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岡田JAPAN、残念……でもありがとう!!
パラグアイの5人目のキッカーがあっさりとシュートを決め、試合が終わっても、私はテレビの前でしばし放心状態で、なかなかその結果を呑み込むことができませんでした。
そして、涙を流す選手たちの姿を見ていたら、悔しさというよりは、何ともいえない切なさがこみ上げてきました。
でも、後味の悪さは全くありません。
南アフリカで、試合を重ねるごとに凄みを増していく日本代表の戦いぶりには、いつも勝利の予感が感じられたし、見ているだけで心が熱くなりました。何か凄いことをやってくれるんじゃないかという期待を抱かせてくれました。
力を尽くした試合を通じて、私たちを大いに楽しませてくれた岡田監督とすべての選手たちに、心から感謝したいと思います。
どうもありがとうございました。
それから、多くの人々と同じく私も、ワールドカップ直前の日本代表の試合ぶりを見て、(ブログにこそ書きませんでしたが)岡田監督の采配に大いに疑念を持っていました。
今こうやって、手のひらを返すように評価を変えた自分の姿を深く自覚しつつ、岡田監督にお詫びを申し上げます。
どうもすみませんでした。
JUGEMテーマ:ニュース
岡田JAPAN、決勝トーナメント進出おめでとう!
私はふだん、代表チームの試合をテレビ観戦する程度で、スタジアムに応援に行ったこともなく、監督の采配や選手の活躍について、とてもコメントできるような立場ではないのですが、それでも今日の試合はとても感動的で、寝ないで見ていた甲斐がありました。
某国のように、代表チームがバラバラに空中分解し、それが社会問題にまで発展していく姿を見ていると、ワールドカップは単なるスポーツの祭典ではないのだとしみじみ思います。
国民の期待というプレッシャーの中で、強豪チームに果敢に挑み、素晴らしい結果を出してくれた岡田監督とすべての選手たちに、心から感謝したいと思います。
このあとの決勝トーナメントでは、一試合勝ち上がるごとに、日本にとって未知の風景が開けていきます。この先どんな結果が待っているとしても、私たちは彼らの健闘を心から称え、ヒーローとして日本に迎えることになるでしょう。
次の対パラグアイ戦でも真剣勝負が見られるのかと思うと、もう今からワクワクしてしまいます……。
JUGEMテーマ:ニュース
『アンダーグラウンド』
評価 ★★★☆☆ 読むだけの価値はあります
この本は、作家の村上春樹氏が、1995年の3月20日に起きた地下鉄サリン事件に真正面から取り組んだノンフィクション作品です。
ウィキペディア 「地下鉄サリン事件」
村上氏は、事件の被害者とその家族を中心に、60名以上の人物に直接インタビューを行い、さまざまな視点からの膨大な証言を通じて、事件当日の朝、東京の地下で何が起きていたのかを明らかにしようとしています。
私は、この本の存在は以前から知っていたのですが、今までずっと気が進まず、手に取ることはありませんでした。本の分厚さにたじろいだせいもありますが、やはりそれ以上に、事件のことを深く知ったり考えたりすることへの心の抵抗が大きかったのだと思います。事件から15年経った今になって、ようやく読む気になりました。
しかし正直に言って、この本は、読めば読むほど気が滅入ります。これは、村上氏の仕事の質の高さとは別の問題で、陰惨な事件を追体験する以上、仕方のないことではあるのですが、その点で、すべての人にお勧めできる本ではありません。
特に、重い障害を負ったり亡くなられたりした被害者の家族の言葉を読んでいると、何ともやるせない気持ちになり、読むのが本当に辛くなります。
村上氏は、この本の取材にあたって、事件当日、人々が現場で何を見て、何を感じ、何を考え、どういう行動をとったのか、被害の程度やその後の経過がどうだったか、また、事件が人々の人生にどんな影響を与えたかを聞くだけでなく、証言者の生い立ちや仕事について、あるいは日頃の生活や家族との関係、趣味のことなど、事件とは一見かかわりのないさまざまなことまで聞き取っています。
そして、限られた紙幅の中にそれらを盛り込むことで、事件に遭遇した人々が、「被害者」という漠然とした存在ではなく、私たちと同じように顔があり、生活があり、性格も人生観もさまざまな、生身の人間であることをはっきりと示そうとしています。
しかし、だからこそ、人々の言葉の一つひとつが生々しく迫ってきて、彼らの感じている苦しみをそのまま受け流すことができなくなります。また、これを読んでいる自分も、同じような理不尽な暴力にいつ巻き込まれるか分からないのだという現実に改めて気づかされ、そこに底知れない恐怖を感じるのです。
それにしても、今回この本を読んでいて、自分が地下鉄サリン事件について、その概要さえよく知らなかったことに気づきました。事件当時、マスコミはこの事件でもちきりだったし、自分も新聞やテレビをそれなりに見ていたはずなのですが……。
それは、事件後すぐに、報道の焦点がオウム真理教への強制捜査へとシフトしてしまったからなのかもしれないし、あるいは、自分も日常的に公共交通機関を利用する一人として、パニックになるのが怖くて、事件の詳細を無意識のうちに心から閉め出していたからなのかもしれません。
あの当時、事件から数日もしないうちに、街からその痕跡はすみやかに消え去り、被害者は病院の中に姿を消し、マスコミの大々的な報道を除けば、一見すべてが今までどおりに戻ったように見えました。
こんな異様な事件が起きたというのに、街の雰囲気があまりにも平静で、何事もなかったような感じに、何か違和感のようなものを覚えた記憶がありますが、今思えば、事件の落とす暗い影を必死で消し去ろうとしていたのは、私だけではなかったということなのかもしれません。
しかし、巻末のあとがき「目じるしのない悪夢」の中で、村上氏は慎重に言葉を選びながらも、あれほどの暴力を生み出した異常な存在として、私たちが心から毛嫌いしているオウム真理教の「論理とシステム」は、実は、「我々が直視することを避け、意識的に、あるいは無意識的に現実というフェイズから排除し続けている、自分自身の内なる影の部分(アンダーグラウンド)」なのではないだろうかと指摘しています。
私たちが、事件のことを必死で心から締め出そうとするのは、村上氏が言うように、この目で見ることを恐れている自らの暗い影に通じる何かを、そこに感じとっているからなのでしょうか。もしも、そうであるならなおさら、こういう本を手に取って、事件の実態を知ろうとすることには、それなりの覚悟が必要になるのかもしれません。
ただ、この本の中に、希望や救いが全くないというわけではありません。
証言者の多くは、ある日突然、わけが分からないままに、理不尽で巨大な暴力に巻き込まれ、深い恐怖と苦痛に襲われ、そのあと長い間にわたって苦しみながら、何とかその体験を乗り越え、前向きに生きようとする努力を続けています。
もしも同じ立場に置かれたら、自分にはそうすることができるだろうかと思うのですが、それでも力強く生き抜こうとする人々の言葉には救いを感じます。そして、その言葉をただ読んでいることしかできない私が、むしろ、彼らの言葉に勇気づけられているのを感じます。
事件で亡くなられた方のご冥福と、被害に遭われたすべての方々のご快復をお祈り申し上げます。
本の評価基準
以下の基準を目安に、私の主観で判断しています。
★★★★★ 座右の書として、何度も読み返したい本です
★★★★☆ 一度は読んでおきたい、素晴らしい本です
★★★☆☆ 読むだけの価値はあります
★★☆☆☆ よかったら暇な時に読んでみてください
★☆☆☆☆ 人によっては得るところがあるかも?
☆☆☆☆☆ ここでは紹介しないことにします
JUGEMテーマ:読書
旅の名言 「旅路における作法というものが……」
旅路における作法というものがある。あけすけな質問や立ち入った質問は禁物なのだ。単純かつ気持ちのいいマナーだし、世界じゅうどこでも通用する。
彼は私の名前を尋ねず、私も同様だった。
『チャーリーとの旅』 ジョン スタインベック ポプラ社 より
この本の紹介記事
ノーベル賞作家のスタインベック氏によるアメリカ一周旅行記、『チャーリーとの旅』からの引用です。
「旅路における作法」なんていうと、ちょっと仰々しく聞こえますが、別に難しいことを言っているわけでもなく、旅先で知らない誰かと会ったときには、お互いのプライバシーにはあまり踏み込まないでおこうという、ただそれだけのことです。
もっとも、私の知る限りでは、旅のガイドブックにこういうことが書いてあるのは見たことがないし、旅をしているあいだに、こういうマナーに関して他の人から注意された経験もないのですが、言われてみればたしかに、そういう暗黙のルールみたいなものはあるかもしれないな、という気はします。
旅がどうして楽しいのか、その大きな理由として、旅人が窮屈な日常から一時的に離れて、自由な気分を満喫できるということがあると思います。
旅先では、仕事とか家庭のゴタゴタや人生の悩みをとりあえず棚上げにし、一人の無名の旅人として、自由にふるまい、つかの間の解放感を味わうことができるのです。
そんな自由を楽しんでいるさなかに、本人の過去とか、現在の社会的な立場とか、背負っている人生の重荷について、赤の他人からあれこれ詮索され、そのことをいちいち思い出させられるというのは、決して気分のよいものではありません。
まあ、個人的なことをいろいろ聞かれても、別に不愉快にはならないという旅人もいるだろうとは思いますが、旅を楽しもうという各人の立場を尊重して、互いに余計なおせっかいはしないのが旅人としてのマナーなのでしょう。
ただ、こういうマナーは別に旅先に限った話ではなく、都会で暮らしていれば、仕事でも日々の暮らしでも、基本的には同じことがあてはまります。
この本が書かれたのは、もう50年近く前のことなので、当時はあえてこういうことを書く意味もあったのかもしれませんが、都市化の進んだ現在の日本では、むしろふだんの日常生活においても、そういうマナーがすっかり身についている人の方が多いかもしれません。
ただし、旅先で出会った者同士が、いつでもあたりさわりのない会話をするだけで、互いに無名のまま別れてしまう、というわけではないでしょう。何かのきっかけで意気投合することもあるし、泊まっている宿などで何度か顔を合わせてそれなりに親しくなり、互いの名前を聞いたり、メールアドレスや住所を交換することもあります。
それに、いま目の前で話している相手とは、きっともう二度と会うこともないだろうと思うからこそ、むしろ、自分の身近な人にも話せないような深い胸の内を語れるという場合もあるのです。
結局のところ、「旅路における作法」を尊重してクールにふるまうか、互いのプライバシーにもう少し踏み込むかという判断は、状況次第、相手次第というところがあるのでしょう。そしてその辺りの感覚というのは、人それぞれの性格とか経験によって多少の差はあれど、誰もが、特に意識することもなく身につけているものなのだと思います。
ちなみに、これはいわゆる「先進国」の旅人たちについて言えることで、インドみたいな国に行くと、こういう作法はもはや通用しなくなります。道を歩いていても、バスや列車に乗っていても、茶店でチャイやラッシーを飲んでいても、通りすがりの人々が集まってきて、彼らに「あけすけな質問や立ち入った質問」をされまくります。
まあ、彼らのほとんどは旅人ではないので、ここで「旅路における作法」を振りかざしてみても仕方ないのかもしれません。それに、我々の内面にズカズカと踏み込んでくるといっても、多くの場合、彼らに悪気があるわけではありません。
彼らに、「単純かつ気持ちのいいマナー」の必要性を訴えても、徒労に終わるだけです。旅人としては、彼らの土地を旅させてもらっている以上、ここはそういうところなのだと納得して耐えるしかないのでしょう……。
深い穴
日本でも、地面の下が知らないうちに浸食されていて、突然道路が数メートル陥没したりすることはたまにあります。
今回のケースは、当初、穴の深さが20〜30メートルと報道されていて、その深さにはさすがに驚いたものの、まあ、そういうこともあるんだろうな、という感じでした。
しかし、それから数日経って、ナショナル・ジオグラフィックの記事を読んでみたら、実は穴の深さは100メートルもあったというのです。
National Geographic News 「グアテマラで大陥没:ビルを丸呑み」
唖然としました。
100メートルの穴というのは想像を絶しています。
映像で見ても、穴の底の方は光も射し込まず、真っ暗になっていて、それが一体どこまで続いているのか、外からは全くうかがい知れません。
とにかくこんな穴に落ちてしまったら、絶対に助からないでしょう。
大勢の人間が普通に暮らしている街で、こんなことがあり得るのかと思うのですが、実際にそれが起きた以上、この世界はそういうものなのだと考えるしかありません。
ちなみに、上の記事では、熱帯暴風雨アガサが引き金になって、もともと地下に形成されていた空洞の天井部分が崩落したとしていますが、別の記事では、下水管などから漏れ出した水によって浸食されたのが原因だとしています。
National Geographic News 「グアテマラの大陥没、原因は下水管?」
その記事によると、グアテマラ市の地下には、過去の火山噴火による軽石流が数百メートルも堆積しているのですが、その軽石はバラバラの状態のままで、とても浸食されやすいのだそうです。
私は地質に関しては全くの門外漢なので、それに対してコメントできる立場にはないのですが、ただ、下水管からの水漏れだけでこれほど深くて大きな空間ができるものなのか、また、こんなにきれいな丸い穴になるのだろうかという気はします。
まあ、それはともかく、この穴の下の方が一体どうなっているのか、何だかとても知りたい気分です。
かりに、この穴が最近の浸食によるものではなく、中国の「天坑」とか、ユカタン半島のセノーテみたいに、長い時間をかけて形成されたものだとしたら、この穴につながる洞窟とか、他の巨大な地下空間が見つかるかもしれません。もしかしたら、グアテマラ市の地下に、巨大な地下空間のネットワークが発見されるのではないか、などと、想像はどんどん膨らんでいきます。
今回の陥没穴は、危険だし、人々の生活には全く役に立たないので、いずれ埋められてしまうのでしょうが(だとしても相当な量の土砂が必要になりそうです)、そうなる前に、誰か好奇心旺盛で、とんでもなく勇気のある人間が、下まで降りて、地底の様子を確かめてくれそうな気がします。
そこで何が見つかるか、続報を待ちたいと思います。
それにしても、地下世界というのは目に見えないし、何がどうなっているのか、普通の人間には確かめようがないだけに、こうしたニュースをたまに聞くと、いま自分の立っている足元はどうなのか、ちょっと不安をかきたてられるものがあります。
さすがに、私がこの先、グアテマラ市に住む機会はないだろうと思いますが、もしかしてあの街が、巨大な空洞だらけのスポンジみたいな地盤の上に広がっているかもしれないと思うと、ちょっと住みたくないなという気がします……。
JUGEMテーマ:ニュース
旅と生業(なりわい)のジレンマ(2)
(続き)
でも、もしかするとそれは、一部の旅好きの心の中だけに限られた葛藤ではないのかもしれません。
かつて遠い昔、狩猟採集の移動生活をしていた人類が、農耕のもたらす豊かさと引き換えに定住生活を選んだとき、それまでの暮らしの中で享受していた自由や、未知の土地への好奇心などは、しっかりと封印せざるを得ませんでした。それ以来、人間は、移動と定住をめぐる心の葛藤を、絶えず潜在的に感じ続けてきたのではないでしょうか。
だとすると、旅人が感じているジレンマも、その典型的な現れにすぎないのかもしれません。
そして、そういう視点から考えたとき、「沈没系」旅行者(あまり移動せず、ひとつの街に長居するタイプの旅人)とか、「外こもり」(日本でカネを稼ぎ、物価の安い国でできるだけ長く過ごす人々)と呼ばれる旅人たちは、そうした、移動と定住をめぐる長年のジレンマを解消しようとして、実験的な生き方を試みているのだといえるかもしれません。
下川裕治著 『日本を降りる若者たち』(「外こもり」に関するルポ)の紹介記事
私たちの社会ではふつう、メインである定住生活と、一時的な非日常である移動の旅とをはっきり区別して考えますが、「沈没系」旅行者や「外こもり」では、そうした区別があいまいになっています。
彼らにとって、定住(日常)と移動(非日常)という区別に、あまり意味はありません。そして、彼らは、意識的にか無意識的にかはともかく、日常生活と移動とが少しずつ融合するような形で、両者を統合しようと試みているのではないかという気がするのです。
ただ、例えば「外こもり」の多くが、日本で集中的にカネを稼ぐことで成り立っている、つまり、一時的に、定住型の生活をしている他の人々と同じ仕事につくことが、彼らの生活の命綱になっているという点では、移動と定住をめぐるジレンマの根本的な解決には至っていません。
そこで、インターネットです。
インターネットの爆発的な普及は、ビジネスのあり方や、仕事や生活や旅のスタイルを、急速に、根本的に変えようとしています。
だとしたら、そこには、これまでの旅人のジレンマを一気に解消してしまうような、大きな可能性が秘められているかもしれません。
例えば、現在、月数万円の継続的な収入さえ確保できれば、開発途上国を半永久的に旅しながら暮らすことは可能です。
それはあくまで、宿も食事もすべて切り詰めたうえでの話だし、旅先でのケガや病気など、何かあったときの保障も何もない、最低限のレベルではあるのですが、もしも、移動しながらそれだけの収入を上げ続ける手段が見つかれば、辛うじて、旅と生業とを両立することができるのです。
インターネットで、それは可能になるでしょうか?
ネット上のインフラを利用してカネを稼ぐ方法については、それなりにまっとうなものからかなり怪しげなものまで、いろいろなものが考え出されています。
ここでは、あえてその詳細には触れませんが、ネット上でチラホラ入ってくる情報から私なりに判断するかぎり、個人がそうした方法で月数万円以上を稼ぎ出すことは、決して不可能ではないとしても、簡単なことではないようです。
まず何より、ネット上で個人的に(もちろん合法的な)ビジネスを立ち上げ、それが継続的な収入をもたらすレベルにまでもっていく必要がありますが、そのためには、アイデアや専門知識だけでなく、かなりの努力も必要でしょう。
しかも、ネット上の競争は激しく、環境も日々めまぐるしく変わっていきます。のんびり旅を続けながら、その変化に遅れずについていくというのは、並大抵のことではないかもしれません。
今後、世界中でいつでもどこでもネットに接続できる環境が整備されるのは、おそらく時間の問題だろうし、それによって旅行のスタイルも大きく変わっていくでしょうが、インターネットを利用して、旅をしながらある程度のカネを稼げるような時代が来るのかといえば、私は、それはちょっと難しいだろうな、という気がしています。
旅人の中には、実際にインターネットを活用して、あるいは他のアイデアを駆使して(いわゆる「無銭旅行」をひたすら続けるという方法もあります)、半永久的に旅を続けている人もいるだろうと思いますが、たぶん、そこまでして「ノマド的(遊牧民的)」に生きているという人は、本当にごく少数なのではないでしょうか。
ここまで考えてみると、貧乏旅行者にとって、カネを稼ぎながら半永久的に旅を続ける、という夢は、実現不可能ではないけれど、よほど真剣に取り組まないと実現が難しいし、もしかすると才能や運も必要かもしれない、という、実にまっとうな結論に達します。
挑戦するのは自由だけど、成功のチャンスはかなり低い、といった感じでしょうか。
だとすると、結局は、「永遠の旅」という壮大な(?)夢への挑戦者が、その夢にどこまで強い情熱を抱けるかという、動機づけの強さが一番重要なのかもしれません。
では、私自身はどうなのかと考えてみると、「そこまでの情熱があるか?」といえば、ちょっと微妙なところです。私の場合、「半永久的な旅」というアイデアにはものすごく魅力を感じるのですが、同時に、どうしてもその先のことを考えてしまうのです。
つまり、かりにそこまで移動の生活にこだわり、その実現のために膨大な努力を注ぎ込み、それが運よく実現するとしても、将来そうした生活が、自分にとって、そして他者にとって、何かプラスの価値を生み出すものになるのだろうか、そこに、果たして本当に生きがいを感じることができるだろうか、という問題です。
もちろん、それは実際にやってみなければ分からないことだろうし、また、旅と生業がなんとか両立できるようなら、それは、他の人から何がしかのお金をもらえている、イコール、何らかの社会的価値を生み出すことができている、ということにはなるのでしょう。
でも、その生業というのが、心から自分のやりたいことでなければ、せっかく仕事のスタイルが自由になっても、旅を続けることができても、あまり楽しくはないだろうし、結局のところ、長続きもしないと思うのです。
肝心なのは、「ノマド的」な仕事と生活のスタイルが成り立つかどうかということよりも、それが自分にとって本当にやりがいのある、楽しい仕事であるかということなのです。
というわけで、私にとってのもっと切実な問題は、「移動か定住か?」という問題以上に、とにかくやりがいのある仕事のテーマを見つけること、ということになりそうです。
長々と考えたわりには、すごく当たり前なところに落ち着いてしまいました。
こんな風に考えてしまうのは、私が歳をとって世間ズレしてしまい、先を見ずに突っ走れなくなったということなのかもしれません。
あるいは、むしろその逆で、いまだに「仕事のやりがい」とか「楽しい仕事」なんてことを夢見ているのは、私がいまだに青くさい証拠でしょうか……。
それはともかく、こんな風に旅のことばかり考えているというのは、自分の求めている仕事や生活が、やはり旅と密接に関係しているということなのかもしれません。私が生きがいを感じるような人生のテーマを見つけていくうえで、「旅」は、重要なヒントになるような気がします。
そうだったらいいなあと、漠然とした期待を抱きつつ、これからも自分なりの探求を続けていきたいと思います……。
JUGEMテーマ:旅行
旅と生業(なりわい)のジレンマ(1)
どんなことにも終わりがあるように、楽しい旅の日々を満喫していても、私たちは、それがいつか終わってしまうことを知っています。そんなとき、旅人は、こんな生活がこのままずっと続いたらいいのに……という、切ない願望を抱くのです。
もちろん、旅は楽しいことばかりではありません。異国では言葉が通じないし、辺境の旅は不便だし、トラブルに巻き込まれて辛い思いをすることや、移動の連続で疲れ果ててしまうこともあります。
それでも、旅の好きな人間にとっては、旅に出ているときこそ、自分がもっとも自分らしくいられる瞬間だろうと思うし、旅の与えてくれるさまざまな楽しみは、旅の疲労や辛さといった苦しみを補って余りあるのです。
できることなら、いつまでも旅を続けていたい……。
しかし、大金持ちの家に生まれたとか、若いうちに莫大な富を築いていつでもリタイアできるとか、特別な事情に恵まれてでもいない限り、旅を永遠に続けることはできません。
金持ちの中には、「パーマネント・トラベラー」といって、節税のために絶えず世界中を移動し続ける生き方があるようですが、節税など全く縁のない貧乏旅行者にしてみれば、そんな生き方は異次元の話題でしかないのです。
記事 「パーマネント・トラベラーという生き方」
ならばせめて、旅をしながらお金を稼げるような、うまい方法はないものか、と誰しも考えるわけですが、実際のところ、これは決して簡単なことではありません。
昔から、冒険的な商人は遠い異郷へ出かけて貴重な品々を仕入れ、その危険と引き換えに、莫大な利益を生み出してきました。
貧乏旅行者に、大キャラバンを仕立てる資金力などありませんが、それでもひと昔前までは、日本から持参したカメラや電気製品を旅先で売るとか、旅先で仕入れたちょっとした雑貨を日本で売るなど、旅人ならではの裏ワザを駆使して、旅費全部とはいかないまでも、その一部を補うくらいのことはできたようです。
でもそれは、まだ旅行者の数が少なく、世界のモノの流れも今ほど巨大ではなかった時代の話です。国際的なモノの流通が、大量かつ非常に効率的になっている現在、素人がちょっとした思いつきで貿易商のマネゴトをしてみても、簡単にカネを稼ぐのは難しいのではないでしょうか。
「旅の商人」が難しいのなら、旅そのものを仕事にできないかということで、例えば、旅行業界など、仕事と旅とが密接に関わる会社に就職しようというアイデアもあります。
ただ、言うまでもないことですが、そこにもさまざまな問題があります。
旅行業界でも他の業界でも同じですが、もしも会社員として組織に属するようになれば、自分の好きなように時間をやりくりすることはできなくなります。当然、自由に長い旅に出かけるなんてことはできないし、仕事で行く旅は、もちろん、自分の楽しみのための旅とは根本的に異なります。
それにそもそも、青春を旅に賭けてきたような人にとっては、会社員として社会復帰すること自体が難しいかもしれません。
長い旅暮らしの中で、自由気ままに、自分のしたいように日々を過ごす生き方の喜びに目覚めてしまった人にとっては、組織の中で働いたり、限られた仲間内での濃密な人間関係の中で日々を過ごすのは大きなストレスになるでしょう。
というより、そういうことにストレスを感じてしまう人間を喜んで雇ってくれるほど、世の中は甘くありません。
まあ、ふつうの旅好きなら、このあたりまで考えたところで「永遠の旅」には見切りをつけ、現実をしっかりと見つめ、社会に適応し、人々に望まれる人間になる決心をするのでしょう。そして実際、それでうまくやっている人が圧倒的多数なのだと思います。
でも、筋金入りの旅好きの中には、何があっても自由な旅と自由な生活は犠牲にしたくない、そこは絶対に譲れない、という人もいるかもしれません。そうなると、最後の手段として、フリーになる、つまり、何でもいいから自分の力で稼ぐ方法を考えるしかなくなります。
フリーといっても、現実的には、とりあえずフリーターとしてアルバイトをして、カネが貯まるたびに旅に出るというケースが多いでしょう。
ただ、その場合、働く期間と旅をする期間とがはっきり分かれてしまい、旅をずっと続けているという感覚にはならないし、カネを貯めている間は特に、いろんな意味で自由が制約されてしまいます。
ここで、とりあえず現実的な可能性は無視して、理想だけを言うなら、やはり旅好きの人間としては、仕事をしながら旅もする、あるいは旅をしながら仕事もする、そして、いつどこへ旅するかを自由に決められるだけでなく、いつどこでどんな仕事をするのかも、ある程度自分の裁量で決められる、そんな生活をしてみたい、といった感じになるのではないでしょうか。
まあ、私個人としても、ぜひこんな心意気で生きてみたいものだと思うのですが、もちろん、理想なら何とでもいえるわけで、現実に戻れば、越えなければならないハードルは山のようにあります。
まず何より、一般論として、人間は定住している方がずっと信用されます。ビジネスにしたって、同じ場所で同じ仕事を長く続けている会社の方が信用されるだろうし、また、何がお客さんに喜ばれるかということも、同じところに長く居続けることで、初めて見えてくることが多いのではないでしょうか。
どんな仕事をするにせよ、常にあちこち移動していて信用のない旅人が、しかも組織のバックアップもなく、個人でカネを稼ごうというのは、そのこと自体が、途方もないハンディキャップになってしまいそうです。
でも、本当に旅の好きな人なら同意してくれると思うのですが、旅の面白さにすっかり心を奪われてしまった人間は、いつでも自分の行きたいときに、行きたいところへ行きたいというシンプルかつ強烈な思いを、二度と消し去ることができなくなってしまうのです。
そしてまた、より広い世界に常に心を開いていたい、あふれる好奇心を満足させるために行動したい、自由に動き続け、ひとつの土地に落ち着いてしまいたくないという思いが、いつまでも心のどこかにくすぶり続けているのです。
まあ、旅人も、結婚して子供ができれば、どうしてもどこかに落ち着かざるを得なくなるだろうし、あるいは歳をとって、体が思うようにいかなくなれば、考え方も変わってくるのかもしれませんが……。
こういう、旅人にとって根源的ともいえるような欲求を抑圧することなく、そのまま仕事に生かすとなると、それこそ、「旅するカメラマン」とか、「旅の作家」とか、「放浪の芸術家」みたいなものをめざすしかないのかもしれません。しかしこれには、才能も努力も大いに要求されるし、運も味方につけなければならないでしょう。
こうしていろいろと考えてみると、今の世の中においては、旅をしながら個人でカネを稼ぐ方法というのは非常に限られているし、かりに、何かいいメシの種が見つかったとしても、それを続けていくためには、人並み以上の才能や努力が必要です。
それが、旅と生業(なりわい)をめぐって旅人が抱える、大いなるジレンマです。
(続く)
旅と生業(なりわい)のジレンマ(2)
JUGEMテーマ:旅行
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