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旅の名言 「旅に出ても、……」

「旅に出ても、日本の毒が抜けるのに一年はかかる」という。が、それを超えると、こんどは社会復帰が困難になるらしい。あの、精神的無重量状態の甘美な味を知れば、それも当然かと思われた。

『ぼくは都会のロビンソン ― ある「ビンボー主義者」の生活術』 久島 弘 東海教育研究所 より
この本の紹介記事

一人のフリーライターが、ビンボー暮らしのノウハウと生活哲学を語るユニークなエッセイ、『ぼくは都会のロビンソン』からの一節です。

著者の久島氏は、かつて世界を放浪していた時期があり、このエッセイの中でも、旅先でのさまざまなエピソードや、旅についての考察が披露されています。上に挙げたのはその一つですが、これだけの短い文章の中に、彼が海外でどんな旅をしていたか、旅先でどんな人々と交流していたかが垣間見える気がします。

多くの旅行者にとって、バックパックを背負った貧乏旅行といっても、それは長くて二、三カ月の旅で、一年以上続ける人はめったにいないと思います。

一年以上となると、学生なら、退学もしくは休学をしなければならないし、会社員なら、当然会社を辞めることになります。また、住んでいる場所は引き払う必要があるし、これまでに築いた人間関係の多くを失う可能性もあります。

長い旅に出ようとすれば、私たちの日常を支える多くのモノを犠牲にしなければなりませんが、一方で、それだけのものを捨てて日本を飛び出し、放浪の日々に身を任せることで初めて、今までとは全く違う世界に身をおくことが可能になるのでしょう。

私たちには、日本で生まれ育ち、そこで長く生活することで、その心身に染みついた独自の習慣や傾向があります。あるいは、日本に限らず、いわゆる「先進国」という高度消費社会に暮らす中で刷り込まれた、強固な思い込みのようなものもありますが、「開発途上国」のような別世界を長く旅しているうちに、それがはっきりと見えてくることがあります。

そして、そうしたさまざまな傾向や思い込みをネガティブにとらえたとき、「日本の毒」という表現になるのだと思います。

「旅に出ても、日本の毒が抜けるのに一年はかかる」という旅の猛者のつぶやきには、そういう長旅を通じて、自分が常人には想像もつかない境地に達したと言わんばかりの強い自負が感じられ、それが鼻につくという方もおられるでしょうが、それはそれで、長く旅を続けた人間にしか吐けない名言でもあるのだと思います。

それはともかく、世界各地の安宿街など、放浪者の集う場所を転々としながら、シンプルで自由気ままな旅を続けていると、故郷での生活スタイルや価値観の影響が薄れていき、次第に無国籍風のバックパッカー・カルチャーみたいなものに染まっていきます。旅の計画も将来の見通しもなく、行き先は風に任せ、旅人同士の一期一会の交流を楽しみ、家財道具はバックパック一つ分だけ……。そして、周りは似たようなスタイルの旅人ばかりで、そうした生き方を批判する人間もいません。

一年、二年と旅を続けるうちに、やがて旅人は、そんな「精神的無重量状態の甘美な味」から逃れられなくなっていきます。

それはたしかに、「日本の毒が抜ける」ということなのですが、逆に言えば、日本社会との物理的・精神的な接点を少しずつ失っていくことでもあります。今までに身につけたさまざまな習慣を脱ぎ捨てれば、そのときは身軽で自由に感じられますが、一方で、そうした習慣を身につけていないと、社会でうまく立ち回れないのも事実です。

しかし、旅の日々を満喫している最中の旅人が、こういう内面の変化に自覚的であり続けることはめったにないし、その日々の先にどういう心理的衝撃が待ち構えているか、あらかじめ考えて用意をしておくことなど、なおさら難しいでしょう。旅の先輩たちから、日本を出て長くなりすぎるとヤバいらしい、という漠然としたアドバイスを聞かされることはあっても、帰国して一体どんなことになるのか、正確に予想できる人はほとんどいないのではないでしょうか。

長旅を終えた旅人は、多くの場合、帰国した瞬間に、久しぶりに目にする日本の社会に違和感を覚えます。それは確かに見慣れた懐かしい風景だし、日本語も問題なく通じるのですが、何か、自分が異邦人になったみたいに感じられるのです。

やがて、違和感は生活全体にじわじわと広がっていきます。そして、そのとき初めて、自分がいつの間にか日本の生活習慣を脱ぎ捨ててしまっていたこと、日本のパスポートを持っていながら、自分がもはや実質的に日本人ではなくなり、無国籍の放浪者と化していたことに気づいて愕然とするのです。

さらに、逆カルチャーショックですっかり醒めた旅人の目には、自分が再び「日本の毒」にどっぷりと漬かっていく様子もはっきり見えるはずです。人によっては、それは、せっかく手にした自由や身軽さの感覚が次第に失われ、何かに絡め取られていくような、まるで悪夢のような息苦しさとして感じられるかもしれません。

もっとも、こうした激しいショックは、旅人に限らず、異国で長く暮らした駐在員や留学生にも起きる可能性はあります。

ただ、周囲に日本人の知り合いもなく、日本語を話す機会もないような環境で、現地の文化に浸り切って暮らす、途上国への留学生や援助関係者ならともかく、企業の駐在員なら、ほとんどの場合、常に日本を向いて仕事をしているので、海外にいても「日本の毒」が抜けてしまう心配はないのかもしれません。

やはり、長い時間にわたって、風の向くまま、ふわふわと漂うように流れ暮らした旅人の方が、いわゆる先進国の社会的現実に戻ったときのギャップが大きく、帰国した瞬間に激しいショックを受けることになるのではないでしょうか。まあ、「社会復帰が困難になる」ほどのものかどうかは分かりませんが……。

バックパッカー向けの雑誌『旅行人』を主宰する蔵前仁一氏は、『旅ときどき沈没』という本の中で、「一年くらい旅をすることなど、暇がある人にとっては (金の問題を別にすれば) 何の問題も特別な技もないのである」と書いていますが、そして、それは確かにそうなのですが、旅を終えた後に待っている逆カルチャーショックのことも含めて考えると、やはりそこには、それなりに大きな困難があると言わざるを得ないのかもしれません……。
旅の名言 「一年くらい旅を……」


JUGEMテーマ:旅行

at 19:05, 浪人, 旅の名言〜旅人

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今さらですが、尖閣ビデオ流出事件に思うこと

ここしばらく、世間を騒がせていた尖閣ビデオ流出事件。結局、渦中の海上保安官の逮捕は見送られ、中国側が過剰に反応することもありませんでした。
ウィキペディア 「尖閣諸島中国漁船衝突映像流出事件」

とりあえず事態が収まり、やれやれ…といった感じですが、騒ぎを引き起こした海上保安官は職務規律に違反したということで、近日中に何らかの処分を受けることになるのでしょう。多くの人に鮮烈なショックを与えたこの事件は、そうやって、何となくモヤモヤした後味を残しつつ、幕を引かれることになりそうです。

事件に関しては、例のビデオ映像はもちろんのこと、海上保安官本人の書いたメモの全文や、これまでの経過などがネット上にまとめられており、また、彼の行為や政府のとった対応について、賛成・反対それぞれの立場から数え切れないほどのコメントがネット上を飛び交っているはずです。
海上保安官(sengoku38)手書きメモ 全文書き起こし

しかし、考えてみれば、そもそもの発端となった尖閣諸島での事件について、私たちは船が衝突する瞬間の映像以外に、何か新しい情報を知りえたわけではありません。日本の内閣や関係省庁で、そして中国政府とのあいだで、実際に何が起こり、どんなやり取りがなされたのか、私たちは未だにその経緯を知らされていません。つまり、この事件について、私たちが本当に知りたい情報へのアクセスは、今でも遮断されたままです。

そんな状況で、専門家でもジャーナリストでもない私ごとき人間が、しかも事件が幕引きの段階に入った今、何かコメントを加えたところで、単なる素人の妄想以上の意味があるとも思えません。

それでもまあ、今感じているこのモヤモヤ感をそのまま放置しておくのもどうかと思ったので、ちょっと書きとめてみることにします。

最初に書いておくと、私は例のビデオを You Tube に投稿したとされる海上保安官の行為に対してかなり同情的です。しかし一方で、たぶん大勢の人が同じように感じていると思うのですが、彼と同じような行動をみんながとり始めたら、今の社会がすぐにガタガタになってしまうのではないかという不安も多少は感じています。

彼の行為には、スカッとした爽快感を覚える反面、何か大事なものが壊れつつあるのではないかという漠然とした怖れも感じている……。正直に言えば、自分の中に、そんな「どっちつかず」な感覚があるのです。

考えてみれば、事件が起きた尖閣諸島沖も、そもそも日本の領海であるはずなのに、中国が経済成長によってその政治的パワーを増大させたことで、日本に属しているのか、中国に属しているのか、なし崩しに「どっちつかず」であいまいな状態にさせられつつあるように見えます。

そして、今回のような事件を通じて、そういう国際政治の現状を見せつけられることは、日本人にとって、自分たちの領域がじりじりと侵食されていくような、ひどい不安と焦燥感を掻き立てるのです。

さらにマスメディアも、報道の中で、海上保安官をどのような存在として扱うべきか、「どっちつかず」で、態度がはっきりと定まっていないように見受けられました。彼を正義の内部告発者として持ち上げるべきなのか、それとも、国家公務員としての守秘義務に違反し、政府の方針に反逆して秩序を乱す悪人として叩くべきなのか……。

海上保安官はインターネットを使い、テレビや新聞はスルーして、一人で世界中に映像を発信してしまいました。そこでは、どういう情報を公開するか、それをどんなやり方で、どんなタイミングで流すかについて、彼がすべての主導権を握っていました。

彼は自らがメディアとなることで、マスメディアからスクープの栄誉はもちろん、その仕事の肝心な部分も奪ってしまったわけです。マスコミ側には、そのことへの嫉妬や反発があっただろうし、それ以上に、これまでマスメディアが支配してきた報道の秩序が乱されていくことへの不安もあったのではないかという気がします。

ちなみに、報道によれば、くだんの海上保安官は40代の前半ということです。この年代は、いわゆるバブル世代で、これまでの人生で、(1989年まで≒昭和時代の)東西冷戦と、その後のグローバル化&インターネットの時代をほぼ半分ずつ生きてきたことになります。
ウィキペディア 「バブル世代」

その点で、バブル世代(とその前後数年の世代)は、人生の大半を昭和的価値観にどっぷり漬かって生きてきた年長の世代と全く同じ感覚を共有しているわけではないし、その一方で、物心ついたときからグローバルな消費文化やインターネットに囲まれていたような「新しい」世代にも属していない、「どっちつかず」な世代です。そしてそのために、一人の人間の中で新旧世代の価値観が交錯する、微妙でややこしい立場に置かれています。

ちょっと乱暴ですが、その状況をごく簡単に言い切ってしまうなら、それは、今なお社会的パワーを握る古い世代に対しては、彼らのやり方に従ってそのままずっとやっていけると信じるほどお人好しではないけれど、かといって、新しい世代ほどドライに、古い世代のモノの見方を切り捨てられるわけではないし、これからやってくる新しい時代に適応できそうな自信もあまりない、といった感じでしょうか。

例えば、海上保安官が、政府の方針に従わず、職務上知りえた情報を(たぶん)自分一人だけの判断で You Tube に投稿し、一夜にしてネット世界の英雄になってしまうところなどは、いかにも新しい世代的です。

しかし同時に、社会の中堅として、家族を持つ身として、自分のやろうとしていることがどのような社会的インパクトをもつ行為であるか、その結果、自分がどのような立場に追い込まれるかも、事前にかなり予測していたのではないかと思います。それは、年長世代の作り上げた社会の中で長年暮らしたおかげで、こういう事件の渦中に置かれた人物がどうなるか、テレビや新聞を通して、その典型的なパターンを繰り返し見てきたからです。

また、彼は国民に向けて、一人ひとりが自ら考え行動するようメッセージを発しつつも、一方で、自分のとった行為によって、海上保安庁という組織や、そこで働く同僚に多大な迷惑をかけたことを心配する、組織人としての心情も垣間見せています。こうした、一見矛盾するような彼の言動には、この世代特有の、新旧の価値観の葛藤みたいなものが反映している気がします。

このように、今回の事件に関しては、すぐに白黒をはっきりさせたり、単純なストーリーに落とし込みづらい、「どっちつかず」であいまいな感じが、随所に現れているように思うのです。衝突事件の現場にしても、海上保安官の言動にしても、マスコミの扱いにしても……。

そして、この「どっちつかず」な感覚、二つの違うモノの間で気持ちや状態が揺れ動くような、マージナルな感覚というのは、今の世の中の状況そのものを象徴しているのではないかという気がするのです。

国際的な力関係や国境線にせよ、国内の経済社会システムにせよ、人々の価値観にせよ、そうしたものはすべて、これまで数十年のあいだ、本質的な変化もなくしっかりしているように感じられていました。しかしそれは、今や動揺を始め、未だにはっきりとは見えない新しい状態に向かって、急速に変わりつつあるように見えます。

その過渡期においては、頼りにしていたものが崩れていく大きな不安と恐怖があり、新たに頼れるものはまだ姿を現さず、古くなったモノや新鮮に見えるモノ、そして意味不明で判断に困るモノがさまざまにせめぎ合い、ムダな動きや混乱が生じて、多くの人を、方向の定まらない不安な状態に陥れます。

そこでは、次々に起きる出来事を、分かりやすく簡単なストーリーとして示すことができません。かつて有効だった判断基準は、もはや現状を解釈する役には立たず、かといって、新しい基準は未だに確立していないし、社会自体がもはや一枚岩ではなくなって、みんなが一致できる見方というものもないからです。

何かとてつもないことが起こりつつあるような、でもよく考えてみるとそうでもないような、でも何かのはずみで、物事が一気にある方向になだれ込んでいきそうな、でも何となくそうなるのを見てみたい気もするような……。

今回のビデオ流出事件は、そんな「どっちつかず」で混沌とした現在を象徴するような事件だったのではないかと思います。

これから先しばらくは、たぶん同じような出来事が何度も起きるのでしょうが、それに対して、みんながすぐに納得できるような分かりやすい解釈はなかなか示されないだろうし、それをどう受け止めるかは、結局のところ、それぞれの人がどの世代に属しているか、社会の中でどんな立場にあるか、あるいは個々人の価値観や世界観によって、大きく異なってくるのだろうという気がします。

それにしても、これはあくまで私の想像なのですが、あの海上保安官は、今の世の中で失われつつある何か大事なものを守ろうとして、やむにやまれず今回の行動に踏み切ったのではないかという気がします。しかし、彼のとった方法はむしろ、いろいろな意味で、新しい時代への変化を加速するきっかけになるのではないでしょうか。

もしそうだとしたら、何となく皮肉な結果にも思えますが、それは、新旧の価値観の狭間で生きる世代ならではの、矛盾した内面を象徴しているといえなくもありません……。


JUGEMテーマ:ニュース

at 19:23, 浪人, ニュースの旅

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旅の名言 「旅ってつまんないのかも、とか……」

 旅にも年齢がある。その年齢にふさわしい旅があり、その年齢でしかできない旅がある。そのことに気づかないと、どことなく手触りの遠い旅しかできない。旅ってつまんないのかも、とか、旅するのに飽きちゃった、と思うとき、それは旅の仕方と年齢が噛み合っていないのだ。

『いつも旅のなか』 角田光代 角川文庫 より
この本の紹介記事

作家・角田光代氏の旅のエッセイ集、『いつも旅のなか』からの一節です。

角田氏は、20代の前半でバックパッカー・スタイルの旅を覚えて以来、10年ほど同じようなやり方で旅を繰り返していました。

しかし、33歳でラオスに行ったとき、ふと、「なんかつまんない」と思い始めます。

そして、古都ルアンプラバンで若い日本人バックパッカーのカップルに出会い、屋台で夕食を買ったり、部屋をシェアしたり、いきあたりばったりの恋をしたりと、彼らがその年齢にふさわしい、先の見えない貧乏旅行を満喫しているのを目にしたとき、角田氏は、彼らと同じような旅のスタイルが、自分にはもう釣り合わなくなっていることに気づくのです。

それは、自分がもう若くはないことを痛感させられる、ほろ苦い自覚であり、同時に、自分が旅とともに成長して、昔と同じような旅を続けるだけでは満足できなくなったということでもあるのでしょう。

「その年齢にふさわしい旅があり、その年齢でしかできない旅がある」というのは、たしかにその通りだと思います。

若い人は、人生の初心者であるとともに、多くの場合、旅の初心者でもあります。当然、旅先では恥ずかしい失敗をすることもありますが、若いということで周りからは大目に見てもらえるし、仮に肉体的・精神的なダメージを受けることがあっても、立ち直りの早いのがせめてもの救いです。

その一方で、余計な知識や思い込みがない分、身のまわりで起きるどんなことも新鮮に感じられ、大いに感動できるだろうし、ときには何も知らないがゆえの大胆さが功を奏して、思いもかけない貴重な体験ができることもあります。

しかし、旅を続け、人生の経験もそれなりに重ねていけば、旅で得られる体験の質は徐々に変わっていくし、同じような旅を繰り返すうちに倦怠に陥ることもあるでしょう。それにもちろん、歳をとれば体力的にも、若い頃のようなハードな旅はできなくなります。

こういうことは、誰もがいずれ気がつくことだし、みんな年齢に応じて、旅のスタイルを少しずつ変えていくのでしょう。ただ、ときには、そうした自覚があまりないままに歳を重ね、旅の仕方と年齢が噛み合わなくなることもあるでしょう。

そんなときは、そのぎくしゃくとした感覚が、「旅ってつまんないのかも」とか、「旅するのに飽きちゃった」といった自覚症状の形で表れるのかもしれません。

ちなみに、角田氏は新たな旅のスタイルを模索する一つのステップとして、まずは貧乏性を克服することにしたようです。

 あいかわらずデイパックを背負って出かけていくが、「タクシーに乗ってもいいんだ、星つきホテルに泊まってもいいんだ、膝にナプキンを広げるレストランで食事してもいいんだ、なんならブランド屋に入ったってだれも咎めないんだ」と、現在、私は身についた貧乏根性を懸命にそぎ落としている。自分の年齢の重ね具合と、最大限に楽しめる旅具合を、目下調整中、といったところか。


実際、年齢とともに経済的に豊かになっているなら、そもそも若い頃のような貧乏旅行を続ける必然性もないわけです。

旅にカネをかけられるということは、旅における選択肢が飛躍的に広がるということです。カネを惜しむあまりに危ない橋を渡ったり、意味のない苦痛を耐え忍ぶ必要がなくなるわけで、それは基本的に素晴らしいことです。

ただ、その一方で、いいホテルに泊まったり、おいしいものを食べたり、タクシーに乗ったりと、旅行にカネをかけて楽をすることを覚えても、それがそのまま旅の魅力を回復することにつながるのかどうかは、正直言って疑問です。

特に、バックパッカー・スタイルの、シンプルで自由気ままな旅の解放感に魅力を感じている人なら、カネをかけてそこに快適さを付け加えようとしても、やり方次第では、窮屈な退屈さを背負い込むだけになってしまうような気もします。

まあ、このあたりに関しては、あくまで、貧乏性がすっかり染みついてしまった私の負け惜しみに過ぎないのかもしれませんが……。

いずれにしても、経験豊富な旅人は、自分に合った旅のスタイルや、本当に満足のいく旅を求めて、終わりのない試行錯誤を続けていくことになるのでしょう。


JUGEMテーマ:旅行

at 18:51, 浪人, 旅の名言〜旅について

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『闇の奥』

Kindle版はこちら

 

評価 ★★★☆☆ 読むだけの価値はあります

あの有名な映画『地獄の黙示録』の原案となったイギリス文学の古典『闇の奥』。以前からずっと気になっていたのですが、先日、文庫で新訳が出ているのを知って、思い切って読んでみることにしました。

物語は、イギリス人船乗りのチャーリー・マーロウが、若い頃に「向こうの大陸(アフリカ)」で遭遇した衝撃的な出来事を仲間に語るという形で進行します。

東洋の海で何年か過ごした後、マーロウはふとしたきっかけから、アフリカの大河を行き来する蒸気船の船長になりたいという思いにとりつかれ、ある国の象牙交易会社と契約して、現地に派遣されることになります。


大河の河口から内陸部へと向かう困難な旅の途上で、マーロウは、奥地の出張所に赴任したクルツという社員の噂を耳にします。クルツは並外れた知性と教養の持ち主で、大量の象牙を集めるという抜群の成績を上げたにもかかわらず、奥地からの帰還を拒否してそこにとどまり、しかも病に冒されているというのです。

マーロウは、他の社員らとともに蒸気船に乗って、クルツのいる緑の魔境へと分け入っていくのですが……。

巻末の解説や年表によれば、この旅の物語は、作者コンラッドの実体験がもとになっているそうで、当時船員だった彼は、1890年にベルギー国王の私領だったコンゴ自由国(現在のコンゴ民主共和国)に船長として赴任し、コンゴ河を遡上する旅の途上で、過酷な植民地支配の実態を眼にしています。
ウィキペディア 「コンゴ自由国」

これからこの物語を読まれる方のために、あまり詳しくは書かないことにしますが、『闇の奥』というタイトルが暗示しているように、主人公マーロウは、暗鬱で危険な旅の途上で、さまざまなおぞましい光景を眼にし、やがて、魂のダークサイドに堕ちたクルツと対面することになります。

解説によれば、一世紀以上前、この小説が世の中に与えた衝撃は、国際政治をも動かすほどだったといいます。また、この作品をどのように評価するかをめぐっては、いまだに賛否が分かれ、さまざまな論争を生んでいるようです。

ただ、少なくともその物語の描写に関するかぎり、昨今の映画や小説の即物的でグロテスクな表現に慣れてしまっている私には、正直、それほどのインパクトは感じられませんでした。

また、主人公マーロウの饒舌な語りは、時に脱線し、話が前後するだけでなく、あいまいで象徴的な表現が多く、決して読みやすいとは言えません。私の場合は、この短い小説の途中で何度も何度も行き詰まり、最後まで読み切るまでにものすごい時間がかかってしまいました。

そもそも、結局のところマーロウは緑の魔境で何を体験したのか、彼にとって、クルツとは一体どのような存在だったのか、そしてクルツの最後の言葉の意味は何か、など、この小説の肝心な部分についても、読者次第でさまざまに解釈できる余地があります。これらをどのように受けとめればいいのか、考え出すときりがなく、解説を読んでいろいろと腑に落ちる部分もあるとはいえ、それでもスッキリせず、モヤモヤとしたものが後に残るのです。

それでも、この作品は、世界中の作家に大きな影響とインスピレーションを与え、小説・映画などジャンルを問わず、『闇の奥』の系譜ともいうべき数多くの作品を生み出してきました。

それは、闇の世界への危険な旅、そこで出会う狂気に満ちた人物との対決、その体験のインパクトによって決定的に変えられてしまう主人公、というこの物語の基本パターンが、アフリカのような遠い世界にだけあてはまる話ではなく、むしろ、私たち一人ひとりが共通して抱える心の闇との出遭いや、自分自身の影との対決という、普遍的な魂のドラマを暗示しているからなのかもしれません。

そして、そういう視点からこの物語を眺めていくと、マーロウがクルツという未知の人物に次第に心惹かれていくプロセスや、異形の者として彼の前に現れたクルツを忌避することなく、むしろ全身全霊をあげて対峙しようとするその姿に、さまざまな深い意味を読み取ることができるように思います。

いずれにしても、今回は、何とか最後まで読み通すのがやっとで、この本の発するメッセージをうまく受け止められた感じがしませんでした。いつか機会があれば、もう一度チャレンジしたいと思います。

この本は、決して気楽に読めるわけではないし、楽しい読後感も期待できないのですが、読み進む苦しみに見合うだけの「何か」は、きっと得られるのではないかという気がします。


本の評価基準

 以下の基準を目安に、私の主観で判断しています。

 ★★★★★ 座右の書として、何度も読み返したい本です
 ★★★★☆ 一度は読んでおきたい、素晴らしい本です
 ★★★☆☆ 読むだけの価値はあります
 ★★☆☆☆ よかったら暇な時に読んでみてください
 ★☆☆☆☆ 人によっては得るところがあるかも?
 ☆☆☆☆☆ ここでは紹介しないことにします



JUGEMテーマ:読書

 

at 18:50, 浪人, 本の旅〜旅の物語

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旅の名言 「だから、旅は……」

 旅に出ると「人生を学び、人間的に豊かになる」と考えるのは、「スポーツが好きな人に悪い人はいない」という話と同じくらいに根拠がない。旅が人を鍛え育て、豊かな心を持った人に変えるとしたら、外国に行く人だけで年間一七〇〇万人もいる日本は、心豊かな人たちだらけになっているはずだ。
 「どこか遠くに行けば、『本当の私』が見えてくるはず」というのも、旅を過大評価する幻想にすぎない。野球を何年かやると、野球を通してなにかを学ぶ人がいるかもしれない。それはそれでいいのだが、最初から野球を教育と結びつけるとロクなことはない。それと同じように、旅に教育的効果を期待しても、あまり意味がない。
 基本は、そういうことだ。ただ、人によっては、あるいは旅行のしかたによっては、旅が人を鍛えるということはたしかにある。
 今まで洗濯さえしたことがなく、親にすべて頼っていた者が、英語さえも通じない土地を、日本人旅行者とは離れてたったひとりで旅を続ければ、もしかして旅に出る前とは少し違う人間になっているかもしれない。しかし、だからといって、心豊かになるとか見聞が広まり異文化を理解する力がつくというわけではかならずしもない。「なんでも日本が一番」と言うだけの国粋主義者になって帰国することもある。
 だから、旅は道楽のひとつと考えたほうがいいのである。

『アジア・旅の五十音』 前川健一 講談社文庫 より
この本の紹介記事

前川健一氏の、『アジア・旅の五十音』からの引用です。

旅をすれば、視野が広がるとか、人間的に豊かになるとか、本当の自分が見つかるかもしれないとは、世間でよく言われることです。実際、そういうことを期待して旅に出る人もけっこう多いのではないかと思います。

しかし、前川氏は、そうした言葉に根拠などなく、「旅を過大評価する幻想にすぎない」と言い切ります。

これを、ずいぶん乱暴な発言だと思う人もいるでしょうが、私個人としては、たしかに言われてみればその通りかもしれない、という気がします。

彼の言うように、旅人の中には、旅を通じて、たまたま何らかのポジティブな変化を経験する人がいるかもしれません。しかしそれはきっと、あらかじめそうしようと思って、思惑通りにコトが運んだわけではないでしょう。

逆に、旅に出たらどれだけ立派な人間になれるか、どれだけの能力を身につけられるか、大いに期待して旅に出るとしたら、それはかなり裏切られることになると思います。

旅は、単位を揃えて卒業できるような、学校のカリキュラムとは違います。旅の途上で、旅人に何が起こるか、人間的にどう変わっていくのか、予測したり、結果を保証したりすることは誰にもできないのではないでしょうか。

しかし、消費社会に生きる私たちは、カネの支払いと引き換えに、それ相応のモノやサービスを受け取るという発想に慣れ親しんでいます。そのために、その思考パターンを旅にもそのまま当てはめて、つい、旅という行為や苦労と引き換えに何らかのポジティブな成果が得られると思ってしまうのかもしれません。

それに、旅人がどんな旅をし、その結果をどう意味づけるかは、すべて個々の旅人の自由に任されていることです。人によっては、旅に意味なんて求めないという人もいるでしょう。また、旅の体験が、成果とか評価といった世知辛い世界から遠く離れているからこそ、旅を愛するという人もいるでしょう。

それなのに、そこにあえて「教育的効果」という世間的な尺度を持ち込んで、それをうんぬんしようとするのは、余計なお世話なのかもしれません。

そう考えていくと、「旅は道楽のひとつと考えたほうがいい」という前川氏の言葉にもうなずける気がするのです。

そもそも、あらかじめ予測が立たないプロセスだからこそ、旅は面白いといえます。

旅を前にして変な皮算用をしたり、旅を自分の思惑でコントロールしようとするのはやめて、ただその成り行きに任せ、旅が差し出してくれるものを素直に受けとめることが、旅の魅力を味わうコツなのかもしれません。

……なんてことをいちいち考えるのも、また余計なのでしょうが……。


JUGEMテーマ:旅行

at 18:58, 浪人, 旅の名言〜旅について

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