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『アジア裏世界遺産』
評価 ★☆☆☆☆ 人によっては得るところがあるかも?
裏世界遺産……。その言葉からは何やら妖しくてダークなものを想像してしまいそうですが、読んでみるとこれはいわゆる「珍スポット」系の本で、都築響一氏の『珍日本紀行』をさらにユルい感じにして、取材の対象をアジアに広げたような内容です。
奇怪なオブジェが林立するラオスのワット・シェンクアン、カンボジアでのロケットランチャー発射体験、スリランカの聖地カタラガマの痛そうな「苦行祭」、「トルコの矢追純一」が設立したUFO博物館……。
頑張って取材したようなネタもあれば、かなりしょぼいネタもありますが、そういうのが脈絡なく交じり合っているのがまさにアジア的なのかもしれないし、いい意味での脱力感を生んでいるといえなくもないかもしれません。
ただ、個人的には、文章が質・量ともにあっさりしすぎていて、ちょっと物足りない感じがしました。文体は面白くていい味を出していると思うので、それぞれのネタについてもう少し丁寧に書いてほしかったという気がします。
もっとも、私も、こんな偉そうなコメントができる立場ではないのですが……。
本の評価基準
以下の基準を目安に、私の主観で判断しています。
★★★★★ 座右の書として、何度も読み返したい本です
★★★★☆ 一度は読んでおきたい、素晴らしい本です
★★★☆☆ 読むだけの価値はあります
★★☆☆☆ よかったら暇な時に読んでみてください
★☆☆☆☆ 人によっては得るところがあるかも?
☆☆☆☆☆ ここでは紹介しないことにします
「居場所」の料金
ツカサのネットルーム
マンスリーマンションやレンタルオフィスで有名な会社が運営していて、2畳分ほどの小さな個室に、机とイス、インターネットにつながったパソコンが置かれています。1日の利用料金は 1,300〜1,500円(東京都内各所)ということでした。
ネットカフェと同様、部屋にベッドや布団はついていませんが、施設内には共同のコインシャワーなどの設備もあり、実質的には「宿泊施設」として使うことができるようです。一応足をのばして横になるだけのスペースはありそうなので、マットや寝袋を持ち込めばそれなりに快適に過ごせるかもしれません。ただし、2週間以上の連続利用はできないそうです。
料金相応の制約はいろいろあるとはいえ、バックパッカー的な見地からすれば、これはとても興味深い物件です。
一方、ネットカフェを「宿泊施設」として見た場合、ナイトパックなら 1,000円を切るものもあるし、ドリンクバーなどのサービスもついているので、一晩だけを過ごすならそちらの方が「お得」かもしれません。また、現在のところネットカフェの方が圧倒的に数が多く、見つけやすいことも確かです。
しかし、ネットカフェの難点は、丸一日利用することが料金面で現実的ではないということです。つまり、安宿代わりに、ある程度の長期にわたって滞在できるかどうかという観点からすれば、ネットカフェは使い勝手が悪いのです。
かなり割安になっているのは深夜の時間帯だけなので、カネを節約しようと思えば、それまで荷物を抱えて他の場所で時間をつぶさなければならないし、ネットカフェに入ったらすぐに寝て、朝早く出て行かないと追加料金がかかってしまいます。
また、ネットカフェの場合、パーティションで区切られ、それなりのプライバシーが保たれているとはいえ、完全な個室ではないため、セキュリティー上の不安が残ります。宿のタイプで言えば、ドミトリー(多人数の相部屋)に近い感じです。
これは、そもそもネットカフェの前身が喫茶店であるということが関係しているのかもしれません。
現在のネットカフェの姿に「進化」していく過程で、他人の目を気にしなくてもいいように仕切りができたり、リクライニング・チェアーで眠ることすら可能になったとはいえ、やはりあくまでも「不特定多数の人々が一時的に立ち寄って過ごす場所」という本来の性質が残っているのではないでしょうか。
その点、ネットルームの方は、もともと個人向けのレンタルオフィスが一日単位の契約になったものと考えられ、部屋もサービスも最低限のシンプルさですが、格安の料金で部屋を丸一日占有できるという点が魅力です。
いわゆる「ネットカフェ難民」にしても、バックパッカーなどの旅人にしても、最低限のコストで宿泊できる場所というものに非常に関心が高いはずなので、付随的なサービスが色々と充実したネットカフェよりも、必要なものだけを最低限の料金で提供するこうしたレンタルスペースの方が、今後は普及していくかもしれません。
また、海外からのバックパッカーも遠からずこうした施設に目をつけ、利用者が増えていくのではないでしょうか。
それにしても、ネットカフェにせよ、ネットルームにせよ、元々は違う業種なのに、必要最小限の生活空間を一日単位で提供するという方向にサービスを発展させているのは、とても興味深いことです。
その背景として、最近マスコミでも話題の日雇い派遣の問題があるのは確かなのですが、そうした「格差社会論」的な視点をいったん離れ、旅人の立場からこの現象を見れば、現在の東京では 1,000円台の料金で、ひとまず安全な寝場所を確保できるようなインフラが整いつつあるということもできます。
バックパッカー向けの安宿は、東京圏ではシャワー・トイレ共同のシングルルームで1泊 2,000円代が最も安いレベルですが、ネットカフェやネットルームを利用すれば、その半額程度でしのぐことも可能となったわけです。
ちなみに、東京圏の最も安い「ゲストハウス」(ここでは安宿の意味ではなく、月払いの共同住居)のドミトリーが月 30,000円くらいからあるようなので、1日当たり 1,000円というのが、東京圏で「居場所」を手に入れる料金のボトムラインということなのかもしれません。
ひつじ不動産(ゲストハウス情報)
逆に言えば、誰からも文句を言われず、邪険にされない居場所を物理的に確保するためには、どんな人でも最低限それだけのカネを払い続けなければならないということです。
それが高いのか安いのか、あるいは良いことなのか悪いことなのか、私にはよく分かりませんが、それが現在の東京圏での現実ということなのでしょう。
視点を変えれば、もし東京圏で1カ月7万円のアパートを借りている人がいるとすれば(とりあえず敷金・礼金・不動産業者への手数料などは無視するとしても)、居場所を買うための3万円を引いた差額の4万円分は、部屋の広さや設備の快適さ、ステータス・シンボルなどのプラス・アルファの価値、言いかえれば「生活のゆとり」の価値ということになります。
このように、都会で物理的に「居場所」を確保するためにはどれだけのお金がかかるか、そのボトムラインを知っておけば、自分が現在どれくらい恵まれた立場にいるか、具体的な金額で実感できるかもしれないし、もし万が一、何らかの非常事態に陥って生活水準を下げざるを得なくなったとしても、どのくらいまでなら最低限の生活を維持できるか、パニックに陥ることなく、冷静に計算できるようになるのではないでしょうか。
しかしまあ、普通の人は、必要もないのにそんなことはわざわざ考えたくもないでしょう。そういう余計なことをつい考えてしまうのは、私のような貧乏旅行者の悲しい習性なのかもしれません……。
『転生 ― 古代エジプトから甦った女考古学者』
この本は、自らを古代エジプトの巫女の転生と信じ、ついにはエジプトに移り住んでそこで生涯を終えた一人のイギリス人女性の人生を描いたノンフィクションです。
1904年にイギリスに生まれたドロシー・イーディーは、3歳のとき階段から転落して仮死状態になったことをきっかけに、不思議なビジョンを見るようになります。
それが古代エジプトの神殿の風景であることを知った彼女は、以来、古代エジプト人の宗教と彼らの世界に深く傾倒するようになります。二十代後半に、彼女は親の反対を押し切ってエジプト人男性と結婚し、ついに憧れのエジプトに渡るのでした。
彼女はやがて、半覚半睡状態で受け取ったメッセージから、自分が三千年前のアビドスの神殿の巫女ベントレシャイトの生まれ変わりであり、彼女は前世で古代エジプトのファラオ、セティ一世と道ならぬ恋に落ちたために死に追いやられたことを知らされます。
彼女は数年後に離婚し、後には子供も手放さざるを得なくなりますが、それでも彼女はカイロに留まり、エジプト人考古学者の助手を務めたりしながら、一人でたくましく生きていきます。
また、彼女が14歳のとき初めて枕元に現れたセティ一世は、その頃になると彼女のもとに何度も姿を現すようになりました。ごく親しい人にだけ打ち明けられたこの秘密の霊的交流は、彼女の生涯にわたって続くことになります。
彼女は五十代になると、アビドスのセティ一世神殿の遺跡の近くに居を移し、地元の人々にはオンム・セティと呼ばれ、1981年に亡くなるまでそこで過ごしました。
こうした彼女の経歴を見ただけでは、多くの人は、エキセントリックな行動をとる変人を想像してしまうかもしれません。しかし、彼女を知る人々の回想によれば、むしろ彼女は知的で溌剌とした女性で、ユーモアのセンスとバランス感覚、そして思いやりの心も兼ね備えた人だったことが分かります。
当時の世間一般の基準から見る限り、彼女の人生は幸せなものではなかったかもしれませんが、イギリス、エジプトそれぞれの社会の同調圧力に屈することなく、自らの魂の声に誠実に従って自分の人生を生き抜いた彼女は、内的に大きな満足感を感じていたはずです。
彼女にとって、転生は疑いようのない真実であり、他人がそれを認めるかどうかよりも、自分がそれを前提にどう生きるべきかということの方がはるかに重要な問題だったのではないでしょうか。
著者のジョナサン・コット氏は、この本のエピローグで、彼女の内的世界をどのように解釈すべきか、あるいは転生という現象をどう見るかについて、中立的な立場からさまざまな科学者のコメントを紹介しています。
しかし、「訳者あとがき」にもあるように、この本の目的は、転生があるかないかについての議論に一石を投じるためというより、むしろ、「地理的な境界、そして先入観や常識という境界を超えて」、「自分にとっての真の故郷を探し求めて旅をしていた人」として彼女の人生を描くことにあったのだろうと思います。
ちなみに、私個人として転生をどう見ているかについてですが、いわゆる「前世の記憶」は必ずしも転生の証拠とは言えないと思うし、それを転生以外の理屈で説明することも十分に可能だと思っています。
ただ、人々が日常を超えるそうした超感覚的な知覚を体験したときにそれをどう解釈するかを考えたとき、輪廻転生という枠組みはシンプルで非常に分かりやすいため、それが一種の「方便」として、多くの人に受け入れられるということなのではないかと思います。
いずれにしても、私は転生が事実かどうかという問題よりも、当事者がそれを自分の人生の中にどう位置づけるかの方がはるかに重要だと思うし、そういう意味では、私が他者の転生について、部外者の立場からあれこれ言ってみても、あまり意味がないと思っています。
日本では今、スピリチュアル・ブームだし、この本が書かれた1980年代よりも、こうした分野についてはずっとオープンになりました。転生や体外離脱などのテーマに関しても、もっとぶっ飛んだ内容の本を簡単に目にすることができます。
そういう環境では、丹念な取材に基づくこうした真面目な伝記が、ある意味、ほのぼのとした昔話にすら見えてしまうほどです(もちろん、こういうテーマに全く免疫のない人にとっては、十分に衝撃的な内容かもしれませんが……)。
しかし、どんなに凄いスピリチュアル体験をしたかとか、あるいはどんなにぶっ飛んだ世界に行ってきたかという情報に興奮するのではなく、もっと地に足をつけて、そうした体験と「リアル世界」での生活とをどう調和させていくかを冷静に考えてみたいという人にとっては、こういった本にも一読の価値があるのかもしれません。
本の評価基準
以下の基準を目安に、私の主観で判断しています。
★★★★★ 座右の書として、何度も読み返したい本です
★★★★☆ 一度は読んでおきたい、素晴らしい本です
★★★☆☆ 読むだけの価値はあります
★★☆☆☆ よかったら暇な時に読んでみてください
★☆☆☆☆ 人によっては得るところがあるかも?
☆☆☆☆☆ ここでは紹介しないことにします
本の「賞味期限」
翻訳作品の場合なら、訳書の出版年よりも、原書がいつ出版されたのかを調べます。
以前なら、そんなことはほとんど気にせず、タイトルや著者名だけで選んだり、あるいは目次や中身をパラパラと見て直感的に気に入った本を読んでいたのですが、最近になって出版年という新たな条件が加わり、しかもそれがかなりの重みを持つようになっているような気がします。
ちなみに、私が目安としている出版年の条件は「1995年以降」で、それ以前に書かれた本を読もうとはあまり思わなくなりました。
もちろん、時間があれば読んでみたい古典作品は今でもたくさんあるし、1995年という数字もそれほど絶対的なものではありません。また、人間の内面について探求した作品であれば、出版年はあまり気にせずに読むようにしています。
しかし、いわゆる「リアル世界」について書かれた作品、例えばノンフィクションやルポルタージュ等のジャンルについては、1980年代の出版だと、もう読もうという気にならないのです。
そうした作品においては、時代を超えて息長く読み続けられることを願って、著者の方々がたいへんな努力を払っているはずなのですが、それでも書かれてから十数年の歳月が流れると、著者の問題意識や視点、文章そのものに、当時の社会的な文脈が色濃く反映されているのがハッキリと見えてしまいます。
簡単に言えば、時代を感じるというか、懐かしいというか、とにかく、すでに過ぎ去った時代の匂いがしてしまい、その本を今読まなければならないという必然性が感じられなくなってしまうのです。
しかも最近、世の中の変化のスピードがさらに加速していて、そうした時代のズレを感じ始めるまでの年数がさらに短くなっているように思います。
さらに、これは私の個人的な感覚なのですが、1995年頃を境として、日本の社会も世界も質的に大きく変化したために、それ以前に書かれた本が一斉に古臭くなってしまったような気がするのです。
その変化については、日本の戦後社会システムの解体とか、グローバリゼーションとか、インターネット革命とかいろいろと言われていますが、そうした社会変化の総体は急激で大規模で、しかも現在も休むことなく続いています。
これだけ世の中の移り変わりが激しいと、私としては、身の回りで起きていることを少しだけでも理解し、その流れについていくのが精一杯で、過去の追憶に浸っている余裕などはありません。あるいは次々に現れる新奇なモノに目を奪われて、それを追いかけることだけに注意力を使い果たしてしまっているのかもしれません。
ひと昔前の本には何の罪もないし、そうした本の価値がゼロになったわけでもないのですが、心の余裕がないせいか、私の目にはそれらがみんな「賞味期限切れ」に見えてしまうのです。
一冊の本を出版することの大変さを考えれば、本の賞味期限を云々するなど、業界の方々に対して大変失礼なことだとは思うのですが、実際のところ、私に限らず多くの人が、スーパーに並ぶ食料品と同じように、本の「鮮度」を気にするようになっているような気がします。
そういう環境では、「今」というタイミングを逃した本は、たとえそれなりに価値があっても人々の視界から急速に消えていってしまうし、仮にそうした本を後で個人的に発掘したとしても、その本が発散する古臭さをどうすることもできません。
ちなみに、私の実感としては、現在発行されている本のほとんどは、「賞味期限」が長くて10年くらいなのかな、という気がします。もっとも、それ以前に、書店の本棚からすぐに消えてしまったり、絶版になってしまう本の方が多いかもしれませんが……。
しかし、冷静に考えてみれば、こうして気ぜわしく新しいものを追いかけ、「今」だけにフォーカスし過ぎることも、それはそれで問題なのかもしれません。
「今」の時代感覚に適合するものだけに関心の対象に絞っていけば、おのずと視野は狭まっていくし、そこには、世の中の流れがどこに向かっているかを判断する基準がありません。
こんな時代に、ひと昔前の本を読み返すということは、まるで歴史学者みたいなマニアックな行為に思えてしまうのかもしれませんが、ある意味では、それは心に余裕がなければできないことなのかもしれないし、むしろそういう余裕こそ、こういう時代に必要とされているのかもしれません……。
『旅の「大ピンチ」! ― 海外旅行の不安、すべて解消します。』
海外旅行では、長距離の移動に伴うトラブルだけでなく、他国とのルールの違いや文化の違い、社会状況の違いに起因するさまざまな行き違いが起こりやすいものです。
海外に行ったことのある人なら誰でも、笑える失敗から笑えない重大事件まで、さまざまな「ピンチ」に遭遇した経験があるのではないでしょうか。
この本には、個人旅行者が出発から帰国までの間に直面するかもしれないさまざまなトラブルの実例がシチュエーション別にまとめられ、それらを回避する方法と、万が一巻き込まれてしまった場合の解決法が示されています。
ただ、本書を読んでいて改めて思うのは、旅を完璧に安全なものにする特別な秘訣のようなものは存在しない、ということです。
この本には、コルカタの安ホテルで扇風機が天井から落ちてきたとか、カオサンのゲストハウスで電気温水シャワーの漏電で客が感電死したとか、意表を突かれるような事例も載せられています。
いわゆる開発途上国は、そういう意味ではまさにトラブルの宝庫(?)で、旅人が望むと望まないとにかかわらず、トラブルは向こうから次々にやってきます。もしも起こりうる危険をすべて意識していたら、旅人はとても神経がもたないでしょう。
結局、一人ひとりの旅人にできるのは、起こりうるトラブルの主要なパターンについてだけ心にしっかり留めておき、あとは常識を働かせて注意深く行動することしかないように思います。
例えば、航空機の利用や入管・税関での手続き、現地の交通機関やホテルの利用法に関しては、ある程度のコツやテクニックを習得することによって、旅がラクになるばかりか、余計なトラブルからも解放されるでしょう。
こうした分野については、旅慣れるほどに旅人の安全度・快適度が増していくだろうし、それだけに旅のテクニックとして身につける価値もあるのではないでしょうか。
しかし、街中で犯罪に遭ったり、現地で病気になること、あるいは政変や自然災害に巻き込まれたりすることについては、ある程度の心がけはもちろん必要ですが、それで被害に遭う可能性を完全にゼロにできるわけではありません。
もしも自分がその当事者になってしまったら、とにかく生き延びることだけを優先して、その場の状況に応じた適切な対応をとるべきだとしか言えないし、この本にも、身を守るための何か特別な裏ワザが示されているわけではありません。
これは旅行に限った話ではないのでしょうが、人間、ギリギリの状況におかれたときには、マニュアル的な対応などほとんど役に立たず、結局は、その人のそれまでの人生経験と直感的な対応力が問われるということなのかもしれません。
まあ、そう言い切ってしまうと、身も蓋もなくなってしまうのですが……。
それでも、初めて個人旅行をするという人なら、こうした本で事前のシミュレーションをしておくことには意味があると思うし、すでに何回か海外に行っている人でも、時々こういう本を一読して自分の旅の経験と照らし合わせてみれば、今まで気がつかなかった方法など、いろいろと参考にできることもあるのではないかと思います。
本の評価基準
以下の基準を目安に、私の主観で判断しています。
★★★★★ 座右の書として、何度も読み返したい本です
★★★★☆ 一度は読んでおきたい、素晴らしい本です
★★★☆☆ 読むだけの価値はあります
★★☆☆☆ よかったら暇な時に読んでみてください
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旅の名言 「カオサンは……」
カオサンのゲストハウスのあるオーナーにいわせると、春休みや夏休みといった学生が多い時期がすぎると、ここに集まってくる日本人の年齢が急に上がるのだという。平均年齢にすると、十歳近く高くなるらしい。ここ数年の傾向で、その人数は日本の景気を反映している気がするという。景気がよくなると増えるのではなく、その逆の傾向らしい。会社が潰れたり、リストラに遭った二十代後半から三十代の男がカオサンにやってくる。その意味では、カオサンという土地は、日本の合わせ鏡のような役割を担っているのかもしれない。日本人の後ろ姿をいつも映し出している鏡ということだろうか。
そのなかには、かなり追い詰められている日本人がいる。そしてそのうちの何人かが、この街で蘇生する。カオサンは日本人のあるグループにしたらリハビリセンターのようなものなのだろうか。聖域といった人がいたが、たしかにそんな要素を兼ね備えている。
『日本を降りる若者たち』 下川 裕治 講談社現代新書 より
この本の紹介記事
ここ数年、日本人の間に増えているといわれる「外こもり」(派遣やアルバイトで集中的に金を稼ぎ、東南アジアなど物価の安い国で金がなくなるまでのんびりと生活するライフスタイル)の実態を取材した、旅行作家の下川裕治氏の著作『日本を降りる若者たち』からの一節です。
東南アジアを旅する人にとって、バンコクのカオサン通りは特別の場所です。欧米人バックパッカー向けの安宿街だった一角が、ここ20年ほどの間に急速な発展を遂げ、今ではタイの若者も集まる一大観光スポットにまでなっています。
ある意味、有名になりすぎて、物価が上がったり騒がし過ぎたりとマイナス要素も出てきたため、中には敬遠する人もいるようですが、それでもほとんどの旅人にとっては、今でも便利で快適なスポットであることは確かです。
別の国への格安航空券を手に入れるために、日本を出発してまずはカオサンを目指すという人は多いし、東南アジアの辺境を旅した後、カオサンにしばし「沈没」して旅の疲れを癒すという旅人も多いでしょう。
あるいは、個人旅行の初心者にとっては、日本を出てカオサン通りで数日を過ごすだけでもちょっとした冒険気分を味わえるだろうし、カオサンの醸し出す無国籍な雰囲気が気に入ってしまい、バンコクというよりカオサンへのリピーターになってしまった人もいるかもしれません。
旅行者には、一人ひとり違う目的や嗜好があるものですが、カオサン通りには、そんな旅人の多様な要求をそれなりに(あくまでも「それなりに」ですが)受け入れてしまう懐の深さがあるように思います。
冒頭の引用にあるように、日本でリストラされた男たちが流れ着き、再び立ち上がるまでの間リハビリできる場所というのも、カオサンの持つもう一つの顔なのでしょう。
もちろん、カオサンでリハビリといっても、何か特別なサービスが受けられるというわけではありません。多国籍のバックパッカーとバンコクの人々が醸し出す解放的な雰囲気に浸り、何をするともなくボーッと毎日を過ごしているうちに、自然にリラックスし、いつの間にか前向きな力が甦ってくるような気がするのではないでしょうか。
会社を辞めたり、放り出されたりした後にカオサンに流れ着く人間は、きっと、それ以前の旅行などを通じてカオサン通りの存在を知っていた人たちなのでしょう。自分にとって隠れ家なり「リハビリセンター」になり得る場所をあらかじめ知っていたという意味では、彼らは他のリストラ組に比べれば、少しだけ恵まれているのだと言えなくもないかもしれません。
ただ、『日本を降りる若者たち』の中でも指摘されていることですが、彼らがバンコクで癒され、「蘇生」したつもりになっても、問題が根本的に解決するわけではありません。
かなりの貯えがあるとか、定年を過ぎていて海外で年金暮らしができるとかいうなら話は別ですが、そうではない大多数の人は、いずれは日本に戻って、日本で稼ぎながら生きていくことを考えるしかありません。
カオサンが提供してくれる癒しはあくまでも一時的なもので、元気になって日本に帰れば、再び辛い現実に直面することになるでしょう。癒され、リラックスした分、その辛さはより一層心身にこたえるのではないでしょうか。
日本での辛い現実と、南の国でのつかの間の解放感――。
日本と東南アジアとの間を往き来して暮らす「外こもり」の人々は、ある意味、この解きがたいジレンマに囚われ、出口が見つからないまま、永遠の往復運動を繰り返しているということなのかもしれません……。
『ウェブ時代をゆく ─ いかに働き、いかに学ぶか 』
評価 ★★★☆☆ 読むだけの価値はあります
この本は、ベストセラーになった『ウェブ進化論』の姉妹篇ともいうべき本です。
『ウェブ進化論』の紹介記事
『ウェブ進化論』は、「リアル世界」とは別の法則で動く「ネット世界」の出現がもたらす大変化の本質について洞察した本でしたが、今まさにその変化の只中に生きている私たちにとって、より重要な問題は、私たち自身がこの大変化をどうサバイバルするのか(どうやって飯を食い続けていくのか)、これからの時代をどういう心構えで生きていけばいいのかという問題でしょう。
本書はまさにそれをテーマとしています。「もうひとつの地球」であるネット世界が、時間と距離の制約を越えて世界中の人々を結びつけ、「志」を持つ「個」をエンパワーするインフラとして急速に整備されつつある中で、その素晴らしいインフラを最大限に活用することを前提に、私たちがどのように学び、どのような働き方を目指していくべきかについて、この本には数多くの前向きなアイデアが詰め込まれています。
『ウェブ進化論』同様、この本もオプティミズムに貫かれていますが、そこには、インターネットの特性に対する深い理解に加えて、ネット利用者自身の積極的な貢献を通じて、大きな可能性と同時に危険にも満ちたネット世界を、より良いものに変えていきたいという狙いがあるのでしょう。
私個人としては、ネット進化がもたらす新しい職業の可能性や、新しい社会のあり方について、梅田氏の提示するビジョンに強い共感を覚えます。
バーチャル経済圏や境界領域の発展とともに、日本社会にも新しい職業環境が多様に花開く方向性を信じたいと思う。学歴より「いま何ができるか」が問われ、組織を出たり入ったりも自由、再挑戦はいつでも可能で、「個」が多様な生き方を追求できる社会。プロスポーツ選手のように若いときに一生分稼ぐビジネス世界の可能性も開かれる一方、オープンソース的に参加できる職業コミュニティも増える。専門性や趣味の周囲でそれほど大きくはないけれどお金が回り、そこそこ飯が食えるチャンスが広がり、社会貢献も個性に応じてできる。そういう新しい職業環境が大いに拡がっていくイメージを、未来のビジョンとして持ちたいと思うのである(第七章)。
こうした新たな社会の萌芽ともいえるオープンソースの世界においては、自分の「志向性」をはっきりと見いだし、「好きを貫く」ためにハードワークも厭わない人間が大きな成果と見返りを得ています。金銭的な報酬や組織の強制力によって働いている人間は、そうした人々に太刀打ちできないでしょう。
だとすれば、私たちにとっては、どこにより多くのお金が回っているかを気にする以上に、どうやって自分の志向性を見い出していくかがより重要な課題となるのではないでしょうか。しかもこれは、各人による主体的で内面的なプロセスであり、誰かから指示してもらったり、学校のカリキュラムを通じて学べるようなものではありません。
そういう意味で、私がこの本の中で最も興味深かったのは、自らの志向性を発見する手段としての「ロールモデル思考法」の解説です。
ロールモデル思考法とは、ただ「誰かみたいになりたい」「こんな職業につきたい」という単純な願望から一歩進み、自分の志向性をより細かく定義していくプロセスである。
世に溢れる「人の生き方」や「時間の流れ方」に興味を持ち、それを自分の問題として考える。外界の膨大な情報の無限性を恐れず、自分の志向性と波長の合う信号を高速でサーチし続け、自分という有限性へマッピングする。波長の合う信号をキャッチできたら、「時間の使い方」の優先順位を変えてコミットして、行動する。身勝手な仮説でもいいから、これだと思うロールモデルにのめりこんでみる。行動することによって新しい情報が生まれ、新しい人々と結びつき、また新しいロールモデルを発見することになる。ロールモデルを発端に行動し、さまざまな試行錯誤をする中で、意欲や希望の核が生まれ、世界は広がっていくだろう。「好き」な対象さえはっきりすれば、ネットはそれを増幅してくれもする。個の成長とともに、ロールモデルはどんどん消費し新しくしていけばいい。どんな偉大な人物であろうと、自分のために消費してしまえばいい。探し、試し、客観視し、必要なら卒業し、動く。人生の局面に応じたたくさんのロールモデルの引き出しを持ちながら、それを灯台代わりに生きていくのである。
いちばん重要な判断を、直感に基づくロールモデル思考法で行い、その後のサバイバルには緻密な戦略を立ててこつこつと執行するのである。
もちろんこれだけではピンとこないかもしれませんが、この本には梅田氏が自らの志向性を発見してきたプロセスも具体的に語られていて、非常に参考になります。
漠然とした「自分探し」の域をはるかに超えて、すさまじいまでに真剣で緻密なそのプロセスには驚かされますが、もしかするとこれからの時代には、それだけ真摯に自分と向き合う覚悟が多くの人に必要とされるようになるのかもしれません。
ネット進化の今後については、まだまだ分からないことの方が多いし、この本で提示されたビジョンについても、まだ確実に実現するとは言えない状況ですが、私たちの多くがこれから先何十年も生きていくことを考えれば、そうしたビジョンやさまざまなアイデアについて、自分自身の生き方と重ねて深く考えてみる価値は十分にあると思います。
本の評価基準
以下の基準を目安に、私の主観で判断しています。
★★★★★ 座右の書として、何度も読み返したい本です
★★★★☆ 一度は読んでおきたい、素晴らしい本です
★★★☆☆ 読むだけの価値はあります
★★☆☆☆ よかったら暇な時に読んでみてください
★☆☆☆☆ 人によっては得るところがあるかも?
☆☆☆☆☆ ここでは紹介しないことにします
ラジャ・ヒンドゥスタニ
ポカラは、美しい湖とヒマラヤの眺望が有名な観光地で、アンナプルナ山系へのトレッキングの拠点でもあります。
世界各国からのトレッカーはもちろん、バックパッカーたちもインドの喧騒を逃れて骨休めに訪れるため、格安の宿と各国料理の店がそろっており、「沈没系」バックパッカーの私にとっても申し分のない土地でした。
私がポカラに沈没して、かなりの日数が経ったある日、親しくなった宿のスタッフが、「今夜、テレビで面白い映画をやるから、一緒に観よう!」と声をかけてきました。
特に予定もなく、のんびりとした優雅(?)な毎日を送っていた私には、それを断る理由もなかったし、彼らが面白いという映画が一体どんなものなのか興味も湧いてきて、私はその夜、宿のロビーで彼らと一緒にその映画を鑑賞することにしました。
夕食を終え、約束の時間にロビーに行くと、その若いスタッフが、「何年か前、この映画を映画館で上映していたときには、僕は何度も何度も観に行ったんだ!」と興奮気味に話してくれます。よほど彼の心に響いた作品だったのでしょう。
映画のタイトルは『ラジャ・ヒンドゥスタニ』といって、歌あり踊りありの典型的なインド映画でした。
ヒンディー語のわからない私にセリフは全く理解できませんが、映画のストーリーそのものはものすごくシンプルで、私にも十分過ぎるほど理解できます。
「ラジャ・ヒンドゥスタニ」とは、「インドの王」というような意味らしく、主人公のニックネームでもあるのですが、実際の彼は、しがないタクシードライバーに過ぎません。しかしある日のこと、彼は高貴な一族の美しい女性と出会い、激しい恋に落ちてしまいます。そして、愛し合う二人の前には次々に試練が……というお話です。
まあ、先の見えるストーリーで意外性はないし、映画自体もやたら長いし、セリフが分からないせいで細かい内容までは楽しめないこともあって、個人的には感動というところまでは至らなかったのですが、夜遅くまで映画につき合いながら、私は宿のスタッフの彼が、どうしてこの映画にそんなに惹かれたのだろうかと、ぼんやりと考えていました。
この映画はインドでもかなりの大ヒットだったらしく、彼に限らず、インド文化圏の多くの観客を魅了するだけの斬新な演出や、素晴らしい音楽などがあったのだろうということは十分に想像できます。
しかしそうした理由以上に、私はやはり、美しく高貴な女性と結ばれ、幸せや富など、庶民の憧れをすべて手にするという絵に描いたような成功物語こそ、彼の心を捉えて離さなかったのではないかという気がしました。
ネパールはとても貧しい国だと言われていますが、旅をしていて実際に出会う人々は穏やかで人当たりがよく、あまりガツガツとしているようには見えません。彼らは一見、自らの置かれた境遇を受け入れ、つつましい暮らしにそれなりに満足して生きているようにも見えます。
しかし、旅行者に見せるそうした表向きの態度とは別に、彼らも心の内ではやはり豊かさへの渇望を強烈に感じているのかもしれません。特に若い人の場合は、もっと豊かで快適な生活を味わってみたいという思いが心の中で渦巻いているのではないでしょうか。
あまりにも「ベタ」なインド映画のストーリーは、そんな彼らのストレートな願望を鏡のように映し出しているのだろうし、その展開が時に荒唐無稽にすら見えるのは、映画の中での豊かさや華やかさが、圧倒的多数の観客にとってはリアリティのない夢のようなものだからなのかもしれません。
それでも彼らは、それが絵空事だと知りながらも、豊かで幸せな暮らしという自分たちの夢をハッキリとした映像の形で確認したくて、映画館に何度も足を運んでしまうのではないでしょうか。
宿で働いている若者にも、内に秘めた大きな夢があるのかもしれません。ポカラのようなネパールの田舎町でのんびりと働いていても、それに満足しているわけでは全然なく、いつかチャンスを掴み、今以上の豊かな暮らしを手にしたい、もっと高い地位につきたいという熱い思いを胸に秘めながら、退屈な日々に耐えているのかもしれません。
そこまで考えたとき、ふと、彼が以前に宿に泊まっていた日本人女性と親しくなり、近々結婚することになったという話を聞いたのを思い出しました。
その話を最初に耳にした時には、ネパールではよくある話だと思ってそのまま聞き流してしまっていたのですが、今、この映画を観て、話がつながったような気がしました。
映画を何度も観て、その夢の世界に憧れた彼は、夢を夢のままに終わらせず、豊かさや幸せを現実のものにするために、映画のストーリーをなぞるようにして、日本人女性との結婚というチャンスを掴もうとしたのかもしれません。
多くの人は映画を観るだけで満足してしまいますが、彼は現実の世界で一歩を踏み出して、映画の主人公のような成功を収めたかったのではないでしょうか。
もちろん、これは私の単なる妄想に過ぎないし、人間の心の中は、そんなに簡単に割り切れるようなものでもないでしょう。それに、他人の心の内をあれこれ詮索するなど、余計なお世話でもあります。
ただ、正直に言うなら、私は、二人を待ち受けている未来に、何か漠然とした不安のようなものを感じてしまったのでした。
映画の場合は二人が結ばれた時点でハッピーエンドですが、現実の方はそういうわけにはいきません。
国際結婚のカップルが文化の違いを乗り越えてうまくやっていくことはそれほど簡単なことではないだろうし、そういう現実的な苦労のことなど、夢を売るための映画の中にはもちろん出てきません。
彼らは、映画にはない結婚後の生活の試練を、自分たちの力で乗り越えることができるでしょうか……。
しかしもちろん、そんなことを言えば彼のプライドを深く傷つけてしまいそうで、私はそれを口に出すことができませんでした。
あれからもう何年にもなります。
ネパールでは、ここ数年、ずっと社会的な混乱が続いてきました。彼がもしネパールで引き続き観光産業に携わっていたなら、生活はかなりの打撃を受けたかもしれません。
二人は今、どこでどんな暮らしをしているのでしょうか。
私にそれを知るすべはありませんが、困難をうまく乗り越えて、幸せを掴んでいてほしいと思います。
『夢の劇場 ― 明晰夢の世界』
「明晰夢」とは、「眠っている者が夢を見ていることをはっきりと意識するようになる状態のこと」です。いわば、夢の中にいながら目覚めている状態です。
そのとき、夢は非常に鮮明でリアルに感じられ、しかもその夢の内容を、見ている本人が自由にコントロールできるようになると言われています。
もちろん、こうした夢が自然に起こるのは極めて稀なことですが、著者のマルコム・ゴドウィン氏は、明晰夢を見ようと決意して忍耐強く努力すれば、ほとんどの人がこうした夢を経験することが可能なのだといいます。
夢の中で、何でも思いどおりのことができるというのは、ある意味では最高のエンターテインメントかもしれません。それが誰にでも可能だということになれば、人の好奇心と欲求を大いにくすぐるのではないかと思いますが、明晰夢という現象は、それだけにはとどまらない重大な意味をもっています。
明晰夢の迫真のリアリティを一度でも体験した人は、夜の夢はおぼろげで儚いもので、昼に体験している日常こそ堅固な現実なのだという固定観念に修復不能なヒビが入り、夢が現実のように、現実が夢のように感じられてくるのです。
そしてそれは体験者を、現実とは何か、意識とは何か、自己とは何かという根源的な問いへと強く導いていきます。
ゴドウィン氏はOSHOの弟子だった人で、この本では明晰夢を霊的な目覚めへのプロセスの一つとして位置づけ、実践家としてのアドバイスや具体的なテクニックの紹介を織り交ぜながら、明晰夢に関してさまざまな視点からの考察を試みています。
ちなみに本書では、いわゆる臨死体験や体外離脱体験、あるいはシャーマンの脱魂なども、広い意味での明晰夢として扱われています。
読んでいると、自分もすぐに試してみたいという衝動にかられますが、実際に明晰夢を見られるようになるまでには、かなりの時間と根気が必要のようです。チャレンジする価値は大いにありそうですが、生半可な好奇心だけでは歯が立たないでしょう。
また、この本の中でも触れられていますが、明晰夢の中ではすべてが迫真のリアリティをもってしまうので、そこで起こりうる危険とその対処法についても、あらかじめ知っておく必要があると思います。
それから、この本の特徴として、シュルレアリスムの絵画をはじめとする数多くのカラー図版が収められていて、夢の世界の超現実的で謎めいた雰囲気をうまく醸し出しています。
ただ、一般にあまりなじみのない内容を扱っていることと、翻訳という性質上、初心者には少し意味がとりづらいところもあると思います。それに、けっこうな価格なので、明晰夢に本気で取り組みたい人以外は、購入を躊躇してしまうかもしれません……。
スティーヴン・ラバージ著 『明晰夢 ― 夢見の技法』 の紹介記事
チャールズ・マックフィー著 『みたい夢をみる方法 ― 明晰夢の技術』 の紹介記事
本の評価基準
以下の基準を目安に、私の主観で判断しています。
★★★★★ 座右の書として、何度も読み返したい本です
★★★★☆ 一度は読んでおきたい、素晴らしい本です
★★★☆☆ 読むだけの価値はあります
★★☆☆☆ よかったら暇な時に読んでみてください
★☆☆☆☆ 人によっては得るところがあるかも?
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バックパッカーは「時代錯誤」?
ウィキペディア 「バックパッカー」の項
バックパッカーがこのような旅をする理由の多くが「人生観を変えたい」というものである。しかしながら、前述したように旅をして旅先で結局は日本人と群れ、最低限のコミュニケーションツールとしての英語など語学力の上達や試みさえしておらず、人生観を変えたいがために来たのは良いが、その先の「人生の目標」がない、というタイプ人が多い傾向がある。
バックパッカーが目指すところの「一期一会の出会いを求め、非現実的な世界と新しい自分を探す旅」が、時代を経て姿を変え、批判の対称になりやすくなった原因の一つには「時代錯誤論」がある。多く人が出張や赴任先の海外から携帯電話一つで自国の会社に連絡をしているような情報化時代に、その真横で仕事もせず海外に出て自国にはない何かを見て何かを得ようとすること自体がそもそも「社会から逸脱した人間」「落伍者」のレッテルを貼られるのだという論調である。
この項目を書いた人が現役のバックパッカーなのかどうかは分かりませんが、読んでいると、海外の日本人宿に長逗留する旅人たちによって日々交わされている自虐的なボヤキが聞こえてくるような気がします。
確かに、バックパッカーをめぐる環境は、ここ数十年のあいだにすっかり変わりました。
ガイドブックが年々充実し、格安航空券が普及し、また、現地ではバックパッカー向けの旅行代理店、ネットカフェ、ゲストハウスなどの旅のインフラが整備されたことで、私たちが海外を旅することはどんどん楽になっています。
今ではもう、海外への個人旅行は特別な冒険ではなく、それなりの小金を用意すれば誰にでもできるレジャーです。極端な話、日本語しか話せない人が海外に長く暮らすことすら可能になってしまいました。
そんな環境では、海外をちょっと旅したくらいでは、周囲の人に自慢できるような冒険にもならないし、旅のみやげ話に目を輝かせて聞き入ってくれる友人も見つからないでしょう。旅人自身、ガイドブックどおりに行動すればどこにでも行けてしまうので、「何か凄いことをやりとげたぞ!」という達成感を感じにくくなっているのではないでしょうか。
しかも今や、世界各地の珍しいものはインターネットでいくらでも探すことができます。ただ単に珍しいものを見たい、知りたいという理由だけで、自分がわざわざ海外まで出かけていく意味があるのかと、旅人の誰もが深い疑問にとらわれるようになっているのではないでしょうか。
数十年前は、バックパックをかついで世界を巡るということが、何か未知の世界への扉を開くような、ロマンチックで新鮮な行為でした。
旅人は今、自分が旅をすることに何か意味があるのか、常に襲ってくる疑問や徒労感と戦いながら旅を続けなければならなくなっているのかもしれません。
しかし、バックパッカーという存在は、本当に「時代錯誤」の存在に成り果ててしまったのでしょうか?
もちろん、旅が何よりも好きで、とにかくどこかに出かけずにはいられないという人は、そういう社会的な意味とか周囲の評価には関係なく、これからも自らの好きな道を突き進むでしょう。そして、それで何の問題もないはずです。
きっと、バックパッカーという旅のスタイルが完全に消えてしまうなどということはなく、旅マニアを中心に、個人の自由旅行という形で、これからも変わりなく実践され続けることでしょう。
そして、私は思うのですが、それに加えて、バンコクの安宿街などでくすぶっているような人たちにとっても、バックパッカー的な生き方は「時代錯誤」どころか、今後ますます大きな意味をもってくるような気がしてならないのです。
世の中は、「人生の目標」を持ち、仕事などを通じて生き生きと自分を表現し、やる気満々でどんどん先に進んでいく人々ばかりで占められているわけではありません。
そんな人々を横目に見て羨ましいと思いながらも、そんな立派な目標も見つからないし、あんまりやる気も起きないし、でも、だからといって周りからグチグチと小言を言われるのもウンザリという人は大勢いると思います。
それに、ふだんは生き生きと働いている人でも、時には疲れ果てて休みたくなることもあるだろうし、何かのトラブルがきっかけで人生に行き詰まり、しばらくどこか遠いところにでも行ってしまいたい、と思うこともあるでしょう。
しかし世間は、そんな人たちに対して「頑張れ! 頑張れ!」と尻をたたいて追い立てるばかりです。ただ前進あるのみで、ちょっと休んだり、たまには脇道にそれてみたいと思っても許されないし、最近はそういう風潮がますます強くなっているような気がします。
最近、「外こもり」という言葉を耳にするようになりましたが、バックパッカーの中には、旅人という身分を隠れ蓑に、日本の外に「逃げ場」を求め、海外でしばらく潜伏して暮らすというタイプの人も増えているのではないでしょうか。
彼らは、例えばバンコクの安宿街で旅人と交じって暮らすことで、その無国籍な自由さに触れ、しばしの休息や解放感、あるいは個人的な救いを見い出しているのかもしれません。
そうした人たちに対し、「社会から逸脱した人間」とか、「落伍者」とか、「時代錯誤」とか何とか、いろいろなレッテルを貼る人はいるでしょうが、むしろそうしたレッテルを貼りたがる人たちが日本の中に大勢いるからこそ、彼らの冷たい視線から逃れることのできる安全地帯が必要になってくるのです。
また一方では、ただ消極的に日本から逃避するのではなく、意識的にバックパッカー的な生活を自分の生き方として選び取り、日本社会の多数派とは距離を置いて生きているという人もいるはずです。
モノをほとんど所有せず、常に身軽でいられるのが、バックパッカー的な生き方のメリットです。社会とは必要に応じてインターネットでつながり、住む場所も状況に応じて自由に変えていくバックパッカー的な生き方は、今後、モバイルなライフスタイルの一種として、旅好きな人間だけでなく、より多くの人々の注目を集めるようになるかもしれません。
バックパッカーは「時代錯誤」どころか、来たるべき時代のライフスタイルの一つとなる可能性を秘めているのです。
もっとも、これは、私個人の希望的観測に過ぎないのかもしれませんが……。
それにしても、これまで数十年にわたってバックパッカーたちが世界中に作り上げてきた貧乏旅行者向けのインフラが、今や、「先進国」での暮らしに息苦しさを感じる多くの人たちの避難所・隠れ家として大いに役立っているのは、考えてみれば面白いことです。
世界中のバックパッカーたちが、そうなるのを見越して計画していたわけではもちろんありませんが、結果として見れば、ただ好きなように生きていたバックパッカーの先輩方が、その辺のビジネスマンなどには及びもつかないような、「時代の先を見すえた仕事」をしてくれていたというわけです……。
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