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2010.02.26 Friday
旅の名言 「義理で配らなければいけないみやげ物を……」
義理で配らなければいけないみやげ物を、旅行中のかなりの時間とかなりのカネを使って買い集め、しかしもらってもちっともうれしくないという日本の習慣は、早くなくなってしまえばいいと思う。
「そうはいかないのよ」という声が、全国各地から聞こえてきそうだ。みやげ物は、私に関係のない世界のことだから、どうでもいいけど。
『アジア・旅の五十音』 前川健一 講談社文庫 より
この本の紹介記事
アジアの旅にまつわる短いエッセイを集めた、前川健一氏の『アジア・旅の五十音』の、「みやげ物」の項からの名言です。
本当にその通り! としか言いようがありません(笑)。
他の国では、みやげ物に関してどのような習慣があるのか、私はよく知りませんが、(旅行が人生の大イベントだった昔ならともかく)今の日本で、みやげ物を配り歩く習慣が果たして必要なのか、大いに疑問です。
でもまあ、こういうことは結局、旅人それぞれの個人的なポリシーの問題なので、やめる・やめないは各人が決めればいいことです。
それに、私も偉そうなことを言いつつ、みやげ物をきっぱりと全廃したわけではありません。帰国後に会う身近な人に対して、全く手ぶらというわけにもいかず、ほんの気持ち程度のものを買ってきたりすることはあります。
もっとも、この「ほんの気持ち」というやつこそ、いちばんのクセモノで、それこそまさに義理であり、日本的習慣なのだと言われてしまいそうですが……。
JUGEMテーマ:旅行
2010.02.19 Friday
『ロビンソン・クルーソーを探して』
評価 ★★☆☆☆ よかったら暇な時に読んでみてください
『ロビンソン・クルーソー』といえば、超有名な冒険小説の古典ですが、実はこの小説のモデルだといわれる実在の人物がいたことは、あまり知られていないようです。
1704年9月、イギリス海賊船の航海長だったアレクサンダー・セルカークは、航海中に船長といさかいを起こし、南太平洋に浮かぶ無人島、マス・ア・ティエラ島(現在はロビンソン・クルーソー島と改名)にひとり置き去りにされてしまいました。
『ロビンソン・クルーソー』といえば、超有名な冒険小説の古典ですが、実はこの小説のモデルだといわれる実在の人物がいたことは、あまり知られていないようです。
1704年9月、イギリス海賊船の航海長だったアレクサンダー・セルカークは、航海中に船長といさかいを起こし、南太平洋に浮かぶ無人島、マス・ア・ティエラ島(現在はロビンソン・クルーソー島と改名)にひとり置き去りにされてしまいました。
ウィキペディア 「アレキサンダー・セルカーク」
しかし彼は、想像を絶する孤独と困難を乗り越え、1709年2月に別のイギリス船によって救出されるまで、そこで4年4カ月もの歳月を生き延びたのです。
この本の著者、高橋大輔氏は、ふとしたきっかけでそのエピソードを知り、セルカークが「陥った境遇、そして決断や行動、感情、夢や希望、または絶望や心の葛藤、その全てを埃をかぶった歴史の中から掘り起こそう」という強い思いに駆られました。
彼は仕事のかたわら、セルカークにまつわるさまざまな文献を渉猟し、彼の生地スコットランドを訪ねて彼の一族の末裔に会い、彼が無人島から持ち帰った遺品の行方を追い、果てはロビンソン・クルーソー島まで出かけて、300年前に彼がそこに生きた痕跡を求めて、島内の探索までするのです。
また、探求を続けるうちに、セルカークが無人島生活を綴った手記を残したという伝説や、『ロビンソン・クルーソー』の作者ダニエル・デフォーに実際に会っていたという伝説など、歴史の薄闇の向こうから、彼をめぐる興味深い謎も次々に浮かび上がってきます。
セルカークは無人島でどんな暮らしをしていたのか、彼はどんな人物で、無事に故郷に戻った後どんな人生を歩んだのか、そして、彼をめぐるさまざまな伝説の真相は……。
この本には、高橋氏のそうした探索・研究のプロセスが詳しく描かれているだけでなく、それが同時に、非常にユニークな旅行記にもなっています。
その探求の結末がどのようなものであったのか、ここで触れることはできませんが、子供の頃『ロビンソン・クルーソー』の冒険に心を躍らせた経験のある人なら、この本も楽しんで読めるのではないでしょうか。
もっとも、300年前に無人島で暮らした男の話など、そうした分野に興味のない人にとってはどうでもいいことなのかもしれないし、仮にその男について詳しく知ったところで、私たちの日常生活に何か役立つわけでもありません。
ただ、何かを本当に知りたいと思い、そのために労をいとわず地球の果てまで出かけていく高橋氏の姿勢は、探求のプロセスとしての旅という可能性を、私たちに示してくれているように思います。
地球上に地理的な空白がなくなり、その気になれば誰でもどこにでも行けるようになってしまった今、どこへ何のために旅をするのか、それは自分にとってどんな意味があるのかということが、それぞれの旅人にとって、非常に重要な問題になってきていると思うからです。
探求の方向は人それぞれでしょうが、それが万人受けするかどうかよりも、自分が本気になれるテーマを見出すことが大切なのでしょう。熱中できるテーマを抱いて世界中を駆け回る旅人の幸せが、この本からは伝わってきます。
ダニエル・デフォー 『ロビンソン・クルーソー』の紹介記事
本の評価基準
以下の基準を目安に、私の主観で判断しています。
★★★★★ 座右の書として、何度も読み返したい本です
★★★★☆ 一度は読んでおきたい、素晴らしい本です
★★★☆☆ 読むだけの価値はあります
★★☆☆☆ よかったら暇な時に読んでみてください
★☆☆☆☆ 人によっては得るところがあるかも?
☆☆☆☆☆ ここでは紹介しないことにします
JUGEMテーマ:読書
しかし彼は、想像を絶する孤独と困難を乗り越え、1709年2月に別のイギリス船によって救出されるまで、そこで4年4カ月もの歳月を生き延びたのです。
この本の著者、高橋大輔氏は、ふとしたきっかけでそのエピソードを知り、セルカークが「陥った境遇、そして決断や行動、感情、夢や希望、または絶望や心の葛藤、その全てを埃をかぶった歴史の中から掘り起こそう」という強い思いに駆られました。
彼は仕事のかたわら、セルカークにまつわるさまざまな文献を渉猟し、彼の生地スコットランドを訪ねて彼の一族の末裔に会い、彼が無人島から持ち帰った遺品の行方を追い、果てはロビンソン・クルーソー島まで出かけて、300年前に彼がそこに生きた痕跡を求めて、島内の探索までするのです。
また、探求を続けるうちに、セルカークが無人島生活を綴った手記を残したという伝説や、『ロビンソン・クルーソー』の作者ダニエル・デフォーに実際に会っていたという伝説など、歴史の薄闇の向こうから、彼をめぐる興味深い謎も次々に浮かび上がってきます。
セルカークは無人島でどんな暮らしをしていたのか、彼はどんな人物で、無事に故郷に戻った後どんな人生を歩んだのか、そして、彼をめぐるさまざまな伝説の真相は……。
この本には、高橋氏のそうした探索・研究のプロセスが詳しく描かれているだけでなく、それが同時に、非常にユニークな旅行記にもなっています。
その探求の結末がどのようなものであったのか、ここで触れることはできませんが、子供の頃『ロビンソン・クルーソー』の冒険に心を躍らせた経験のある人なら、この本も楽しんで読めるのではないでしょうか。
もっとも、300年前に無人島で暮らした男の話など、そうした分野に興味のない人にとってはどうでもいいことなのかもしれないし、仮にその男について詳しく知ったところで、私たちの日常生活に何か役立つわけでもありません。
ただ、何かを本当に知りたいと思い、そのために労をいとわず地球の果てまで出かけていく高橋氏の姿勢は、探求のプロセスとしての旅という可能性を、私たちに示してくれているように思います。
地球上に地理的な空白がなくなり、その気になれば誰でもどこにでも行けるようになってしまった今、どこへ何のために旅をするのか、それは自分にとってどんな意味があるのかということが、それぞれの旅人にとって、非常に重要な問題になってきていると思うからです。
探求の方向は人それぞれでしょうが、それが万人受けするかどうかよりも、自分が本気になれるテーマを見出すことが大切なのでしょう。熱中できるテーマを抱いて世界中を駆け回る旅人の幸せが、この本からは伝わってきます。
ダニエル・デフォー 『ロビンソン・クルーソー』の紹介記事
本の評価基準
以下の基準を目安に、私の主観で判断しています。
★★★★★ 座右の書として、何度も読み返したい本です
★★★★☆ 一度は読んでおきたい、素晴らしい本です
★★★☆☆ 読むだけの価値はあります
★★☆☆☆ よかったら暇な時に読んでみてください
★☆☆☆☆ 人によっては得るところがあるかも?
☆☆☆☆☆ ここでは紹介しないことにします
JUGEMテーマ:読書
2010.02.12 Friday
旅の名言 「とことん醜態を……」
「とことん醜態を演じることのできる能力、それこそ旅人に欠かせない大切な要素である」とジャーナリストのジョン・フリンも言っている。人はそのようにしてみずからの過ちを笑い、それを大事な糧にして成長を遂げていく。
『旅に出ろ! ― ヴァガボンディング・ガイド 』 ロルフ・ポッツ ヴィレッジブックス より
この本の紹介記事
いつか放浪の旅に出てみたいと憧れる人のために、放浪(ヴァガボンディング)の心構えと実際を説いた入門書、『旅に出ろ!』からの一節です。
旅先での醜態といえば、「旅の恥はかき捨て」という有名なフレーズを思い出しますが、ここで「とことん醜態を演じる」というのは、そういう、自分のコミュニティでは許されない蛮行を、見知らぬ土地なら平気でやってしまえる、という意味合いではありません。
むしろ、言葉の通じない異国の地で、互いのコミュニケーションが行き違い、思わぬドタバタ劇を演じてしまったり、慣れない異文化の中で、現地の人には滑稽に映るふるまいを、それと気づかずにしてしまうような体験を指しているのだと思います。
例えていえば、それは、テーブルマナーをろくに身につけないまま、高級レストランのようなフォーマルな場に出て大失敗をやらかし、周囲の視線を集めてオロオロする感じと似ているかもしれません。
私も旅をしているときには、何度もそういう経験をしました。また、旅をしている時点では何も感じなかったものの、後でいろいろ事情が分かった時点で当時の自分を振り返り、知らず知らずに相当恥ずかしいことをしていたのだと気づいて、今さらながら赤面することもしばしばです。
旅人として未知の文化圏に入っていくと、現地の言葉もしゃべれず、そのコミュニティの慣習や価値観を何も知らない自分は、まるで無力な子供になってしまったような気がします。まあ、よそ者というのは、どこでも、いつの時代でもそういうものですが……。
現地の人たちも、そういう事情を理解した上で、旅人の醜態を大目に見てくれることが多いのですが、一方で、その道化のような失敗ぶりをおおいに笑い、恰好のエンターテインメントとして楽しんでいるのも確かです。
旅人としては、見知らぬ人からとはいえ、笑い物にされるというのはあまりいい気分ではないし、自分が旅先でスマートに振る舞えなかったことに、悔しい思いをする人もいるでしょう。
ただ、そういう恥ずかしい体験を恐れず、たとえハプニングに巻き込まれても、自分でそれを笑いとばせるくらいのメンタリティが、旅を続けていくうえでは欠かせないのかもしれません。
少しおおげさかもしれませんが、ロルフ・ポッツ氏の言うように、旅先でとことん醜態を演じ、その経験を一つひとつ乗り越えることで、私たちは旅人として、少しずつ「成長」していくことができるのでしょう。
もっとも、私の場合は、何度恥ずかしい経験を重ねても、正直なところ、自分が成長したという実感はないのですが……。
JUGEMテーマ:旅行
この本の紹介記事
いつか放浪の旅に出てみたいと憧れる人のために、放浪(ヴァガボンディング)の心構えと実際を説いた入門書、『旅に出ろ!』からの一節です。
旅先での醜態といえば、「旅の恥はかき捨て」という有名なフレーズを思い出しますが、ここで「とことん醜態を演じる」というのは、そういう、自分のコミュニティでは許されない蛮行を、見知らぬ土地なら平気でやってしまえる、という意味合いではありません。
むしろ、言葉の通じない異国の地で、互いのコミュニケーションが行き違い、思わぬドタバタ劇を演じてしまったり、慣れない異文化の中で、現地の人には滑稽に映るふるまいを、それと気づかずにしてしまうような体験を指しているのだと思います。
例えていえば、それは、テーブルマナーをろくに身につけないまま、高級レストランのようなフォーマルな場に出て大失敗をやらかし、周囲の視線を集めてオロオロする感じと似ているかもしれません。
私も旅をしているときには、何度もそういう経験をしました。また、旅をしている時点では何も感じなかったものの、後でいろいろ事情が分かった時点で当時の自分を振り返り、知らず知らずに相当恥ずかしいことをしていたのだと気づいて、今さらながら赤面することもしばしばです。
旅人として未知の文化圏に入っていくと、現地の言葉もしゃべれず、そのコミュニティの慣習や価値観を何も知らない自分は、まるで無力な子供になってしまったような気がします。まあ、よそ者というのは、どこでも、いつの時代でもそういうものですが……。
現地の人たちも、そういう事情を理解した上で、旅人の醜態を大目に見てくれることが多いのですが、一方で、その道化のような失敗ぶりをおおいに笑い、恰好のエンターテインメントとして楽しんでいるのも確かです。
旅人としては、見知らぬ人からとはいえ、笑い物にされるというのはあまりいい気分ではないし、自分が旅先でスマートに振る舞えなかったことに、悔しい思いをする人もいるでしょう。
ただ、そういう恥ずかしい体験を恐れず、たとえハプニングに巻き込まれても、自分でそれを笑いとばせるくらいのメンタリティが、旅を続けていくうえでは欠かせないのかもしれません。
少しおおげさかもしれませんが、ロルフ・ポッツ氏の言うように、旅先でとことん醜態を演じ、その経験を一つひとつ乗り越えることで、私たちは旅人として、少しずつ「成長」していくことができるのでしょう。
もっとも、私の場合は、何度恥ずかしい経験を重ねても、正直なところ、自分が成長したという実感はないのですが……。
JUGEMテーマ:旅行
2010.02.06 Saturday
インターネットからこぼれ落ちるもの
ふと気がつけば、自分の身のまわりにインターネット環境が出現して、もう十数年が経ちました。
当時、初めてネットに触れたときに感じた、何か世の中が大きく変わるのではないかという漠然とした期待(あるいは不安)については、その一部がすでに現実になっています。その一方で、私を含めたネット以前の世代がしっかり身につけている昔ながらのモノの見方とか、慣習的な物事の進め方みたいなものは、社会の至るところに今なおしっかりと残っていて、新旧の世界の摩擦を引き起こしています。
私たちはこれまで、重要な情報源としてテレビ・新聞などのマスメディアに頼ってきたし、それ以外に、世界の出来事について広く知るための方法はほとんどありませんでした。
しかし、それらがメディアとして決して完璧な存在ではなく、ひと昔前の経済的・技術的・社会的な環境の制約の中で生み出された、情報供給の一つの形にすぎなかったのだということが、インターネットの出現によって、理屈というより、強い実感として感じられるようになってきています。
インターネットのなかった時代には、情報が私たちの手元にたどり着くまでのプロセスで、マスメディアによって切り捨てられ、あるいは意識的・無意識的に隠されてきたものに、私たちはなかなか気づくことができませんでした。
例えば、紙面や放映時間の制約を受けない詳細な情報や、さまざまな少数意見、マスメディアそのものに対する批判、あるいはメインストリームとは全く異なる世界観による別の「現実」の一部など、今ではその気になりさえすれば簡単に知ることができますが、それはインターネットが存在するおかげです。
もっとも、ネットは玉石混交の世界でもあります。マスメディアではとても表立って扱うことのできない、いかがわしいものやおぞましいものもあれば、このブログのように、ほとんどの人にとっては取るに足りない、素人のささやかなつぶやきみたいなものもたくさんあります。
しかし、世の中の光も影もすべて含んでいるような、人間の頭の中をすべてさらけ出したような、ネット世界の圧倒的な情報の奔流に浸っていると、ちょっと前までは、私にとって唯一絶対の情報源みたいに見えていたマスメディアが提供してくれる情報が、ふと、何だか薄っぺらで、スカスカなものに見えてしまうことがあるのです。
逆に、(一人の人間がそのすべてにアクセスすることは到底不可能ですが)インターネットにあふれる情報の全体こそ、この世界の現実を、よりリアルに映し出しているように見えてきます。そして、近い将来、私たちに必要なすべてのものが、ネット経由で手に入る時代がやってくるような気さえしてきます。
しかし、考えてみると、ネットの世界も、いくらその全体が膨大なものであろうと、個々の情報そのものは、誰かが映像として切り取ったり、言葉の形に翻訳した、この世界のリアリティの一部にすぎません。
誰かがリアリティをネット上に移植するプロセスの中で、彼らが音や映像として表現できないもの、あるいは、人間がどんなに力を尽くしても、到底言葉にすることのできない「何か」は、すでにこぼれ落ちてしまっています。
そういう意味では、インターネットもまた、この世界のリアリティをすべてカバーできるような、完璧な存在ではないのだと思います。
もっとも、その点に関しては、人間の手によって表現され得ない「何か」などというものは、たんなる神秘主義者の幻想であって、そんなものはそもそも存在しないのだと考える人の方が、きっとこの世界では多数派なんだろうな、という気はします。
だから、人間が把握できるリアリティの限界の向こうにも、さらに世界は広がっているのだ、とか、私たちの表現手段を超えた「何か」とても大切なものが、この世界に常に存在しているのだ、などと考えるのは、ほとんど説得力のない、個人的な信念にすぎないと言われてしまうのかもしれませんが……。
ただ、それを別にしても、ネット世界というのは、ひと昔前のリアル世界よりもずっと、人間の意図や仕掛けに満ち満ちた世界でもあります。そこは、私たち人間の思い通りにはいかない自然の複雑で微妙な作用や、人間の意図を超えて起きるハプニングが、注意深く排除された世界です。
例えば、私たちは、ネット世界の中をいくら動き回っていても、(誰かがそういう仕掛けを、意図して埋め込んでおかないかぎり)ふと、どこからか鳥のさえずりが聞こえてきたり、雨に降られてずぶ濡れになったりすることはないし、人間のミスや故意によらないアクシデントに巻き込まれるようなこともありません。
このあたりの違和感を、私にはどうもうまく表現できないのですが、インターネットは、たとえそれがこの世界のリアリティをそのまま映し出すような存在に見えたとしても、実際は、人間の表層的な意識にとって都合のいい世界として生み出されたというか、人間のエゴにとって不要なものをリアリティから取り除いた、あるいは無視した結果として生まれた世界という感じがするのです。
私は、人間にとって重要なのは、私たちのエゴが意図していることだけではないと思うし、そういう見地からすれば、やはりインターネットも、人間のちっぽけな意図を超えた、宇宙的で、複雑で、微妙なリアリティのすべてをカバーしてはいないという意味で、やはり薄っぺらでスカスカの世界にすぎないのかもしれません。
それに、もしかするとインターネットは、これこそが世界のすべてだと錯覚してしまうほどの大いなる魅力と中毒性をもっている分だけ、罪深い存在なのかもしれません。
そして、かつては情報に関して大きな権威を独占してきたマスメディアが、インターネットの出現によって、その相対的な不完全さを露呈し、急速に権威を失ってしまったように、ネット世界を含み、かつそれを超えて、この世界のリアリティをより忠実に映し出す新たなメディアが出現するようなことがあれば、私たちは、インターネットもまた、リアリティのごく一部を切り取っただけの存在であることを、はっきりと感じとれるようになるのかもしれません。
何だか、ずいぶんと偉そうなことを書いてしまいました。もちろん、これは理屈の上で、そんな可能性を想像できるというだけの話で、インターネットを超えるメディアが、将来この世界に出現するかどうかなど、私にはまったく知る由もありませんが……。
JUGEMテーマ:インターネット
当時、初めてネットに触れたときに感じた、何か世の中が大きく変わるのではないかという漠然とした期待(あるいは不安)については、その一部がすでに現実になっています。その一方で、私を含めたネット以前の世代がしっかり身につけている昔ながらのモノの見方とか、慣習的な物事の進め方みたいなものは、社会の至るところに今なおしっかりと残っていて、新旧の世界の摩擦を引き起こしています。
私たちはこれまで、重要な情報源としてテレビ・新聞などのマスメディアに頼ってきたし、それ以外に、世界の出来事について広く知るための方法はほとんどありませんでした。
しかし、それらがメディアとして決して完璧な存在ではなく、ひと昔前の経済的・技術的・社会的な環境の制約の中で生み出された、情報供給の一つの形にすぎなかったのだということが、インターネットの出現によって、理屈というより、強い実感として感じられるようになってきています。
インターネットのなかった時代には、情報が私たちの手元にたどり着くまでのプロセスで、マスメディアによって切り捨てられ、あるいは意識的・無意識的に隠されてきたものに、私たちはなかなか気づくことができませんでした。
例えば、紙面や放映時間の制約を受けない詳細な情報や、さまざまな少数意見、マスメディアそのものに対する批判、あるいはメインストリームとは全く異なる世界観による別の「現実」の一部など、今ではその気になりさえすれば簡単に知ることができますが、それはインターネットが存在するおかげです。
もっとも、ネットは玉石混交の世界でもあります。マスメディアではとても表立って扱うことのできない、いかがわしいものやおぞましいものもあれば、このブログのように、ほとんどの人にとっては取るに足りない、素人のささやかなつぶやきみたいなものもたくさんあります。
しかし、世の中の光も影もすべて含んでいるような、人間の頭の中をすべてさらけ出したような、ネット世界の圧倒的な情報の奔流に浸っていると、ちょっと前までは、私にとって唯一絶対の情報源みたいに見えていたマスメディアが提供してくれる情報が、ふと、何だか薄っぺらで、スカスカなものに見えてしまうことがあるのです。
逆に、(一人の人間がそのすべてにアクセスすることは到底不可能ですが)インターネットにあふれる情報の全体こそ、この世界の現実を、よりリアルに映し出しているように見えてきます。そして、近い将来、私たちに必要なすべてのものが、ネット経由で手に入る時代がやってくるような気さえしてきます。
しかし、考えてみると、ネットの世界も、いくらその全体が膨大なものであろうと、個々の情報そのものは、誰かが映像として切り取ったり、言葉の形に翻訳した、この世界のリアリティの一部にすぎません。
誰かがリアリティをネット上に移植するプロセスの中で、彼らが音や映像として表現できないもの、あるいは、人間がどんなに力を尽くしても、到底言葉にすることのできない「何か」は、すでにこぼれ落ちてしまっています。
そういう意味では、インターネットもまた、この世界のリアリティをすべてカバーできるような、完璧な存在ではないのだと思います。
もっとも、その点に関しては、人間の手によって表現され得ない「何か」などというものは、たんなる神秘主義者の幻想であって、そんなものはそもそも存在しないのだと考える人の方が、きっとこの世界では多数派なんだろうな、という気はします。
だから、人間が把握できるリアリティの限界の向こうにも、さらに世界は広がっているのだ、とか、私たちの表現手段を超えた「何か」とても大切なものが、この世界に常に存在しているのだ、などと考えるのは、ほとんど説得力のない、個人的な信念にすぎないと言われてしまうのかもしれませんが……。
ただ、それを別にしても、ネット世界というのは、ひと昔前のリアル世界よりもずっと、人間の意図や仕掛けに満ち満ちた世界でもあります。そこは、私たち人間の思い通りにはいかない自然の複雑で微妙な作用や、人間の意図を超えて起きるハプニングが、注意深く排除された世界です。
例えば、私たちは、ネット世界の中をいくら動き回っていても、(誰かがそういう仕掛けを、意図して埋め込んでおかないかぎり)ふと、どこからか鳥のさえずりが聞こえてきたり、雨に降られてずぶ濡れになったりすることはないし、人間のミスや故意によらないアクシデントに巻き込まれるようなこともありません。
このあたりの違和感を、私にはどうもうまく表現できないのですが、インターネットは、たとえそれがこの世界のリアリティをそのまま映し出すような存在に見えたとしても、実際は、人間の表層的な意識にとって都合のいい世界として生み出されたというか、人間のエゴにとって不要なものをリアリティから取り除いた、あるいは無視した結果として生まれた世界という感じがするのです。
私は、人間にとって重要なのは、私たちのエゴが意図していることだけではないと思うし、そういう見地からすれば、やはりインターネットも、人間のちっぽけな意図を超えた、宇宙的で、複雑で、微妙なリアリティのすべてをカバーしてはいないという意味で、やはり薄っぺらでスカスカの世界にすぎないのかもしれません。
それに、もしかするとインターネットは、これこそが世界のすべてだと錯覚してしまうほどの大いなる魅力と中毒性をもっている分だけ、罪深い存在なのかもしれません。
そして、かつては情報に関して大きな権威を独占してきたマスメディアが、インターネットの出現によって、その相対的な不完全さを露呈し、急速に権威を失ってしまったように、ネット世界を含み、かつそれを超えて、この世界のリアリティをより忠実に映し出す新たなメディアが出現するようなことがあれば、私たちは、インターネットもまた、リアリティのごく一部を切り取っただけの存在であることを、はっきりと感じとれるようになるのかもしれません。
何だか、ずいぶんと偉そうなことを書いてしまいました。もちろん、これは理屈の上で、そんな可能性を想像できるというだけの話で、インターネットを超えるメディアが、将来この世界に出現するかどうかなど、私にはまったく知る由もありませんが……。
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