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旅の名言 「人を疑うことで……」
私の周りでも、彼らの笑顔と親切を真に受けて被害に遭った人は多い。したがってインドを旅するとき、「人を見たら泥棒と思え」という諺を意識しないわけにはいかなかった。笑顔を疑い、親切を辞退することによって私は被害に遭わずにすんだが、そのかわりリスクも大きかった。人を疑うことで自分が傷ついたのである。
私は、貧しい人たちから手間賃さえ出ない値段で物を買おうとして周囲のインド人に諌められたことがあったし、心からの親切を下心のある行為にちがいないと疑って相手を邪慳に扱ったこともあった。あとで事実を知って自己嫌悪に陥ったこともあった。それらは私の悪意だけで生み出されたものであり、したがって鉛を飲んだように重苦しい慚愧の思いが澱のように残ったが、そのような体験をとおして私は、インドには高潔な人々が日本よりもたくさんおり、清らかな人生を求める文化が今なお息づいていることを知ったのである。
『21世紀のインド人 ― カーストvs世界経済』 山田 和 平凡社 より
この本の紹介記事
インドという異文化と付き合っていくことの難しさを、歯に衣着せず正面から描いた、山田和氏の著作からの一節です。
この本には、海千山千のインド商人と取引するビジネスマンや、インドで暮らす外国人駐在員、そして山田氏自身が旅先で体験した、仰天するようなエピソードが満載されていますが、それらは私たちが気軽にカルチャー・ショックと呼ぶようなレベルを超えています。
インドを旅したことがあり、インド的世界にはそれなりに慣れているつもりの私でも、この本を読んだときには何度もため息が出ました。人によっては、この本を読み進めるうちに、インドでのビジネスはおろか、旅することすら恐ろしくなってしまうかもしれません。
ただ、山田氏は決してインドを貶めるためにこの本を書いたのではありません。これまで何十年にもわたってインドと付き合ってきて、インドを心から愛する山田氏が、後に続くであろう多くの日本人に向けて、無用な誤解や苦労を少しでも減らすことができるよう、親切で得がたいアドバイスをしてくれているのだととらえるべきなのでしょう。
また、この本に書かれている内容は、仕事でインドと関わるビジネスマンだけでなく、インドを旅する人にとっても有益だと思います。
ただ、インドについて、そのネガティブな側面や、「不良インド人」の行動パターンをあらかじめ知っておくことは、旅人の危機管理上、非常に役立つことは間違いないのですが、一方で、そうした知識が頭の中にあると、インド人に対して始めから身構えてしまいがちになるし、実際に旅先で似たような事例に遭遇すれば、なおさら警戒心を強めてしまうのも確かです。
もっとも、これはインドに限った話ではなく、自分にとって見知らぬ土地を旅するときには、多かれ少なかれあてはまることなのでしょうが……。
安全に旅をすることは、旅人として何よりも優先されるべきポイントですが、その一方で、必要以上に警戒しすぎれば、思いがけない出会いや、旅の面白い展開から自分を遠ざけてしまうことにもなります。旅の無事ばかりを考えて、24時間危機管理に専念していたのでは、何のために旅をするのか分からなくなってしまいます。
旅人がどこまで自分をオープンにし、どこまで慎重になるか、そのちょうどいいバランスは、山田氏のように何度も傷つき、苦い経験をしながら、少しずつ体得していくしかないような気がします。現実問題として、すべての人を信じることなどできないし、信じて被害に遭うリスクの大きさを考えれば、見知らぬ人の笑顔と親切が、心からの親切なのか、それとも下心なのか、自信をもって判断できないときには、それを敬遠するしかないからです。
しかし、そういう判断力を磨いていく経験は、なかなか日本ではできないことだし、そうした判断力をしっかり培うことで、初めて見えてくる世界もあるのだろうと思います。そう思えば、インドのような混沌とした異世界に飛び込んで行くことにも、それなりの意味があるのではないでしょうか。
でもまあ、インドと長い付き合いを続けられるかどうかは、結局のところ、理屈を超えた好き嫌いの問題なのでしょう。インドの「何か」にとり憑かれてしまった旅人は、周りが何と言おうと、どんなにインドに苦労させられようと、嬉々としてインドに通いつめるものです……。
JUGEMテーマ:旅行
WBC 日本V2 おめでとう!!
本当に胸がスカッとするような、明るいニュースです。
それにしても、決勝の日韓戦は、まさに死闘というにふさわしい試合でした。
私はふだんプロ野球を見ないのですが、試合後半の息づまる展開には、さすがにビリビリとしびれました。野球ファンなら、一生忘れられない名勝負だったのではないでしょうか。
最後は、イチローが決めてくれました。本人も「神が降りた」なんて言ってましたが、WBCの結末を左右するギリギリの土壇場で、きっちり期待に応えてくれるとは、やっぱり彼は天才です……。
JUGEMテーマ:ニュース
不気味ロボット
【美女ロボットは体重43キロ、体形=20代の日本人女性】
若い女性の顔にスリムな体形、動作も滑らかな二足歩行ロボットを、産業技術総合研究所(茨城県つくば市)が開発し、16日、報道陣に公開した。
今月23日に開幕するファッションショー「東京発 日本ファッション・ウイーク」で一般にお披露目する。人間型ロボットの最先端を目指し、2億円かけて開発した「HRP−4C」は、身長158センチ、体重43キロ。体形は、20代の平均的な日本人女性に基づいた。42個の高性能モーターやニッケル水素吸蔵合金のバッテリーなどを内蔵しながらも、生身の人間より軽くすることに成功した。
(読売新聞 2009年3月16日)
2000年にホンダのASIMOが発表されたときには、ロボットがバランスをとりながら二足歩行している姿を見てかなりの衝撃を受けたものですが、あれから10年足らずの間に、人間の顔の表情まで模倣したロボット(というより、もはやアンドロイド)が歩き回るようになったという事実に、再び衝撃を覚えました。
TVや新聞では、おおむね、「日本のテクノロジーはすごい!」みたいなノリで報道されているようだし、私もその点に関して異論はないのですが、一方で、ASIMO登場のときとは違う、気味の悪さみたいなものを感じたのも確かです。
もっとも、人間そっくりのロボットに対して不気味さを感じるのは、別に私に限ったことではなく、ロボット工学の分野では、かなり昔から「不気味の谷現象」として知られています。
ウィキペディア 「不気味の谷現象」
それによれば、ロボットの外観や動作が人間に近づくと、人間はより親近感や好感を覚える傾向にあるのですが、ある程度以上までそれが進むと、今度は逆に強い嫌悪感や違和感を覚えるようになるというのです。そして、ロボットがさらに人間そっくりになり、人間と見分けがつかないまでになると、再び人間はロボットに親近感や好感を覚えるようになるとされています。
その理由の一つとして、ロボットが人間とかけ離れた形をしているときには、ロボットの中にある人間的特徴の方が目立って認識されるので、人間はそこに親近感を感じるのですが、ロボットが人間にかなり似てくると、むしろそのロボットの非人間的特徴の方に目が行ってしまい、そこに気味の悪さを感じてしまうのだと考えられています。
そう言われてみると、たしかにそうなのかもしれないな、という気がします。
今回のロボット「HRP−4C」が、他の人の目にどう映っているかは分かりません。人によっては、人間そっくりで愛らしいと感じるかもしれません。でも、少なくとも私の場合は、何か、心がザワザワするような違和感を感じるのです。
ちなみに、この「不気味の谷現象」を、他のさまざまなロボットやCGの映像にあてはめて紹介した面白い映像もあります。
ブログ 「高森郁哉の「ArtとTechの明日が見たい」」 「PopSciの「不気味の谷ツアー」動画:日本の技術も多数登場」
ところで、「不気味の谷現象」の説明によれば、ロボットの外見や動作が極限まで人間に似てくると、人間はそれを不気味に感じなくなるとされています。実際、上記の「不気味の谷ツアー」の動画には、非常によくできた人間の顔のCG映像が出てくるのですが、それはあまりにリアルで、ほとんど違和感を感じません。
これまでの技術進化のスピードを考えると、あと10年もしないうちに、人間型ロボットの表情や動作が、現在のCG映像並みにリアルになることも充分に考えられます。そうなると、近い将来、人間はアンドロイドを見ても、もはやそれが不気味だとは思わなくなくなるのでしょうか。
ただ、人間にそっくりすぎて違和感を感じないといっても、人間とロボットの区別自体がなくなるわけではありません。私たちが何も感じなくなるとすれば、それは、私たちの心の中の、人間とそれ以外とを識別する感覚がだまされてしまうということです。
しかし、私たちの日常的で表面的な意識では何も感じなくなるとしても、無意識においては何らかの違和感を感じ続けることになるだろうし、そうなることでかえって人間という存在の確かさに対する、漠然とした、しかし非常に深刻な不安をかきたてることになるのではないでしょうか。
まあ、私が生きている間には、SFのように、人間とアンドロイドとの区別がつかなくなるというレベルまではいかないと思いますが……。
それと、私は思うのですが、「HRP−4C」のようなロボットに対して感じる不気味さというのは、人間そっくりの外見だけが原因ではないような気がします。
人間がモノを作り出すときには、その裏に必ず何らかの意図や目的があるし、モノの製作プロセスにも、作り手の時間や労力、深い思い入れが注ぎ込まれています。そして、そうした意図や思い入れの深さは、モノの外見やデザインにも色濃く反映されるものです。
言葉ではうまく表現できないのですが、そうした、モノの外見にまでにじみ出てくる、作り手の意図や思い入れの「濃さ」のようなものは、そのモノに一種独特の雰囲気のようなものを与え、それが、見る人の心に不気味さを感じさせることもあるのではないでしょうか。
これは私だけの特異な感じ方なのかもしれませんが、私は「HRP−4C」に、何か、アンバランスでちょっと濃すぎる思い入れのようなものを感じるのです。それは、実際にこれを開発・設計・製作したエンジニアたちの個人的な意図や思い入れというよりは、このリアル世界に、人間そっくりのアンドロイド的な存在を生み出そうとする、人間一般の深い「業」のようなものです。
アンドロイドの外見が細部までリアルであればあるほど、そこには測り知れないほどのエンジニアの熱意と努力が注ぎ込まれていることになるわけで、それはまた、そのようなリアルな存在を必死で物質化しようとする、人間の執念や業の深さを示すバロメーターでもあるような気がするのです。
それにしても、なぜ若い女性のロボットなのでしょう?
ロボットは、大きさにしても、体の構造にしても、機能にしても、人間という種の物理的な制約からは自由でいられるのだから、何もロボットを、人間そのものの姿に限りなく近づけていく必要はないはずなのに……。
その点に関しては、今回の人間型ロボット開発にも一応ちゃんとした目的があるそうで、展示会やファッションショーなどの「エンターテインメント分野への応用」を狙っているんだそうです。
産総研プレスリリース 「人間に近い外観と動作性能を備えたロボットの開発に成功」
でも、ちょっと考えてみても、現在そういう業界にアンドロイドへの強い需要があるようには見えないし、外見や動きが人間そっくりなロボットが量産されたとして、それがすぐにビジネスとして採算に乗るようにも思えません。
そうした、実際のロボットの精密さとは不釣り合いなほど漠然とした開発理由からは、むしろ、理由はともかく、とにかく最先端技術を駆使して、若い女性にそっくりのアンドロイドを作ってみたかったというエンジニアのホンネが垣間見えます。
美しく若い、しかもいつまでも若いままの女性のアンドロイドを製作するというのは、科学技術の発展とか、日本経済への貢献とかいう以前に、時代を超えた、譲れない「男のロマン」なのでしょう。そして、そうであるならば、誰が何と言おうと、エンジニアたちは今後も熱い情熱とともに開発を続けていくことになるのでしょう。
もっとも、その突出した熱意のアンバランスさが、ロボットの不気味さを増幅するのに一役買っているのかもしれませんが……。
ただ、私も、そういう「男のロマン」というものが全く理解できないわけではありません。それに正直な話、近い将来彼らが果たしてどんなアンドロイドを作り出すのか、私もちょっと見てみたい気はします……。
JUGEMテーマ:ニュース
『21世紀のインド人 ― カーストvs世界経済』
1991年の経済改革を機に自由化へと大きく舵を切って十数年、インドは今、新興のIT大国として世界の注目を浴び、将来の超巨大市場への思惑から、外資も競うようにインド市場へと参入しつつあります。
一方で、インドに赴任してインド人の部下や使用人を抱えたり、海千山千のインド商人を相手にビジネス交渉をすることが、実は激烈なカルチャー・ショックを伴う苛酷な体験であることは、実際にそれを経験した本人と、その周囲のごく少数の人にしか知られていなかったりします。
著者の山田和氏は、これまで数十年にわたって何度もインドを旅し、インド人との付き合いも長く、インドの見せる「裏」の姿も身をもって体験してきた人物です。
山田氏はこの本の中で、豊富な実例を挙げながら、表面的なインドブームの影で苦闘を続ける外国人ビジネスマンの姿を伝えるとともに、私たちとは全く異質なインドの社会やインド人について、その「負」の面をも含めた実像を描き出し、異質な文化がぶつかり合うとはどういうものなのか、その一端を私たちに教えてくれます。
欧米や日本を基準に考えれば、ハード面・ソフト面でのインフラの未整備など、インドのビジネス環境が発展途上にあることは言うまでもありません。しかしそれ以前の問題として、インドは1ドルで仕入れたものを100ドルで売るような「シルクロード商法」がいまだにまかり通る世界であり、そこでビジネスをするということは、儲けのためには手段を選ばない、一癖も二癖もあるタフな商売人たちと日々交渉しなければならないことを意味します。
そして、それに加えて、社会の上から下まで蔓延したリベート(賄賂)文化、強固な一族郎党主義、今でも厳然と存在するカーストに基づいた社員の差別的な採用・処遇、やる気はなく融通もきかないのに権利意識だけは旺盛なインド人社員たち……。
こうした問題は、いわゆる開発途上国でのビジネスにはつきものなのかもしれませんが、インドの場合はその深刻度がケタ外れのようです。
インドは準英語圏の国ということもあって、そこでは一見英米流の発想が通用するように見えるし、インド人も表面的には国際人として振る舞おうとします。しかし実際には、カースト制を始めとするインド社会の論理にどっぷりと浸かった彼らの行動基準は非常に「ドメスティック」で、その表と裏の大きな矛盾の皺寄せは、インドに駐在し、そこで日々彼らと接する外国人ビジネスマンたちの上に耐えがたいストレスとなって降りかかってくるのです。
特に、この本の第四章、「インド駐在員の日常……インド人社員、使用人とどうつき合うか」には、インドに単身赴任した日本人商社マンがインド人の使用人たちと繰り広げた波瀾万丈のバトルとその結末が詳しく描かれていますが、この部分だけでも一読の価値があると思います。
その生々しい体験談は、日本的な感覚からすればあまりにも現実離れしていて、どこかコミカルにすら感じられるほどですが、現実にそうした状況に巻き込まれた人間の方はたまったものではないでしょう。駐在員は、油断も隙もない昼間のビジネスで疲弊するだけでなく、リラックスできるはずの我が家に帰ってもインドの現実から逃れることができず、休暇で別の国にでも脱出しないかぎり心休まることがないのです。
この本には、インドの実状について非常に辛辣なことが書かれているし、実例の方も唖然・仰天するようなものばかりで、読んでいるだけでもため息が出てきます。しかし、山田氏はインドが憎くてこんな本を書いたわけではなく、もちろん、インドのいいところもそれなりにフォローはしています。
何だかんだと言ってみても、やはり山田氏も、インドとインド人を深く愛しているのです。「まず忌憚なく欠点を指摘し、そのあと褒めたり勇気づけたりするのは、困難な論理の国に関わっている立場の人間に必ず見られる愛と苦悩の表現」なのです。
そして、こうした本を書いた理由について、山田氏は次のように述べています。
インドで苦労し、「負」の実像を知った者こそがインドと真につき合うことができることは自明のことであるのに、インドを知る多くの者は魅力の部分しか語らず、「負」の情報を排除する。日本のマスコミはインドの魅力ばかりを書き立て、どのような文化的差異や困難があるかを語らない。またそれらの分析も載せない。これでは広告紙面と同じで、実際多くのインド特集記事は、インドIT産業の明るい未来とともにインド首相や副首相や商業相や工業相の宣伝的コメントを併載し、あたかもこのような紙面作りが日印の明るい未来を築くと言わんばかりなのには呆れる。新聞は幸福のお手伝いをしているつもりかもしれないが、それは相手の美点ばかりを挙げ、問題点を一切伝えずに縁談を進める仲人の無責任さと同じである。相互にインターナショナルをめざすとすれば、互いに「負」の情報を蓄積し分析し、それがたんなる「負」ではなく異文化であることを知ることが重要であり、今の私たちにはそれが最も必要なことである。
インドを旅した経験があるなど、ある程度インドのことを知る人なら、自分の体験に照らしつつこの本を読めば、いろいろと腑に落ちることがあるだろうし、あるいは今まで知らなかったインドの別の一面に気づかされることもあるのではないでしょうか。
この本が出版されてからすでに数年が経ちました。その間に、インドをめぐる状況も刻々と変化しているはずですが、インド人に限らず、人間の思考パターンや生活習慣というものが一朝一夕には変わらないことを考えれば、この本に書かれている基本的なポイントは、今でもそのまま当てはまるのではないかと思います。
ビジネス等を通じてインドに深く関わる立場にある方、特にこれから駐在員としてインドに赴任する方なら、大いに読む価値があると思います。
本の評価基準
以下の基準を目安に、私の主観で判断しています。
★★★★★ 座右の書として、何度も読み返したい本です
★★★★☆ 一度は読んでおきたい、素晴らしい本です
★★★☆☆ 読むだけの価値はあります
★★☆☆☆ よかったら暇な時に読んでみてください
★☆☆☆☆ 人によっては得るところがあるかも?
☆☆☆☆☆ ここでは紹介しないことにします
JUGEMテーマ:読書
『日本浄土』
この本は、写真家の藤原新也氏が日本各地を旅し、島原、天草、尾道、能登など、日本の地方の現在を写真とともに伝える紀行エッセイです。
あとがきで彼自身が「これまで行って来た数多くの旅の中でもっとも目立たない地味な旅」と書いているように、旅のエピソードや、それを描く藤原氏の筆致、そして本書に収められた写真にも、取り立てて目をひくような派手さはありません。
それでも、五島うどんを食うためだけに五島列島まで出かけたり、天草ではママチャリで旅することを思い立ち、中古のママチャリの買い物カゴに、なぜかまねき猫の置き物を入れて走ったりと、地味ながら随所に藤原氏らしさがにじみ出ていて楽しめます。
また、この本に収められた小さな旅の多くが、彼の人生に何らかの結びつきのある場所をたどる旅です。旅先の風景を幼少の頃の思い出と重ね合わせたり、あるいは今は亡き親しい人々を追憶するような旅は、時の無常を感じさせずにはいませんが、一方でそれは、過去と現在が静かに交錯する、味わい深い旅でもあります。
ちなみに、この本の中には、明治生まれの藤原氏の父が、駆け落ちの最中に野犬の群れと立ち回りを演じたという話が出てきます。私はそれを読んで、藤原氏がガンジス河の中洲で野犬の群れと対峙したエピソード(『黄泉の犬』参照)を思い出し、やっぱり親子だな……と思いました。
本の評価基準
以下の基準を目安に、私の主観で判断しています。
★★★★★ 座右の書として、何度も読み返したい本です
★★★★☆ 一度は読んでおきたい、素晴らしい本です
★★★☆☆ 読むだけの価値はあります
★★☆☆☆ よかったら暇な時に読んでみてください
★☆☆☆☆ 人によっては得るところがあるかも?
☆☆☆☆☆ ここでは紹介しないことにします
JUGEMテーマ:読書
旅の名言 「すべてのうんざりするような交渉と災難は……」
旅には、慣れていた。
とは言っても、要領よく旅ができるという意味ではない。要領よく旅をすることは、この国ではほとんどできないことを知っている、という意味である。
たとえおなじところにふたたび行っても、思わぬ事態にめぐりあうというのがインドである。この事情はインド人でも変わらない。すべてのうんざりするような交渉と災難は、インド人であろうと不案内な外国人であろうと、等しくふりかかってくる。だからインド人は、グルグル巻きにした巨大な旅行用フトンを片手に、さまざまな生活必需品をもう一方の手に、旅行の間中、怒鳴りちらしているのだ。
『インドの大道商人』 山田 和 講談社文庫 より
この本の紹介記事
インドで数百人の大道商人に取材し、彼らの日常の姿を写真とともに紹介した、山田和氏の『インドの大道商人』からの一節です。
パッケージツアーではなく、いわゆる個人旅行や自由旅行でインドを旅したことのある人なら、遅れてばかりいる公共交通機関や窓口の混乱、押し寄せる物売り、煩雑な値段交渉といったストレスの波状攻撃に疲労困憊した経験があるのではないでしょうか。また、旅先で思わぬトラブルに巻き込まれたり、とんでもない目に遭って途方に暮れたことも、一度か二度はあるはずです。
これはインドだけでなく、いわゆる開発途上国を旅する人なら誰もが体験することなのかもしれませんが、私自身の経験からいっても、インドの場合は、それが他の国以上に強烈に感じられるようです。
それでも、インドを何度も旅し、インドの人々とも長くつきあってきて、一般的な旅行者よりもはるかにインドに詳しいはずの山田氏のような人物でさえ、インドでは要領よく旅などできないのだと言われると、何だかちょっとホッとするような気がします。
インド人でさえストレスのあまり、「旅行の間中、怒鳴りちらしている」というのは、言われてみれば確かにそのとおりです。旅人は自分の身を守ることで精一杯なので、意外と気がつかなかったりするのですが、「すべてのうんざりするような交渉と災難は、インド人であろうと不案内な外国人であろうと、等しくふりかかって」いるのです。まるで自然災害みたいに……。
それを知ったからといって、別に旅人の置かれた状況が変わるわけでもないのですが、次から次へと襲いかかってくる災難に、何だか自分だけ狙い打ちされているのではないかと思ってしまいがちな外国人旅行者にとっては、フッと肩の力が抜けるような言葉であり、何か少し救われたような気がする人もいるのではないでしょうか。
インド的混沌の中で長く暮らし、勝手知ったるインド人でさえ、インドを旅するのはやっぱり大変なことなのです。一介の外国人旅行者がインドをスマートに旅することなんて無理だし、そんなことができる裏ワザなんていうものも存在しないのです。
だとしたら、「うんざりするような交渉と災難」こそが、避けられない旅の日常であると観念し、上品な旅人を演じようなどとジタバタするのをやめ、旅をするときは自分もインド的混沌の一部になり切るという、一種の開き直りというか、諦めの境地に達するしかないのかもしれません。
ただし、一般的な状況としては、旅の面倒や災難は、インド人に対しても外国人に対しても、雨やあられのように平等に降り注ぐものなのでしょうが、有名観光地や、観光スポットを結ぶ主要ルート上には、やはり不案内な外国人旅行者をカモにする「不良インド人」がいることも確かです。それについては、旅人は、早々と諦めの境地に達する以前に、そういう人々に対する現実的な対処のテクニックを身につける必要があるでしょう。
もっとも、インドを何度も旅し、そういうテクニックを覚える頃には、有名観光地なんかよりもはるかに面白い穴場を、いくつも見つけられるようになっているかもしれません。そして、そういう場所では「不良インド人」密度もずっと低いので、せっかく苦労して身につけたテクニックも必要がなくなってしまうのですが……。
JUGEMテーマ:旅行
「お宝」の行方
【清朝銅像 落札者は中国人「カネは払わぬ」】【北京=野口東秀】19世紀の第2次アヘン戦争のさなか、中国清朝の離宮「円明園」から英仏連合軍に略奪され、このほどパリで競売にかけられたウサギとネズミのブロンズ像の落札者が中国人だったことが2日、明らかになった。国営新華社通信が伝えた。落札した民間組織顧問は「金を払うつもりはない。中国人としての責任を果たしただけだ」と話しており、像の引き渡しをめぐって新たな問題が起きる可能性が高い。ブロンズ像は、先ごろ亡くなったフランスの服飾デザイナー、イブ・サンローラン氏の遺産として競売にかけられ、3140万ユーロ(約39億円、手数料込み)で落札された。新華社によると、落札したのは流出文化財を取り戻す活動をしている民間組織「海外流出文化財救出基金」の顧問を名乗る蔡銘超氏。ブロンズ像をめぐっては、中国外務省が「中国に所有権があるのは間違いない」と返還を要求。在仏中国人弁護士らによる競売差し止め請求をパリ大審裁判所(地裁)が棄却したことから、中国国内ではインターネットなどで仏製品不買を呼びかけるなどの過激な主張が飛び交う一方、蔡氏の行為は愛国心と団結心を鼓舞する事例と受け止められている。ロイター通信によると、サンローラン氏のパートナーで、競売出品者となったピエール・ベルジェ氏は、フランスのラジオに対し、代金が支払われなければ、ブロンズ像を自宅で保有し続ける意向を表明した。
(産経新聞 2009年3月3日)
オークション前、ブロンズ像の返還を要求した中国当局に対して、所有者のピエール・ベルジェ氏が、ダライ・ラマをチベットに戻せば像を返還すると応酬したことが、騒動の火に油を注いでしまったのでしょうか。
私個人としては、現在チベットの人々が置かれている状況に対して同情的なので、ベルジェ氏の発言に違和感を感じるよりは、むしろ「よくぞ言った!」と言いたいくらいなのですが、それを別にして冷静に考えてみれば、これは、こんなブロンズ像ごときのために中国政府がそこまで譲歩するわけがないことを充分に承知した上での発言です。
しかも今はまさに、1959年のチベット動乱から50周年という、政治的に微妙かつ緊迫した時期です。その時期に、世界中のメディアが取り上げることを知った上でこうした挑発的な発言をするとは、ベルジュ氏もかなりしたたかというか、人が悪いともいえます。
しかし、売られたケンカにそのまま乗ってしまう中国側も、ある意味ではお人好しというか、ナイーブ過ぎるのかもしれません。それに、落札した人物が金は払わないと言い放つのは、まさにオークション自体を否定する行為で、言ってみれば、腹立ち紛れにちゃぶ台をひっくり返すようなものです。
落札者の蔡氏が個人の判断でそれを行なったのか、それとも中国当局の指示があったのかは分かりませんが、いずれにしても、欧米人には、こういうゲームのルールをぶち壊すような行為は卑劣と受け止められるのではないかと思うし、それは、中国や中国人に対する非常に悪いイメージを残すことになるのではないでしょうか。
それにしても、騒動の中心となってしまった2体のブロンズ像ですが、そもそも「お宝」として世界中が注目するだけの価値のあるものなのでしょうか?
私は美術に関してはよく分からないので、これについて適切な判断ができないのですが、あくまで素人目に見た限りでは、それほど素晴らしいもののようには見えません。
むしろ、今回の騒動の場合、そういうことは既にどうでもよくなってしまっていて、この像のいわくつきの歴史やマスメディアによる報道の相乗作用が、この像を、中国の人々の愛国心やメンツといった感情的なエネルギーを注ぎ込む器に仕立て上げてしまい、美術品としての像そのものの価値をはるかに超えて、その価格を途方もない水準にまで釣り上げてしまったということなのでしょう。
もっとも、骨董というものは、程度の違いこそあれ、全てそういうものなのかもしれませんが……。
ひねくれた見方をすれば、国際的な注目を集め、国レベルのさまざまな思惑を巻き込むことによってオークションを熱く盛り上げることこそ売り手側の戦略であって、彼らにとっては今回のような騒動も、注目度を高めたという点ではそれなりの成功だったということなのかもしれません。
ところで、この十二支像については、残り数体の所在が未だに分からず、まだ世界のどこかに眠っている可能性があります。もしそれらが「発見」され、オークションに出品されることにでもなれば、次もまた同じ騒動が蒸し返されることになるのでしょうか。その度に今回のような「ちゃぶ台返し」が演じられるようなら、中国の国際的なイメージ悪化は避けられません。
もしかすると、中国の当局も、さすがに今回のような泥仕合になるとは予想していなかったのかもしれません。しかし彼らにとっては、誰が最終的に「お宝」を手にするかなどという問題よりも、自国や自国民の国際的なイメージの方がはるかに大事なはずです。
彼らは、ズルズルと続くこの騒動の成り行きに、今頃頭を抱えているのではないでしょうか。
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『サバイバル! ― 人はズルなしで生きられるのか』
評価 ★★★☆☆ 読むだけの価値はあります
この本は、「サバイバル登山」というユニークな登山スタイルの実践で話題を呼んだ、服部文祥氏のデビュー作『サバイバル登山家』の続編に当たります。
サバイバル登山とは、食料や装備をできるだけ持たずに道なき道を歩く長期登山のことをいう。持ち込む食料は調味料と少々の米だけ。電池で動くもの(ライト、ラジオ、時計)や機械仕掛け(コンロ)、そしてテントも燃料も持って行かない。登山道や山小屋はできるだけ避けて通る。そうやって長く山登りを続けていく。
制約の多い窮屈な登山と思われるかもしれないが、禁止事項を並べているのは、説明するのにてっとり早いためだ。ひらたく言えば「自分の力で山に登る」ことを突き詰めた登山である。こうでもしないと現代では、文明品をはじめとする「他人の力」に頼ることになってしまい、自分の力で山に登ることなどできないのだ。
今回は一般読者向けの新書ということもあり、登山や釣り関係の用語についても丁寧なフォローが加えられるなど、山登りになじみのない人でも読み進められるような配慮がなされています。
本の前半には、日本海に面した青梅から上高地まで、北アルプスの山中を12日間かけて単独で縦断したサバイバル登山の様子が詳しく描かれています。それを読めば、服部氏の山登りのスタイルがどのようなものであるか、具体的に理解できると思います。
また、後半では、携行する装備のリストや解説に加えて、食料となる岩魚を釣る方法や焚き火のテクニックなど、サバイバルの方法の具体的な説明もあります。また、サバイバル登山の意味について、彼が何年もの実践を通じて培ってきた考え方も示されています。
私には自由の明確なイメージがある。
原始の環境にたった一人で存在すること。それが私の自由だ。
天候によって快適と不快が左右され、われわれが日頃手にできるような食べ物は何もない。外敵におののき、害虫にも悩まされる。どこにいくにも時間がかかり、病気になっても頼るものはない。なんとも不自由な生活だ。しかし、それらすべての制約、強制は自然環境そのものから発している。
義務もルールも法律も、妻の小言や社会的責任も、予定も約束もいっさいなく、モンゴロイドのオス、身長一七五センチ、体重六三キロに立ち返ったそのうえで、自分の身体能力とこれまでの経験を駆使して、ただ感じるままに生きる。
そこには死ぬかもしれない自由まで含まれている。
サバイバル登山とはその「自由」を具現化するための方法に他ならない。物理的に日常の生活圏から遠のき、もろもろの力強い装備も街に置いていく。人間社会との関係を断ち切って、現代文明のディフェンス力圏外に身をおく。私という存在そのままになれる瞬間、これが私の究極の自由なのだ。
そんな状態で自分が何を考えるのか、何を感じるのかを私は知りたい。日常的にズルい生活を続けているので、せめてそこから離れたらどんな気がするのか感じたいのだ。
もしアクシデントがあっても誰も助けに来てくれない。人知れず死んで消えていく。そこまでして自由を求めるのは、「ありのままの自分」を求めているからだと思う。
もっとも、服部氏は原始時代に戻れと言っているわけでも、文明や便利な道具をすべて否定しているわけでもありません。ただ、山に入るときには、そうした要素を自らの登山から可能な限り削ぎ落とし、厳しい自然に直接向き合うことで、体力・技術・知識・判断力などを含めた自分の本当の力を試してみたいということなのだと思います。
そして、時には生と死がせめぎ合うようなギリギリの状況にあえて自らを追い込むことで、自分の中に浮かび上がってくる、「生きたい」というシンプルで純粋な意志を確認しようとしているのだと思います。
とはいえ、サバイバルの実践は生易しいものではないし、安心・安全・快適を求める世の中の風潮とも逆行しています。サバイバル登山というプロセスの価値も、あくまで個々人が内面的に見出していくもので、周囲の人々からの称讃や評価を期待できるようなものではありません。
この本の中でも、何を持っていくかという装備の選択や、実際にどこまで自分の理想を貫くかについて、現在も迷いや試行錯誤があることが正直に書かれています。例えば、蚊の猛烈な襲撃に耐えかねて蚊取り線香を持参したり、携行する食料に関して以前より自己規制が甘くなったり、山行の途中で避難小屋のデポ食料のカップラーメンに手をつけてしまったり……。
それにしても、この本は一見したところサバイバル登山の実践マニュアルのような体裁にはなっていますが、正直なところ、そのリスクや困難のレベルを考えると、この本に刺激されてそれを実行してみようという登山者は、たぶんごく少数にとどまるだろうという気がします。私も、登山すらほとんどしたことがないので、とてもマネをしようとは思いません。
むしろ、国立公園内で焚き火をしたり山菜を採ったりする彼の行為に対して、一般的な登山者のマナーという観点から批判的にとらえる人の方が多いかもしれません。アマゾンの書評を見ても、この本に関しては評価が両極端に分かれているようです。彼の直截で挑発的ともとれる文章が、読者を刺激してしまうということもあるのかもしれませんが……。
それでも、私個人としては、命懸けで一つのスタイルを追求し続ける服部氏の生き方には敬意を表したいと思うし、彼の立ち位置は、安心・安全・快適に向かってひたすら進み続ける私たちの社会のあり方に批判的に光を当てる一つの極として、今後も大きな意味を持ち続けるだろうと思います。
服部文祥著 『狩猟サバイバル』 の紹介記事
本の評価基準
以下の基準を目安に、私の主観で判断しています。
★★★★★ 座右の書として、何度も読み返したい本です
★★★★☆ 一度は読んでおきたい、素晴らしい本です
★★★☆☆ 読むだけの価値はあります
★★☆☆☆ よかったら暇な時に読んでみてください
★☆☆☆☆ 人によっては得るところがあるかも?
☆☆☆☆☆ ここでは紹介しないことにします
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