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2010.05.30 Sunday
『デルス・ウザラ』
評価 ★★★☆☆ 読むだけの価値はあります
この本の著者、ウラディミール・アルセニエフ氏はロシアの探検家で、20世紀初頭のロシア極東地域の探査で有名です。この探検記には、その何回にも及ぶ探査の一つ、1907年の夏から翌年まで、約半年にわたって続けられた沿海地方への旅が描かれています。
彼は数名の兵士を率いて、シホテ・アリニ山脈から日本海へと流れ下る、いくつもの川の流域を丹念に調査しました。
それは、沢を水源まで溯っては、別の沢をたどって海に戻るという、一見地味な作業の繰り返しです。しかし、厳しい気候と自然環境に加えて、装備も連絡手段も現地の情報も、今とは比較にならないほど貧弱だったこともあり、それは生易しい旅ではありませんでした。
一行は、あまりの豪雨に遭難しかけたり、渡河に失敗して激流に呑み込まれそうになったり、装備や食糧を運んでいた船が行方不明になったり、野営が虎に襲われたりと、次から次へと深刻なトラブルに巻き込まれます。
それは、いかにも探検記らしいスリルに満ちていて、読んでいて飽きません。ただ、もしもそれだけであったなら、今なお多くの人々が、この本を手に取ることはなかったのではないでしょうか。
探検隊には、ツングース系少数民族ゴリド人(ナナイ人)の年老いた猟師、デルス・ウザラがガイドとして同行していたのですが、彼の活躍と、その人柄が発する魅力こそが、この本を際立たせ、当時よりも、むしろ現代において、多くの人々の心に響く作品になっているのではないかと思います。
デルス老人は、狩猟にすぐれていたばかりでなく、人間や動物の残したわずかな痕跡から驚くべき正確さで状況を推測し、天候の変化を的確に読み、必要なモノをそのつど手近な材料だけで作り上げてしまうなど、並外れた能力を発揮して探検に貢献し、ときにはアルセニエフ氏の命をも救って、困難続きの一行にとっての力強い支えになりました。
この本では、そうしたさまざまなエピソードを通して、密林(タイガ)とともに生き、その自然を知り尽くした彼の活躍が描かれるとともに、アルセニエフ氏との何気ない会話や行動の端々に現れる彼の人柄や、そのユニークな世界観が浮き彫りにされています。
彼は、森の生きものたちや自然を人間と同じように見なして、彼らに本気で話しかけます。そんな彼の言動は、そのたどたどしいロシア語のせいもあって、どこかコミカルで、まるで純朴な子供のふるまいのようにも見えます。しかし一方で、彼は老練な猟師であり、タイガの厳しい自然を、ほとんど身一つで生き抜くなかで培った能力をいかんなく発揮します。
彼は、老人でありながら子供のようでもあり、文明とは無縁な野生人のようでありながら、ときには文明人を超えるような深い知恵を示し、また、人間と他の生きものすら分け隔てることのない、他者への深い思いやりをも身につけているように見えるのです。
そんな彼の不思議な魅力が、この探検記をとても印象深いものにしています。
しかし、この本の最後で、デルス老人には悲劇的な運命が待ち受けています。彼の活躍を楽しみ、その言葉に共感を覚えていた私には、それはなんとも切なく、やるせない結末でした。
それにしても、彼らの探検の舞台であるロシアの沿海地方は、日本海をはさんだ対岸で、日本のご近所だというのに、これまで私が頭の中で日本の近隣をイメージするときには、まるでそこが存在しないかのように、すっかり空白になっていたことに気がつきました。
100年前の探検記を読むだけではなく、現在そこで、どんな人々がどんな暮らしをしているのか、もっと勉強する必要がありそうです……。
なお、この探検記をもとにした、黒澤明監督の『デルス・ウザーラ』も、心に沁みるいい映画です。機会があったらぜひご覧ください。
本の評価基準
以下の基準を目安に、私の主観で判断しています。
★★★★★ 座右の書として、何度も読み返したい本です
★★★★☆ 一度は読んでおきたい、素晴らしい本です
★★★☆☆ 読むだけの価値はあります
★★☆☆☆ よかったら暇な時に読んでみてください
★☆☆☆☆ 人によっては得るところがあるかも?
☆☆☆☆☆ ここでは紹介しないことにします
JUGEMテーマ:読書
この本の著者、ウラディミール・アルセニエフ氏はロシアの探検家で、20世紀初頭のロシア極東地域の探査で有名です。この探検記には、その何回にも及ぶ探査の一つ、1907年の夏から翌年まで、約半年にわたって続けられた沿海地方への旅が描かれています。
彼は数名の兵士を率いて、シホテ・アリニ山脈から日本海へと流れ下る、いくつもの川の流域を丹念に調査しました。
それは、沢を水源まで溯っては、別の沢をたどって海に戻るという、一見地味な作業の繰り返しです。しかし、厳しい気候と自然環境に加えて、装備も連絡手段も現地の情報も、今とは比較にならないほど貧弱だったこともあり、それは生易しい旅ではありませんでした。
一行は、あまりの豪雨に遭難しかけたり、渡河に失敗して激流に呑み込まれそうになったり、装備や食糧を運んでいた船が行方不明になったり、野営が虎に襲われたりと、次から次へと深刻なトラブルに巻き込まれます。
それは、いかにも探検記らしいスリルに満ちていて、読んでいて飽きません。ただ、もしもそれだけであったなら、今なお多くの人々が、この本を手に取ることはなかったのではないでしょうか。
探検隊には、ツングース系少数民族ゴリド人(ナナイ人)の年老いた猟師、デルス・ウザラがガイドとして同行していたのですが、彼の活躍と、その人柄が発する魅力こそが、この本を際立たせ、当時よりも、むしろ現代において、多くの人々の心に響く作品になっているのではないかと思います。
デルス老人は、狩猟にすぐれていたばかりでなく、人間や動物の残したわずかな痕跡から驚くべき正確さで状況を推測し、天候の変化を的確に読み、必要なモノをそのつど手近な材料だけで作り上げてしまうなど、並外れた能力を発揮して探検に貢献し、ときにはアルセニエフ氏の命をも救って、困難続きの一行にとっての力強い支えになりました。
この本では、そうしたさまざまなエピソードを通して、密林(タイガ)とともに生き、その自然を知り尽くした彼の活躍が描かれるとともに、アルセニエフ氏との何気ない会話や行動の端々に現れる彼の人柄や、そのユニークな世界観が浮き彫りにされています。
彼は、森の生きものたちや自然を人間と同じように見なして、彼らに本気で話しかけます。そんな彼の言動は、そのたどたどしいロシア語のせいもあって、どこかコミカルで、まるで純朴な子供のふるまいのようにも見えます。しかし一方で、彼は老練な猟師であり、タイガの厳しい自然を、ほとんど身一つで生き抜くなかで培った能力をいかんなく発揮します。
彼は、老人でありながら子供のようでもあり、文明とは無縁な野生人のようでありながら、ときには文明人を超えるような深い知恵を示し、また、人間と他の生きものすら分け隔てることのない、他者への深い思いやりをも身につけているように見えるのです。
そんな彼の不思議な魅力が、この探検記をとても印象深いものにしています。
しかし、この本の最後で、デルス老人には悲劇的な運命が待ち受けています。彼の活躍を楽しみ、その言葉に共感を覚えていた私には、それはなんとも切なく、やるせない結末でした。
それにしても、彼らの探検の舞台であるロシアの沿海地方は、日本海をはさんだ対岸で、日本のご近所だというのに、これまで私が頭の中で日本の近隣をイメージするときには、まるでそこが存在しないかのように、すっかり空白になっていたことに気がつきました。
100年前の探検記を読むだけではなく、現在そこで、どんな人々がどんな暮らしをしているのか、もっと勉強する必要がありそうです……。
なお、この探検記をもとにした、黒澤明監督の『デルス・ウザーラ』も、心に沁みるいい映画です。機会があったらぜひご覧ください。
本の評価基準
以下の基準を目安に、私の主観で判断しています。
★★★★★ 座右の書として、何度も読み返したい本です
★★★★☆ 一度は読んでおきたい、素晴らしい本です
★★★☆☆ 読むだけの価値はあります
★★☆☆☆ よかったら暇な時に読んでみてください
★☆☆☆☆ 人によっては得るところがあるかも?
☆☆☆☆☆ ここでは紹介しないことにします
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2010.05.24 Monday
旅の名言 「長い旅行にでかけるという行為には……」
たっぷりと時間をかけて車でアメリカ大陸横断旅行をしてみたいと、前々から考えていた。というか、もっと正確にいうならば、ずっと夢見ていた。「そこには何か目的があるのか?」と訊かれても困る。特別な目的なんてなにもないからだ。大西洋の波打ち際から太平洋の波打ち際まで、山を越え川を渡り、とにかくアメリカを一気に突っ切ってしまおうじゃないか――僕が望んでいたのはただそれだけのことである。「行為自体が目的である」と明快に言いきってしまえれば、それはそれでかっこいいのだろうけれど……
いずれにせよ、長い旅行にでかけるという行為には、狂気とまではいわずとも、何か理不尽なものが間違いなく潜んでいる。だいたいどうしてそんなしちめんどうなことをしなくてはならないのか? 時間もかかるし、費用だって馬鹿にならないし、それでいてけっこう疲れる。トラブルが降りかかることもある。いや、「降りかからないこともたまにある」と言ったほうが話は早いかもしれない。スクラブル・ゲームの広告のコピーはいつも「これなら家でスクラブルでもしていればよかったな」というもので、旅先でいろんな災難にあっている気の毒な旅行者の漫画が描かれている。僕はその広告を見るたびに、「そうだ。まったくそのとおりだ」と強く頷いてしまう。旅行とはトラブルのショーケースである。ほんとうに家でスクラブルでもしているほうがはるかにまともなのだ。それがわかっているのに、僕らはついつい旅に出てしまう。目に見えない力に袖を引かれて、ふらふらと崖っぷちにつれて行かれるみたいに。そして家に帰ってきて、柔らかい馴染みのソファに腰をおろし、つくづく思う。「ああ、家がいちばんだ」と。そうですね?
それはむしろ病に似ている。 (後略)
『辺境・近境』 村上春樹 新潮文庫 より
この本の紹介記事
瀬戸内海の無人島からノモンハンの戦場跡まで、さまざまな場所へのさまざまなスタイルの旅を収めた村上春樹氏の旅行記、『辺境・近境』からの一節です。
村上氏は、「アメリカ大陸を横断しよう」の章で、東の端から西の端まで、車で一気に大陸を横断する旅を描いているのですが、その旅には確固とした目的などなく、ただ、アメリカを一気に突っ切ってみたい、という思いがあるだけでした。
仕事のための出張や、ストレスから解放されるためのバカンス、あるいは冒険や探検の旅など、人が旅に出るにはそれなりの理由と目的というものがあるし、長い旅であれば、なおさらそうだと考える人は多いと思います。
実際、村上氏も書いているとおり、「旅行とはトラブルのショーケース」であり、とにかくひたすら疲れるものなので、しっかりとした目的意識がなければ、長い旅など到底やり遂げられないような気もします。
でも、私自身の経験からいっても、長い旅だからといって、そこに、人にうまく説明できるような立派な理由があるとは限りません。
むしろ旅人は、「目に見えない力に袖を引かれて、ふらふらと崖っぷちにつれて行かれるみたいに」旅に出てしまうことも多いのではないでしょうか。そんなとき旅人は、自分が一体何をしようとしているのか、自分がどこへ向かおうとしているのか、はっきりと自覚しているわけではないのです。
合理的に考えれば、それは、何か得体の知れないものに駆り立てられて、安心・安全な日常生活の安逸をみすみす放り出してしまうことであり、その見返りがトラブルと疲労ばかりなのだとすれば、そこには「狂気とまではいわずとも、何か理不尽なものが間違いなく潜んでいる」ということになるのでしょう。
たしかに、「それはどこか病に似ている」のかもしれません。
知らないうちに自分の中に忍び込み、自分自身のコントロールを奪い、辛い運命を自分に押しつけてくるとんでもない何か……。少なくとも、安心・安全を理想として生きる人にしてみれば、旅とはそういうものにしか見えないのかもしれません。
でも村上氏は、旅とは「何か理不尽なもの」が自分を駆り立て、どこか見知らぬ場所へ運び去ってしまうプロセスだということを認めつつも、それを受け入れているというか、むしろ楽しんでさえいるように見えます。
旅の中で起こるさまざまなことは、自分のコントロールを超えています。しかし、だからこそ、それはマンネリ化した生活に刺激をもたらさずにはいないし、これまでの自分の限界を超えていくような、別の視点や新たな経験も与えてくれるのではないでしょうか。
もっとも、そこで何が起こるかは予測不能であり、ときには旅人に、取り返しのつかない災難が降りかかる可能性もあります。
旅の巻き起こすプロセスを楽しむとしても、それはあくまで、旅を生き延び、帰りたい場所があるなら、そこに必ず戻ることが前提になるのでしょう。
まあ、いつか我が家に帰り着くことさえ前提とせず、常に未知へと突き進んでいかずにはいられない、完全なる旅のマニアもいるのかもしれませんが……。
JUGEMテーマ:旅行
2010.05.18 Tuesday
『全東洋写真』
評価 ★★★☆☆ 読むだけの価値はあります
この写真集は、写真家・作家の藤原新也氏が、主に青年時代にアジアで撮り続けてきた膨大な写真の中から、264点を選んで一冊にまとめたものです。
ひとくちに「東洋」といっても、西はトルコから東は日本まで、地域ごとに異なるさまざまな民族や文化や暮らしがあるわけですが、藤原氏はあえてその「多様なものを全一冊の中に混沌のまま封じ込める」ことによって、「全アジアに共通して流れる空気や時間のようなもの」を浮かび上がらせようとしています。
言葉ではなかなか伝わらない、というか、ほとんど不可能だと思えるような「空気」や時間感覚のような微妙なものが、この写真集からは確かに感じられます。写真のもつ圧倒的な力というしかありません。
ところで、藤原氏自身があとがきで触れているように、この写真集には夕暮れの薄闇をとらえたシーンが数多くあります。
「光と闇の中間のたゆたうような薄明の一時」、それは昼から夜へと移り変わる一瞬というだけでなく、対照的な二つのものがその明確な境界を失い、互いに溶け合うトワイライト・ゾーンでもあります。
この写真集を見ていると、アジア各地の風景を眺めているつもりが、いつの間にか、自分の心の奥を覗き込んでいるような感じがしてくるのですが、それは、内面と外面、現実と非現実といったような区別さえ曖昧にしてしまう、この薄明の力が大いに働いているからではないでしょうか。
そしてそれは、藤原氏自身の内面を映し出しているだけでなく、旅人の心というか、長く旅を続けるうちに自分の輪郭みたいなものが希薄になっていく、放浪者に特有の感覚を、実に巧みに表現しているようにも思います。
でもまあ、こんな風に理屈っぽく理解しようとするよりも、とにかく実際に写真を見て、そこに何かを感じることに意味があるのでしょう。
写真集の常として、購入するとなるとどうしても値段が気になってしまいますが、たとえこの本を手元に置くことができなくても、書店や図書館で見かけることがあったら、ぜひ手にとって、書棚の片隅で静かにページを繰りながら、しばしの間、アジアを感じてみてください。
本の評価基準
以下の基準を目安に、私の主観で判断しています。
★★★★★ 座右の書として、何度も読み返したい本です
★★★★☆ 一度は読んでおきたい、素晴らしい本です
★★★☆☆ 読むだけの価値はあります
★★☆☆☆ よかったら暇な時に読んでみてください
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この写真集は、写真家・作家の藤原新也氏が、主に青年時代にアジアで撮り続けてきた膨大な写真の中から、264点を選んで一冊にまとめたものです。
ひとくちに「東洋」といっても、西はトルコから東は日本まで、地域ごとに異なるさまざまな民族や文化や暮らしがあるわけですが、藤原氏はあえてその「多様なものを全一冊の中に混沌のまま封じ込める」ことによって、「全アジアに共通して流れる空気や時間のようなもの」を浮かび上がらせようとしています。
言葉ではなかなか伝わらない、というか、ほとんど不可能だと思えるような「空気」や時間感覚のような微妙なものが、この写真集からは確かに感じられます。写真のもつ圧倒的な力というしかありません。
ところで、藤原氏自身があとがきで触れているように、この写真集には夕暮れの薄闇をとらえたシーンが数多くあります。
「光と闇の中間のたゆたうような薄明の一時」、それは昼から夜へと移り変わる一瞬というだけでなく、対照的な二つのものがその明確な境界を失い、互いに溶け合うトワイライト・ゾーンでもあります。
この写真集を見ていると、アジア各地の風景を眺めているつもりが、いつの間にか、自分の心の奥を覗き込んでいるような感じがしてくるのですが、それは、内面と外面、現実と非現実といったような区別さえ曖昧にしてしまう、この薄明の力が大いに働いているからではないでしょうか。
そしてそれは、藤原氏自身の内面を映し出しているだけでなく、旅人の心というか、長く旅を続けるうちに自分の輪郭みたいなものが希薄になっていく、放浪者に特有の感覚を、実に巧みに表現しているようにも思います。
でもまあ、こんな風に理屈っぽく理解しようとするよりも、とにかく実際に写真を見て、そこに何かを感じることに意味があるのでしょう。
写真集の常として、購入するとなるとどうしても値段が気になってしまいますが、たとえこの本を手元に置くことができなくても、書店や図書館で見かけることがあったら、ぜひ手にとって、書棚の片隅で静かにページを繰りながら、しばしの間、アジアを感じてみてください。
本の評価基準
以下の基準を目安に、私の主観で判断しています。
★★★★★ 座右の書として、何度も読み返したい本です
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2010.05.06 Thursday
旅の名言 「インドに初めて行ったとき……」
インドに初めて行ったとき、有名人とはこういうものかと感じた。路地裏を歩いていて振り向くと、二〇人くらいの子供が私のあとをつきまとい、店員は私に手を振る。乞食が手を出してくる。
それで思い出したのだが、ある有名芸能人の話だ。時と場所をわきまえず騒がれたり、サインを求められたり、写真を撮られたりすると頭にくるが、無視されると淋しくなり、「有名人がここにいるんだぞ」と周りの人に叫びたくなるのだそうだ。このあたりの感情は、アジアやアフリカを旅行する者にもいくらか通じるような気がする。
『アジア・旅の五十音』 前川健一 講談社文庫 より
この本の紹介記事
アジアの旅にまつわる前川健一氏のエッセイ、『アジア・旅の五十音』の「無視」の項からの引用です。
インドやバングラデシュのような国を旅した人ならきっと、前川氏と同じような体験をしているはずです。外を歩けば大勢の人間に取り巻かれ、後をつけられ、お茶を飲んでいれば周囲の熱い視線にさらされ、話しかけられ、同じような質問を何度も浴びせられた経験があるのではないでしょうか。
旅人にしてみれば、どこへ行っても現地の人々に監視されているみたいで、鬱陶しいことこの上ないし、彼らのワンパターンな質問につき合っていると、何とも言えない徒労感を感じます。疲れているときなどは、お願いだからそっとしておいてくれと大声で叫びたくなります。
しかし、そんな状況を避けるうまい方法があるわけでもないので、現地にいる間は、とにかくそれに慣れるしかありません。
そんなとき、有名人というのはきっと、こういう経験を毎日繰り返しているんだろうな、と思うのです。
それでも、インドのような国をしばらく旅しているうちに、気がつけば、いつのまにか現地の人たちと、漫才のようなしょうもないやりとりを繰り返すのが日課になっていたりします。それに、街に出れば必ず誰かが相手をしてくれるので、少なくとも時間をつぶすのに困ることはありません。
そして、そんな生活にすっかり慣れてから日本に帰ると、街を歩いていても誰も話しかけてこないことや、何のハプニングも起こらない日常に、むしろ淋しさを覚えてしまったりするのです。
どこへ行っても注目され、ちょっかいをかけられるというのは、鬱陶しくて仕方がないけれど、かと言って、誰にもかまってもらえないのもやっぱり淋しい……。インドに行くと、芸能人のその複雑な気持ちがちょっとは分かるような気がします。
ただ、旅人の場合は、現地での鬱陶しさに嫌気がさしたらいつでも日本に帰れますが、芸能人の場合、そういう選択の余地はないわけで、同じような体験を、日本にいる限り、たぶん一生し続けなければならないのだと思うと、同情を禁じえません。たしかに、みんなに無視されれば淋しいかもしれませんが、やはり四六時中追っかけまわされ、必要以上の注目を浴び続けるのは、彼らとしても苦痛だろうと思います。
海外で、彼らの気持ちを少しだけ疑似体験した旅人としては、だから、街で芸能人を見かけても、無礼なことは決してしないようにしよう、そして、できれば彼らをそっとしておいてあげたいと思うのです……。
JUGEMテーマ:旅行
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