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『世界のスピリチュアル・スポット』

評価 ★★☆☆☆ よかったら暇な時に読んでみてください

この本は、世界各地のバラエティに富んだ「スピリチュアル・スポット」を一覧できる、大型の写真集です。

山・峡谷・洞窟・滝・湖・海・島など、自然の驚異的なパワーや創造の神秘を感じさせる場所を始めとして、先史時代や古代の遺跡、今なお多くの巡礼を惹きつける宗教的な聖地などが、迫力ある写真と、簡潔な解説によって紹介されています。

この本に収められた62のスポットのうち、マチュピチュ、グランド・キャニオン、ルルド、アッシジ、アンコール・ワット、ボロブドゥール、富士山、ウルル(エアーズ・ロック)、ラパ・ヌイ(イースター島)など、その半分くらいは観光地としてもかなり有名です。

現代の聖地とは、実際のところ、そのほとんどが観光地です。というよりむしろ、自然への畏怖を感じさせる辺境の土地や、かつて聖地として人々の憧れの対象であった場所が、交通機関の劇的な発達によって、今やパックツアーで気軽に訪れることのできる場所になったと言うべきなのかもしれません。

そこへ向かう動機は人それぞれだろうし、また、時代によっても少しずつ変わってきているのでしょう。ただ、人々が、そこに世俗を離れた、何らかの非日常的な体験を求めているという本質は、昔も今も変わっていないのではないかと思います。

また、この本で紹介されている残りの半分くらいの場所は、地元ではそれなりに有名なのでしょうが、たぶん日本人にはあまり知られていない「渋い」聖地です。ヨーロッパやオーストラリアについては、(私に知識がないせいもありますが)この写真集で初めて知ったスポットもかなりありました。


マーティン・グレイ著 『聖なる土地の力』 の紹介記事


本の評価基準

 以下の基準を目安に、私の主観で判断しています。

 ★★★★★ 座右の書として、何度も読み返したい本です
 ★★★★☆ 一度は読んでおきたい、素晴らしい本です
 ★★★☆☆ 読むだけの価値はあります
 ★★☆☆☆ よかったら暇な時に読んでみてください
 ★☆☆☆☆ 人によっては得るところがあるかも?
 ☆☆☆☆☆ ここでは紹介しないことにします



JUGEMテーマ:読書

at 18:46, 浪人, 本の旅〜世界各国

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カレイドスコープ・メディアの時代?

いつごろからそうなったのか、はっきりと覚えていないのですが、私の場合、たぶん数年ほど前から、RSSリーダーを利用してさまざまなブログをチェックするのが毎日の習慣になりました。

もちろん、すべての記事を読むわけではなく、タイトルをざっと見て、面白そうな記事をつまみ食いするだけです。それでも、リストしてある何十かのブログの中からそれなりに拾い読みしていくと、結構な時間を費やすこともあります。

しかし、そうやってたくさんのブログをチェックすることに、何か実用的な意味があるのかと言われれば、正直なところ、私にもよくわかりません。

テレビや新聞に先んじて、世界をゆるがすような重大ニュースがブログの記事から先に飛び込んでくることなどまずないし、ブログには、本や雑誌のような信頼性や完成度、専門的な内容の濃さもあまり期待できません。

それに、文体や視点が全体として統一されている新聞などとくらべると、個人メディアのブログは書き手の視点もバックグラウンドもさまざまだし、文章や内容のバラツキの幅が大きいせいか、読んでいるとけっこう疲れます。

時には、記事が断片的すぎたり、内容が整理されていないために、書き手が何を言いたいのか、理解できずに苦労することもあります。あるいは、私にはとてもついていけないような、過激な意見や立場が表明されていたりして、読むだけでストレスを感じることもあります。

まあ、そういう点に関しては、自分のことをすっかり棚に上げて言っているわけですが……。

それはともかく、それでも無数のブログの集合体がつくり出す多彩で複雑な世界には、テレビや新聞などのマスメディアよりもずっと面白く、人を病みつきにさせる「何か」があります。そして、この魅力にすっかり慣れ親しんでしまった今では、新聞の記事などを読んでいると、あまりにもスカスカで薄っぺらな感じがしてしまうほどです。

ブログを読むとき、そこには情報収集という目的も半分くらいはあるのかもしれませんが、私の場合、それ以上に、世の中の重大事件や日常生活のささやかな出来事に対して、それぞれのブログの書き手がどのように考えたり、リアクションしたりしているか、あるいは、日々を暮らしながらどんなことに価値を見出しているのかなど、現在を生きるさまざまな人々のモノの見方や行動を知るという面白さを感じているのだと思います。

そして、いろいろな人のブログをまとめて読む体験というのは、実際には活字を読んでいるのにもかかわらず、同じ活字メディアの新聞・雑誌や本を読むよりも、どちらかというと、直接人と会って、酒でも飲みながら世間話をしたり、面白い話を聞いたりする体験に近いような気がするのです。しかも、リアル世界の限られた交遊圏ではたぶん一生出会うことができないような、非常にユニークな人物についても、まるで彼らと知り合いであるかのようにその生活をかいま見られるのが、ブログのすごいところです。

もちろん、リアル世界で人と直接会うという行為には、言葉以外にも、さまざまなレベルでのコミュニケーションが同時に含まれているわけで、それとネット上で文字だけを読む行為とを同列に考えることはできないのですが……。

ところで、私がブログを読むのは、他の人もたぶんそうだと思いますが、その中で誰の意見がもっとも正しいとか、誰の行動がもっとも適切であるかということを判定するためではありません。

バックグラウンドの違ういろんな人が、世の中の出来事や自分の置かれた状況に対して、それぞれ自分にふさわしいやり方で独自の反応をするところが興味深いのであって、それはまるで、この地球上における人々の美しくも多様な生活のありようを、RSSリーダーという万華鏡を通して覗き込んでいるようでもあります。しかも、その万華鏡の中身をどう組み合わせるかは、見る人の好みに合わせていくらでもカスタマイズできるというのが、インターネットのすごいところです。

これまでのマスメディアは、物理的な制約もあって、現実世界のそのような多様性を再現することはできなかったので、その代用品として、もっともらしい平均的日本人像みたいなものをつくり上げ、彼や彼女がどのようにこの世界を見つめ、何に価値を見出し、どのように行動すべきであるか、マスコミ人がそれを正しく代弁できるということになっていました。

もちろんそれは幻想にすぎなかったのですが、幻想は幻想として、あるいは一種のタテマエとして、長い間それなりに世の中の役に立ってきたとは思います。

しかし、考えるまでもなく、日本社会にも昔から背景も利害も異なるいろいろな人々がいて、それぞれ自分の損得や価値観に従って生きていたわけで、平均的日本人像のイメージどおりに、それを現実に生きた人がいたわけではありません。そしてそれが幻想である以上、私たちがどう生きるべきかを自ら考えようとするとき、それは具体的なロールモデルとしては役に立ちません。

それに比べれば、さまざまなブログを50〜100くらい適当に選んで、その全体を定期的にウォッチしているほうが、現在の日本人の姿を知るという意味ではよほどリアリティがあるし、面白いし、しかもその中から自分が最も共感を覚える書き手やテーマに注目していくことによって、自分がこの世界でどう生きていくべきかについても、大いに得るものがあるのではないでしょうか。

そしてこのことは、日本だけにとどまらず、世界中のブログについても言えるのだろうと思います。

世界中に存在する無数のブログや各種サイトの中から、読み手が自由に選択し、それらを各自の嗜好に合わせて万華鏡のように組み合わせることが、多様なモノの見方や立場をいつでもまとめて鳥瞰することのできる、メタ・メディアみたいな機能を果たすとしたら、実に面白いことだと思います。

そうやって、いろいろな人が自らの立場を表明するのを、常に全体として眺めるような習慣が広がれば、世界中の人々が織り成すその万華鏡のような世界の中で、私たち一人ひとりが果たしている役割は重要だけれど、同時に他の人も同じくらいの重みをもっていることや、自分たちが深く共感しているモノの見方や立場というものも、全体からすれば、たくさんの視点のうちの一つに過ぎないということが、自ずと理解されるようになるのではないでしょうか。

そしてそうなれば、何か絶対的に正しいとされるただ一つの「真実」を、世界中の人々に強制しようなんていう勘違いも減っていくだろうし、それによってこの世界も、今よりは少しだけ平和になるかもしれません。

まあ、こんな余計なことをつい考えてしまうということは、私はやっぱり心のどこかで、ネット世界がリアル世界へもたらす変化というものに、多大なる期待を抱いているのかもしれません。つい最近、インターネットへの期待が冷めつつあるなんてことを書いたばかりなのですが……。

記事 「冷めつつある期待?」


JUGEMテーマ:インターネット

at 19:06, 浪人, ネットの旅

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『マレー蘭印紀行』

Kindle版はこちら

 

評価 ★★★☆☆ 読むだけの価値はあります

 

この本は、今から80年ほど前、イギリス、オランダによる植民地支配が行われていた当時のマレーシア、シンガポール、インドネシアを巡った日本人の旅行記です。

この本の著者、詩人の金子光晴氏は、昭和3年(1928年)から7年(1932年)にかけて、妻を伴い、ほぼ4年間にわたる海外放浪に出ました。ここでは、その長きにわたる放浪のごく一部、ヨーロッパへの行き帰りに立ち寄ったマレー半島、ジャワ島、スマトラ島への旅が描かれています。

4年もの海外旅行と聞いて、金持ちの諸国漫遊かと思う方も多いかもしれませんが、金子氏は本文の中で、自分たちの旅を、「金もなく行きつくあてもない旅」であったと述べています。巻末の「解説」によれば、実際、彼の旅は、似顔絵や風景画を描いたりして細々と旅費を稼ぎながらの、先の見えない苦しい流れ旅だったようです。

それはともかく、この本のハイライトは、やはり、マレー半島のジャングルに船で分け入り、日本人が経営するゴム園や鉱山を訪ねるところでしょう。

今でこそ人類は自然環境を圧倒する勢いで、地球上の熱帯雨林自体がその消滅の危機にさらされているほどですが、80年前の当時は、比較的開発の進んでいたマレー半島でさえ、ジャングルの中に点在する開拓地に一歩踏み込めば、そこはいまだに猛獣や土匪が跳梁し、マラリアの蔓延する恐るべき場所だったようです。

しかしそんなジャングルにも、さまざまな事情や思惑から、故郷を遠く離れて「南洋」にたどり着いた日本人が暮らしていました。そしてまた、そこは、支配者としてのヨーロッパ人や、肉体労働者として苛酷な労働に携わるマレー人・中国人・インド人など、多様な人種や民族が入り交じる、人種のるつぼのようなところでもありました。

金子氏は、人間の営みを圧倒するような旺盛な生命力を見せつける熱帯の自然と、そこに生きるさまざまな人々の姿を、一言一句にまで繊細な神経の行き届いた文章で、感覚的に、美しく描き出しています。

当時、アジアが欧米の植民地支配にあえいでいたのはもちろんですが、彼が旅していたのは世界恐慌の前後で、現地はゴムの大暴落による不況にあえぎ、経済進出をめぐって各国の利害も激しくぶつかり合っていました。そんな当時の国際情勢も反映されているとはいえ、この旅行記全体からは、何か、この地上で人間として生き続けることへの、やり場 のない哀しみのようなものが濃厚に漂ってきます。

そしてそれは、社会のアウトサイダーとして、あてどなく世界をさまよう金子氏の境遇と、その内面をも映し出しているのでしょう。というより、彼は、当時の東南アジアの自然と社会の現実を素材として借りながらも、この旅行記によって、「金子ワールド」ともいうべき、美しくも哀しい、彼独自の心象風景を創造していたのだろうという気がします。

現在、急激な経済成長をとげつつある東南アジアの多くの国々では、意識的に観光ルートから外れ、一種の闇の領域にあえて踏み込まないかぎり、彼が80年前に見たような人々の悲惨な暮らしや、その深い哀しみを見出すのは難しいと思います。しかしむしろ、だからこそアジアを旅する人は、かつてそこがどんな世界だったかを知っておくという意味で、こうした昔の旅行記を読んでみる価値はあるかもしれません。

それと、こんな表現が適切かどうかは分かりませんが、金子氏は、あるいは、早すぎたヒッピーだったのかもしれないという気がします。戦前の日本の社会で、きっとものすごく窮屈な思いをしながらも、アウトサイダーとして世界を放浪し、しかしそれだけに終わらずに、自らの世界観や内面を、後世に残るような作品に結晶させた人物がいたことに改めて驚かされました。


本の評価基準

 以下の基準を目安に、私の主観で判断しています。

 ★★★★★ 座右の書として、何度も読み返したい本です
 ★★★★☆ 一度は読んでおきたい、素晴らしい本です
 ★★★☆☆ 読むだけの価値はあります
 ★★☆☆☆ よかったら暇な時に読んでみてください
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JUGEMテーマ:読書

 

 

at 18:41, 浪人, 本の旅〜東南アジア

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『浦島太郎はどこへ行ったのか』

評価 ★★☆☆☆ よかったら暇な時に読んでみてください

日本人なら、たぶん知らない者のないほど有名な浦島太郎の物語。しかしこの昔話が、実は、かつて日本の歴史書の中に描かれた「史実」であったということは、ほとんど知られていないのではないでしょうか。

『日本書紀』には、丹後国の浦嶋子が雄略天皇の治世22年(西暦478年)に蓬莱山を訪れたという記述があり、『丹後国風土記』の逸文には、浦嶋子と蓬莱の亀姫との悲恋が語られています。その後、中世の『御伽草子』に描かれた浦島太郎の話によって、亀の恩返し、龍宮、乙姫、玉手箱など、現代まで伝わっているようなモチーフが広まったとされています。
ウィキペディア 「浦島太郎」

もしも浦島太郎の話が単なる空想物語ではなく、その一部にせよ、何か歴史的な事実が反映されているのだとしたら、この不思議な話をどのようにとらえればいいのでしょうか? 彼の前に現れた亀とは? 龍宮はどこにあったのか? 玉手箱の中身とは? 等々……。

この本の著者、高橋大輔氏は、そうした謎の正体を突き止めるべく、浦嶋伝説の舞台であった丹後半島をふりだしに、他に伝説の伝わる土地や、謎を解く手がかりになりそうな場所を片っ端から訪れ、果ては「蓬莱」の痕跡を求めて、中国にまで足を伸ばします。

浦島太郎の物語の謎に惹かれる人は多いでしょうが、実際にそこまで徹底的な探索をする人はまずいないでしょう。「子供が考えつくようなことを、大の大人が大真面目でやる」ところに、この本の面白さがあります。

高橋氏は各地への旅を繰り返し、同時に古代史に関わる膨大な文献の山と格闘し、現場で得たインスピレーションと文献の記述とをつき合わせていくのですが、そのプロセスを通じて、有史以前のはるか昔から日本と周囲の世界を結びつけてきた海上のルートの存在と、そこからもたらされたさまざまな技術や文化、そして、それを担ってきた古代の海人族と浦嶋伝説との深い結びつきが浮かび上がってきます。

そして彼は、旅の最後に、浦嶋子が実在の人物であったことを前提に、彼が実際にたどり着いた「蓬莱」とはどこであったのかなど、浦嶋伝説をめぐる謎についての大胆な仮説を提示しています。

もちろん、この仮説を古代史の専門家がどう評価するのかは私には分からないし、その仮説に説得力を感じるかどうかも、それぞれの読者次第でしょう。それにそもそも、龍宮や玉手箱の正体が分かったところで、一体それが何の得になるのか? と言われてしまえばそれまでです。

しかし私はむしろ、こうした結論部分よりも、そこにいたるまでの試行錯誤、つまり、わずかな手がかりを求めて文献を渉猟し、日本の各地を飛び回るというプロセスこそ、探求者にとって最も価値のある、楽しい時間だったのだと思います。

高橋氏はこの本の旅を、「物語を旅する」こと、つまり「伝説や神話、昔話、あるいは物語に秘められた謎を追い、フィクションとノン・フィクションが重なり合う接点を求める旅」であるとしていますが、こうした探索の旅というのは、ツボにはまれば非常に面白そうです。

ただし、今回のように古代史が関わってくると、虚実入り乱れた膨大な文献の混沌とした世界に足を踏み入れることになるので、下手をするとそこから一生出られなくなりそうですが……。


本の評価基準

 以下の基準を目安に、私の主観で判断しています。

 ★★★★★ 座右の書として、何度も読み返したい本です
 ★★★★☆ 一度は読んでおきたい、素晴らしい本です
 ★★★☆☆ 読むだけの価値はあります
 ★★☆☆☆ よかったら暇な時に読んでみてください
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at 18:54, 浪人, 本の旅〜日本

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旅の名言 「つまり人間も……」

 そして旅をはじめてから私はいつかどこかで自分にぴったりする衣装に出会い、それに包まれ、それがあわさって自分自身になるだろうという何か淡い期待のようなものを抱えていた。私は人生において七五三があるように、この衣替えの通過儀礼は重要であると思っていた。それは脱皮であり、自分のアイデンティティのありどころを変える行為に他ならないからだ。つまり人間もある種の昆虫や小動物と同じように自分の第二の皮膚である衣装を脱皮し、そのときどきの自分の身の丈に応じた新しい衣装を身につけるのである。


『黄泉の犬』 藤原 新也 文藝春秋 より
この本の紹介記事

インド旅行記の名作『印度放浪』で知られる写真家の藤原新也氏が、1995年のオウム事件をきっかけに心に甦った、若い頃のインドでの壮絶な旅を描いた作品、『黄泉の犬』からの一節です。

この本の中に、藤原氏がある年老いたヨギから、理由も告げられないまま、色褪せた聖衣をもらい受けるというエピソードがあるのですが、その衣のもつ意味をめぐって、彼はその後の自分の身の振り方について迷い抜くという体験をします。

そうした例からもわかるように、旅人が何を着るかということは、単に旅先の気候風土に合わせるという機能面にとどまらず、旅人が自分自身をどうとらえ、どう表現するかという内面の問題を色濃く映し出しています。藤原氏が言うように、旅を通じて、旅人が自分の衣装を替えていくことは、一種の「通過儀礼」でもあるのです。

長い旅をしているときには、私自身にもそのような感覚が強くありました。また、そうした理由もあって、他の旅人たちが何をどのように着ているかということを、興味をもって見ていたように思います。

もちろん、ほとんどの旅行者は、特に奇抜な格好をしているわけではありません。たぶん95%以上の旅人は、日常生活と同じような、ごく常識的で動きやすい服装をしているはずです。彼らの旅は、数日から長くて数週間くらいでしょうが、それなら日本から持参した衣類を着回すだけで十分に間に合うだろうし、わざわざ旅先で大胆な衣替えをしようなどという発想もなかなか湧いてこないでしょう。

ただ、さすがに旅が数か月を超えると、日本から着てきた服がボロボロになったり、なくしてしまったりして、やむ なく現地で新しい服を手に入れる必要に迫られることもあります。また、旅暮らしに慣れてくると、いろいろなところに目が向くようになり、現地の人々や、他の旅人が着ているものに心を惹かれることもあります。

あるいは、日本での日常とは明らかに違う、旅という特別な時間の流れに身を浸しているうちに、自分の意識がすっかり変わり、日本から着てきた服に違和感を感じるようになったり、自らの置かれた状況や内面をより的確に表現してくれるような衣装を、もっと意識的に求めようという気分になるかもしれません。

昔から、インドやアフリカなどを長期放浪する人たちの一部には、ヒッピー系とか民族衣装系とか、さまざまな趣味の違いはあるにせよ、非常に特徴的で目立つ衣装を身にまとう傾向があります。

別に、誰から強制されたわけでもないのでしょうが、いつの間にか、日本ではとても考えられないような奇抜な格好をするようになっていくのは、そして、そこに何となく彼らの内面が読みとれるような気がするのは、とても興味深いものでした。

異国の地で、日常とは異なる生活や意識状態にある者が、自らの生活スタイルや内面にピッタリと合うような衣装をまといたいと思うのは、人間にとって、とても自然な衝動なのかもしれません。そしてその衝動に忠実に従い、今までとは全く違う新しい自分というものを表現しようとすれば、日本にいたときの自分でも想像できたような、ありきたりの服装ではダメなのでしょう。

ある意味では、彼らの格好が日本における服装のコードから外れていればいるほど、それは彼らの内面が、日本での自分自身からどれだけ遠ざかっている(つもり)かを示しているということなのかもしれません。

ただ、面白いのは、旅人の一人ひとりがいくら個人的でオリジナルな衝動に従っているつもりでも、そういう放浪者の衣装には、全体的に見ると一定の傾向みたいなものが感じられて、いかにも放浪者っぽく見える、という点では共通しているということです。

そして、それは何だか、他の旅人に対して、彼らが年季の入った、グレードの高い旅人であることを誇示しているように見えなくもありません。

そんな風に思っていたこともあって、私の場合は、自分がいかにも放浪者っぽい感じになってしまわないよう、せめて見た目だけでも、できるだけ「普通の旅人」でいようと心がけていました。

もっとも、いくら本人がそのつもりでも、周囲の旅人にどう見えていたかはわかりませんが……。


JUGEMテーマ:旅行

at 18:54, 浪人, 旅の名言〜衣食住と金

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隔離されたホテルで

ついに、日本でも新型インフルエンザの感染者が確認されました。

報道によれば、5月8日にカナダから帰国した日本人3人について、国立感染症研究所の遺伝子検査の結果、新型インフルエンザに感染していることが判明したそうです。

4月末以来、新型インフルエンザ関連のニュースが飛び交い、「感染疑い例」が毎日のように報道される大騒ぎだったことを考えると、これはそれらをはるかに超える「大ニュース」のはずですが、私の気のせいか、今回は報道のされ方になんとなく落ち着きが感じられます。

感染した3人の症状がそれほど重くないこともあると思いますが、それ以上に、これまで毎日「疑い例」情報に振り回されてきたことで、報道する側も、それを受け止める私たちの側も、いいかげんうんざりし始めていたからなのかもしれません。

あるいは、ニュースに何度も接しているうちに、新型インフルエンザウイルスについてのある程度正確な情報や、世界各地のリアルタイムの感染状況、そして各国の対応策が知られるようになったことで、日本でも、新しいウイルスだが注意深く対応してしていればそれほど恐れる必要はない、というコンセンサスが出来上がりつつあるのかもしれません。

そういう雰囲気もあってか、私は日本国内の状況よりもむしろ、香港のホテルで起きた、宿泊客の隔離「事件」の方が気になっていました。

5月1日に、香港滞在中のメキシコ人男性が新型インフルエンザに感染していることが判明し、彼が宿泊していた香港のメトロパーク・ホテルの約200名(日本人8人を含む)の宿泊客と約100名の従業員が、5月1日から8日まで隔離されたというニュースです。

そして、先日見たあるニュース番組の中では、宿泊客の一人が自ら撮影したホテル内の映像をまじえ、一週間にもわたる隔離生活の中で、彼らがどのような日々を送っていたのかが紹介されていました。

それは、不謹慎な言い方ではありますが、見ていてとても興味深いものでした。

宿泊客の国籍はさまざまで、香港人も交じっています。隔離当初、彼らは不安や怒りや当惑の表情を浮かべていました。彼らは十分な説明も受けないまま、いきなり行動の自由を奪われ、食事は配給される中華料理の弁当のみ、部屋の掃除やクリーニングなど、ホテルとして最低限のサービスも機能しなくなった状態で、何日も放置されます。

隔離から数日経ってようやく開かれた説明会では、荒れる宿泊客も出ました。彼らの置かれた状況の理不尽さを思えば、その気持ちも理解できます。

それでも、香港の当局が数々のプレゼントで懐柔し、地元の人たちからも差し入れや励ましのメッセージが届き始めると、宿泊客の心理にも変化が現われ始めたのだそうです。自分たちにはどうにもならない状況の中で、彼ら自身が知恵を出し合い、与えられた空白の時間を精一杯楽しもうという姿勢が芽生え、隔離が終わる前日には、みんなが前夜祭のパーティーで盛り上がるまでになっていました。

8日の夜に、彼らの全員が無事に「解放」され、多くの人が笑顔でホテルを後にしましたが、それは、ホッとして、ちょっと心温まるようなニュースでした。もっともそれは、現場で辛い思いをしたわけでもない、無責任な第三者の感想に過ぎないのかもしれませんが……。

そもそも、旅には不測の事態がつきものです。現地で起こるさまざまなアクシデントによって、旅人が足止めを食うということはめずらしくありません。

それでも、そういうアクシデントがやたらと起こり、旅行者のストレスが大きすぎて敬遠される国や地域と、そういうことがめったに起こらず、旅人が思い通りの快適な旅を楽しめる国や地域というのがあることも事実です。そして、香港は、どちらかといえば後者に属する場所だと思います。

だから今回、ホテルに閉じ込められることになったビジネスマンも観光客も、まさか自分がそのような事態に突然巻き込まれることになろうとは、全く想像していなかったのではないでしょうか。

もちろん、新型インフルエンザの発生そのものは、香港当局には何の責任もないことです。しかも、香港の人々の間には、新型肺炎SARSによって、2003年に300名近い人々が亡くなったという苦い記憶もあります。実際に香港で感染者が見つかった以上、感染の拡大を防ぐために、一部の人を隔離するのは止むを得ない処置だったと思います。

ただ、SARSを知らない外国人旅行者にとっては、不案内な異国の地で、いきなり自由を奪われるというのは、非常に不安なことだったはずです。彼らの運命は当局に委ねられてしまっていて、個人ではどうすることもできないし、当局が一体何を考え、自分たちにどのような処置をとるのか、十分な情報が与えられないだけに、疑心暗鬼にもなったでしょう。

しかも、自分がすることになっていたはずの活動はすべてキャンセルされ、日常にポッカリと開いた完全な空白、しかも一週間もの長い時間を、未知の病気に感染しているかもしれないという恐怖を感じながら、過ごさなければならなかったのです。

今回は何事もなく、全員が無事に解放されたのが不幸中の幸いで、結果的に一種のドタバタ劇みたいな感じで済みましたが、これがもっと致死率の高い病気だったりしたら、彼らは狭い場所に閉じ込められた恐怖で、平常心を保つことが難しかったかもしれません。それに、多くの人を救うために、自分たちが犠牲にされるという被害者意識を、もっと強く抱くことになったのではないかと思います。

そういえば、日本でも、新型インフルエンザの感染者と同じ飛行機に乗り合わせ、周囲の座席に座っていた人々が、成田で隔離されています。彼らはそこで、どんな時間を過ごしているのでしょう? 香港のホテルに閉じ込められた人々には、世界中から注目が集まり、差し入れや励ましのメッセージが届けられましたが、日本で隔離されている人々に対してはどうなのでしょうか?

5月10日付の読売新聞には、成田空港近くのホテルで「停留」措置を受けることになった彼らの様子が伝えられています。

隔離といっても、場所はホテルなので、食事はまともなものが用意されているようですが、香港同様、ルームサービスは受けられず、洗濯も自分で行なっているようです。

そして、彼らの行動に対する管理は、香港よりも厳格です。食事以外は部屋を出ることも原則禁止で、食事の時も、互いに2メートル以内には近づけないのだそうです。これがこれから10日間も続くわけですが、どうもこの雰囲気では、香港のホテルのように同じ境遇の者同士が親しくなって、解放「前夜祭」を楽しむようなハプニングは起こりそうもありません。

もっとも、香港の場合は、感染者を水際で食い止めることができず、感染者が市街に出てしまった後、彼の泊まっていたホテル全体をあわてて隔離したというケースなので、日本のように、空港の検疫の段階でマニュアル通りに隔離するようなケースと単純に比較することはできないのですが……。

それにしても、「停留」措置を受けた人たちは、私たちみんなの健康を守るために、これから長時間にわたって不自由な思いをすることになるわけです。まあ、電話をしたり、テレビを見たり、差し入れの新聞・雑誌を読んだりするくらいはできるのでしょうが、隔離先のホテルが、快適とはいえないまでも、せめて不安やいらだちを感じることのない環境であってほしいと思います。


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at 19:55, 浪人, ニュースの旅

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『ロロ・ジョングランの歌声』

 

評価 ★★☆☆☆ よかったら暇な時に読んでみてください

この物語のヒロインは、29歳の雑誌編集記者。1998年に騒乱のさなかの東ティモールで命を落とした従兄の新聞記者の死の謎を追って、インドネシアや東ティモールを旅するという設定です。

そしてまた、これは、ジャーナリストや国際ボランティア、開発援助に携わるビジネスマンなど、旅を仕事とし、さまざまな国や地域を転々としながら生きる人々の物語でもあります。

ストーリーはヒロインの仕事や恋愛、そして、次第に明かされる謎を軸に展開するのですが、物語の背景として、日本政府によるODAや民間のボランティアなど、インドネシアを舞台とした国際協力活動の世界、とりわけその影の側面が詳しく描かれています。

「助けたいという気持ちと、その中にある偽善。そして利権」……。この世には、そもそも純粋な善など存在しないのかもしれませんが、多くの人が薄々気がついているように、美談として語られる国際協力の分野もまた、その例外ではありません。

しかし、作者の松村氏は、単純な正義を振りかざして、そうした影の部分を断罪するような立場はとりません。この物語のヒロインのように、実際に国際協力の現場に踏み込んでみれば、そこにはさまざまな人々の立場や動機や事情があり、その国の文化慣習があり、国家間の関係や歴史的な経緯もあることが見えてきます。

松村氏は、そうした多様な立場や視点を象徴するような人物を物語に登場させ、それぞれに語らせることによって、簡単に割り切った答えを見出すことのできない、国際協力の世界の複雑な様相を、巧みに描き出しています。

もっとも、この本は、いろいろな仕掛けを盛り込んだ知的なエンターテインメントとしてよく作り込まれているので、国際協力の現場とか、インドネシアや東ティモールというテーマに興味があるかどうかに関係なく、ストーリー展開そのものを追うだけでも十分に楽しめると思います。

ただ、個人的には、細かすぎるほどのヒロインの心理描写とか、現実にはありそうもない、メロドラマ風のややこしい人間関係には、読んでいて違和感を覚えました。あるいは、こういう特徴というのは、エンターテインメント系の小説ではごく一般的なことなのでしょうか? 私はこうしたジャンルの小説をほとんど読んだことがないので、よく分からないのですが……。


本の評価基準

 以下の基準を目安に、私の主観で判断しています。

 ★★★★★ 座右の書として、何度も読み返したい本です
 ★★★★☆ 一度は読んでおきたい、素晴らしい本です
 ★★★☆☆ 読むだけの価値はあります
 ★★☆☆☆ よかったら暇な時に読んでみてください
 ★☆☆☆☆ 人によっては得るところがあるかも?
 ☆☆☆☆☆ ここでは紹介しないことにします



JUGEMテーマ:読書

 

at 18:41, 浪人, 本の旅〜旅の物語

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冷めつつある期待?

これは、あくまでも個人的な感じ方に過ぎないし、今さら言うようなことでもないのかもしれませんが、最近、私自身の中で、インターネットがもたらす社会の変化への期待みたいなものが、冷めつつあるような気がします。

もちろん、ネットに関しては、今でも肯定的・否定的な、さまざまな評価や将来の見通しが示されていて、それをどう受け止めるかも、人によってそれぞれ違うのは承知しています。

私の場合、インターネットとの関わりは、気が向いたときにネットサーフィンをしたり、このブログに細々と記事を書いている程度で、ネット世界を隅々まで探索しているわけでも、ITに関する新しい情報を敏感にキャッチしているわけでもありません。また、ネットのもたらす可能性や、その社会に与える影響について、ちゃんとした知識や見通しがあるわけでもありません。

ただ、これまで、素人なりにネットを利用してきた経験から、ネット世界で何ができて何ができないのか、その限界のようなものが漠然と分かってきて、インターネットというものに関して、個人的には、必要以上の期待も不安も抱かなくなってきた、という感じがするのです。

あるいはそれは、倦怠期、というほどではないにしても、ネットとの付き合いにすっかり慣れ、現実的な、醒めた目でネットを見ることができるようになったということなのかもしれません。

十数年前に初めてインターネットに触れたときには、自分の前に突如現れた膨大な情報の海に興奮を覚えました。

その当時は、ちゃんとした検索エンジンがなく、必要な情報に辿り着くまでにかなりの手間がかかったり、情報そのものが存在しないこともありました。また、ネット上でできることもかなり限られていました。

それでも、そうした現状以上に、その将来の可能性のようなものに大きな期待を抱き、インターネットの出現によって、世の中が急速に、しかも予想もつかないような形に大きく変わっていくんだろうなとワクワクしたことは確かです。また、その裏返しだと思いますが、ネットがもたらす変化のスピードに遅れてしまわないよう、ネット上の新しいサービスや動きに対して、最低限の目配りはしておかなければと思いました。

たしかに、インターネットを利用するようになってから、私自身の生活は大きく変わったし、情報の入手に関して、ネットに依存する比率は高まる一方です。

また、ネット上の情報は今でも刻一刻と増え続けているし、その流れが止まるということもあり得ないでしょう。そして、その膨大な情報を個々人が取捨選択し、快適に利用できるようにするためのサービスやインフラも着々と整備されつつあります。

そうした変化が、ビジネスや人々の日常生活など、リアル世界にもたらす変化は非常に大きなものになるだろうし、実際にその流れに乗り遅れた企業や組織が、驚くほどのスピードで淘汰されてしまうような現象も次々に起きています。

ただ、少し視点を変えて、インターネットの出現が自分自身の生活にもたらした変化が、どのくらい深いレベルのものだったかを、改めて考え直してみると、そうした変化は、過去数十年、あるいは近代以降の社会の変化の延長で 十分理解できることであって、ネットの出現によって、何か本当に新しいことが起こりつつあるような気があまりしないのです。

また、情報がめまぐるしく飛び交い、移り変わるという点で、世の中全体がかなり気ぜわしい感じになったし、世界全体がますます小さく、緊密に結びつきつつあるという実感もあるのですが、考えてみると、それらの変化のほとんどは、情報のスピードや量が劇的に増えていくというものばかりで、それ以外の点に関しては、今のところ、目に見えるような変化があまり感じられない気がするのです。

結局のところ、インターネットによって、言語以外の、人類にとって何か全く新しい表現・伝達手段が発明されたわけではないし、媒体が紙やテレビからインターネットに変わっても、基本的に、人間が思考して言葉や文章に表現したものによってメッセージを伝えるという点に変わりはありません。

それに、いくらインターネットに接続する人口が増えても、ネット上の情報をフルに活用する人の割合は、将来もそれほど増えることはなく、たぶん少数派にとどまるような気がします。ネット世界に膨大な情報が蓄えられているといっても、積極的にそれを探索し、利用しない人にとっては、それは存在しないのと同じです。

それは、近代的な教育システムによって、多くの人が文字を読めるようになり、出版業界が繁栄し、図書館が整備されて、いくらでも読書ができる環境が整っているのにもかかわらず、すべての人間が読書を楽しむようになったわけではないし、今でも、全人口に占める割合からすれば、積極的に本を読む人の方がむしろ少数派であるという事実からも想像できることです。

いつも絶えず好奇心にあふれ、何か知りたいことを、次から次へといくらでも思いつくような人にとっては、検索エンジンは知識の王国への魔法の扉なのでしょうが、それ以外の人にとっては、それはちょっとした調べ物をするための、便利な道具程度のものに過ぎないのかもしれません。

多くの人は、情報に対してそれほどアグレッシブではないはずです。興味関心のある、ごく限られた分野ならともかく、それ以外に関しては、いつも明確な目的意識をもっているわけではないだろうし、大部分の時間はとりあえず受け身の状態で、漠然とした情報に触れていればそれで十分、という感じなのではないでしょうか。

しかし、検索エンジンは常に利用者の主体的で能動的な関わりを要求し、受け身のままでは何も返してくれません。むしろ、私たちが情報に対して受け身になっているときには、ただ黙って見ていれば、それなりの情報を口当たりよく加工して流し込んでくれるテレビのような媒体の方が、便利で快適なはずです。

知識欲にあふれるごく少数の人々にとっては、インターネットは宝の山だろうし、また、マニアックな趣味の世界にこだわる人々が、自分の居場所と仲間を見出したり、あるいは、社会におけるマイノリティが、自らの立場や意見を表明したりするための媒体として、ネットは非常にパワフルな存在となるでしょうが、何か特別に「熱い」ものを持ち合わせていない多くの人にとっては、親しい人々同士でのコミュニケーションや、ショッピングや、ちょっとした調べもののツールには便利でも、なかなかそれ以上の存在にはならないのかもしれません。

ただし、私を含めて、「ネット以前」の世界でずっと育ってきた世代は、これまでの社会のステレオタイプなモノの見方にがんじがらめに縛られています。

どんなに想像力をたくましくしたり、頭をひねったりしてみたところで、昔ながらの活字文化とか、古臭いリアル世界の人間関係の影響のもとにネットの使い方を考えるわけだから、それが今のところ、想像を絶する斬新さや、ワクワク感に欠けるものになってしまうのは、止むを得ないことなのかもしれません。

だとすると、私個人が、インターネットに対する期待が冷めたなどと思ってしまうのは、インターネットの限界みたいなものにその原因があるというより、むしろ、私自身の発想の貧困さが、勝手にその限界を作り出しているだけ、という可能性もあります。

幼い頃に身についた思考や行動のパターンは容易に変えられるものではないし、そこからは現状を超えるような、斬新な発想はなかなか出てこないものです。そして、そういう古いモノの見方に凝り固まってしまった世代が今後も何十年と生き続け、リアル世界を動かしている間は、それほど急速に世の中が変わることはないだろうし、そんな現状が、ネットの現在のあり方そのものに反映されているとも考えられるのです。

つまり、インターネットは人間社会の現状を映し出す鏡みたいなもので、私たちは、ある意味では、そこに自分たちの社会のありのままの姿を見出しているに過ぎないのかもしれません。そして、肯定的にせよ、否定的にせよ、ネットをどう評価するかということも、結局は、自分自身に対する評価をしているに過ぎないのかもしれません……。

ただ、物心ついた頃にはインターネットに接していたような若い世代が、これから先、意表をつくような、全く新しいネットの利用法や情報の表現法を生み出すということはあり得ます。そして、何十年後かに、彼らが社会の主流になったときに初めて、人間は現在の「旧世界」の制約を脱し、本当の意味で、新しい世界が姿を現すことになるのかもしれません。

そう考えると、私が生きているうちには、たぶん、本当の「新世界」を目にすることはできないということになります。

もしそうだとしたら、とても残念なことですが、私たちと、それ以前の世代に特有の古いモノの見方や生き方――つまり現在の私たちのあり方そのものが、「新世界」の出現を邪魔しているのだとしたら、それは、どうにもならないことなのかもしれません……。


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at 18:41, 浪人, ネットの旅

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