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2010.03.31 Wednesday
ブログと記憶
これまで何年かブログを続けてきて、いまだに自分でもよく分からないことがあります。
といっても、それほど大げさなことではなく、ある意味、どうでもいい話かもしれません。
このブログでは、一応「旅」をテーマに、日々の生活で感じたこととか、自分なりに考えたこととか、あるいは過去の旅の思い出など、いろいろなことを文章にして書き残しているのですが、そうやって自分の外面・内面の体験を記録に残していくことが、自分自身の記憶というものに、どのような影響を与えているのだろうか、という問題です。
もっとも、こういう言い方では、話がちょっと漠然としすぎているかもしれません。
とりあえず問題をもう少し限定するなら、「ブログ(や日記)を書くことには、個人の記憶を増進する効果があるのか、それとも、むしろその逆なのか?」という風になるでしょうか。
ちょっと考える限りでは、ブログを書いたり、日記をつけたり、方法は何でもいいのですが、自分の体験を反芻し、整理して記録に残していくという作業には、体験を記憶に焼きつけるプラスの効果があるのではないかという気がします。
でも、自分自身の経験からすると、こうしてブログに何かを書こうが書くまいが、過去のことはどんどん記憶から薄れていくという点で、ほとんど変わりはないようです。たまに過去の記事を読み返すようなことがあると、そこに何を書いたのか完全に忘れてしまっていて、何だかまるで他人の文章を読んでいるような気がすることすらあります。
もしかして、自分の体験したことを文章にして書き残したりすると、ちゃんと記録したという安心感のために、かえって忘却を加速させてしまうのではないでしょうか。
あるいは、何か心にひっかかるような体験をしたとき、それをじっと心の中に留めておけば、いつまでも記憶に残ったかもしれないのに、すぐに文章にして書き出したり、誰かに話してしまうことで、そのつど心のモヤモヤが発散されてしまい、後からその出来事を記憶の底から引き出す手がかりを失ってしまうのかもしれません。
……というわけで、文章を書くことに記憶増進効果があるのか、ないのか、という点に関して、私にはよく分かりません。結局のところ、自分自身の記憶というものを客観的に測定する方法がないので、どうにも判断のしようがないのです。
それに、言うまでもないことですが、最近、過去の出来事をなかなか思い出せなくなったのは、ブログと記憶力の関係の問題というより、単なる歳のせいでしょう。
こうして自分の記憶力というものを気にすること自体、歳をとって、何か自分の認識力の限界みたいなものを、切実に感じさせられるようになったからなのかもしれません。
ただ、もう少し考えてみると、かりにブログや日記、またはそれ以外の方法で人間の記憶が増進するとしても、そのおかげで自分の記憶にプラスできる部分というのは、ある意味、どうでもいいレベルの記憶なのではないかという気はします。
自分にとって本当に大事なことというのは、記憶力以前の問題として、放っておいてもしっかりと心に刻まれてしまうはずだし、むしろそれは、忘れようとしたって忘れられるものではありません。
すべての人間の内面ではきっと、人生における物事の優先順位に関して、無意識の大雑把な判断がつねに働いていて、意識的にそれを整理したり、記憶の幅を広げようと頑張ったりしなくても、絶対に忘れない重要なこと、忘れてもいいささいなこと、忘れても忘れなくてもどっちでもいいことを、うまく振り分けてくれているのではないでしょうか。
だとすれば、記憶をあえて増進するために、ことさらに努力をする必要はないのかもしれません。
日々の細かい出来事はいつか忘れてしまうでしょうが、それはそういう性質のものだからであって、大切にしたい大事な出来事さえしっかり心に刻んでいれば、生きていくうえでそれ以上のものはあまり必要ないのかもしれません。
……何だか、自分の乏しい記憶力となれ合って、自分を丸め込んでいる気がしなくもありませんが……。
JUGEMテーマ:日記・一般
といっても、それほど大げさなことではなく、ある意味、どうでもいい話かもしれません。
このブログでは、一応「旅」をテーマに、日々の生活で感じたこととか、自分なりに考えたこととか、あるいは過去の旅の思い出など、いろいろなことを文章にして書き残しているのですが、そうやって自分の外面・内面の体験を記録に残していくことが、自分自身の記憶というものに、どのような影響を与えているのだろうか、という問題です。
もっとも、こういう言い方では、話がちょっと漠然としすぎているかもしれません。
とりあえず問題をもう少し限定するなら、「ブログ(や日記)を書くことには、個人の記憶を増進する効果があるのか、それとも、むしろその逆なのか?」という風になるでしょうか。
ちょっと考える限りでは、ブログを書いたり、日記をつけたり、方法は何でもいいのですが、自分の体験を反芻し、整理して記録に残していくという作業には、体験を記憶に焼きつけるプラスの効果があるのではないかという気がします。
でも、自分自身の経験からすると、こうしてブログに何かを書こうが書くまいが、過去のことはどんどん記憶から薄れていくという点で、ほとんど変わりはないようです。たまに過去の記事を読み返すようなことがあると、そこに何を書いたのか完全に忘れてしまっていて、何だかまるで他人の文章を読んでいるような気がすることすらあります。
もしかして、自分の体験したことを文章にして書き残したりすると、ちゃんと記録したという安心感のために、かえって忘却を加速させてしまうのではないでしょうか。
あるいは、何か心にひっかかるような体験をしたとき、それをじっと心の中に留めておけば、いつまでも記憶に残ったかもしれないのに、すぐに文章にして書き出したり、誰かに話してしまうことで、そのつど心のモヤモヤが発散されてしまい、後からその出来事を記憶の底から引き出す手がかりを失ってしまうのかもしれません。
……というわけで、文章を書くことに記憶増進効果があるのか、ないのか、という点に関して、私にはよく分かりません。結局のところ、自分自身の記憶というものを客観的に測定する方法がないので、どうにも判断のしようがないのです。
それに、言うまでもないことですが、最近、過去の出来事をなかなか思い出せなくなったのは、ブログと記憶力の関係の問題というより、単なる歳のせいでしょう。
こうして自分の記憶力というものを気にすること自体、歳をとって、何か自分の認識力の限界みたいなものを、切実に感じさせられるようになったからなのかもしれません。
ただ、もう少し考えてみると、かりにブログや日記、またはそれ以外の方法で人間の記憶が増進するとしても、そのおかげで自分の記憶にプラスできる部分というのは、ある意味、どうでもいいレベルの記憶なのではないかという気はします。
自分にとって本当に大事なことというのは、記憶力以前の問題として、放っておいてもしっかりと心に刻まれてしまうはずだし、むしろそれは、忘れようとしたって忘れられるものではありません。
すべての人間の内面ではきっと、人生における物事の優先順位に関して、無意識の大雑把な判断がつねに働いていて、意識的にそれを整理したり、記憶の幅を広げようと頑張ったりしなくても、絶対に忘れない重要なこと、忘れてもいいささいなこと、忘れても忘れなくてもどっちでもいいことを、うまく振り分けてくれているのではないでしょうか。
だとすれば、記憶をあえて増進するために、ことさらに努力をする必要はないのかもしれません。
日々の細かい出来事はいつか忘れてしまうでしょうが、それはそういう性質のものだからであって、大切にしたい大事な出来事さえしっかり心に刻んでいれば、生きていくうえでそれ以上のものはあまり必要ないのかもしれません。
……何だか、自分の乏しい記憶力となれ合って、自分を丸め込んでいる気がしなくもありませんが……。
JUGEMテーマ:日記・一般
2010.03.24 Wednesday
旅の名言 「理由のつけられない……」
エジプトに行ってピラミッドに上り、インドに行ってガンジスを下り……、そんなことしてても無意味だし、キリないじゃないかとあなたは言うかもしれない。でも様々な表層的理由づけをひとつひとつ取り払ってしまえば、結局のところそれが旅行というものが持つおそらくはいちばんまっとうな動機であり、存在理由であるだろうと僕は思う。理由のつけられない好奇心、現実的感触への欲求。
『辺境・近境』 村上春樹 新潮文庫 より
この本の紹介記事
瀬戸内海の無人島からノモンハンの戦場跡まで、さまざまな場所への旅の記録を収めた村上春樹氏の『辺境・近境』からの一節です。
どうして旅をするのか、という問いは、旅をめぐる疑問の中でも最大のものだろうと思います。
旅に出ない人からすれば、他の人間が、膨大なカネと時間と手間ヒマをかけて、世界のあちこちに出かけていくのは理解できないでしょう。
一方で、旅好きの人が、旅に出る理由をはっきりと自覚しているかといえば、そうでもないようです。少なくとも私の場合は、なぜ自分が旅に出たがるのか、その動機を十分に理解しているとはいえない気がします。
もちろん、他の人から旅の理由を聞かれたときには、適当な「表層的理由づけ」をでっち上げてその場をしのぐようなこともあるだろうし、旅を続けているとそれなりに辛いこともあるので、そんなときには、旅をやめない理由というか、弱音を吐いている自分を説得できるだけの根拠みたいなものが必要になる場合もあります。
しかし、結局のところ、そういう一時的な理由づけというのは、問いに対する究極の答えにはなっていません。
旅人がいつも用意している想定問答集から、そういう「表層的理由づけ」を、仮にすべて取り除いてしまうとしたら、最後に何が残るのでしょう。
もしかすると、村上氏の書いているように、エジプトに行ってピラミッドに上りたいんだ、とか、インドに行ってガンジスを下ってみたいんだ、という、子供のようにシンプルな「現実的感触への欲求」というのが、最後に残る究極の動機だったりするのかもしれません。
そして旅人が、それ以外のもっともらしい旅の理由をあれこれと用意しておくのは、そんな子供っぽい欲求を素直に語ったところで、大人同士の社交的な会話の中では理解してもらえないだろうし、むしろ幼稚だとバカにされかねないので、なかなか正直に言えないからなのかもしれません。
もちろん、同じ旅人同士の会話なら、ただそこに行きたい、と言うだけで話が通じるし、そもそも旅に出る理由なんて、いちいちお互いに説明する必要もないのですが……。
ただ、私は、人間の旅への欲求の根源には、何かもっと他の要素もあるような気がします。
五感の欲求を満たしたいという強い思いのほかに、まだ本人にも自覚できていない、いわば未来の自分からの呼びかけみたいなものも含まれているような気がするのです。
これはちょっと説明しにくいのですが、例えば、はっきりとした目的もないまま、ただ旅への衝動に従ってあちこち放浪しているうちに、いつの間にか、旅のテーマみたいなものがそれなりに見えてきて、ああ、自分が旅に出たのはこういうことだったのかと、後になってようやく分かってくることがあります。
場合によっては、旅を終えてから何年もたって、何かのきっかけで自分の旅を振り返り、そのとき初めて、かつての旅が意味していたものに気づくこともあるでしょう。もしかすると、何十年も後の、人生が終わる間際になって、ようやく何かが腑に落ちることもあるのかもしれません。
これは旅に限った話ではないのでしょうが、現在の自分にとっては未知で、それが何なのか、どんな意味があるかも分からないような新奇なプロセスが人生に起ころうとしているとき、今の自分の境界を超えた向こうからやってくるその「何か」は、自分の言葉では説明できない、微妙でモヤモヤしたものだとしか感じられないはずです。
そしてそれは、旅というプロセスが進行し、その「何か」が次第に姿を現し、やがて自分の一部としてなじみあるものへと変わっていくなかで初めて、自分なりに理解し、言葉で語れるようになっていくのです。
だとすれば、それが自分の人生にとって全く新しい旅であればあるほど、何のために旅に出るのか、その旅がどんなものになるのか、出発の段階では、自分でも説明できるわけがないのかもしれません。
そしてそんなとき、旅人は、自分でもまだよく分からないし、現時点ではそう表現するしかないのだ、という意味で、とりあえずピラミッドに上りたいとか、ガンジスを下ってみたいとか、何とも即物的で子供っぽい言い方をしてしまうのではないでしょうか。
ずいぶんとややこしい説明になってしまいました。いかにも、ヒマを持て余した旅人の屁理屈といった感じです。
村上氏のように、そのよく分からない旅への衝動を、「理由のつけられない好奇心」と呼べば、ひとことで済んだのですが……。
JUGEMテーマ:旅行
2010.03.18 Thursday
私の知らない私の仲間
昨日、こんな面白い記事を読みました。
これまで、人間の遺留物から個人を特定する技術といえば、指紋とか遺伝子とか、身体的な特徴の違いを利用するものでしたが、各個人にくっついている細菌のパターンに着目するというのは、かなり斬新な発想です。
上の記事では、こうした研究が犯罪捜査に役立つ可能性に焦点が当てられていますが、同じトピックを扱った WIRED VISION の記事では、「超個体」としての人間、つまり、「人間は、微生物とヒトの細胞の複合体」であるという新しい人間観にも触れられていて、個人的には、こちらの方が興味深い問題だと思います。
WIRED VISION 【人は超個体:「キーボード上の細菌群」から個人を特定】
なんでも、生きている人間は常に、500種を超える100兆以上の細菌群を引き連れているそうで、その細菌の構成パターンには、個人によるはっきりとした違いがあるらしいということです。
どうしてそのような違いが生まれるのか、また、そのパターンが時間とともにどれくらい変化するものなのか、これらの記事の中では触れられていませんが、もしかすると、個人の体質の違いや健康状態、食生活や仕事などの生活習慣、あるいは居住環境みたいなものも影響しているのかもしれません。
それにしても、どんな人間でも、人間以外の膨大な数の生き物と一緒に暮らしているというのは、考えてみればとても面白いことです。
それはペットみたいに、自分の意思で一緒にいるわけではないし、小さすぎて見えないし、見知らぬやつらではあるけれど、自分と彼らが、この体の上で一種の生態系を形成し、運命を共にしている(?)のだと思うと、彼らに対して何となく仲間意識のようなものさえ感じられます。
もっとも、微生物たちを「彼ら」とか「仲間」だとか思うのは、それがあくまで自分以外の他者だという見方に基づいているわけで、「人間は、微生物とヒトの細胞の複合体」だと考えるなら、細菌たちも「私」であるというべきなのかもしれません。
ところで、上の記事にもあるように、こうした細菌群は、人間が握手したりすると、人から人へと移動していくようです。
人間にとって、握手というのは友好のサインではありますが、ミクロの世界では、そのたびに数え切れないほどの細菌たちが民族大移動みたいに移動し、新しい「移民」の細菌たちが、新天地への定住をめぐって、古株の「先住者」たちと激しいバトルを繰り広げたりしているのでしょうか。
あまり想像したくない光景ですが……。
JUGEMテーマ:ニュース
【付着した細菌で触った人を特定…米大チーム】
物に付着した細菌の種類を調べることで、それを主に誰が触ったかを特定する技術を、米コロラド大の研究チームが開発し、16日付の米科学アカデミー紀要で発表した。
指紋が残りにくい布などからも検出でき、犯罪捜査に利用できる可能性があるという。
手に付着している細菌の種類には個人差が大きい。研究チームは、大学内の同じ建物で働く職員9人のパソコンを12時間、誰も触らない状態で放置した後に、マウスから細菌を採取。約270人を対象に比較した結果、残っていた細菌の組み合わせは持ち主だけとほぼ一致した。
研究チームによると、手のひらには約150種類の細菌がいて、2人の人間の手のひらに共通する種類は平均して13%程度。検出された細菌の組み合わせによって誰が触ったかを高い確率で推測できるという。
平松啓一・順天堂大教授(感染制御科学)の話「細菌の個人差に注目した点は面白い。ただ、細菌は握手をすれば人から人へ移る。犯罪捜査に使うには、握手をする習慣があるかどうかといった文化的背景の違いも影響するだろう」
(読売新聞 2010年3月17日)
これまで、人間の遺留物から個人を特定する技術といえば、指紋とか遺伝子とか、身体的な特徴の違いを利用するものでしたが、各個人にくっついている細菌のパターンに着目するというのは、かなり斬新な発想です。
上の記事では、こうした研究が犯罪捜査に役立つ可能性に焦点が当てられていますが、同じトピックを扱った WIRED VISION の記事では、「超個体」としての人間、つまり、「人間は、微生物とヒトの細胞の複合体」であるという新しい人間観にも触れられていて、個人的には、こちらの方が興味深い問題だと思います。
WIRED VISION 【人は超個体:「キーボード上の細菌群」から個人を特定】
なんでも、生きている人間は常に、500種を超える100兆以上の細菌群を引き連れているそうで、その細菌の構成パターンには、個人によるはっきりとした違いがあるらしいということです。
どうしてそのような違いが生まれるのか、また、そのパターンが時間とともにどれくらい変化するものなのか、これらの記事の中では触れられていませんが、もしかすると、個人の体質の違いや健康状態、食生活や仕事などの生活習慣、あるいは居住環境みたいなものも影響しているのかもしれません。
それにしても、どんな人間でも、人間以外の膨大な数の生き物と一緒に暮らしているというのは、考えてみればとても面白いことです。
それはペットみたいに、自分の意思で一緒にいるわけではないし、小さすぎて見えないし、見知らぬやつらではあるけれど、自分と彼らが、この体の上で一種の生態系を形成し、運命を共にしている(?)のだと思うと、彼らに対して何となく仲間意識のようなものさえ感じられます。
もっとも、微生物たちを「彼ら」とか「仲間」だとか思うのは、それがあくまで自分以外の他者だという見方に基づいているわけで、「人間は、微生物とヒトの細胞の複合体」だと考えるなら、細菌たちも「私」であるというべきなのかもしれません。
ところで、上の記事にもあるように、こうした細菌群は、人間が握手したりすると、人から人へと移動していくようです。
人間にとって、握手というのは友好のサインではありますが、ミクロの世界では、そのたびに数え切れないほどの細菌たちが民族大移動みたいに移動し、新しい「移民」の細菌たちが、新天地への定住をめぐって、古株の「先住者」たちと激しいバトルを繰り広げたりしているのでしょうか。
あまり想像したくない光景ですが……。
JUGEMテーマ:ニュース
2010.03.11 Thursday
旅の名言 「ほとんど全てのアメリカ人が……」
サグ・ハーバーの私の庭で、大きなオークの木々の下に完全装備のロシナンテ号が堂々と鎮座すると、ご近所からは面識のない人たちまで集まってきた。彼らの瞳の中には、ここから飛び出したい、どこでもいいから旅立ちたいという熱望があった。その後国じゅうで出会うことになった目つきだ。
いつか旅に出たいとどれほど願っているか、彼らは無言のうちに語っていた。自由で束縛されず、解き放たれてあてもなくさすらいたいのだと。私が訪れた全ての州でそんな眼差しと出合ったし、切なる声を耳にした。ほとんど全てのアメリカ人が、さすらうことに飢えているのだ。
『チャーリーとの旅』 ジョン スタインベック ポプラ社 より
この本の紹介記事
ノーベル賞作家ジョン・スタインベック氏のアメリカ一周旅行記、『チャーリーとの旅』からの引用です。
旅立ちを前に、彼が特注したキャンピングカー「ロシナンテ号」が家に届けられたとき、その新車をひと目見ようと、近所からたくさんの人が集まってきました。
キャンピングカーを熱いまなざしで見つめる彼らの瞳の中に、スタインベック氏は「ここから飛び出したい、どこでもいいから旅立ちたいという熱望」を感じるのですが、彼はその後、旅先でも同じまなざしに何度も出合うことになったのでした。
彼によれば、「ほとんど全てのアメリカ人が、さすらうことに飢えている」のであり、その機会さえ与えられるなら、彼らは「自由で束縛されず、解き放たれてあてもなくさすらいたい」のです。
とはいえ、ほとんどの場合、彼らには他にしなければならない日常の義務があり、守らなければならない人やモノがあり、現在手にしている安定した生活を失いたくないという思いがあるはずです。あるいは、いっときの気まぐれで、先の見えない放浪に人生を賭けてしまうことへの恐れもあるでしょう。
いくら旅に憧れていても、スタインベック氏のように心の衝動に従い、さすらいの旅を実行に移す人はほとんどいないはずです。しかし、だからこそ彼らは、自分たちの心の奥に疼く切なる思いを実現させたヒーローとして、彼とそのキャンピングカーに熱いまなざしを向けるのでしょう。
考えてみれば、現代のアメリカという国を作り上げたのは、大航海時代以降に、さまざまな国から夢を抱いてやってきた移民たちです。そしてアメリカの先住民もまた、はるか昔、新天地をめざしてアジアからの長い旅を続けた人々の末裔であると言われています。もしかすると、アメリカ人の心の中には、他の国の人々以上に、未知の土地に対する憧れのようなものが強く息づいているのかもしれません。
もっとも、旅への衝動自体は、アメリカ人の専売特許ではありません。スタインベック氏も、同じ本の中で、人類はもともと「移動する種族」であり、土地に対する執着よりも、「ここではないどこかに行きたいという衝動の方がより大きくて古くて深いものだ」と書いています。
旅の名言 「ここではないどこかに行きたいという……」
駅の構内を行きかう人々の群れに、あるいはテレビに映し出されるエキゾチックな風景に、つい旅心をくすぐられてしまうとき、私たち人類のすべてが心の奥底に抱え持っている、古くて深い衝動が、目を覚ましかけているのかもしれません。
JUGEMテーマ:旅行
2010.03.05 Friday
『漂海民バジャウの物語 ― 人類学者が暮らしたフィリピン・スールー諸島』
評価 ★★★☆☆ 読むだけの価値はあります
この本の著者で人類学者のハリー・アルロ・ニモ氏は、1960年代に、漂海民バジャウ(サマ・ディラウト)のフィールド調査のため、フィリピン南部のスールー諸島に約2年間滞在しました。
彼はそこで、バジャウの日常言語であるサマ語を覚え、自らも家舟に住んで彼らのコミュニティに加わり、ときには彼らの漁に同行したり、慶弔の儀礼に立ち会ったりしながら、さまざまな調査を行いました。
ニモ氏は、その人類学的な成果について、すでに何冊かの本にまとめていますが、この本では、そうした客観的でアカデミックな研究からはこぼれ落ちてしまっていたもの、つまり、人類学者である以前に、彼が一人の人間としてスールーの人々に向きあうなかで体験し、彼自身の人生にも大きな影響を与えた、いくつもの印象深いエピソードが取り上げられています。
そこには、家舟に暮らし、魚群を追って島々をさすらうバジャウの人々を中心に、フィリピン人や中国人、アメリカ人など、スールー諸島に暮らすさまざまな人間が登場します。
なかでも、過酷な運命に翻弄され、アウトサイダーとして孤独に生きるなかで、人を信じることができなくなってしまった中国人商人の話(「ラム」)、恋多きバジャウの歌姫の出奔とその結末(「サランダの歌」)、クリスチャンとしての強い信仰に支えられ、人生の残り時間を辺境の人々への医療の普及に捧げたフィリピン人シスターの話(「それぞれの神へ」)、スールー海の人々に恐れられる一方で、フィリピン政府への反抗の象徴として地元の英雄でもあった一人の海賊との友情を描いた話(「アマック」)は、読んでいて深く心に沁みました。
美しいスールーの自然を背景に展開するこれらのエピソードは、「物語」と呼ぶにふさわしく、どこかおとぎ話のような印象さえ受けます。そして、そこからは、生きることの切なさ、哀しみのようなものが伝わってきます。
もちろんそれは、これらの物語が、若い頃のニモ氏自身の体験を回想する昔語りであること、また、彼の世界観に基づいて体験を解釈・再構成し、物語として意識的にまとめ直したからということがあるのでしょう。
ただ、この本に心を打たれるのは、それが単なる昔の思い出にとどまらず、そこに、感受性豊かな彼が青年時代にスールーで目にしたありのままの生と死、喜びや悲しみ、人々が知恵と持てる限りの手段を駆使して精一杯に生きる姿が、シンプルに、かつ繊細な配慮をもって描かれているからなのだと思います。
また、この作品は、異文化の中で暮らしながら、現地の慣習やモノの見方に完全に巻き込まれることなく、アウトサイダーとしてさまざまな出来事に中立的に向きあえる旅人の特権的な立場や、その代償としての孤独やストレス、そして、旅人の宿命として避けることのできない人々との別れについて、一人の人類学者の内面を通して描いた、優れた旅行記でもあります。
ニモ氏の滞在後しばらくして、スールーの島々は開発の波に飲みこまれたばかりか、激しい内戦の舞台にもなってしまいました。この本の最終章には、後に現地を再び訪れた彼が、そこに見たものが描かれています。
それは、とても悲しい光景でした。
1960年代に、ニモ氏がそこで確かに目にしたひとつの世界は、すでにこの世から消え去ってしまい、私たちはもう二度と目にすることができません。この本のエピソードが、どこかおとぎ話のように感じられてしまうのは、それが私たち読者には手の届くことのない、遠い別世界の出来事だと分かっているからなのかもしれません。
本の評価基準
以下の基準を目安に、私の主観で判断しています。
★★★★★ 座右の書として、何度も読み返したい本です
★★★★☆ 一度は読んでおきたい、素晴らしい本です
★★★☆☆ 読むだけの価値はあります
★★☆☆☆ よかったら暇な時に読んでみてください
★☆☆☆☆ 人によっては得るところがあるかも?
☆☆☆☆☆ ここでは紹介しないことにします
JUGEMテーマ:読書
この本の著者で人類学者のハリー・アルロ・ニモ氏は、1960年代に、漂海民バジャウ(サマ・ディラウト)のフィールド調査のため、フィリピン南部のスールー諸島に約2年間滞在しました。
彼はそこで、バジャウの日常言語であるサマ語を覚え、自らも家舟に住んで彼らのコミュニティに加わり、ときには彼らの漁に同行したり、慶弔の儀礼に立ち会ったりしながら、さまざまな調査を行いました。
ニモ氏は、その人類学的な成果について、すでに何冊かの本にまとめていますが、この本では、そうした客観的でアカデミックな研究からはこぼれ落ちてしまっていたもの、つまり、人類学者である以前に、彼が一人の人間としてスールーの人々に向きあうなかで体験し、彼自身の人生にも大きな影響を与えた、いくつもの印象深いエピソードが取り上げられています。
そこには、家舟に暮らし、魚群を追って島々をさすらうバジャウの人々を中心に、フィリピン人や中国人、アメリカ人など、スールー諸島に暮らすさまざまな人間が登場します。
なかでも、過酷な運命に翻弄され、アウトサイダーとして孤独に生きるなかで、人を信じることができなくなってしまった中国人商人の話(「ラム」)、恋多きバジャウの歌姫の出奔とその結末(「サランダの歌」)、クリスチャンとしての強い信仰に支えられ、人生の残り時間を辺境の人々への医療の普及に捧げたフィリピン人シスターの話(「それぞれの神へ」)、スールー海の人々に恐れられる一方で、フィリピン政府への反抗の象徴として地元の英雄でもあった一人の海賊との友情を描いた話(「アマック」)は、読んでいて深く心に沁みました。
美しいスールーの自然を背景に展開するこれらのエピソードは、「物語」と呼ぶにふさわしく、どこかおとぎ話のような印象さえ受けます。そして、そこからは、生きることの切なさ、哀しみのようなものが伝わってきます。
もちろんそれは、これらの物語が、若い頃のニモ氏自身の体験を回想する昔語りであること、また、彼の世界観に基づいて体験を解釈・再構成し、物語として意識的にまとめ直したからということがあるのでしょう。
ただ、この本に心を打たれるのは、それが単なる昔の思い出にとどまらず、そこに、感受性豊かな彼が青年時代にスールーで目にしたありのままの生と死、喜びや悲しみ、人々が知恵と持てる限りの手段を駆使して精一杯に生きる姿が、シンプルに、かつ繊細な配慮をもって描かれているからなのだと思います。
また、この作品は、異文化の中で暮らしながら、現地の慣習やモノの見方に完全に巻き込まれることなく、アウトサイダーとしてさまざまな出来事に中立的に向きあえる旅人の特権的な立場や、その代償としての孤独やストレス、そして、旅人の宿命として避けることのできない人々との別れについて、一人の人類学者の内面を通して描いた、優れた旅行記でもあります。
ニモ氏の滞在後しばらくして、スールーの島々は開発の波に飲みこまれたばかりか、激しい内戦の舞台にもなってしまいました。この本の最終章には、後に現地を再び訪れた彼が、そこに見たものが描かれています。
それは、とても悲しい光景でした。
1960年代に、ニモ氏がそこで確かに目にしたひとつの世界は、すでにこの世から消え去ってしまい、私たちはもう二度と目にすることができません。この本のエピソードが、どこかおとぎ話のように感じられてしまうのは、それが私たち読者には手の届くことのない、遠い別世界の出来事だと分かっているからなのかもしれません。
本の評価基準
以下の基準を目安に、私の主観で判断しています。
★★★★★ 座右の書として、何度も読み返したい本です
★★★★☆ 一度は読んでおきたい、素晴らしい本です
★★★☆☆ 読むだけの価値はあります
★★☆☆☆ よかったら暇な時に読んでみてください
★☆☆☆☆ 人によっては得るところがあるかも?
☆☆☆☆☆ ここでは紹介しないことにします
JUGEMテーマ:読書
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