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『インドネシアの寅さん ― 熱帯の民俗誌』
この本は、インドネシアの「旅する売薬行商人・香具師(やし)」をテーマにした民俗誌です。
といっても、学術的な堅苦しいものではなく、旅行記・エッセイ風のくだけた文章なので、インドネシアやその民俗文化について予備知識のない人でも、それほど抵抗なく読めるのではないかと思います。
ただ、現在の日本では、「香具師」という言葉を聞いて、それがどんな仕事なのか想像できない人の方が多いかもしれません。
彼らは熱帯アジア特産の「秘薬」をたずさえて、小さな便船に揺られながら島から島へ行商の旅をやっている。それぞれが工夫した大道芸で客寄せをやりながら、大声で威勢のいい口上を述べて秘薬を売る。娯楽の少ない辺境の島々では、この香具師の大道芸は大変な人気で、当日の市場の「華」である。
香具師たちは、町や村の安宿に泊まりながら、仲間内の情報を頼りに、この人出で賑わう巡回市や参詣人がよく集まる祭礼を訪ねて旅するのだ。その行商のやり方は、ひと昔前まで日本の縁日や夜店でよく見かけた「ガマのアブラ売り」とそっくりだ。いうならば、熱帯の島々を旅する「フーテンの寅さん」である。
もっとも、この本の中でも詳しく説明があるように、「フーテンの寅さん」は正確にいえば百貨売りのテキヤで、香具師そのものではありません。
著者の沖浦氏によれば、江戸時代の日本には「諸国妙薬」や「南蛮渡来の秘薬」を売り歩く香具師がいたのですが、明治維新後の製薬・売薬の国家管理と規制によって、彼らはオリジナルの生薬を売ることができなくなりました。
多くの香具師がテキヤへと商売を変えていくなか、近世香具師の唯一の生き残りといえる存在が「ガマのアブラ売り」でしたが、それも1970年代末には姿を消してしまったそうです。
それでも、インドネシアの辺境の島々にまで足を向ければ、明治以前の日本の香具師の姿を彷彿とさせるような、大道芸で客を集めて秘薬を売る行商人の姿を、今でも見ることができるのです。
この本は、日本人にあまりなじみのないインドネシア東部の島々の紹介や、そこに生きる香具師の姿とその仕事、彼らが最も活動的なスラウェシ島での調査の旅、さらには近世日本の香具師との比較など、なかなか盛りだくさんの内容です。
ところで、インドネシアの香具師は現在数千人といわれていますが、その出身地は、政治・経済・文化の中心であるジャワ島などのいわゆる「内島」ではなく、ほとんどがスラウェシ島・スマトラ島・ボルネオ島などの「外島」です。また、「海の民」ブギス族や、ボルネオ島の先住民であるダヤク族の出身者が多いともいわれています。
その背景には、広い海域に無数の島々が散在するインドネシアの自然条件や、東西からの複雑な文化流入のルート、島ごとに異なる多様な文化、独立後のインドネシアの政治経済的な構造など、さまざまな要因があるのですが、インドネシアでも非常にマイナーな存在である辺境の香具師に焦点を当てることで、「内島」という中心を見ているだけでは分からない、インドネシアの複雑で多様な姿が立体的に浮かび上がってくるのが、とても面白いと思いました。
また、香具師については、文献による記録がほとんどないことや、近代化の波にのまれて、インドネシアでも今まさに消えつつあることを考えると、この本はその姿を記録に残しておこうとする貴重な試みだと思います。
ただ、ノンフィクション好きの私としては、読んでいて少し物足りないような気がしました。こういうテーマの場合、例えば、香具師に弟子入りしてしばらく一緒に島々を巡業するとか、一人の香具師を長期間追いかけて、その暮らしや同業者のネットワークを克明に記録するとかの方が、はるかに面白い記録になるだろうと思います。
まあ、そう口にするのは簡単でも、実際問題として、文化人類学者のフィールドワークならともかく、売れるかどうかも分からない一冊の本の企画のために、そこまでの旅と取材をする人はいないのかもしれませんが……。
本の評価基準
以下の基準を目安に、私の主観で判断しています。
★★★★★ 座右の書として、何度も読み返したい本です
★★★★☆ 一度は読んでおきたい、素晴らしい本です
★★★☆☆ 読むだけの価値はあります
★★☆☆☆ よかったら暇な時に読んでみてください
★☆☆☆☆ 人によっては得るところがあるかも?
☆☆☆☆☆ ここでは紹介しないことにします
JUGEMテーマ:読書
旅の名言 「現地のことばで……」
私がタイで定点観測をやり始めた理由のひとつは、旅に飽きてしまったからである。日々転々と移動している旅の生活に飽きた。毎日さまざまなものを見ているものの、なにもわからない。博物館に行っても、その国の歴史や文化がわかっていないから、おもしろさがあまり伝わってこない。市場に行っても、知らないものばかりだ。農村に行っても、木の名前も作物もわからない。英語を話せる人と出会って世間話をしても、その国の現代史や宗教や民族問題がわかっていないと、いつも薄っぺらな話しかできない。現地のことばで、あいさつと数字の言い方を覚えたところで次の土地に行き、またあいさつと数字を覚えるところから始まり、いつまでたってもそれ以上のことばを覚えない。こんな中途半端な旅に飽きてしまった。ジェスチャーまじりの英語でばかり話しているのがいやになった。
旅が好きなのに、旅に飽きてしまった。いつもどこかに行きたいと思っているが、「よし、行くぞ!」という衝動が湧いてこない。私を日本から引き離す強力な磁力がなくなった。そう感じたのは、旅を始めて一〇年ほどたったころだった。
『アジア・旅の五十音』 前川健一 講談社文庫 より
この本の紹介記事
アジアの旅にまつわるさまざまな文章を、「あ」から「ん」まで50音順に配列したユニークな作品、『アジア・旅の五十音』の「飽きる」の項からの引用です。
そこには、著者の前川健一氏が、旅に飽き、やがてタイのバンコクで「定点観測」を始めるに至った経緯が綴られているのですが、彼が旅に飽きた理由として、「日々転々と移動している旅の生活」の短所をいくつかあげているのには、私も実感をもって同意することができます。
たしかに、誰でも旅の当初は、外国に行って見るもの・聞くもの・味わうものすべてが新鮮に感じられ、また、思いのままに行動し、好奇心を満たせる旅の生活にも充実感を覚えるでしょう。
しかしそんな日々が何か月も続けば、あるいはそんな旅が何回も、何十回も繰り返されれば、さすがに飽きてきます。
それに、旅の生活に慣れ、そのメリットとデメリットを冷静に観察できるようになると、旅人という立場に居続けることの限界というものもはっきりと見えてきます。
旅人は、一つの土地に滞在できる時間が限られていますが、だからこそ現地の風土や人々の際立った特徴を、一瞬の印象という形で大づかみに把握することができるし、それは余計な知識や固定観念に縛られていない分、けっこう正確だったりします。
しかしその反面、その土地固有の複雑な歴史や生活のディテールに関する知識や生活経験がほとんどなく、現地の言葉も話せないために、人々の日常的で細かな関心事や利害関係、彼らの心の微妙なニュアンスまでは理解できません。
結局のところ、通りすがりの旅人では、どれだけ頑張ってもカタコトの幼児みたいな立場でしか現地の人々と関われないことが多いし、人々もまた、旅人に対し、そのような存在として接している部分もあるのです。
しかも、一つの国を出れば、次の国で、また同じ状況が最初から繰り返されるのです。まるで全てがリセットされるかのように……。
「現地のことばで、あいさつと数字の言い方を覚えたところで次の土地に行き、またあいさつと数字を覚えるところから始まり、いつまでたってもそれ以上のことばを覚えない」という前川氏の言葉は、そのあたりの、ときに旅人が感じる徒労感みたいなものを、うまく表現しています。
ただ、旅人が「定点観測」、あるいは現地への一時的な定住に踏み切ったとしても、そこには当然メリットとデメリットがあります。
ひとつの場所に数か月以上滞在し、現地の言葉も覚えるということになれば、それは、旅が日常生活に限りなく近づいていくことをも意味します。言葉を覚え、人間関係が濃密になり、その社会のこまごまとした事情に通じることは、その国の懐深く入り込むことを可能にしてくれますが、それは同時に、旅本来の自由さや新鮮な好奇心を少しずつ失い、日常生活のしがらみや倦怠に近づいていくことでもあります。
結局のところ、地球上のどんな場所でのどんな生活も、それなりに魅力的ではありますが、永遠に続けるに値するほど魅力的な日常生活というものは、どこにもないのかもしれません。
それにそもそも、飽きっぽさというのは、旅人の宿命みたいなものです。
旅から旅へという、変化に満ちた生活に最大の魅力を感じてしまった人間は、一般の人以上に、その生活に変化や新鮮さというものがなければ耐えられないのではないでしょうか。
旅人は、移動と定住という生活の両極の間を常に揺れ動きながら、自らの好奇心や自由の感覚を維持できるベストの場所とか条件というものを、必死で模索し続けるように運命づけられている存在なのかもしれません……。
JUGEMテーマ:旅行
ブログが墓標に?
【自分のブログ 死んだらどうなる? 訪問絶えぬ“墓碑”も】
自分がこの世を去ったら、日々更新しているブログやSNS(ソーシャル・ネットワーキング・サービス)の日記はどうなるのか−。サービス業者によると、たいていは誰かが削除の依頼をしなければ、残り続けることになるという。書き込みが死後も消えないのは複雑な気持ちだが、残ることで訪問者が絶えない“墓碑”のような存在のブログもある。「お盆だから、亡くなったあの人の書き込みを見てみよう」。そんな時代が来るかもしれない。(森浩)
(中略)
インターネットに詳しい関西学院大学の鈴木謙介助教(社会学)は「(サービス会社が)永続するとは限らず、記述が永久に残るということはない。ただ、管理してくれる誰かがいれば、ブログは死者をしのぶ新しい手段になるかもしれない」と話している。
(産経新聞 2009年8月13日)
言われてみればたしかに、本人が不慮の事故や突然の病気で亡くなったりして、自分でデータを削除できない場合、(あらかじめ誰かとそういう時のことを相談しておかないかぎり)ブログやSNSのデータがネット上に半永久的に残るケースもありそうです。
もし、実名でブログやSNSに書いているなら、更新が突然中断され、そのまま放置されたりすれば、読者は書き手の身に何かあったのではないかと思うだろうし、そこに生活感あふれる日々の暮らしが綴られていればなおさら、その中断は書き手の「こちらの世界」への不在を際立たせることになるでしょう。
私は上の記事を読むまで、そういうことをほとんど考えたことがありませんでしたが、自分が死んでブログだけが残り、時にはコメントまで書き込まれていく様子を改めて想像してみると、なんだか奇妙な感じがします。
個人的な好みをいえば、「こちらの世界」から旅立つときには、できるだけきれいに身辺整理しておきたいと思っているので、もし万が一のことがあってブログが管理不能になり、まるで幽霊船のようにネット上を漂流することになったらちょっと嫌だな、という気がします。
もっとも、死んでしまえば、それを嫌だと思う自分もいないわけだし、死後に起きる出来事や、「こちらの世界」に残していくモノについてあれこれとコントロールできないのは、(遺産や墓の問題など)昔から同じことです。まあ、そういうことに関しては、どうにもならないものだとあきらめるしかないのでしょう。
それにそもそも、このブログはペンネームで書いているので、仮に私が死んでも、ブログが「墓碑」になるようなことはありません……。
それはともかく、故人がネット上に残したものについて、その本人にはどうしようもないのですが、「こちらの世界」で生き続ける周囲の人々にとっては、それが遺品や墓のように、故人の追悼のための一種の手がかりになることはあるのでしょう。
ブログが実名や(名の知られた)芸名で書かれている場合は、本人を偲ぶ墓碑代わりになるのかもしれないし、場合によっては将来それが一種の慣習となって、多くの人の間で定着していくことになるかもしれません。
今はたぶん、自分の死んだ後のことまで考えてブログを書いている人なんてほとんどいないでしょうが、そのうちに、「故人データ」の問題について人々の関心が高まれば、ネット上のデータを本人の望む形で処分できるよう、後々のことについてあらかじめ手配しておくのが習慣になるかもしれません。
あるいはさらに進んで、死後、自分の情報がネット上に未整理のまま残ってしまうよりは、もっと積極的に、後世に残したい自分のイメージをプロデュースしてしまおうという動きも出てくるかもしれません。
死後、他人が自分に下す評価について、自分では口をはさむことができませんが、それに対抗して、生きているうちに、自分が言い残しておきたいことや、せめてもの言い分を、墓碑銘よりもずっと多様で豊かなデータとして残すわけです。
たとえば、自分の人生のハイライトの映像とか自伝を自分で編集し、後世に残すべきベストの情報だけをネット上に永久保存するためのサービスが生まれるかもしれません(もしかすると、もう存在しているのかも)。
まあ、個人的にはそんなことをしたいとは思いませんが……。
ただ、それが墓地に代わって故人を偲ぶ新たな「場所」になり、やがて墓参りをネット上で行うような時代がくれば、死者のためにこの地球上の小さな土地の権利を買って、名前を刻んだ重い石の墓標を残すという現在の慣習は徐々にすたれていくでしょう。
たぶん、ネット上に大きな墓を建てたり、3Dの「銅像」を残したりするような人も出てくるでしょうが、少なくともそれは、リアル世界とは違って、見たくなければ見ないで済むものなので、関係のない人までうっとうしい思いをすることはなくなるでしょう。
……少々、話が飛びすぎたようです。
ブログが墓標がわりになるかもしれないという話でした。
日本の場合は、私のこのブログを含めて、ペンネームや匿名で書いているブログの方が多いと思います。その場合は、リアル世界の書き手に万が一のことがあっても、ほとんどの読者には分からないままです。
書き手がデータを削除しないままに亡くなれば、ブログが突然更新されなくなり、そのままネット空間に放置される形になるのでしょう。まるで無縁仏のように……。
でも結局のところ、ブログが実名であろうと匿名であろうと、それが全く更新されなくなれば、ブログへの訪問者は時間とともに少しずつ減っていくだろうし、さらに長い目で見れば、たとえブログのデータがネット上に残っていても、その存在はいつか完全に忘れ去られる運命にあります。
それは、リアル世界の石の墓で起きている現象と変わりはありません。
まあ、それがこの世の常であり、どうしようもないのですが、改めてその状況を想像してみると、少し淋しくなることではあります……。
JUGEMテーマ:インターネット
インドの日本人僧
インドに40年以上も滞在し、インドにおける仏教の復興と不可触民の解放に人生を捧げてきた日本人僧、佐々井秀嶺師の姿を追ったドキュメンタリーの第二弾です。
ウィキペディア 「佐々井秀嶺」
数年前に、佐々井師のインドでの活動を紹介する『男一代菩薩道』の第一弾をたまたま見る機会があったのですが、今回も夜更かしをしてボンヤリとチャンネルを回しているときに、偶然この番組にたどりつきました。
番組では、44年ぶりの帰国を果たし、自身の故郷をはじめ、日本各地を精力的に訪ねる佐々井師の旅に2か月間密着し、今の日本に彼が何を感じ、日本人に対してどんなメッセージを発しているかを伝えようとしています。
といっても、テレビ番組の性質上、私たちは、彼の長い旅の中の断片的なシーンや、講演でのメッセージのごく一部を見ることができるだけです。それでも、そのわずかな映像を見るだけで、佐々井師がエネルギッシュでかなりアクの強い人物であることが分かります。
実をいうと、私は個人的にはこういうタイプのお坊さんは苦手というか、あまり好きではありません。私に限らず、彼の言動を見て、なにやら怪しげな坊さんだと感じる人も多いのではないでしょうか。大変失礼ながら、佐々井師には「怪僧」という形容が似合うように思います。
それでも、これまでのインド仏教復興への多大な貢献や、現実に数え切れないほどのインドの貧しい人々を精神的に救済してきたという佐々井師の偉大な実績は、誰もが認めざるを得ません。
むしろ、最近まで彼の活動が日本でほとんど伝えられてこなかったのが不思議に思えるほどです。
たしかに、日本製品の購買層でもないインドの貧しい民衆のことは、多くの日本人にとって直接の関心事にはならないのかもしれないし、ましてや宗教がらみの話題となると、今の新聞やテレビではどうしても敬遠されがちなのかもしれませんが……。
ただ、番組を見ていて、佐々井師の語る言葉以上に、彼の型破りで迫力のある存在と、歩んできた人生そのものが、仏教界の関係者だけでなく、表面的には宗教と無縁の生活を送っている多くの日本人にも、何か、内省を迫るものがあるように思えました。
戦後の高度成長のさなかに日本を飛び出し、インドの貧しい人々を救うという途方もないビジョンを本気で抱いて、体当たりの人生を歩んできた彼の生き方は、同じ日本に生まれた同世代のほとんどが選ばなかった、きわめてユニークなものです。
しかし、現実に彼のたどってきた道のりは、人間、その気になればこんな生き方もできるのだ、こんなに波瀾万丈でスケールの大きな人生もあるのだということの実証であって、それは同時に、日本で豊かさを追求し続けてきた私たちの選択はどうだったのか、今までの人生は本当にこれでよかったのか、あるいは若い人なら、このままの生活でいいのかという、ちょっとシリアスでほろ苦い問いを私たちに突きつけてくるのではないでしょうか。
私が佐々井師を苦手に思うのは、もしかするとそのせいなのかもしれません……。
もちろん私には、日本人の途方もない努力が築きあげた現在の豊かさを否定することはできないし、また、彼のように華々しい成果が知られていなくても、同じような志を抱いた多くの人がこれまで世界各地で活動してきたことも忘れてはならないと思います。
この番組を見て、佐々井師の生い立ちやインドでの活動について、もう少し詳しく調べてみたくなりました。
JUGEMテーマ:今日見たテレビの話
旅の名言 「ここではないどこかに行きたいという……」
人類史全体から見ればそう遠い昔のことではないが、農耕が始まってようやく土地に意味や価値が生まれ、それがずっと続くことになった。しかし土地は有形資産であり、持てる人間は限られている。それで土地を独占したがる者が現れ、それを誰かが耕さねばならないということで奴隷を使うことになる。土地を所有すること、動かせないが実体はあるものを所有するというところから、根が生まれるのだ。
こうした歴史観からすれば、我々は移動する種族であり、根を張った歴史は短い。張った根にしてもそれほど広くは行き渡っていないのだ。おそらく精神的なよりどころとして根というものを過大評価してきたのだろう。ここではないどこかに行きたいという衝動の方がより大きくて古くて深いものだから、現代人の中でもそれが必要となり、意思となり、渇望となっているのではないだろうか。
『チャーリーとの旅』 ジョン スタインベック ポプラ社 より
この本の紹介記事
作家のスタインベック氏が、愛犬とともにキャンピングカーでアメリカを一周した旅の記録、『チャーリーとの旅』からの一節です。
彼は、その旅のあり余る時間と孤独の中で、アメリカという国について、そして人間社会全般について深く思いをめぐらしているのですが、旅そのものについても、上のような名言を残しています。
たしかに、農耕を始める以前の私たち人類は、常に「移動する種族」でした。土地が安定した生活や富を生み出すことを発見し、土地に根を張り、そうすることに高い価値を置くようになったのは、人間の長い歴史の中では、ついこの間のできごとに過ぎません。
土地という、動かすことのできないものに執着したことで、人間はそこに縛られ、自由に動き回ることができなくなりました。しかしその一方で、人間には、かつての「移動する種族」としての血が今なお流れ続けています。
何世代、何十世代にもわたって土地に縛られてきた人々は、意識の表面ではその状態を受け入れているように見えるかもしれませんが、心の奥底では、そうとは限らないのかもしれません。実際のところ、人間の「より大きくて古くて深い」衝動は、「ここではないどこかに行きたい」という思いとなって、常に表に現れるきっかけをうかがっているのではないでしょうか。
考えてみれば、かつての伝統的な社会においても、守るべき土地をもたない一部の人々が流浪したように、土地にせよ、大切な人にせよ、仕事にせよ、それが何であれ、何か自分を一つの場所に強力につなぎとめておくものがなければ、人間というものは、その本来の習性として、「ここではないどこか」を求めて常に動きまわるようにできているのかもしれません。
日本には、「一所懸命」という言葉があるように、一つの場所に根を張ったり、土地に深い愛着を抱くことをよしとする風潮がありますが、そうした言葉や価値観も、もともとは歴史的に生み出されたものです。
これから先、何らかの価値を生み出す源泉として、人々が土地というものを重視し続けるのかどうかは分かりませんが、社会的にせよ個人的にせよ、土地へのそうした執着が薄れたり、あるいは移動する行為により高い価値が見出されるようになれば、人はかつてずっと「移動する種族」であったことを思い出し、再びこの地球上を活発に動き回ることになるのかもしれません。
もっともそれは、国内・海外への頻繁な旅行、グローバルなビジネスの展開、世界を舞台にした戦争、マスメディアやインターネットを利用したバーチャルな旅として、ある意味、すでに実現してしまっているのかもしれませんが……。
JUGEMテーマ:旅行
『荒野へ』
1992年の秋、アラスカの荒野に打ち捨てられたバスの中で、一人の若者が餓死しているのが発見されました。
若者の名前はクリストファー・ジョンソン・マッカンドレス(敬称略、以下クリスと呼びます)、裕福な家庭に育ち、2年前に優秀な成績で大学を卒業していましたが、卒業の直後、家族や友人の前から突然姿を消していました。
彼は名前を変え、2年もの間、ヒッチハイクでアメリカ各地を放浪していたのですが、その年の春、アラスカのマッキンレー山の北の荒野へと一人で分け入っていったのです。「数か月間、土地があたえてくれるものを食べて生活する」つもりだと言い残して……。
この本の著者、ジョン・クラカワー氏は、クリスの親族や学校時代の友人、そして放浪中のクリスと親交のあった人々への詳細なインタビューを行い、彼の残した手紙や日記の記述なども交えて、彼の生い立ちからアラスカで亡くなるまでの複雑な経緯を描き出しています。また、彼がなぜ全てを捨てて放浪の旅に出たのか、なぜ荒野へ向かい、そこに何を求めていたのか、そして、彼がなぜ命を落とすことになったのかを明らかにしようとしています。
ちなみにこの本は、数年前に公開された『イントゥ・ザ・ワイルド』という映画の原作にもなっています。もしかすると、そちらをご覧になった方も多いかもしれません(私はまだ見てませんが……)。
Yahoo!映画 『イントゥ・ザ・ワイルド』
クリスの死は、当時アメリカ国内でセンセーショナルに報じられ、貧弱な装備と食料だけでアラスカの原野に入った彼の行動に対しても、賛否両論が巻き起こりました。ある者は彼を、常識がなく傲慢で愚かな若者とみなし、ある者は彼の「異常」な行動の原因について精神分析までしてみせました。またその逆に、勇気と高い理想をもった若者として、彼を擁護する者もありました。
クラカワー氏も指摘しているように、クリスは荒野でサバイバルするためのきちんとした訓練を受けていたわけではないし、その行動も、冷静に検証してみる限り、たしかに軽率なところがあったことは否めません。しかし、食料として持ち込んだわずかな米以外は、野生の動植物だけを狩猟・採集しながら4か月近くもの日々を持ちこたえた点からすれば、彼は決して無能な人間ではありませんでした。
また、クラカワー氏自身、登山家であり、若い頃にはやはりアラスカで死と隣り合わせの体験をしています。彼は、クリスの若さゆえの過ちを客観的な立場から指摘しつつも、彼の中に、自分によく似たものがあると感じていたし、だからこそ、この事件をそのまま簡単に忘れ去ることができませんでした。この本には、クリスの短い生涯とその冒険に対する、クラカワー氏の深い思い入れが感じられます。
もちろん、そう感じるのは、彼ばかりではないはずです。
私も、クリスほど徹底した、エキセントリックで危険な旅ではなかったとはいえ、長い旅を経験したことがあります。だから、彼の生き方には深い共感を覚えるし、少なくとも彼の気持ちの一端は理解できるような気がします。
彼は学業優秀だっただけでなく、スポーツや音楽の才能にも恵まれていたようですが、放浪生活の中でなしえたこと、表現しえたことを見るかぎりでは、彼は歴史に残るような偉大な冒険家だったとは言えないでしょう。むしろ表面的には、彼はどこにでもいるような若い風来坊の一人に過ぎなかったのかもしれません。
しかし、そのことがかえって、彼の存在を身近に感じさせるのでしょうか。この本を読んでいて、クリスの人生が一歩一歩死へと向かっていくそのプロセスに、何ともいえない切なさを感じました。
そこには、私自身も、どこかでボタンを掛け違えれば、彼と同じように旅の途上で死んでいたかもしれないという思いもあります。
それにしても、彼の死がこれだけ大きな反響を引き起こしたのはなぜなのでしょう?
クリスの、ある意味では純粋すぎる生き方、「その勇気と向こう見ずな天真爛漫さとやむにやまれぬ欲求」に駆り立てられて、「既知の世界の果てを越えて」いこうとする生き方は、荒野をめざす若者の典型的なパターンをくっきりと映し出しているし、その短い人生が放つパワーが、心の奥深くに誰もが持っている同じような衝動をくすぐるのではないでしょうか。
そしてそれは、富や社会的な成功によっては決して満たされることのない、人の魂のもっと深いところに潜む衝動です。そこには、世間的な豊かさや、安心・安全を求める小市民的な感覚を吹きとばしてしまうような、どこか危険な香りが漂っています。
クラカワー氏が書いているように、「彼がもとめていたのは、まさしく危険であり、逆境であり、それにトルストイ的な克己」でした。そして、アラスカの荒野には、その「もとめていたものはあり余るほどあった」のです。
「訳者あとがき」にもあるように、クリスの死は「彼とは直接関わりのない人々の価値観をもはげしく揺さぶり、おそらく不安と共感を呼び覚ました」のです。だからこそ、無名の若い放浪者の死が、激しい賛否の声を巻き起こし、多くのアメリカ人に深いインパクトを与えたのでしょう。
もっとも、クリス本人が旅の中でいったいどんなことを考えていたのか、将来はどんな人生を歩んでいくつもりだったのか、今となっては、もう本当のところは分かりません。
しかし、少なくとも彼は、自分でもうまく表現できないような、やむにやまれぬ衝動に駆られ、理屈や損得を超えて、未知を探求し、結果として人間という存在のフロンティアを押し広げてきた多くの人々の系譜に連なる存在なのだと思います。
この本には、クリス以外にも、アラスカで命を落としたり、あるいは荒野に姿を消した何人もの人物のエピソードが登場します。そういう点でも、この本は、「既知の世界の果てを越え」ようとする危険な旅の途上で、これまでに命を落とした数え切れない人々への鎮魂の書であるとも言えるかもしれません。
もちろん、彼らの行為のすべてが、手放しに称賛できるものではないかもしれませんが……。
本の評価基準
以下の基準を目安に、私の主観で判断しています。
★★★★★ 座右の書として、何度も読み返したい本です
★★★★☆ 一度は読んでおきたい、素晴らしい本です
★★★☆☆ 読むだけの価値はあります
★★☆☆☆ よかったら暇な時に読んでみてください
★☆☆☆☆ 人によっては得るところがあるかも?
☆☆☆☆☆ ここでは紹介しないことにします
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