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ジャングルで動物観察

マレー半島の内陸部にある、タマンヌガラ国立公園に滞在していたときのことです。

この国立公園は、マレーシアの主要な観光ルートからは少し外れた場所にあるため、日本ではあまり知られていないようですが、熱帯雨林のジャングル・トレッキングや野生動物ウォッチングが楽しめる、なかなか面白いところです。

以前にこのブログにも書きましたが、私はタマンヌガラ到着後、アメリカ人の退役軍人D氏とジャングル・トレッキングに出かけ、ブンブン・クンバンというハイド(野生動物観察小屋)に泊まり込んで、動物の出現を夜通し待ちました。
記事 「退役軍人とジャングルトレッキング」

タマンヌガラでは、運がよければバク、ゾウ、シカなどがハイドの近くまでやって来るのを観察できるということだったのですが、その日は、小屋の中に乱入してきた大きな野ネズミ以外に、動物らしい動物を見ることはできませんでした。

まあ、そういうことはよくあるらしいのですが、せっかく野生動物の宝庫にやって来て、何も見られずに帰るというのも悔しかったので、私はこの公園での滞在を少し延長し、もう一回だけハイドでの動物観察にチャレンジしてみることにしました。

今度は場所を変え、ブンブン・ヨンという別のハイドを一人で予約しました。また、前回の教訓を踏まえ、動物がよく見えるよう、光の強力な大きな懐中電灯を用意しました。これは、宿の近くで知り合ったマレー人のオッサンから借りることができました。

それと、飲み水を多めに用意しました。これは、前回のジャングル・トレッキングで大量に汗をかいたためにのどが渇き、水が足りなくなって非常に辛い思いをしたためです。

バックパックは宿に預け、必要最小限のものだけをデイパックに詰め込むと、余裕をもって昼過ぎに出発しました。道が大変わかりやすかったので迷うこともなく、また自分のペースでゆっくりと歩けたので、前回のトレッキングよりもずっと楽でした。

2時間ほどでブンブン・ヨンに到着しましたが、とりあえず夕方まですることもないので、小屋に備えつけの動物観察ノートを読み返したり、目の前のジャングルを眺めながらボーッと過ごします。

夕方になって、軽く雨が降りましたが、すぐに上がり、しっとりとした、静かな夕べになりました。

6時半、楽しみにしていた夕食の時間です。といっても、ビスケットに缶詰、それに水だけという質素なものです。ただ、前回D氏とトレッキングしたときに、彼が持参していた缶詰を少し味見させてもらい、かなりうまかったので、今回はそのマネをして、全く同じものを用意しました。

宿の近くの商店で売っていた中では一番高価な、ツナ・カレーの缶詰なのですが、これが実にいい味つけで、ビスケットにも絶妙にマッチします。貧乏旅行のスタイルがすっかり身についてしまっていた私は、やっぱりこういうところでケチってはいけないな、お金をちょっと余分にかけるだけで、トレッキングの満足感が格段に違うものなのだなと、しみじみと実感したのでした。

食事が終わると、あとは野性動物の出現を待つだけです。

ハイドは物見やぐらのような構造をしていて、その前方に開けたスペースにやってくる動物を、観察窓から見下ろせるようになっています。観察窓に懐中電灯を置いて前方の数十メートルを照らし出し、何か動きがあればすぐに分かるようにして、暗闇の中で息を潜めてじっと待ち続けます。

夜の8時くらいになると、虫の声が大きくなってきました。周囲のジャングルには、何かが潜んでいるような濃厚な気配が漂っています。いかにも動物が現れそうな予感がして胸が高鳴りましたが、待てど暮らせど、動くものの姿は見えません。

今回は一人なので、話し相手もいないし見張りを交代することもできません。しかも、これだけの努力が報われるのかどうかも全く分かりません。そんな状況で、あてもなく、何時間もただひたすら待ち続けるというのは、相当な忍耐を要します。

もちろん、自然の中に分け入って何日でも何週間でも待ち続け、しかも一瞬のチャンスを逃さずに、すばらしい映像に収める動物カメラマンの方々の集中力にくらべれば、屋根もトイレもある観察小屋でのたった一晩の体験など、単なるお遊びに過ぎないのですが……。

眠気に耐えつつ、ビスケットをつまんだりしながら、2時半くらいまで待ち続けたのですが、結局何も見ることはできませんでした。それに、何時間もつけっ放しだった懐中電灯の電池が切れてきて、光もだんだんボンヤリしてきました。これでは、仮に何か動物が現れたとしても、光が弱すぎてよく観察することができないでしょう。

私はあきらめて寝ることにしました。

今回も、結局徒労に終わったけれど、ホタルが舞い、虫の音の響きわたる幻想的な熱帯雨林の夜を、一人静かに堪能できただけでもよしとしよう、と思いました。

ガランとした小屋の中のベッドに横になり、懐中電灯を消すと、ゴミ箱の中で、ネズミが何かをガリガリとかじる音が聞こえてきます。そして、小屋の中を飛び交うコウモリが起こす風。その風を顔の上に感じつつ、眠りにつきました。

翌朝、ものすごい湿気のために寝床がベタベタし、とても寝ていられなくなって目が覚めました。無数の鳥たちが、あちこちでさかんに鳴きたてています。

次第に明るくなっていくジャングルを眺めつつ、ビスケットの朝食をとりました。

朝8時半頃に出発し、宿に向かって、もと来た道を引き返していると、突然、ガサッと大きな音がして、藪の中へと逃げ込む大きな動物が見えました。私の目には、こちらに赤い尻を向けた姿が一瞬見えただけでしたが、あれは鹿だったのでしょうか?

それにしても、夜通し待ち構えていたときには何も現れなかったのに、帰り道、何も期待せず、ボーッと歩いているときに現れるというのが、何とも皮肉でした。まあ、それでも一応、野性動物を「見た」ことにはなったわけです。

この後、帰る途中で小さな洞窟にも立ち寄ったのですが、その話は次回に書くことにします。


記事 「ジャングルでプチ洞窟探検」


JUGEMテーマ:旅行 

at 18:43, 浪人, 地上の旅〜東南アジア

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『ニッポン地下観光ガイド』

評価 ★★☆☆☆ よかったら暇な時に読んでみてください

この本は、日本の地下世界を旅するためのガイドブックです。

一般向けに公開されている25の地下施設や地下空間が全国各地からピックアップされ、「ライフライン」、「実験施設・研究所」、坑道や採石場などの「産業遺跡」、「洞窟&鍾乳洞」、地下壕などの「戦争遺産」という5つのカテゴリー別に、豊富な写真つきで紹介されています。

洞窟や坑道については、地下世界に特に興味がなくても、何かの観光のついでに見学したことのある人も多いかもしれません。私はこの本を見ながら、東南アジアを旅していたころ、あちこちで見た洞窟や鍾乳洞、そしてベトナム戦争の遺産である地下トンネルや、インドネシアのスマトラ島で見た旧日本軍の大規模な地下壕のことなどを思い出しました。

ただ、さすがに現代の最先端テクノロジーを反映した地下施設となると、地下鉄のトンネルや地下街は別にして、私もきちんと見たという記憶がありません。

そうした施設は、テレビでもときどき紹介されることがあるのですが、まるで地下神殿のような首都圏外郭放水路や、日比谷共同溝、首都高速中央環状新宿線などのトンネル群、地底の水力発電施設など、その迫力はとにかくその場に立ってみないと味わえないのでしょう。

地下施設、地下空間を旅する魅力は、地上とは異質な空間の広がりやスケール感、反響する音、温度・湿度・匂いなどといった五感への刺激や、そのトータルな感覚としての「異界」感にあるのでしょう。地上の一般的な観光地では少し物足りなくなってしまった人にとって、地下世界、特に最先端の地下施設は、残された数少ない観光のフロンティアの一つとして、今後大いに注目される可能性を秘めているのかもしれません。


本の評価基準

 以下の基準を目安に、私の主観で判断しています。

 ★★★★★ 座右の書として、何度も読み返したい本です
 ★★★★☆ 一度は読んでおきたい、素晴らしい本です
 ★★★☆☆ 読むだけの価値はあります
 ★★☆☆☆ よかったら暇な時に読んでみてください
 ★☆☆☆☆ 人によっては得るところがあるかも?
 ☆☆☆☆☆ ここでは紹介しないことにします


JUGEMテーマ:読書 

at 18:37, 浪人, 本の旅〜日本

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旅の名言 「日本で行き詰まった若者は、……」

 バンコクではカオサンのゲストハウスに向かった。そこではいろいろな日本人と出会った。そんななかに、これから日本語教師としてバンコクで生きていくという奴がいた。会社を辞めて、これから宝石の事業を立ち上げると息巻いている男もいた。そしてそのなかに、外こもり組がいた。
「そんな生き方があるのか……」
 カオサンで飛び交っていた話が、ひとつひとつ、なんの抵抗感もなく雅人のなかに入ってくるのがわかった。それぞれが口にする話には、雲をつかむような話や明らかな眉唾物もあったが、そんな話を口にする日本人は皆、同じ匂いを漂わせていた。全員が日本嫌いだった。正確にいえば、皆、日本の仕事を嫌っていた。日本という国に生きづらさを感じとってしまった若者たちだった。
 雅人のような若者にとってバンコクのカオサンは行ってはいけない場所だったのかもしれない。日本で行き詰まった若者は、カオサンに流れる空気に一気に染まっていってしまう。まるで赤子が手をねじられるようなものだった。直接手をねじる人がいるわけではない。カオサンに集まってきた若者たちが体から発散するエーテルのようなものにすぐに感化されていってしまうのだ。日本での閉塞をまとった若者たちは、誘蛾灯に集まる蛾のようにも映る。
「バンコクは面白い。直感でそう思いました。急に楽になったというか、救われたというか。バンコクに来て、なにか急に目の前が開けてきたような気がしたんです。この街にいたら、もうとやかくいわれないっていうような感じかな」


『日本を降りる若者たち』 下川 裕治 講談社現代新書 より
この本の紹介記事

「外こもり」と呼ばれるライフスタイルについて取材した、旅行作家の下川裕治氏の著作、『日本を降りる若者たち』からの一節です。

外こもりとは、派遣やアルバイトで集中的に金を稼ぎ、東南アジアなど物価の安い国で金がなくなるまでのんびりと生活する人々のことですが、彼らの間で最も人気の高い滞在地がバンコクです。中でもカオサン通り周辺は、世界各地からバックパッカーの集まる有名な安宿街で、外こもり組の姿も多く見られます。

冒頭の一節は、そんなカオサンにふらりとやってきた若者が、そこに集う日本人たちの醸し出す雰囲気に感化されていく典型的なパターンを描いています。

日本社会の中にしっかりと居場所を見出している人から見れば、カオサンのような混沌とした街に沈澱し、「雲をつかむような話や明らかな眉唾」を吹聴している人たちは、自分とは違う世界に生きる、うさん臭い連中に過ぎないのかもしれません。

しかし、日本で生きていくことに行き詰まったり、ひどい孤独感にさいなまれている人は、カオサンに集う人々の中に、何か自分と同じような匂いを嗅ぎつけてしまうのです。それに、日本を離れ、カオサンのような安宿街にひっそりと暮らしている限り、自分たちがどんな生き方をしていようと、それにケチをつけたり余計な説教をしてくるような人もいません。

そこには、日本で暮らすほどの便利さや快適さはないし、物価が安いといっても、彼らのほとんどが質素な倹約生活を強いられます。それでも、彼らがカオサンという小さな世界や、そこに集う人々に感じる安心感や解放感は、他に代えがたいものがあるのです。

もちろん、カオサンでの毎日に解放感を感じ、「なにか急に目の前が開けてきたような気」になったとしても、実際のところ、彼らの日本での人生に関して、何か新しい具体的な展望が開けるわけではありません。その気分の高揚は、カオサンの中でだけ感じていることのできる、あくまで一時的なものに過ぎないのです。

それでも、少なからぬ若者たちが、「カオサンに流れる空気に一気に染まっていってしまう」のは、どんな人間にもとりあえずの居場所を与え、受け入れてくれ、しかもそれなりに元気まで与えてくれる、カオサンのような不思議な雰囲気に満ちた場所が、日本にはほとんど存在しなくなってしまったからなのではないでしょうか。つまり、彼らには、そういう場所に対する「免疫」がないのです。

もしかすると、彼らの多くが、日本での厳しい生活の中で、そのような居場所を長いあいだ切実に欲していたのにもかかわらず、日本にいるときには決してめぐり合うことができなかったのではないでしょうか。だからこそ、彼らはカオサンのような場所にやってくると、そこに「何か」を感じ、すっかりハマってしまうのだともいえます。

あるいは、カオサンに沈澱する若者たちの醸し出す雰囲気が、少年時代、気の合う仲間どうしでグループを作って、何をするでもなくぶらぶらと時間を過ごしたり、見知らぬ場所にみんなで繰り出してみたり、ちょっとした悪ふざけをしたりしていた、あの懐かしい感覚を思い出させてくれるのかもしれません。

『日本を降りる若者たち』の中で、著者の下川裕治氏は、「カオサンという土地は、日本の合わせ鏡のような役割を担っているのかもしれない」とも書いています。日本を逃れるようにしてカオサンに集まってくる若者たちの姿は、日本が経済成長や物質的な豊かさを追求し、そのために効率よく機能する社会を作り上げることに熱中するあまり、いつの間にか社会から排除してしまった「何か」の存在を、おぼろげに映し出しているのかもしれません。

もっとも、だからといって、カオサンが現代の日本や欧米の若者にとっての理想郷なのかといえば、やはりとてもそのようには見えないのですが……。


JUGEMテーマ:旅行

at 19:09, 浪人, 旅の名言〜土地の印象

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『コドモダマシ ― ほろ苦教育劇場』

 

評価 ★★☆☆☆ よかったら暇な時に読んでみてください

この本は、謎のイタリア人(?)戯作者、パオロ・マッツァリーノ氏による知的エンターテインメント最新作です。

今回は、これまでの「統計漫談」とはかなり趣を変えて、とある勝ち組サラリーマン家庭の親子の対話という設定の、ショートコント仕立ての作品になっています。

身のまわりのさまざまな出来事への子供らしい素朴で鋭い疑問に対し、お父さんが自らの威厳を保つため、強引なヘリクツを駆使して立ち向かうというパターンなのですが、その話題は受験や将来の夢、ペットやイジメの問題といった、子育てに関わる身近で切実な問題から始まって、環境問題や格差の問題、果ては現代美術の鑑賞法まで、あらゆる方向へと広がっていきます。

一見、軽く皮肉の効いた知的なホームコメディという感じですが、お父さんが妙に統計データに詳しかったり、親子の対話に茶々を入れるちょいワルおじいちゃんが登場したり、「理論派お父さんのための」少々マニアックなブックリストがついていたりと、本書の随所にマッツァリーノ氏らしさが顔を出しています。

また、お父さんの言葉も、最初の頃はその場しのぎのヘリクツそのものだったりするのですが、後半になると、マッツァリーノ氏のキャラが乗り移ってしまったのか、子供の疑問に対してなかなかシャープな切り返しをみせたり、理屈だけでは割り切れない世の中の矛盾に対して、なかなか説得力のある面白い解説をしてみせたりと、その「成長」ぶりもなかなかのものです。

それにしても、マッツァリーノ氏は新作のたびに新たな表現スタイルにチャレンジしています。

今回も、作品をまとめるにあたって、「社会性を持たせつつ、ホームドラマでもなくてはならないし、ほのぼのとした中にブラックな味付けを、それでいて深刻にならずあくまで軽妙に……」という、相当に高いハードルを自らに課して臨んだようです。

それは、前作の『つっこみ力』でマッツァリーノ氏自らが提唱した、「愛と勇気とお笑い」のさらなる実践でもあるのでしょう。

ただ、個人的な好みで言うなら、私は『反社会学講座』の頃の、あまり一般向きではないかもしれないけれど、毒があって切れ味鋭い「統計漫談」の方がずっと面白かったと思います。今回の作品は、話題もぐっと日常的になって、軽妙でほのぼのとした味わいも増し、誰もが手に取れる内容になっているのですが、毒の効いたユーモアという点では逆に物足りなくなってしまった気がします。

もっともそれは、私がそうした毒気に関して鈍感になってしまったからなのかもしれません。インターネット上では、裏づけや説得力はともかく、過激さや極端さだけを売り物にするような言説がいくらでも読めてしまうので、いつしかそうした傾向に慣れてしまい、彼の作品にも、そういう過激さのようなものをつい期待してしまうのでしょうか。

というわけで、この本については、人によって評価が分かれるのかもしれません。興味のある方は、実際に読んで確かめてみてください。


パオロ・マッツァリーノ著 『反社会学講座』の紹介記事
パオロ・マッツァリーノ著 『反社会学の不埒な研究報告』の紹介記事
パオロ・マッツァリーノ著 『つっこみ力』の紹介記事


本の評価基準

 以下の基準を目安に、私の主観で判断しています。

 ★★★★★ 座右の書として、何度も読み返したい本です
 ★★★★☆ 一度は読んでおきたい、素晴らしい本です
 ★★★☆☆ 読むだけの価値はあります
 ★★☆☆☆ よかったら暇な時に読んでみてください
 ★☆☆☆☆ 人によっては得るところがあるかも?
 ☆☆☆☆☆ ここでは紹介しないことにします



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at 18:44, 浪人, 本の旅〜人間と社会

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『黄泉の犬』

文庫版はこちら

 

評価 ★★★☆☆ 読むだけの価値はあります


年明け早々、ヘビーな本を読んでしまいました。

『黄泉の犬』という本のタイトルや、おどろおどろしい表紙の雰囲気にたがわず、内容もかなり強烈です。

1995年、日本を揺るがした地下鉄サリン事件とその後の騒動が続いていた頃、藤原氏はオウム真理教の麻原彰光こと松本智津夫の生い立ちを知るべく、彼の生まれ故郷である熊本県八代へ向かいます。

そこで彼は、松本智津夫の目の疾病が水俣の水銀毒によるものだったのではないかという奇妙な想念にとらわれ、東京に戻ってから、それを検証しようと試みます。そんなとき、藤原氏は麻原の実兄を知るという人物と偶然に出会い、その紹介で、ついに大阪のある街に身を潜めていた実兄との会見を果たします。

藤原氏はその場で、実兄から驚くべき証言を得ることになるのですが、さまざまな事情から、記事を連載していた週刊誌上でそれを公表することを断念せざるを得ませんでした。

「第一章 メビウスの海」では、1995年当時、公にできなかったその証言の内容が初めて明かされています。この本を手にとる人の多くは、きっとこの部分に最も関心があるのではないでしょうか。麻原彰光の生い立ちの秘密というセンセーショナルなテーマに触れているからです。それに加えて、藤原氏が麻原の実兄と打ち解けていく場面は迫真の描写で、読みごたえもあります。

しかしこれは、あくまで重要な当事者による一つの証言に過ぎず、多くの規制やタブーに阻まれたこともあってか、この本ではそれ以上の検証が進まないままに終わっています。これまでの歴史的な事件がそうであるように、オウム真理教の事件に関しても、もう少しはっきりとした事実が明らかになるためには、さらなる時間が必要なのかもしれません。

第二章以降は、藤原氏が当初、雑誌連載にあたって構想していた展開に戻り、オウム事件をきっかけに藤原氏の心に甦った、若い頃のインドの旅が語られています。

ガンジス河岸の街パトナで、火葬をひたすら見続けた日々。アラハバードで、人の死体を喰らう野犬を撮影しているとき、襲いかかる野犬の群れと決死の睨み合いになった体験。そして、その極限状況で彼の意識に現れた奇妙な感覚(第二章 黄泉の犬)。

プシュカルで、年老いたヨギから理由も告げられずに聖衣を渡され、後になって、その聖衣のもつ意味をめぐってその後の身の振り方を迷い抜いた体験(第三章 ある聖衣の漂泊)。

マナリで、空中浮遊をするといって弟子を集めていた怪しげな若いフランス人「グル」と対決した話。そしてリシケシュのアシュラムで見た、欲にまみれた「聖者」たちと、それに群がるインド人や欧米人の金持ち連中(第四章 ヒマラヤのハリウッド)。

ラダックで、地獄の幻覚にさいなまれ、錯乱状態になって荒野にさまよい出てしまった日本人青年を呼び戻そうと後を追った話(第五章 地獄基調音)。

ここで回顧されているのは、今から何十年も前の1960年代後半や70年代に藤原氏がインドで体験した出来事や、そこで出会った奇妙な旅人たちのことなのですが、それが90年代にマスメディアをにぎわした、オウム真理教をめぐる異様な光景と、気味の悪いほどにオーバーラップしてきます。

90年代に多くの人が知るところとなった若者たちの逸脱の萌芽は、70年代にインドを旅する人々の間に、すでに現れていたのです。

生と死に関わる生々しいリアリティの隠蔽や管理社会化の進行しつつある、日本や欧米のいわゆる「先進国」で、自分の存在が希薄になっていくような危機感を抱き、何かを求めて、インドのようなリアルに満ちた世界に足を踏み入れていく若者たちに、藤原氏は共感を覚えながらも、その一方で、心の弱さのためにインドの厳しいリアリティに向き合うことができず、個人的な妄想に逃げ込んだり、さまざまな既成宗教の枠組みにはまり込んでしまったりする「もろい旅行者」の姿に、彼は若者の旅の脆弱化や危険を見ているのです。

もっとも、現代日本の消費社会の豊かさを謳歌する多数派の人々は、インドを放浪したりはしないわけで、彼らからすれば、インドというのは、(ビジネスを除けば)自分とは関係のない、遠い世界にしか見えないのかもしれないし、藤原氏がインドで経験したようなことも、ただ目を背けたくなるような、特殊でおどろおどろしい別世界の出来事に過ぎないのかもしれません。

しかし、バックパッカーとしてインドを旅したことのある人や、放浪の長い旅をした経験のある人なら、藤原氏ほど強烈でなくても、多かれ少なかれ同じようなことを体験しているはずだし、この本を読み進めていくほどに、改めて自らの旅と重ね合わせて、大いに身につまされるものがあるはずです。

藤原氏の言葉は、例によってあまりにも直截的で容赦がないので、きっとあらぬ誤解も受けやすいだろうし、彼のメッセージが今の日本社会においてどれだけの人々の心に届くかのは分かりません。それに私自身も、藤原氏の放つ強烈なフレーズや独特のロジックにすべて共感できるわけではありません。

ただ、この本を読んで、少なくとも彼は、オウム真理教の事件やそれを生み出した社会的な背景について、何かを語るのに最もふさわしい人物の一人であると改めて感じました。


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at 19:12, 浪人, 本の旅〜インド・南アジア

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『未知の贈りもの』

評価 ★★★★☆ 一度は読んでおきたい、素晴らしい本です

久しぶりに、ライアル・ワトソン氏の作品を読み返してみました。

この『未知の贈りもの』は、ニューエイジ・サイエンスの書であり、オカルトであり、南洋の自然に関するエッセイであり、ファンタジーであり、旅行記でもあるような、つまりは、「科学者と夢想家が同居している(訳者あとがき)」ワトソン氏の知識と思想と行動の集大成のような作品です。

インドネシア東部の島々に興味をもった「私」(ワトソン氏)は、現地でチャーターした小舟で東部列島を旅していているうちに嵐に遭遇し、数日後、ヌス・タリアンという小さな火山島に流れ着きます。

島の人々に客人として迎えられた彼は、学校の先生としてそこにしばらく滞在することになり、ティアという不思議な少女に出会います。彼女は不幸な生い立ちをもつ孤独な少女でしたが、踊り手としてのたぐいまれな能力に恵まれていたばかりか、共感覚や予知など、いわゆる超感覚的な力をも持ち合わせていました。

ラマダンの最中、海岸に打ち上げられた若いクジラの死を看取ったことをきっかけに、ティアは驚くべき癒しの能力に目覚めます。しかし、彼女の起こした奇跡は、正統派イスラムの教えを根づかせようとする人々と、伝統的なアニミズムの名残りを守り続ける人々との間に深刻な対立を招くことになったのでした。

対立は緊張の度を強め、やがて……。

ワトソン氏は、自らを一連の出来事の観察者という立場に置き、サンゴ礁の島の豊かな自然や、島の生き物たち、古い伝統の色濃く残る村の暮らしの生き生きとした描写を交えながら、ティアをめぐる不思議な物語を語っていきます。

そして同時に、生命体としての地球、聖なる場所の意味、超感覚的知覚や心霊治療に見られるサイキックな力、量子力学がもたらした古くて新しい宇宙観と人間の意識の問題など、いかにもワトソン氏らしいテーマがこれでもかというくらいに盛り込まれています。

ティアの物語を縦糸とすれば、ワトソン氏のニューエイジ的で饒舌なコメントが横糸の役割を果たしているといえるかもしれません。本書の緻密な構成とあいまって、この本全体が、まるできらびやかで謎めいた文様の織物のようです。

彼は、アカデミックな自然科学者が禁欲し、決して踏み込もうとはしない薄闇の領域に軽々と足を踏み入れる一方で、オカルト的なものを全て肯定してしまうような過ちに陥ることもありません。彼は見える世界と見えない世界の微妙な境界を自在に往来しながら、「意識と現実の縁のみに存在する無形の神秘に実質を与え」ようと試みているように見えます。

それはまさに、本書のテーマでもある「踊り」そのものであり、彼もまたこの世界の存在と同調し、この本という舞台で、知的なダンスを繰り広げているのかもしれません。

ただ、ワトソン氏はこの物語について、「島の名以外はすべて変らない事実」であると書いてはいるのですが、それがいわゆるノンフィクションという意味での「事実」かどうかについては、私も多少の疑問を感じます。また、彼は、一部の世界では「トンデモ科学」の親玉みたいに言われているし、それでなくても、人によっては、オカルトっぽさの漂うこの本の内容に抵抗を感じる人もいるのではないかと思います。

しかし、物事の真偽や白黒をハッキリさせようとするような読み方では、この本の魅力を十分に味わうことはできないでしょう。この本の魅力は、一見したところ堅固に見える私たちの日常世界の周縁部に垣間見える、不思議で何とも説明のつかないもの、人間にとって未知の領域に、あえて分け入っていく冒険的な面白さやワクワク感にあるからです。

残念ながら、現在この本は絶版になっているようです。興味のある方は図書館や古書店で探してみてください。


本の評価基準

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 ★★★★★ 座右の書として、何度も読み返したい本です
 ★★★★☆ 一度は読んでおきたい、素晴らしい本です
 ★★★☆☆ 読むだけの価値はあります
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at 18:47, 浪人, 本の旅〜旅の物語

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旅の名言 「あれはいわば、ジェントルマンの……」

「でも五ルピーは適正だよ、はずんだ額としてはちょうどいい。あれより多いと……」
「あれより多いと?」
 僕はスレーシュの顔を見た。スレーシュは少し考えてから言った。
「非常に危険だと思う」
「どうして?」
「あれはいわば、ジェントルマンのはずむ謝礼金額のマキシマムなんだ。君は彼らをジェントルマンにしたんだ。サペーラの大部分が卑しくならないで、ある誇りを持つことができた」
「……なるほど」
 と僕は言った。


『インドの大道商人』 山田 和 講談社文庫 より
この本の紹介記事

インドで数百人の大道商人に取材し、彼らの日常の姿を写真とともに紹介した異色の本、『インドの大道商人』からの引用です。

著者の山田和氏は、蛇つかい(サペーラ)を取材するために、インド人の友人スレーシュとともに、ウダイプル郊外の荒れ地にある蛇つかいカースト(カルベリア)の集落、カルベリア・コロニーを訪ねました。見知らぬ外国人の突然の訪問に、集落の人々が続々と集まり、一行の周囲をギッシリと取り囲む中、彼は一人のサペーラに蛇つかいの実演をしてもらい、それを撮影し、仕事についてインタビューを行いました。

通常の場合、山田氏は取材した大道商人に謝礼を出すことはないそうなのですが、そのときは場の状況から若干の謝礼を渡さざるを得ないと感じ、取材後、インタビューに答えたサペーラに5ルピーを渡します。取材当時のインドの5ルピーは、現在の5ルピーとは価値が大きく違いますが、いずれにしても日本人の感覚からすれば、懐の痛むような金ではありません。

しかし、その一部始終を見ていた群衆の中から、「100ルピーよこせ!」という声があがり、場は一気に緊迫します。その場所は彼ら以外に住む者もいない荒地で、下手に対応して彼らを怒らせたりすれば、何が起こるかわかりません。

それでも山田氏はその声を受け流し、100ルピーという金額をめぐって、集落の人々同士があーだこーだと議論を始めたすきに、一行は車でその集落を後にしました。

冒頭の引用は、緊迫した現場から脱出し、たった今の状況を振り返りながら、友人のインド人が発した言葉です。

貧しくも誇り高く生きる人々へのチップや謝礼には適正な水準というものがあって、それを見誤れば「非常に危険」なことになるという彼のこの言葉は、人間とお金をめぐる一つの真実を鋭くとらえた名言だと思います。

そして同時に、この言葉は、旅人が遭遇するさまざまなお金の問題について、深く考えるきっかけを与えてくれるような気がします。

貧乏旅行をするバックパッカーは、旅先でケチケチ生活を強いられているとはいえ、強力な日本円のおかげで、渡航先によっては結構リッチな気分になれることもあります。国によっては、千円札一枚分を両替するだけでぶ厚い札束になることもあり、しかもその一枚一枚で結構いろいろなモノが買えたりするのです。

そんなときは、やはりどうしても現地の庶民と同じ金銭感覚で行動することは難しく、値段の交渉、謝礼やチップに関しては、あまり深く考えず、とりあえずカネを多めに払ってサクッと済ませてしまおうと思ってしまいがちです。

しかし、世の中のあらゆるモノやサービスには適切な値段の水準というものがあります。日本人にとっては、日本円にしてわずか数十円とか数百円でも、現地で生活している人にとっては日常の感覚をはるかに超える金額になることがあるし、何も考えずにそうしたお金を渡すことが、彼らのプライドを破壊し、同時に、彼らの日常的な思考や倫理のタガを外してしまうことになるのかもしれません。

ただ謝礼を多くすれば相手が喜ぶとか、こちらの深い感謝の気持ちを表せるというナイーブな考えでは、その意図が相手に伝わらないどころか、むしろ相手の誇りを傷つけ、有害な影響を与えかねないのです。

もちろん、山田氏が遭遇した状況で、もし仮に100ルピーを謝礼として払っていたら、果たして危険な状況になったのか、本当のところは分かりません。ただ、当時の5ルピーが「ジェントルマンのはずむ謝礼金額のマキシマム」であって、それ以上払うことはかえって相手を卑しくするというインド人の発想は、いかにも実体験の積み重ねに基づいているという感じがするし、私も何か、その理屈をスッと受け入れられる気がするのです。

日本では、モノやサービスの値段について交渉するような機会も、ちょっとした親切にチップで報いるような習慣もほとんどないので、お金のやりとりに関するこういう機微については鈍感になってしまいがちですが、バックパッカー的な旅をしていると、さまざまな国のさまざまな人々と直接やりとりすることになるので、どうしてもこうした問題を避けて通ることはできません。

もっとも、考えようによっては、インドのような国は、こういう問題について実体験を通じて悩んだり、考えたりする絶好の機会を旅人に提供してくれているのだとも言えます。

バックパッカーなら誰もが一度は悩む、「物乞いにお金をあげるべきか?」という問題から始まって、旅人はお金をめぐる多くのジレンマに対して自ら納得できるような結論を出していかなければならないのですが、そうやっていろいろなことを少しずつ体得していけることも、旅の効用というか、面白さの一つなのかもしれません。


JUGEMテーマ:旅行

at 18:52, 浪人, 旅の名言〜衣食住と金

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謹賀新年 2009

新年、明けましておめでとうございます。

昨年の後半は世の中に不景気なニュースがあふれ、まさに「年忘れ」ですべてサッパリ忘れたいようなことばかりでしたが、それでもありがたいことに、なんとか新しい一年がやって来ました。

もちろん、除夜の鐘とともに、昨年のツケがすべて清算されたわけでもないのですが、新年の始まりにあたっては、せめて気分だけでも前向きに、晴れやかな気持ちで臨みたいと思います。

もっとも、こういうことを書くこと自体、昨年のムードを引きずっている証拠かもしれませんが……。

それにしても、今年はどんな一年になるのでしょう?

2009年が、皆様にとって、楽しく、実り豊かな一年でありますよう、お祈り申しあげます。

今年もこのブログをよろしくお願いいたします。


JUGEMテーマ:日記・一般

at 10:23, 浪人, つれづれの記

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