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2009.09.27 Sunday
旅が行き詰まるとき
日本を出て、海外の国々を数か月、あるいは数年にわたって旅し続けるという話を聞かされると、人によっては、ちょっと途方もない大仕事のような印象を受けるかもしれませんが、実は、これは見かけほど困難なことではありません。
もちろん、旅をしながら生活するという体験は、定住生活とは全く違うので、さすがに旅を始めたばかりの頃は多少の混乱を覚えるかもしれませんが、旅人の心身は、ある程度の時間が経てば、放っておいても新しい生活のリズムに適応してしまうものです。
しかもその間、旅人は新奇な体験の連続に魅惑され、旅の自由や面白さを満喫しているはずで、そのとき自分の心身にどんな変化が起きているかなど、ほとんど意識にはのぼらないでしょう。
旅の喜びに時間の経つのを忘れ、やがて気がついたころには、旅人としてそれなりの経験を積み、注意深さや旅のテクニックも板についてきて、余計なトラブルに巻き込まれることも少なくなっているはずです。そうなってしまえば、あとはカネと時間の許す限り、一年でも二年でも、好きなだけ放浪の旅を続けられます。
実際のところ、長旅には特別な能力やテクニックなど必要なく、世間的な常識の延長でやりくりすれば何とかなってしまうことは、一度体験してみれば実感として分かるのではないかと思います。
ただし、長い旅を続けていくうえで、旅人が全く困難を感じないというわけではありません。
旅にはトラブルがつきもので、事故や病気、犯罪に巻き込まれるなどのリスクは常に存在します。長い旅の経験を通じて旅人が賢くふるまえるようになったとしても、そうしたリスクをゼロにすることはできません。
それに、一回の旅が長くなると、人によっては長旅特有の問題が生じることがあります。
たぶんほとんどの旅人が直面することになるのは、自分にとっての旅の意味が次第に見えなくなってくるというか、旅人として移動生活を続けることへのモチベーションが、徐々に低下していくことでしょう。
旅に出た当初の新鮮な感受性や未知への好奇心は、時間とともに次第にすり切れ、しまいには、どこに行っても何を見ても、何をしても、はっきりとした感動を覚えなくなってきます。妙に目が肥えてしまうというか、せっかく新奇な何かを目にしても、過去にどこかで見たもっと素晴らしいものの記憶が目の前にちらついて、「あれにくらべれば、これはたいしたことないな……」などと感じてしまうことさえあります。
また、最近の旅行に関する環境の変化も、それに拍車をかけています。
ガイドブックやネット上にあふれる旅行情報、旅行代理店の安価で便利なサービス、安全で確実な公共交通機関、ネットカフェやゲストハウスの普及などにより、バックパッカーのような低予算の旅行者でも、便利で快適で計画どおりの旅を楽しめる環境が整っています。
もちろん、旅人はその恩恵を大いに享受しているわけですが、一方で、そうやって旅人にとっての利便性が高まっていくことには、はからずも、旅を予定調和的で退屈なものにしてしまうという一面があるし、世界のどこに行っても同じ体験を繰り返しているような感覚を抱かせ、それが旅に対する倦怠を早めているかもしれません。
さらに、特に一人旅の場合などは、身近にヒマつぶしの娯楽も話し相手もないため、時間を持て余して、つい自分の旅についていろいろと深刻に考え込んでしまうこともあるでしょう。
日本を出発する前には、こんなところへ行ってみたいとか、こんなことをやってみたいとか、あれこれの夢想や旅の計画で頭をいっぱいにしているものですが、現実に長い旅を続けていると、よっぽど大それた目標でもないかぎり、そういった願望のほとんどは実現してしまうか、旅の現実の中で、しだいに色褪せて魅力を失ってしまうものです。
旅に関する新たな思いつきやアイデアが尽きてしまったとき、つまり、頭の中に願望も計画も目標もなくなってしまったとき、さてこれからどうするか、先がまったく見えなくなってしまうということがあるかもしれません。
こうしたさまざまな理由が重なって、旅人の心の中では、どこか未知の土地へ向かおうという欲求が弱まり、マンネリや停滞感を感じるようになり、自分なりの旅の方向性を見失って、旅が漂流を始めることがあるのです。
私にも、そんな経験があります。まだ旅を続けたいと思っていて、体調や旅の資金にもとりたてて問題はないのですが、どうしてもそこへ行きたいと思うような場所が思い浮かばなくなり、移動する目標を見失ってしまうのです。しかし、そうかといって、旅をキッパリとやめて、帰国しようという気にはなれません。
そんなとき旅人は、どっちつかずの宙ぶらりん状態のまま、周りの旅行者の動きやビザの期限に促され、まるで惰性で移動を続けているような感じになるのです。しかし、目的意識がないままでは、どこで何をしていても意識は散漫になりがちだし、苦労して旅を続ける気力も少しずつ失われていきます。
たぶん多くの人は、こうなる前に、休暇が終わって日本に帰ったり、旅費が尽きたり、どうしても帰国しなければならない事情が生じたりするのでしょうが、旅費を節約して長く旅を続けようとする長期放浪型の旅人は、こういう、モチベーションの危機みたいなものに見舞われる可能性は高いと思います。
もちろん旅人としても、旅に飽き、旅に疲れることを防ぐために、半ば無意識のうちにさまざまな手段を講じているはずです。
たとえば、旅先のどこか居心地のいい土地にしばらく滞在(沈没)してみるとか、旅費の補充も兼ねて旅先で働いてみるとか、何かテーマを決めて新しい活動を始めるとか、たまにはカネに糸目をつけずゴージャスな旅を楽しんでみるとか、何か目先を変えて、旅に新たな刺激を持ち込むという方法があります。
あるいは、より困難・危険な旅に挑戦し、向上の喜びや緊張感によってモチベーションを保つというやり方もあります。もっとも、それがいつしか歯止めを失って、生死にかかわるところまでエスカレートしてしまうこともあり得ますが……。
ただ、私は思うのですが、たとえどんな方法をとるにせよ、旅人がその身にまといつく倦怠から逃れ、すべてをリフレッシュして、旅の「初心」みたいなものを完全にとりもどすなどということは、ほとんど不可能なのではないでしょうか。
旅には、私たちの人生の縮図みたいなところがあります。人が年齢を重ね、人間社会の中でさまざまな経験を積むうちに、人生に飽き、その心身に疲労や倦怠が拭いがたくしみ込んでいくように、旅もまた、始めてしまったら最後、そうなっていくのが自然の成り行きなのかもしれません。
旅人がさまざまに工夫をこらし、ある意味では自分の心を巧妙に欺くことで、旅の賞味期限を長引かせようとしても、めざましい効果はあまり期待できないだろうし、結局は、すべての小細工が効かなくなる瞬間が訪れるでしょう。しかも旅には、そうした自然のプロセスを、日常生活の何倍にも加速させてしまうようなところがあります。
旅の行き詰まりを克服し、旅の初心といえるような、フレッシュな感受性を取り戻そうと思うなら、究極的には、私たちの現実に対する認識そのもの、つまり、旅人の心の深層のレベルで、本質的な変化をもたらすしかないのかもしれません。
もっとも、そうなると、問題は旅のテクニックというレベルをはるかに越えて、ちょっと言葉では説明できないような、ほとんど宗教的な修行の世界みたいな話になってしまいますが……。
……いつの間にか、話が脱線してしまったようです。それに何だか、長旅というものは非常に辛くて大変だという印象を与えてしまったかもしれません。
それでも、たぶん多くの旅人は、自分自身が積み重ねた旅の経験やさまざまなアイデアによって何とかスランプを切り抜け、適度の感受性や好奇心を保つことができるだろうし、やがて、旅にそれなりの結末をつけることもできているはずです。
たとえば、有名な沢木耕太郎氏の『深夜特急』の後半部分には、長旅に心が摩耗し、旅費も底をつきはじめる中で、旅に自分なりの決着をつけようと苦闘する旅人の心境が巧みに描かれています。
とはいえ、私自身の経験を言えば、長旅の中で行き詰まって、もうこれ以上旅を続けられないと思った瞬間が何度かありました。そんなとき、もしかするとそれを何とかして乗り越えた先には新たな旅の境地が開けるのかと思ったりもしましたが、結局は、何か中途半端な気持ちを抱えつつ、旅を切り上げて日本に帰ってくるしかありませんでした。
旅人の意地として、旅が行き詰まったその先をこそ見てみたいという気持ちがある一方で、無理に旅を続けることで、自分が何かとんでもない破滅へと向かってしまうのではないかという恐怖も感じていたのでしょう。
もっとも、こうした状況は旅に限らず、仕事や人間関係など、日々の生活のあらゆる局面でも起きていることだと思います。
そして、自分が何かに行き詰まり、進退きわまったとき、次の一手としてどう行動すべきかという問題については、当事者の置かれた状況や、各人の性格や人生観によって対応はさまざまで、結局のところ、どんな場合でもあてはまる正解のようなものはないのでしょう。
あるいは、もしかすると私の場合、旅を続けるうちにワクワク感がなくなり、やがて行き詰まりを感じるようになってしまうということは、そもそも、そうなる前のどこかで旅の仕方を間違っているのかもしれません……。
JUGEMテーマ:旅行
もちろん、旅をしながら生活するという体験は、定住生活とは全く違うので、さすがに旅を始めたばかりの頃は多少の混乱を覚えるかもしれませんが、旅人の心身は、ある程度の時間が経てば、放っておいても新しい生活のリズムに適応してしまうものです。
しかもその間、旅人は新奇な体験の連続に魅惑され、旅の自由や面白さを満喫しているはずで、そのとき自分の心身にどんな変化が起きているかなど、ほとんど意識にはのぼらないでしょう。
旅の喜びに時間の経つのを忘れ、やがて気がついたころには、旅人としてそれなりの経験を積み、注意深さや旅のテクニックも板についてきて、余計なトラブルに巻き込まれることも少なくなっているはずです。そうなってしまえば、あとはカネと時間の許す限り、一年でも二年でも、好きなだけ放浪の旅を続けられます。
実際のところ、長旅には特別な能力やテクニックなど必要なく、世間的な常識の延長でやりくりすれば何とかなってしまうことは、一度体験してみれば実感として分かるのではないかと思います。
ただし、長い旅を続けていくうえで、旅人が全く困難を感じないというわけではありません。
旅にはトラブルがつきもので、事故や病気、犯罪に巻き込まれるなどのリスクは常に存在します。長い旅の経験を通じて旅人が賢くふるまえるようになったとしても、そうしたリスクをゼロにすることはできません。
それに、一回の旅が長くなると、人によっては長旅特有の問題が生じることがあります。
たぶんほとんどの旅人が直面することになるのは、自分にとっての旅の意味が次第に見えなくなってくるというか、旅人として移動生活を続けることへのモチベーションが、徐々に低下していくことでしょう。
旅に出た当初の新鮮な感受性や未知への好奇心は、時間とともに次第にすり切れ、しまいには、どこに行っても何を見ても、何をしても、はっきりとした感動を覚えなくなってきます。妙に目が肥えてしまうというか、せっかく新奇な何かを目にしても、過去にどこかで見たもっと素晴らしいものの記憶が目の前にちらついて、「あれにくらべれば、これはたいしたことないな……」などと感じてしまうことさえあります。
また、最近の旅行に関する環境の変化も、それに拍車をかけています。
ガイドブックやネット上にあふれる旅行情報、旅行代理店の安価で便利なサービス、安全で確実な公共交通機関、ネットカフェやゲストハウスの普及などにより、バックパッカーのような低予算の旅行者でも、便利で快適で計画どおりの旅を楽しめる環境が整っています。
もちろん、旅人はその恩恵を大いに享受しているわけですが、一方で、そうやって旅人にとっての利便性が高まっていくことには、はからずも、旅を予定調和的で退屈なものにしてしまうという一面があるし、世界のどこに行っても同じ体験を繰り返しているような感覚を抱かせ、それが旅に対する倦怠を早めているかもしれません。
さらに、特に一人旅の場合などは、身近にヒマつぶしの娯楽も話し相手もないため、時間を持て余して、つい自分の旅についていろいろと深刻に考え込んでしまうこともあるでしょう。
日本を出発する前には、こんなところへ行ってみたいとか、こんなことをやってみたいとか、あれこれの夢想や旅の計画で頭をいっぱいにしているものですが、現実に長い旅を続けていると、よっぽど大それた目標でもないかぎり、そういった願望のほとんどは実現してしまうか、旅の現実の中で、しだいに色褪せて魅力を失ってしまうものです。
旅に関する新たな思いつきやアイデアが尽きてしまったとき、つまり、頭の中に願望も計画も目標もなくなってしまったとき、さてこれからどうするか、先がまったく見えなくなってしまうということがあるかもしれません。
こうしたさまざまな理由が重なって、旅人の心の中では、どこか未知の土地へ向かおうという欲求が弱まり、マンネリや停滞感を感じるようになり、自分なりの旅の方向性を見失って、旅が漂流を始めることがあるのです。
私にも、そんな経験があります。まだ旅を続けたいと思っていて、体調や旅の資金にもとりたてて問題はないのですが、どうしてもそこへ行きたいと思うような場所が思い浮かばなくなり、移動する目標を見失ってしまうのです。しかし、そうかといって、旅をキッパリとやめて、帰国しようという気にはなれません。
そんなとき旅人は、どっちつかずの宙ぶらりん状態のまま、周りの旅行者の動きやビザの期限に促され、まるで惰性で移動を続けているような感じになるのです。しかし、目的意識がないままでは、どこで何をしていても意識は散漫になりがちだし、苦労して旅を続ける気力も少しずつ失われていきます。
たぶん多くの人は、こうなる前に、休暇が終わって日本に帰ったり、旅費が尽きたり、どうしても帰国しなければならない事情が生じたりするのでしょうが、旅費を節約して長く旅を続けようとする長期放浪型の旅人は、こういう、モチベーションの危機みたいなものに見舞われる可能性は高いと思います。
もちろん旅人としても、旅に飽き、旅に疲れることを防ぐために、半ば無意識のうちにさまざまな手段を講じているはずです。
たとえば、旅先のどこか居心地のいい土地にしばらく滞在(沈没)してみるとか、旅費の補充も兼ねて旅先で働いてみるとか、何かテーマを決めて新しい活動を始めるとか、たまにはカネに糸目をつけずゴージャスな旅を楽しんでみるとか、何か目先を変えて、旅に新たな刺激を持ち込むという方法があります。
あるいは、より困難・危険な旅に挑戦し、向上の喜びや緊張感によってモチベーションを保つというやり方もあります。もっとも、それがいつしか歯止めを失って、生死にかかわるところまでエスカレートしてしまうこともあり得ますが……。
ただ、私は思うのですが、たとえどんな方法をとるにせよ、旅人がその身にまといつく倦怠から逃れ、すべてをリフレッシュして、旅の「初心」みたいなものを完全にとりもどすなどということは、ほとんど不可能なのではないでしょうか。
旅には、私たちの人生の縮図みたいなところがあります。人が年齢を重ね、人間社会の中でさまざまな経験を積むうちに、人生に飽き、その心身に疲労や倦怠が拭いがたくしみ込んでいくように、旅もまた、始めてしまったら最後、そうなっていくのが自然の成り行きなのかもしれません。
旅人がさまざまに工夫をこらし、ある意味では自分の心を巧妙に欺くことで、旅の賞味期限を長引かせようとしても、めざましい効果はあまり期待できないだろうし、結局は、すべての小細工が効かなくなる瞬間が訪れるでしょう。しかも旅には、そうした自然のプロセスを、日常生活の何倍にも加速させてしまうようなところがあります。
旅の行き詰まりを克服し、旅の初心といえるような、フレッシュな感受性を取り戻そうと思うなら、究極的には、私たちの現実に対する認識そのもの、つまり、旅人の心の深層のレベルで、本質的な変化をもたらすしかないのかもしれません。
もっとも、そうなると、問題は旅のテクニックというレベルをはるかに越えて、ちょっと言葉では説明できないような、ほとんど宗教的な修行の世界みたいな話になってしまいますが……。
……いつの間にか、話が脱線してしまったようです。それに何だか、長旅というものは非常に辛くて大変だという印象を与えてしまったかもしれません。
それでも、たぶん多くの旅人は、自分自身が積み重ねた旅の経験やさまざまなアイデアによって何とかスランプを切り抜け、適度の感受性や好奇心を保つことができるだろうし、やがて、旅にそれなりの結末をつけることもできているはずです。
たとえば、有名な沢木耕太郎氏の『深夜特急』の後半部分には、長旅に心が摩耗し、旅費も底をつきはじめる中で、旅に自分なりの決着をつけようと苦闘する旅人の心境が巧みに描かれています。
とはいえ、私自身の経験を言えば、長旅の中で行き詰まって、もうこれ以上旅を続けられないと思った瞬間が何度かありました。そんなとき、もしかするとそれを何とかして乗り越えた先には新たな旅の境地が開けるのかと思ったりもしましたが、結局は、何か中途半端な気持ちを抱えつつ、旅を切り上げて日本に帰ってくるしかありませんでした。
旅人の意地として、旅が行き詰まったその先をこそ見てみたいという気持ちがある一方で、無理に旅を続けることで、自分が何かとんでもない破滅へと向かってしまうのではないかという恐怖も感じていたのでしょう。
もっとも、こうした状況は旅に限らず、仕事や人間関係など、日々の生活のあらゆる局面でも起きていることだと思います。
そして、自分が何かに行き詰まり、進退きわまったとき、次の一手としてどう行動すべきかという問題については、当事者の置かれた状況や、各人の性格や人生観によって対応はさまざまで、結局のところ、どんな場合でもあてはまる正解のようなものはないのでしょう。
あるいは、もしかすると私の場合、旅を続けるうちにワクワク感がなくなり、やがて行き詰まりを感じるようになってしまうということは、そもそも、そうなる前のどこかで旅の仕方を間違っているのかもしれません……。
JUGEMテーマ:旅行
2009.09.21 Monday
旅の名言 「放浪の旅に出るのは……」
けれどもほんとうは、どこかに行くのに理由など必要ないのだ。放浪の旅に出るのは、その場所がどこであるにしろ、そこに着いた時に起きることを経験するために行くのだ。わかったようなことをと思われるかもしれないけれど、ヴァガボンディングとはそういうものなのだ。
『旅に出ろ! ― ヴァガボンディング・ガイド 』 ロルフ・ポッツ ヴィレッジブックス より
この本の紹介記事
放浪の旅(ヴァガボンディング)への入門書、『旅に出ろ!』からの引用です。
人が思い立って、数か月、あるいは数年もかかるような長い旅に出ようとするとき、周りの人々はきっと、なぜ、どうして、何のために旅に出るのかと聞きたがるでしょう。
本人としては、そんな質問はいっさい無視して、ただ黙って旅に出ることもできるわけですが、それでも今までの生活の全てに踏ん切りをつけ、不安や恐怖を振り払って旅立ちのエネルギーを掻き立てるためには、自分自身を説得するための方便として、旅に出るもっともらしい理由が必要になるかもしれません。
しかし、いったん出発し、もはや後戻りのできない旅のプロセスが始まってしまえば、そのプロセスは流れに従ってどんどん動き出すので、旅人は、旅立ちのときほどのエネルギーを必要とはしなくなります。
やがて、旅という新しい生活に心と体が順応するころには、出発まで旅人を支えてきた動機づけの多くは役目を終え、その意味を失うでしょう。
一方で、絶えず移動を続ける旅の生活はそれなりにしんどいものだし、旅が長くなれば、当初のフレッシュな感動や好奇心も薄れてきます。それに、ときには深刻なトラブルに巻き込まれて途方に暮れたり、心に深い傷を負うようなこともあるでしょう。
そんなとき、旅に出る前に頭でこしらえたような目的や計画だけでは、そうした試練を乗り越え、旅を続けていくことが難しくなってしまうかもしれません。
結局のところ、最後まで旅人を動かすものがあるとしたら、それは、他の人や自分自身に対してあれこれ言いつくろう以前の、言葉では説明できないような、止むにやまれぬ思いみたいなもの、とにかくそこへ行かずにはいられないというような、自分の内側からにじみ出てくる強い欲求なのではないでしょうか。
そして、そうした欲求に素直に従い、旅のプロセスの展開に安んじて身を任せることができるようになれば、そもそも「どこかに行くのに理由など必要ない」ことが実感として分かってくるのかもしれません。
大切なのはきっと、旅の理由を言葉で説明しようとすることよりも、旅のプロセスが旅人をどこへ運んでいくにせよ、その体験に対してつねに心を開いていることなのでしょう。
「放浪の旅に出るのは、その場所がどこであるにしろ、そこに着いた時に起きることを経験するために行くのだ。」とは、そういう意味で、実に深い言葉だと思います。
もっとも、こういう名言を吐けるようになるまでには、旅人は相当の経験を重ね、旅とは何か、その本質について、言葉のレベルを超えて深く理解している必要があるのかもしれません。
ちなみに、こうして偉そうなことを書いている私はといえば、ロルフ・ポッツ氏のいうヴァガボンディングについて、頭で理解したことを言葉で書いているだけで、それを体得しているという境地にはほど遠いのですが……。
JUGEMテーマ:旅行
2009.09.16 Wednesday
『「食糧危機」をあおってはいけない』
評価 ★★★☆☆ 読むだけの価値はあります
わかりやすいタイトルが示しているとおり、これは、巷に流布するさまざまな食糧危機説の誤りを指摘し、食糧に関して私たちが過剰な不安を抱く必要のないことを納得させてくれる本です。
「世界の人口爆発で食糧が不足するのではないか?」
「近代的な農法による農地の荒廃や水資源の不足などによって、世界の食糧生産はすでに限界に達しているのではないか?」
「中国をはじめ、 BRICs諸国の経済成長で肉の消費が増え、家畜の飼料でもある穀物の需給が逼迫するのではないか?」
「バイオ燃料の生産に回されることで、人間の食べる 穀物が足りなくなるのではないか?」
「地球温暖化によって、世界の農業生産は深刻なダメージを受けるのではないか?」
……などなど、昨年の世界的な食糧高騰の際にかぎらず、食糧危機を声高に主張する人は昔から存在してきたし、日本の食糧自給率の低さもあってか、私たち日本人はこうした話題に敏感です。
しかし、世界の農業生産と消費の動向と、人口動態や世界経済との関わりをシステム工学のアプローチから研究してきた著者の川島博之氏は、この本の中で、食糧生産の現状と今後の見通しを具体的なデータをもとに描き出し、世間で言われているような食糧危機説には根拠がないことを、一般向けに分かりやすく、ハッキリと示してくれています。
今までにこうした本をきちんと読んだことがなかったので、私も食糧不足については漠然とした不安を抱いていましたが、読み終えて、とりあえず安心できました。
もちろん、人間が抱く将来への不安は食糧問題に限らないので、私たちの不安がこの本ですべて解消するわけではないし、この本の内容についてもすべてを鵜呑みにできるわけではありませんが、少なくとも、一部の無用な心配から解放されるという意味では、この本には大いに価値があると思うし、皆様にもぜひ一読をおすすめしたいと思います。
……と、安心したところで思うのですが、食糧危機を喧伝する人騒がせな「トンデモ」説の数々も、それが飢えに対する恐怖という、人間の根源的な不安を誘うショッキングな問いかけであるからこそ、本当か嘘か、事実をもっとよく調べてみたいという欲求につながるのかもしれないし、実際にこうしたきちんとした研究や反論が世に出て、正しい認識に至るキッカケになるという意味では、「トンデモ」説にも一定の存在意義はあるのかもしれません。
問題なのは、少なくとも私の記憶では、マスメディアを通じて何度も「トンデモ」説を見聞きしたことはあるのに、現状を冷静に伝えるこの本のようなデータが積極的に提示されているのを見た覚えがないことです。
きっとそこには、世界的に食糧が足りているかどうかという問題とは別の、人間社会のややこしい力学が働いているのでしょう……。
それはともかく、この本を読んでいると、本当の食糧問題とは、食糧が足りなくなることではなく、むしろ余りつつあることだということが分かります。
人類全体の食欲が有限である以上、単なる食欲を満たす以上の付加価値を生み出さない限り、産業としての農業の成長には限界があるし、世界的に生産の効率化が進んでいくと、採算のとれる農家の数も年々減っていくことになります。
そういう状況で、これまでの農業の担い手に、今後どのように生計の手段を確保していくかというのは、日本だけでなく、穀物輸出国をも含めた世界のすべての国にとって、頭の痛い問題なのだと思います。
もっとも、過剰な供給という状況は、製造業など、他のあらゆる産業についても言えることなのかもしれませんが……。
ビョルン・ロンボルグ著 『環境危機をあおってはいけない ― 地球環境のホントの実態』 の紹介記事
本の評価基準
以下の基準を目安に、私の主観で判断しています。
★★★★★ 座右の書として、何度も読み返したい本です
★★★★☆ 一度は読んでおきたい、素晴らしい本です
★★★☆☆ 読むだけの価値はあります
★★☆☆☆ よかったら暇な時に読んでみてください
★☆☆☆☆ 人によっては得るところがあるかも?
☆☆☆☆☆ ここでは紹介しないことにします
JUGEMテーマ:読書
「世界の人口爆発で食糧が不足するのではないか?」
「近代的な農法による農地の荒廃や水資源の不足などによって、世界の食糧生産はすでに限界に達しているのではないか?」
「中国をはじめ、 BRICs諸国の経済成長で肉の消費が増え、家畜の飼料でもある穀物の需給が逼迫するのではないか?」
「バイオ燃料の生産に回されることで、人間の食べる 穀物が足りなくなるのではないか?」
「地球温暖化によって、世界の農業生産は深刻なダメージを受けるのではないか?」
……などなど、昨年の世界的な食糧高騰の際にかぎらず、食糧危機を声高に主張する人は昔から存在してきたし、日本の食糧自給率の低さもあってか、私たち日本人はこうした話題に敏感です。
しかし、世界の農業生産と消費の動向と、人口動態や世界経済との関わりをシステム工学のアプローチから研究してきた著者の川島博之氏は、この本の中で、食糧生産の現状と今後の見通しを具体的なデータをもとに描き出し、世間で言われているような食糧危機説には根拠がないことを、一般向けに分かりやすく、ハッキリと示してくれています。
今までにこうした本をきちんと読んだことがなかったので、私も食糧不足については漠然とした不安を抱いていましたが、読み終えて、とりあえず安心できました。
もちろん、人間が抱く将来への不安は食糧問題に限らないので、私たちの不安がこの本ですべて解消するわけではないし、この本の内容についてもすべてを鵜呑みにできるわけではありませんが、少なくとも、一部の無用な心配から解放されるという意味では、この本には大いに価値があると思うし、皆様にもぜひ一読をおすすめしたいと思います。
……と、安心したところで思うのですが、食糧危機を喧伝する人騒がせな「トンデモ」説の数々も、それが飢えに対する恐怖という、人間の根源的な不安を誘うショッキングな問いかけであるからこそ、本当か嘘か、事実をもっとよく調べてみたいという欲求につながるのかもしれないし、実際にこうしたきちんとした研究や反論が世に出て、正しい認識に至るキッカケになるという意味では、「トンデモ」説にも一定の存在意義はあるのかもしれません。
問題なのは、少なくとも私の記憶では、マスメディアを通じて何度も「トンデモ」説を見聞きしたことはあるのに、現状を冷静に伝えるこの本のようなデータが積極的に提示されているのを見た覚えがないことです。
きっとそこには、世界的に食糧が足りているかどうかという問題とは別の、人間社会のややこしい力学が働いているのでしょう……。
それはともかく、この本を読んでいると、本当の食糧問題とは、食糧が足りなくなることではなく、むしろ余りつつあることだということが分かります。
人類全体の食欲が有限である以上、単なる食欲を満たす以上の付加価値を生み出さない限り、産業としての農業の成長には限界があるし、世界的に生産の効率化が進んでいくと、採算のとれる農家の数も年々減っていくことになります。
そういう状況で、これまでの農業の担い手に、今後どのように生計の手段を確保していくかというのは、日本だけでなく、穀物輸出国をも含めた世界のすべての国にとって、頭の痛い問題なのだと思います。
もっとも、過剰な供給という状況は、製造業など、他のあらゆる産業についても言えることなのかもしれませんが……。
ビョルン・ロンボルグ著 『環境危機をあおってはいけない ― 地球環境のホントの実態』 の紹介記事
本の評価基準
以下の基準を目安に、私の主観で判断しています。
★★★★★ 座右の書として、何度も読み返したい本です
★★★★☆ 一度は読んでおきたい、素晴らしい本です
★★★☆☆ 読むだけの価値はあります
★★☆☆☆ よかったら暇な時に読んでみてください
★☆☆☆☆ 人によっては得るところがあるかも?
☆☆☆☆☆ ここでは紹介しないことにします
JUGEMテーマ:読書
2009.09.10 Thursday
旅の名言 「その日が迫るにつれ……」
長いこと計画しているうちに、旅など実現しないような気がしてきた。その日が迫るにつれ、温かなベッドや快適な家はいよいよ好ましく、愛する妻は言いようもなく尊く思えてきた。三カ月もそれらを捨て、快適ならざる未知の脅威を選ぶなんて狂気の沙汰に思えた。
行きたくなかった。出発できなくなるような事件が起きてほしかったが、何も起きはしなかった。もちろん病気になる手もあったが、そもそも病気こそが旅に出る最大にして秘密の理由の一つだった。
『チャーリーとの旅』 ジョン スタインベック ポプラ社 より
この本の紹介記事
ノーベル賞作家のスタインベック氏が、キャンピングカーで愛犬と一緒にアメリカを一周した旅の記録、『チャーリーとの旅』からの一節です。
彼はこの本の中で、自分は幼いころから放浪病という「不治の病」を抱えていたと白状しているのですが、そんな根っからの風来坊の彼でさえ、大きな旅への出発を目前にすると、慣れ親しんだ日常としばし決別することに激しい抵抗を覚えるようです。
心は旅へと激しく駆り立てられているのに、心のどこかでは快適で平穏な日常への強い愛着も感じている……。そんな旅人の揺れ動く心境を、スタインベック氏はユーモラスに、的確に描いているように思います。
そしてたぶん、旅立ちの前には誰もが似たような葛藤に襲われるのではないでしょうか。
もちろん、その葛藤の程度は、旅人の性格や置かれた状況によって違うはずで、例えば、毎日の暮らしに快適さどころか不満ばかり感じている人なら、そこから旅立ってしまいたいと思う気持ちを引き留めるものなどないのかもしれませんが……。
そう考えると、スタインベック氏が旅立ちの前に強い葛藤を感じていたというのは、彼の家庭での日々がとても充実していたということなのでしょう。
ところで、旅には、未知の土地や人々との出会いによって「非日常」を体験するという一面がありますが、一方で、すっかり慣れ親しんで退屈さえ感じるような毎日の生活から、これまでにない新鮮な印象を受けるのもまた非日常の体験です。
旅立ちを本気で決意し、その準備を始めただけで、「温かなベッドや快適な家はいよいよ好ましく、愛する妻は言いようもなく尊く思えて」くるというのは、まだ旅に出ていないのに、日常がすでに非日常と化してしまっているわけで、とても面白いことだと思います。
旅というプロセスは、旅人が実際に家を出る前から、すでに始まっているのです……。
JUGEMテーマ:旅行
2009.09.05 Saturday
島だらけの国
先日、ネット上でこんな記事を見かけました。
政府の当局者ですらこれまで現地調査をせず、島の数を正確に知らなかったところが、いかにもアジア的でほほえましい話です。
でもまあ、人の住めない小さな島までいちいち調べたところで面倒臭いだけで、当局としても、そこまで頑張るほどの理由を思いつけなかったのでしょう。他の国と領有権を争う紛争地域でもない限り、それであまり不都合はなかったのかもしれません。
ちなみに、ネットでざっと調べた限りでは、現時点で17,500近くあるという島々のうち、実際に人が住んでいるのは約3,000とも6,000ともいわれていて、はっきりしたことは分かりません。ただ、正確な数字はともかく、一つの国に人の住む島が数千もあるというのは驚きです。
これだけたくさん島があると、とにかく一つの国としてまとまるのが本当に大変なんだろうなと思います。現に、政治・経済・文化の中心とされるジャワ島から離れた島では独立運動が盛んなところもあるし、それでなくても、島ごとに民族・言語・文化の違いがあります。
近代的な国民国家として、その無数の島々を一つに統合しようとする政府の当局者にとっては、そういう状況は混沌以外の何物でもないだろうし、国土が島ごとにバラバラになっていることは、他の国より条件的にずっと不利なのかもしれません。
しかし逆に、旅行者という気楽な立場からすれば、そうした混沌こそ宝の山で、島ごとに違うユニークな人々や風物に出会えるという面白さがあります。
そういえば、日本はどうなんだろうと思って調べてみたら、日本には海岸線が100m以上の島が7,000近くもあるそうです(人が住んでいるのは、そのうち400ほどだそうですが)。
「日本の島の数」 日本海事広報協会
インドネシアには到底及びませんが、日本もやはり島だらけの国のようです。それにしても、「日本は島国」とかふだん口にするわりに、実際にこれほど島が多いとは知りませんでした。
もちろん日本の当局は、島の数をきっちり把握しているみたいです……。
JUGEMテーマ:ニュース
【2000の島が消える?=正確な数把握へ調査−インドネシア】
【ジャカルタ時事】27日付のインドネシア紙ジャカルタ・グローブによると、世界最大の島嶼(とうしょ)国家インドネシアで、政府が正確な島の数の把握に乗り出す。海洋・水産省当局者によれば、現在の1万7480という島数は衛星画像と推定によるもので、調査の結果次第では島数が2000近く減少する可能性があるという。
調査は各島を直接目視して確認する方法などが取られ、正確な数の把握と各島ごとに名称を付けることを目指す。国連の地名専門家グループとも連携し、2012年までに結果を国連に報告したい考えだ。
(時事通信 2009年8月28日)
政府の当局者ですらこれまで現地調査をせず、島の数を正確に知らなかったところが、いかにもアジア的でほほえましい話です。
でもまあ、人の住めない小さな島までいちいち調べたところで面倒臭いだけで、当局としても、そこまで頑張るほどの理由を思いつけなかったのでしょう。他の国と領有権を争う紛争地域でもない限り、それであまり不都合はなかったのかもしれません。
ちなみに、ネットでざっと調べた限りでは、現時点で17,500近くあるという島々のうち、実際に人が住んでいるのは約3,000とも6,000ともいわれていて、はっきりしたことは分かりません。ただ、正確な数字はともかく、一つの国に人の住む島が数千もあるというのは驚きです。
これだけたくさん島があると、とにかく一つの国としてまとまるのが本当に大変なんだろうなと思います。現に、政治・経済・文化の中心とされるジャワ島から離れた島では独立運動が盛んなところもあるし、それでなくても、島ごとに民族・言語・文化の違いがあります。
近代的な国民国家として、その無数の島々を一つに統合しようとする政府の当局者にとっては、そういう状況は混沌以外の何物でもないだろうし、国土が島ごとにバラバラになっていることは、他の国より条件的にずっと不利なのかもしれません。
しかし逆に、旅行者という気楽な立場からすれば、そうした混沌こそ宝の山で、島ごとに違うユニークな人々や風物に出会えるという面白さがあります。
そういえば、日本はどうなんだろうと思って調べてみたら、日本には海岸線が100m以上の島が7,000近くもあるそうです(人が住んでいるのは、そのうち400ほどだそうですが)。
「日本の島の数」 日本海事広報協会
インドネシアには到底及びませんが、日本もやはり島だらけの国のようです。それにしても、「日本は島国」とかふだん口にするわりに、実際にこれほど島が多いとは知りませんでした。
もちろん日本の当局は、島の数をきっちり把握しているみたいです……。
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