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旅の名言 「妙ないい方かもしれないが……」
『アジアの弟子』 下川 裕治 幻冬舎文庫 より妙ないい方かもしれないが、インドという国は物乞いが生きていけるほど豊かなのだと思った。貧しい国にはふたつのタイプがあるのだ。物乞いすら支えることができない底なしの貧困と物乞いの哀れな姿が語りかける貧困である。ある人は、インドをバクシーシ三千年の歴史といったが、この国は物乞いを養えるほどの豊かさを三千年も享受してきたのである。
アフリカからやってきた僕の目に映ったインドは、享楽の国であった。夥しい数の人々が、バクシーシめあてにさまざまなパフォーマンスを演じてくれるのである。確かにそこには退廃の臭いがしないではなかったが、金のない貧しい旅行者には楽しすぎる国に思えてしかたなかった。
この本の紹介記事
旅行作家の下川裕治氏の半生記、『アジアの弟子』からの一節です。
「インドという国は物乞いが生きていけるほど豊かなのだ」という表現は、確かに「妙ないい方」に聞こえるし、誤解を招きやすい表現かもしれません。
でも、よく考えてみれば、本当にものすごく貧しい社会ならば、家族や仲間を助けることはおろか、自分一人が生き延びるだけで精一杯で、ましてや血のつながりもない、赤の他人に手を差し伸べる余地などないのではないでしょうか。
そういう環境では、物乞いが生きられる可能性などあり得ないし、何らかの理由でそういう状態に陥ってしまったら、人は飢え死にするしかありません。
そう考えると、インドの貧しさの象徴のように思われている物乞いも、実はインドの人々が彼らの生活を支えていることを示しているのであり、そして、インド社会にはそうするだけの余力があるのだ、ということになります。
ただ、インドを旅した人なら分かると思うのですが、インドに足を踏み入れ、その風土と人々に直接向き合う「インド体験」には、豊かさや貧しさをめぐるそうした理屈を超えた、もっとパワフルな「何か」があるように思えます。
そしてそれは、アジアに惹かれ、旅を通して長い間アジアと付き合ってきた下川氏のさまざまな著作から感じられる「何か」にもつながっているように思います。
五感、感情、思考のすべてを通して旅人の心に突き刺さってくるインドの現実は、生半可な正義感や、どこかで借りてきた理屈など簡単にはじきとばしてしまいます。
ひしめきあう人間のパワーと混沌に一度屈服し、余計な理屈をはぎ取られてインドと向き合う旅人の心には、「貧しさ」というステレオタイプな言葉では表現しきれない、インドという異世界の迫力がダイレクトに伝わってくるかもしれません……。
JUGEMテーマ:旅行
『みたい夢をみる方法 ― 明晰夢の技術』
『みたい夢をみる方法』というこの本のタイトルから、夢をエンターテインメントとして楽しむための、気軽なハウツー本のような内容を想像する人も多いと思いますが、実際に読んでみると、かなり真面目で本格的な内容であることが分かります。
この本の前半は、睡眠や夢に関するごく基本的な解説から始まるのですが、やがて、夢を見ているときに「意識」はあるのか、という話題から、そもそも人間にとって「意識」とは何かという、少し難しい話に入っていきます。
著者のマックフィー氏によれば、「意識」とは、「感覚の体験をそれが起こっているときに体験できる能力」を意味するのですが、「意識」には、感覚や思考そのものを体験する一方で、同時に、それを体験している自分自身をも体験するという二元性があります。
逆に、単に感覚的な体験をしたり、思考したり、あるいは何らかの行動をとっていても、そこに自覚が伴っていない場合は、「意識」があるとは言えない、ということになります。
ふつう、日中に仕事をしたり、人と話をしているときには、誰でも当然「意識」があると思われていますが、それが日頃の習慣による惰性でほとんど自動的に行われていたり、感情に流されて、お決まりの反応パターンを繰り返しているようなときには、たとえ目が覚めていても、マックフィー氏の言う意味で「意識」があるとは言えないのです。
それはちょうど、私たちが毎日夢の中でさまざまな体験をしているにもかかわらず、目覚めたあと、それを全く覚えていなかったり、たとえ思い出せたとしても、夢を見ている瞬間にはそれが夢であることに気づかずに、矛盾に満ちた夢のストーリーの中に巻き込まれたままになっているのに似ています。
明晰夢とは、夢の中で「意識」を保つこと、つまり、夢の中で起こっていることをその瞬間に体験しつつ、自分が夢を見ているということも自覚している状態です。
そうだとすれば、起きているときにすら「意識」がほとんどない人が、ましてや夢の中で「意識」を保つなど無理な話だということになります。だから、もし真剣に明晰夢を見たいと思うなら、まずは起きている間に「意識」が持続するように訓練し、それを習慣づけなければならないということになります。
これは一見したところ回り道のように見えるかもしれませんが、私には、明晰夢を誘発するための細かなテクニックをあれこれ試してみるよりも、ずっと真っ当なやり方であるような気がします。もっとも、私の場合、本気でそういう訓練をしたこともないし、明晰夢を見ているわけでもないので、こんな偉そうなコメントができる立場ではないのですが……。
ところで、マックフィー氏は、明晰夢を見られるようになった人が、自分の空想の力を利用して、夢の中で好きなことをして楽しむのは、「究極の遊園地」への逃避だとして、それにあまり高い価値を与えてはいないようです。
彼にとって明晰夢とは、単なるエンターテインメントではなく、自己の統合を目指すための機会なのであって、彼にとって重要なのは、無意識の心が創造した世界と夢の中で相互作用するような、「洗練された明晰夢」なのです。
そういう意味では、この本のタイトルも、「みたい夢をみる方法」というよりは、「明晰夢を通じて、無意識の自己と誠実に向き合う方法」とでもした方がふさわしかったのかもしれません。
この本の後半では、そうした観点から、これまでの精神分析の伝統をふまえ、人が無意識の世界に押し込めてきた感情や認識を意識の光の下に引き出し、自己の統合を目指していく方法、つまり、「意識と無意識の感情と認識を統合させるための道具としてのメンタルヘルス技術」について述べられています。
こうしたテーマは、明晰夢そのものの話からは少し離れることになりますが、明晰夢の世界を探究する人の誰もが、夢の中で無意識そのものに直面し、多くの場合それは、これまで意識することを避けて抑圧してきた私たちの「影」と向き合うことでもあることを考えると、心理学の基本について、少なくともこの本に書いてあるくらいの知識は、身につけておいた方がいいのかもしれません。
それにしても、マックフィー氏自身は明晰夢をどのくらい見るのでしょうか? この本には、彼自身の明晰夢の事例はほとんど載っていないし、書かれている内容も、全体的にやや抽象的な感じがします。彼自身の体験に基づく、明晰夢の実践的なノウハウみたいなものを期待していただけに、少し残念でした。
マルコム・ゴドウィン著 『夢の劇場 ― 明晰夢の世界』 の紹介記事
スティーヴン・ラバージ著 『明晰夢 ― 夢見の技法』 の紹介記事
本の評価基準
以下の基準を目安に、私の主観で判断しています。
★★★★★ 座右の書として、何度も読み返したい本です
★★★★☆ 一度は読んでおきたい、素晴らしい本です
★★★☆☆ 読むだけの価値はあります
★★☆☆☆ よかったら暇な時に読んでみてください
★☆☆☆☆ 人によっては得るところがあるかも?
☆☆☆☆☆ ここでは紹介しないことにします
JUGEMテーマ:読書
「物乞い許可証」
先日、ネット上でこんな記事を見かけました。
【タイ】外国人は禁止、物ごい法改正
外国人や健常者による物ごいは違法に−−などを内容とする「1941年物ごい法改正案」が19日の閣議で承認された。タイには現在、カンボジア人の物ごいが多く、彼らを取り仕切る組織もあるとされる。国会での審議を通れば、物ごいの営業を希望する者は許可の申請・取得が必要になる。申請できる者は、国民IDカードの保持者で、障害者やホームレス、生活費の確保が困難な身寄りのない高齢者に限られる。物ごいの強要や雇用の取り締まりも厳しくする。物ごいの許可は地方行政当局が出す。
(2008年8月21日 NNA)
ネット版「バンコク週報」の8月20日の記事によれば、物乞いには(タイ人であることを示す)IDカードの携行が義務づけられるほか、条件を満たした申請者に「物乞い許可証」が発行されるとのことです。
そもそも物乞いを管理する以前に、タイ政府はどうして彼らに救いの手を差し伸べないの? とか、「営業」許可だけ出して、あとは放置かよ! と、日本人なら大いにツッコミを入れたくなるところですが、タイでは日本のような社会保障制度が整備されていないので、政府は現状として、物乞いを一種の「営業」活動と認め、彼ら自身に生活費を稼いでもらうしかないのでしょう。
ただ、確か、以前に読んだ石井光太氏の異色のルポ、『物乞う仏陀』の中には、タイの物乞いはけっこう儲かるらしい、という話があったように思います。
タイには上座部仏教の教えが深く根づいていて、恵まれない人々に進んで「喜捨」をする習慣があるし、タイ庶民のメンタリティとして、路上で助けを乞う人を見たら、同情のあまり放っておくことができないということもあるのかもしれません。
タイでは、政府の社会保障制度の代わりに、「喜捨」というインフォーマルな支え合いの仕組みが、社会のセーフティネットとして今でも十分に機能しているのでしょう。
しかし、それがうまく機能しているがゆえに、上の記事にもあるように、外国人が一種の出稼ぎとして物乞いをしたり、それを組織的に行う裏ビジネスが生まれてしまったりという弊害もあるようです。
いくら庶民に憐れみの心があっても、彼らが落とすお金の総額には限りがあります。外国人の物乞いが増えれば、タイの実質的な社会保障費が国内の生活困窮者に回らず、国外に流出してしまうことになるわけで、さすがに政府も何とかしなければならないと考えたのでしょう。
ただ、ちょっと気になることがあります。
下川裕治氏の『日本を降りる若者たち』の中に、最近、バンコクで欧米人や日本人の物乞いを見かけるようになったという話が出てきます。彼らがどのような事情でそうした生活に至ったのかは分かりませんが、とにかく、(人数は非常に少ないにせよ)彼らがタイの人々からの施しにすがることでなんとか生き延びているのは確かです。
しかし、今回の法改正で、外国人の物乞いが違法ということになれば、彼らはどうなってしまうのでしょうか?
日本人はともかく、欧米人の場合、彼らは一目で外国人だと分かってしまうはずです。外国人であることを理由に「営業」許可が下りなくなったら、彼らはどうやって生きていくのでしょうか?
もっとも、タイでは法律が施行されても、実際のところ、それが徹底されるという保証はありません。現実問題として、役人はともかく、庶民が物乞いに対して、「許可証」を見せろ! などと要求するようになるとはとても思えないし、外国人であるなしにかかわらず、目の前に困窮している人を見かけたら、タイ人はこれまでどおりに手を差し伸べるのではないかという気がします。
JUGEMテーマ:日記・一般
もしも、小さな国に生まれていたら……
チベット騒乱やその余波としての聖火リレー問題、四川の大地震や中国各地の暴動、ウイグルでのテロ事件など、開催前から開催中に至るまで、オリンピックの実施が危ぶまれるような大事件が続きましたが、中国政府は国家と共産党のメンツにかけて、力づくでなんとかこれを乗り切りつつあるようです。
少なくとも、オリンピック会場の中では平和と秩序が保たれていて、競技の運営にも目立ったトラブルはなく、前回のアテネと変わらない、素晴らしいスポーツの祭典が繰り広げられているようです。世界中から集まったアスリートたちの真剣で美しいパフォーマンスは、テレビで見ているだけで感動的だし、政治的な問題をとりあえず忘れさせてくれます。
それはともかく、開会式で延々と続いた各国選手団の入場行進や、競技会場に掲げられた見慣れないデザインの国旗の数々を見ていると、世界にはこんなにも多くの国や地域があるんだということを、改めて思い知らされます。
そして、わずか数人の選手しか参加していないような、小さな国の名前がテレビの画面に登場すると、私はいつものクセで、自分がその国に生まれていたらどんな人生を歩んでいただろうかと、つい考えてしまいます。
もちろん、日本人として、日本の社会環境にどっぷりと浸かって生きてきた私には、他の国で生まれ育つというのがどんなことなのか、それをおぼろげに想像することしかできません。
違う宗教や文化の中で生まれ育ち、違う言葉を話し、それぞれの国の人しか知らないローカルな事件やローカルな流行に触れながら生きてきた人間の内面は、同じ体験をしてきた人でなければ、実感をもって深く理解することはできないのでしょう。
例えば、旅人が国外でどんな体験をするかという点だけを見ても、旅人の国籍がそれに大きく影響しているのは明らかです。
日本という国の存在は世界中で知られているし、「日本ブランド」は国際的にそれなりの信用があるので、世界のどこへ行っても、日本人だと言うだけでそれなりの待遇をしてもらえます。勤勉で金持ちというステレオタイプのせいで、旅先でカモにされることもありますが、一方では、立派な国の真面目な国民というイメージのおかげで、ビザが取りやすかったり、現地の人に歓迎されたりと、得をすることも多いのです。
しかし、世界的にはほとんど無名の小さな国のパスポートを持っている人たちは、他国でどんな扱いを受けているのでしょう?
旅先で、どこから来たのかと聞かれ、自分の国の名を答えても、きっといつも首をかしげられてしまうはずで、それは彼らの自尊心を少なからず傷つけるでしょう。また、お前の国はどんな国なのかと聞かれても、国内には有名な観光地がなかったり、特産品がなかったり、国際的な有名人がいなかったりして、何とも答えようがないかもしれません。
あるいは、開発途上国の人であれば、無名であるばかりか、自分の国が貧しいと言われたり、軽んじられたりすることに対して、やり場のない怒りや悲しみを感じているかもしれません。
さらに、現在の南オセチアのように、大国の覇権争いに翻弄され、自分たちの「国」の運命を自分たちで決められないという小国の悲哀を噛みしめている人々も大勢いるでしょう。それどころか、戦乱に巻き込まれて難民になったり、亡命したりした結果、帰るべき場所を失い、流浪の旅人としての一生を強いられている人々もいるはずです。
彼らが、国際社会の中で日々味わわされている体験は、今の多くの日本人(もちろん私も含めて)にとって、頭では理解することができても、それを心から実感することはほとんどできないのではないでしょうか。
ただ、無名の国に生まれるということにも、それなりのメリットはあるのかもしれません。
天然資源に恵まれず、地政学的な重要性もなく、目立った産業もなければ有望な消費市場になりそうな人口も抱えていない国は、大国に狙われる心配もなく、国際的な競争に巻き込まれることもありません。食糧さえ自給できるなら、国民は貧しいなりにのんびりと平和な毎日を楽しめるのではないでしょうか。
彼らは、無名であるがゆえに、日本人のように国際的なイメージやステレオタイプに縛られることはないだろうし、国民として「一流国」のブランドを維持する義務みたいなものもないので、どこに行っても自由に振る舞えるかもしれません。
オリンピックにしたって、小さな国の選手には過大な期待も注目もない分、いつもダメモトで挑戦できるし、万が一にも活躍することがあれば、逆に一気にヒーローやヒロインになれます。大国のアスリートのように、今の地位やプライドを維持しなければならないという重苦しいプレッシャーがない分だけ、競技そのものをのびのびと楽しめるのではないでしょうか。
まあ、これはあくまで私個人の勝手な想像にすぎないし、小さな無名の国に生まれた人たちは、全然違うことを考えているのかもしれませんが……。
JUGEMテーマ:日記・一般
『世界のシワに夢を見ろ!』
この本のタイトルにある「世界のシワ」とは、世界の辺境・僻地のことです。
著者の高野秀行氏によれば、今、世界で進行しているグローバル化(アメリカ化)とは、世界中にせっせとアイロンをかけるようなものなのだそうです。それによって、先進国と大都市を中心に、人々の暮らしが「清潔で快適でおしゃれで便利」になっていくのはいいのですが、その反面、多様な風土や文化に根差した地域の個性は失われ、世界中がのっぺりとした、メリハリのないものになりつつあります。
一方、未だにアイロンの行き届かない僻地はというと、昔からシワだらけだったものが、先進国や大都市からの「シワ寄せ」を受けて、さらにクシャクシャになっています。パリッと清潔にアイロンがけされた私たちの日常生活には収まりようのない、この世のあらゆる矛盾が押し込まれた結果、そこは今や、「山あり谷あり、病気あり内戦あり、犯罪あり非常識あり、怪獣あり野人あり」の、まさになんでもあり状態になっているのです。
しかし、そんな「世界のシワ」に強く心を惹かれ、そこに通い続ける人々もいます。
この本では、アフリカ・南米・アジアのジャングルを始めとするさまざまな「世界のシワ」に分け入ってきた自称「B級探検家」の高野氏が、これまでの旅の中で巻き込まれた数々のトラブルをユーモラスに語っています。
彼は、学生時代に探検部の仲間とアフリカへ怪獣探しに行ったことをきっかけに、探検部的(シワ好き)人生にのめり込み、辺境への冒険的な旅を繰り返してきました。
しょうもないエピソードから、命にかかわるようなシリアスな話まで、多彩なネタが笑いのツボを心得た絶妙の文章で描かれていて、大いに笑って楽しめるのですが、同時に、「未知なるもの」を求めて旅立つワクワク感や、旅のドタバタ劇を通じて自分の意外な一面を発見する面白さなど、辺境への旅のさまざまな魅力も伝わってきます。
本の評価基準
以下の基準を目安に、私の主観で判断しています。
★★★★★ 座右の書として、何度も読み返したい本です
★★★★☆ 一度は読んでおきたい、素晴らしい本です
★★★☆☆ 読むだけの価値はあります
★★☆☆☆ よかったら暇な時に読んでみてください
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『明晰夢 ― 夢見の技法』
この本は、現代における明晰夢研究の第一人者である神経生理学者のスティーヴン・ラバージ氏が、明晰夢という現象のもつさまざまな可能性や明晰夢を誘発する技法について、一般向けに解説したものです。
明晰夢とは、「夢を見ているという完全な自覚を保ちながら夢を見る」ことです。自然にそのような現象が起こるのは稀ですが、そのとき、夢の中の世界は非常に鮮明でリアルに感じられ、しかもその夢の内容を、見ている本人がある程度コントロールできるといいます。
ラバージ氏は5歳の頃からそうした体験をしていましたが、やがて彼は、この不思議な現象について科学的に解明しようと試みます。
彼は、夢を見ているレム睡眠の間は体が麻痺してしまうものの、目だけは動かせることに目をつけ、自分が明晰夢を見ているときに、あらかじめ打ち合わせたとおりに意図的に目を動かすことで、実験室で彼をモニターしている観察者とコミュニケーションをとることに成功しました。
これによって、「夢の中で目覚める」という現象が、神秘的な作り話や妄想ではないことが証明され、自然科学の枠組みの中で研究できることが示されたのです。
その後、彼は、同じように明晰夢を見ることのできる「夢航行士」(oneironauts、オーナイロノーツ)たちの協力も得ながら、明晰夢という主観的な経験と、客観的に測定できる生理学的プロセスとの関連や、明晰夢の誘導・安定化の技術について、さらに本格的な研究を進めています。
明晰夢のもたらす迫真的でしかも自由な世界は、ある意味では、映画を超える究極のエンターテインメントとして非常に大きな魅力がありますが、この本ではその他にも、明晰夢の体験者の前に開かれる素晴らしい可能性の数々が詳しく語られています。
たとえば、人格的成長や自己啓発の推進、自信を深めること、心身の健康の増進、創造的に問題を解決する能力の促進、そして自己統御への道を進むといったことの一助となる可能性が、明晰夢には大いにあるのだ。
ただ、こうした「効能書き」を並べられるよりも、百聞は一見に如かず、読者としてはとにかく実際に明晰夢を体験し、それがどのようなものであるかを自分の目で確かめてみたくなるのではないでしょうか。
ラバージ氏は、明晰夢は特別な能力に恵まれた人だけに起こる現象ではなく、夢の中で目覚めようという強い意図をもち、夢見の技法を習得すれば、誰にでも誘発することが可能であると強調し、読者を勇気づけてくれます。
この本には、ラバージ氏が開発したMILD(Mnemonic Induction of Lucid Dreams 記憶によって明晰夢を誘導する方法)と呼ばれるテクニックが紹介されています。これは、したいことと、それをしようとする将来の状況との間に心理的な関連を作る方法を応用して、夢見の最中に、夢を見ていることを思い出そうというものです。
1.早朝、自然に夢から覚めたら、記憶するまで何度も夢を思い返してたどる。
2.次に、ベッドに横になったまま眠りへと戻りながら、「次に夢を見るとき、私は、自分が夢を見ていると認識することを思い出したい」と自分に言い聞かせる。
3.リハーサルとして、夢の中に戻ったときの自分自身を視覚化する。ただし今度は、実際に夢を見ていると認識している自分を想像する。
4.自分の意図がはっきりしたと感じるか、寝入ってしまうまで、2と3の手順を繰り返す。
これがどれくらい役に立つかは人それぞれでしょうが、興味のある人には試してみる価値があるでしょう。まずは、こうした地道な努力が、新しい世界への入口になるわけです。
この本では、こうした実践に関する記述よりも、明晰夢に関する考察の方が多いので、気軽には読みづらい部分もあると思いますが、明晰夢に興味のある人なら一通りは目を通しておきたい、基本的な文献だと思います。
マルコム・ゴドウィン著 『夢の劇場 ― 明晰夢の世界』 の紹介記事
チャールズ・マックフィー著 『みたい夢をみる方法 ― 明晰夢の技術』 の紹介記事
本の評価基準
以下の基準を目安に、私の主観で判断しています。
★★★★★ 座右の書として、何度も読み返したい本です
★★★★☆ 一度は読んでおきたい、素晴らしい本です
★★★☆☆ 読むだけの価値はあります
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JUGEMテーマ:読書
おかげさまで20,000アクセス
アクセスカウンターを初めて設置してから10,000アクセスに到達するまでには約1年かかりましたが、今回もほぼ同じペースでした。
カウンターは二重カウント防止仕様になっているので、一日平均30人弱の方がこのブログを訪れてくださったことになります。
皆様、どうもありがとうございました。
このブログは、検索エンジンにもなかなか引っかからないような実にマイナーな存在ですが、それでもキーワードの組み合わせとか、記事が投稿されたタイミング次第で、このブログに辿り着く方もおられるようです。
そういう、インターネットの仕組みの不思議さというか、ネット上のマイナーな存在にもそれなりのアクセスをもたらしてくれる現象にはいまだに感動を覚えます。
このブログ自体は、年月とともにアクセスが伸びるという気配もなく、現状のままひっそりと安定しているような感じですが、自分自身のやる気が続き、無理せず書けるうちは、このブログを続けていきたいと思っています。
今後とも、このブログをよろしくお願いいたします。
アジアのバス旅(3)
記事 「アジアのバス旅(2)」
(続き)
◆ 車窓を流れる風景
といっても、外の風景を見ながら、何か特別な思索にふけっているわけではありません。ちょっとした考えごとをすることもありますが、ほとんどの場合は何も考えず、目の前を流れる光景をボンヤリと目で追っているだけです。
ときには、目の覚めるような美しい景色を目にすることもありますが、そういう特別な風景は長くは続きません。旅のほとんどの時間、車窓から見えるのは、平凡な田舎の風景と何の変哲もない小さな町や村、そして無数の看板やドライブインなどといった、おなじみの光景です。
そうしたものすべてが、淡々と窓の外を流れ去っていきます。
それを見ている私の心も、そうしたものすべてを淡々と受け流していきます。
後で思い出そうとしても、言葉になったり明確なイメージとして浮かんでくることもないような、そうしたありふれた風景を眺め続けることに、何か意味があるのかと問われれば、何もないとしか言いようがありません。
それでも、私はバス旅でそんな時間を味わうことが、何よりも好きなのです。
◆ 終点へ
バスは何度かトイレ休憩(ただの草むらや空き地に停まるだけの場合もあります)をとったり、食事のためにロードサイドの食堂に立ち寄ったりしながら、少しずつ目的地に近づいていきます。
先ほどまで混雑していた車内から乗客が一人、また一人と降りていき、ガラガラになると、終点が近いしるしです。荷物と乗客から解放されて軽くなったバスは、最後の道のりを軽快にとばします。
多くの場合、終点の街は私にとって初めての場所です。
ガイドブックの情報や地図を事前に見ておけば、ある程度の見当はつけられるものですが、実際にそこがどんな雰囲気の街なのか、特にその街の居心地がいいかどうかは、やはり実際にそこに行って、自分の目で確かめてみないことには分かりません。
空いた座席で体を伸ばし、窮屈な思いから解放されると、一日の辛い旅がようやく終わるという実感がこみ上げてきます。しかし、新しい街に着いたらすぐに、見知らぬ街で宿を探すという仕事が待っています。その日の寝場所が見つかって肩の荷を降ろすまでは、緊張が解けることはありません。
やがて、バスは夕暮れのバスターミナルに到着し、私はバックパックを担いで新しい街に一歩を踏み出します。
リキシャ(人力またはエンジンつきの三輪タクシー、国によって呼び名が違います)の運転手や安宿の客引きが大勢待ち構えていて、みんなから引っ張りだこの大人気状態になることもあれば、閑散としたバスターミナルに一人取り残されることもあります。
すぐ近くに安宿の看板が見えたり、何人かの客引きがいてくれれば、宿探しに苦労はないのですが、そんな手がかりが何もなく、ガイドブックを握りしめ、薄暗くなりかけた街をウロウロ歩き回っているときというのは、もしかすると旅というものを一番実感できる瞬間なのかもしれません。
誰一人知り合いのいない街を、ちょっと途方に暮れながら歩くという孤立無援のシチュエーションが、旅人の孤独をより一層強く感じさせるからでしょうか。
◆ 改めて、バス旅の魅力とは?
アジアのバス旅について、いろいろと書いてみましたが、結局のところ、これはまさに「キタナイ・キツイ・キケン」の3Kの典型のような気がします。
そんな旅に、私はどうして熱中していたのでしょうか。
まず何よりも、カネがかからない、というのが大きかったのかもしれません。
あちこち移動し、うんざりするほど旅をしても、為替レートのおかげもあって、アジアの国々なら非常に安く済みます。
また、同じ距離を移動しても、日本と開発途上国では旅人の疲労度がケタ違いなので、これもカネをかけずに旅をした実感が得られる秘密かもしれません。
そして、バスの特徴である適度なコンパクトさも、バス旅の魅力です。
何両も客車がつながり、何百人単位の客が乗っている鉄道とは違い、バスの場合は一目で車内全体が見渡せるだけでなく、多くて数十人という、顔も覚えられるくらいの小ぢんまりとしたグループで一緒に移動するので、みんなで旅をしているという適度な一体感を生むような気がします。
もちろん乗客一人ひとりは、みんなで旅をするつもりでバスに乗り込んでくるわけではないのですが、アジアのバス旅では移動中のトラブルには事欠かないので、見知らぬ乗客同士が力を合わせてそれらを乗り越えていくうちに、目的に向かって困難を共にする「同志」感覚というか、連帯感のようなものがお互いの間に芽生えやすいように思うのです。
また、そうしたトラブル自体も、バスの旅をドラマチックで印象深いものにしてくれます。
もちろん、時と場合によっては呑気に「ドラマ」を楽しんでなどいられないこともありますが、いつも何かしらの波乱があり、やっとの思いで目的地に辿り着くというパターンは、何か旅の原点のようなものを思い出させてくれる気がします。
そもそも、地上を何十キロ、何百キロと移動することは、人間にとって大変な仕事なのであり、日本のように、ローカルバスでも時間に正確で、安全で、乗り心地も素晴らしく、旅をしていることすら忘れてしまいそうな状況というのは、世界でも例外的なことなのだということを、アジアでは思い知らされるのです。
山あり谷あり、トラブルあり、中断あり、迂回ありのその道中は、まるで人生の縮図のようでもあり、バスに乗り合わせた普段着の乗客たちの姿も、人間社会のありのままの姿を映し出しているような気がします。
そこには、テレビや映画のような見映えのいいドラマはありませんが、生活感にあふれる圧倒的なリアリティがあります。
皆様もぜひ、機会があったら、(安全にはくれぐれも気をつけて)アジアのバス旅を楽しんでみてください。
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アジアのバス旅(2)
何度もバスに乗るうちに、この騒音のような音楽が次第に気にならなくなるばかりか、むしろ旅に欠かせないBGMとして、密かな楽しみにさえなってくるはずです。それは、つらい移動時間の慰めになるだけでなく、その国や地方の流行歌にどっぷりと身を浸し、地元の人々の生きている「今」を共に味わえるチャンスでもあるのです。
どこの国でも、運転手にはスピード狂の傾向があって、道路が舗装されていれば、バスの性能の限界までぶっ飛ばします。狭い一本道で向こうからバスやトラックが走ってくるときには、双方の運転手が直前まで道を譲らず、命賭けのチキンレースが繰り広げられます。
乗客は、手に汗握るスリルというよりは、文字通りの死の危険を存分に味わうことができるでしょう。
あるいは、最近では運転手がケータイを持っていて、運転しながら会話に夢中になってしまうケースもあります。前方への注意がお留守になっているため、乗客は何度もヒヤヒヤさせられます。チキンレースなら少なくとも運転には集中しているはずですが、ケータイの場合は「心ここにあらず」の状態になってしまうので、より危険かもしれません。
いわゆる開発途上国では、ドライバーやバス会社の安全意識がまだまだ低いようなので、道が立派に整備され、スピードを出せるようになることが、かえって危険を生んでいるような気がします。かといって、では舗装されていない道なら安心して旅ができるかというと、もちろんそんなことはありえないのですが……。
とにかく、ローカルバスの旅では、客よりも車掌よりも、運転手が最も偉い存在で、誰も彼の意向に逆らうことはできません。乗客にとって、バス旅の一日がどんなものになるかは、運転手のオッサンの人柄にかなり左右されるといえます。
車掌の兄ちゃんは、車掌というよりも、雑用係という方が適切なのかもしれません。道路わきに立っている人を見つければ、出入り口の外側にぶら下がって行き先を叫び、乗る人がいれば運転手に合図してバスを止めます。客の荷物が多ければ屋根によじのぼって積み上げるし、検問所では書類やお金やワイロの品を持って走り回ります。客から料金を徴収し、時には値段交渉もします。
そんな仕事をしているのは20代くらいの若者が多いのですが、田舎では少年のこともあります。彼らが正式な車掌として会社に雇われているのか、あるいは運転手の家族や知り合いなのか、そして彼らが一体どれほどの給料をもらっているのか、はっきりしたことは分かりません。
少年が果たしてきちんと学校に行っているのか、あるいは彼らの労働が法的に問題ないのか、気になるところですが、このあたりに関しては、いわゆる先進国のルールや単純な正義感だけでは割り切れない、複雑な事情があるのかもしれません。
◆ さまざまな乗客
そして乗客ですが、高級なエアコンバスはともかく、ローカルバスはどの国でも最も安い公共交通機関のひとつなので、乗っている客を見れば、その国の庶民のありのままの姿が分かります。
国や地域によって、私たち外国人に対する彼らの接し方は異なるし、車内でのマナーや行動パターンも少しずつ違います。
例えば、中国の田舎なら、(今はどうなっているか分かりませんが、少なくとも数年前までは)乗客の誰かが車内でタバコを吸うときには、近くの人にもタバコの箱が回ってきて、お相伴にあずかれることがけっこうありました。庶民にとっては、タバコもそんなに安くはないと思いますが、こういうとき、中国人は見知らぬ人に対しても気前のいいところを見せてくれるのです。
タバコ好きの旅人にとってはなかなか楽しい習慣ですが、タバコの嫌いな人にとっては地獄かもしれません。これが一度始まると、誰かがタバコを吸うたびにタバコのすすめ合いになり、そのたびに何人もが一斉にタバコに火をつけるので、狭い車内には煙がもうもうと立ちこめます。
また、インドなら、必ずといっていいほど誰かが英語で話しかけてくるでしょう。インド人は好奇心旺盛で、見慣れない人間を見つけると話しかけずにはいられないようです。
しかもインド人は、やたらと小難しいことを聞いてきます。個人的な質問に始まって、やがて日本経済の現状をどう見るか、みたいな話になってくると、私の英語力ではお手上げです。それでも、空気の読めないインド人のオッサンは容赦なく質問を浴びせてきます。
あまりに退屈しているときは、こういう面倒くさい会話もちょうどいい暇つぶしになるのですが、私だって旅の感傷に一人で浸りたい気分のときもあるわけで、そんなときには、お願いだから黙っててくれと言いたくなります。
そして、どこの国でも同じなのが、オバサンたちの生態です。彼女らは、食べ物を手荷物でどっさりと持っているか、バスが停車するたびに果物やお菓子をこまごまと買い込んだりして、移動中は絶えず何か口にしています。
ときどき外国人の私たちにもおすそ分けしてくれるのですが、そんなとき、断りきれずに口にした変な食べ物が予想外にうまかったりして、以来病みつきになってしまうこともあります。現地で手に入るおいしくて手頃な値段のおやつについては、やはり地元のオバサンたちが一番よく知っているのでしょう。
このほかにも、詐欺師の一行が乗り込んできて、車内でイカサマ賭博を始めることもあれば、検問で警察官や武装した兵士が乗り込んでくることもあります。
列車と同様、バスの中も人間社会そのものなのです。
◆ ローカルバスの過酷な旅
首都圏を離れれば離れるほど、道路の状態は悪くなるのが普通で、旅もそれだけ過酷になります。
舗装されていない道では、乾季なら猛烈な土ぼこり、雨季なら泥道でのスタックに悩まされるし、それに加えて、後部座席の乗客は一日じゅう座席の上でジャンプを繰り返すことになります。うっかり居眠りなんかしていたら、どこに頭を打ちつけるか分かりません。
また、ローカルバスの旅はトラブルの見本市でもあります。何度もバスを利用していれば、想定内・想定外のあらゆるトラブルを実体験できるでしょう。
エンジンがかからなくなって乗客みんなでバスを押すこともあれば、走行中、バスのタイヤが外れて転がっていくこともあります。道路が崩れたり土砂崩れでふさがったりして、みんなで道路工事をすることもあるし、接触事故や軽い追突事故などは日常茶飯事です。
自分の乗っているバスは無事でも、車窓から悲惨な事故の跡が見えることもしばしばです。事故車両が日本のようにすぐに撤去されず、何日も野ざらしになっていたりするので、目にする機会が余計に多くなるのでしょう。
衝突事故でグシャグシャになったバスや、濁流の中に水没したバス、あるいは谷底にひっくり返ったバスが見えたときには、思わず手を合わせてしまいます。
そういう体験の数々を思い出していると、我ながら、無事にバス旅を続けてこられたのが不思議です。
昔の人々は、旅の前には道中の安全を心から願い、旅が終われば無事を感謝したといいますが、アジアの開発途上の国々を旅していると、そういう感覚が、実感としてしみじみとわかるような気がします。
(続く)
記事 「アジアのバス旅(3)」
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アジアのバス旅(1)
◆ アジアの旅はバスの旅
アジアの各地をバックパッカーとして旅していたとき、日本との往復の飛行機は別にすると、移動手段はもっぱらバスでした。
もちろん、中国やインドといった大国では鉄道網が発達しているので、長距離の移動にはそちらを利用します。それでも、鉄道が国中の町をすべて結んでいるわけではないので、数十キロ〜数百キロ単位の移動はバスに頼ることになります。
というわけで、私にとってアジアの旅とバスは切っても切れない関係にあるのですが、今思い返してみると、ボロボロのローカルバスで悪路を一日中揺られるような苛酷な旅の日々が、ある意味では自分にとっての旅のハイライトだったような気がします。
時にはうんざりしながらも、そんなバス旅を何度も繰り返していたということは、その当時は自分でもはっきりと意識していたわけではありませんが、私がローカルバスの旅をこよなく愛していたということなのかもしれません。
それにしても、私はバス旅のどこに惹かれていたのでしょう?
「好きなものに理由なんかいらない!」と言ってしまえばそれまでだし、同じようなバス旅の愛好家なら、あえて余計なことを語らずとも分かってもらえるのかもしれません。
しかし今回は、さまざまな国での体験から構成した、想像上のバス旅の典型的な一日をたどってみることで、その魅力の理由を改めて考えてみたいと思います。
◆ バスターミナル
ラオスのような小さな国を除けば、首都圏や大都市の大きなバスターミナルともなると、あらゆる方角に向かう無数のバスが絶えず発着を繰り返しています。
オンボロバスの騒音や排気ガス、クラクションの嵐だけでも相当なものですが、出入り口にぶら下がって行き先を連呼する車掌の兄ちゃん、行き交う大勢の旅人と彼らの引きずる大量の手荷物、旅人相手の食堂・屋台や雑貨屋のにぎわい、バスの中まで入ってきてガムやタバコを売り歩く子どもたち、盲目の歌い手や物乞い、あたりを勝手気ままにうろつく動物たちが、混沌とした、何ともいえない熱気を醸し出しています。
日本からやってきた旅人の目には、これはまさに異次元空間に映るのではないでしょうか。アジアの大都市のバスターミナルは、自分が今、異国を旅しているのだと強く実感させてくれる場所のひとつです。
ターミナルに発券カウンターがある場合はそこでチケットを買い、お目当てのバスを探して乗り込もうとすると、すでに大勢の地元民で満員になっています。座席の下、周囲だけでなく、屋根の上にもうず高く荷物が積み上げられて、まるで集団で夜逃げでもするみたいです。
ここで運よく席が確保できたとしても、それはたいてい最後部の座席です。舗装状態が悪いか、あるいは全く舗装されていない悪路を走るローカル路線では、後部座席は揺れと跳ねとホコリがものすごいので、地元の人も座りたがらないのでしょう。要領の悪い外国人旅行者は、どうしてもそういう席に追いやられてしまいがちですが、これは考えようによってはなかなかいい席でもあります。
一番後ろの席からは、車内で起きている出来事がすべて一目で見渡せます。バスの旅は早朝から始まって夕方まで、運が悪ければ深夜とか翌日まで続くことになりますが、その間車内で起きるあれこれを、すべて後ろから鑑賞できる特等席でもあるのです。
バスの車体には派手なカラーリングや装飾が施されて、いわゆる「デコトラ」状態になっていることも多く、そこにはお国柄や、その地方独自のパターンが表れていたりして見飽きません。ときには、日本で引退した路線バスが、カラーリングや日本語の表示もそのままで使われていることもあります。
しかし、外見がいくら派手であっても、実際に乗り込んでみると、バスが相当くたびれていることは一目瞭然です。もともと中古車が多いということもあるのでしょうが、毎日悪路を走らされるバスにとっては「老化」も相当早いはずで、仮に新車を導入しても、すぐにガタがきてしまうのでしょう。
大都会はともかく、地方の町では、発車予定時間になってもバスがなかなか発車しないのが普通です。客がある程度集まるまで、ただひたすら待たされることもあるし、発車したかと思えば、バスが街の中をぐるぐると走り回り、車掌の兄ちゃんが行き先を連呼して客引きをする場合もあります。時には、これだけで何時間も経ってしまいます。
そんなときは、ただひたすら待つよりほかありません。
座席を確保したままじっと待ち続けていれば、いつかは出発できる時がやってくるはずです。待ちくたびれてすでに尻が痛くなっている身としては、とにかく町外れに向かって走り出してくれるだけでもホッとして、もうすでに一仕事終わったような気がするほどです。
しかし、ようやく出発したかと思ったのもつかの間、バスは近所のガソリンスタンドに立ち寄ってのんびりと給油を始めます。日本人的感覚なら、「ガソリンくらい先に入れとけよ!」とつっこみたくなるところですが、ここは日本ではありません。もしかしたら、バス会社は、客から集めたバス代でやっとガソリンが買えるというような、自転車操業状態なのかもしれません。
(続く)
記事 「アジアのバス旅(2)」