる若者たち』というこの本のタイトルが示しているように、一部の人々は、そんな日本社会から、意識的・無意識的に距離を置きはじめているように見えるのです。
もちろん、外こもり一人ひとりには、そうなるだけの個人的な事情があるし、下川氏も指摘しているように、彼らの中に人生に対する甘さがあることも確かでしょう。
しかし、単に彼らを社会への不適応者とみなし、すべてを個人の問題として片づけてしまうのにも無理があるように思います。私にはやはり、彼らを海外生活へと押し出していく社会の構造のようなものがあると思うのです。
外こもりは日本人に限った現象ではなく、バンコクや世界各地の安宿街には、同じような生活を送っている欧米人もたくさんいます。
欧米や日本といった「先進」諸国は、経済成長という社会目標に適合できる人間であることを全ての国民に要求します。そして、「規格外」の人間や、経済的な価値を効率的に生み出せない人間を排除していくような社会のしくみがあります。その動きは、グローバリゼーションの進行によってさらに加速しつつあるように見えます。
北側と同じような経済成長を目指す「南の国」であるタイにとっても、金離れのよくない外こもりの人々は「招かれざる客」なのかもしれませんが、少なくとも現在のタイとタイ人、そして多くの「南の国」には、そんな人々でも受け入れてしまう寛容さというか、アバウトさが残っているようです。
しかし、世界は刻々と変わりつつあります。何年か先にはタイもまた、外こもりにとって安住の地ではなくなっていくのかもしれません。
それでも、彼らがかつて日本を出てバンコクで暮らすことを選んだように、そのときになれば、彼らはまた暮らしやすい土地を求めて、さらに別の街へと移り住んでいくのでしょう。
外こもりと呼ばれる人々の生き方は、一見すると怠惰なだけに見えますが、実際にはその下に、タテマエや世間の常識よりも自分の実感を大事にする姿勢や、決して多くはない人生の選択肢の中で、少しでも自分にとってより良い生活環境を選び取ろうとするしたたかさ、そのために国境や言語といった障壁を簡単に乗り越えていく自由さがあるように思います。
自分以外に頼るものもなく、根無し草のように生きる彼らの姿には、切なさを感じるのも確かですが、一方でどこか強く惹かれるところもあるのは、彼らの生き方が、そんなしたたかさや自由な感覚を発散させているからなのかもしれません。
もっとも、彼らが心の底から幸せな人生を満喫しているとは思えないし、バンコクのアパートに閉じこもり、文字どおりの外こもり状態になっているケースもあるわけで、それらをすべて肯定的にとらえることはできないのですが……。
本の評価基準
以下の基準を目安に、私の主観で判断しています。
★★★★★ 座右の書として、何度も読み返したい本です
★★★★☆ 一度は読んでおきたい、素晴らしい本です
★★★☆☆ 読むだけの価値はあります
★★☆☆☆ よかったら暇な時に読んでみてください
★☆☆☆☆ 人によっては得るところがあるかも?
☆☆☆☆☆ ここでは紹介しないことにします
「外こもり」という言葉を、最近あちこちで目にするようになりました。
派遣やアルバイトで集中的に金を貯めては日本を飛び出して、東南アジアなど物価の安い国でのんびりと生活し、金がなくなると日本に帰って再び金を稼ぐというサイクルを繰り返す人々を指す言葉です。
バックパッカーの間では昔から、何年も何年も旅を続けたあげく日本社会に復帰できなくなり、旅の資金を稼ぐためだけに日本に帰るという筋金入りの旅人がいることはよく知られていました。また、世界各地の安宿では、現地にすっかり腰を落ち着けてしまった「沈没」組の旅人を見ることもめずらしくありません。私自身も沈没系のバックパッカーなので、この辺りの事情についてはよく分かります。
しかし、最近はどうも様子が変わってきたようです。
旅行作家の下川裕治氏によると、そんな外こもり生活を続けている日本人が、現在タイだけで数千人、アジア全体では1万人くらいいるというのです。
かつての筋金入りの万年放浪者や沈没系バックパッカーだけでなく、フリーターや元サラリーマン、心身の病に苦しむ人、少しでも生活費を安くあげようとする年金暮らしの老人まで、さまざまな事情を抱えた人たちがバンコクに流れてきて、そのまま長逗留するようになったのです。
この本によると、バンコクで外こもりが目立つようになったのは1996年前後だといいます。その頃にタイでのビザなし滞在が30日まで可能になったことや、カオサン通りが世界有数のゲストハウス街として発展したことも影響しているようです。
今では、その多くがカオサン通りの安宿を出て、さらに割安な月払いのアパートに入居するようになったといいます。中には外こもりという言葉どおりにアパートの部屋に引きこもってしまい、ほとんど外に出てこない生活をしている人もいるようです。
下川氏はバンコクの安宿やアパートに暮らす外こもりの日本人にインタビューし、彼らがそうした生活に至った事情や、そのつつましい暮らしぶりを、具体的な金額も交えて淡々と描いています。
それにしても不思議なのは、人数的にはたぶん同じくらいだと思われる国内の「ネットカフェ難民」が、格差社会の象徴として話題を呼んでいるのにくらべて、ある意味では似たような生活環境にいる海外の外こもりの存在は、今のところあまり注目されていないということです。
ネットカフェ難民の場合は、貧しくて、悲惨で、かわいそう、というステレオタイプなイメージで理解しやすいのに対して、外こもりの方は一見、南の国でのんびり楽しそうに暮らしているように見えなくもないので、汗水たらして働いている大方の日本人の共感を得られないのかもしれません。
あるいは、何だかんだ言っても、外こもりの多くは海外で暮らす費用を自分で稼いでいるのだし、日本とアジアの往復生活にしても、一つのライフスタイルとして確立されているとも言えるわけで、それに対して他人がとやかく言ったり同情したりする余地がない、ということなのかもしれません。
しかし、この本に登場する外こもりの若者、あるいは経済的に追い詰められて海外まで流れてきた老人たちの事例を読んでいると、何とも切ない気持ちになってきます。
彼らの姿を通して浮かび上がってくるのは、閉塞し、不寛容な日本社会で生き続けることの辛さであり、『日本を降りる若者たち』というこの本のタイトルが示しているように、一部の人々は、そんな日本社会から、意識的・無意識的に距離を置きはじめているように見えるのです。
もちろん、外こもり一人ひとりには、そうなるだけの個人的な事情があるし、下川氏も指摘しているように、彼らの中に人生に対する甘さがあることも確かでしょう。
しかし、単に彼らを社会への不適応者とみなし、すべてを個人の問題として片づけてしまうのにも無理があるように思います。私にはやはり、彼らを海外生活へと押し出していく社会の構造のようなものがあると思うのです。
外こもりは日本人に限った現象ではなく、バンコクや世界各地の安宿街には、同じような生活を送っている欧米人もたくさんいます。
欧米や日本といった「先進」諸国は、経済成長という社会目標に適合できる人間であることを全ての国民に要求します。そして、「規格外」の人間や、経済的な価値を効率的に生み出せない人間を排除していくような社会のしくみがあります。その動きは、グローバリゼーションの進行によってさらに加速しつつあるように見えます。
南北格差は、地球規模の経済問題になって久しいが、いま、北に広まりつつある格差社会についていけない人々が、南の国々に救われていくという構図が生まれている気がする。厳しく不寛容な色合いを強める北側の社会のなかで歯をくいしばって生きるぐらいなら、南の国で節約しながら暮らしたほうが楽じゃないか……。北側社会で恵まれない日々をすごす人々は、南をそんなふうにもとらえているのだ。
北側と同じような経済成長を目指す「南の国」であるタイにとっても、金離れのよくない外こもりの人々は「招かれざる客」なのかもしれませんが、少なくとも現在のタイとタイ人、そして多くの「南の国」には、そんな人々でも受け入れてしまう寛容さというか、アバウトさが残っているようです。
しかし、世界は刻々と変わりつつあります。何年か先にはタイもまた、外こもりにとって安住の地ではなくなっていくのかもしれません。
それでも、彼らがかつて日本を出てバンコクで暮らすことを選んだように、そのときになれば、彼らはまた暮らしやすい土地を求めて、さらに別の街へと移り住んでいくのでしょう。
外こもりと呼ばれる人々の生き方は、一見すると怠惰なだけに見えますが、実際にはその下に、タテマエや世間の常識よりも自分の実感を大事にする姿勢や、決して多くはない人生の選択肢の中で、少しでも自分にとってより良い生活環境を選び取ろうとするしたたかさ、そのために国境や言語といった障壁を簡単に乗り越えていく自由さがあるように思います。
自分以外に頼るものもなく、根無し草のように生きる彼らの姿には、切なさを感じるのも確かですが、一方でどこか強く惹かれるところもあるのは、彼らの生き方が、そんなしたたかさや自由な感覚を発散させているからなのかもしれません。
もっとも、彼らが心の底から幸せな人生を満喫しているとは思えないし、バンコクのアパートに閉じこもり、文字どおりの外こもり状態になっているケースもあるわけで、それらをすべて肯定的にとらえることはできないのですが……。
本の評価基準
以下の基準を目安に、私の主観で判断しています。
★★★★★ 座右の書として、何度も読み返したい本です
★★★★☆ 一度は読んでおきたい、素晴らしい本です
★★★☆☆ 読むだけの価値はあります
★★☆☆☆ よかったら暇な時に読んでみてください
★☆☆☆☆ 人によっては得るところがあるかも?
☆☆☆☆☆ ここでは紹介しないことにします
JUGEMテーマ:読書
2008.05.18 Sunday
旅の名言 「放浪の危険は……」
放浪の「危険」は、目を見開いていることにある――あるがままの世界を発見することに。
エド・バーリン
『旅に出ろ! ― ヴァガボンディング・ガイド 』 ロルフ・ポッツ ヴィレッジブックス より
この本の紹介記事
この言葉は、放浪の旅へのガイドブック『旅に出ろ!』からの孫引きです。
実にカッコイイ表現です。
私も一度は誰かに向かってこんなセリフを吐いてみたいものですが、グータラな「沈没系」バックパッカーの私には似合わなさすぎるようです。
それはともかく、エド・バーリン氏に言わせれば、放浪の旅の本当の危険とは、泥棒や交通事故に遭ったり、病気になったりという、いわゆる旅のトラブルに巻き込まれることにあるというより、むしろ、放浪の旅を通して、この世界の本当の姿に気がついてしまうことなのです。
それは、見知らぬ国々に足を運び、そこに住む人々の日常を実際に体験することによって、テレビや書物から漠然と抱いていたイメージをはるかに超えるリアリティに触れることであり、また、自分の住んでいる世界の外に出てみることで、住み慣れてきた社会を、第三者的な視点から冷静に見直してみることでもあります。
もちろんそれは、旅人に新鮮な驚きや解放感をもたらしてくれるでしょうが、同時に、これまで当たり前のものとして受け入れてきた世界の見方や、自分たちの社会のあり方についてのステレオタイプが、ガラガラと音を立てて崩れていくことにもつながります。
その体験がいいことなのか、悪いことなのかは、人によって受けとめ方が大きく違うはずです。
放浪の旅に出ることがなければ、慣れ親しんだ身の周りの小さな世界で、ステレオタイプな分かりやすさの中にずっと安住していられるかもしれません。しかし、いったんその外に出て、「あるがままの世界」に目覚めてしまうと、もう二度と昔の生活に戻ることはできないのです……。
JUGEMテーマ:旅行
2008.05.15 Thursday
『ネパール王制解体 ― 国王と民衆の確執が生んだマオイスト』
評価 ★★☆☆☆ よかったら暇な時に読んでみてください
国王夫妻を含む王族10人が犠牲となり、世界を震撼させた2001年のナラヤンヒティ王宮事件、マオイストの武装闘争による治安の悪化、多数のカトマンズ市民が街頭に繰り出してギャネンドラ国王の絶対王政を終わらせた2006年の「四月革命」……。ネパールではここ数年、政治的な激動が続いてきました。
この本では、2006年11月のネパール政府とマオイストとの平和合意成立までのネパールの政治状況の推移が、王族側とマオイスト側、それぞれの動きに焦点を当ててまとめられています。
著者の小倉清子氏はネパール在住のジャーナリストで、「マオイストの首都」である、西ネパールのラプティ県ロルパ郡にあるタバン村など、マオイストの拠点に何度も足を運び、幹部にも直接インタビューしたりと、精力的な取材を続けてきました。
ネパールの山岳地帯で昔ながらの生活を送っている人々が、いまどんな状況におかれているのか、そしてマオイストと呼ばれる人々がどんなことを考え、何を目指そうとしているのかは、新聞の報道からだけではなかなか伝わってきません。その意味では、この本は現在のネパールについて理解するうえでの貴重な資料だと思います。
ただ、この本では、量的にも内容的にもややマオイスト側に傾いた記述になっているように感じます。
また、隣のインドと中国という大国の存在、そして冷戦後の世界の動きが、ネパールの内政にも巨大な影響を与えていることは確かですが、ここ数年のネパールの政治状況に、それらがどのような役割を演じていたのか、南アジア全体の動きを鳥瞰するような視点からの解説をもっと読みたかったと思いました。
今年4月の制憲議会選挙でマオイストは第一党になり、現在、王制廃止は確実な状況になっていますが、今後、マオイストや他の政党が、新憲法制定を含めた数多くの難題をうまく乗り越えていけるのかは、予断を許さない状況のようです。
日本人にとっては、旅人として、あるいはボランティアなどの援助活動を通じてかかわりをもたない限り、ネパールという国に関心が向かうことはなかなかないのかもしれませんが、縁あってネパールに興味をもたれた方は、こうした本にも目を通してみてはいかがでしょうか。
本の評価基準
以下の基準を目安に、私の主観で判断しています。
★★★★★ 座右の書として、何度も読み返したい本です
★★★★☆ 一度は読んでおきたい、素晴らしい本です
★★★☆☆ 読むだけの価値はあります
★★☆☆☆ よかったら暇な時に読んでみてください
★☆☆☆☆ 人によっては得るところがあるかも?
☆☆☆☆☆ ここでは紹介しないことにします
国王夫妻を含む王族10人が犠牲となり、世界を震撼させた2001年のナラヤンヒティ王宮事件、マオイストの武装闘争による治安の悪化、多数のカトマンズ市民が街頭に繰り出してギャネンドラ国王の絶対王政を終わらせた2006年の「四月革命」……。ネパールではここ数年、政治的な激動が続いてきました。
この本では、2006年11月のネパール政府とマオイストとの平和合意成立までのネパールの政治状況の推移が、王族側とマオイスト側、それぞれの動きに焦点を当ててまとめられています。
著者の小倉清子氏はネパール在住のジャーナリストで、「マオイストの首都」である、西ネパールのラプティ県ロルパ郡にあるタバン村など、マオイストの拠点に何度も足を運び、幹部にも直接インタビューしたりと、精力的な取材を続けてきました。
ネパールの、特に山岳地帯の農村に住む人たちは、長いあいだ、二つの武装勢力のあいだにはさまれて苦しんできた。それは、国王が最高司令官を務める王室ネパール軍と、ネパール共産党毛沢東主義派ことマオイストが抱える人民解放軍である。国王とマオイスト。世界のほとんどの国ではすでに過去の産物とみなされている二つの勢力が、ネパールでは二一世紀に入って国家の土台を揺るがす存在にまで力をもった。一見して、二極の両端にあるような二つの勢力が、この時代にヒマラヤの小さな王国でいかにして同時に力を獲得したのか。その背景には、一九九〇年に複数政党制民主主義の復活というかたちで実現した政治的近代化の失敗と、民主化後、経済的近代化がうまくいかずに、都市部と農村部に住む人たちのあいだで経済格差、生活格差がますます拡大する結果になったことがある。世界最貧国の一つに数えられる国に、世界的にも裕福な国王がいるという矛盾。こうした事実を見ただけでも、この国がいかに経済的にバランスのとれていない国であるかがわかる。
ネパールの山岳地帯で昔ながらの生活を送っている人々が、いまどんな状況におかれているのか、そしてマオイストと呼ばれる人々がどんなことを考え、何を目指そうとしているのかは、新聞の報道からだけではなかなか伝わってきません。その意味では、この本は現在のネパールについて理解するうえでの貴重な資料だと思います。
ただ、この本では、量的にも内容的にもややマオイスト側に傾いた記述になっているように感じます。
また、隣のインドと中国という大国の存在、そして冷戦後の世界の動きが、ネパールの内政にも巨大な影響を与えていることは確かですが、ここ数年のネパールの政治状況に、それらがどのような役割を演じていたのか、南アジア全体の動きを鳥瞰するような視点からの解説をもっと読みたかったと思いました。
今年4月の制憲議会選挙でマオイストは第一党になり、現在、王制廃止は確実な状況になっていますが、今後、マオイストや他の政党が、新憲法制定を含めた数多くの難題をうまく乗り越えていけるのかは、予断を許さない状況のようです。
日本人にとっては、旅人として、あるいはボランティアなどの援助活動を通じてかかわりをもたない限り、ネパールという国に関心が向かうことはなかなかないのかもしれませんが、縁あってネパールに興味をもたれた方は、こうした本にも目を通してみてはいかがでしょうか。
本の評価基準
以下の基準を目安に、私の主観で判断しています。
★★★★★ 座右の書として、何度も読み返したい本です
★★★★☆ 一度は読んでおきたい、素晴らしい本です
★★★☆☆ 読むだけの価値はあります
★★☆☆☆ よかったら暇な時に読んでみてください
★☆☆☆☆ 人によっては得るところがあるかも?
☆☆☆☆☆ ここでは紹介しないことにします
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2008.05.13 Tuesday
四川省の大地震
5月2日から3日にかけてミャンマーを襲ったサイクロンによる被害が日に日に拡大し、世界中の目が釘づけになっているとき、今度は中国で大地震が発生しました。
5月12日に四川省で起きたM7.8の大地震は、一夜明けてさらに被害が拡大し、四川省だけでも死者が1万人を超えると言われています。
ミャンマー、そして中国で被災した方々には、心よりお見舞いを申し上げますとともに、一日も早い復興をお祈りいたします。
大地震の震源地周辺は、チベット人が多く居住している地域です。3月に起きたチベット騒乱の際には、大規模な抗議行動やそれに対する弾圧があったと言われています。
しかし、このような大災害にあたっては、こうした政治的な対立は一旦棚上げにして、漢族やチベット族という分け隔てをすることなく、すべての被災者に同じ救援の手を差し伸べてほしいと思います。
チベット問題のために、今回も震源地域に外国人記者が入り、自由な取材をすることは許されないだろうし、現地の状況を私たちが知ることは難しいでしょうが、苦しんでいる被災者が、民族による差別的な扱いを受けることなく、全員が救済されることを心から祈ります。
5月12日に四川省で起きたM7.8の大地震は、一夜明けてさらに被害が拡大し、四川省だけでも死者が1万人を超えると言われています。
ミャンマー、そして中国で被災した方々には、心よりお見舞いを申し上げますとともに、一日も早い復興をお祈りいたします。
大地震の震源地周辺は、チベット人が多く居住している地域です。3月に起きたチベット騒乱の際には、大規模な抗議行動やそれに対する弾圧があったと言われています。
しかし、このような大災害にあたっては、こうした政治的な対立は一旦棚上げにして、漢族やチベット族という分け隔てをすることなく、すべての被災者に同じ救援の手を差し伸べてほしいと思います。
チベット問題のために、今回も震源地域に外国人記者が入り、自由な取材をすることは許されないだろうし、現地の状況を私たちが知ることは難しいでしょうが、苦しんでいる被災者が、民族による差別的な扱いを受けることなく、全員が救済されることを心から祈ります。
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2008.05.10 Saturday
旅の名言 「それでもこの国では……」
宝石店の前に座り、刻々と約束の時刻がすぎていくのがわかりながら、ただぼんやりと雨を眺めている感覚は、堕落の感覚に近いものがある。自分がダメになっていく意識とでもいおうか。こういうことをしていたら、きっと僕は仕事がなくなり、やがては食うにもこと欠く人間になっていくといった感覚である。僕のなかの人格の底がスコーンと抜け、どこまでも堕ちていくような気になるのである。そんなある種の危うさのなかに身をおきながら、ふと、それでもこの国では生きていけることに気づくのである。二十年近くの間、僕はそんなアジアの哲学を習い、そして心の均衡を保ってきたのだ。人に誇れることなどなにもない危うい人生だったが、僕はこんなアジアに出会い、なんとかここまで生き延びることができた気もするのだ。
『アジアの弟子』 下川 裕治 幻冬舎文庫 より
この本の紹介記事
旅行作家の下川裕治氏の半生記、『アジアの弟子』からの一節です。
下川氏はバンコク滞在中のある日、仕事で人に会うために相手のオフィスまでバスで移動中、激しいスコールと渋滞のために足止めを食ってしまいました。
バンコクにしばらく滞在していた人ならご存知でしょうが、バンコクの悪名高い渋滞に巻き込まれると、クルマが何時間も動かなくなることはザラです。それに加えて激しいスコールとくれば、たとえ傘をもっていてもほとんど役には立たないし、道路は一面の水浸し。バスから降りてバイクタクシーを拾ったり、歩いて移動することもままならなくなるのです。
それでも、勤勉な日本人ビジネスマンなら、ここは仕事を優先し、どしゃ降りの中を走ってでも待ち合わせの場所に向かうところかもしれません。
下川氏は、バスは降りたものの、商店の軒先でタイ人たちと並んで、降りつづく雨を眺めているだけでした。急げばまだ間に合うと知りつつも、結局約束をすっぽかし、そのままぼんやりと雨宿りを続けたのです。
こんなことでは「自分がダメになっていく」と重々承知しつつ、「どこまでも堕ちていくような」感覚に身をゆだねる下川氏。しかも彼は、休暇中の旅先でつかの間の解放感を楽しんでいるのではなく、生活の糧がかかった仕事中だったのです。
しかし、タイにはまだ、そんな行為が許される余地があるのかもしれません。タイだけでなく、アジアのいわゆる発展途上国といわれている国々では、日本とは違うモードで物事が進んでいきます。
政変、天災、インフラの不備などで、物事が予定通りにいかないことは日常茶飯事だし、そこで生活している人たちも、物事に100%の完璧さなど期待していません。人間同士の約束事や行動も、良く言えば融通無碍、悪く言えば適当でいいかげんなところがあります。
しかしそれは、絶えず勤勉であることを期待され、約束は決して破ってはならず、個人の都合を優先したり、ちょっとしたミスをすることさえ許されないような息苦しい国からきた人間の目には、時に魅力的に映ることもあるのではないでしょうか。
日本人のモラルに照らせば「堕落」以外の何物でもないような行動に走っても、アジアの国々にはまだ、そんな自分でも受け入れてくれる寛容さが残されているような気がして救われるのです。
「それでもこの国では生きていける」……。
その言葉には、どんなことがあっても、世界のどこかには、まだ自分の居場所が残されているはずだという、ささやかではあるけれど、確かな希望が感じられます。
そしてそこには、アジアの魅力にとり憑かれ、日本的な生き方とアジア的な生き方(本当は日本もアジアなのですが)の間で引き裂かれながら、綱渡りのような人生を送ってきた、旅人としての深い実感がこめられているように思います。
もっとも、タイを始めとするアジアの国々も、今、欧米や日本のような経済成長を求めて急激に変化しつつあります。社会のあちこちにビジネスライクな人間関係が浸透し、インフラが整備され、便利で快適で、しかしどこか息苦しい社会になりつつあります。
かつて日本を飛び出した下川氏には、貧しくとも自然体で生きていられるアジアという救いがありました。今、日常生活に息苦しさを感じている日本人にとって、そして同じような息苦しさを感じはじめているかもしれないバンコクの人々にとって、ささやかな救いを感じることができる場所はどこに残されているのでしょうか……。
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2008.05.07 Wednesday
『ネットカフェ難民 ― ドキュメント「最底辺生活」 』
評価 ★★☆☆☆ よかったら暇な時に読んでみてください
昨年の1月に「NNNドキュメント'07 ネットカフェ難民 漂流する貧困者たち」というTV番組で取り上げられて以来、ネットカフェ難民の存在は広く世に知られるようになりました。
記事 「ネットカフェ難民」
今では、格差社会を語る上で欠かせない、いわば「象徴」のような存在になっていますが、この本は、ネットカフェ難民を経済的な弱者としてクローズアップするTVなどの報道とは少し違う観点から、その生活のディテールを描いています。
著者の川崎昌平氏は、数年の「ヒキコモリ兼ニート生活」を経て、2007年にネットカフェで寝泊まりする生活を始めました。ネットカフェ難民という言葉が流行していた頃のことです。
この本は、彼が実家からネットカフェに居を移してから1カ月の生活を、日記形式で綴ったものです。ネットカフェ難民がどんな生活を送っているのか、あまりよく知らない人にとっては、それが具体的にどういうものなのかを知る上で、この本は一つの参考になるでしょう。
ただ、この日記はあくまでも、「考える難民」である川崎氏の個人的な考えや体験を綴ったもので、それがネットカフェ難民全ての内面や生活のあり方を代表するものではないでしょう。
考えてみれば当たり前のことですが、ネットカフェ難民と一口に言っても、彼らは年齢も仕事も、そうした生活を始めた事情もさまざまです。ネットカフェに寝泊まりしている点が同じなだけで、皆が同じことを考え、同じ生活をしているわけではありません。
また、本のサブタイトルには「最底辺生活」のドキュメントとありますが、いわゆる「社会派ジャーナリストが格差社会を告発する怒りのルポ!」みたいな内容を期待すると裏切られると思います。
そもそも、著者の川崎氏は、経済的な事情でネットカフェ難民に「転落」したというより、一つの生き方として、自らの意志でネットカフェ暮らしを選んだようなところがあります。自らの体験をこうして執筆し、新書で出版するという主体的な行動自体も、TVなどのマスコミが描く「かわいそうな」ネットカフェ難民のイメージからはズレています。
それと、彼自身の複雑な内面を反映しているかのようなクセのある文章も、人によって好き嫌いが分かれるかもしれません。
ただ、私が面白いと思ったのは、彼がネットカフェ難民という生き方に、何か、新しい時代の予感のようなものを感じているところです。
ネットカフェ難民を、格差社会の被害者として取り上げるマスコミは(もちろんそれは重要な視点ではあるものの)、ネットカフェに暮らす人々がその生活スタイルを通じて表現している他の側面を、うまくすくい取れていないのかもしれません。
ネットカフェ難民は、その経済的地位においても、社会的地位においても、社会の周縁に位置していますが、彼らを受け入れる場所であるネットカフェも、つい最近になって都市に出現し、その中心部に急速に広がりつつある見慣れない存在です。ネットカフェも、そこに暮らす人たちも、今はまだ、私たちの社会のメインストリームから遠く離れた、奇妙で怪しげな存在に過ぎません。
しかし彼らは、近代社会の極限のようなその環境の中にひっそりと棲息しながら、私たちの社会にとって何かまったく新しいものを、自らそれと気づかずに、すでに表現し始めているのではないでしょうか。
もっともそれは、川崎氏も言うように、まだはっきりとつかみようのない「漠とした予感」に過ぎません。それが何であるのか、私たちにとって良いものなのか、それとも悪いものなのか、「少しは具体的な話をしてみろよ」と言われたら、私もお手上げなのですが……。
記事 「ネットカフェ「難民」というけれど……」
本の評価基準
以下の基準を目安に、私の主観で判断しています。
★★★★★ 座右の書として、何度も読み返したい本です
★★★★☆ 一度は読んでおきたい、素晴らしい本です
★★★☆☆ 読むだけの価値はあります
★★☆☆☆ よかったら暇な時に読んでみてください
★☆☆☆☆ 人によっては得るところがあるかも?
☆☆☆☆☆ ここでは紹介しないことにします
昨年の1月に「NNNドキュメント'07 ネットカフェ難民 漂流する貧困者たち」というTV番組で取り上げられて以来、ネットカフェ難民の存在は広く世に知られるようになりました。
記事 「ネットカフェ難民」
今では、格差社会を語る上で欠かせない、いわば「象徴」のような存在になっていますが、この本は、ネットカフェ難民を経済的な弱者としてクローズアップするTVなどの報道とは少し違う観点から、その生活のディテールを描いています。
著者の川崎昌平氏は、数年の「ヒキコモリ兼ニート生活」を経て、2007年にネットカフェで寝泊まりする生活を始めました。ネットカフェ難民という言葉が流行していた頃のことです。
この本は、彼が実家からネットカフェに居を移してから1カ月の生活を、日記形式で綴ったものです。ネットカフェ難民がどんな生活を送っているのか、あまりよく知らない人にとっては、それが具体的にどういうものなのかを知る上で、この本は一つの参考になるでしょう。
ただ、この日記はあくまでも、「考える難民」である川崎氏の個人的な考えや体験を綴ったもので、それがネットカフェ難民全ての内面や生活のあり方を代表するものではないでしょう。
考えてみれば当たり前のことですが、ネットカフェ難民と一口に言っても、彼らは年齢も仕事も、そうした生活を始めた事情もさまざまです。ネットカフェに寝泊まりしている点が同じなだけで、皆が同じことを考え、同じ生活をしているわけではありません。
また、本のサブタイトルには「最底辺生活」のドキュメントとありますが、いわゆる「社会派ジャーナリストが格差社会を告発する怒りのルポ!」みたいな内容を期待すると裏切られると思います。
そもそも、著者の川崎氏は、経済的な事情でネットカフェ難民に「転落」したというより、一つの生き方として、自らの意志でネットカフェ暮らしを選んだようなところがあります。自らの体験をこうして執筆し、新書で出版するという主体的な行動自体も、TVなどのマスコミが描く「かわいそうな」ネットカフェ難民のイメージからはズレています。
それと、彼自身の複雑な内面を反映しているかのようなクセのある文章も、人によって好き嫌いが分かれるかもしれません。
ただ、私が面白いと思ったのは、彼がネットカフェ難民という生き方に、何か、新しい時代の予感のようなものを感じているところです。
ネットカフェ難民は、日雇い労働のために生きているわけではない。少なくとも僕は、ネットカフェ難民をやりながら「思考」している。就労問題や社会経済の理論を振りかざしてネットカフェ難民を語るのはいかにも実態に適うように見えるし、また事実意味のある切り口なのだろうが、それですべてを見通せると思ったら間違いである。人間はお金の計算だけをする動物ではない。ネットカフェ難民を考えるキーワードは、むしろもっと形而上的な部分にあるような予感がする。簡単に言えば、合理主義の終焉、あるいは新しい合理哲学の実践の兆候、気配、漠とした予感が、ネットカフェ難民の勃興と展開とに顕在化しつつあるのではないか。 (中略) いやいや、誇大妄想はわかったから少しは具体的な話をしてみろよ、と言われるとお手上げなのだが。
ネットカフェ難民を、格差社会の被害者として取り上げるマスコミは(もちろんそれは重要な視点ではあるものの)、ネットカフェに暮らす人々がその生活スタイルを通じて表現している他の側面を、うまくすくい取れていないのかもしれません。
ネットカフェ難民は、その経済的地位においても、社会的地位においても、社会の周縁に位置していますが、彼らを受け入れる場所であるネットカフェも、つい最近になって都市に出現し、その中心部に急速に広がりつつある見慣れない存在です。ネットカフェも、そこに暮らす人たちも、今はまだ、私たちの社会のメインストリームから遠く離れた、奇妙で怪しげな存在に過ぎません。
しかし彼らは、近代社会の極限のようなその環境の中にひっそりと棲息しながら、私たちの社会にとって何かまったく新しいものを、自らそれと気づかずに、すでに表現し始めているのではないでしょうか。
もっともそれは、川崎氏も言うように、まだはっきりとつかみようのない「漠とした予感」に過ぎません。それが何であるのか、私たちにとって良いものなのか、それとも悪いものなのか、「少しは具体的な話をしてみろよ」と言われたら、私もお手上げなのですが……。
記事 「ネットカフェ「難民」というけれど……」
本の評価基準
以下の基準を目安に、私の主観で判断しています。
★★★★★ 座右の書として、何度も読み返したい本です
★★★★☆ 一度は読んでおきたい、素晴らしい本です
★★★☆☆ 読むだけの価値はあります
★★☆☆☆ よかったら暇な時に読んでみてください
★☆☆☆☆ 人によっては得るところがあるかも?
☆☆☆☆☆ ここでは紹介しないことにします
JUGEMテーマ:読書
2008.05.04 Sunday
若者の海外旅行離れ?
ネット上をウロウロしていて、こんな記事を見つけました。
今の若い人は、海外への旅をしなくなりつつあるのでしょうか?
上の記事では、1990年代後半から非正規雇用の若者が増加したことが、その原因の一つとして挙げられています。
ネットでは、上の記事の下に次のようなコメントがつけれられていて、かなりの共感を呼んでいました。
しかし、海外といってもいろいろあるわけで、例えば発展途上国への自由旅行、いわゆるバックパッカー・スタイルの旅なら、格安で長期間の旅を楽しむこともできます。
「海外に出たい!」という強い思いさえあれば、工夫次第で経済的な問題はクリアーできるし、かつて、30年くらい前の若者は、高い航空運賃や情報の少なさをものともせず、果敢に海外に出かけていきました。今でも、かなりの少数派かもしれませんが、海外の辺境を目指す若者はいるはずです。
もっとも、そういう旅人はお金を落とさないという意味で、旅行業界にとってあまりいいお客さんではありません。上の記事で心配されているのは、バックパッカーが減ったかどうかということではなく、パッケージツアー等で海外に出かけ、旅行産業に貢献する若者が激減しているということなのでしょう。
しかし、考えてみれば、海外に行くというのは、私たちが生きていく上での義務でも何でもないわけで、一時期の、「みんなが行くから私も行く」的なブームが冷めた結果、海外旅行というのが数あるレジャーの選択肢の一つに過ぎなくなったということなのではないでしょうか。
若い人にとって、海外旅行が輝いて見えた時代は、もう終わったのかもしれません。
それに、海外についての情報があまりにも多くなりました。観光名所もTVやインターネットで見慣れてしまっています。せっかく苦労して現地まで行ったのに、既視感を感じて、新鮮な驚きを味わえなかったという人も多いのではないでしょうか。
そしてもう一つ、海外旅行の定番であるパックツアーのスタイルについても、多くの人に飽きられつつあるのかもしれません。
パッケージツアーでは、面倒な手配はすべて誰かにやってもらえるし、何も考えなくても観光スポットまで連れて行ってもらえるし、食事や宿の心配もなく、そこそこ快適な旅を楽しめるなど、さまざまなメリットがあります。
しかし一方で、団体旅行という性質上、客個人の好みよりも、全員の最大公約数的な満足が追求されがちです。それは、旅の入門編としてそれなりの体験を約束してくれるでしょうが、それぞれ違った嗜好をもつ参加者の全員を、心から満足させることはできないでしょう。
また、旅人の利便性や快適さを向上させるための観光開発が世界各地で行われ、同時に、旅のコストを下げるための合理化も進められたために、観光・食事・宿泊・ショッピングのサービスが世界中で規格化・画一化され、どこに行っても同じような体験をすることになりがちです。
つまり、旅人の方では、何か特別な体験や異質な世界を求めて旅に出ているはずなのに、行き先によって観光スポットや食事などの細かいバリエーションが変わるだけで、結局どこに行っても同じパターンのサービスを受け、同じパターンの行動を延々と繰り返しているような虚しさを覚えることも多いのではないでしょうか。
もしかすると、効率的に旅を消化するパックツアーのスタイルが極限まで進化し、成熟したために、旅という行為が本来もっていたはずの新鮮さや、体験としての魅力が失われていることに、若者が気づいてしまったということなのかもしれません。
もし仮にそうだとしたら、旅行業界にとって、海外・国内を問わず、旅の魅力を取り戻すのは簡単なことではないでしょう。
ギリギリまでコストダウンしたパックツアーを大量販売するスーパーマーケット・スタイルは先が見えているような気がするし、かといって、旅人自身がすべてを手配するような、昔の旅のスタイルに戻そうとしてみたところで、旅行会社にとってのメリットはないし、旅人にとっても面倒になるだけです。
やはりこれからは、旅先で受ける個々のサービスやそのコストがどうかということよりも、旅人一人ひとりの体験の質こそが問題になってくると思うのですが、情報化とグローバリゼーションによる均質化が急速に進み、世界中どこに行っても似たような場所に見えてしまう現代において、旅の体験の質を高めるのは、なかなか難しいことなのではないでしょうか。
だとすると、現代において、私たちは旅という行為にどんな意味を見出しうるのでしょうか?
これは、旅行業界にとってはなかなかやっかいな問題だと思うのですが、私自身も含め、それぞれの旅人にとっても大きな問題になってくるはずです。この問題については、これからもいろいろと考えてみたいと思います。
今の若い人は、海外への旅をしなくなりつつあるのでしょうか?
【若者の海外旅行離れ「深刻」 「お金ないから」に「休み取れない」】
海外旅行に出かける若者の数が激減している。海外旅行が昔ほど特別でなくなっていることのほかに、「お金がない」「休みが取れない」といった事情もある。危機感を抱いた旅行業界では、日本旅行業協会が海外旅行のキャンペーンに乗り出しているが、「若者の経済事情からすれば、そもそも旅行業界で何とかできる問題なのか」といった声もある。
■10年間で35%近い「激減」
法務省の出入国管理統計によると、2007年の海外旅行者(出国者数)は前年比1.4%減の1730万人。03年以来、4年ぶりに減少に転じた。しかし、旅行業界でもっと深刻に受け止めているのが若者の「海外旅行離れ」。同統計によると、20〜29歳の海外旅行者数は1996年の463万人から、2006年には298万人にまで減少。10年間で35%近い「激減」で、若者の「海外離れ」が深刻になっているのである。 (後略)
(2008年4月30日 J-CASTニュース)
上の記事では、1990年代後半から非正規雇用の若者が増加したことが、その原因の一つとして挙げられています。
ネットでは、上の記事の下に次のようなコメントがつけれられていて、かなりの共感を呼んでいました。
旅行業界はいつになったらバブルから目が覚めるのかね。
昔の栄光に浸っていては、駄目になっちまうよ。
もはや海外旅行で散財する時代ではない。
将来の保障がどこにも無いんだもの。
遊んでいる場合ではないんだよ、若者は。
しかし、海外といってもいろいろあるわけで、例えば発展途上国への自由旅行、いわゆるバックパッカー・スタイルの旅なら、格安で長期間の旅を楽しむこともできます。
「海外に出たい!」という強い思いさえあれば、工夫次第で経済的な問題はクリアーできるし、かつて、30年くらい前の若者は、高い航空運賃や情報の少なさをものともせず、果敢に海外に出かけていきました。今でも、かなりの少数派かもしれませんが、海外の辺境を目指す若者はいるはずです。
もっとも、そういう旅人はお金を落とさないという意味で、旅行業界にとってあまりいいお客さんではありません。上の記事で心配されているのは、バックパッカーが減ったかどうかということではなく、パッケージツアー等で海外に出かけ、旅行産業に貢献する若者が激減しているということなのでしょう。
しかし、考えてみれば、海外に行くというのは、私たちが生きていく上での義務でも何でもないわけで、一時期の、「みんなが行くから私も行く」的なブームが冷めた結果、海外旅行というのが数あるレジャーの選択肢の一つに過ぎなくなったということなのではないでしょうか。
若い人にとって、海外旅行が輝いて見えた時代は、もう終わったのかもしれません。
それに、海外についての情報があまりにも多くなりました。観光名所もTVやインターネットで見慣れてしまっています。せっかく苦労して現地まで行ったのに、既視感を感じて、新鮮な驚きを味わえなかったという人も多いのではないでしょうか。
そしてもう一つ、海外旅行の定番であるパックツアーのスタイルについても、多くの人に飽きられつつあるのかもしれません。
パッケージツアーでは、面倒な手配はすべて誰かにやってもらえるし、何も考えなくても観光スポットまで連れて行ってもらえるし、食事や宿の心配もなく、そこそこ快適な旅を楽しめるなど、さまざまなメリットがあります。
しかし一方で、団体旅行という性質上、客個人の好みよりも、全員の最大公約数的な満足が追求されがちです。それは、旅の入門編としてそれなりの体験を約束してくれるでしょうが、それぞれ違った嗜好をもつ参加者の全員を、心から満足させることはできないでしょう。
また、旅人の利便性や快適さを向上させるための観光開発が世界各地で行われ、同時に、旅のコストを下げるための合理化も進められたために、観光・食事・宿泊・ショッピングのサービスが世界中で規格化・画一化され、どこに行っても同じような体験をすることになりがちです。
つまり、旅人の方では、何か特別な体験や異質な世界を求めて旅に出ているはずなのに、行き先によって観光スポットや食事などの細かいバリエーションが変わるだけで、結局どこに行っても同じパターンのサービスを受け、同じパターンの行動を延々と繰り返しているような虚しさを覚えることも多いのではないでしょうか。
もしかすると、効率的に旅を消化するパックツアーのスタイルが極限まで進化し、成熟したために、旅という行為が本来もっていたはずの新鮮さや、体験としての魅力が失われていることに、若者が気づいてしまったということなのかもしれません。
もし仮にそうだとしたら、旅行業界にとって、海外・国内を問わず、旅の魅力を取り戻すのは簡単なことではないでしょう。
ギリギリまでコストダウンしたパックツアーを大量販売するスーパーマーケット・スタイルは先が見えているような気がするし、かといって、旅人自身がすべてを手配するような、昔の旅のスタイルに戻そうとしてみたところで、旅行会社にとってのメリットはないし、旅人にとっても面倒になるだけです。
やはりこれからは、旅先で受ける個々のサービスやそのコストがどうかということよりも、旅人一人ひとりの体験の質こそが問題になってくると思うのですが、情報化とグローバリゼーションによる均質化が急速に進み、世界中どこに行っても似たような場所に見えてしまう現代において、旅の体験の質を高めるのは、なかなか難しいことなのではないでしょうか。
だとすると、現代において、私たちは旅という行為にどんな意味を見出しうるのでしょうか?
これは、旅行業界にとってはなかなかやっかいな問題だと思うのですが、私自身も含め、それぞれの旅人にとっても大きな問題になってくるはずです。この問題については、これからもいろいろと考えてみたいと思います。
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