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日本人「ターミナルマン」

ネット上で、こんなニュースを見かけました。

【空港で3か月生活する日本人男性 メキシコ】

 メキシコ・メキシコシティー国際空港で3か月寝泊まりを続けている日本人男性が、旅行客や職員に注目されている。
 東京都出身のフリーター・野原弘司さん(41)は、観光目的でメキシコを訪れた。最初はホテル暮らしをしていたが、所持金が少なくなってきたため、空港で寝泊まりしているうちに3か月が経過した。
 珍しい日本人がいるということで、地元メディアがこぞって取り上げ、記念撮影やサインを求める人がひっきりなしに訪れている。 (中略)
 日本大使館は「ビザも持っており、不法滞在ではないが、健康も心配だ。今後も空港暮らしをやめるよう説得を続ける」とコメントしている。
(日テレNEWS24 2008年11月25日)


下の映像は上のニュースと同じ内容のものです。




下の映像は別の番組のもので、本人へのインタビューと空港での彼の暮らしぶりがやや詳しく紹介されています。

映像を見ていると、彼に対してフレンドリーに接するメキシコの人々とは対照的な、東京のスタジオの冷ややかなコメントが印象的です。





ところで、彼はスピルバーグ監督の映画『ターミナル』の主人公みたいに空港で暮らしているということで注目を集めたようですが、もともとこの映画には実在のモデルがいます。

メヘラン・カリミ・ナッセリー、通称アルフレッド・メヘラン氏は、身分証明書をなくしたためにどの国からも入国を拒否されてしまい、十数年もの間、フランスのシャルル・ド・ゴール空港の第1ターミナルに足止めされていました。

以前にこのブログでも紹介した『ターミナルマン』という本には、アルフレッド・メヘラン氏が巻き込まれた不条理きわまりない状況と、彼自身の謎めいた生い立ちが描かれていて、読んでいると頭がクラクラしてきます。

また、ウィキペディアにも、彼についての項目があります。
ウィキペディア 「マーハン・カリミ・ナセリ」

ただし、何か途方もない不条理や謎を感じさせるアルフレッド・メヘラン氏のケースとは違って、今回の日本人は、別にどこかの国に入国拒否されているわけではなく、日本に帰れないわけでもありません。金がかからないので空港の中に寝泊まりしているうちに、メキシコで人気者になってしまったというのが真相のようです。

ところで、バックパッカーとして旅をしていると、オーバーブッキングの被害を防ぐために早めに空港に行かざるを得なかったり、逆に、安い航空会社だとしょっちゅうフライトが遅れ、空港の中で長時間待たされたりと、何だかんだで空港にいる時間が長いので、日本人の彼のように空港で暮らすというのはどんな感じなのか、けっこう現実的な興味を覚えます。

もちろん、空港ターミナルは宿ではないので、寝心地とか、セキュリティの問題とか、シャワーや洗濯はどうするのかとか、住むとなるといろいろ問題はあるのですが、とりあえず空港施設にはエアコンが効いているし、きれいなトイレもあるので、下手な安宿にいるよりはずっと快適かもしれません。

たぶん一番の問題は、アルフレッド・メヘラン氏のようにそこから動けないようなケースは別として、特別の理由もなく空港に長居していると、いずれ関係者に目をつけられ、追い出されるだろうということです。欧米や日本の空港だったら、メキシコの空港みたいに大らかな対応は期待できないでしょう。

もっとも、メキシコの人々にいくらホスピタリティーがあるといっても、今回の日本人のマネをして、何人もの貧乏旅行者が空港に住み着いてしまったりしたら、さすがに面倒を見きれないでしょうが……。

それにしても、日本大使館職員の数回にわたる説得にも動じず、なおも空港で暮らし続ける日本人もなかなかのものです。

ただ、映像で見る限り、計算づくや意地でそうしているというよりは、それが彼自身のキャラなんだろうなという気がします。そんな彼のかもし出す、ひょうひょうとした不思議な雰囲気には、メキシコ人の心をつかむ「何か」があるのかもしれません。

彼の空港暮らしがいつまで続くのかは分かりませんが、(このブログを含めて)日本からの雑音は気にせずに、彼らしい、ユニークな旅をまっとうしてほしいと思います。


JUGEMテーマ:ニュース

at 18:12, 浪人, ニュースの旅

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ネットカフェ難民4

11月23日の日本テレビ「NNNドキュメント’08 日雇いハケン ネットカフェ難民 4」を見ました。

この番組は、「ネットカフェ難民」という言葉が広く知られるきっかけとなったドキュメンタリー・シリーズの第4作目にあたります。

今回は、心の病を抱えながら日雇い派遣の仕事に通う20代の女性と、子供を施設に預け、共働きで日雇い派遣の仕事をする夫婦を取材しているのですが、彼らはネットカフェで寝泊まりしているわけではありません。

このシリーズも、回を重ねるにつれて、ネットカフェ難民の暮らしそのものを追うというよりも、不安定な雇用と貧困の問題をめぐる、もっと大きなテーマへと取材の焦点がシフトしているのでしょう。

派遣会社による度重なる違法行為や秋葉原での事件を機に、政府は日雇い派遣を原則禁止とする方向に動き始めたようですが、現時点では、日雇い派遣の人々の不安定な生活はそのままだし、派遣会社の高いマージンに手がつけられる見通しもないようです。

現在、日雇い派遣で辛うじて生活を支えている人々が、90年代に加速した雇用流動化の犠牲者であるのは明らかです。そして、この番組の中で示されているように、物質的・精神的に、毎日の生活を維持することさえ困難になっている人がいる以上、何らかの政策が緊急に求められているのも確かだと思います。

ただ、番組を見ていて思ったのですが、仮に日雇い派遣そのものが禁止されたとしても、果たして雇用の不安定化や貧困の問題がそれによって解決に向かうのだろうかという気がします。

グローバリゼーションの加速によって、工場での生産労働はおろか、ホワイトカラーの仕事まで海外に流出しつつあるという状況は、決して日本だけの現象ではありません。

世界全体で大きな構造変化が進行しつつあり、これまで先進国の人々が独占していた仕事を、世界中で奪い合うような状況が生じつつあるのだとしたら、日本国内で日雇い派遣だけを禁止してみても、かつての高度成長期のような安定した雇用が復活することは期待できないのではないでしょうか。

下手をすれば、そうした規制によって、逆に多くの人が雇用から締め出されてしまい、人によっては失業状態が慢性化する危険さえあるのではないかという気がします。

問題は、グローバル化によって日本のおかれた経済環境が大きく変化する中で、雇用や賃金水準に関して、何らかの規制や慣行によって変化から守られている人々と、セーフティーネットもないままに国際的な競争にダイレクトにさらされる人々とに分裂しつつあり、その結果、労働の成果の分配に関して、著しい不公平感が広がっているということなのだと思います。

そして、『若者はなぜ3年で辞めるのか?』の中で城繁幸氏が指摘しているように、そうした分裂は、年功序列をベースに組み立てられた日本の経済・社会システムによって増幅され、世代間の深刻な利害対立を生み出しつつあるのではないでしょうか。

しかし、マスコミも官庁も政党も、みな「変化から守られている人々」の側にいて、すでに時代に対応できなくなった古い体制をただ維持し続けるだけで精一杯のように見えます。

彼らは、現在のグローバリゼーションの負の影響をまともにかぶっている若い世代、あるいはセーフティネットからこぼれた多くの人々の声を代弁することも、有効な対策をとることもできないでいるのではないでしょうか。

つい、身の程もわきまえずに偉そうなことを書いてしまいましたが、こういうことは今さら私が書くまでもないことで、きっと多くの日本人、特に若い世代は同じようなことを考えたり、言葉にはならなくても無意識のうちに強く感じていることなのではないかと思います。

社会全体がものすごい勢いで変化し、その衝撃が自分たちの生活にまさに押し寄せつつあるのに、大手メディアはそれをうまく説明してはくれないし、国として何か充分な対策がとられているようにも見えないし、現在起きている事態を理解するためのわかりやすい思考の枠組みも示されないために、多くの人が不安や閉塞感を感じているのではないでしょうか。

しかし、だからといって、グローバリゼーションの動き自体を止めて、昔の時代に戻ることも不可能でしょう。これは日本だけの問題ではないし、この大きな社会変動の底流には、私たち自身の思考パターンにもしっかりと埋め込まれている、つねに自分の側の利潤を最大化しようとする資本主義的な欲望があるからです。

私個人としては、こういう時代を生き延びていくために、大きな流れに真っ向から抵抗するよりも、むしろ何とか流れに沿いつつ、自分なりのスジを通していくしかないだろうと思うし、これまでの生活水準とか慣習にはこだわらず、あらゆる知恵をしぼって、真剣にサバイバルの道を見つけるしかないと思っています。

それはともかく、こうしたドキュメンタリーは、ゴールデンタイムではなかなか放映されることのない、現在の日本社会の一面を伝えてくれているという意味で、貴重な存在だと思います。


記事 「ネットカフェ難民」
記事 「ネットカフェ難民2」
記事 「ネットカフェ難民3」
記事 「ネットカフェ難民5」


JUGEMテーマ:今日見たテレビの話

at 19:11, 浪人, テレビの旅

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『インドの大道商人』

評価 ★★★☆☆ 読むだけの価値はあります

この本の「大道商人」とは、店舗を持たず、わずかな商品や素朴な技術だけを売り物に、人通りの多い路上に座り込んで、ささやかな商売をしつつ日々を暮らす庶民のことです。

野菜売り、果物売り、揚げ物屋、お茶売り、ジュース売り、水売り、薬売り、装身具売り、笛売り、仕立屋、洗濯屋、床屋、耳掻き、靴磨き、歯医者、両替商、代書屋、辻写真師、占い師、曲芸師、蛇つかい、力車夫、工事人夫……。

どこにでも見られるようなポピュラーな商売に始まって、各種のサービス、エンターテインメントや医療行為まで、庶民の日常生活に関わるあらゆるニーズが、路上の超零細商人・職人たちによって担われています。

インドを旅する人なら、彼らの姿を毎日飽きるほど目にするはずですが、大道商人たちの姿に注目し、ここまで徹底して取材した本は、これまで存在しなかったのではないでしょうか。

著者の山田和氏は、インド北西部のラジャスタン州や首都デリーを中心に、十年以上にわたって約300人の大道商人に取材をしたといいます。この本では、その中から100あまりの商人の姿が、美しい写真とともに紹介されています。

めずらしいところでは、体重計一つで商売する体重測定屋とか、歯ブラシになる木の枝を売る商人、ゴムぞうりの鼻緒だけを売っている鼻緒売り、持ち運び式の子供用観覧車を人力で回す遊覧車屋、なんていうものまであります。

写真を見ていると、インドの街の喧騒と混沌を生み出している人々が、一人ひとりスポットライトを当てられ、クローズアップされていくような感じがします。そして、現地を歩く旅人でさえつい見逃してしまうような彼らの姿を改めて眺めていると、一人ひとりの大道商人がつくり上げ、支えているささやかな小宇宙の数々が見えてくるような気がします。

写真の中の大道商人たちは、もちろん、埃や汚れにまみれています。豊かで潔癖になった日本人の中には、彼らの姿に、みすぼらしさや不潔さしか見出せない人もいるかもしれません。

しかし、最初のそうした表面的な感覚をやり過ごし、黙って写真を眺めているうちに、彼らの中にある、したたかな逞しさ、素朴で力強い美しさのようなものが伝わってくるのではないでしょうか。

大道商人たちと真剣に向き合い、丁寧な取材を続けた山田氏の姿勢には、「大地の民」である彼らの存在に対する深い敬意が感じられます。

ちなみに、山田氏の取材にあたってのポリシーや取材方法、旅の装備などについては、「第三章 インタヴュー事始」で詳しく触れられています。また、大道商人たちの心を体験的に理解するために、自ら路上に座り、日本から持参したある商品を売ってみたという、楽しいエピソードも描かれています。

ところで、この本のための取材は今から20〜30年前のことで、本文中に書かれているインドの物価水準やルピーの対円レートは、現在では大きく異なっています。また、インドの社会自体も、世界全体を巻き込むグローバリゼーションの中で激しく変化しつつあります。

近代化と経済発展をなしとげた日本において、大道商人が激減してしまったように、山田氏が写し取った人々の姿も、近い将来、もしかすると、インドに関する歴史的な資料になってしまう日がくるのかもしれません。

もちろん、少なくとも当分の間は、インドの街角に満ちている喧騒と混沌のパワーは健在のはずだし、人なつっこいというより、しつこいインドの商売人たちと旅人との激しいバトルも、当面なくなることはないのでしょうが……。

ただ、この本の中に写し取られている、ウソのない自然そのもののような、ありのままのインドの人々の姿を目に焼きつけておきたいという人は、できるだけ早いうちにインドを旅しておいたほうがいいのかもしれません。


本の評価基準

 以下の基準を目安に、私の主観で判断しています。

 ★★★★★ 座右の書として、何度も読み返したい本です
 ★★★★☆ 一度は読んでおきたい、素晴らしい本です
 ★★★☆☆ 読むだけの価値はあります
 ★★☆☆☆ よかったら暇な時に読んでみてください
 ★☆☆☆☆ 人によっては得るところがあるかも?
 ☆☆☆☆☆ ここでは紹介しないことにします



JUGEMテーマ:読書 

at 18:35, 浪人, 本の旅〜インド・南アジア

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ブログの守備範囲

私はこれまで数年にわたって、数日に一回のペースでこのブログに記事を書いてきましたが、次に何を書くかという「ネタさがし」には、けっこう苦労しています。

ブログの書き手によっては、書きたいこと、言いたいことがあとからあとから湧いてきて、とにかくそれを書き留めるだけで精一杯、なんていう人もいるのかもしれませんが、少なくとも私はそういうタイプではありません。

それに、このブログでは、テーマをいちおう旅関係に絞っているつもりなので、日本での日常生活に関わるこまごまとした内容は、極力書かないことにしています。

もし、ブログを毎日のように書き続けようと思ったら、日々の暮らしの中で見聞きしたり体験したりしたことを日記風に記したり、ワイドショーのコメンテーターみたいに、ニュースに対する自分のコメントなり感想なりを書いていくのが一番やりやすいのでしょう。

言い換えれば、今日何を食べたとか、どこで誰と会ったとか、どんなものを買ったとか、個人の暮らしのディテールをミクロな視点で事細かに描写していくか、逆に思いっきりマクロな視点をとって、日本全体とか世界全体のことを、マスコミ人になったつもりで書くかのどちらかの道をとれば、少なくとも毎日のネタに困ることはなさそうです。

しかし私の場合、そのどちらの方向性にも抵抗を感じてしまうのです。

それは、考え抜いた結果というより感覚的なもので、自分の日常生活をネットで世界中に公開するのは恥ずかしいし、逆にマスコミのような立場で天下国家や社会について語るのも、自分の身の丈を考えるとあまりにも違和感があるからです。

それでも、ネタに困っているときには、あまりスジを通してばかりもいられません。

このブログでも、「旅」というテーマに多少は関わりがありそうなマイナーなニュースについては、いちおう遠慮がちにコメントしてみることはあるし、一方で、「旅と人生」みたいな一般論に関してはやたらと能弁になってしまい、まるで海外の安宿にくすぶっている「牢名主」のように、偉そうな理屈をこねくり回してみることは多々あります。

また、もっとメジャーな、世界的なニュースについても、たまには、私も素人なりに何かコメントしてみたくなることはあります。

特に、最近のアメリカ発の世界的な金融危機と、それに伴う世界経済の激変については、そのプロセスのあまりのスピードとインパクトの大きさに、大いにストレスを感じているし、私のような人間には、それに対してどうすることもできないとはいえ、せめてモヤモヤとした気持ちだけでも吐き出したいという思いにかられます。

それでも、このブログでそれについて何かを書き始めようとすると、結局どういう記事を書いたらよいのか見当がつかず、途方に暮れてしまうのです。

もちろん、こういうメジャーなニュースの場合、私などが書くよりもはるかに正確で、的を射ていて、気の利いたコメントが、いくらでも他のブログで読めることを思えば、あえて、酔っ払いが赤提灯でクダを巻くような記事を書く必要はないのでしょう。

ただ、私自身が記事を書けない理由をもう少し考えてみると、そうした大きなニュースやテーマの場合、専門知識があるかとか、うまく書けるかという問題以前に、何というか、うまく表現できないのですが、どういう視点で、どんな風に書けば自分の言葉としてしっくりくるのか、文体を含めて、その感覚がつかめないというか、つまりは、現在の私の表現力の守備範囲を超えてしまうということなんだろうと思います。

そうしたテーマは、私たちの生活に重大な関わりがあるとはいえ、ブログで単に個人的な怒りや不満の感情を表現するだけでは足りない気がします。個人の感情をありのままに吐き出すことにも、もちろんそれなりの意味はあるのでしょうが、それだけでは、社会のもっと大きな図式が見えてこないし、自分自身の次の行動にもつながってきません。

かといって、マスコミ的に、どこか超越的な立場から天下国家を語る視点では、あまりにも私たちの日常から遠いような気がします。

たぶん、その両極端ではない微妙な地点に、ブログという媒体の性質に合った、人それぞれの視点と文体のようなものが成立しえるのだろうし、きっとそうしたものが、日本でも多くのブロガーの試行錯誤を通じて徐々に作り出され、いずれ多くの人に共有されるようになるのだろうと思います。

もちろん、一口にブログといっても、このブログのように泡沫的なものから、世界的に影響力のあるブログまで千差万別なので、それぞれのもつ影響圏の大きさによっても、そのスタイルはかなり違ってくるだろうとは思いますが……。

だとすると、ブログの書き手にとっては、個別の記事で何を書くかという「ネタさがし」も大事ですが、それと同じくらい、もしくはそれ以上に、自分の身の丈や守備範囲を認識したうえで、試行錯誤をつづけながら、自分にふさわしい視点やテーマや文体のセットを少しずつ生み出していくことも重要なのかもしれません。

それは、広大なネット生態系の中に、自分なりのささやかな居場所(縄張り?)を見出していくプロセスであり、同時に、自己表現するネット上の生き物として、それぞれのやり方とペースで、その表現のバラエティと技を磨き、新しい環境での進化と適応をとげていくということなのかもしれません。

もっとも、こんな内容のことを、ギクシャクとした文章で書いていること自体、私が古い世界に属する人間であることを証明しているような気がします。

物心ついた頃からネットに親しんでいる平成生まれの若い世代にとっては、こんなことはいちいち考えてみるまでもないことで、自分の身の丈に合ったブログという小世界を作ることなど、苦もなく自然にできてしまうのかもしれません……。


JUGEMテーマ:インターネット

at 19:01, 浪人, ネットの旅

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『3年で辞めた若者はどこへ行ったのか ― アウトサイダーの時代』

 

評価 ★★☆☆☆ よかったら暇な時に読んでみてください

現代の若い世代が職場で感じている閉塞感の原因は、すでに時代と経済状況に適合しなくなった年功序列制度にあるとした、城繁幸氏のベストセラー『若者はなぜ3年で辞めるのか? 』については、先日このブログでも紹介しました。

この本は、その続編にあたります。前作が、人事システムという切り口から見た日本社会の現状分析だとすれば、今回はその現状に立ち向かう若い世代を追った実践編ともいうべき内容になっています。

城氏は、「昭和的価値観」に従わずに生きるアウトサイダーとして、さまざまな若者の生き方を紹介します。年功序列というレールを自ら降り、転職や独立を果たした人、レールに乗り損ねたり、始めからレールに乗ることを選ばなかった人……。

彼らの置かれた状況や生き方はさまざまですが、この先彼らが、無事にこの浮世の激動を泳ぎ渡っていけるのか、先のことは分かりません。それに現在でも、彼らの存在は日本社会の中で、まだまだ少数派です。

しかし彼らは、新しい価値観と生き方を求めて、組織に頼らず、自らの足で歩き始めた人々であると言えます。

この本を読むのが就職活動前の学生なら、衝撃とともに、これから自分の進むべき道について、深く考えるきっかけと材料を与えられることになるだろうし、就職について安易な結論を出す前に、企業でのインターン制度などを積極的に活用し、会社の生の現場をもっと見てみたいという気持ちになるでしょう。

また、30代くらいまでの若手サラリーマンなら、会社の上司・先輩やマスメディアの言うことを鵜呑みにせず、冷静に情報を収集した上で、自分が現在置かれている状況と、自分の将来について改めて真剣に考え直してみたいと思うはずです。

ちなみに、この本には、これからの時代の新しい価値観、城氏の言う「平成的価値観」が、はっきりとした形で示されているわけではありません。それは、新しい価値観の大きなポイントが「多様性」にあり、それが多様な人生観、多様な生き方や働き方を許容するものだからということもあります。

そういう意味では、自分がこれから何をどうすればいいか、この本でマニュアル的な分かりやすい指針を示してもらおうと思っていると、あてが外れるでしょう。

私たちをとりまく世界の状況が激変している今、終身雇用のレールから降りることは大きな賭けですが、かといって、中高年以上の「逃げ切り世代」はともかく、若い世代にとっては、レールの上に残り続けるのにも大きなリスクが伴います。

結局、どの道を選ぶにせよ、私たちそれぞれが、何をしたいのか、どのように生きたいのかを常に自らに問い、主体性と覚悟をもって、自らの信じる道を進んでいくしかないのだと思います。


本の評価基準

 以下の基準を目安に、私の主観で判断しています。

 ★★★★★ 座右の書として、何度も読み返したい本です
 ★★★★☆ 一度は読んでおきたい、素晴らしい本です
 ★★★☆☆ 読むだけの価値はあります
 ★★☆☆☆ よかったら暇な時に読んでみてください
 ★☆☆☆☆ 人によっては得るところがあるかも?
 ☆☆☆☆☆ ここでは紹介しないことにします



JUGEMテーマ:読書

 

at 18:59, 浪人, 本の旅〜人間と社会

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見たい番組を探す時間はムダ?

先日、ネット上のニュースでこんな記事を見かけました。 


【チャンネル替えで年に1週間が無駄に=英調査】


 [ロンドン 7日 ロイター] 英国のデジタルテレビ利用者は、見る番組を探すため100局以上あるチャンネルを行ったり来たりして年当たり1週間分の時間を無駄にしている、との調査結果が7日明らかになった。
 米マイクロソフト<MSFT.O>のコネクテッドTV部門の委託で行われた約2000人を対象にした調査によると、利用者は1日平均2―3時間テレビを見るが、そのうち4分の1の時間がチャンネル替えに費やされていた。
 長い時間を費やすにもかかわらず、利用者の73%は、何がやっているか分かりにくく手間取って、見たかった番組を逃していることも判明。なじみのあるごく一部の局しか見ない人も41%いた。


毎日の生活の中で、チャンネルをカチャカチャ替えているうちに何となく過ぎていく時間も、1年分をすべて合計してみれば、1週間もの時間になるというわけです。

しかしこれは、この調査の対象者のように、100以上ものチャンネルを持て余しているイギリス人に限ったことではなく、たとえチャンネルの数が限られていても、日本人を含めて多くの人々が、テレビのチャンネルを何となく替える行為に、多大な時間を費やしているのではないでしょうか。

私の場合も、一人でボンヤリとテレビを見ているときは、リモコンで頻繁にチャンネルを切り替える、いわゆるザッピングをしながら、何となく面白そうなシーンを物色しています。
ウィキペディア 「ザッピング」

ただ、私がこの記事で気になったのは、そうしたチャンネル替えに費やされる時間の多さではなく、記事の中で、そうした時間がムダな時間とみなされていることです。

そこには、チャンネルを替えたり、どの番組を見るか迷ったりしている時間はムダだが、番組をじっと見ている時間はムダではない、という単純な発想があるように思います。

そして、その発想のウラには、テレビというものは、あらかじめ見たい番組が明確に決まっているべきであり、また、一度見ると決めた番組は始めから終わりまで、他の番組に浮気せずに見るべきであるという、暗黙の前提があるような気がします。

しかし考えてみれば、これはテレビ局の側の立場や都合を反映した考え方でしかないように思えます。それは番組を制作する関係者や放送局側の希望ではあっても、テレビを見る視聴者の側まで、それを義務として引き受ける必要はないでしょう。別に、チャンネルを行ったり来たりして時間を費やそうが、マジメに時間を守ってテレビを見ようが、それは見る側の勝手です。

それにそもそも、時間を一瞬たりともムダにせず、自分が見たいと思う番組を瞬時に知ることなど、果たして可能なのでしょうか?

ふつうの人なら、毎回欠かさず見ているとか、前からどうしても見たかった番組は別にして、ちょっとヒマを持て余しているようなときには、とりあえずテレビをつけてみて、チャンネルを適当に替えながら、今、何か面白そうな番組はないかと探すはずです。

いろいろ探してみても、結局、面白い番組が見つからないこともあるし、たまたま目にした番組が面白くて、そのまま見入ってしまうこともあるでしょう。

テレビを見る人の多くは、番組そのものを楽しんでいるというよりは、むしろそうやって、リモコンを手に、無計画に行き当たりばったりの探索をしたり、その結果として予想外に面白いシーンにめぐり合ったりする意外性に、楽しさを見出しているのかもしれません。

これは、人が、用もないのにとりあえずショッピングセンターをぶらついてみたり、本屋で長い時間をかけて読みたい本を物色したり、世界をあてもなく放浪したりするのと、基本的に同じ動機に基づいているような気がします。

もっと話を広げれば、人生だって、一種の探索行動の繰り返しです。

自分にはどんな才能があり、何をやりたいかなど、生まれたときから分かっている人などほとんどいません。多くの人は、自分について、自分でもよく分からないまま、行き当たりばったりの暗中模索をしながら生きているんだと思います。考えようによっては、そうやって自分をめぐる謎を少しずつ解き明かしながら生きていくのが、実は人間にとって最上のエンターテインメントであるのかもしれません。

そういった、何か自分にとって良いと思えるものを求めて手探りで進んでいくプロセス自体が、人生の大きな楽しみだとすれば、テレビのチャンネルをカチャカチャ替えることだって、そうした楽しみの一つのあり方だと言えるのではないでしょうか。

だとしたら、そうした時間はムダであるどころか、もしかすると番組そのものを見るよりも重要なことで、もっと時間をかけて、たっぷりと味わうべきであるとさえ言えるかもしれません。

先ほどの話に戻れば、どんな番組を見るかを決める時間が「ムダ」であり、それを最短時間で済ませるのが「効率的」なのだとすれば、そうした時間をできるだけ削っていくことが目標になります。

ただ、そうしようとすれば、「なじみのあるごく一部の局しか見ない」ようにするとか、テレビ情報誌や新聞などのオススメを鵜呑みにするとか、みんなが見ているからという理由で番組を見るとか、とにかく何も考えず、今までの習慣どおりに行動し続けるか、誰かの指示することにひたすら従うしかなくなってしまいます。

しかし、そうやって「ムダ」な時間を極限まで削り、最大の効率を達成したとして、それは一体誰のためになるというのでしょう?

自分が見たいもの、面白いと思うものを自分の感覚に訊ね、一つ一つ探していく行為には、時間がかかるのが当たり前です。しかし、それこそ、一人ひとりの人間にとって一番面白く、やりがいのあるプロセスなのではないでしょうか。

まあ、こういう「こぼれ話」的な気楽なニュースに、意地になってこんなツッコミを入れてみても仕方がないのかもしれませんが……。

それに、「テレビを見たり、チャンネルを替えたりしている時間は全然ムダじゃない!」と強く言い切れるかと言えば、ためらいを感じることもたしかです。

テレビのチャンネル替えも、人間生来の探索行動の一環とはいえ、長時間チャンネルを行ったり来たりしているだけで、何も面白いものに行き当たらず、徒労を感じることもしばしばです。

自分が見るべき番組を、誰かに「効率よく」指示されるのはイヤだけど、かといって、自分で探すとなると、自分でもムダだと思うような多大な時間を費やす覚悟が必要でしょう。

それに、言うまでもないことですが、テレビのほかにも、人間にとって楽しい探索活動はいくらでもあります。そうした「自分探し」の多様さと面白さに気がつけば、テレビのリモコンを握りしめている時間が長すぎるのは、たしかにムダかもしれない、と思えてくるのではないでしょうか。

ザッピングは気軽で楽しい探索行為の一つではありますが、それはあくまでテレビに映し出された世界を探索しているだけだし、それだけではやはり、人生は前に進まないと思うので……。


JUGEMテーマ:ニュース

at 20:02, 浪人, ニュースの旅

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旅先でダウン

インドネシアのフローレス島を旅していたときのことです。

フローレス島は、クリムトゥ山の三色カルデラ湖をはじめ、観光的な見どころの多い、とても美しい島です。有名なバリ島などとは違って開発が進んでいないため、旅をするのにはいろいろと苦労が伴いますが、見方を変えれば、それだけ旅の醍醐味を味わうことのできる土地であるといえるかもしれません。

その日、私は島の北側にあるリウンから、バスを乗り継いで西へ向かい、午後遅くルーテンに到着、町の中心に近いところに宿を見つけました。

ルーテンは標高が高いせいか肌寒く、雨も降っていたので、いつものように町をぶらつく気にもなれず、早めの夕食をとってしまうと、移動の疲れもあったので早めに寝ることにしました。

しかし、夜中になって、熱っぽい苦しさを感じて目が覚めました。

どうも気のせいではなく、本当に熱があるようです。しかも、時間がたつにつれて体温が上昇しているようで、ひどい寒気もしはじめました。

こんなに急に熱が出ることは、旅の最中はもちろん、日本で生活しているときにもほとんど体験したことがありません。

まったく予想もしていなかった突然の展開に、私は少しうろたえました。

手元にあるものといえば、気休め程度のカゼ薬だけだし、体温計など持ち合わせていないので、いまどのくらい熱があるのかも分かりません。

しかもここは、つい数時間前に着いたばかりの見知らぬ土地です。

もしかすると、医者の助けを求めることになるかもしれないのですが、病院の場所など全く知らないし、そもそも英語か何かで意思疎通のできそうな医者がいるかどうかも分かりません。

そしてもちろん、医者だけではなく、いざというときに頼りになりそうな知り合いもいません。万が一の場合には、宿の人を信じて助けを求めるしかないでしょう。

ただ、今のところ激しい痛みとか、呼吸困難とか、一刻を争うような症状はなく、とりあえず熱がやたらと出ているだけというのは、不幸中の幸いでした。これなら、何とか朝まで様子を見て、それから次の行動を考えることもできるかもしれません。

私はバックパックの中から、ありったけの衣類を取り出して着込みました。

激しい熱のせいか、のどがしきりに渇きます。

こんな異国の地で、この先自分はどうなってしまうのか……。

考え出せば、いくらでも不安が増してしまいそうな状況です。しかし、経験したことのある人なら分かると思いますが、こうして熱が出ているときというのは、だんだん頭がボーッとしてくるので、あまり余計なことを考えていられなくなります。

思考はまとまらなくなり、いろいろな心配事も頭の中から蒸発していきます。私は朦朧とした意識の中で、ただこの寒気だけは何とかならないかと考えていましたが、いつの間にかトロトロと眠りに落ちていきました。

朝方になると、熱は何とかおさまったらしく、ひどい寒気は感じなくなっていましたが、一晩の高熱で体力をすっかり使い果たしてしまったらしく、全身虚脱状態で、とてもバックパックを背負える状態ではありません。

この町には一泊するだけで次の町へ向かう予定でしたが、これではどうしようもなく、とりあえず移動せずに体力の回復を待つことにしました。

外は寒いし、どしゃ降りの雨だし、食欲もないし、部屋を出る気力さえなかったのですが、それでも飲み水だけは買わなければならなかったし、療養が長期戦になった場合に備えて、音楽を聴くための電池なども買っておこうと思いました。

それで、なんとか気力をふりしぼって宿の外に出てみたのですが、足元がふらつき、50メートルも離れていない雑貨屋まで往復するだけで脂汗が出るしまつです。

私は早々に部屋に戻り、食事もとらずにベッドに横になりました。医者に診てもらうほどではないと思ったものの、これではとにかく寝ている以外に何もできません。

横になると、昼間だというのに、いくらでも眠っていられることに気がつきました。よほど旅の疲れがたまっていたのでしょうか。私は、眠っているのか起きているのか自分でもよくわからないトロトロした状態のまま、丸一日過ごしました。

無理をせず一日寝ていたのがよかったのか、翌朝には体調がかなり回復し、なんとか動ける状態になりました。

もう一日様子を見てもよかったのですが、ルーテンの寒さは今の私には厳しかったし、もしかすると何か重大な病気になっている可能性も捨て切れません。とりあえず動けるうちに大きな町まで移動しておこうと判断し、バスで4時間かけて、フローレス島西端のラブハンバジョーに向かいました。

幸い、移動中に熱がぶり返すこともなく、暖かい(というよりは暑い)ラブハンバジョーでは日に日に体力が回復して、数日後には元のように、ふつうに旅を続けられるようになりました。

今、思い返せば、ルーテンで発熱したのは、長い旅に出てそろそろ1カ月になろうとしていた頃です。

それまで、学生時代の休みとか会社の有給休暇で、数日から数週間の旅をしたことはありましたが、その時のように、期限を決めない長い旅に出るのは初めてでした。

旅が長くなりそうだと思っていたので、あまり無理をせず、旅のペースを意識的に抑えているつもりでしたが、食事や水にしても、気候にしても、日本とはまるで違う環境に変わったのに加え、移動しながら暮らすという新しい生活のスタイルを始めたために、自分でも気がつかないうちに、体にかなりの負担がかかっていたのかもしれません。

そのときは結局、医者にかからなかったので、何が発熱の原因だったのかは分からないままですが、素人なりの勝手な想像が許されるならば、それはきっと、ウイルスや細菌によるものというよりは、定住型から移動型へ生活パターンが変化したことに伴う、体の側の調整みたいなものだったのだろうという気がします。

その後も、長い旅の中では、こういう形でダウンすることが何度かありました。

私はそのたびに、このルーテンの経験を思い出し、きっとそれは体が調整と休息を求めているサインなのだと考えて、できるだけゆっくりと休むようにし、それからしばらくの間は旅のペースにも気を配るようにしました。

その素人考えが、適切な判断だったのかどうかは全く分かりませんが、とにかく旅の間、それなりの小さなケガや病気はあったものの、入院するほどの重病や大事故には遭わなくて済みました。

しかしもちろん、症状によっては、一刻も早く医者に診てもらわなければならないこともあるはずです。私の場合は、旅の間に、たまたまそういう病気にかからなかっただけなのかもしれません。状況次第では自分で対応することをあきらめ、すぐに専門家に判断を仰ぐことも必要でしょう。

皆様も、長い旅に出るときは、できれば旅行者用の保険に入り、自らの体調には常に細心の注意を払ったうえで、旅の日々を楽しんでください。


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at 19:43, 浪人, 地上の旅〜東南アジア

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旅の名言 「逃避する自分を……」

外こもりとは、突き詰めれば日本社会からの逃避である。うまく逃げ通せれば、余裕がなくなりつつある日本社会で、奥歯に力を入れて生きなくてもいいと思う。しかしそこには、うまく逃げられれば……という前提がある。それはなかなか難しいことだ。日本人であるという事実はいつまでもついてまわる。逃避する自分を探しまわる追手もまた自分のなかに棲んでいるのだ。
 だが日本社会が怖い。
 いまの日本社会に怖さを感じとってしまう若者が増えている。逃避への羨望をいつも抱えもってしまっている。外こもりの入口のひとつは、その怖さであることもまたたしかなのだ。

『日本を降りる若者たち』 下川 裕治 講談社現代新書 より
この本の紹介記事

今、日本人の間に増えているといわれる「外こもり」の実態を描いた、旅行作家の下川裕治氏の著作、『日本を降りる若者たち』からの一節です。

「外こもり」という言葉自体が生まれたのは、つい最近のことですが、派遣の仕事やアルバイトで集中的に金を稼ぎ、東南アジアなど物価の安い国に長逗留して、金がなくなるまでのんびり生活するという人々は、少数ではありますが、以前から存在していました。

彼らの多くは、長い海外放浪生活などを通じて、日本以外の場所に自分のささやかな居場所を見出し、そこで暮らし続けることを前提に、そのようなライフスタイルを確信犯的に選び取ったのだと思います。

今、外こもり生活をしている人々の中には、そうした長い放浪や試行錯誤のプロセスを抜きにして、インターネットや友人知人からの情報をもとに、いきなりバンコクなどで長期滞在を始める人もいるようですが、いずれも日本に居場所を見出せないでいるという点や、「日本社会からの逃避」という側面があるという点で、昔も今も、本質的な部分ではあまり変わらないのかもしれません。

ただ、考えてみれば、昔のヒッピーや、ひと昔前の海外放浪者たちが、息苦しい日本からいかに逃げるかというノウハウを、自らの生き方を通じて少しずつ生み出してきたからこそ、現代の人々がその一部を、外こもりという形で享受できるのだともいえます。

ある社会から逃げるために旅立つというのは、たしかに、そこに前向きなイメージはないのかもしれませんが、それは古い昔から、旅立ちの理由として珍しいものではありませんでした。それに、どんな理由であれ、とにかく人は別の土地に移ることによって、そこに新たな人生の展開を見出すことができます。

ただし、下川氏も指摘しているように、日本を捨て、そこから完全に逃げ通そうと試みたとしても、それは非常に難しいことです。

何よりもまず、世界のどこへ行っても、その国の人から自分が日本人として見られ続けることをどうすることもできません。

それに、海外で暮らすといってもそれなりの資金が必要ですが、多くの場合、それを稼ぐために一時的に日本に帰ったり、あるいは現地の日系企業や日本人観光客向けの仕事についたりすることもあるでしょう。しかしこれは、日本円の強さや、日本に自由に出入りできる日本国籍という恩恵に浴していることになるわけです。

また、孤独や不安を紛らすために、海外でもつい日本人同士で固まってしまったりします。

こうして日本から逃げているつもりになりながら、結局、日本社会の影響や庇護のもとから出られないというのはよくあることですが、これでは、日本と縁を切ったことにはならないでしょう。

それに、そうした外面的なことばかりではなく、日常的に日本語を話し、日本語で思考していたり、あるいは、日本を中心とした視点から世界の出来事を解釈している限りは、日本人であるという内面的な限界からも逃れることができないのです。

もし私たちが、仮に日本社会の呪縛から逃げたいと思ったとしても、外面的・内面的にどこかで日本人であり続ける限り、自分もその呪縛の一部を担い続けることになります。「逃避する自分を探しまわる追手もまた自分のなかに棲んでいる」のです。

このジレンマを乗り越えるために、かつての日本逃避のパイオニアたちは、さまざまな試みと挫折を繰り返してきました。その多くは、さんざん苦しんだあげく、いくら日本や日本社会が嫌いでも、日本というものを自分の中から完全に断ち切ることなど不可能だと思い知ったのではないでしょうか。

そして、それが不可能なら、せめて心の中の葛藤をなだめつつ共存する方法はないかということで生み出されたものが、外こもり的なライフスタイルだったのだとも考えられます。

外こもりは、もしかすると、旅人でもなければ定住者でもなく、日本人でもなく現地に帰化しているのでもないような、微妙なバランスの上に成り立つ一種のモラトリアム状態で、なおかつ、その状況をできるだけ永続化させようとする試みなのかもしれません。

人によっては、それはあくまでも一時的な妥協にすぎないと思う人もいるでしょう。そういう人は、ただ日本から逃げたり、外こもりという一種のモラトリアム状態を持続させるのではなく、現在の日本社会に象徴される一定の文化やライフスタイルに対して、何らかの創造的な対決をせざるを得なくなります。

その対決を乗り越えるためには、かつてのパイオニアの人々の挑戦と挫折から冷静に学び、さらにその先に進んで、今の時代と自分に最もふさわしい新しい生き方を、苦しみ、試行錯誤しながら、少しずつ生み出していく必要があるのでしょう。

ただ、それが具体的にどんなものなのか、もちろん、今の私にはわからないし、誰かそういう新しいスタイルを開拓している人がいれば、ぜひいろいろと教えてもらいたいと思っているのですが……。


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at 19:12, 浪人, 旅の名言〜旅人

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