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旅の名言 「二〇代の旅は……」
日本で生まれた日本人だからといって、なにも一生日本に住んでいなければいけない義理はないのだと気がついたのは、二〇歳前後だったかもしれない。だからといって、どこかに移住したいと思ったわけではない。将来どういう生活をしたいのか自分でもよくわかっていなかったから、たとえばフランスで絵の勉強をしたいとか、ニューヨークで毎日映画を見ていたいといった具体的な夢などなかった。
ただ、旅をしたかった。旅をして、気に入った土地があればそこに住みついてもいいと思っていた。ちょっと大げさに言えば、二〇代の旅は、ある面で、住む場所を探す旅であったのかもしれないと思うことがある。日本が大嫌いで一日も早く脱出したいと思っていたわけではなく、できるだけ早く定住地を探そうとしていたわけでもない。住みたくなる土地があれば、いずれ住んでみようと思っていたにすぎない。旅に飽き、日本にも飽きて、外国で住んでみたい街を見つけたら、飽きるまで住んでもいいという程度のことだった。
幸か不幸か、旅をやめさせるような運命的出会いや、衝撃的事件などなにもなかった。神の啓示を受けて宗教生活に入るとか、女に惚れぬいてどんな仕事でもかまわないからその地に住みたいとか、ある音楽に魅せられてその地で研究生活に入るといった、人生を変える出会いなどまったくなかった。
旅行で訪れる街はそれなりにおもしろかったが、何年も住んでみたいと思った土地はない。ましてや永住の地にふさわしい所は見つからなかった。
『アジア・旅の五十音』 前川健一 講談社文庫 より
この本の紹介記事
アジアの旅にまつわる短い文章を50音順に並べたユニークなエッセイ、前川健一氏の『アジア・旅の五十音』の、「住む」の項からの引用です。
若い頃に世界各地を旅してみたものの、自分が何年も住みたいと思う土地を見出すことができなかったという彼のことばに、何となくネガティブな印象を受ける人もいるかもしれません。ただ、私は、上の文章を初めて目にしたとき、ああ、自分と同じだと、大いに共感を覚えました。
私が旅というものを意識し始めたのは、たしか中学生の頃、どういうきっかけからだったかはよく思い出せないのですが、ヨーロッパを始め、いろいろな国々について書かれた本や、さまざまな旅行記を好んで読むようになりました。
この世界には、自分の想像もできないような異なる文化と人々の暮らしがあることを知るにつけ、それを実際にこの目で見てみたいという気持ちがふくらむと同時に、どうして自分は日本に生まれてきたのだろうとも思うようになりました。そして何となく、自分が将来も、このまま日本で暮らし続けていく姿が想像できないような気がしていました。
もっとも、そうした思いは、前川氏と同様、何か具体的な夢と結びついていたわけではないし、どうしても海外に出たいという強烈な欲求を感じていたわけでもありません。それに、学生時代の自分には、カネもなければ、国外に一人で飛び出していく勇気もありませんでした。
結局、はっきりとした自分の未来を思い描けないまま、20代の後半を迎えたとき、やっと決心がついて長い旅に出ることになったのですが、その旅についても、特に目的地といえる場所があったわけではないし、旅のあいだに何かを勉強したり、身につけるといったような、はっきりとした目的意識もありませんでした。
前川氏のように、私も「ただ、旅をしたかった」のです。その当時、私の頭の中には、自分が世界のあちこちを放浪しているイメージだけがあり、その先の展望は全くありませんでしたが、それ以上のことはあえて何も考えずに、とりあえず日本を出ました。
それでも心の奥には、世界のどこかで居心地のよさそうな街を見つけたら、そこにずっと暮らすのもいいかもしれないな、という漠然とした思いがあったように思います。そういう意味では、20代の私の旅も、大げさにいえば「住む場所を探す旅」だったのかもしれません。
そして、私の場合も、「幸か不幸か、旅をやめさせるような運命的出会いや、衝撃的事件などなにもな」く、また、「永住の地にふさわしい所」も見つかりませんでした。もっとも、私の場合は、広く世界をまわったわけではなく、アジアという狭い地域のなかを、ちょこちょこと見て歩いただけなのですが……。
もちろん、旅人としてそれなりに居心地のいい土地には、旅の中で何度も出会ったし、そこで楽しく「沈没」したこともありました。それでも、同じ場所に留まるのは、やはり長くて数カ月が限度という感じで、ずっと腰を落ち着けたいと思えるような場所には出会いませんでした。
旅をして分かったのは、当たり前のことではありますが、人が住むような場所なら、どんな土地にもそれなりの魅力というものがあるし、同時に、どうしようもない、さまざまな欠点も抱えているのだということです。より多くの魅力があり、たくさんの人を惹きつける土地もあれば、ほとんど誰も住みたがらない土地というのもありますが、どんなに魅力的な土地であっても、そこに長居をしている人には、見たくないものもおのずと見えてきてしまいます。
そして当然、日本についても同じことが当てはまります。
これはあくまで私個人の(当面の)結論でしかないのですが、結局のところ、どの国のどの土地にも、そういう意味での本質的な違いなどなく、そこには、あえて自分の意思で一つを選びたいと思うほどの差は感じられなかったのです。
旅人の中には、旅先で気に入った土地にそのまま住み続けたり、ある国やその文化が気に入って、それに関わる仕事をずっと続ける人もいるようですが、少なくとも私の場合は、そういうことは起こりませんでした。
旅行記などを読んでいると、ある土地や、そこに住む人々への深い思い入れを感じることが多いので、旅をしていれば、誰でもそういう場所なり人々なりに巡り会えるような気がしてしまうのですが、まあ、人生それぞれで、そういうことのある人もいれば、ない人もいるということなのでしょう。
ところで、前川氏は冒頭で引用した文章のすぐ後につづけて、沖縄には住んでみようという気になりかけたものの、そこでは自分のやりたいライターの仕事ができそうもないと思ったこと、その後、「定点観測」のために頻繁に訪れることになったタイについても、数ヵ月もいると飽きてしまうので、好奇心を保つために、意識的に住まないようにしているとも書いています。
たぶん、彼の場合は、自分にとってベストな場所に住むことよりも、もっとずっと重要に感じられる価値というものが他にあるのでしょう。
それは例えば、つねに自らの内面に新鮮な感受性を保つことであったり、自分の心にかなうものを、文章などで表現する機会だったりするのかもしれません。
それに、考えてみれば、人間、必ずしも自分のホームグラウンドのようなものを決めなければならないわけではなく、その気になれば、どこにも定住せず、永遠に旅人のように動き続けるという生き方も可能です。
これはあくまで私の想像にすぎないのですが、前川氏は、20代の頃の「住む場所を探す旅」を通じて、実はどこかに「住む」ことにこだわる必要などないのだと気づき、土地への強迫観念から解放されたのかもしれません。定住へのこだわりがなくなれば、人は、成り行き次第で住みたいところに住みたいだけ住むという自由な暮らしを楽しむことができます。
私の場合は、そこまでの境地には至っていませんが、旅を通じて、そういう生き方があることを、頭で想像できるくらいにまではなれたような気がします。
まあ、いずれにせよ、何を大事にして生きるかは、人それぞれの価値の優先順位づけの問題で、何がいいとか悪いとかいう問題でないことはもちろんですが……。
JUGEMテーマ:旅行
『いつも旅のなか』
評価 ★★★☆☆ 読むだけの価値はあります
作家の角田光代氏は、これまで仕事を含めて数十回も海外を旅しているそうですが、個人的な旅の多くは、バックパックやデイパックを背負い、安宿に泊まったり安食堂や屋台で食事をしながら、ひとりで数週間から数カ月異国を旅する、いわゆるバックパッカー・スタイルです。
そこには、個人旅行ならではの、未知の人々との出会いがあり、思わぬハプニングがあり、ゆったりと流れる旅の時間があります。
この本には、アジアの国々をはじめ、世界各地で角田氏が体験した旅のエピソードがユーモラスに描かれているのですが、読んでいると、彼女の豊かな旅の日々が垣間見えるような気がします。
角田氏は本文中で、自分は致命的な方向音痴のうえに、何度旅を繰り返しても旅慣れるということができず、いまだに異国や旅がこわいと書いているのですが、そう言いつつも、いったん日本を飛び出せば、安食堂で地元の人に混じって地酒を飲んだり、知り合った現地の人たちと思う存分遊んだり、ときには正体不明の「合法」ドラッグでバッドトリップしてみたりと、結構やんちゃな旅も楽しんでいるようです。
また、国境というものが好きで、茶店でひがな一日茶をすすりながら、国境付近を行き来する人を眺めていたりするなど、なかなかディープな旅の楽しみを知っている方とお見受けしました。
彼女は旅に関しては「超ダウナー系」なのだそうで、行き先の国や街についてあまり予備知識を詰め込まず、着いた先では自分のペースでゆったりと過ごしながら、そこで誰か面白い人物と出会うのを待つなど、基本的には受け身の姿勢で旅をしているのですが、その代わり、五感や思考、さらには勘にいたるまで、自らの感受性はフルに働かせているようです。
この本に描かれている旅のルートや内容は、実は、決して冒険的でも、めずらしいものでもありません。ある程度個人でいろいろな国を旅した人なら、実際に足を運んだことのありそうな地名がいくつも並んでいます。
それでも、角田氏のエッセイがとても味わい深く、その描写にハッとさせられるようなオリジナリティを感じるのは、旅先で出会う風景や人々や、ちょっとしたハプニングや印象深いできごとのなかに、彼女の人柄や生き方の姿勢みたいなものが、率直に、的確なことばで表現されているからなのでしょう。
そこには、きれいなものも汚いものも、楽しいことも苦い経験も、この世界が差し出してくれるすべてのものを見て、味わってみたいという好奇心や、それらをこの世の現実として肯定し、受け入れようという姿勢、そして、旅先で出会うすべての人々への温かいまなざしが感じられます。
また、ゆったりとした旅の時間は、人をおのずと思索に誘うものですが、このエッセイでも、旅のスタイルと年齢の問題とか、旅立ちの不安、自分のお気に入りの国、あるいは旅の展開の仕方が象徴する自分の人生のパターンなど、さまざまな興味深いテーマに触れています。
こういうテーマは、旅の好きな人なら特に面白く感じるはずです。彼女のことばに共感できる旅人も多いだろうし、あるいは逆に、旅に関して自分とは少し違う視点や考え方に、新鮮さを覚える人もいるのではないでしょうか。
本の評価基準
以下の基準を目安に、私の主観で判断しています。
★★★★★ 座右の書として、何度も読み返したい本です
★★★★☆ 一度は読んでおきたい、素晴らしい本です
★★★☆☆ 読むだけの価値はあります
★★☆☆☆ よかったら暇な時に読んでみてください
★☆☆☆☆ 人によっては得るところがあるかも?
☆☆☆☆☆ ここでは紹介しないことにします
JUGEMテーマ:読書
旅の名言 「まだそのときじゃないのかな……」
旅立つときはいつもそうだが、もう全面的に面倒くさい。
毎回、もっと気力充実してから出発したいと思うけれども、そうやって待っていても気力はとくに充実しないのであって、まだそのときじゃないのかな、と思ったときが実は潮時である。条件が整い、気力が高まってから行動しようと思っていたら、いつまでたっても人生何も起こらないのだ。それよりとにかく何でもいいから出発してしまって、それから決心を固めていくほうが早い。
『スットコランド日記』 宮田 珠己 本の雑誌社 より
この本の紹介記事
紀行エッセイストの宮田珠己氏が、自らの日常を独特の文体で綴った脱力エッセイ、『スットコランド日記』からの引用です。
宮田氏は、新しい紀行エッセイを書くために四国遍路に行こうと思い立つのですが、それがどんなエッセイになりそうか、旅に出る前の時点では何の見通しも立たず、旅の間の天気や旅費のことも心配になり、さらには荷造りも面倒になって、何となく旅を先延ばしにしようという雰囲気になりかけていました。
この日記を読むと、宮田氏が本当に旅好きだということがよく分かるのですが、そういう人物であっても、やはりそれなりの旅に出るとなると、「もう全面的に面倒くさい」と感じてしまうのが面白いところです。
それでも、彼はとにかく思い切ってフェリーに乗り、徳島へ向かいます。「条件が整い、気力が高まってから行動しようと思っていたら、いつまでたっても人生何も起こらない」ということを知っているからです。
もしかすると、よく旅をする人と、そうでない人の違いを生んでいるのは、こういう風に、旅立ちに対する抵抗感というか、面倒臭さや不安みたいなものをうまく乗り越えるコツを身につけているかどうかなのかもしれません。
旅に行かない人でも、長い人生の中で、たまには旅に出てみたいと思う瞬間があるのではないかと思います。
ただ、それを心に思うのと、実際に数々の面倒を乗り越え、不安を克服して、それを実現させることとの間には、かなりの壁が存在しています。せっかく旅に行きたいと思っても、現実のさまざまな壁にぶつかった時点で、旅をあきらめてしまう人は多いのかもしれません。
旅によく行く人でも、実は、現実の壁が同じように存在しています。しかし彼らは、その壁を乗り越えるコツ、あるいは、壁そのものを低く越えやすいものにうまく変えていくコツを、経験を通じて、意識的・無意識的に身につけているのではないでしょうか。
たとえば、宮田氏の場合は、旅への決心がゆるぎなく固まるのを待たずに、とりあえずさっさと動き出してしまうことで、旅立ちへの抵抗を、うまくかわしています。
旅に限らず、誰でも、何か新しいことを始めようとする瞬間には、周囲の条件が整い、自分自身の気力も最高潮であってほしいと思うものですが、彼の言うように、パーフェクトなタイミングが訪れるのを待っていたら、「いつまでたっても人生何も起こらない」のです。
何かを起こすためには、見通しが立たないとか、現実的な不安がいろいろあるとか、完璧を期するためとか、手続きが面倒だからとか、そうしたさまざまな口実を見つけては現状維持を図ろうとする自分の心を、うまく出し抜く工夫も必要なのでしょう。
「まだそのときじゃないのかな、と思ったときが実は潮時である」というのは、旅に限らず、人生のいろいろな場面で応用できそうな名言と言えるかもしれません。
JUGEMテーマ:旅行
『狩猟サバイバル』
評価 ★★★☆☆ 読むだけの価値はあります
この本は、「サバイバル登山家」として知られる服部文祥氏の、サバイバル・シリーズ第3作です。
サバイバル登山とは簡単に定義すると「電池で動くものはいっさい携帯しない。テントもなし。燃料もストーブ(コンロ)もなし。食料は米と基本調味料のみで、道のない大きな山塊を長期間歩く」という登山である。岩魚や山菜、ときにはカエルやヘビまで食べながら、ひとりで大きな山脈を縦断する。私がサバイバル登山と名前をつけた。
服部氏は、学生時代からさまざまなタイプの登山の経験を積み重ねていくうちに、「自分の力で山に登っているという強い実感」を求めて、そしてまた、生きている手ごたえや、自由の感覚を得るために、山の中で自ら食料を調達し、最低限の装備だけで登山をなし遂げるというスタイルにたどり着き、1999年から10年にわたって実践してきました。
ただし、これまでに行われたのは、主なタンパク源として岩魚を釣り歩くことができる、夏山でのサバイバルです。夏のサバイバルに成功したら、自然な流れとして、次は冬ということになるわけですが、服部氏は、やはり着々と手を打っていました。
彼は2005年から、山梨県の山村の狩猟チームに加わり、そこで狩猟のノウハウやケモノの解体などを学びつつ、平行して単独猟の実践も試みてきました。狩りを初めて3シーズン目に、ひとりで鹿を仕留めることに成功した彼は、2008年の2月、テントもコンロももたず、米と簡単な装備、そして猟銃を携えて、冬の南アルプスに分け入っていきます。
夏はともかく、厳冬期に不十分な食料・装備で山に入るのが、いかに危険なチャレンジであるかは、登山については全くの素人の私でさえ分かります。それにもちろん、いくら猟銃を持っているといっても、必ずしも獲物に遭遇し、仕留められるという保証はありません。
それがどのような山行になったのか、その詳細は、ぜひ本文を読んでいただきたいと思います。彼の登山のスタイルへの賛否はともかく、そのユニークな登山の記録は、充分読むに値します。
ちなみに、彼は自分の能力の限界をわきまえて行動しているし、状況次第では廃屋や山小屋にも泊まっています。ただ、もしも好天に恵まれていなかったら、もしも獲物を仕留めることができなかったら、彼は冬山から無事に帰還できたのだろうかと、読んでいて不安を覚えるのも確かです。
また、大型哺乳類を狩るという行為は、私の中に、さまざまな居心地の悪い感情を引き起こします。そもそも銃や狩猟の世界になじみがないために、そこに心理的な抵抗を覚えてしまうという理由が大きいのでしょうが、それだけではなく、個人の精神的な満足のために山の頂をめざす登山者が、そのための食料として鹿の命を奪うことは、はたして正当で必要な行為なのだろうかとも思うのです。
しかし、そんなことを言っている私も、ふだん平気で哺乳類の肉を食べているわけです。登山のために野生の鹿を殺すのがダメなら、ただ日々を生きるために、誰かに家畜の殺生をまかせるのはどうなのか、ということになるでしょう。
この本を読んでいて居心地の悪さを感じるのは、結局のところ、私が都市的で頭でっかちな生活にすっかり慣れきっているためで、これまで都合よく視野の外に置いてきた、生きることに伴うさまざまな根源的な問題と、改めて向き合わざるを得なくなるからなのかもしれません。
それでも私自身は、服部氏が実践するサバイバル登山そのものについては、そういう山登りのスタイルがあってもいいと思うし、彼のユニークな山行記を通じて、そのワイルドな山旅を楽しませてもらっています。
事の是非はともかく、一般的な登山よりもはるかにハプニングの多いサバイバル登山のプロセスや鹿狩りの描写は、読んでいてとてもスリリングだし、それは自ら体験した者でなければ書けない、優れたノンフィクションになっていると思います。
ただ、サバイバル登山は、誰にでも許されるものではないという気はします。危険で難易度が高いからだけでなく、環境への負荷を考えると、多くの人間が実行できる性質のものでもないからです。もしも大勢の登山者が中途半端に彼のマネをして、あちこちで焚き火をしたり野生動物を狩るようになったら、すぐに山が荒れてしまうでしょう。
服部氏の場合は、山の中で自由に振る舞うことと引き換えに、食料・装備・行動について、自らに厳しい制約を課しています。しかし、自然保護に関して次第に厳格になっていく昨今の風潮を考えると、サバイバル登山というスタイルは、実践者がほとんどいない今だからこそ黙認されている、ある意味では特権的な行為なのかもしれません。
というわけで、この本を読んでいると、心の中にさまざまなジレンマが浮かび上がってくるし、そして、それは自分自身の現在の生活を批判的に照らし出すものでもあるために、けっこう居心地の悪い思いもするのですが、むしろだからこそ、 服部氏の本は、ユニークな登山の方法論を通じて、私たちの社会がいつの間にか覆い隠してしまった、この地上で人間が生きることの生々しさを垣間見せてくれる、貴重な存在なのだと思います。
服部文祥著 『サバイバル登山家』の紹介記事
服部文祥著 『サバイバル! ― 人はズルなしで生きられるのか』の紹介記事
本の評価基準
以下の基準を目安に、私の主観で判断しています。
★★★★★ 座右の書として、何度も読み返したい本です
★★★★☆ 一度は読んでおきたい、素晴らしい本です
★★★☆☆ 読むだけの価値はあります
★★☆☆☆ よかったら暇な時に読んでみてください
★☆☆☆☆ 人によっては得るところがあるかも?
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JUGEMテーマ:読書
旅の名言 「バックパック旅は……」
バックパック旅は、人工衛星の打ち上げに似ている。旅立ちには、重力を振り切って飛び出す巨大な推力が要るが、ひとたび軌道に乗ってしまえば、あとは慣性に身を委ね、のんびりと世界を漂い続けることができる。
『ぼくは都会のロビンソン ― ある「ビンボー主義者」の生活術』 久島 弘 東海教育研究所 より
この本の紹介記事
一人のフリーライターが長年にわたる「ビンボー暮らし」の中で編み出した、衣食住にわたるさまざまなノウハウと生活哲学を語るユニークなエッセイ、『ぼくは都会のロビンソン』からの一節です。
著者の久島氏は、若い頃にアジアや南米を放浪したことがあり、そうした旅暮らしの中で身につけた知恵の多くが、彼の生活術の中に今でも生かされているようです。
そのためもあってか、本文中では、彼が放浪の旅で経験したさまざまなエピソードや、旅に関する考察も披露されています。冒頭の一節はその一部ですが、長い旅を経験した人物ならではの実感がこもっているように思われます。
短い休暇旅行ならともかく、数カ月、あるいは数年にもなるような長い旅に出ようとするとき、人は日常の雑事はもちろん、仕事や住居、これまでに築いた人間関係など、さまざまなものから身を切り離し、それらを振り切るようにして旅に出ることになります。
しかし、それは言葉にするのは簡単でも、いざ実行に移すとなると、それなりの勇気や思い切りが必要になってきます。旅への期待に胸を膨らませながらも、一方で、慣れ親しんできたものを一気に捨てるのには苦痛が伴います。
これまでの生活への執着を振り切って旅立つさまは、まさに、重力圏を脱出する宇宙船の打ち上げに似ています。そして、それには「重力を振り切って飛び出す巨大な推力」が必要になるでしょう。
日々の暮らしに疲れ、あるいは倦怠を感じ、見知らぬ土地への放浪にあこがれる人は多くても、実際に一歩を踏み出す人があまりいないのは、この「重力」を振り切るのに十分なパワーを集められなかったり、打ち上げに失敗して悲惨な結果になることを恐れてしまうからなのかもしれません。
しかし、一度打ち上げに成功し、日常生活という重力圏を抜けてしまうと、旅を続けることそれ自体は、それほど難しいものではありません。
もちろん、旅にはそれ特有の困難や危険があるし、それは決して侮れないのですが、旅の日々に慣れ、ある程度の経験を積んだ旅人は、起こり得るトラブルをかなり回避できるようになるし、その心身も少しずつ旅暮らしに適応し、やがて、自分のペースで自由に旅を楽しめるようになっていきます。
また、バックパッカー・スタイルの旅の場合、持ち運びできる荷物に限度があるために、生活はおのずとシンプルなものにならざるを得ませんが、これが逆に、生活に一種の軽やかさをもたらしてくれます。
旅人は、日常のしがらみという重力から自由になり、(ビザやカネの制約を除けば)自分の意志で、好きな場所に好きなだけ滞在することができます。いったん旅のコツを飲み込んでしまえば、自分のペースで「のんびりと世界を漂い続ける」ことができるようになるのです。
こう書くと、放浪の旅というのは、まるでいいことずくめのように見えるかもしれませんが、この世界に永遠に続くものなどないように、長い旅もいつかは終わるのであり、どこか別の国に移住するのでもない限り、旅人には、いずれ日本に帰らねばならないときがやってきます。
宇宙船が大気圏に突入するプロセスが非常に危険なものであるように、シンプルで、自由で、軽やかな旅を楽しんでいた旅人は、帰国した瞬間、心身ともに激しいショックを受ける可能性があります。
旅人は、それまでのふわふわと漂うような生活を失い、一気に日本的な現実に引き戻され、さまざまなしがらみに再びからめとられていくのですが、一方で、そうした事態を眺める旅人のまなざしは、もはや、かつてそこに生活していた頃と同じではなくなっているのです。
以前なら、当たり前すぎて何の疑問も抱かなかった日本での生活に、いちいち違和感を覚え、ときに、それは耐えがたいまでにグロテスクに感じられることさえあります。いわゆる「逆カルチャーショック」です。
久島氏は、バックパッカーの帰国について、次のように述べています。
たとえ予定どおりの帰国であっても、宇宙船同様、帰還は最大の難関となる。ゆっくり逆噴射をかけたつもりでも、日常社会という地表に叩きつけられる。どっぷり旅の無重量状態に漬かってきた精神は、“現実”という重力を前に、なす術もない。
「帰国したときのカルチャーショックが一番大きかった」
そう振り返る旅行者のなんと多いことだろう。
そういう意味では、帰国した瞬間に旅が終わると思うのは甘い考えで、人によっては、帰国したあとに、より大きな旅の試練が待っているのです。
そういえば、宇宙ステーションの無重力状態に慣れてしまった宇宙飛行士も、地上に戻ったあと、衰えた骨や筋肉が元通りになるまで、長いリハビリが必要になるという話を読んだことがあります。
このように考えていくと、バックパッカー的な長旅というのは、たしかに宇宙飛行に似ているのかもしれないな、という気がします。出発と帰還の難しさと、そこにある危機、そして、その間の(比較的)のんびりとした気楽な慣性飛行によって成り立っているという意味で。
もちろん、私には宇宙飛行の経験などないので、あくまで想像でものを言っているだけですが……。
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