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旅の記憶とアジアの人びと
旅好きの人ならもちろん、こういうことは日常茶飯事というか、もはやいちいち意識するまでもない、一種の習慣みたいになっているのではないかと思います。
そうした記憶はふつう、旅先での印象深いエピソードと一緒に、具体的な場所とか人物の映像や声として鮮やかに浮かんでくるものですが、そうした明瞭な記憶とは別に、何か、漠然としたアジアの人々のイメージのようなものもあって、それが常に、私の心の片隅に場所を占めているような気がします。
それは、それぞれが誰であると特定することもできないような、ぼんやりとした群像のようなものです。「彼ら」はスナップ写真のように具体的な映像になっているわけではないし、顔にはそれと分かる明確な表情もなければ、国籍や名前を示す特徴みたいなものも感じられません。
というより、それが厳密な意味で記憶と呼べるものなのかさえ、私にはよく分かりません。何とも説明が難しいのですが、個別で具体的なエピソードとしての思い出とは別に、大勢のアジアの人々のイメージが、旅の記憶全体の一種の背景のように、同時に見えているような気がするのです。別の言い方をすれば、それは旅の記憶と一体になった雰囲気のようなもの、あるいは記憶のBGMのようなものなのかもしれません。
もしかするとそれは、旅の中で、ローカル・バスや列車の車窓から、また、バスターミナルや市場、街の雑踏の中で見かけた、現地の数え切れないほどの人々の映像的な記憶とか、そのうちのごく一部の人々と具体的にコミュニケーションをとった記憶などが、すべて残らず蓄えられ、渾然一体となった集合体みたいなものなのではないかとも思います。
そこには、何か言葉で表現したり、絵に描いたりできるようなはっきりとした特徴がないので、それをうまく人に伝えることができないのですが、にもかかわら ず、それは決して弱々しいものではなく、私の心の中でしっかりとした存在感を示しています。
そしてそれは、旅を重ねるにつれて、さらに存在感を増しつつあるようで、今では私自身のモノの考え方や行動に対して、重大な影響を与え続けているように思います。
旅をしている間だけでなく、日常生活の場面でも、何かを判断したり、行動に移したりしようとするときには、それは絶えず私の意識の片隅で、静かに、しかししっかりと存在を主張し、それを無視することができません。つまり、私はいつも、心の中のそのアジアの人々のイメージに照らして、感覚的に違和感のない選択肢しか選べなくなってしまったような気がするのです。
かすかでぼんやりとした記憶のような存在でありながら、自分の心の中にしっかりと場所を占め、現在の私の判断や行動に強い影響を与え続けているその感じを、どうもうまく表現できないのですが、あえて言えば、私の心の中のそのイメージは、過ぎ去った旅の単なる思い出というよりは、むしろもっと生々しいもので、それは、この時代に同じ地球上に生きている多くの人々の存在を象徴するような役割を果たしているのかもしれません。
もちろんそこにはきっと、これまでに私が本・新聞・雑誌・インターネットを通じて手に入れた情報や、テレビで見た映像の記憶などが交じり合っているだろうし、また、私自身の誤解や思い込み、ステレオタイプなモノの見方なども混入しているでしょう。
しかし、そうしたイメージには、旅を通じて実際に自分の目で見たり体験したりしたことによって、ずっとリアルで生々しい肉づけがされ続けてきたせいか、頭だけで考えつくような理屈を超えた、もっと強い感覚をもって、私の考えや行動に強く働きかけてくるのです。
私はもともと、何か明確な目的や目標があってアジアの旅を始めたわけではないし、旅を続けるなかで、実際に目に見えるような成果とか利益のようなものを感じたこともありません。ただ、ぶらぶらとアジアの国々を移動し、ときどき「沈没」していただけです。
それでも、貧しく地味ではあるけれど、したたかに前向きに暮らしているような、世界人口の圧倒的多数を占める「普通の」人々の姿を毎日ひたすら見続けてきたことで、日本国内のスタンダードとはかなり異なるアジアの人々についての漠然とした、しかし存在感のあるイメージが心の中に生まれ、自分でもほとんど自覚していないところで、私の人生観や世界観を微妙に変えていたのかもしれません。
とはいっても、私は、アジアの人々、あるいは世界の開発途上国の人々の貧しさや苦しみを何とかしようとして、ボランティア活動を始めたり、社会起業家になったりしたわけではありません。それに、アジアのいわゆる「庶民」の生き方にならって、私自身も地味に真面目に暮らすようになったというわけでもありません。
アジアの人々のイメージは、私の心の中にしっかりとした場所を占めていることは確かだし、そこから大きな影響を受けてもいるのですが、かといって、それが心の中心を占めるほどの圧倒的な問題意識になったり、爆発的なエネルギーをもたらして、私自身の生活や人生の方向性を決定的に変えてしまうほどではなかったのです。
まあ、そのへんのモヤモヤとした中途半端さや不完全燃焼感みたいなものは、私のポテンシャルの低さというか、心の狭さみたいなものの表れなのかもしれませんが……。
JUGEMテーマ:旅行
旅の名言 「旅は思索の……」
旅は思索の助産婦である。移動中のジェット機や船や列車ほど、心のなかの会話を引き出す場はまずない。目の前にあるものと、頭のなかで考えることができるものとの間には、奇妙なと言っていいくらい相関関係がある。大問題を考えるときはしばしば大きな風景が求められ、新しいことを考えるためには新しい場が必要になる。内省的なもの思いは、流れゆく景色とともに深まりやすい。
『旅する哲学 ― 大人のための旅行術』 アラン・ド ボトン 集英社 より
この本の紹介記事
旅をしながら、旅について深く考えるエッセイ、アラン・ド・ボトン氏の『旅する哲学』からの一節です。
「旅は思索の助産婦である」とは、思索そのものを仕事とする人物ならではの名言ですが、もちろん彼のようなプロだけではなく、私たちのようなごく一般の旅行者も、旅が思索を促し、それを深めてくれることを経験的に知っています。
その思索は、彼のように人前に出せるような立派なものではないかもしれませんが、少なくともそれらは旅先の土地や人々のこと、世の中全般のこと、そして自分自身のことについて、日常の暮らしとは違う視点からの、さまざまな思考や内省をもたらしてくれます。
ちなみにド・ボトン氏は、同じエッセイの中で、こうも書いています。
あらゆる移動手段のなかで、いちばん考える助けになるのは、列車なのではないか。船や飛行機の旅のように、風景が単調になるおそれはまったくない。うんざりしなくてすむ程度にはじゅうぶん速いし、対象を見定めることができる程度にはゆっくり走ってくれるからだ。
動いている乗り物には、いずれも思索を促す効果がありますが、彼に言わせると、列車のスピードがベストのようです。
もっとも、このあたりは個人の好みの問題もあるでしょう。あるいは、頭の中で繰り広げる思索の性質によって、最適のスピードも違ってくるかもしれません。
私個人としては、旅の手段としては列車よりもローカル・バスの方が面白いと思っているのですが、たしかに列車の方が、何かボーッと考え事をするのには適しているような気がします。ローカル・バスでは、車窓の風景にちょっと生活感がありすぎて、大きなテーマや少し抽象的なことを考えるのには向いていないかもしれません。
でも、どんな乗り物にせよ、窓の外を適度に流れていく風景や、移動する実感がもたらす自由で解き放たれた感覚が、思索を促すうえで重要なポイントなのでしょう。
そして、そうした思索は、ときには表面的な思考を超えて、自分自身の内奥へと近づき、まるで冥想のような深まりを見せることもあるようです。
何時間か列車で夢見ていたあと、わたしたちは自分自身に戻っていたと感じることがある――それはつまり、自分にとって大切な感情や考えに接触するところまで引き返していたということなのだ。わたしたちが本当の自分に出会うのに、家庭は必ずしもベストの場とは言えない。家具調度は変わらないから、わたしたちは変われないと主張するのだ。家庭的な設定は、わたしたちを普通の暮らしをしている人間であることに繋ぎ止めつづける。しかし、普通の暮らしをしているわたしたちが、わたしたちの本質的な姿ではないのかもしれないのだ。
私たちは旅に出ることで、「わたしたちを普通の暮らしをしている人間であることに繋ぎ止めつづける」「家庭的な設定」から解き放たれ、移動するバスや列車や飛行機の中で、ふと「自分自身に戻」り、「自分にとって大切な感情や考え」を垣間見ることもあるのです。
ところで最近、特に若い人が、旅に出る理由として「自分探し」という言葉をよく口にします。その風潮に対しては、「若いうちは、大いにそういう旅をするべき」と共感する意見から、「旅をしたって自分なんて見つからない、そんなことしても意味がない」という辛口の意見まで、賛否両論です。
たしかに、「犬も歩けば棒に当たる」式に、適当にふらふらと旅をしていれば、すぐに「本当の自分」なるものに突き当たるほどこの世界は甘くないし、そのあたりの事情については、私自身も長い旅をしたことがあるので身にしみて分かっているつもりです。
ただ、「本当の自分」という言葉についてもう少し考えてみると、それを、一発当てて大金持ちになるとか、皆が憧れるような立派な仕事を見つけるとか、ハリウッド映画の主人公のようなヒーローやヒロインになるというような意味で言っているのであれば、いくら旅を続けても、そんな自分に出会えるチャンスはほとんどないでしょうが、「本当の自分」を、日常的な自分の意識とは違った、ある種の意識のモードみたいなものだと考えれば、ド・ボトン氏の言うように、旅先で、あるいは移動中の列車や飛行機の中で、束の間でもそうした状態を体験することはできるかもしれません。
それは、一般に「自分探し」と言うときに、多くの人が期待していることとは違うかもしれませんが、人が日常の機械的な生活に埋没して忘れかけていた「自分にとって大切な感情や考え」に、旅の中で再び出会えるかもしれないとしたら、その体験自体に派手さはなくても、そのプロセスはやはり、「自分探し」と呼ぶにふさわしいものなのではないでしょうか。
JUGEMテーマ:旅行
旅人とビザ
ウィキペディア 「査証」
バックパッカーが好んで旅するようなアジアの国々では、入国前にビザの取得が必要な国が多いのですが、旅のコストを少しでも減らしたい貧乏旅行者にとって、ビザの発行・延長のたびにかかるカネは結構な額になります。
もちろん、ビザの問題はコストだけではありません。ツーリスト・ビザには期限があって、仮に延長できたとしても、トータルで数か月がせいぜいです。ある国をとても気に入って、のんびりと旅したり、一つの街にできるだけ長く滞在したいと思っても、旅行者という立場である限り、好きなだけ滞在する自由はありません。
それに加えて、ビザ取得手続きの面倒さという問題もあります。ビザが取れるのは大使館や領事館に限られているので(場合によっては国境や空港で入国時に取得できる場合もありますが)、数か国を続けて旅するときには、行き当たりばったりに国境を越えるというわけにもいかず、あらかじめ旅のルートを大ざっぱに決めたうえで、計画的にビザを準備しておかなければなりません。
ビザ用の写真やら書類やらを用意し、決められた時間に大使館や領事館に出向いて長い列に並び、あるいは旅行代理店に手数料を払ってビザを申請し、それから何日も待たされます。無事にビザが取れても、今度はその有効期限を気にしながら旅をしなければならないし、入国した後も、必要に応じて延長申請をするためにイミグレーションに出向いたりと、ビザをめぐる事務手続きには骨が折れます。
そういう諸々の手間や費用を考えると、ビザなしで何か月もの滞在を許してくれるような国は、私には本当にありがたいのですが、そういう国は概して生活費が日本並みに高く、そもそも長期の旅や滞在には向いていません。
生活費が安く、旅していて面白い国にはビザの問題があり、ビザの問題がない国は生活費が高い――これは、アジアを旅する人にとっては大きなジレンマなのではないでしょうか。
もっとも、こういったことを問題と感じるのは、あくまでも私が旅行者だからであって、その国の役所にとってみれば、それは問題どころか、むしろそうするだけのはっきりとした理由があってやっていることです。
外国人がビザなしで自由に日本に来られるようになったら一体どういうことになるか、想像してみれば分かるように、外国人の出入国をコントロールしたいのは先進国も開発途上国も同じことです。
それに、観光ビザのほとんどは数週間から長くて数か月までですが、きっと大多数の旅行者は、期間がそれだけあれば十分だと思うのではないでしょうか。私には、それは少し短すぎるのですが、一つの国を何か月もかけてゆっくり周遊したいとか、同じ街に何か月も「沈没」していたいというのは、役所が想定する普通の旅行者の行動ではないのかもしれません……。
ただ、そうした現実的な問題を別にしても、ビザという制度や国際的な出入国のルールというものは、考えれば考えるほど奇妙に思えてきます。
何よりも違和感を感じるのは、外国人はビザを持っているかぎり訪問先の国に居させてもらえるものの、やがてビザの期限が切れ、それが一日でもオーバーしたとたん、ただその国に滞在しているだけで違法になってしまうということです。
それがルールなのだと言えばそれまでなのですが、誰かに迷惑をかけているならともかく、ただそこに存在しているだけで法に触れてしまうというのは、何かとても理不尽な感じがします。
もちろん、違法状態にならないために、いったんその国を出て、ビザを取得してからまた入国しなおすなど、ある国に観光客の立場で長期滞在するためのいろいろなテクニック(?)がないわけではありません。また、一定以上の財産があれば、わりとあっさり永住権や長期滞在可能なビザをくれる国もあるようです。
しかし、ある人間がただそこに居続けるために、面倒な手続きやテクニックを必要としたり、一定の条件を満たさなければならないというのは、何とも気が滅入ることではあります。この地球上で、金持ちでもなく、何の取り柄もない日本人が、いつまでも気兼ねなく、違法にもならずに住んでいられるのは(例外はあるかもしれませんが実質的に)日本だけなのです。
もっとも、生きているだけで違法になることはないとはいえ、日本人が日本に住んでいれば、国民としてのそれなりの義務を果たす必要があるし、また、日本社会の数々の制度・慣習・空気にも縛られることになるわけですが……。
それともう一つ、ビザに関してひっかかるのは、私たち日本人がアジアの国々のビザを取得するのは比較的簡単ですが、その逆はそうではないということです。
ビザに関する各国のルールはさまざまですが、全体的な傾向として感じられるのは、金持ちは世界中で歓迎され、優遇されるけれど、その他の一般人は観光客やビジネスマンとして短期間にカネをばらまく限りにおいて歓迎され、貧しい人はそもそも入国することすら許されないという、非常に露骨なホンネです。
表面的には人類の平等を高らかに謳うような国であっても、誰にどのようなビザを出すかという現実を見れば、そこにはしっかりと差別的なルールが明文化されているのです。そして、そういう国際的なルールの体系の下では、いわゆる先進国に生まれた人間だけが、実質的に国際的な移動の自由を享受できています。
そうしたことは、自分が生まれた国でずっと暮らしている限り、気にもならないことなのかもしれませんが、仕事や観光でいったん自分の国を出てみると、他の国に自由に住んだり、旅をしたり、仕事をしたりすることを基本的に許さず、さまざまな制約を課している現在の国同士のシステムが、何だかとても面倒で不自由なことのように感じられてくるのです。
ただ、一方で、そういう面倒くさいルールの網が世界中に張りめぐらされているからこそ、今の私たちの経済・社会的な生活が成り立っているのも確かです。
私たち日本人も、そうした厳格な出入国管理システムによって、現在の世界の経済的な秩序を維持し、大いにその恩恵を受けています。そのことを思えば、他の国が同じように出入国に制限を加えることに文句はつけられません。
そもそも、私がバックパッカーとして海外を旅していること自体、結局のところ、こうした国際的なシステムの「おいしいところ」を利用する特権を、日本人の一人として享受しているのだともいえます。
つい、理屈っぽくなってしまいましたが、ビザというこの面倒で奇妙な制度にも、意外と旅人の役に立っている面がないわけではありません。
例えば、アジア、特に東南アジアの旅では、うまい食事と、現地のゆるゆるとした居心地のよさに、旅人はつい足が止まり、「沈没」してしまいがちです。私も「沈没系」バックパッカーの一人なのですが、ビザの問題さえなかったら、手持ちのカネが続くかぎり、そのまま同じ国、同じ街にずっと居続けることになってしまいそうな気がします。
そう考えると、ビザの期限という制約があるからこそ、私はそれに尻を叩かれて次の国、次の街へと移動を続け、かろうじて旅人の面目を保っていられるのかもしれません。
だとすれば、ビザという制度の功罪はともかく、それが今後も存続してくれないと、少なくとも私の場合は、とても困ったことになってしまいそうな気がします……。
JUGEMテーマ:旅行
読書と「忍耐」
どうしてそう思うようになったのか、個人的にはいろいろな理由を思いつきます。
歳をとって、集中力が続かなくなってきたせいかもしれないし、あるいは、ここ数年、ネット上のニュース記事やコラム、ブログなど、いろいろな人の書いたごく短い文章を、次々に読むパターンに慣れてしまったためかもしれません。
テーマも内容もバラバラな短い文章ばかりを次々に読んでいると、頭の中がそれに最適化してしまい、一人の人間の書いた長い文章への拒絶反応みたいなものが起きるのでしょうか? ネットでの情報収集のスタイルが身についてしまった今では、何百ページもある一冊の本を読み通すという作業が、ふと、何だかとても奇妙な行為のように思えることさえあります。
また、ネット上では、ニュースでも掲示板でもブログでも、誰かが書いた文章に対して、さまざまな人がコメントやツッコミを入れていて、それを合わせて読 むことも普通の習慣になりつつあります。本を読んでいると、ネット上のそうした習慣とついつい比較してしまい、これまでは何の疑問もなく受け入れていた本というメディアのもつ一方通行性みたいなものに、少しずつ違和感を感じるようになり始めたのかもしれません。
もしも、誰か一人が一つのテーマで何時間も込み入った話をするのを、その人に反論したりツッコミを入れたりすることもなく、ただひたすら聞き続けなければならないとしたら、聞き手は恐ろしいほどの精神的忍耐を必要とすることでしょう。
読書も、基本的にはそれに近い作業なのではないでしょうか? そうだとすると、読書家というのは、相当に我慢強い人種だということになります。
もちろん、読書の場合、何を読むかは全くの自由なので、読み手は当然、何時間でも興味が続くようなテーマで、しかも語り口の面白い本を選ぶでしょう。
それに、人の話を聞くのとは違って、本は読む場所もタイミングも自由です。読書に飽きたらいつでも本を閉じられるし、気に入らない本なら途中で放り出してもかまいません。書いてある内容に同意できなければ、読み手がいつでも心の中で(あるいは声に出して)反論やツッコミを入れながら読むことだってできます。
それでも、何時間、あるいは何日にもわたって、一人の書き手の紡ぎ出す世界にどっぷりと浸り、著者からのメッセージをしっかりと受け止めるという行為には、やはり、かなりの精神的エネルギーを必要とするのではないでしょうか。
ところで、本の歴史的な成り立ちを考えてみると、書き手と読み手の関係というのはもともと対等ではなく、書き手の方がずっと上の立場でした。
宗教的な本はいうまでもなく、世俗的な本に関しても、ほとんどの場合、書き手は多くの読み手に優れた知恵や学識を伝え、新奇な情報、最上の娯楽などを与えてくれる貴重な存在で、読者は本の隅々まで活字を追いつつ、その知恵の泉から最大限のものを吸収しようとしていたのではないでしょうか。
しかし今や、そうした、本やその著者に対する畏れ多さというか、ありがたみのようなものは失われつつあるようです。
情報や娯楽を手に入れる手段は本などの活字メディアに限らなくなったし、情報自体も私たちの周囲にうんざりするほどあふれており、書き手と読み手の関係も、どんどん対等に近くなっているように感じられます。
だとすれば、昔のように多大な精神的エネルギーを費やしてまで、一冊の本に集中する意義というのも、最近は薄れつつあるのかもしれません。
ただ、そう思いつつも、一方では、どこか心にひっかかるものがあることも確かです。
ネット上の情報のやりとりと比べたとき、読書というものがいかにも忍耐のいる、時代遅れで、しかも一方通行的な作業に過ぎないように見えたとしても、そして、そういう行為というのが、スピードや効率、リアルタイムで対等なコミュニケーションが重視される昨今の風潮には合わないことが分かっていても、だからこそ、本を読むという行為には、何か重要なものが含まれているような気がするのです。
何時間もかけて一冊の本を読むことは、先ほど書いたように、他者の話をひたすら傾聴し続けることにも似ています。それを最後までやりとげるには、忍耐強さというか、一人の人間が言葉を素材に創り上げた世界を、いったんまるごと受け容れるだけの心のエネルギーが必要です。
それが、読書が敬遠されてしまう理由の一つなのかもしれませんが、そういう、一見面倒で骨の折れる行為を続けることで身につくスキルというのは、人の話にじっと耳を傾ける人が少なくなった(ように思われる)現代においては、実は、非常に貴重なものなのではないでしょうか。
目の前にいる生身の人間が真剣な話をするときには、それを聞く人間にもそれなりの覚悟と傾聴の姿勢が必要なように、もしかすると本当は、ネット上の文章だろうと一冊の本だろうと、あるいは、短い文章だろうと長い文章だろうと、同じ心構えでそれを読むべきなのかもしれません。そして、そのためにはやはり、長年にわたる読書という「忍耐」によって培われたものが大いに役立つのでしょう。
また、この忙しい時代にあえて貴重な時間を費やし、読書を通じて一つのテーマを深く掘り下げたり、作家が本の中に描き出した一つの世界にどっぷりと身を浸したりすることによってしか得られないものもあるように思います。
もっとも、こんな余計な理屈を並べるまでもなく、何かを知りたい・学びたいという気持ちさえあれば、人は自ずと謙虚になるものだし、本を読むようなしんどい作業でも、それを忍耐だとも、苦痛だとも思わないのかもしれません。
ということは、最近私が読書にしんどさを感じるようになったのは、インターネットや社会の変化とはあまり関係がなく、私自身の中で、ただ単に、他の人から何かを学ぼうという謙虚な姿勢が失われてしまったというだけなのかもしれません……。
JUGEMテーマ:読書
『続・世界の日本人ジョーク集』
評価 ★★☆☆☆ よかったら暇な時に読んでみてください
この本は、しばらく前にベストセラーになった、『世界の日本人ジョーク集』の続編です。
前作同様、この本には、世界各地で語られている日本人ジョークの数々が収録されており、ここ一、二年の間に創られたような最新作も含まれています。
ただ、やはり新しいジョークについては、完成度があまり高くないような気がします。それに時事的なテーマが絡んだジョークでは、解説を読まないと面白みが分からないものもあります。
民話や都市伝説のように、ジョークも多くの人々の間で流通し、作り変えられ、時間の試練にさらされるうちに、聞き手の心に残る面白いものだけが選ばれ、後世に受け継がれていくのでしょう。
この本の全体的な印象としては、「続編」の宿命というべきか、前作よりもパワー不足の感は否めません。また、私には、早坂氏によるジョークの解説もちょっと説教臭く感じられます。
もっとも、肝心のジョークを単純に楽しまずに、ついこんな風にシビアな目で見てしまうのは、この本で指摘されているように、私も「笑いに厳しい」日本人の一人だからなのでしょうか……。
それはともかく、この本を読んでいると、昨今の世界のめまぐるしい変化とか、世界的に活躍する有名な日本人の存在が、ジョークの中にも素早く取り込まれていくのが分かります。
また、世界中の人々が実際に日本人に接する機会が増え、日本やその文化についての情報も広がりつつあるせいか、ジョークに登場する日本人も、これまでのステレオタイプなイメージばかりではなく、多様で個性的なキャラクターをいきいきと演じるようになりつつあるのも、とても面白いことだと思います。
それから個人的には、この本に収録されているジョークが、どういう状況で、どういう人物によって語られていたのかを知りたいと思いました。ジョークが採集された場所や時期、その語り手のことや話された状況なども解説の中で示してもらえたら、それぞれのジョークがどのように生み出されたのか、その背景を含めてより深く理解できるのではないかと思います。
……と、ジョークを笑って受け流すだけでは収まらず、その背景までついつい知りたくなってしまうというのは、これまた私が日本人だからでしょうか……。
本の評価基準
以下の基準を目安に、私の主観で判断しています。
★★★★★ 座右の書として、何度も読み返したい本です
★★★★☆ 一度は読んでおきたい、素晴らしい本です
★★★☆☆ 読むだけの価値はあります
★★☆☆☆ よかったら暇な時に読んでみてください
★☆☆☆☆ 人によっては得るところがあるかも?
☆☆☆☆☆ ここでは紹介しないことにします
JUGEMテーマ:読書
旅の名言 「人が旅に出るのではなく……」
計画され支度されていたものがひとたび実行に移されると、旅は新たな一面を見せるようになる。
旅も狩りも探検も、他とは違う独自のものとなるのだ。旅そのものが人格や感情を持ち、個性的で独特なものとなる。旅自体が一個人であり、似たものは二つとない。あらかじめ計画していようが安全を気にかけていようが役に立たないし、規制したり禁止したりしたって無駄である。
長年もがいた末に我々はこう悟る。人が旅に出るのではなく、旅が人を連れ出すのだ。
旅そのものが個性を発揮しはじめたら最後、かっちりと定めた目的も練り上げた計画も取っておいた予約も木っ端みじんにされる。そして本物の風来坊は、それを確かめた時だけ安らかに旅に身を任すことができる。そうなって初めて欲求不満が解消されるのだ。
その点、旅は結婚に似ている。コントロールしようというのが間違いのもとなのだ。
『チャーリーとの旅』 ジョン スタインベック ポプラ社 より
この本の紹介記事
ノーベル賞作家のスタインベック氏が、キャンピングカーで愛犬と一緒にアメリカを一周した旅の記録、『チャーリーとの旅』からの引用です。
どこか見知らぬ土地へ行こうと思い立ち、それを実行に移すとき、旅人は、その思いつきや行動のすべてについて、自分の意思でコトを運んでいるものだと思っています。
しかし、スタインベック氏の言うように、旅が実現し、一連のプロセスが形をとり始めた瞬間から、旅はそれ自体がまるで個性ある生き物であるかのように、激しい自己主張を始め、旅人を振り回すのです。
あるときは、それは旅先での相次ぐトラブルであるかもしれないし、ときには、それは予想もつかない人物との出会いであるかもしれません。
想定外の事態に巻き込まれ、旅のもつ強烈なパワーに翻弄されながらも、旅人は自分の力で何とか計画通りの旅を続けようと悪戦苦闘するのですが、「長年もがいた末に」、あるときふと、旅をコントロールしようとする努力が徒労であることに気づき、旅そのものが自ずと展開するに任せることを覚えるのです。
……などと、分かったようなことを書いてしまいましたが、私自身はスタインベック氏のように、「安らかに旅に身を任すことができる」境地にまではとても達していません。それを理屈として何とか理解できるような気がするというだけです。
それに、多くの人にとって、見知らぬ土地を旅しながら、どこへ向かっていくかも分からない流れに身を任せるというのは、とにかく無謀で恐ろしいことにしか思えないかもしれません。
ただ、自分や他の人間の意思によって隅々までコントロールされ、そうであるがゆえに退屈で息苦しくなってしまった日常からの脱出という側面が、旅というものにあるのだとすれば、自分の立てた計画や思惑どおりに旅をコントロールしようとすることは、本質的な部分で、旅を単なる日常生活の延長にしてしまうことになります。
そうであるなら、全てをコントロールしようとせず、旅が差し出してくれる未知の体験を受け入れてみる方が、旅に出たいと思った当人の、本当の欲求に即した行動なのではないでしょうか。
それに、スタインベック氏の言うように、「旅が人を連れ出す」のだとしたら、そもそも、どこかへ行きたいという旅人の衝動それ自体も、今の自分を超えて、新しい自分とその生活をかいま見るようにといざなう、自分以外の「何か」からの呼び声であるのかもしれません……。
まあ、そういう理屈はともかく、「人が旅に出るのではなく、旅が人を連れ出すのだ」という含蓄ある言葉は、旅について、そして人間について深く知る人物ならではの名言だと思います。
JUGEMテーマ:旅行
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