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『メメント・モリ』
評価 ★★★☆☆ 読むだけの価値はあります
「メメント・モリ」とは、「死を想え」という意味のラテン語で、自分がいつか必ず死ぬ定めにあることを、常に思い起こさせるための警句として、欧米の人々の間で広く用いられてきました。
ウィキペディア 「メメント・モリ」
写真家・作家の藤原新也氏は、この写真集を通じて、「死」という重いテーマに真正面から取り組んでいます。本の冒頭でも触れられているように、そこには、人間が生きて死んでいくという当たり前の現実に対する実感が薄れ、「生きていることの中心」が見えなくなりつつある昨今の世の中に対する、深い危機感があります。
とはいっても、この作品には、こういうテーマにありがちな難解さや、敷居の高さみたいなものはありません。彼自身がインドやチベットなど、アジア各地で撮り続けてきた写真の数々に、ぶっきらぼうにも思えるような、ごく短い言葉が添えられているだけなので、誰でも簡単に読み通すことができるのではないでしょうか。
ただ、この写真集の内容に、感情的な抵抗を覚える人がいるだろうことは想像できます。
例えば、インドの河岸で死体が焼かれていたり、水に流された死体が犬に喰われている光景、あるいは野ざらしの白骨などを見て、人によっては刺激が強すぎると感じたり、心がざわついたりするかもしれません。また、写真に添えられた藤原氏の言葉が、あまりにもストレートで過激に感じられるかもしれません。
あるいは逆に、一見無造作に撮っただけのような、農村や自然の地味な風景に、むしろ刺激のなさや退屈さを覚えてしまう人もいるかもしれません。
言い方を変えれば、藤原氏の写真は、ほとんどの人が目をそむけたり、見なかったことにしたいと思うようなものとか、常に私たちの身近にありながら、カメラを向ける価値などないと思い込んでいるものを、あえて映し出しているように見えます。
しかし、この本を何度か見返し、その写真や言葉を反芻しているうちに、藤原氏がただ奇をてらってそうしたというよりは、人間にとって当たり前の現実をシンプルに写し取ったに過ぎず、むしろ、そういうものに目を向けないように仕向けている世の中の方が、どこか変なのではないかと思えてくるのではないでしょうか。
この本に衝撃を受けることがあるとすれば、それは、「生も死もそれが本物であればあるだけ、人々の目の前から連れ去られ、消え」てしまう「今のあべこべ社会」に生きている私たちが、これまでどこかに隠され、避けられ、無視され続けてきたものを改めて目にするからであり、私たちがその体験に慣れていないからなのかもしれません。
そういう意味では、この写真集は、今私たちが生きているこの「あべこべ社会」で見失いがちな現実に気づくための、ささやかな窓なのだと思います。
この本を開いているあいだ、私たちは藤原氏の目と、彼の「等身大の実物の生死を感じる意識」を借りることができます。
そして、本を閉じたあとも、その目と意識を保って自分の周囲を見回すことができるようになれば、わざわざインドやチベットまで行かなくても、「現実」はどこにでも見出せること、それはいつもそこにあるのに、私たちのこれまでの習慣が、それをシャットアウトしていただけなのだと気づくのではないでしょうか。
何だか理屈っぽいことを偉そうに書いてしまいました。すみません。
この本の感じ方は人それぞれだと思います。もちろん、こんな風に頭で余計なことを考える必要もありません。とにかくこの写真集をひととおり眺めてみるだけでも意味があると思います。
本の評価基準
以下の基準を目安に、私の主観で判断しています。
★★★★★ 座右の書として、何度も読み返したい本です
★★★★☆ 一度は読んでおきたい、素晴らしい本です
★★★☆☆ 読むだけの価値はあります
★★☆☆☆ よかったら暇な時に読んでみてください
★☆☆☆☆ 人によっては得るところがあるかも?
☆☆☆☆☆ ここでは紹介しないことにします
JUGEMテーマ:読書
おかげさまで40,000アクセス
30,000アクセス到達からここまで約10カ月かかっていて、だいたい1年で1万アクセスというペースは変わっていないようです。
これまでに当ブログを訪ねてくださった皆様に、心よりお礼申しあげます。
どうもありがとうございました。
つい先日も、4周年ということで、今後の抱負というか、生ぬるい決意のようなものを書いたのですが、とにかく無理せず、でも少しは新しい方向性を探りつつ、このブログを続けていきたいと思っております。
今後とも、このブログをよろしくお願いいたします。
JUGEMテーマ:日記・一般
『森の回廊』
特に、ビルマ北部のカチン州の奥地を日本人が訪ねたのは、吉田氏が戦後初めてのことで、この本は、日本ではほとんど知られていないカチンの人々の暮らしを伝える貴重な記録となっています。そして、それ以上に、内戦地域の「森の回廊」をひたすら歩き続けた、長く苦しい旅の記録でもあります。
彼はビルマ潜入後、まず、カヤー州から北上するカチン独立軍の部隊とともに、シャン州を縦断してカチン州をめざすのですが、ビルマ政府軍の執拗な追撃を逃れながら、雨季の山中を進むその旅は困難をきわめ、直線距離で約550キロを移動するのに7か月もの時間がかかっています。
カチンの人々の共通言語であるジンポー語を習得した吉田氏は、カチン州に到着後もゲリラ戦の現場や内戦の傷跡を取材するのですが、そこは第二次世界大戦当時、インドから中国への軍需物資輸送ルート「レド公路」をめぐって、連合国側と日本軍が死闘を繰り広げた舞台でもありました。彼はそこで、何十年も続く内戦の苦しみばかりではなく、人々の記憶に焼きついた、かつての戦争の傷跡にも直面することになります。
一方で、彼は州内の各地方にも出向き、山中の村々を泊まり歩きながら、焼畑農耕に生きる人々の暮らしや氏族社会の強固な絆、彼らの神話や精霊信仰の祭り、シャーマンによる心霊治療など、カチンの人々の生活文化も精力的に取材しています。
彼はマラン・ブラン・ジャーというカチンの名前を与えられ、カチン州に2年余り滞在するのですが、そろそろタイに戻ろうという頃になって、彼は重いマラリアに罹って動けなくなり、やがて意識不明の状態に陥ってしまいます。
生死の境をさまよう吉田氏が回復するきっかけとなったのは、かつて取材した高名なシャーマンによる心霊治療でした。
その後も彼の苦難は続くのですが、旅行記としてこの本を読まれる方のために、内容の紹介はこのあたりまでにしておきます。
数年にわたる濃密な旅を描くにあたって、紙面の制約もあってか、吉田氏は現地の実情を伝えることに徹していて、その筆致も淡々としているのですが、それでも文章の端々に、想像を絶する旅の困難が見え隠れしています。
彼が旅をした内戦地域では、そこにいる誰もが生命の危険にさらされていたことは言うまでもありませんが、戦況・地形・気候・体調による移動の制約に加えて、どこへ行くにも反政府ゲリラのエスコートが必要という状況では、自由な形での取材や旅は非常に難しかったはずです。
また、決して豊かとはいえない食事、不十分な装備、ほとんど不可能に近い国外との連絡、たった一人の日本人として味わう深い孤独、そして医療体制の不十分な山中での重い病……。旅の苦しさを挙げていけばきりがありません。
それほど困難な旅を、吉田氏に最後まで続けさせたものは、一体何だったのでしょうか。
そこには、これまで外部にほとんど知られていなかった、カチンの人々の声を代弁したいという使命感があっただろうし、一度旅を始めてしまったら、何があっても自分の足で最後まで歩き抜く以外に、生還できる手段がなかったこともあるでしょう。
しかしそれ以上に、取材というレベルをはるかに超えて、誇り高く生きる山の民の暮らしに積極的に溶け込み、彼らから真剣に学び、彼らの生き方に心から共感する姿勢なしには、長い旅をまっとうするのは難しかったのではないかと思います。
とはいえ、必要最低限のモノだけで生きる山の暮らしは、文字通りの質実剛健です。この本で紹介されるカチンの人々の暮らしぶりも、多くの読者にとっては非常に地味に見えてしまうのではないでしょうか。少なくとも、私にとってはそうでした。
ただ、そこには、乾季の終わりの焼畑の火入れに始まり、種まき、雨季の草取り、そして乾季の収穫と農閑期の狩猟という、一年を通じた生活の循環があり、それは気の遠くなるような時間の流れの中でひたすら繰り返されてきた、人類の基本的な生活パターンと言うべきものです。
そこには、吉田氏のように現地に長期間滞在し、生活を共にすることによって、初めて心の奥深くから実感できる何かがあるのでしょう。そして、それはきっと、いくら言葉を重ねても、何枚の写真を並べても、伝えきれない性質のものなのだろうという気がします。
吉田氏の旅の後、ビルマ政府軍とカチン独立軍とは停戦し、その状況は現在も続いています。ちなみに、以前にこのブログで紹介した高野秀行氏の『西南シルクロードは密林に消える』の中には、カチン州をめぐる最近の状況が詳しく描かれています。
ただ、カチンの人々を始め、ビルマで民族自決への闘争を続けるそれぞれの少数民族に、いつか自治と平和を手にする日が来るとしても、それとは別に、彼らが遅かれ早かれ、世界中を覆いつくそうとするグローバリゼーションの波に直面するのは避けられません。
グローバリゼーションが、必ずしも悪いことばかりだとは思いませんが、彼らがこれまで命懸けで守り抜こうとしてきた伝統的な生活文化や人々のつながりが、劇的な変化に見舞われるのは確実です。そして、彼らがこれから迎えるに違いないそうした試練を思うと、何ともいえない切なさを覚えるのです。
この本に描かれているのは、もう20年以上も前の旅だし、ビルマをめぐる状況はその後大きく変化しています。それでも、カチン州などの辺境地域を旅した外国人は今なお非常に限られているだけに、この本は現地の貴重な報告として、また、類まれな旅行記として、今後も読み継がれていく価値があると思います。
本の評価基準
以下の基準を目安に、私の主観で判断しています。
★★★★★ 座右の書として、何度も読み返したい本です
★★★★☆ 一度は読んでおきたい、素晴らしい本です
★★★☆☆ 読むだけの価値はあります
★★☆☆☆ よかったら暇な時に読んでみてください
★☆☆☆☆ 人によっては得るところがあるかも?
☆☆☆☆☆ ここでは紹介しないことにします
JUGEMテーマ:読書
おかげさまで4周年
いちおう「旅」というメインテーマを掲げ、私自身の旅の思い出話とか、旅に関する本の紹介とか、本の中に見つけた旅の名言とか、そのほか、日々の生活の中で思ったり考えたりしたことを適当に綴ってきました。
最初の頃とくらべると、記事を書くペースはかなり落ちましたが、途中、大きな中断もなく、今でも何とか続いています。
これまで、このブログを訪れ、記事を読んでくださった皆様に、心からお礼申し上げます。
どうもありがとうございました。
ブログを始めたばかりの頃は、ブログというものは頻繁に更新しなければいけないという思い込みがあって、けっこう無理をして、毎日のように記事を書いていました。
最近になってようやく、月に数回、平均すると一週間に一回くらいのペースで記事を書けば、自分にとって負担にならないことが分かってきました。
ちょっと気づくのが遅すぎましたが、とりあえず気がついただけでも良しとして、今後はだいたいこのペースで続けていこうと思っています。
最近では、ツイッターのように、もっと短い文章を、リアルタイムで何度も投稿するミニブログが人気のようですが、私は歳のせいか、その面白さがいまひとつ実感できないのと、一度始めたら生活がとめどなくせわしくなりそうで、手を出せずにいます。
とはいえ、多くの人が面白いと思うことには、それなりの理由があるはずです。あまり食わず嫌いをしているわけにもいかないでしょう。加速する一方の世界の動きについていくために、今後の状況次第では、私も何か新しいことを始める必要に迫られるかもしれません……。
まあ、それは別にしても、このブログがマンネリ気味になっていることは常に感じています。記事の内容や文章についてはもっと試行錯誤が必要だし、それ以前の問題として、自分の好奇心が向かう先を、もう少し広げる必要があると思っています。
しかし、固定化した習慣を変えていくのは、口で言うほど簡単ではありません。自ら習慣を変えようとするときの困難の大きさについては、これまでの経験から骨身に沁みています。
というわけで、あまりがんばり過ぎない程度に、少しずつ進んでいきたいと思います。
こうやって、自分でハードルを下げようとするのも歳のせいでしょうか……。
今後とも、このブログをどうぞよろしくお願いいたします。
JUGEMテーマ:日記・一般
不気味ロボット量産化?
【どっちが本物?人そっくりのロボット開発】
実在の若い女性にそっくりの遠隔操作型アンドロイド(人間型ロボット)「ジェミノイドF」を、石黒浩・大阪大教授らの研究グループが開発。大阪市内で3日、公開した。
表面はシリコーンゴムで、微笑や不快な表情などを自然に見えるように再現。アンドロイドと、モデルになった20歳代の女性が並ぶと、表情もよく似ていて驚くほど。実演では、モデル女性が話すと、口の動きと音声がパソコンで解析されてアンドロイドへ瞬時に伝えられ、同じように話すことに成功した。
科学館の受付などの利用が考えられ、製作会社が、注文に応じて同じタイプを一体約1000万円で来月から販売する。
(読売新聞 2010年4月4日)
女性の外観をリアルに再現したロボットについては、一年ほど前に産総研が二足歩行ロボット「HRP−4C」を発表していますが、今回は歩行タイプではなく、リアルな顔の表情の再現とその遠隔操作に特化しています。
You Tube などで映像を見てみたところ、モデルとなった人間の女性と比べると、ロボットの方は顔が全体的にこわばっているし、動きにもぎこちなさが残るので、「どっちが本物?」と迷うほどではありませんが、ちょっと薄暗い場所に「ジェミノイドF」が座っているのを少し遠くから見たりすれば、生きている人間と見間違える可能性はかなりあると思います。
最近のテクノロジーの進化のスピードには、ただただ驚くばかりです。
しかも、このロボットに関しては、小型軽量化とコストダウンによる量産化をめざしているようで、試作のレベルからさらなる一歩を踏み出そうとする、エンジニアの本気さを感じます。
しかし一方で、一年前に「HRP−4C」を見たときに感じた違和感や不気味さが、この「ジェミノイドF」にも感じられます。その不気味さの理由については、以前、このブログにも書いたのですが、同じ理由が、今回も、さらにはっきりと当てはまるような気がします。
それに、遠隔操作できるアンドロイドといっても、私にはあまり実用的な使い道が思い浮かびません。
遠隔操作するということは、ロボットとペアになった人間のオペレーターが常に必要になるわけで、ロボットを会社や博物館の受付嬢として使うにしても、人件費の節約にはならないし、わざわざアンドロイド経由で客とやりとりするなら、人間同士が直接対応すればいいような気がします。
また、遠隔地の会議などで本人の代理になる、という使い道も考えられているようですが、これについても、テレビ会議システムで本人の画像を送る方がもっと簡単で実用的です。
そう考えていくと、やはりこの「ジェミノイドF」についても、「HRP−4C」同様、具体的な使い道とかビジネス上の見通しうんぬんの前に、まずはとにかく人間そっくりのロボットを作ってみたいという、エンジニアの熱い情熱が先にあったような気がします。
そして、量産化にあたって、白いヒゲを生やしたお爺さんロボでもなく、暑苦しいオッサン・ロボでもなく、やはり若い女性タイプのロボットが選ばれたというところに、エンジニアの方々の、やや暴走気味の「男のロマン」を感じずにはいられません。
永遠の若さと美しさを保ちつつ、自分に忠実でコントロールも可能という、男にとっていいことづくめの女性を生み出したいという、男たちの切なる願いと挑戦、そしてこれまでの長い歴史において、常に無残な失敗を続けてきたその熱き野望は、これによって新しい歴史の扉を開くことができるのでしょうか……。
ただ、量産化といっても、現在は一体1000万円なので、ユーザー側としても、これを買うだけの実用的な理由や強い動機が必要でしょう。それでも、量産化のプロセスがどんどん進み、やがて非常に安価に製造できる時代がくれば、「実用」という制約からも自由になって、現在の私たちの想像を超えるような、全く新しい使い道が生み出されることになるかもしれません。
もっとも、それが「男のロマン」に基づく発想である限り、あまり立派な使い道にはならないような気がしますが……。
それはともかく、ロボットが間違いなく今以上に普及する近未来、私が運よく長生きできたとして、病院のお世話になったり介護を受けたりするようなことがあれば、そこにはきっと、人手不足を補うため、あるいは「癒し」を目的として、たくさんのアンドロイドたちが働いていることでしょう。
いくらアンドロイドが人間そっくりだとしても、結局のところ、それは人間ではないのですが、彼らはたぶん、私たち人間よりもずっと忠実に尽くしてくれることでしょう。それに、その頃までには、テクノロジーの進歩のおかげで、人間とアンドロイドとの境界は、見分けがつかないほど微妙なものになっている可能性もあります。
そんなロボットたちに囲まれて生きるのは楽しいことなのか、寂しいことなのか、ひたすら不気味なことなのかは、実際に、自分自身がその状況に置かれてみないと分からないのかもしれません……。
記事 「不気味ロボット」
JUGEMテーマ:ニュース
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